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丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」
岩波文庫(2014年2月14日)

科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集

1960年に向けた第1次安保闘争の中立左派系知識人でオピニオンリーダーであった丸山眞夫氏は、1960年を境にして仕事のやり方を変えた。戦後から1960年まで政治学の理論創造に意欲を燃やしているかのように見えたが、現代政治分析や政治評論は「夜店」をたたんで、本業の「日本政治思想史」に専念すると宣言した。安保闘争の反動なのか、1960年以降政治思想と区別される政治学の理論や現代政治の分析に関する論説が全く姿を消したことは事実である。だから本書「政治の世界」は終戦直後から1960年までの論説を集めたもので、本人に言わせると「余技」のようなものである。しかし戦後政治学理論の試論は一読の価値がある。岩波文庫が2014年2月に「政治の世界」として11の論文を集めて刊行した。私は丸山眞夫氏関係の著書では下記の本を読んだ。
丸山眞夫著 「日本の思想」(岩波新書 1961年)
丸山眞夫著 「自己内対話」(みすず書房 1998年)
丸山眞夫著 「文明論之概略を読む」(岩波新書 上・中・下 1986年)
丸山眞夫・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」(岩波新書 1998年)
長谷川宏著 「丸山眞夫をどう読むか」(講談社現代新書 2001年)
竹内洋著 「丸山眞夫の時代」(中公新書 2005年)
中野雄著 「丸山眞夫 音楽との対話」(文春新書 1999年)
丸山眞夫氏も古くなって知らない人も多くなった。丸山氏のプロフィールを少し長くなるが紹介しておこう。丸山 眞男(新字体で丸山真男とも表記される、1914年- 1996年)は、日本の政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、近代主義者を自称する。東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)を経て、1931年4月、旧制一高に進学。1933年4月、唯物論研究会の講演会に参加、同講演会は警察の命令により、長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や解散。聴衆の一人であった丸山は、特高の取り調べを受る。1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部入学。「講座派」の思想に影響を受ける、1937年(昭和12年)卒業。東大助手となり、日本政治思想史の研究を開始した。1940年、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。1944年陸軍二等兵として教育召集を受けた。9月、脚気のため除隊決定。11月、帰還。1945年3月、再び召集される。宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。4月、参謀部情報班に転属。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。9月復員した。この軍隊経験が、戦後「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという。1946年(昭和21年)2月14日、東京帝国大学憲法研究委員会の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆。「超国家主義の論理と心理」を『世界』1946年5月号に発表。以後、戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。1950年(昭和25年)6月、東京大学法学部教授に就任。サンフランシスコ平和条約をめぐる論争では「平和問題談話会」の中心人物として、1960年の安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムの領域を越えて戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。これらの時事論的な論述により、「アカデミズムとジャーナリズムを架橋した」とも評された。1960年代後半になると逆に全共闘の学生などから激しく糾弾された。心労と病気が重なったことで、1971年3月、東大を早期退職した。1974年5月に東京大学名誉教授。1978年11月には日本学士院会員となる。1993年12月、肝臓がんであることを知り、『丸山眞男集』(岩波書店)を刊行中の1996年8月15日(終戦の日)に死去(82歳没)。業績としては、日本の政治思想史として荻生徂徠論、日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価した。日本思想史研究における生涯の大半を福沢の研究に費やした。丸山の『福沢諭吉論』はそれ以降の思想史研究家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。『日本の思想』(岩波新書、1961)の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。大学教員達から"学生必読の書"と評される。丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。社会科学者の小室直樹などは丸山眞男から政治学を学び、作家庄司薫、異色官僚の天谷直弘、社会民主連合創設者で、参議院議長となった江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミ出身である。丸山氏は戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人であった。無論、丸山氏への批判は多かった。いちいち書かないが、丸山は戦後日本に大きな影響を与えた人物ということもあり、様々な立場から批判がなされているが、自らそれに応えて論争になるといったことはほとんどなかった。

丸山眞夫氏の活動の中からこの11編の評論文を選んだ松本礼二氏についてもプロフィールを紹介する。1969年 東京大学法学部卒業、1971年 同大学院法学政治学研究科修士課程修了、1972年 同大学院法学政治学研究科博士課程退学。1972年 東京大学社会科学研究所助手から 立教大学法学部助手、 筑波大学専任講師を経て1982年 早稲田大学専任講師、早稲田大学助教授 そして1988年 早稲田大学教授となった。トクヴィル研究者として有名であり、トクヴィル著 松村礼二訳 「アメリカのデモクラシー」〈岩波文庫 全4冊 2005年)の訳者である。松村氏は丸山眞夫の戦後の著作から政治学関係の代表的論文・エッセイを集めて一書にしたという。専門科学としての政治学の特質(今でも政治学が科学であるかどうか大いに議論のあるところである)、基礎概念を論じ、一般に政治をどう考えるべきかを論じた文章を収録したらしい。この本は4部に分かれているが、特に意味があるわけでもないので、この分け方は無視して11編の論文集として時系列に並べてあるという風に理解しておこう。同じような編集による「現代政治の思想と行動」(未来社 1958年、1957年、増補版1964年)があった。各論文の出典を下に纏める。
1) 「科学としての政治学」(1947年6月): 文部省人文科学委員会発行の季刊雑誌「人文」第1巻第2号に掲載された。丸山が政治学を担当して書いた。戦後政治学の再出発点としての重要な論文である。「現代政治の思想と行動」に収録された。
2) 「人間と政治」(1948年2月): 講演速記に改定を施して、「朝日評論」1948年2月号に掲載された。広い読者層を狙って政治の持つ意味を論じたという。「現代政治の思想と行動」に収録された。
3) 「政治の世界」(1952年3月): 郵政省人事部企画「教養の書」シリーズ第19刷、単行本単著としては初めて刊行された。ラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」を提示した。丸山政治学研究の重要な一里塚となった。
4) 「権力と道徳」(1950年3月): 「思想」1950年3月号特集「権力の問題」6編の一つである。「現代政治の思想と行動」に収録された。
5) 「支配と服従」(1950年12月): 弘文堂「社会科学講座」第3巻「社会構成の原理」に寄稿したもの。「現代政治の思想と行動」に収録された。
6) 「政治権力の諸問題」(1957年3月): 平凡社「政治学事典」(1954年)の項目「政治権力」を加筆修正して「現代政治の思想と行動」に収録された。
7) 「政治学入門」(1949年10月): みすず書房刊「社会科学入門」の「政治学」の項として書かれた。
8) 「政治学」(1956年6月): みすず書房刊「社会科学入門」への寄稿。六部編成の書で「政治学」は第1部、第1部では丸山以外では辻清明が「行政学」、猪木正道が「政治史」、関嘉彦が「社会思想史」を担当。
9) 「政治的無関心」(1954年2月): 平凡社「政治学事典」の執筆項目、丸山は「政治的無関心」、「イデオロギー」他11項目を担当した。
10) 「政治的判断」(1958年7月): 同年5月に行われた信濃教育会上高井教育会総会における講演速記に基づいて「信濃教育」第860号に掲載された。
11) 「現代における態度決定」(1960年7月): 憲法問題研究会記念講演で「世界」1960年7月号に掲載された。「現代政治の思想と行動」に収録された。丸山は1958年に結成された護憲派の憲法問題研究会でその中心人物の一人であった。

1960年は丸山思想史学にとっても重要な転機を迎え、生涯を通じて研究した福沢諭吉を除いて、徂徠研究の方向は大きく変わり、歴史意識の古層の結実する(1972年)「後期丸山史学」に転化した。その裏返しとして政治学関係の論考がなくなったといわれる。丸山氏の政治学論文と言えば戦後15年間の著作に限られる。「科学としての政治学」は戦後日本の政治学を始動させたという位置づけは揺るがない。この論に対して蝋山正道が「日本における近代政治学の発展」を著して答えた。丸山はこの論文によって、学問としての政治学の有効性を確立することにあった。戦前の政治学を厳しく批判したうえで、学問的自由を得たいま、日本的政治現実にメスを入れるべきだと述べる。いわば政治学の独立を宣言する文となった。丸山は他の社会科学の成果を吸収することに貪欲であった。時代はドイツ系の国法学、国家学から、社会心理学、文化人類学、精神分析など新たな学問方法を取り入れたアメリカ政治学に移行しており、丸山はそれに強い影響を受けたとされる。特にハロルド・ラスウエルの業績に顕著に刺激を受けたようである。「政治学」に登場するBという甥にラスウエル学派の見解を代弁させている。「政治学入門」では、ベントリーに始まる政治過程論とウオーラスを源流とする政治心理学や政治意識論の2大潮流をもって20世紀政治学の方向付けを行ったものである。丸山はアメリカ政治学に対して敬意と留保の両面で臨み、マルクス主義との対話を続けた。スターリン主義を究極において拒否しつつも、経験主義的命題はマルクス主義からも最大限学ぶ姿勢を取った。東大法学部の岡義武、辻清明、京極純一、升味準之助らが「戦後日本の政治過程」という特集をまとめたのは、過去6年間の戦後政治学の「現実科学」たる具体的成果であった。平凡社版「政治学事典」は丸山がイニシャティブを取った共同作業であり、本書の「政治権力の諸問題」、「政治的無関心」にも丸山が切り開いてきた戦後の政治学の到達点を示している。丸山の政治学とはなにかという問いは、「政治学入門」において政治の3つの契機として、権力、倫理、技術を示した。丸山は、政治という人間活動は内容的には規定できず、カール・シュミットの考えのようにいかなる種類の社会関係も政治的関係に転化しうるという見解で一貫している。丸山の政治観の特徴は、@法律や行政との関係において政治は常に動いているもの可変的流動的なもの「可能性の技術」とみる観点、A究極的は権力の介在に最終的契機を見出す点である。「政治の世界」はラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」を提示して、当時の政治学者に大きな刺激を与えたという。しかしこの学説は1960年代に入って支持者を失い、イーストンらのアメリカ政治学理論が導入された。丸山自身は政治学において純粋理論をモデルを探究することに懐疑的になり、政治学研究を離れ政治思想史研究の領域に帰ることになった。「政治的無関心」においては、現代民主政の最大の問題は大衆の無関心にあると警鐘を鳴らした。いわゆる「トクヴィルの憂鬱」に相当する民主政崩壊への心配である。丸山が政治の指導者に要求するのは、「政治の道徳」としてのリアリズムに徹することである。「可能性の技術」としての政治能力を磨き、限界を意識しながら信念をもって行動する原理である。「現代における態度決定」は1960年の日米安保条約改定への反対運動が高まりにおいて書かれ、「市民のための政治学」が政治の実践に関わることを意識したものである。権力行使に直接かかわらない市民の政治関与の在り方は、日常的に関心を持続する必要を説き、政治への理想的期待を排して、政策の「悪さかげんの選択」として参加することを勧めている。学問知と市民常識との相互補完関係と有機的結合を求める点でも、丸山は福沢の後継者であった。J・Sミルの教養人の資質「すべてにおいて何事かを知り、何事かにおいてすべてを知る」要請は、土台無理な要求であるが、そこに丸山の政治学があり、矜持があった。

丸山真男著  「日本の思想」(岩波新書 1961年)より丸山氏の政治思想史(仏教史でもなく哲学史でもなく)を見ておこう。この本は約50年前に書かれている。ある意味では日本文化・文明論の魁を成すものである。かってはやった日本文化論や日本人論は底の浅い、支離滅裂の日本賛美論に流れやすいのだが、丸山真男氏による「日本の思想」はさすが手堅い日本思想史になっている。ただ本書は短編の論文の寄せ集めなので、主に明治以降の思想しか扱っていない。つまり天皇制の拠って来るところが中心である。そして日本人には思想らしきものは皆無であるというのが結論である。なぜ日本の政治思想が無なのかという理由を丸山氏は日本人の内面からたどられたのが本書の内容である。これに対して哲学者梅原猛氏は日本の仏教史からこの丸山氏の結論に反論して日本思想の根源に迫る著作を多くなされた。丸山真男氏は政冶の観点からの思想史であり、梅原氏は仏教哲学からの思想史であるので、「日本人は思想したか」という設定では梅原氏のほうが深い研究をなされたようだが、政冶思想という観点では西洋啓蒙思想の比較において丸山氏の言うこと(日本人の思想は空虚)のほうが実際的である。 わが国の思想論や精神論は江戸の国学や津田左右吉や和辻哲郎や九鬼周造の著作にも現れたが、日本思想史の包括的な研究は著しく貧弱であったという見解が本書の丸山氏の出発点である。自己を歴史的に位置ずけるような中核的あるいは座標軸にあたる思想的伝統がついに我国には形成されなかった。西洋にはギリシャ哲学とキリスト教の伝統が2千年以上続いて、それを発展させまたそれに対抗する形でさまざまな思想が形成された。西欧では綿々たる思想の伝統と構造が培われた。しかるに昔のことはいざおいても日本の近代化の思想構造の蓄積を妨げる契機があったことは確かである。明治以来日本に輸入された思想の前にあった伝統的思想とは、仏教的、儒教的、神道シャーマニズム的なものであるが、日本の集権的国家形成の前にあまりに無力で使用に耐えなかったので歴史の後ろに断片的に沈殿した。
* 明治以来の日本思想の特徴の一つには思想の無構造性と雑居性が上がられる。思想の葛藤の上に立つ統一や関連付けの構造がなく、便利性から来る西欧思想の圧倒的浸透のまえに伝統的思想は沈黙し忘却された。有用な考えは何でも寛容して雑居した。しかしキリスト教やマルクス主義という原理主義思想には猛烈にイデオロギー的に曝露批判する。無構造性思想の典型は殆ど空に近い神道をイデオロギー拒否の手段として担ぎ出したことである。
* 日本思想の第二の特徴は明治21年に制定された欽定憲法による天皇制と国体にある。国家秩序の中核としての天皇は同時に精神的機軸として機能する国体という名の非宗教的宗教の魔術的力である。そこでは臣民の無限責任によって支えられる国体は反国体に対しては峻烈な権力体として作用するが、実態は誰が政策決定者なのかは容易に姿が見えない。輔弼の臣が天皇の心を推察し政策を具体化するが、誰一人として政策の責任者としての自覚は持たない。
* 日本思想の第三の特徴は明治維新の革命主体が一元化されなかったことによって多元的な思想伝統が生まれ、元老や重臣という超憲法的存在によってしか国会意志が一元化しないという政策決定者の無責任体制にある。明治国家形成に当っても官僚という実施部隊は形成されたが、貴族階級や商人組織という社会的抵抗勢力(中間的階層)が脆弱で、国家権力は燎原の野を行くように無抵抗のまま進むことが出来た。天皇性が対応する社会的存在は唯一村落共同体に過ぎなかった。部落共同体の核は家族で個人ではなく水平の結合体であった。したがってその共同体の中では人格的主体や責任主体の形成も不十分で天皇制の前には対抗しうる主体はついに形成されなかった。現代日本に個人主義が存在しないのもいまだにその流れを引きずっているからだ。
19世紀前半の西欧の思想はヘーゲルなどに代表される包括的総合的な学問体系をとったが、スペンサーを分水嶺として19世紀末よりは個別科学の専門化が進んだ。明治維新以来日本画が輸入した思想は将にこの個別化・専門化した学問であった。学問相互が連携せず共通の根っこを共有しない所謂蛸壺型で進化発展した。従って日本の組織は共通の基盤のない一つ一つの仲間集団を形成して相互の議論はなかった。これが日本のアカデミックと官僚組織を特徴付けた。国民意識の統一を確保したのが戦前では天皇制であり教育勅語・軍隊で「共有」の日本人が形成された。戦後はマスコミが国民意識の画一化・平均化に寄与してきたが、これには世論操作という役割があった。 憲法に定められたさまざまな権利は与えられたものとして「である論理」は、封建時代の身分制度と同じである。固定的な状態は「である論理」であり、民主主義や自由はであろうと「する論理」によってのみ守られるものだ。近代社会を特徴つける機能集団(会社・政党・組合・団体など)は本来的に「すること」の原理に基づいている。経済組織では経営をすることであり、政治では指導者は政策を実行すること、人民は指導者のサービスや成果を監視するものでなければならない。政治は政治家の領分であると思うのは「である論理」政冶観である。能動的に働きかけることによって健全な社会が出来上がるのだろう。

1) 「科学としての政治学」

戦前非合理な天皇制によってせき止められていた社会科学は、戦後の民主革命的な変革のうねりに後押しされるように変わった。ところが政治学だけは科学というにはあまりにお粗末で、系統的な方法論もなく未開の儘に取り残された。戦後社会の変革はGHQの主導による、日本の旧支配層に有無を言わせないやり方で政治的変革を成し遂げました。それを推し進める主体が何よりも「政治的」な力であった。現実生活における政治の圧倒的な支配力(戦前も同じ天皇制権力の圧倒的支配力)の前に、それを対象とする学問の畏るべき発育不全ばかりが目立ちました。政治学の非力性は別に今に始まったことではなく、現状から問題をくみ取ることをせず、欧州の学問を移殖してきた我国の学界一般の習性にあった。一般に市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の成長する道理はない。市民的自由のひ弱で、官僚機構西は力を背景としたプロシア王国(ドイツ帝国)の「国法学」を後生大事に輸入した日本の国家制度の宿命であった。政治権力にとって自己の醜い姿を客観的に明らかにされるほど嫌なことはないだろう。だから市民的自由がないところには学問的自由もない。戦前の天皇制政体に政治学という学問が育つわけはなかった。政治権力の究極的源泉を問うことはタブー中のタブーであった。国家権力の正統性の根拠は天皇の神性以外にはなかった。立法も司法も行政も軍隊統帥権もすべては唯一絶対の「大権」に発するとされていた。徳川幕府の絶対王政の方が欧州の君主制に近く、明治維新において一挙に古代神聖政府に逆戻りしたからである。従って議会には政治的統合の役割を果すほどの地位は与えられず、政争とは利権の分け前をめぐる私的な醜悪な争いに過ぎなかった。かくして天皇とそれを「補佐」する実質的な政治権力が一切の?額的分析の彼岸に置かれ、議会における政争が戯画化しているとするならば、いったい何を学問の対象とすることができるのだろうか。立憲制のような擬制でさえ、すべての権力が天皇から発するのでは、作用しえなかった。現実の政治を理解するには、政治制度を論じることではなく、政治的支配層の内部の人的関係に通じることが一番大事だとされた。戦後の政治制度は、占領軍と旧支配層の暗黒の中で行われた国家意思の形成過程は、国会が「国権の最高機関」とされ、「議院内閣制」が採用されることで著しく透明性を増した。天皇が「象徴」となって、国家権力の中性的形式的性格が初めて公然と表明された。従って「科学としての政治学」が可能となったが、方法の問題と対象の問題が不可分に絡んでいるのが政治的思惟の特徴である。政治学派によりも現実科学であることを要求される。ビスマルクはかって「政治とは可能性なものについての術」といった。国法学の「である論理」から、政治を可塑的な未来性に注目する「する論理」への認識作用を通じて、客観的現実を一定の方向付けを与えることである。政治学は自己の学問を、このような認識と対象の相互作用の存在を承認することが大切である。こうして政治学者も民衆も傍観者であってはならない、実践を通じて政治的現実に主体的に参加する。政治学者は自身の学問を特定の政治勢力の手段とする「イデオロギー」に堕すか、書斎の学問たる傍観者になるかは避けなければならない。

2) 「人間と政治」

政治学は人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。政治の本質的な契機は、人間による人間の統制を組織化することにあるからだ。いずれにしろ人間を現実的に動かすことであり、人間の外部的行為を媒介として政治が成り立つ。他人を現実的に動かす目的のために政治は人間性の全面に関わってくる。学問分野であれば理性に働きかけ、説得ならば人間の情緒に訴え、経済的行為なら物質的欲望に訴える。要するに相手を従わせること自体が目的であれば、自己を政治的な働きかけにまで変貌させている。政治家の言動は「効果」によって規定されるので、ウエーバーは「政治をする者は悪魔と手を結ばなければならない」という。昔から人間を性善説で説くか、性悪説で説くかで議論があった。ホッブスの自然状態は「人間は人間に対して狼である」と言った戦闘状態を指す。銃社会は性悪説の自衛論で成り立っている。人間が性善か性悪かは別にしても問題的存在であることは確かである。政治の前提とする人間はこのような謎的な人間である。そして政治が人間の組織化行為である以上、政治の対象とするのは個人ではなくほとんどが人間集団である。政治家の指導力が強いと、大衆は逃げ自身は遊離するが、指導力が弱いと大衆の意識下の混沌に同調することになる。従って政治権力の強さは、対象となる集団の自発的能動的服従の度合いに反比例して働かなければならない。極端な無政府状態は、必然的な自己否定によって強力な専制を招き、逆に暴力のみがむき出しになる専制政治が極点に達すると、大衆は権力から離れ積極的服従もない無政府状態に陥る。革命は専制の反面である。反抗する方法も気力もない大衆は(戦前の日本国民)奴隷化する極めて政治効率の悪い社会となる。戦争に駆り出されてお国のために死ぬだけが目的化する。政治(権力)は物理的強制力(暴力)を最後的な保証としているが、切り札を出してしまったら政治は終わりである。外交と軍事の関係に似ている。それは人間の自発性と能動性に自己を根拠づけることを断念した政治の安楽死の姿である。権力は強制的性格を露骨に出すことを避け、政治的支配に対して様々な粉飾を施すものである。アメリカの政治学者メリアムは被治者に治者への崇拝を生み出す装置を「マイランダ」と呼んだ。古来より様々な時代特有のマイランダがあった。個人的肉体性、権威、血縁関係、英雄化などである。近代国家では法の執行者としての実質的価値とが一応無関係に、法の形式的妥当性の基礎の上に政治的支配が行われることを基本とする。そこでは権力は法的権力の体裁を取る。それと引き換えに思想、学問、宗教の自由と言った「私的自治の原理」が承認される。それが近代国家の建前なのである。この建前は19世紀中頃までの立憲国家に当てはまるが、伝達手段や交通手段と言った技術の進歩によって、大衆民主主義が登場した。外的なものと内的なものとの区別が、高度な近代的技術によってはっきりしなくなった。権力側から情報が大量に流し込まれ、新聞は毎日論義を展開する。今や個人の外部的物質的な生活だけでなく、内面的精神的領域まで政治が入り込んできた。かくして自由は次第に狭められた。個人を抑圧するものとして、最高度に組織された全体主義や宗教こそが人類の直面する最大の問題である。デモクラシー国家においても大衆は巨大な宣伝及び報道機関の氾濫によって無意識のうちに作られた世論の枠に閉じ込められ、自分の頭で政治・政策を考えることを辞めてしまった。報道しないで黙殺することも大衆への影響を最小限にしたい権力の術策である。こうしてわれわれの世論が毎日の報道で養われてゆく。アンケート調査とは、作為された世論がどの程度浸透したかを、権力側が測定する手段である。

3) 「政治の世界」

本書前半部の中心をなす章である。ラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」をまず紹介し、そして権力の成立から崩壊までの過程を分析した。現代は情報技術の発達で生活の隅々まで政治化された時代であるという。すなわち政治権力が未曾有の数の人を把握でき、支配できる時代という意味である。横方向の広がりは国際政治(国連と冷戦、広域ブロック化)の圧倒的重要性で、縦方向への広がりはテレビ・映像を通じて個人の生活の内部への政治の浸透状況である。これほど政治が私たちの生活を自由に左右する力を持つからこそ、政治を我々のコントロール下に置くことが死活問題となってくるのです。政治的状況の一番基本的な特徴は、それが一瞬間も静止せず不断に移行することです。つまり政治は運動するという理論だ。政治的常キュの移行ををひとつの循環法則として理解する仕方を「政治力学」と呼ぶ。紛争Cが起き、それが解決されるS過程をC-Sとする。紛争とは広い意味では社会的な価値を巡る争いです。社会的価値とは財貨、資源、知識、威信、勢力、権力のことです。紛争の条件とは当事者が向かい合って、論争による説得から直接暴力行為によって相手を圧伏させることで、そこには紛争は政治的色彩を増す。本来政治的状況は暴力を前提とするのではなく、むしろそれを避けるための方策です。政治的解決は相手に対する何らかの制裁力を背景として、行使の威嚇(暴力、戦争)によってなされる解決のことです。国家間では紛争を最終的に解決する力を「主権」と呼ぶ。政治権力Pが紛争解決の媒介になる構図はC-P-Sとなる。ここに権力の自己目的化(権力のために権力を追求する)傾向が発生する。権力は不断の止むことのない権力の欲望を持つのだ。権力を獲得すると、現在持っている権力を守るためにさらにそれ以上の権力を求めるのだ。戦前の日本軍のように朝鮮ー満州ー中国へと侵略を進めたのと同じ構図です。どこまでが防御的で、どこからが攻撃的かという限界をつけがたい状況である。権力自体の獲得・維持・増大を巡って紛争が起き、その紛争を媒介として権力がさらに肥大してゆく構図は、P-C-S-P'(P<P')となる。権力拡張は国際政治では帝国主義政策です。これは威信誇示の政策とも呼ばれる。政治権力の発生過程を分析するにあたり、まず支配関係の樹立から見てゆこう。支配とは、その社会の最も主要な社会的価値を支配者が占有し、その帰属配分決定権を恣にするためです。だからその支配の出発点は、被支配者の武装解除、その物理的強制装置の解体です。ポツダム宣言によって占領軍が日本を解体した過程を考えましょう。法に依らずいわゆる力による解決が取って代ります。統治関係は典型的には国家において現れ、支配関係は基本的には国家権力を媒介して実現される。資本主義社会を基本とする近代国家の統治関係には2つの顕著な特徴がある。一つは政治権力の直接的な担当者(政府)と、実際上の支配階級との間に一種の分業が成り立っている。つまり政府は支配階級のの代弁者、執行者であり、支配階級そのものではない。支配者とはブルジョワジーのことで自らは手を下しません。第2の特徴は近代国家がいわゆる法治国家という構造を持っていることです。すべての人が社会的地位に関係なく同じ法の下に平等であるという原則です。ブルジョワジーは自身を特別な支配者だとは考えていません。ただ資本家の言うとおりに政府・官僚機構が動くことを陰に陽に要求するだけです。彼らが現代の最も重要な社会的価値である生産手段(資本も含めて)を排他的に所有することによって実質的支配関係は貫徹されるのです。資本と労働の関係も支配関係です。企業体の支配者(古くは財閥、今はホールディング)を「独占政治家」と国家権力の融合が顕著になってくると、近代国家の理念はなくなり、法治主義もかなぐり捨てて、潜在していた支配関係を露骨に主張することを「保守化」と呼び、安倍首相の手法はこの赤裸々な支配者像を見せつけることです。そしてこの寡占支配機構はファッシズムに転化してゆきます。無論それを支持し推進しているのは独占資本家ですが、彼らの支配力の強化維持というよりは、崩壊する支配機構の断末魔の悲鳴です。

次に支配権力の正統化をみてゆこう。被征服者がもし徹底抗戦し最後の一人が殺されるまで戦ったとすれば、これは資源の掠奪であって近代統治ではない。被治者の能動的な服従は、被治者が治者の支配に何らかの意味を認め仲なければ成立しない。その意味が権力の正統性的根拠である。正統性がなければ統治は成立しない。マックス・ウェーバーは歴史的に@伝統的支配、Aカリスマ支配、B合法的支配の3つを分類した。丸山は支配の類型を5つとした。第1の類型は家父長制や君主制に見られる伝統的支配です。歴史的伝統はそれ自体が最高の権威をもって被治者のみならず治者をも拘束している。中国の伝統的王朝はいったん成立すると数百年は続くという慣性(惰性)を持っている。第2の類型は統治の正統性を「自然法」に求める場合です。中世から近世にかけての王侯貴族の支配がそれです。第3の類型は近世の絶対君主制の「王権神授説」がそれです。中国王朝の「天命」もそれに近い。第4の類型は統治のエキスパートあるいはエリートが治者となる観念です。いわばカリスマ的正統性となる。カリスマ相続制である天皇制はこれに相当します。宗教的革命者もカリスマ性をもっていました。大衆デモクラシーの人民が卓越した指導者を選択し、その指導者に白紙委任をする傾向が強くなっている。アメリカの大統領制もカリスマ支配である。第5の類型は、近代の正統性的根拠として人民による授権です。フランス革命のときのルソーは「社会契約説」で主権在民を主張した。支配者は自己の支配を人民にょる承認ないしは同意の上に根拠づけます。ヒトラーのファッシズムも最初は人民の同意でスタートしました。社会主義のプロレタリア独裁の人民の意志に基づく権力と主張しました。現在の主要な政治思想は悉く民主主義的正統性に帰一したと言える。これを虚構としないためにも、人民は権力に対して厳しく監視しノーと声を上げなくてはなりません。これはウェーバーのいう合法性に基づく支配です。ただそうした形式的合法性はどこまで行っても実質的正統性とは異なる。つまり人民が作った法に人民が従うという観念が合法性を正当化している。ここに「合法性の虚構」が発生する危険がある。選挙で公約通りに動いた議員はいないのに、彼らの決めることが人民を支配できるとする点に虚構が存在するのだ。ルソーは結局直接民主主義に到達した。効率重視なら議会への白紙委任になる。効率を無視したら一つ一つの重要政策は国民投票となる。我々はいったい何に投票しているのか。小選挙区制では候補者のパーソナリティに、比例投票では政党という政策立案機構に投票し、小選挙区と政党比例投票は真っ向から矛盾している。一旦議員になったら政党の決定(支配)に抵抗できる議員はいない。すると比例投票は意味をなさない。こんな鵺的選挙制度で法の合法性を言われても納得はできない。次に権力行使のための組織化(政府組織・官僚機構)について考える。組織とは構成員・秩序関係・常設機関の要件を備えた、集団の作用能力のことである。こうして現代国家において統治体系をいかに組織化するかが決定的に重要となった。組織原理とされる三権分立を中心に、専門的な官僚制(軍隊を含む)が必要です。議会が統治機構の中で立法機関として重要な地位をしめ行政機関と並立するが、、イギリスの議院内閣制は議会で内閣を選出し官僚の任命権を持つ議会が優位に立ちます。つまり立法府が行政府の根拠を作るからです。ところが、1980年以降新自由主義が盛んになるにつれ官邸の機能強化が図られ、権力の分立では何も決められないという理由で、権力の統合と集中が行われてきた。権力の分立ではなく諸機能の分化と分業であったという統治機構の面目が益々はっきりしてきたのである。こうした傾向をさらに進めると議会政治の実質的な否定になり、ナチスの授権法、日本の国家総動員法などファッシズムの寡占支配の足場となった。組織の高度化や官邸機能の強化集中は少数エリートによる寡占支配となり、社会のエネルギーが低下する。

政治的状況の発生の出発点は、権力、財貨、尊敬、名誉と言った社会的価値の獲得、維持、増大を巡る争いです。C-Sで紛争が解決された時から、社会的価値の配分帰属が決定される。統治を安定させ強固にするには、治者は自己の重大な権益が侵されない限りにおいて、そうした社会的価値を被治者に配分する方が得策なのです。立身出世は大衆の経済的かつ上昇志向を満足させ、権力側の有能な使用人(官吏)供給源となった明治震為雷の教育政策の成功例です。そうした上昇志向は政治的自由の欠如を補完する役割を果した。治者が絶対に手放さなかった価値は政治権力であって、権力はただ被治者からの圧力によってのみ譲渡されてきた。連合国に無条件降伏した戦前の支配者は、軍隊関係者のみを除去して、そのまま権力を握り続けた。そして彼らが占領軍の命令によって民主革命を遂行したのだから、その成果は不完全であった。民衆の力によって成し遂げられた民主改革ではなかったことが、いまなお大衆の権利が不十分であることの遠因となっている。フランスの自由主義デモクラシーの根本的な建前は、市民階級を構成する人間の具体的な生活条件を不平等なままにして、抽象的な公民としての平等の権利を与えたことです。逆に言うと、法的地位の平等によって、各階層(資本家、労働者、自作農)の不平等が裏付けられている。民意とは各人が意見・利益を主張することではなく、抽象的公民として持っている一票の投票権の算術的和に過ぎない。民主主義とは頭の数を数えることだいう見解がある。ルソーは言う、彼が自由なのは投票の日だけで、仕組まれた一票を投じれば、あくる日からは再び奴隷に戻るのです。「政治的権力が大衆に与えられているのに、経済的権力は少数の支配階級が握っていることが、社会の不安定要因である。金権政治がデモクラシーを買い取ってしまうか、デモクラシーが金権支配者を排除するかのどちらかである」というアメリカの経済学者がいる。支配権力が均衡を維持するとき安定を確保することができる。均衡が破れるとき政治権力の変革が引き起こされる。権力の変革には程度の激しさの順に、@支配関係の変革、A権力の最高担当者の変革、B統治組織内部の変革に分けられる。B統治組織内部の変革とは各機関御階層関係が逆転する場合です。立法機関の優位性が崩れて、内閣府という執行機関(官僚機構)に権力が集中する場合が相当します。官僚機構にとって国会は嫌な存在で、むしろ内閣を乗っ取って権限を強化する方が好ましいと考える。これは合法的ですが、非合法に行われ軍部が優位に立つことをクーデターと呼びます。A権力の最高担当者の変革とは、人が変わるだけです。反対党に政権が移る場合「政変」、選挙結果に根拠を置けば「政権交代」です。元首の首だけ暴力的に挿げ替えて東一機構には手を付けない場合もこれに当たります。合法的に資本主義政党が政権を取っている場合、選挙で社会主義国になることはまず考えられませんが、社会主義的政策をより多く採用する政権であれば、これはAとBの範囲になります。@支配関係の変革の典型は「革命」です。毛沢東は「革命は鉄砲の先から生まれる」と言いました。戦争と革命は武力を使用する点において似ていますが、戦争は組織された国の間の権力争いで、革命は下からの自発的な反権力の内乱です。だから戦争は少数の権力者の冒険や陰謀によって起される可能性が強いのです。やむを得ざる自衛のための戦争というのは真っ赤なウソです。戦争までに無数の選択肢があります。ほとんどは権力を維持強化するための侵略戦争です。弱い国が戦争を起すことはあり得ないし、戦争に訴えるのは強い国です。戦争の性格は時代と技術の進歩に従って変化し、昔は諸侯の雇い兵だけの殺し合いだったのが、近代国家では常備軍のみならず国民全員が戦争に巻き込まれ被害を受けます。現代における「政治化」の意味を考えましょう。国民の日常生活が根本的に政治の動向によって左右される時代において、かえって多くの人が政治的な問題に関して積極的興味を失い、無批判的な態度のなり、政治的状況から逃避するというパラドックスが生まれている。「政治化」と「政治的無関心」がどうして結合するのだろうか。選挙の投票率は次第に50%を切ることが多くなった。政治的無関心が権力の乱用や腐敗を生み、それが国民の政治に対する嫌悪感と絶望感を掻き立てるという悪循環に陥っている。この大衆の非政治的受動的態度をはぐくむ地盤は、現代の機械文明の進歩がもたらしたものです。社会機構が複雑化するにつれ人間(個人)が疎外される状況です。現代国家の権力の組織化は分業の原則で官僚的権限強化の方向に傾き、一律平等の原則に従い格差は固定されたまま政策の平等化が行われます。これを人間のアトム化と呼びます。新聞・テレビメディアはニュースの選択、解説に一定の傾向をつけて。読者や聴取者の思考判断をステレオタイプ化する。これは世論誘導であり、大衆の非政治化に拍車をかけています。大宅氏はかってこれを「一億総白痴化」と言った。メディアの役割は一定のイデオロギーを大衆に注入することより、大衆の生活態度を受動化し、批判力を麻痺させることにある。現代民主主義がこうしたアトム化された大衆の行使する投票権に依存しているところに、形式的民主主義に依拠した実質的な独裁政治が容易に成立する由縁です。これに対して丸山氏の書く処方箋は、民衆の日常生活の中で政治的社会的問題が討議される場として、各種の民間の自主組織が活発に活動することが必要だと言います。だがそれから半世紀以上が過ぎた今日、新自由主義を根拠とする右傾化傾向と独裁制の危険性は強まっています。各種の民間の自主組織の組織化のエネルギーが足らなかったのか、権力側の物量作戦(無制限の国家予算)の効果が強力だったのか、少数エリートの寡占支配権力の危険性は増大するばかりである。対米従属の保守権力が崩壊するのは、米国の覇権主義とドル基軸通貨制が崩壊する時である。そこで世界は大きく変わる。

4) 「権力と道徳」

この章では「政治と倫理」に絞った話になる。政治権力の悪魔的な性格と道徳規範との合一と分離の関係を見ることになる。古代には道徳と権力が一体化した除隊が存在していた。祭政一致(神政)のような、道徳が権力的拘束の中だけに存在し、権力もまた一つの道徳的権威の体系内に留まる社会のことである。その道徳とは宗教的権威であった。たとえば豊作を約束する宗教上の神をまつる祭礼行事が政治のことであった石器時代の原始農耕社会のことである。とはいえ、氏族共同体に内部に社会的分業が進み、氏族の共同事業が氏族の宗長に集中することによって、政治統治が彼に専門的に帰属するようになった段階からが我々の考察の出発点となる。司祭者の権威が集団内部の階級的分化(格差)とともに恒常的な権力体にまで発展する。田や畑の分割・配分の権力、灌漑事業の推進が首長の仕事になってくると、配分や受益をめぐって争いが生じたり、裁定が必要になる場合、対内的には司祭者的権威者に有利に運ぶために格差による実力がものをいう。対外的には他の部族との水利権、領土権をめぐる争いから軍事権が発生した。こうした神政政治体制が大規模に表現されたのは、チグリス・ユーフラテス川都市国家、エジプト、中国の古代帝国であった。権力の集中と共に権力の道徳性が実在性から遊離し「虚構性」が目立ってくる。そこで権力は道徳性に依拠するのではなく、法体系に依拠する方向になった。法はどこまでも人為的(目的合理的)である。ローマ帝国において一切の公的規範は最高権力結合し、ローマ法の壮大な形式亭支配となった。民主政を古典的に完成させたギリシャ都市国家では市民の自由とはポリスへの参加に尽きた。合法性と正統性は分裂していなかった。これに反抗したのがキリスト教の人格性の道徳(個人の独立)であり、ローマ皇帝への合一性・正統性を拒否したのである。キリスト教的倫理が政治権力への合一を原理的に拒否する思想として登場したことは、社会的または政治的平面では解消しえない人格の次元を人間に植え付けたことによって、「カイゼルのもの」の絶対化を拒否し、彼岸的な活動が権力と道徳の間に一定の緊張を生んだことである。つまり欧州において教会と国家という二元的な関係が作り出され、そして宗教革命「プロテスタント」は、中世を通じて固定化された集団道徳をふたたび人格の内面性に引き戻した。プロテスタントの「抵抗こそが倫理的義務である」とテーゼは近世の革命権・抵抗権の思想に大きな影響を与えた。教皇と神聖ローマ帝国という二重の神政体制から近世国民国家が誕生し、絶対君主は主権の絶対不可分を主張し、権力的統一を完成した。王は神聖であるから最高権力を持つのではなく、逆に最高権力を持つから神聖となった。こうして国家権力は宗教的道徳から独立し、自己の存在根拠と行動原理を自覚した。マキャベリは政治権力の行動原理を明確にした。プロテスタントの宗教倫理はマックス・ウェーバーが言う様に、産業ブルジョワジーに担われて、資本蓄積のみならず思想・信仰・言論の自由など基本的人権獲得のために闘った。キリスト教倫理社会と国家権力の二元論に基づいて権力を不断にコントロールする必要を説く自由主義国家間が生まれた。西欧においては近世自然法思想が優位を占め、これに反してドイツでは国家理性の思想が急速に成熟した。国家に最高の価値を置く思想がヘーゲルからビスマルクによって定着した。その結果ドイツ国家思想にはシ二ズム(悲観思想)が付き纏い、潔癖な倫理観と過剰な国家権力の間でバランスがとれなかったことが「ドイツの悲劇」と呼ばれた。ニーチェがドイツシ二ズムの代表であり、それはナチズムに転落した。

5) 「支配と服従」

甲という者が乙という者に足して多少とも継続的に優位に立ち、乙の行動様式を規定する時、甲と乙の間には一般的な従属関係が生じる。支配。・服従関係とはそうした従属関係のことをいう。教師と生徒には利益は共通するが権威と権力が存在し、奴隷と奴隷所有者には利益が対立する支配関係が存在する。ここには搾取が存在する。奴隷に残された道は反乱か逃亡である。氏族共同体には権威関係が存在する。支配者と被支配者の利害関係に基づく緊張関係があらゆる支配関係の決定的な契機である。だから支配関係にはその社会における社会的価値を支配者が独占し、被支配者の参加をできるだけ排除するという要素を伴う。そのためにこそ支配者は物理的強制手段(軍隊・警察)を組織化するのである。しかし現実の政治的支配関係は純粋の(むき出しの)支配関係の実では成立しない。そこで今日まであらゆる統治機構は、権力・富・名誉・知識・技術などの価値を、様々な形態において被支配者に分配し中和する機構と、統治を被治者ンp心情に内面化(納得)させることによって、服従の自発性を喚起してきた。一切の政治的社会は制度的にも精神的にもこうした最小限のデモクラシー装置が必要なのである。今日では被治者は憲法に定められた制度的保障によって治者の権力に参加し、選挙や議会内の数によっって政権交代を可能にした。こうして治者はあらゆる手段を動員して被治者の意見をまとめ上げ被治者の同意を得たという形式で、誰はばかることもなく権力を行使することができるのである。つまり治者による民意の操縦が容易になった。寡頭支配やカリスマ支配が人民の同意を得て実現することが可能となった。ルソーがいう人民の権力とは虚構かもしれない。実質的に主権在民を実行する方法がなければ、支配者にとって恐ろしいものではない。むしろ巧みに制度を操って主権在民を統治の手段とするのである。露骨に支配関係を表現するとそれは右翼となる。右翼とは赤裸々な支配関係の表現者のことである。政治的イデオロギーが好んで用いるのは、集合概念としての人民に支配の主体を移譲することによって、少数の真の支配者が多数の人民を支配する本質を隠ぺいするやり方である。支配の非人格化のイデオロギーとは「法の支配」である。支配者に都合のいい法を作って「合法的」に従わせることである。国民協同体とか国家法人説などもやはり支配の非人格化であろう。後ろめたい支配の「虚偽意識」に留まらないで、デモクラシーという制度による支配の表現になっている。

6) 「政治権力の諸問題」

権力は政治学にとって唯一の契機ではないにしろ,基本的な範疇の一つである。権力を扱えば政治が全面的に関係してくる。政治権力はいうまでもなく社会権力の一種であり、社会権力は人間行動の間に成立する関係である。すると人間行動の中に働く力関係の中には蓋然性がある。その法則を検証するのが社会科学の仕事である。つまり政治権力の法則性があるかどうかをこの章で考察しよう。実体概念としての権力があるなら、それがどの場で働くかは関係概念である。一般に体制が固定的で階級的流動性が乏しい国・時代には実体的権力概念がはっきりしている。コミュニケーションが発展し社会集団の複雑な相互関係が活発に行われていれば、関係的=関数的な権力概念が必要である。立憲主義や自由主義・民主主義の発展した西欧国家で、力関係の分析が進んだ。そこでは社会的権力の発生は、人格の抽象化・制度化と同時に起り、人間の自己疎外と一体化した現象であった。そこでの権力関係は個別的な相互作用関係から抽象される傾向を持っている。権力は相手の存在と相関的に働き、常に相対的に作用するので、威信の損傷は権力にとって致命的である。伝統的な国家論は法的制度を中心にして、その機能も法的に表現するので自然に実体論的な見方が優先する。ある意味で権力構造は常に動態的にして、権力過程を人格相互作用まで突っ込んで考察する必要がある。しかし権力は社会法則の無い人格の総和ではない。人間行動を最も基本的に規定するのは、生命の危機を左右する物理的強制手段(生殺与奪の権)から解析することが有効である。経済的価値の与奪、名誉の剥奪(社会的制裁)もまた古来権力的統制の目的や手段となってきた。人を個別に動かす権力の根源から考えるのである。こうして重大な価値を巡る紛争は集団間相互においても内部においても、早くから権力関係に移行しやすい。本来他の価値追求のために生まれた権力関係が自己目的化しやすい。現代において国際的国内的な政治闘争が結局国家権力の獲得・維持・配分・変革をめぐって展開される。政治的な権力過程は圧倒的に国家との関係において進行する。だから執行する権力(行政機関)よりも始動する権力(政府)のみが政治権力であるといわれる。政治権力をめぐる闘争に日常的に主体的に参加する主だった組織集団を権力単位と呼ぶ。組織された権力単位は内部に階層化された権力関係を持っているので、例外なくピラミッド的構成を持つ。政治権力が人間や他の権力単位を統制する方法は、ひろく社会的統制の諸手段と共通している。つまり暴力の行使よりは行使の威嚇に、威嚇よりは強制の方が勝り、強制よりは説得が効果的である。人は「しぶしぶ」から「積極的に協力」するのである。これが「合意による政治」である。物質的利益の供与も効果的である。「飴と鞭」政策である。人民にたいしては「パンとサーカス」の供与である。こういったことは「帝王学」に書いてある。人間行動の統制様式には、指示命令と、そう仕向ける操縦がある。大衆デモクラシーの時代に技術の進歩によって後者の操縦法が極度に発展した。現代の選挙はこのマスメディア操縦法で成り立っていると言っても過言ではない。メディアの統制には膨大なカネが必要なのである。企業と資本はCM料と称する膨大な操縦費を払って大衆支配を安定させる。大衆をステレオタイプ化し、服従の慢性化によってその自発性と能動性を奪い、公共的関心は私的消費の享楽に取って代られる。近代国家の発展とともに政治的支配は経済的生産から分離され、政治権力は独自の組織と構成を持つに至った。特に政治権力と経済的支配との間の関係は隠蔽された。政治権力は国家権力として物神化した。テクノロジーの進化と社会昨日の多様化は、それぞれの権力単位の寄稿を巨大化=官僚化し、ピラミッドはますます高くなった。政策の決定と執行が中枢に集中する傾向は国家権力において最も顕著であり、大統領や首相のリーダーシップが拡大強化された。それは少数支配(寡頭支配)の傾向となっている。「国民の将来に影響する重大な決定が、限定された責任しか持たない人々によって決められる」という「権力状況の無定形化(無責任化)」が進行し、かつ「少数有利の原則」や「寡頭支配の鉄則」で少数首相周辺のブレーン(官邸)が日本の将来を危うくしている。本来の議会政治、または議会そのものの実効的な決定参与者が後退しアウトサイダーとなってしまった。権力の寡頭化は権力者自身によっても自覚されていない。権力トップの権力感覚のずれは拡大し、彼ら自身もマスに過ぎなくなる。こうした「無責任の体系」は戦前の指導者の陥った陥穽であった。「あらゆる権力は腐敗の傾向を持つ。絶対的権力は絶対的に腐敗する」というアクトン卿の言葉があった。近代社会の技術的合理化に基づく社会的必然として出てきた権力集中が必然として陥った罠が「無責任寡頭支配」である。太平洋戦争で愚かな権力中枢は自滅した。

7) 「政治学入門」

丸山氏は経済学には古典と言える書が二つあるといいます。アダムスミスの「国富論」とマルクスの「資本論」だそうです。しかし政治学には系統的な学、普遍的・包括性としての古典がないといいます。それでも次の書を参考として挙げています。1) ジョン・ロック著 「統治二論」、2) ルソー著 「民約論」、3) ベンサム著 「政府論断章」、4) D・トクヴィル著 「アメリカのデモクラシー」、5) J・S・ミル著 「代議政体論」、6) T・H・グリーン著 「政治的義務の諸原理」、7) W・バジョット著 「物理学と政治学」、8) J・プライス著 「近代民主政治」です。政治学概論は書けなくとも政治学入門なら書けるといい、丸山個人の考えであると断っています。「政治は力である」、「政治は倫理である」(後藤新平)、「政治は妥協である」(床次竹二郎)という言葉にあるように、権力と倫理と技術の3つの次元で構成されるとき政治が姿を現すのである。
@ 権力としての政治は最も分かりやすい側面です。権力は具体的には支配として現れます。支配が継続すrためには政治団体が必要です。国家はその政治団体として最大のものです。歴史的な政治権力の発生の問題は、物理的強制力の手段を政治的権力の裏付けとします。むき出しの暴力から「技術としての政治」の工夫がなされます。それに応じて権力の組織化が高度になってゆきます。近代国家として確立された権力はさらに拡大すると国際的政治の関係になります。物理的強制力を有する権力は、少数による多数の支配が可能になる。少数の支配者と多数の服従者の関係はあらゆる国家体制に共通した形態的特徴です。デモクラシーを多数支配というのは一つの擬制(虚構)ともいえます。形式的な合法性をさらに突き詰めて考えると、かならず政治権力の実質的な正統性という問題になります。権力の正統性について古来より数多くの議論がありました。
A 倫理としての政治は古代ギリシャ以来の政治のイデア論です。政治権力が実質上正当化される理由の問題であり、政治権力が奉仕する客観的な価値の問題です。倫理価値を欺瞞である(実力説)とみれば、イデアではなくイデオロギーという技術になります。究極的には政治はどのような社会が望ましいかという倫理的価値に関わっています。これは個人倫理ではなく、まさにプラトンのいうイデアであり、ルソーのいう公共意志のことになります。従って政治的責任はもっぱら結果に対する責任であり、動機の善は何ら政治的責任を解除しません。戦争の鼓舞に使われる聖戦はかなrずしも政治的正義ではありません。
B 技術としての政治とはもっとも政治が具体性を持つときの姿です。17世紀以来欧州の近代政治学はもっぱら政治技術論として発達しました。 権謀術数(国家術数)とも言いました。法律的な国家論に対して、政治学は実際的な技術学として研究され、国家目的を達成するにはどのような手段が適合するかという実用的な問題を取り扱うことでした。政治におけるg術的契機は政治の最期の手段としての強制力の使用を最小限に抑えて、政治的組織化の目的を最大限に達成する「政治の経済学」の要請から生まれた。人間を動かすということは、人間の行動様式の一定の法則を見抜かなければならない。コミュニケーションの発達は大衆社会の集団を対象として驚くほど高度化した。宣伝、世論、選挙など社会全体が著しく社会技術としての性格を帯びます。体系は国法学は背後に退いて、市民生活と日常的に接触する技術的側面が重視され、むしろ行政学と癒着しました。類型人格の調整とか心理学とか、行動心理学などに堪能なテクニシャンが大衆に対峙します。大衆は操作の対象です。権力が政治の現実であり、論理が政治の理念であるとすれば、技術はこの現実を理念に媒介する機能だと言える。だから政治学は歴史・風俗・環境に則した国民的色彩が濃いもので、一番経験を積んだ西欧の政治学の老練さは驚くばかりです。政治学は究極において「人間学」であり、政治現象を人間行動力学で考えてゆくものです。

8) 「政治的無関心」

権力側勢力と反権力対抗勢力のいずれにも賛意を示さず反抗心も持たないという「政治的態度」を「政治的無関心」と呼ぶ。つまり権力過程からの引退(退避)である。ラスウエルは引退の形態をさらに、脱政治的、無政治的、非政治的に分けた。脱政治とは期待が変じて価値として権力を見ることに幻滅を感じたため、無政治的とは他の価値への偏向によって政治に関心を持たないため、反政治的とは個人的アナーキストや宗教的神秘主義によって自分の信奉する価値が政治と衝突する手目政治過程に反対する場合である。この三者を総称して「非政治的」(ノンポリ)と呼んだ。歴史的に見ると、近代以前の社会では「知らしむべからず、寄らしむべからず」という風に大多数の人民は政治的関心を持つことを禁じられていた。黙従と随順が彼らの唯一の正統的な政治的行動様式であった。これを政治的無関心の伝統型と呼ぶなら、現代のアパシーはおおよそ異なっている。こういったアパシーは第1次世界大戦後のブルジョワ自由主義と社会主義に対する楽観論の破綻から生じた。リップマンは「世論」において、高度資本主義社会における市民ん行動様式のステレオタイプ化と能動性の低下を指摘して、自由主義的楽観論を排した。不安と挫折から生まれる行動様式は、自主的合理的な組織化に向かうのではなく、むしろ自我の放棄によって盲目的な権力への帰依につながった。これがファッシズムの勝利につながったという貴重な経験をした。西欧社会において大衆のアパシーが増大するという過程は、ますます西欧社会の不安定さにつながっている。大衆がアパシー化する要因として@現代政治の複雑化・国際的拡大はますます大衆の無力感を高め、政治をコントロールしている勢力が自分ではなく少数のエリート支配層だという認識はデモクラシーの空虚化によって増幅される。A非人格的な機構の発達。ウェーバーがいう現代社会の官僚化・合理化の波は個人を飲み込んでアパしーを増幅するのである。生産性、効率化が人の人格を奪ってゆくのである。人は機構の客体として受動的・消費者的になる。Bマスコミの代表するもろもろの消費文化の役割がある。政治的な問題や事件を「非政治化」して(ワイドショー)娯楽に変質させる。一億総白痴化現象である。テレビからは集団的方法で集団的目標を達成するという取り上げ方はなくなり、個人的努力による成功譚(勝ち組、敗者自己責任論)にすり替えられる。ミルズは大衆のアパシーを「ラディカルでもなく、リベラルでも保守でも反動でもなく、非動的なのだ」という。それがアメリカ民衆主義の反動化(右傾化)に寄与している。大衆が動かないことは、政治エリート少数の行動が無抵抗に進めやすいから、支配層にとって歓迎すべき方向になる。

9) 「政治的判断」

具体的な政治の問題の対する認識の仕方というものは、日常的な政治的な活動に必要な思考法であると丸山氏は定義しておく。政治的認識の程度(見識)は、個人または国民にとって政治的な成熟度バロメーターとなる。広い意味での政治家(団体の指導者)が自分の意図とは違った結果が出た場合、意表を突かれたのは敵の陰謀であるということ自体が政治的に未熟な証拠です。状況認識の錯誤からくる失敗を敵の陰謀のせいにするのは軍人の思考に多い。ユダヤ人陰謀説とかウォール・ストリート陰謀説などそれです。政治は経済よりも陰謀説に満ちている。それだけ成熟した認識が地についていないことを示しています。こういう思考法では本当の政治的な責任意識が成長しない。政治的責任は徹頭徹尾結果責任です。政治が結果責任であるからして、冷徹な認識というものはそれ自体が政治的次元での道徳になる。冷徹な認識(判断力)を持たない人は政界から撤退しなければならないということです。利権だけ求めて政界に住んでいる人は腐敗そのものです。例えばレッドパージの権力は政治目的をまず一番抵抗力の弱いところから実施します。そいう場合非政治的な団体(教職員組合など)においても、否応なしに政治的思考法を身に付けないと、自身の非政治的目的さえ守ることができなくなる。民主的社会ほど政治的思考法が要求されます。それは日常的に政治に巻き込まれる場合が多いからです。つまり政治的な判断と選択を要する人の層が多いからです。直接権力に関係しなくても、政治的状況に結果的に影響を及ぼす行動も政治行動になります。現在において政治から逃避することが、そのまま政治的意味を持つというパラドックスになっている。逃避する人が多いほど(意見を言わない、投票しない)専制政治が生まれやすくなる。政治状況とは政局のことのみではない。政治的なリアリズムを見続けるということが重要です。そこから方向判断が生まれます。多少具体的な例で政治的リアリズムを解説してみよう。
* 中共承認問題(1949年)で自由主義陣営にいるから日本は中共を承認しないという考えは政治的リアリズムの思考法からほど遠い考え方です。イデオロギーが邪魔をして現実が見えていません。
* 国連常任理事国の拒否権を多数決制にしないのも、現実の国際政治は大国の協調が国連の前提に成っているからです。国連総会が小さな国と大国が同じ一票をを持つということは、背景にある人口を考えるとデモクラシーになっていません。だから重要問題には大国の拒否権がはたかせることが政治的リアリズムです。日本の選挙制度でも一票の格差が2.5倍を超えると憲法違反というのと同じです。
* 選挙において政党が公約を掲げて国民に政策を約束するのですが、公約が実行されたためしは少なく、公約しなかったことを平気でやっている現状では議員に白紙委任をしたのと同じことになっている。議員・政党は選挙詐欺をやっているのと同じです。国民の選択という期待は裏切られ、ますます政治離れを拡大している。
* 新聞の政治報道も「どうせ政治家という連中はろくなことをやらない」という論調で報道します。これが無関心や政治的逃避という最も伝統的な非民主的態度を助長する役を果たしている。だから福沢諭吉のいう「悪さ加減の選択」という政治的リアリズムに学ぶ必要があります。ベストはないのだからベターな選択をしようというのも政治的リテラシーです。
* 現政権への批判を大きくするために反対政党に投票するという投票行動もリテラシーです。
* アメリカにおいても二大政党政党に対する少数政党の役割が重要視しなければなりません。馴れ合いの二大政党、どちらがやっても同じ政治では、政策への批判が生かされません。
* 日本では保守と革新という二分法が常識化していますが、革新は憲法擁護という広汎な国民の間に存在する正しい意味での保守感覚を動員しています。保守とは人権と民主主義を抑制しようとする新自由主義のことです。つまり配分を巡る規制緩和政策推進をモットーとしています。人間の性質ははもともと安逸な生活があるならそれを守ろうとするもので、保守的です。保守は現在ある秩序から他人の配分を奪い取ろうとする意味では変革的です。
* 政界の安定と、政治的安定とは必ずしも関係はなく、ましてや国民生活の安定とは何の関係もない。政局が安定すると必ず腐敗し、そういう意味では政府は変わった法が国民生活は良くなると言える。
* デモクラシーの進展に伴って巨大な大衆が政治から締め出されてゆくと、多数の大衆の政治的性成熟度は低くなる。言葉の魔術で大きな政治的効果を生み出す事ができるのです。 * デモクラシーはその内容が歴史的に変容しています。閉じられた社会では全員一致が一番いいが、価値感が画一的で異論を持つ人は疎外されやすい欠点がある。多数決という考え方には、多数が小数より勝つという考えだけでなく、違った意見が存在する方が社会にとっていいのだとする考えがある。全員一致はむしろ不自然だという。そこには反対意見に対する寛容と許容という精神がある。民主主義の重要なことは少数意見の尊重に働かなければならない。
* 選挙結果で多数を取れば何でもできるというのは間違いです。政治をすべて任せるということにはならない。例えば破防法という悪法が通過しても実質法が実行されたことは一度もない。事項を許さない世論が存在するからだ。2015年の今、安倍首相が集団的自衛権関連法案をたとえ多数決で議決しても、恐れることはない。実行する場面は絶対来ないと思われる。誰が考えても弱体な自衛隊が米軍を擁護するなんてことはあり得ない。米軍が日本を駒として使うに過ぎないからだ。アメリカが中東で攻撃されても即日本の危険にはつながらない。言葉上の不毛な議論だけでこんな非常識な法案が実行できることを国民は許さない。政治過程では常に権力は是正を要求される。

10) 「現代における態度決定」

日々に多くの行動または不行動の中からあえて一つを選び取らなければならない状況があります。およそ政治的争点になっている問題に対して、選択と決断を回避するという態度は、いかにも日本の伝統的な行動様式であり、同調度の高い行動でした。物事の認識は留まる事のない過程ですが、決断とはある時点で認識を切断することになります。ゲーテは「行動者は常に非良心的である」と言いますが。観照者であり続けることは無責任です。我々は行動あるいは非行動を通じて他人につまり社会に責任を負っている。不偏不党であり続けることはできない。西欧の政治思想史の研究では、学者が対象を批判する時自分の偏見バイアス(前もってよって立つ立場)を明確にすることになっている。何もしなかったことが自分の責任を回避できると考えるのは、官僚の習性です。不作為の責任問う問題です。官僚の不作為は責任逃れですが、しないことが現実を一定の方向に流すという意味を持ちます。不作為によってある方向を選んだと言えるからです。それは本来政治を職業としない、または政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーは生きてくるので、バークという思想家はこれを「人民の直接介入」と呼ぶ。何らかの態度決定という行為によって、政治家たちに公共の利益に対して配慮を払わせることができるのだ。無言の圧力を加えるのだ。


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