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丸山真男・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」

 岩波新書(1998年10月発行)

明治政府の近代化政策と西欧書物の翻訳

丸山真男氏は戦後の市民による政治参加に圧倒的な影響力を行使した東京大学法学部教授で専攻は日本政治思想史。戦前の右翼の運動に深い傷と反発力を得て、戦後は岩波書店派知識人として左翼運動の中心的存在となった。60年第1次安保闘争を思想的に指導したが、1960年後半全共闘学園闘争のノンセクトラジカル学生から背を向けられて大衆政治運動から引退した。アカデミックな論文以外の主要著書には「日本政治思想史研究」1952、「日本の思想」1961、「現代政治の思想と行動」1964、「戦中と戦後の間」1976、「文明論の概略を読む」1986、「忠誠と反逆」1992、「丸山真男著作集全16巻」1997、「丸山真男講義録全7巻」2000 などがある。丸山真男(1914年ー1996年)は肝臓がんで奇しくも1996年8月15日(終戦記念日)に亡くなった。いまやエリート、インテリ、知識人とか文化人という言葉は死語になったようだが、そんな言葉が輝いていた時代があった。
加藤周一氏は旧制第一高等学校を経て、1943年東京大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ、文学に関する評論、小説を執筆。新定型詩運動を進める。1947年、中村真一郎・福永武彦らとの共著「1946 文学的考察」を発表し、注目される。また、同年、「近代文学」の同人となる。1951年からは、医学留学生としてフランスに渡り医学研究に従事する一方で、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けている。『雑種文化―日本の小さな希望』で名を知られ、『読書術』はベストセラー、半生を振り返った『羊の歌』は岩波新書のロングセラーである。1980年に『日本文学史序説 上・下』で大佛次郎賞、1993年に朝日賞をそれぞれ受賞。「岩波文化人」の代表格に挙げられ、九条の会の呼びかけ人の一人。その為かいわゆる進歩的文化人の一人にも挙げられる。専門は血液学。斉藤茂吉並の医者で文学者という怪人。

日本の近代化にあたって、社会と文化に大きな影響を与えた西洋文物の翻訳について、何をどう翻訳したかのか。それを支えた江戸時代からの文化の伝統や明治政府の近代化要請を碩学の二人が語る。本書は1991年刊行の「日本近代思想体系「翻訳の思想」編集で為された二人の貴重な問答集である。丸山が体の調子を崩したため、加藤が数回にわたって丸山を訪問して意見を求めた。そのときの問答のテープから本書が起された。本書の編集作業の途中で丸山氏は逝去されたが、既に最終稿に丸山の手が入っていたので、加藤の点検をへて刊行にいたった。加藤の質問は主として翻訳に関する問題であったが話の内容は翻訳を超えて日本の近代化に関する貴重な意見交換となっていた。明治初期の翻訳という話題は同時的にみれば日本の近代化の過程と切り離すことは出来ない。西欧文化の猛烈な摂取は日本の独立と近代化にとって喫緊の問題であった。また近代化は根無し草のように移植できるものでもない。前段階としても徳川幕府時代の文化の成熟なしには功罪あわせて遂行不可能であった。あの驚くべき短い時間に殆どの分野にわたって高度に洗練された翻訳を成し遂げたことは、言語学的手段と知的能力がなければならない。徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味では翻訳文化であった。その経験が明治の西欧文献からの大掛かりな翻訳を可能徒し近代日本を作り出した。翻訳文化は新語、造語、合成語を駆使して行う創造行為でもある。翻訳文化はその国の文化的自立を妨げるものではない。むしろ文化的自立を促した。常に外来文化の自国文化の伝統による変容であるからだ。しかし外国語からの日本語への翻訳は文化的一方通行となり近代日本をも特徴つけた。文化的一方通行は国際社会での孤立をまねき、それに反発することが戦前の軍事力への依存と戦後の経済力への依存であった。いずれにせよ円滑な国際コミュニケーションが育ちにくい環境であった。明治の翻訳主義はこの点からの反省が求められる。

本書の内容は極めて簡潔で且つ分散的、技術的であって、思想を連綿と綴ってゆく性格のものではない。明治初期の賢人達の苦労話に花が咲いたらいい。とはいうものの、簡単に内容を紹介する。加藤氏は論点を質問し、丸山氏が答え討論する形式である。従って本書の内容は丸山氏の考えを主として紹介していることになるが、一部明確には分別しないが加藤氏の考えも入っていることは了解されたい。

T 翻訳文化の到来

日本の幕末を大きく動かしたのは、外国船による開港要求と隣の中国でのアヘン戦争であった。それまでは幕府の鎖国政策で海外のことは何も情報がなかった。したがって対処しようがなかったのである。日本の植民地化の可能性もあった。日本の武士階級の支配層は急に慌てふためいて尊皇攘夷から「早い変わり身」で外国文化の摂取に動いた。尊皇攘夷の薩長がその急先鋒になって英国から軍事・産業技術を学んだ。幸いなことに19世紀後半はクリミヤ戦争とアメリカの南北戦争によって、西欧列強は日本どころではなくなったので、かろうじて独立を保ちつつ明治維新を遂行できた。そして欧米視察の岩倉使節団を繰り出すことになって多数の留学生を西洋に送った。この驚くべき変わり身に速さは日本人論でいつも議論されることだが、武士が支配階級であったことが実践的に優れた理由で、もし中国のように士太夫(文治官僚)であったらそう機敏な反応は出来なかったであろう。江戸時代の儒家文化は中国文化の翻訳者であったし、吉宗が1720年に蛮書の禁を解いたことも幸いした。蘭学が興って西欧文明の翻訳が始まっていたのである。儒家の荻生徂徠の時代は、江戸時代を通じての徂徠、宣長、真淵、契沖といった最高の知識人たちが異文化の存在を意識した時代であった。江戸時代は数百の藩体制で、お国ごとに方言がひどくとても話が通じることは難しかった。そこで明治初期に英語を国語にしようという意見があったが、自由民権運動の闘士馬場辰猪は「日本で英語を採用したらどうなる。上流階級と下流階級では全く言葉が違うよう成ってしまう」と反対した。つまりインドのように支配階級が英語を話し、下層階級は土俗語を話すことが階級断絶になってしまうことを彼は知っていたようだ。日本語を統一する方向で文化輸入が始まった。そこで翻訳主義になるのである。

U 何を、どう、翻訳したか

明治20年ごろまでの翻訳(明治政府の翻訳局)では第一に歴史書が多い。言語学的アプローチ、文化地理学的アプローチ、人類学的アプローチなど色々有ったはずだが、各国発展の理由を歴史的に見たかったのだろう。日本の儒家は実証主義的に歴史中心であった。形而上学的、常なるもの、本質的なものへの憧れはなかった。「万国史」、「英国開化史」、「ヨーロッパ文明史」、「ローマ盛衰記」などが翻訳された。論理用語としての数の表し方は日本人はきわめて不明瞭であった。単数、複数の区別が出来ないかあえてしないのである。したがって個人の権利と民権の区別もない。民権には人権と参政権が混じって訳されている。今から考えると政治的な用語は極めて曖昧に個人を無視して翻訳してきたようだ。翻訳も政治的行為なのだ。自由から切り離された平等と、人権から切り離された民権ができあがった。日本人には平等主義は「一君万民」ということになれていたからだ。論理的な「なぜなら」とか「もし・・・ならこうなる」という因果論も難航したようだ。原因・結果ということは福沢諭吉によるもので、それまでは仏教の因果応報しかなかったのだから。排中律や論理的思考は比較的に日本人は得意ではなかったようだ。公と私の区別も曖昧である。徂徠から太宰春台を通って物理と道理を区別する考えの流れを汲んで、西周が出てくる。哲学用語は西周の造語能力によるところ大であった。「権利」、「義務」、「動産」、「不動産」、「民権」、「演説」、「賛成」、「版権」などという法律用語も造語である。日本人は大量のテクニカルタームを漢字で造語した。この成果は現在中国でそのまま採用されている。これも国際貢献の一つだろう。誤訳が社会にすごく影響を与えた例として「社会平衡論」を「社会平権論」と訳して自由民権運動に貢献した。

V 万国公法をめぐって

幕末のベストセラーにホイートンの「万国公法」(幕府開成所訳)と福沢諭吉の「西洋事情」がある。坂本竜馬の亀山社中が船舶衝突事故でこの「万国公法」を楯にとって外国と渡り合ったのは有名な話である。5か条の御誓文も「万国公法」から一文を取っている。国家間の関係を規律するのが国際公法、違った国の民法や刑法を調整するのが国際私法といって区別しているのが面白い。日本民法は始めナポレオン法典に拠っていたが、明治の終わりにはドイツ民法に切り替わった。英米の民法が入ったのは戦後のことである。この「万国公法」には英語版、中国訳版、日本語訳版があってとくに中国語と日本語の訳では対比するとお国柄が違って興味がつきない。日本人には法律と法意識の食い違いがある。裁判を嫌がるのは日本人の特徴だ。法律と倫理を混同して、道徳的に葬ってしまうのも日本の特徴だ。国体という言葉は中国では国の本体という意味で、日本では主権者たる天皇への服従という意味になる。天皇機関説の美濃部達吉は「国体」を追放して「政体」と一元化した。国体を倫理的に捉えるのが水戸学以来の為政者の伝統である。

W 社会・文化に与えた影響

太政官、元老院の翻訳局がどんな本を翻訳したかといえば、1に軍事関係、兵法、2に科学技術関係、特に化学、医学が多い。3に法律関係、そして4に文藝芸術関係である。美術は芸術というより技術として考えられた。当時の日本人には世界観はなかった。世界が全て動いているというという認識は福沢諭吉の方法論的にニュートン力学からである。明治10年ごろには早くも進化論が訳された。福沢は進歩の思想として、中江兆民は社会進化論として受け取った。福沢諭吉の科学観を正確で、科学については技術と峻別している。技術の基礎に当るのが科学と捉え、実験への着眼は実用主義から来ている。福沢らの知識人に影響を与えた翻訳書は、社会体制ではトクヴィルのデモクラシーという概念、バジョットの「英国憲政論」は福沢に「帝室論」を書かせ君主と国会を分けて帝政での議会政治を基礎つけた。モンテスキューの「法の精神」などもよく読まれた。明治10年ごろ共産主義や社会主義の文献も翻訳されている。後進国日本にしては早熟すぎた。加藤弘之や福沢諭吉も紹介した。


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