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竹内洋著 「丸山真男の時代ー大学・知識人・ジャーナリズム」

 中公新書(2005年11月)

輝ける知識人 丸山真男の社会学的分析

戦後の市民による政治参加に圧倒的な影響力を行使した丸山真男。戦前の右翼の運動に深い傷と反発力を得て、戦後は岩波書店派知識人として左翼運動の中心的存在となった。60年第1次安保闘争を思想的に指導したが、1960年後半全共闘学園闘争のノンセクトラジカル学生から背を向けられて大衆政治運動から引退した。この大衆市民運動のカリスマ的存在丸山真男の歴史的・社会的位置を解き明かすことが本書の狙いである。著者竹内洋氏は教育社会学・歴史社会学という分野の社会学者である。従って本書は丸山真男の著書を考証したり日本政治思想史を展開するものではない。あくまで丸山真男を社会の出来事の文脈の中で、その位置関係を分析・考察するいわば「丸山真男社会学」といえる。丸山真男の思想には深入りしないで、丸山真男という存在が可能となった大学・知識人・ジャーナリズムの世界の社会的歴史的関係を分析するものである。

もう丸山真男をご存じない方も多くなったと思われる。敗戦によって日本国民は国体から解放され主権在民を獲得したという「8・15革命論」を唱えた丸山真男(1914年ー1996年)は肝臓がんで奇しくも1996年8月15日(終戦記念日)に亡くなった。いまやエリート、インテリ、知識人とか文化人という言葉は死語になったようだが、そんな言葉が輝いていた時代があった。それは戦後の混乱期から大衆の政治参加が可能となった60年安保闘争をはさむ20年ほどの期間である。このとき東京大学法学部教授丸山真男は将に輝ける知識人であった。フランスのルモンド紙は丸山の逝去に際して「政治学の領域に人間の行為という人文的考察を加え、倫理的配慮と強く結びついた進歩主義の代表的な理論家であった。丸山学派という新しい潮流では政治に参加する知識人の世代が形成された。」という弔文を送った。丸山の世に出た論文が「超国家主義の論理と心理」であった。暗い谷間の1930年代(東京大学法学部助教授時代)と敗戦までが丸山の学問の原点である。1950年代日本の学生に圧倒的な影響を与えたのはサルトルと丸山真男であった。この時代に学生生活を送って丸山真男に何かしら影響を受けた人を丸山世代という。私はこの時代は高校生であったので、丸山世代ではない。丸山第二世代というべきか、私の学生時代でも「日本の思想」とか「日本政治思想史」などを読むことがインテリの証明であった。当時の知識人のあるべき姿は「普遍的知識人」であって啓蒙的(教養主義)全人的教育が重んじられていたが、最近は経済技術や特定専門分野しか興味を持たない「特定領域の知識人」に変っている。丸山は境界領域の「普遍的知識人」であった。丸山を考えることは戦後思想を考えることと同時に、戦後の知識人とその世界を考えることであるような、レファレンス(参照)知識人なのだ。

戦後民主主義と大衆啓蒙路線

60年安保闘争は、岩波文化人丸山真男の絶頂期であった。大衆を啓蒙し市民主義を高揚した功績は大といわざるを得ない。戦後左翼運動の最も輝ける時代であった。戦争中は蓑田胸喜らの「帝大粛清運動」が吹き荒れ国体の呪文で多くの教授が排斥されたが、それは大正民主義の発達で大衆の動向が政治に反映されそうになった時流を軍部がうまく利用して、国体運動と軍部ファッシズムに結びつけて大衆を知識人から切り離すことに成功した。大学教授もその国体運動に多くが参加し、少数の著名な大学知識人は切り離されて孤立し沈黙した(美濃部達吉、西田幾多郎、田中耕太郎、河合栄太郎、三木清など)。戦後、丸山は戦争の担い手となった知識人を擬似インテリと呼んで、知識人、擬似インテリ、大衆という三層論を展開した。1946年丸山のデビュー作である「超国家主義の論理と心理」、1947年の「日本ファッシズムの思想と運動」で戦前の思想構造を解析し鮮烈な印象を読書子に与えた。朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約を経て日本は反共の砦の役割を米国から期待され、丸山はこの動きに過敏に反応して、1956年「戦争責任の盲点」を著し、天皇と共産党の戦争責任を追及した。一方左翼運動は当時共産党の支配下にあり、1950年コミンフォルムが日本共産党の平和路線を批判したことを受けて日本共産党は分裂、武装方針を打ち出したが1956年六全協で自己批判して平和路線の運動に回帰した。この自己批判は学生運動に大混乱をもたらした。小説「されどわれらが日々」(柴田翔)はその六全協ショックを描いたものである。そんな共産党不信の風潮の中で、反体制気分に傾きやすい青年知識人に岩波書店と丸山ら東大教授が「共産党以外にも進歩と社会改革の道がある可能性」を鮮やかに打ち出した。これが知識人による大衆インテリの直接的掌握の道を切り開いたという歴史的意義となる。日本社会は戦後の反共路線に対して極めて冷静で、米国のマッカーシズムやファッシズムに陥らなかったのは、1955年以降の経済成長に全力投球していたからである。「もはや戦後ではない」という1956年度経済白書の言葉もその自信を裏付ける。貧困がファッシズムの誘因であって、高度消費社会をめざした社会は右翼的言動には乗らなかったのである。左翼運動も下火になりかけていた時に1958年「おいこら警察」反対というキャッチフレーズで「警職法改悪反対国民会議」運動に火がついた。これに勝利した野党と大衆運動は1959年「安保改定阻止国民会議」を結成して大衆運動は進んだ。これに火をつけたのが全学連主流派(反共産党派)の跳ね上がり街頭デモ行動であった(共産主義者同盟ブント 唐牛健太郎)。1960年国会突入事件や羽田空港ハガティー事件の街頭ラジカリズムと普及してきたテレビ放送が完全に運動を劇場化した。東大学生樺美智子が死亡するなど大騒乱が日本を襲ったようであった。新安保条約が国会を通過してから大衆運動は火が消えてゆくに退潮した。しかし丸山にとってはジャーナリズムと大衆運動を通じて大衆のインテリ化は、高等教育の大衆化や教養主義に助けられて成功したように見えた。

丸山真男の位置と知的特権階級

丸山真男とはいったい思想史という分野においてどのようなスタンスで臨んだのだろうか、その秘密に迫ってみよう。先に述べたように丸山真男の衝撃的なデビューは1946年「超国家主義の論理と心理」にあった。これは法学部教授田中耕太郎の勧めと岩波書店の雑誌「世界」のバックアップがあって生まれたのである。この論文の斬新さは日本思想をマルクス主義のような経済からではなく、精神構造から社会心理学的な手法で分析したことにある。政治評論家の藤原弘達氏や萩原信寿氏らはこの論文で衝撃的な影響を受けたと言われる。しかしながら丸山はジャーナリズムには距離を置いて以後殆ど書かなかった。専らアカデミズムに位置するという慎重さを保った。丸山の知名度を上げたのは1956年「現代政治の思想と行動」によって、1960年代に最も多くの読者がついたようだ。丸山の知名度は東京大学教授というポジション効果によるところが大きい。丸山の学問的位置は法学部の中でも最も文学に近い政治思想(哲学に近い位置)を扱っており、法学と文学の境界領域に位置した。丸山はいつも西洋思想から日本政治思想を見るというスタンスを取り続けたが、儒教思想の研究などは文学部から見ると実証主義から遠く大風呂敷を広げていると見られたようだ。丸山はアカデミズム界とジャーナリズム界の象徴を互いに持ち合わせた鵺的存在で、社会現象についての卓抜なネイミングとメタファーによって怪しげな立場であるが双方の尊敬を集められる位置にいた。つまり丸山は仲介者機能(西欧と日本、政治と文学)にあり、何でも知っている学者である。従って丸山を批判するには、包括的批判は丸山以上の膨大な雑学知識を必要とするので難しく、専門分野研究者からの批判が有効であった。中国文学の吉川幸次郎、日本近世史の伊藤多三郎、政治学の山口定、仏教史の梅原猛、哲学者の加藤尚武、中国哲学史の加地伸行、在野サブカルチャーの吉本隆明などから丸山批判が出たが、丸山は一切回答せず知的特権階級の優越性と大衆的人気に支えられて独占的地位を確保した。

全共闘ノンセクトラジカルの反乱と丸山真男の退場

1970年前後から学生運動は全学連からベトナム反戦運動(小田実、開高健、本田勝一)を経て全共闘ノンセクトラジカルへ移行した。セクトは赤軍派となって浅間山荘事件、企業爆破事件やハイジャック事件などへ展開しアラブ各国で活動した。この全共闘時代に丸山正男は急速にカリスマ性を失墜した。ジャーナリス界から批判が相次ぎ反丸山感情が大衆インテリに広がった。吉本隆明、福田恒存、藤原弘達らが正面から丸山真男の政治学を解剖し始めた。日大全共闘に始まる学園紛争は大衆団交(人民裁判形式)という形で瞬く間に全国へ広がった。これは戦前の右翼による進歩的教授の排斥運動に似た権威否定運動であった。将来学生が決して特権階級になれるわけではないとわかった時点での、大衆的権力否定運動であった。丸山らが所属する特権的知識人階級を打破しようとするのが目的である。丸山は1969年に大衆団交で三回糾弾され、発言拒否を続けたが1972年東京大学教授を辞任した。これは戦前の右翼運動というよりは中国の文化大革命における知識人追及大会に酷似するというより、本質的に同じ運動であった。大学が団塊世代とともに大衆化し、特権的知識階級(官僚や学者)でなくなったということだ。1970年代学園紛争は大学における最後の闘争になって後学生は大衆に同化され、以降大学での大衆運動は消滅した。一人ひとりが砂漠の砂粒になって拡散し、集中することはなくなった。後は無気力と個人化の世代に変った。学園紛争が終焉すると日本経済の世界的成功に酔って、経済大国の自負と重なって日本回帰が始まった。自賛的日本文化論がさまざまなジャーナリスト界をにぎわせた。山本七平氏「ユダヤ人と日本人」などが火をつけた。丸山真男氏にとってこの日本論は戦前から執拗に繰り返された日本固有の歴史意識に聞こえて、丸山は絶望或いは失望した。

大学・知識人・ジャーナリズムの知的社会の変容

丸山真男が抱いた知識人の像は最初からバイアスがかかっていたが、団塊の世代1970年以降に知的世界が大きく変容した。それとともに丸山の没落が決定つけられた。戦前の知識人には国家主義者のほうが多く存在していた(大川周明、安岡正篤など)。戦前の病理を学んで知識人階層によって戦前を復活させないという丸山戦略は最初から歪んでいた。戦後も保守的知識人から林房雄のような「大東亜戦争肯定論」が出る始末だった。丸山の寄って起つ特権的知識人像ははたして確かにあったのだろうか。丸山には在野知識人を軽蔑する「特権意識」が強く、又ジャーナリズムという「物書き」には距離を置いていた。学生は1970年代に大衆化していたにもかかわらず、丸山は大学教授はエリートだと言う理念化した意識を持っていたようだが、いまや大学教授プロレタリアートである。1970年代は大学、ジャーナリズム、専門的知識人(法律、経済、科学)は別々の階層に属していたが、1990年代にはそれは複層して重なり合うようにさえなっている。純粋な知識人という概念自体が無内容になり、学者もテレビタレント化したようだ。恐るべき大衆化である。アカデミズムは死語になった。そして丸山真男は忘られてゆく。


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