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丸山真男著  「日本の思想」

 岩波新書(1961年11月)


第1次安保闘争の知識人リーダー丸山真男氏による日本人の内面から迫る思想史

岩波書店は多くの岩波文化人を育て世に送った。岩波文化の本質は体制反対派に属するようだが、日本共産党の左翼陣営でもない。つまり日本の知識人や若者を当時の共産圏文化から守るべき防波堤として、体制側の懐の深いメデイア政策によって、一応反体制的知的階層を代表するが共産圏とは別のやり方でもって日本政府の改革が可能なことを示すために立てられた灯台であった。その旗手が当時の第1次安保闘争の知識人リーダたる丸山真男東大教授であった。

この本の内容はなんと約50年前に書かれている。ある意味では日本文化・文明論の魁を成すものである。かってはやった日本文化論や日本人論は底の浅い、支離滅裂の日本賛美論に流れやすいのだが、丸山真男氏による「日本の思想」はさすが手堅い日本思想史になっている。ただ本書は短編の論文の寄せ集めなので、主に明治以降の思想しか扱っていない。つまり天皇制の拠って来るところが中心である。そして日本人には思想らしきものは皆無であるというのが結論である。なぜ日本の政治思想が無なのかという理由を丸山氏は日本人の内面からたどられたのが本書の内容である。これに対して哲学者梅原猛氏は日本の仏教史からこの丸山氏の結論に反論して日本思想の根源に迫る著作を多くなされた。丸山真男氏は政冶の観点からの思想史であり、梅原氏は仏教哲学からの思想史であるので、「日本人は思想したか」という設定では梅原氏のほうが深い研究をなされたようだが、政冶思想という観点では西洋啓蒙思想の比較において丸山氏の言うこと(日本人の思想は空虚)のほうが実際的である。

T 日本の思想・・・・日本思想の無構造性、国体と無責任性

わが国の思想論や精神論は江戸の国学や津田左右吉や和辻哲郎や九鬼周造の著作にも現れたが、日本思想史の包括的な研究は著しく貧弱であったという見解が本書の丸山氏の出発点である。自己を歴史的に位置ずけるような中核的あるいは座標軸にあたる思想的伝統がついに我国には形成されなかった。西洋にはギリシャ哲学とキリスト教の伝統が2千年以上続いて、それを発展させまたそれに対抗する形でさまざまな思想が形成された。西欧では綿々たる思想の伝統と構造が培われた。しかるに昔のことはいざおいても日本の近代化の思想構造の蓄積を妨げる契機があったことは確かである。明治以来日本に輸入された思想の前にあった伝統的思想とは、仏教的、儒教的、神道シャーマニズム的なものであるが、日本の集権的国家形成の前にあまりに無力で使用に耐えなかったので歴史の後ろに断片的に沈殿した。
明治以来の日本思想の特徴の一つには思想の無構造性と雑居性が上がられる。思想の葛藤の上に立つ統一や関連付けの構造がなく、便利性から来る西欧思想の圧倒的浸透のまえに伝統的思想は沈黙し忘却された。有用な考えは何でも寛容して雑居した。しかしキリスト教やマルクス主義という原理主義思想には猛烈にイデオロギー的に曝露批判する。無構造性思想の典型は殆ど空に近い神道をイデオロギー拒否の手段として担ぎ出したことである。
日本思想の第二の特徴は明治21年に制定された欽定憲法による天皇制と国体にある。国家秩序の中核としての天皇は同時に精神的機軸として機能する国体という名の非宗教的宗教の魔術的力である。そこでは臣民の無限責任によって支えられる国体は反国体に対しては峻烈な権力体として作用するが、実態は誰が政策決定者なのかは容易に姿が見えない。輔弼の臣が天皇の心を推察し政策を具体化するが、誰一人として政策の責任者としての自覚は持たない。
日本思想の第三の特徴は明治維新の革命主体が一元化されなかったことによって多元的な思想伝統が生まれ、元老や重臣という超憲法的存在によってしか国会意志が一元化しないという政策決定者の無責任体制にある。明治国家形成に当っても官僚という実施部隊は形成されたが、貴族階級や商人組織という社会的抵抗勢力(中間的階層)が脆弱で、国家権力は燎原の野を行くように無抵抗のまま進むことが出来た。天皇性が対応する社会的存在は唯一村落共同体に過ぎなかった。部落共同体の核は家族で個人ではなく水平の結合体であった。したがってその共同体の中では人格的主体や責任主体の形成も不十分で天皇制の前には対抗しうる主体はついに形成されなかった。現代日本に個人主義が存在しないのもいまだにその流れを引きずっているからだ。

U 近代日本の思想と文学・・・・死産に終わったプロレタリア文学

昭和9年といえば「文芸復興」という名で文学と科学と政治の三角関係としてプロレタリア文学理論が議論された。明治以来思想の開放が国力の全体からして問題にならないほど弱かった。その中で天皇制の虚構を鋭く追及した文学者に例外的に森鴎外が存在する。天皇制絶対権力は封建社会の領主絶対権力への批判で暗喩されおり、明治政府の忠君愛国の精神は封建社会の武士の倫理を基礎としている。権力者は変わったが、支配される側の個人はいつの世も悲惨の一語である。つまり鴎外は自分の課題を追求する意図を隠蔽するためにいわば隠れ蓑として実録を使った。
第一次大戦ごの労働運動や社会運動の勃興に引き続いてマルクス主義とコミュニズムが文学界を襲った。日本の文学が論理的な構造を持った思想という言う物をまじめに取り扱いだしたのはマルクス主義文学の輸入から始まった。横光利一、安部知二、伊東整、正宗白鳥らは驚きをもって当惑したようだ。小林秀雄は激しい反マルクス主義文学批評家として「思想の仮面」(意匠)をかぶった文学に抵抗したが、マルクス・ヘーゲルの前には屈服せざるを得なかった。しかしながら日中戦争の開始とともに国体の前に文学は押しつぶされ翼賛会に文学は集約され、プロレタリア文学は治安維持法で弾圧され壊滅した。すべてが消化不良のままに死産したのが政冶と科学と文学の関係である。ここに日本文学の悲劇がある。

V 思想のあり方・・・・・日本の学問や社会の蛸壺的組織

19世紀前半の西欧の思想はヘーゲルなどに代表される包括的総合的な学問体系をとったが、スペンサーを分水嶺として19世紀末よりは個別科学の専門化が進んだ。明治維新以来日本画が輸入した思想は将にこの個別化・専門化した学問であった。学問相互が連携せず共通の根っこを共有しない所謂蛸壺型で進化発展した。従って日本の組織は共通の基盤のない一つ一つの仲間集団を形成して相互の議論はなかった。これが日本のアカデミックと官僚組織を特徴付けた。国民意識の統一を確保したのが戦前では天皇制であり教育勅語・軍隊で「共有」の日本人が形成された。戦後はマスコミが国民意識の画一化・平均化に寄与?してきたが、これには世論操作という役割があった。

W 「である」ことと「する」こと・・・・身分社会から民主社会へ

憲法に定められたさまざまな権利は与えられたものとして「である論理」は、封建時代の身分制度と同じである。固定的な状態は「である論理」であり、民主主義や自由はであろうと「する論理」によってのみ守られるものだ。近代社会を特徴つける機能集団(会社・政党・組合・団体など)は本来的に「すること」の原理に基づいている。経済組織では経営をすることであり、政治では指導者は政策を実行すること、人民は指導者のサービスや成果を監視するものでなければならない。政治は政治家の領分であると思うのは「である論理」政冶観である。能動的に働きかけることによって健全な社会が出来上がるのだろう。


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