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丸山真男著 「文明論之概略」を読む 
岩波新書 (1986年11月  第25版2012年 ) 上・中・下 全3冊

福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと

福沢諭吉著 「文明論之概略」(明治8年初版)は言うまでもなく、慶応義塾を創設した旧中津藩士福沢諭吉の生涯の傑作と称せられる。同時期に福沢は「学問のすすめ」を著して、明治初期の文明開化の火付け役となったが、「学問のすすめ」は当初は第1章に相当する短いパンフレット(小冊子)のようなものであり、予期せぬ好評のため次々と新しい小冊子を発行し、後日新ためて「学問のすすめ」という1冊の本になったといういきさつがある。それに対して「文明論の概略」は最初から系統だてて論を進める論文として発刊された。福沢諭吉の全著作では、時事論説が圧倒的に多いなかで、読み応えのある「文明論之概略」のような系統だった思想関係の本はこれ以外にはない。岩波文庫版(1962年改版 1986年46版)の「文明論之概略」は約300頁の分量であるが、この丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書(黄版)(1986年刊)全3冊では合計約1000頁に分量となっている。丸山真男著 「文明論之概略」を読むにおいては、福沢諭吉著「文明論之概略」の全文を引用しているわけではなく、おそらく引用部分は1/3にも満たないであろうと思われるので、丸山真男氏の地の文が本書の約2/3を占めている。福沢諭吉著「文明論之概略」(岩波文庫 1962年改版 1986年第48版)の末に、有名な歴史学者津田左右吉氏の解題(約30頁)が添えられており、丸山真男氏の注釈に比べてみる価値があるので、以下長くなるが概略を掲載した。なお津田 左右吉(1873年 - 1961年)氏は、20世紀前半の日本史学者で、『日本書紀』『古事記』を近代的な史料批判の観点から研究したことで知られている。神話(皇国史観)を否定する「津田史観」は戦前は不敬罪で排斥されたが、第二次世界大戦後の歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となった。津田自身は大正デモクラシーの旗手であった美濃部達吉の「天皇機関説」と同じく、立憲君主制天皇論者であったが、戦前は偏狭な国体論者の攻撃を受けたのである。津田左右吉の福沢の文明論之概略のまとめは以下である。
この書は「文明」という言葉に、福沢の「西洋事情」で述べられている武備・物の意味と、「シヴィリゼーション」という文運の進んだ状態という2つの意味を持たせている。後者の概念は日本には存在しなかった。後者の「文明」にはさらに2つの用い方があって、一つは民族生活一般の状態の事を言い、2つはより進んだ西欧の文明の事をさす。そこで福沢は西欧の文明を学ぶことによって日本を「文明化」しなければならないということで本書を書いたと思われる。ところが日本の従来の文明と西欧の文明は著しく性質が異なっていた。西欧の文明を学ぶといっても日本人は頭の中で大混乱を生じた。日本人が西欧人になれるわけでもないので、福沢は西欧文明を咀嚼し精錬して物にして行かなければならないと考えた。福沢は高踏的には説かないし、決して難しい表現を好まない。何事も学説としてよりは常識的に話すことを心がけている。だから卑近な例で考え方の類型を示し、本論に入るという講話的な話し方をする。理解は合理的、立証的ばかりで進むものではなく、特に情に頼るところが大きかった。人の「腑に落とす」ため、巧妙な独特な言い回しをする。現在ではそのようなことは必要ないが、当時の人の心の機微に通じていたというべきであろう。福沢は智と徳が文明の2つの要件であるというが、智のほうに重点を置いて、文明の根本は人の精神の働きの活発であること(才気煥発)と考えた。西欧近代文明は人・物に対する認識論と自然科学の発達から導かれた。なぜ日本で十全な発達をしなかったかというと、それは神仏や儒の道徳観念が人の天性を抑圧していたからであると福沢は考えた。そこで智力がはばたくために自由の精神が必要になる。人事も自然界と同じく、ある規則(定則)によって動くものだとすれば、ガリレオ・ニュートンとデカルト・アダムスミスの働きは偉大であった。こうした少数の智者のレベルに多数の人を引き上げることにより文明が進歩する。そこに啓蒙者・教育者としての福沢の歴史的位置があるのである。徳については、個人として独立不羈であると同時に、社会道徳として福沢は権力(国家、官)に対する卑屈な態度や儒教道徳を鋭く攻撃したのである。

本書において福沢が用意した思想的な論点を津田氏は次の6つにまとめている。
@ 現在の西欧の文明と過去の日本の文明を歴史的に比較することで、軽薄な西欧崇拝や頑迷な西欧排斥(尊王攘夷と同じ構造)を排して、日本が西欧文明を学び取る際の注意点もきちんと心がけていた点である。
A 何事についても政治に関係させて考えていることである。とくに「権力偏重」が中国と日本の文明開化を妨げた最大の障碍であった点である。本書の主題ではないので省くが、政府の専制を排する福沢が民選議院開設論に対してとった態度は甚だ複雑で、どのような政治体制を理想と考えていたかは紆余曲折している。
B 権力に服せず、人民が独自にその働きを示すべきという点である。独立不羈の精神もここにある。福沢の立場として学問も政府によって行われるのではなく、私立で行うべきだという主張である。「学問のすすめ」にも書かれているように「学者は官に仕えるより独自にその仕事をせよ」という。
C 協和を尊ぶ精神である。論が分かれるのは当然であるが、議論を尽くせという主張である。福沢は実力行使や反抗・怨みを嫌い、一命を賭けて議論を尽くせという。民選議院もその一つであるが、人民は政府は専制であるといい、政府は人民は無智であるといって闘争することは非とした。
D 今日の憂は外国交際にあるとして、国民が協力して国家の独立を守る事を強く主張した。その際政府が独立を守るのは当然ながら、人民の智力を養わなければ独立を全うすることはできないという。植民地化を畏れ、不平等条約改正を喫緊の課題とした当時の国際情勢を反映している。これは「学問のすすめ」においても力説している。
E 西欧文明を学ぶことを主張しながら、宗教に重きを置かない態度を主張している。西欧文明を学んでもキリスト教に改宗する必要はないということである。』
次に福沢の文明の歴史観を見ると、津田氏は次の4つの特徴があるという。
@ 世の中は進歩する、そして進歩は無限であるという楽観論に支えられている。
A 文明を進める力は、君主・英雄の心理行動ではなく、まして気まぐれではなく、一般人民の智力の働きであるとする啓蒙思想に導かれている。
B 文明の進め方に関する人々の態度について、暴力を否定した主義主張の平和共存主義を理想としていた。文明は古人の遺物の上に立って改良を加える(進歩)ことであり、ある意味で伝統や保守主義が残ることをよしとする漸次的改良主義に通じる。
C この書は歴史を吟味してその進化法則を探るものではない。』
歴史の進行を因果の連鎖(弁証法)とみるか、歴史を利に動く物質的欲望(経済学)から説明する唯物史観とみるか、福沢は富を尊重しているが人の生活は私利のみではないとするアダムススミスの「道徳感情論」に近いようだ。むろんキリスト教倫理と儒教倫理には隔絶した差異が存在する。ところで福沢はこれらの文明史観を誰から勉強したのであろうかという文献根拠を探る興味が湧くのは当然である。福沢が独立に思いつくはずはなく、必ず福沢(誰でもだが)の思想にはネタがある。当時の先達の文明史観としては、フランスのギゾーのヨーロッパ文明史、英国のバックルの英国文明史があった。福沢は「文明論之概略」の執筆と並行してギゾーのヨーロッパ文明史の翻訳を試みている。本書の各所にギゾーを引用している。第3章に文明とは人の生活に一般的状態の事であるとするギゾーの説をそのまま採用している。しかしギゾーが言う社会と個人の関係については考察していない。人民個人の考えと知力が充実すれが自動的に文明が進歩するという楽観主義は短絡的すぎないだろうか。福沢の考えはいわゆる観念論に近い。文明の進歩は徳より智の働きによることが多いという福沢の主張はバックルに基づいている。バックルは智徳の進歩は人の天性によるものではなく、環境(自然現象)の力であるというが、福沢はこれを無視している。人事の定則と同じように歴史の定則には福沢は関心がなかったようだ。とにかく福沢は歴史そのものには素人であり、文明に関する部分をギゾー、バックルから引いているようだ。世を渡る術として(経世の書)西欧文明のすごさを強調しているのである。また独立不羈の精神はミルの「自由論」から得ているようであり、中国文明に関する見解もそこから得ているようだ。

さて本書丸山真男著「文明論之概略」を読むに戻ろう。本書のまえがきに本書が成った経緯が書かれている。丸山氏は「経典の注釈書」の積りで解説を試みたという。そして丸山氏は「原典を必ず目の前において読んでいただきたい。原典をできるなら黙読よりは音読(朗読)してほしい。その方が福沢諭吉の文章のリズムと息吹がよく感得できるからである。」という。私も「文明論之概略」を朗読して読み始めたのだが、家内が声に驚いて何があったのかと見に来るので朗読はやめた。丸山氏は原典から福沢の思想の命題部分だけを引用したという。もちろん本書は「福沢諭吉の研究」ではない。明治8年前後の福沢の思想を垣間見るに過ぎないのである。世間でよく言われるように福沢は明治15年頃から微妙に論点が動いているらしい(これを転向という人もいる)。しかし本書だけではそれを論じることは不可能であるので、本書はそれは問題としない。「文明論之概略」はこの明治8年という時代の福沢が世に問うた最高傑作のひとつであり、福沢の気力と思索力が最も充実した著作であることに決して異論がないのである。丸山はこの書を古典としてみて、その書と以降の日本の歩んだ道との相克は時事評論となるので避けて通るというのである。服部之総は「福沢惚れによって福沢の真実には到底到達できない」といったが、丸山は「批判的なまなざしでは見えない真実もある」といって、自身の「福沢惚れ」を宣言するのである。なお服部 之総(1901年 - 1956年)氏は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)である。本書は、1978年に岩波書店の伊藤修氏の提案ではじめられた「文明論之概略」の私的な読書会の4年間の録音から起されたという。読書会は8名の参加者の朗読と丸山氏の解説で足掛け4年間(25回)続いたという。伊藤氏が起こした文章に丸山氏が筆を入れて原稿が成り、岩波新書全3冊に成ったのが1986年である。本書の序として「古典からどう学ぶか」は本書とかかわりはなく、1977年9月の雑誌「図書」に寄稿されたものである。福沢諭吉著 「文明論之概略」という古典に臨む心構えのようなものが述べられているので、23頁という短い文章なので要点を示す。古典を読むという行為は、競争して時間内にたくさんの自分にとって有益な情報をえることではない。情報を得ようとすることが目的なら、条件付きで多面性のある表現を特色とする福沢諭吉の文章は混乱を招くだけである。たとえば福沢は民主主義者か国体主義者かという2者択一の設定で読むと、片言をとらえるとどちらの立証にもなる。あくまで文脈で捉えることが必要である。そういう意味で福沢諭吉は必ずしも評判の良くない思想家であるといえる。思想的古典は現代的思潮から見ると、それ以降の歴史展開による欠陥が目立ち、いかにも古色蒼然と見えるかもしれないが、我々が古典を学ぶ理由は自分を現代から隔離し、現代の全体像を距離を置いて観察する目を養うことにあると丸山氏は語る。丸山氏にとって「文明論之概略」は戦前から何度も読んできた古典である。それでもなおステレオタイプ化去れた現代の諸相から、はっと目を醒まされる当事者の現在進行形の気持ちが伝わるのである。歴史的条件とか社会的基盤が現在でははっきりしない古典に直接対面することは、作者と対話することである。幕末・明治維新から欽定憲法制定から民選議会の開始にいたる、明治政府の精神と目的の変容の時代に生きた福沢諭吉という教育・ジャーナリストの悲憤慷慨と心意気を感じられたらそれでいいかもしれない。歴史主義的思考の烙印を押され手垢のついた福沢諭吉諭吉像からしばらくおさらばして、慶応義塾の教室に座ってみましょう。そしたら自分はどう行動したでしょう。

福沢諭吉の古典を読むにあたって、一番大事な事なことはできるだけ先入観を排除することだと丸山氏はいう。福沢は上からの改革論者で「愚民観」を脱し得なかったので、彼の民主主義思想は不完全であったというような予断をまず保留にすることです。現実には幕末から明示初期にかけて、民衆はおそらく言葉に抵抗はありますが「愚民」だったでしょう。清水勲編 「ビゴー日本素描集」 (岩波文庫 1986年)や、清水勲編 「ワーグマン日本素描集」(岩波文庫 1987年)や、アーネスト・サトー著 「一外交官の見た明治維新」上下(岩波文庫 1960年)に文明開化前夜の民衆の風俗、日本社会の冷静な観察が描かれています。また福沢諭吉は近代日本の「脱亜論」(アジアと西欧を対峙し、日本だけはアジア的隷属国家の位置を脱しなければいけないといいながら、アジア諸国を植民地化した理論的支柱)の先駆者だったという予断も見直さなければなりません。そのような福沢への批判は山とありますが、彼にとって未知であったことが私たちには既知であるという歴史的優位点にたって、福沢の限界を指摘することは容易であり卑怯である。そういう先入観を古典に投入すれば、当時の彼に近づくことは不可能になる。次に大事なことは「早呑み込み」の危険性です。人民同権は共和政治であり、共和政治はキリスト教だ、キリスト教は洋学だという憶測を交えた連想による福沢非難が当時からありました。そこで「和魂洋才」という「採長補短主義」が唱えられましたが、福沢はこれを鋭く批判しました。福沢は「文明論之概略」の初めの「議論の本位を定る事」において、価値判断の相対性という命題をいいます。すべての考えは相対的だ、「背に腹を替える」見方をしなければ本当のことは分からないということです。教条的・絶対的価値感から見てゆくと、福沢の言説は多面的でいくつでもレッテルを貼ることができますが、それもすべて重点の置きどころを見極めないからです。片言双句を引用して「彼は…主義者だ」ということで福沢を定義してゆくと、福沢は化け物になります。彼の真意は条件付き(時代と場所)文脈にあります。「全体の文脈」と丸山氏は云いますが、全体を読まないと一章節の意味もわからないのです。「文明論之概略」は第1章から第8章まで、ギゾー、バックルの文明論とミルやトクヴィルらからの引用で成り立っていますが、第9章「日本文明の由来」と第10章「自国の独立を論ず」だけは引用論拠がなく、福沢諭吉の独自な理論展開です。国の文明は独立ができていなければ(西欧によって日本が植民地化されると)意味をなさない、独立を保つには西欧文明を学ぶしかないという切羽詰まった危機感が本書を書く情熱となって表れています。そうした危機感がまさに、一切を包み込む全体論的思考の断念と、相対化の論理を支える本書の中心である。あれほど激しく士道と皇統制度を罵倒しながら、役に立つなら利用すればいいという発言となるのです。危機だからこそ目的と手段の多層性(循環性)に目を配らなければならないというのです。「文明論之概略」を読むにあたって、この書の魅力でもある福沢節に注意が必要です。罵倒、愚弄、嘲笑、挑発、攻撃的言辞は論点を際立たせるための便宜ではあるが、福沢は「言い足りないことより、言い過ぎ」ということで無要の敵を多く作りました。最後に福沢の文章ですが、漢文の素養は時代の致すところですが、現代から見るとわかりにくいくらい不必要な「対句」の繁用があります。無内容な対句と言ってもいいでしょうか。大智と小智などがその典型です。対句にあまり引きずられると、時間を浪費します。

1) 緒言

福沢諭吉著 「文明論之概略」(岩波文庫 1962年改版 1986年第46版)では、明治8年3月25日の日付の入った福沢諭吉記の「緒言」はわずか5頁に満たない。緒言は「文明論とは人の精神発達の議論なり。・・・天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり」で始まります。明治維新の王政一新、廃藩置県で人心の騒乱が激しい。人は2度目の人生を生きているようである。本書の目的は文明の全大論を記述し、日本全国を一新することであると宣言する。ここで丸山氏は緒言の読み方を述べる。「緒言というものはたいていの場合、全体が完成してから後に書かれるものです。・・・だから緒言は最初に読まないで、一応全部を読了したあとにこれをとりあげる。」といって、「文明論之概略」を読むの下巻の最後に「結びー緒言と本書の位置づけ」を持ってくるのである。短い5頁ほどの緒言に丸山は30頁ほどの解説を費やしている。まず文明の定義を福沢はバックルからもってきているという。「人間精神の運動法則の発見が文明史の狙いであり、歴史家は多くの精神を研究する」を受けている。バックルにとっては「文明発達論はつまり文明史論である」という18世紀から19世紀にかけての思潮を背景に持っているのだった。ただ福沢は歴史学者ではないので、文明史一般論についてはあっさり放棄し、幕末以来西欧文明と対峙する日本の置かれた特殊事情のみに注目するのです。西欧文明はまさしく日本人の精神を侵犯し、衝撃を与えた。ペリーの浦賀沖来航は、上古の昔の「儒教・仏教伝来」以来の外国文明の到来を告げた。日本人は激しく動揺し幕末維新の大変革が起きたのです。全く異質な文明が急激に迫ってきたという状況で、日本中は鍋をひっくり返えしたような大騒ぎになった。福沢の眼力は、これは制度や文物の摂取ではなく精神革命の問題であることを見抜きました。激しく進歩する西欧文明はたんに「適用主義」では対応しきれません。福沢は日本民衆の精神を変革するという「創造的自覚」なしには、西欧文明で日本を改革することはできないと悟った。だから福沢の態度の「自己の経験をもって西欧の文明に照らす」の基本形は比較主義、相対主義である。緒言において福沢は文明論を「文明論とは人の精神発達の議論なり。一人の精神発達を論ずるに非ず。天下衆人の精神発達を一体に集めて論ずるものなり」と定義する。そして議論は文明の比較検討を行い、その利害得失を判断するものであるという。もちろん議論は各人の意見を述べるものなので一様な結果が得られるわけではない。世間普通の人は智と愚の中間にいて、智者の鞭撻を得て進歩する。だから今日は意見が合わなくとも、他日を期すのが議論の進め方である。強引に説得したり、やり込めたり、黙らせたりしてはいけない。もし人に進歩する意欲があるならば議論は有効であると、福沢は本書が議論の一助になることを期待すると宣言して本書は開始される。

次に丸山氏は「文明論之概略」の福沢の著述における位置づけを行います。「文明論之概略」は福沢の全著作の中で唯一の体系的原論、原理論であるといいます。時事評論ではなく、一般理論を目指した原理論であると位置づけます。「西洋事情」は外国書の抄訳で、明治9年に完成した「学問のすすめ」は単行論文を寄せ集めたもので、体系的問題探索ではないのです。明治11年の「通俗民権論」と「通俗国権論」は私権と地方自治論をテーマにした単行本ですが、本質は時事論で、「時事新報」の社説に近いと言えます。明治15年の「帝室論」と明治21年の「尊王論」はしばしば「文明論之概略」の民政論からの後退を噂される本です。バジョットの「イギリス憲法論」の王室と国会の区別を論じたもので、福沢は皇室を讃美するのではなく一切の国政から天皇を棚上げするものことが本質の論です。皇室の調整的、中立的機能さえ期待していません。最晩年の著述である「福翁百話」には「今の文明国に君主を戴くは、国民のと智恵の平均が低いことが故」という見解を示しました。明治18年の「脱亜論」は「時事新報」の社説で、脱亜とは当時の清と李氏朝鮮の状況を論じたものでアジア的停滞を脱する上で日本に一日の長があるといった、「脱亜入欧」のうち西欧文明の摂取を原則とした論である。明治12年の「民情一新」は「文明論之概略」に継く思想的著作です。しかし主に欧州のテクノロジーを扱っている書で、概論とは論のスケールが違います。「民情一新」は欧州の産業革命の問題点を指摘していますが、文明論之概論ではそこまで議論していません。日本で産業革命が起きるのは福沢死後のことでした。丸山氏は「概論の基本スタンスは、彼の独立自尊のモットーとともに、最晩年まで保持されていた」と考えています。福沢は「民情一新」で示した新しい問題を取り入れて文明論之概論の増補改訂版を出すすもりで、緒言の最後に「議論を密にして、真に文明の全大論と称すべきものを著述することを企画するなり。余も亦未だ老したるにあらず。他日必ず此の大挙あらんことを待つ」と意気込みを示していますが、世事に忙殺され、それを果たせないまま世を去りました。明治12年以降福沢は著述者であることをやめて、困難を極めた私学校経営者兼日刊新聞ジャーナリストに変貌したのです。福沢を最も悩ました主権国家を単位とする世界秩序原理は1990年以降決定的に破綻を示しました。ソ連・東欧社会主義国の崩壊、中国の市場経済への変貌、冷戦の終了により、世界はグローバル市場に突入しました。そして新自由主義市場経済の猛威、世界金融・経済危機という新たな問題に直面しています。

2) 幕末維新の知識人ー福沢諭吉の時代

丸山氏は「文明論之概論」との個人的な出会いを述べています。氏が研究者生活に入った昭和13年のころ、岩波文庫「文明論之概論」は1931年(昭和6年)版には2か所大きな削除があったそうです。昭和6年満州事変、昭和8年京大滝川教授事件、昭和9年美濃部達吉「天皇機関説問題」、昭和10年2.26事件、昭和12年日中戦争突入、昭和13年大内教授グループ事件、昭和16年太平洋戦争開始といった反動と軍国主義化の時代になった。丸山氏が日本政治思想史を専攻した昭和12年に羽仁五郎氏の「白石・諭吉」が岩波書店から出た。そして諭吉の論の痛快さ・面白さに惹かれていったという。特に「学問のすすめ」、「文明論之概略」は丸山氏の生きている時代への痛烈な批判に読めて痛快であったといいます。丸山氏は日本の思想家ではこの福沢諭吉と荻生徂徠をよく勉強したそうです。この章は福沢諭吉の時代を述べることにあります。福沢諭吉(1835-1901年)は天保5年生まれでいわゆる「天保の老人」の時代です。有名な知識人には、吉田松陰、橋本佐内、坂本竜馬、高杉晋作、久坂玄瑞らがいて、福沢は「志士の時代」と同世代になります。知識人以外の政治家には西郷、木戸、山県、大隈、伊藤、井上、松方、黒田と言った明治の元勲らがいます。維新前後に生まれた「維新後派」知識人には徳富蘇峰、三宅雪嶺、北村透谷、田山花袋、徳富蘆花、島崎藤村、徳田秋声ら自然派の人らがいます。この天保の老人世代と維新後派の世代の中間である幕末の生まれの知識人には、中江兆民、馬場辰猪、中江兆民、植木枝盛、小野梓など自由民権論者、自由党・改進党のイデオローグがいます。これを「自由民権世代」と呼びましょう。この「志士の時代」と「自由民権世代」を合わせて、「幕末維新期の知識人」と呼びます。伝統社会のオーソドックスな世界観(例えばキリスト教、儒教)の独占的な身分的な解釈者(制度的知識人)から脱した知識人を近代知識人(自由な知識人)と言います。思想の自由な競争が近代の誕生であり、西欧では「ルネッサンス」の時代です。維新の日本でも、幕府や藩の絆から解放された知識人が澎湃します。そして面白いことには幕府側から初期の近代知識人が生まれた。しかも維新の知識人には開国という、異質な西洋文明の翻訳者であり伝搬役という使命が課せられていました。まさに福沢はヨコ(西欧)のものをタテ(日本化)にするために奮闘した先駆的思想家です。この時代の人の著述には必ずネタ本があります。「盗作」とは言い切れない「創作」が潜んでいるのです。パンフレット翻訳者とは違って、福沢には日本の直面する問題の解決のために、知的道具として西欧の文明思想を使うという使命がありました。ですから維新知識人には何でも屋的な万能人の性格を要求されます。幕末維新における近代化のせっぱつまった要請が否応なく、あらゆる知識の動員を求めているのです。後進国の近代化は目的意識的近代化(選択的キャッチアップ近代化)で、西欧の自然成長型近代化とは異なります。そして多くの場合、知識人が政治指導者となり、制度と技術の紹介者となります。J・Sミルは「自伝」において、教養ある人間(普遍人)はすべてについて何事かを知り、何事かについてはすべてを知る人間に育てられました。近代知識人は普遍主義と特殊集団主義が求められます。日本の独立を守るという特殊課題(ナショナリズム)には、文明の普遍主義(インタ―ナショナリズム)だけでなく、優先順位の選択がクローズアップしてきます。それが政治家と違って知識人のディレンマです。福沢諭吉が直面した日本近代化のディレンマとは一般にキャッチアップ型後進国に共通のディレンマである。
第1のディレンマとは民族のアイデンティティ、つまり同一性の問題です。伝統と西欧化あるいは伝統と近代化の問題です。近代日本の国体論という狭い意味での政治的イデオロギーだけでなく、日本の民族的アイデンティティが含まれています。欧化すれば日本が溶けてなくなるのではないかという心配です。
第2のディレンマとは制度的な革命と精神革命の問題です。福沢の言葉でいうと文明開化の進展と独立自尊のディレンマです。
第3のディレンマは国内の改革と対外的独立の確保の間のジディレンマです。民権と国権の問題です。
第4のディレンマとは民主化と集中化のディレンマです。権力の分散・民主化を図ることは5か条のご誓文で「講義世論」、「万機公論」といい民選議院設立要求へ連なる路線でしたが、結局維新政府は集中化の方向へ舵を切ります。
第5のディレンマは「富国強兵」という国策の重心です。民の成長による経済繁栄が待てずに、維新政府は強兵貧国に陥ります。
ここで福沢は「文明之概論」の第1章に「議論の本位を定る事」をもってきて、優先順位を決めました。モノを見る目がめちゃくちゃに混乱し、交通整理が必要だったのです。

3) 第1章 「議論の本位を定る事」

ここからが福沢諭吉著「文明論之概論」の本論に入ります。丸山真男著「文明論之概論」を読むの講座は20講からなりますが、章別けは福沢諭吉著「文明論之概論」に従います。各講座の初め丸山氏がチューターとして簡単な講義を行い、そして福沢諭吉著「文明論之概論」の数ページづつを講座生8名が順に朗読します。朗読が終わってから丸山氏が福沢諭吉著「文明論之概論」の本から解説すべき重要な部分として選んだ数行を引用してコメントを加えます。丸山氏が引用コメントする部分は全体の1/3くらいですので、丸山真男著「文明論之概論」を読むからは福沢の全体の文章は見通せません。だから福沢諭吉著「文明論之概論」の本はいつも座右(丸山氏の「文明論之概論」を読むを右でも、福沢諭吉著「文明論之概論」を左でもどちらでもいいのですが)において読まなければなりません。丸山氏が引用した部分の福沢諭吉著「文明論之概論」文庫本でのページが記されておりが、私が持つ福沢諭吉著「文明論之概論」(岩波文庫 1931年第1刷 1962年第18刷改版 1986年第46刷)と頁数が異なります。最初2頁くらいであったのが最後のころには20−30頁ほど少なくなります。これは便利なようで、刷が異なる本では煩わしいかぎりです。そこで丸山氏が引用した部分には福沢諭吉著「文明論之概論」の本文にかぎ括弧で囲みました。丸山真男著「文明論之概論」を読むの引用頁数を訂正しておきました。まずそんなことは私的なことでどうでもいいのですが、これで後から再チェックする際ずいぶん楽になりました。福沢諭吉著 「学問のすすめ」、「文明論之概略」 (岩波文庫 改版1978年 改版1962年 )を参照しながら、まず私が読んだまとめを示し、次に丸山真男著「文明論之概論」を読むから丸山氏が注目した部分と解説についてまとめてゆくことにしよう。私が全文を読んだまとめを『』で示し、次の段落から丸山氏が注目するポイントを示します。比較検証すれば面白いと思うので、本読書ノートが長文になると思いますが読書子には勘弁して頂きたい。
『第1章の「議論の本位を定る事 」にはこういうことが記されていた。
「議論の本位」とは、物事を比較し、相対して重要な優先順位を定めることを言う。物事の相対化が肝要であることを福沢は強調する。
@物事はそれだけを論じても、価値感の違いがあって、各人の議論は収束しない。議論の方向を定めなければその利害得失は議論できない。
A結論が似ていようと、価値判断の根拠が全く異なることがある。そのため議論は途中から枝分かれして、再び元には戻らない。
B極論と極論を戦わしても、議論は分裂したがいに近づくことはない。
C物事には両面性がある。そのものの一利一害に伴う弊害がある。楯の両面をみなければものごとの真実には迫れない。
D人の意見が違うのは当たり前のことである。世間には多様な意見、異説が集まっている。画一にならず、各人の主張を変えずに相和することが社会進歩の源である。
福沢は異説が社会進歩の要因であるという弁証法を信じて、今日の異説(奇説)は明日の通論(常識)であるといいます。だから活発に議論しなければならないが、議論のルールを決めなけれ不毛の闘争になる。何のために議論するかが最大の眼目であって、他人を言い負かすことではなく、他人の意見を封じ込めることであってはならない。個人の利害得失を論じることは易いが、物事の相対的価値判断は難しい。そして福沢は世間に対して、前進するつもりがあるのか旧態依然にとどまるのか、文明を追うつもりなのか野蛮に返るのか、もし前進するつもりなら本書も何かの役に立つだろうと宣言します。 』

本文朗読に入る前に、丸山氏は1961年の自身の論文「近代日本における思想史的方法の形成」より、歴史的展開の方法を6つに分けて解説しています。 @文明史的思想史(明治10年ごろ、福沢諭吉、田口卯吉)、A同時代的思想史(明治20年ごろから,武越与三郎、徳富蘇峰、陸葛南)、B国民道徳的思想史(明治30年ごろから、井上哲次郎)、C文化史的思想史(村岡典嗣、和辻哲郎、津田左右吉、柳田民俗学)、D唯物史観的思想史(羽仁五郎、永田広志、三枝博音、いわゆる左翼思想)、E「日本精神」的思想史(太平洋戦争中の皇道史観、いわゆる右翼思想)です。この福沢諭吉著「文明論之概論」は必ずしも思想史とは言えないが、ギゾー、バックルを下敷きにした第1の文明史思想史、文明論的思想史からスタートしたと考える。福沢と同時代には田口卯吉のほか北川藤太、藤田茂吉、渡辺修二郎などの文明史・開化史が出ている。という前置きから本文の朗読になる。「議論の本位を定る事 」はたんにまえがきではない。いわば論争のルール作りの提案である。幕藩体制の崩壊の中から、維新政府は積極的に西洋文物の輸入や制度の導入といった文明開化策を実行した。精神的空白状態で急に新しいことを摂取すると著しい混乱が起きるのである。すきっ腹に変調をきたすようなものである。モノを考える枠組みや尺度そのものが根本的に揺さぶられた。福沢の根本の立場に「人事の進歩は多事争論にあり」という考え方があります。これを丸山氏は福沢の根本テーゼと呼びます。争論には必ず交通整理が必要であるが、ま下手をすると効率よく議論を画一化するという力も必ず働きます。政府がコンセンサスを決めてしまおうとするのである。教育勅語や国体論へ持ってゆこうとする。民間に力がなければ政府が道徳・教育を提供するというものである。ドグマの支配は福沢が一番嫌ったやり方である。福沢は少数者の権利、少数者の意見・異論に対する寛容に重きを置きます。世論による意見の統一(画一化)は社会を堕落させる危険性を指摘しています。トクヴィルは民主政治は必ず民衆を平等化・画一化し、統制と集中を生むという意見の持ち主でした。民主政治さえ未経験な福沢がどこまでトクヴィルを読んでいたかはわかりませんが、同じような悩みを持っていたことは伺えます。民力を養わなければ文明は根付かないという信念を福沢は持っています。民力は官が提供するものではなく、自分自身を高め啓発することで実力がついてくると考えて、そういう西欧文明化の方向で議論しようではないかという福沢の提案です。以下の本文解説は、上に記述した@からDのケースに沿って行われます。福沢の時代には今では常識的な術語が面白い言葉で表現されていて面食らうことが多い。翻訳(言い換え)が必要です。たとえば「人民の交際」とは「社会」のことです。

4) 第2章 「西洋の文明を目的とする事」

『まず世界の国々の文明状態を3段階に分けると、野蛮、半開、文明となるが、区別は相対的で絶対的な文明状態は定義できないが、今の西欧諸国をもって文明国と満足せざるを得ない。福沢は文明国を目指すものはヨーロッパの文明を目的として設定せざるをえず、そこで利害得失を論じようという。本書の冒頭で、ヨーロッパ文明を日本の手本としようと宣言した。これに対して国ごとに選択肢はいろいろあるのではないかという批判があり、これに対する福沢の答えは、半開国の日本にとって選択の範囲はあるが、文明には外に現れる形をまねるものと、うちにある文明の精神を学ぶものがあり、前者は易しく後者は難しい。だからヨーロッパの文明を目的にするというは文明の精神を学ぶためである。文明の形は国により歴史により様々な形をとるものである、これを100%まねるわけではないと福沢は強弁する。ヨーロッパの文明を求めるにはまず人心を改革することが第一で、人の天性の働きに従いこれを妨げる障害を取り除き、自ら人民一般の智徳を促し、その意見を高い意識レベルに高めることである。そして法令の改正を漸次的に行い、妨害を取り除くことができる。昔は尚武の風俗があって、もっぱら腕力の世界であったが、智力を腕力に拮抗させて、人の働きを多方面で発揮させることである。西欧の文明は多事を特徴とし、文明を進めるには人事を忙しくし、需用を繁多にすることが肝要である。ますます精神の働きを活発にすることである。ここに歴史的事実として中国の秦帝国と日本の神政の比較を検討する。中国の古代周朝末期には自由の考えを生じ、諸侯が中原の覇を争う春秋戦国時代となり、言論界も百家争鳴の時代を迎えた。孔孟の教えは暴君の働きを縛る力はなかったので、秦の始皇帝は異説争論を嫌ってこれを禁止した。至尊の力と至強を合わせて独裁制をしいて世界を支配した。そしてただ一つの考えである孔孟の教えのみを広めた。日本では中世以降、神政府(朝廷の事だろう。福沢はそういうが、日本に神政政府がなかったことは後日の歴史の教えるところ)の神政崇拝と武家勢力が合体して、それに儒教の道理が加わった支配が行われた。ここで福沢は日本のほうが中国よりも西欧の文明を取り入れやすかったというが、ちょっと疑問が生じる。中国の専制帝国の力があまりに巨大で人民は無に近かった程度が日本より強ったために、人民の文明化が大きく遅れたというべきであろう。それに中国市場に目付けた列強の植民地化の力が中国自体を蝕んだのであって、アヘン戦争以来の中国の近代化努力は評価すべきである。しかしそれは為政者の努力であって、福沢の言う人民の智力発揚によるものではなかった点で福沢の日本有利説は正しいとみるべきだろう。 ここで「国体」と「文明」が対立概念あるいは国体優先の論をなす人が居る。福沢はこれに反論する。論をなすにあたって第1に「国体」(ナショナリティ)とは、人種、言語、宗教、地理をともにすることが要因ではあるが、最も有力な源因は、一種の人民が同一の生活形態を長年ともにしてきた者の集まりである。国体とは何かをまず分明にしなければない。国体はその国において必ずしも終始一様ではない。国体の存亡とは自国民の政権を維持することである。日本は開闢以来、天皇制は虚名に衰微し、かつ政権はいろいろ変遷したが、外国に支配されこれを主として仰いだことが一度もない。つまり国体は変更されなかったというべきであるとする。第2に「政統」(ポリチカル・レジチメーション)を人民の許す政治の本筋とする。立憲民主制、立君制、あるいは封建諸侯、宗教などが政権を作ってきた。そして政権は武力・戦争で変わる場合もあり、漸次的に平和裏に変わる場合もある。国体は変わらずとも政権は変わる。第3に血統とは血の系譜を重んじる体制である。日本では国体と血統を混同して捉えている。日本では天皇の血統は連綿として続いているとされるが、血統を保つことはさほど難しいことではない。天皇制自体は長く続いておりこれを廃した政権はなかった。しかし天皇制は鎌倉時代より単なる虚名を保つのみであって、天皇制が政権を握ることはなかった。政統も血統も国体という器が他国によって奪われなかったkとにより盛衰をともにしてきた。自国の政権を失わないで維持するためにも古来の伝統にとらわれないで西欧の文明の精神を取る必要がある。虚位に終始する古来の伝統よりも、その国の政権を維持して国体を保つために政府が存在し、それが政府の実の役割である。政府が愚民政策をといるならば、政治の力は必ず衰退するのである。つまり国体は文明と反するものではなく、文明の力によって繁栄するものである。これが福沢の結論である。国体とは外国に支配されない自国民の統合体であるなら、西欧文明を取り入れ国力が上がるなら国体を守る力が増強するという論理である。ここの論議はすでに第10章の「自国の独立を論ず」の伏線となっている。』

福沢諭吉著「文明論之概論」第2章「西洋の文明を目的とする事」(文庫本で25頁ほど)を、丸山氏の本ではかなり力が入っているようで、(新書本で)120頁を費やして第3講から第5講までの3つに分けます。第3講「西洋文明の進歩とは何か」、第4講「自由は多事争論の間に生ず」、第5講「国体・政統・血統」と題名をつけて論じている。この順にみてゆこう。まず福沢は「未開」、「半開」、「文明」の3段階論を提示しましたが、第3講「西洋文明の進歩とは何か」で丸山氏は「進歩史観」についてまとめています。冒頭において福沢は西洋文明を相対化しながら、今は西洋文明を目的とすると述べます。文明とは理想状態をいうのではなく、文明化という進化で捉えるのです。政治体制と政治過程の関係です。いろいろ勘案して相対的に日本にとって一番いいと考えられる西洋文明を取るのだという態度です。福沢の考え方の難しさは、常に条件付き、留保付きで論を展開します。したがって最後まで読んで文脈で理解しないといけません。片言双句で福沢はこういったといっても、それは文脈で正しいとは限りません。18世紀から19世紀にかけての欧州の文明史は「進歩史観」と不可分です。本書は同時に18世紀欧州の「啓蒙(理性)の進歩観」を反映しています。知性の進歩と社会の進歩が一体化しているということが啓蒙思想の特色です。完成へ向かうダーウィ二ズムの「進化の思想」とは異なる。この進歩の思想や啓蒙の思想は東アジア(中国)からは内在的には出てきませんでした。歴史のある段階に内在しているある契機が発展して次の段階が生まれるという弁証法が、19世紀のマルクス主義的発展史観ですが、日本には入ってくるのは遅れます。ダーウィ二ズムの適者生存説は、明治30年に加藤弘之が著した「国体新論」で強者優性論となっていきます。少なくとも福沢の時代には進化理論は主流ではなかった。福沢は無限のかなたに「文明の極致」を予想しているので、やはり啓蒙の進歩思想を受けているというべきですが、多事争論という言葉や競争や闘争という契機で人間は進歩すると考える福沢には進化思想もかなり混入しているです。幕末維新の時代の日本を「半開」の文明段階と呼ぶ福沢の日本批判の重要な命題がみられる。「猜疑嫉妬の心」は「学問のすすめ」で福沢が忌み嫌った「怨望」という日本人の閉鎖的心情に通じます。これを丸山氏は「御殿女中根性」といい、福沢は文明への害毒だといいました。前向きに捉えないですべてを人間関係のせいにする根性で、ムラ社会とか「引き下げデモクラシー」という形で日本社会にその残渣は残っています。丸山氏は福沢の「惑溺」というキーワードの言葉に注目し、「あるものが、その働き如何にかかわらず、それ自身価値があると思いこむ性癖」と解説します。陳腐化し形骸化した廃語に近い武士道や儒教精神や旧弊になぜかこだわり、価値があると思いこむことです。福沢はここでもうひとつの命題「他の恩威に依頼せず、自ら智を磨き」と自立の精神を提示します。さらに「学問の道は虚ならずして発明の基を開く」といって、懐疑の精神に裏付けられた実学を勧めます。アダム・スミスも「重商主義批判」で指摘したが、西洋文明には現実には植民地主義が強く、後進国(未開、半開国)の蹂躙が著しい。福沢が国権論で強く「独立なければ文明なし、文明なければ独立危うし」を主張するように、西洋文明は危険性をはらんでいるが、目下のところ見渡せば西洋文明が最善であるという相対論を述べます。苦渋の選択といえます。国が亡くなったり、征服されては元も子もなくなるので、早く西欧文明の精神を民衆が学んで民意を発揚し、活発な活動をして産業を振興させようという結論です。国を守るために文明化が必須だということです。福沢はまた「人間万事試験の世の中」という、とにかくやってみようという「プラグマティズム」に通じる実用主義を唱えます。ここで福沢は「ヨーロッパの文明を目的として議論の本位を定め、事物の利害得失を論じる」と宣言し、本書の方向を決定しました。さて文明化の道筋ですが、世間では「採長補短論」(和魂洋才論もそのひとつ)というご都合主義で、文明の事物や制度といった外形ばかりの輸入で事足れりとする風潮が主流ですが、福沢はここで一歩とどまり「難を先に易を後に」を主張しました。急がば回れ論です。むしろ文明の精神による民衆の成長が先だという論です。文明化は総力戦だということです。福沢は「人民の気風」と言って、「文明論之概略」の中核的概念の一つを提示して、維新政府の政府主導型の漸進論を批判しました。政府の外形はずいぶん改まったが、その専制抑圧の気風は旧態のままで、人民の卑屈政府不信の態度は改まっていないと指摘します。政府という智者(治者)がひとり良かれとしても全体が愚ではうまくゆかないという福沢の持論です。そしてこれは「一身独立して一国独立する」という命題に結び付きます。また圧倒的に民の力が弱かった時代の「権力の偏重」は福沢の基本的命題であり、このアンバランスは日本の伝統的疾患であるといいます。この命題は政治勢力の多元的権力論または権力分立論につながります。

次に丸山氏の第4講「自由は多事争論の間に生ず」で、福沢の基本命題「文明の進歩は人間活動が多様化することによる」から自由が生じる論に移ります。日中の文化の比較においてギゾーの文明論から引いていますが、そこに福沢の独創的な論が展開します。中国では「至尊の位と至強の力を合一し、人間の交際を深く支配し、深く人の心を犯す」としています。崇拝と権力価値が一つになった専制帝国である。これでは人民の心は滅ぼされ隷属根性となります。福沢は春秋戦国時代の諸子百家を高く評価します。王道が失われ、覇王が乱立し様々な意見が流布しました。孔子も百家の異論の一つでした。「孔孟の教えは暴君の働きを妨ぐるに足らざるものなり」と福沢は論じて、「単一の説を守れば自由の気を生ずべからず、自由の気は唯多事争論の間に存するものなり」という、福沢の思想の確信ともいうべき命題を引き出します。秦の始皇帝の「焚書坑儒」は討論を禁じた悪しき例です。人々のこころを一つの部屋に閉じ込めれば、そこには窒息死が待っている。次に日本の歴史になり、福沢は日本に昔中国と同じ「神政府」があったといいますが、これは歴史学的には間違っています。大和政権は豪族連合体であり、奈良時代には天皇の実権は藤原氏によって奪われてました。その藤原律令貴族政治(中国式の官僚制中央集権国家には程遠い)も中世に武家によって奪われました。「至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならず」という体制が日本の特徴です。いつの時代も天皇と武家の2元体制でした。近代ヨーロッパの教会権力と王権との2元体制に似ていると福沢は見ています。もちろん天皇の存在は2元というにはあまりにも弱いもので、室町時代以降は誰も相手にもしませんでした。徳川時代では皇統は被扶養者的な存在に過ぎません。明治政府で天皇親政は復活したようですが、福沢は至尊(天皇)と至強(政府)は分かれていた方がいいと考えていました。これが福沢の基本的態度です。「皇学者流に政祭一致にでて世間を支配することあらば、後日の日本はまたなかるべし」と言いました。ところが政府は次第に天皇制を強めて兵馬の権を天皇がとって明治国家が築かれました。そのため福沢の予言通り、昭和の日本は無謀な戦争に進み圧倒的なアメリカの力の前に破れました。後日日本はなくなったのです。

次に丸山氏の第5講「国体・政統・血統」に移ります。文明論の中で福沢は執拗に国体論を繰り返します。そこへ丸山氏の天皇制批判が共鳴し、本書においても第10章で論ずればいいような国体論が最初から最大の論点であるかのように現れます。文明論之概略という著書は文明論か国体論かどちらが主なのか判断がつかないほどです。「国体」を議論することは本章の趣旨ではないが、文明を論じるとき国体は避けて通ることができないし、世の中の知識者は国体となると口を閉ざす者が多い。そこであえて本章で国体を論じるのだと福沢は強弁する。丸山氏もこの節には力が入っていて約50頁をあてました。国体と文明は福沢にとって相補うものではなく、文明の精神とは人民独立の気風だとする福沢にとって国体と文明は2者択一の問題です。しかも明治8年ごろには国体論がすでにタブー視されていたことが分かります。教育勅語や帝国欽定憲法ができる明治20年代には、明治政府は制度的にもイデオロギー的にも正統的な国体(皇国)を確立してゆきました。なお国体論の基礎となったイデオロギーは平田国学と水戸学でした。福沢は国体とは所属意識のことよりも、国民が自ら選ぶ「ナショナリティ」と名付けました。これは近代ナショナリズムの特色というべきです。民族・言語・風俗・宗教などは国体の定義にはならない。福沢は追憶(懐古の情)を同じくするような「運命共同体」を国体と考えていたようです。他国によって征服された時は国体は断絶したといいます。福沢の説によれば、太平洋戦争の敗北により占領軍の支配を受け天皇がマッカーサーの支配下になった時に国体は断絶したといえます。戦後数年後に民主国家が誕生し天皇は「国民統合の象徴」とされた国体が採用されました。次に国体に似た「政治的政統(政統)」の問題になります。ギゾーは政治的正統性を由緒の古さと永続性に求めました。ルソーの社会契約論の命題は「力による支配(暴力)は権利を生まない」ということです。暴力以外に根拠を求めるなら、自然法思想のうえにたつ正統性が求められます。ギゾーは政治的正統性(政統)を正義や権利や理性の概念に結び付けようとしました。正統とは正義(法による支配)でなければならないということです。ギゾーの概念に沿って福沢は「政統」を考えました。政統とは支配の正統性です。なお正当性とは倫理的なことで紛らわしいのですが、政統性は政治的な言葉です。英語ではオーソドキシー(本筋)に同じです。この政統の反対言葉は簒奪となります。儒教のドクトリンは治国平天下という政治思想ですから、簒奪を非とします。禅譲が正統とされます。簒奪は戦国時代の思想ですが、暴力から正統に重心が移ります。次に血統を問題とします。日本では皇統連綿を誇りますが(実態はそうではない)、君主血統の連続性は国体とは無関係です。欧州では君主の血統は問題としません。福沢は「国体は体のごとく、皇統はなお目の如し」とうまいことを言っています。皇統だけが生きていても、国体が衰えると生きてゆけないことを意味します。西欧国は東洋国を支配する場合、国体を殺して皇統は生かすことをよくやります。国王を介した植民地化政策です。皇統連綿は独立の証であって、その原因ではない。水戸学や国学の国体論はそこが間違っていると福沢は主張しました。国体が繁栄しているから皇統があり、皇統があるから国体が繁栄するわけではないのです。国学者は国体と血統を混合していているのです。そして皇統の連綿を保つことはそれほど難しいことではなく、国体の独立を保つことが難事なのです。もし日本が東海の島国でなく大陸の小国であったなら、おそらく独立することは困難で、隣国朝鮮や東欧のポーランドのように、たえず大陸の強国の軍隊が通り過ぎる道になっていたでしょう。鎌倉時代・室町時代・戦国時代・徳川時代の武家政治の国体においては、皇統はいつも虚位に過ぎなかった。国体を維持するとは政権を失わないことである。明治の今日において西欧諸国の外威が高まるなかで、「政権を失わないようにするには人民の智力を進めなければならない」という福沢の根本テーゼに至る。人民の智力を進めるには、「古習の惑溺を一掃」して西欧の文明を取ることである。日本の伝統的論理であった国学・儒教・仏教の考えでは独立を維持することはできない、まさに「思考様式の変更」を第1の課題とする啓蒙思想を福沢は選択したのである。古代思考様式の残渣である形式を貴しとするのではなく、「物の貴きに非ず、その働きの貴きなり」に頭を切り替えなければならないといいます。権力を有するものの権道の弊害として、国体を維持する政府の実威にこそ政府の存在価値はあるが、人民を畏れさせる政府の外形の虚威は権力におぼれる姿(妄誕)である。「民権を興起」するという言葉を使い、権力偏重が著しく人民を寄らしむべからず・知らしむべからずで「人民が愚になれば政治の力は衰微する」という根本命題を福沢は述べます。

5) 第3章 「文明の本旨を論ず」

『ところで福沢は文明の定義をしていなかった。「衣食住の安楽のみならず、智を磨き徳を修めて人間高尚の地位に上る」という。また文明は限度があるのではなく、野蛮を脱して次第に進むものである。人間は本来社会的動物で野蛮無法の状態から一国の体裁をなすまでのものだという。福沢は言葉を変え文明の特徴をいうが、本書のメインテーマである「文明とは智を磨き徳を修めて人間高尚の地位に上ること」とは、わかったような、ぼんやりした定義に聞こえる。また福沢は文明をたとえ話で解説するが、この解説が福沢節の特徴である。文明とは言えない諸様相を4つ示す。@衣食住は充足しているが、自由はなく人民は牛羊のごとく扱われる。Aアジアの絶対帝政の人民のように、自由がなく束縛されて、活発の気を失い卑屈の極度にある。B自由はあるように見えるが、一国を支配するのは暴力のみで、戦国時代の様相 Cアフリカの人民は社会を知らず、食べるだけの生まれて死ぬのみの野蛮の人種。これらは文明とは言えないという否定の論理で排除し、しからば「文明とは人の安楽と品位との進歩をいう。この安楽と品位といえるは人の智徳であるがゆえに、文明とは結局人の智徳の進歩と云いて可なり」とするのである。ただ欧州の国々においても無智無徳な性情を持つ人はいるので、たとえ文明状態といっても欠点は多い。文明の本旨は人間平等であるので、欧州の歴史を見ると貴族階級を打倒して文明を築くのも一つの流れであったが、英国の君主政治でも文明であることはできるし、フランスの共和政治が理想でもないし、アメリカの合衆政治、メキシコの共和政など政府の形態は必ずしも一様ではないがゆえに、政府形態の名前だけでは文明の程度を判定することは難しい。孔子の君臣の義は戦国を修めるには君臣の道を立てることだとしたが、君臣は人の天性ではない。君臣なくとも庶民会議(民主議会制度)で政府と人民の関係はうまくいっている。政府と人民には各々義務があり、その治はすこぶる順調である。まずは人性に合致することが先決である。立君政治はこれを変革してもいいが、要は文明にとって利があるかどうかが大事である。ここでアメリカ型民衆政治の利点と欠点が述べられ、代議員選挙制度の目的である最大多数の最大幸福が、J・Sミルの思惑通りではないことを示す。100人中49人の意見が無視されることもあるということである。そして経済の論理である「利これを争うをもって人間最上の約束」たりうるかということの疑問である。福沢の目は民主主義の欠点や市場経済の問題点に着目しているが、特に疑問を呈するだけにとどまっている。ということで合衆国の政治必ずしも良いとは言えない。政治は文明の一つに過ぎず、人間の目的は文明に達することで、これに達するには様々な方法があっていかるべきだという相対論を述べるにとどまった。政治、社会といえど歴史の中では「試験中」といえる。無限に文明は進歩するから、試行錯誤して進んでいるといえる。』

丸山氏は文明論之概略の第3章 「文明の本旨を論ず」を、第6講「文明と政治体制」と題して解説をする。文明の諸形態として、まず第1に「生活手段の生産とその公平な分配」、「人間交際」(社会のコミュニケーション)があげられています。ギゾーは分明とはいろいろな要素の複合体であるといって、制度・商業・産業・戦争・政治などの一大市場といいます。f福沢は文明化(シヴィリゼーション)の過程で、革命と内乱も大きな流れで文明化を推し進めたとしてこれを否定しません。人間のアクティビティが文明の推進力であるという見解です。上に述べた4つの諸様相(段階)を文明化したとは言えないとして否定してゆき、最後に文明を定義する。@は人民がひどく抑圧され状態を言い、松前藩のアイヌ支配を挙げています。A欧州の封建社会や中国の絶対王政下での人民の抑圧と無知文盲状態をいいます。B暴力(武力)のみが支配する戦国時代を言います。部族抗争の状態です。Cまったくの野蛮の状態です。福沢は人間の衣食住と言った外的な条件の発展と、内面的な人間性の発露の二つを伴ったのが文明だといいます。福沢の言葉では「文明とは人の安楽と品位との進歩をいうなり」、「文明とは結局、人の智徳の進歩といって可なり」となるが、この言は前がギゾー(18世紀の啓蒙主義)、後がバックル(19世紀の産業革命後の知識主義)からきている。儒教が道徳中心を言うのに対して福沢は主知主義を打ち出しました。しかし現実の西洋人はひどいことをすると福沢はあちこちで述べていますが、盲目的な欧化主義者でないことは明らかです。だけど欠点のない西洋文明はあり得ないし、欠点だらけの西洋文明でも採用して日本の半開状態を改革しなければならないことを、福沢は「帯患健康」という。西洋文明には様々な政治形態(国体)が存在するが、特定の形態を西洋文明それ自体として絶対化するものではないという「相対化論」が福沢の柔軟な評論家魂といえる。文明ということから必然的に共和政を目標とするということにはならない。君主は絶対だめだということでもない。そこから福沢の政治論の基本命題である「すべて政府は、唯便利のために設けたるもの」という大胆な相対化の考えが出される。ジョン・ロック著 「統治二論」(岩波文庫 )にも明らかなように、国家の社会契約論を福沢は学んでいたようだ。これは明治8年頃の自由民権論のラディカルな共和制を批判するためであったようだ。福沢の政治的立場はどちらかというと、イギリスの政治形態を漸進主義として評価していたようで、形は君主を載いていても内容は共和政・民主政に似ているとしています。混合政体のバランスが、相対論の理想となるのでしょう。幕末に福沢が書いた「西洋事情」ではアメリカのデモクラシーを理想としていたようですが、「概論」を書いた時期にはミルやトクヴィルを読んで、民主主義を熟した目で見ています。政治とはその実を見るべきで、その名のみから評価すべきではない。つぎに福沢は儒教的政治思想のイデオロギー暴露をおこない、「思考様式の変革」を展開します。政治については 「君臣関係は先天的に人の性」という考えを徹底的に攻撃する。偶然に後天的に生じた主従関係を人の道として君主政体絶対を説く考えを棄てよと、福沢は明治の初めに君主制(幕藩体制と天皇制)を相対化し、君主制が便利か不便化で選択しようと思考の変革を言います。福沢はこれを「修治革命」と呼びました。親子関係は選択できないけれど、君は選択できるといって、君臣関係の変革可能性を文明の便利・不便を基準から考えようとはっきり主張した人は当時は皆無でした。儒教イデオロギーを排斥してつぎにアメリカ式デモクラシーの相対化に向かいます。アメリカ建国精神と合衆政治を「西洋事情」においては讃美していた福沢は、J.Sミルの「自由論」トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」から影響を受けたのであろう、民主平等社会のいいところと悪いところ、多数決制の不合理と多数専制の弊害、少数者の利害が代議政体では無視されること、アメリカ南北戦争の理想と現実、資本主義の自由競争がもたらす利と害、婦人論など、明治8年に実に多くのことを見ていました。政治は人間活動の一部に過ぎないことは、福沢の根本命題でした。自分が政治権力を得るか、権力者にいい政治を期待するかという儒教の政治主義というべき「惑溺」に福沢は一生をかけて闘うことを誓いました。「人の思想は一方に偏すべからず」という相対主義と、試行錯誤の「万事試験の世の中」という楽天的進歩主義が福沢の基本命題です。

6) 第4・5章 「一国人民の智徳を論ず」

『文明とは一人の英雄の智徳を言うのではなく、全国の有様を見ることである。福沢がいう「智徳」とは賢明さ(合理的精神)とか人の働きの活発さ(科学・経済・政治・文学etcなど 幅もふくめて)のことをイメージしているようだ。例として一国の富は正直と努力と倹約に基づくとすると、日本の商人の倹約はむしろ欧州の商人より勝っているように見えるが、ところが一国の富となると格段の違いがある。英国のボックルの「英国文明史」に、「一国の人心は一体としてみるとその働きに定則がある」という説を福沢は紹介する。需要と供給はどこかで交わることを予測することがリスク回避もしくは市場の成立になるという。ボックルはこれを統計(スタチスチック)と呼ぶ。それには理由があるからで、経済学的に近い理由をミクロ(局所)といい、遠い理由をマクロ(全体)という。いわゆる人文科学の初歩を福沢は述べている。適切かどうかは別にして、福沢は蒸気機関車の馬力をたとえ話にして、「時勢」つまり社会全体の勢いについて述べている。次に孔孟の儒学が春秋戦国時代の覇権時代に、周業を理想とする君臣の義を説くことは、時代はずれも著しく諸侯に全く受け入れられなかったことを例に引いている。そそいて日本の鎌倉以後、天下に業をなさんとするものは一人として勤皇の説を唱えないものはいないが、事成る後は一人として勤皇を行う者はいない。勤皇は口実に過ぎないのに、楠正成は後醍醐天皇に味方して、関東武士の棟梁足利尊氏に戦いを挑むのは無謀であると福沢は言う。保元平治以降、天皇は天下の事にかかわる主人ではなく、武家の威力の前には奴隷である。ワシントン、ナポレオン、ビスマルクなどの例を引きながら、英雄が事を行うは天下の衆論の非を正すことから始め、衆論の向かうところは無敵であることを述べる。この章はふんだんに知識を披露しながら講談を進める福沢諭吉の絶好調を聞く感がする。ただしよく見ると例証になっているかというと疑問があり、福沢の新知識に煙に巻かれた人も多いのではないだろうか。福沢は「衆論」とは「国内衆人の議論にて、その時代にあって普く人民の間に分賦する智徳の有様を顕わしたもの」と定義して、衆論の特徴を2つあげる。一つは衆論は必ずしも数でははなく、その力には強弱がある。第2に智力があるといってもこ、れを習慣の力で結合しなければ力とならないという。第1の点は衆愚を集めることが主眼ではなく、国論といわれ衆論といわれるものは、皆中等以上の智者の論説であり、畢竟人民は国の智徳者に鞭撻されて方向を定めらて手力となる。新聞・演説会などがそれで、進退集散皆智徳者に従っている。明治維新は衆論の赴くところに従ったのではなく、遠因として徳川幕府時代への不満が渦巻くことを背景として、廃藩置県をおこない武士階級に給付を絶ったのである。なぜなら武士華族への給付が当時の政府予算の2割を占め(幕府時代の四公六民と同じ)ていたから、新政府は廃藩置県に踏み切ったのである。これはまさに革命であった。明治維新も王政復古が目的ではなく、これを討幕の先鋒に用いただけのことで、王政復古は王室の威力に基づくに非ず、王室は国内の智力に名を貸した。廃藩置県は失政の英断にあらず、執政は国内の智力に促されてその働きを実地に移したというべきであろう。従って人間交際(社会)の事柄は、悉皆この智力のあるところを目的として処置される。愚民の毀誉褒貶は事を処する基準にはならない。福沢は愚民迎合政治は最低であるという。衆論の第二の特徴である智力の結合について福沢のいう所をまとめると、英知を集めことが大切で、そのため衆議、議事院、結社、会社、組織、仕組みなどが必要であるという。そうすることで西洋の衆論は各個の才知よりもさらに高尚で有力な議論となる。一人物では考えられなかったことや、できなかったことが組織によってできるようになる。この結合する力を福沢は「習慣」によるというが、アジアの暴圧政府の下では徒党を禁じられ、人の衆議は抑圧され、衆人はただ無事のために無気力無智の状態にいた。この伝統習慣を改めることで人の天性を抑圧から解放し、働きを活発にすることが文明である。』

丸山氏の「文明論之概略」を読む では第4・5章 「一国人民の智徳を論ず」は、第7講「文明史の方法論」、第8講「歴史を動かすもの」、第9講「衆論の構造と衆義の精神」の3講に別れます。まず第7講「文明史の方法論」から入りましょう。福沢の「概略」の第4章と第5章は「社会の法則と文明史の方法論」であると丸山氏はくくります。伝統的歴史観への批判が中心です。福沢が批判の対象とするのは一つは「英雄史観」、治者史観という個人が歴史を動かしたという歴史の方法論です。二つには「治乱興亡史観」批判です。中国の正史もこの治乱興亡史観で貫かれており、何千年も同じことをやっているといううんざりする史観です。頼山陽の「日本外史」も治乱興亡史観です。第3の批判の対象は水戸学の祖水戸光圀の「大日本史」に代表される「大義名分論史観」です。儒教と皇国史観の入り混じった日本独特の史観です。丸山氏が見抜くところは、福沢の第4・5・6章はバックルの「イギリス文明史」に依拠しているそうです。バックルは神学の予定説と形而上学の自由意思説(近代個人主義の基礎)を批判します。歴史を科学として捉えるには、2つのドグマを打ち破らなければならないというわけです。そしてバックルは風土と文明の関係を強調しますが、福沢は風土決定論は無視します。そして日本には神学とか形而上学という哲学的思考はゼロであったので、これを問題としません。福沢が問題とする史観は上に述べた4つの史観です。福沢の文明に対する根本命題は緒言に述べた「文明論とは人の精神発達の議論なり。・・・天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり」です。これはバックルから得た命題です。個人の精神発達だけではなく、社会全体や組織の文明化こそが大事なのだということです。そこから全体の「気風」がでてくるといいます。一国の気風を知るために、福沢は全体の観察、数量化、統計という考えをバックルから導入します。ケトレーから始まった統計学を使って、社会、経済の規則性や法則性を見出す方向です。福沢は人の心事や動機や心がけ(モラル)と言ったもので歴史は捉えられないと考えます。何故なら歴史は予期せざる状況の連続だからです。秀吉の出世物語を例にあげて、その場その場での活躍が期を得たもので、太閤英雄譚・虚誕妄説をすべて否定します。日本にある正式な歴史書は「日本書紀」だけです。その他の歴史書である「本朝通鑑」、「太平記」、「日本外史」などは荒唐無稽な英雄譚からできているとして福沢はこれらを批判しました。「大志ある者、必ずしも大業をなすに非ず」と述べて、「偶然の勢い」でなったことを、もっともらしく個人の心がけや妄説で飾り立てる歴史書は否定しました。福沢は人の心は分からないとか人の心に働きは千緒万端と言って掴みようがないといいますが、その働きには全く規則性がないとは考えていません。天下の人を総体として、時間を長くとれば、法則性が必ず出てくるという考えを福沢はバックルから得ていました。統計の考えでは、大量の観察に依れば個人のばらつきが相殺され一定の法則が出る場合があるという考えです。万延元年福沢は「万国政表」を翻訳し、明治4年大蔵省に統計局が設けられました。統計の重要性は早くから求められていました。福沢は本文中にバックル氏の考えだと称して「一般序説」より文章を引用しています。個人の考えから行動すると恣意的で不規則にしか見えないことも、たとえば豊作の時は結婚する数が多いというようなことが統計から知ることができる。需要と供給の不一致という経済的リスクも市場では避けることができるという具合である。バックルは19世紀の自然科学信仰のただ中にいました。現在の経済学はこれほど単純ではありませんが、非人格的な「社会法則」の支配という考え方はマルクスも学んでいました。

第8講「歴史を動かすもの」に移りましょう。福沢は「近因」、「遠因」とわけて「遠因」に辿るほど真の原因に到達するという形式論を述べていますが、丸山氏はこの部分は賛同できないと述べています。文章の綾なのでしょうが、理科系の私が見ても燃焼と水の沸騰は関係ありません。バックルの真意は社会の構造認識において、自然科学と同じような一定の定則性をとらえることが重要なのだということにあります。「近因」、「遠因」の分け方はは誤解を招くだけです。バックル自身は社会事象に、自然科学ほどの規則性があるとは考えていません。何故なら社会現象が複雑であること、精神と自然との相互作用による変容があることから、科学としての歴史の困難性を理解していました。バックルの史論は文明史についての一般理論の確立にあり、西洋文明とりわけイギリス文明の優越性、公式主義、独断性、懐疑主義といったヴィクトリア時代の進歩的知識人を特徴づける精神構造を代表していたと丸山氏は注釈しています。こうした特徴からは福沢は離れていました。福沢はユーモア精神、リアリズムとバランス感覚に特徴があります。そして歴史を動かすものは英雄・個人ではない、人民の気風または文明の精神たる知性の働きという「時勢」にあると考えていました。春秋戦国時代において、孔子は一人堯舜の治風を主張し、徳義をもって天下を化する説を唱えたが、世はむしろパワーポリティクスの「合従連衡」戦争の覇業に忙しい世であったという。孔孟の教えの仁義と王道を説いてもそれは空虚な議論になると福沢は言う。政教一致の儒教的徳治主義の論理を福沢は口を極めて批判します。聖人の教えを説くものは治者であるか政府の顧問を目指して活動するわけで、学問と教育という分野を政治に従属させてはならないという福沢の独立と私学の精神に反する。学者は民の知の啓蒙にあたるべきで、明治初期に誰もが官に職を求める風潮を諌めた福沢の信条につながります。儒教の本質は治国平天下の政治的な統治関係にあって、朱子学や陽明学のような修養や心の学に重点があるわけではないといいます。儒教の徳治主義、仁政主義批判に福沢は思わず力が入っていますが、本章は世の中はその時代にふさわしい知の社会的水準に従って動くもので、孔孟といった偉大な思想家といえどもその気風に勝てるものではないということが議論の趣旨であると丸山は軌道修正しました。次に福沢は建武中興の皇室大義名分論批判を行います。明治の王政復古史観に対抗して、建武中興が失敗した理由をあげて反省を迫っているようです。福沢らしい南朝批判は卓抜した史観であると丸山は評価している部分ですが、本文を読んで味わうのがが一番面白い。「当時天下に勤皇の気風の乏しきこと」とか、足利と楠の力量は正規軍と野盗の格差があったので、楠の馳せ参じた後醍醐天皇の南朝が消滅したのは当然であったとします。後醍醐天皇の不明というより、皇室の乱脈ぶりと政治的無能、実権のない虚名に期待するだけでは到底政権を担えるものではなかった。歴史の繰り返しになりますが、下剋上の戦国時代に実権を失った室町幕府の足利将軍の末路の哀れさに通じるものがあります。一貫して福沢は、人民レベルでの智徳の進歩が歴史を動かすというテーゼを説きます。そして次節に重点が移り、「衆論が向かうところ天下に敵なし」といいますが、この衆論は変革可能なものであるとします。

第9講「衆論の構造と衆義の精神」に移りましょう。福沢は世の中の智徳の優れた人とそうでない人が入り混じりあってこそ全体として切磋琢磨して智徳が働くのであり、明治政府のまずいこところは智徳の優れた人が全部政府に入り、一般民衆は愚に置かれたままだから、世の中の智徳が全体として機能しないのだと主張しているようです。福沢は「智徳の分量に強弱あり、これを結合せざれば、衆論の体裁をなさず」といいました。人の能力の格差をみとめて世の中を機能させることは福沢のリアリズムで、決して愚民政策ではありません。衆論は数ではなく、議論が持つ智徳の力であるといいます。数を平均すれば中庸になりますが、優れた知力を持つ論に導かれれば世の働きは気力が充ちます。こうして千磨万磨された世論を「国論衆説」と呼びます。人民の議論を巻き起こそうと呼び掛け、そこに知識人の誘導という使命を与えるのです。つぎに福沢は維新論を述べます。明治のご一新は革命だとみて、その原因を考えてゆこうとします。「王政一新は王室の威光に由り、廃藩置県は政府の英断に由るという説は、これ時勢を知らざる者の臆断なり」といって、ペリーの来航という外的ショックが人民の智力に火をつけて新たな段階に進めたという考えを示します。徳川の門閥専制に不満を持つ連中が討幕を心に抱いて、「尊王攘夷」の旗を振ったという見方です。幕府の開港処理を見て世人は幕府の愚にして弱を知った。「鬼神のごとき政府と言えど人力をもってこれを倒す可きを悟った」といいます。この見解は当時にして斬新で卓越した見解です。当時にして何という自由な発言ができたのでしょうか。攘夷論者が日英戦争を経験して一挙に西欧文明輸入と殖産興行に走りました。そして革命がなったら一斉に開国論者に変貌しました。つまり「尊王攘夷」は討幕の言いがかりに過ぎず、維新当事者は列強の植民地化の危機を感じ取り、自らその愚を悟ったのです。革命のイニシャティブを取るのは少数の志士であるが、衆論となって天下の勢いとなって幕府を倒したということです。水戸学や平田神学の力ではないとしました。革命の第1段階は知識人の離反で始まるという説では、幕末から幕藩体制への不満が蓄積され来たことは評価されます。「事の成敗は、人の数に由らずして、智力の量による」といって、福沢は出版の自由を確立と衆論を呼びかけます。「人の議論は集まりて趣を変ずることあり」といって、智力の組み合わせに期待します。だから多事争論が大切で、一つの意見で画一化してはならないのです。福沢は「会社」の組織論を持っていたようです。渋沢栄一が日本の民間銀行を設立したのは明治5年ですから、渋沢と福沢の接点があったかどうか興味が持てます。渋沢栄一自伝「雨夜譚」(岩波文庫)に明治の株式会社の祖と言われた渋沢の活動が記されています。福沢は人の集合体の力は一人一人の知力やエネルギーの算術和ではないという社会学的な命題を示します。だから自発的結社という株式会社論が導かれるのです。日本はこれまで上下関係だけの権力偏重社会できたものですから、ヨコの公共精神、「衆議の習慣」が欠如していました。商人の吝嗇主義で蓄財はあっても、投資による事業拡大、そして他人の資金を集めての資金投入という資本主義が発達してこなかった。「仲間の申し合わせ」という言葉は、政治的には議会政治になり、経済的には株式会社から資本主義に繋がる考えです。頭の一新を図って個人活動から「合議」の習慣を人民の間につくらなければならない。「無議」の習慣を打ち破らなければならい。明治7年野に下った板垣や副島らが「民選議院設立建白書」を提案したが、明六社でも議論が分かれ、加藤弘之と西周らは人民のレベルが低いから待てという時期尚早論を出しました。福沢は急進論ではなくまず地方の民会から「集議」の習慣を養成しようと提案した。当時は旧士族の生活救済問題が急務でしたが、旧士族は荻の乱や西郷の「西南の役」の反乱を除いて粛々とその政府決定に従うまででした。福沢は「利を争うは理を争うなり、士民の愚鈍淡泊は政府の専制には便利なれども、外国との交際(戦争)の際は甚だ覚束なし」といって、士民が政府に対してかくも無気力・無抵抗な国民は外国の侵略に対しても易々と服従するだろうと福沢は心配するのです。人民の智力と活力そして権力に対する抵抗精神を養うことが国家独立のために重要であると力説します。

7) 第6章 「智徳の弁」

『この章は智と徳は別物だということを確認するために設けられた。そして福沢は重要なのは智であることを強調するのである。しかし智と徳という対立的な論の立て方は、今からすると言わずもがなの時代遅れの論であることは否めない。智だけの論じても十分なのに、徳を持ってくると回りくどくて、かえって分かりにくい。またこの章の論の立て方は漢文特有の対句の構成でできており、言葉の対立からくる分類の小気味善さはあるにしても内容は希薄である。時代のなせる技だろうか、福沢は漢文の教養をもてあそんでいるようである。徳とはモラルのことで、智とはインテレクト(知性)のことである。ここから福沢は変な分類を始める。私徳と公徳、私智と公智、小智と大智と分けてみるが、それほど納得性があるようにも思えない。古来日本では徳というと私の徳を指し、そしてそれは受け身であることを至善としている。だから福沢は智の働きは広大で重く、徳の働きは偏狭で偏執だと断定する。徳は偏狭な世界であるが、文明は多事の際に進むものであるので、古のような無事単調に安んじてはいられない。世間の多事紛糾を処理するのに私徳ではいかんともしようがない。だから無用だとして捨て去るわけではないが、もっと重要な智と徳の働きと示そうといって、福沢は徳義と智恵の区別を述べてゆく。徳は人の心の中のこと、智は外に対して働くもので利害得失、比較検討、便利と不便、用と無用、近因と遠因などを考えることである。聡明叡智の働きと称すべきものである。徳としてキリスト教の十戒、孔子の五倫は人間最低の倫理で古来動くものではなかったが、それ以上のものでもなかった。これに対して電気通信・蒸気・製紙工業などは皆後からの知恵で追加されたもので、この発明工夫をなすにあたっては聖人の言葉は必要なかった。という風に福沢は儒教を排しながら、教養としての儒教を誇示するかのように延々と引用してゆく。この辺りは今日では飛ばして読んでもいい。徳は他人の伝習を要せず一瞬に会得するものだが、人生は無智からはじまり、学習によって会得してゆくものである。だから人の智はただ教育にある。ここに福沢は生きる意義を見出して教育者に終始したのであろう。儒教を徹底して排した福沢は、返す刀でキリスト教礼賛に対してもこれを退ける。聖教のみに籠絡されて一生を過ごすのは、天性の智性を退縮させることで、詰まることろ人を軽視し人を抑圧するものである。それ以外の工夫をわすれてしまうからである。信は智を曇らせる。そして福沢はキリスト教は果たして文明と言えるのかという疑問を呈するのである。西欧においてキリスト教を奉じる人のほとんどは文明の風に浴したもので、聖教を読むのみならず、学校教育を受けているので文明人と言えるという。だから日本の徳である神儒仏を愚かとして切り捨て、西欧の徳であるキリスト教を意義があるとする者は料簡違いである。宗教を信じるかどうかは本書の目的ではないとしたうえで、西欧と我国の力の歴然とした違いは、徳にあるのではなく我国が必要とするものは智恵以外に考えられない。キリスト教の宗旨も文明の進展によってルターの宗教改革が行われた。したがって宗旨のことは度外視し、これに介入したり、法で支配しようとするのは天下の至愚という。私徳には疑問が多いタヌキおやじの徳川家康が100年の戦乱を終了し、300年の太平を開いた聡明叡智の働きをもって福沢は家康を偉大な人物と評価する。 』

第6章「智徳の弁」は、丸山氏の著書では第10講「知的活動と道徳行為のちがい」、第11講「徳育の過信と宗教的熱狂について」に別れます。まず第10講「知的活動と道徳行為のちがい」に入りましょう。第6章もバックルの文明論に触発されたテーゼが出てきます。現在では理解できないが、明治初期には支配的観念が儒教に基づいた道徳主義というか、社会問題のすべてを道徳の問題にする考えが強かったそうである。現在の科学主義の時代からは想像もできないことであるが、そこで福沢はまず智(知性)と徳(モラル)を分けて考えようと提案します。智徳の分類についてはばかばかしいので省略します。福沢は相手の儒教の論理を丁寧に論破してゆきます。なぜ煩わしいほど丁寧なのかは、流通する観念に従って説かないと相手には通じないからです。智徳の分類については現在ではばかばかしいので省略します。徳の中には普遍性のある徳がありそれが問題なのではなく、本来は政治社会問題なのに個人に還元された徳目の弊害があまりに強いこと現状認識として提出し、これでは解決にならないし全体としての文明化の妨げになるといいます。福沢は内に存在する徳と、外へ働き掛ける智を5つの基準を使って分別します外的環境との関係において利害得失を判断するのが智のレベルです。外的環境が絶えず変化し深化するプロセスでは、智の活動は一刻も休むことはできません。福沢は「智者、もし無為にして害物に接することなくば、これを愚者と名づくも可なり」といい、智と徳の第1の違いだと言いました。そして智は国全体を変化させ影響範囲は無限だが、徳は個人にだけしか及ばないこれを第2の違いだといいました。第3の違いは、普遍的徳は古からほとんど変わらない(宗教の戒律がどこでもほぼ同じことをいう)が、智の活動は不断に進歩し蓄積されることです。第4の違いは徳は教えることができないし、形がないから偽善者もまかり通る事ですが、智は形をもって教えることができ、次世代の人はそこからスタートできるのである。第5の違いは徳は一身の工夫で、他人から伝習することはできず、一瞬で悟ることができるが、智の発明は積み重ねの結果であることです。現在自民党の保守派政治家は事あるたびに「道徳教育」を学校に持ち込もうとしますが、何を教えるのでしょうか。禅のような悟り教育をするのでしょうか。いや違います、二宮尊徳の代わりに皇国史観のような保守的イデオロギーを教え込もうとしているのです。そしてすめらみことのために死ねというのが本音でしょうか。あほらしい、明治以前(福沢以前)に戻りたいのでしょうか。

次に第11講「徳育の過信と宗教的熱狂について」に入りましょう。明治初期には「道義退廃論」の悲憤慷慨が盛んであった。福沢はそれにたいして「何ぞそれ狼狽の甚だしきや」と一蹴しました。福沢は植民地化の恐れに対して人民の文明化をもって語ります。しかし道学者に悲憤慷慨の極端主義については根拠なしとして批判します。尊王攘夷論が暴走したように、憶測が恐怖を生んでいるだけだといいました。政治的思考様式の極端主義をも生みました。見ざる・言わざる・聞かざるの堪忍の徳義では事態に対応できないことは明らかです。そこからは社会的停滞しか生まない。文明は人間の活動を多様化し活発にすることだという福沢の根本的なテーゼは、遠回りに見えて確実な結果を生むという確信を持っていたのです。太平等戦争末期には物資が枯渇し、精神論だけの「竹やり主義」、「特攻隊精神」、「人間魚雷」、「防空訓練」など、極端主義的思考では状況認識のレベルも捨て去りました。後の頼りは神風だけでした。次に道徳教育を過信するとどうなるかを示します。徳教論者の趣旨は結局、受け身の「べからず」主義となります。忍難の心などは必要な時もあるのだが、この教のみでは人生の智の力が退縮し、抑圧された心は再び伸ばすことが難しくなるのです。智性は外的環境にたいする能動的な働きかけが本来の姿です。福沢はどちらかというとキリスト教批判が強い面を持っていますが、キリスト教の教義にはほとんど触れないで、主として宗教の社会的関係だけを批判しています。宗教に関してはバックルの論をそのまま採用している。ルネッサンスの知的活動が契機となって宗教改革も実行された。宗教も文明進歩の度合いによって、変化するものであるという見解である。福沢は宗教的熱狂を罵倒して「拝むだけの輩にとって、耶蘇も孔子も釈迦も大神宮も区別あるべからず。合掌して拝むものは狐もタヌキもみな神仏なり」と言いました。徳義・道義が退廃しているから今の国民的危機感があるのではなく、知的活動の格差が欧州と違いすぎるのが問題なのだ。我国の至急の必要性は智恵ではないかと言いました。人民の無気力、士族の無学、皇族貴族の空虚さは目にあまるものがある。これでは諸外国の文明と闘えるものではない。福沢節の絶好調を聞く感がする。最後に水戸学の狂信から、闘争分裂が水戸志士の内ゲバ、迫害、殺し合いを招き、維新が成った時には水戸藩には有為な人材が無くなっていたという。維新後の指導者に水戸藩士が一人もいないのがその結果であるらしい。今も茨城人は「理屈っぽい」、「怒りっぽい」、「飽きっぽい」という三ポイ主義で分裂するのが得意だそうだ。

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」

『文明は歴史的なものであって、智徳が時代と場所を選択して効能を発揮する(TPO)という意味ではなく、智の働きが極めて弱かった時代と智の働きが旺盛な現代とわけて智徳の働きの特徴を表わし、家族と社会という場所において智徳の働き具合を論じることである。事物の得失・便不便を論じるには、一様にかつ不変として論じることはできない。それぞれ「一時一所」で、それぞれに理由が存在していたというべきである。まず時(歴史)についていえば、野蛮からようやく出始めたころ、人の心を支配していたのは自然に対する恐怖と喜悦であったという。おおよそ天地に間にあるものすべて鬼神の動かすところと信じていた。日本においては八百万の神というところである。このことは自然だけではなく人事(社会)においても然りであった。弱いものは強大なものに依頼し、それを酋長という。酋長は腕力があり、いくらかの智恵があるので弱いものを保護して人望を得ていたが、いつしか特権を握りついには世襲で村長(族長、君長)の地位を伝えた。君長の恩威と愚民の支配が確立すると、すべては君長の恣意的な心が決定することになると、善・不善が半ばし、人民はこの処置に恐怖と喜悦するだけの存在となった。故に一国の君主は偶然の禍福の源となって、君主は人民を超越する何者かに転化した。中国の太古の昔、堯舜の時代には君主一人の働きをもって、父親、教師、鬼神の役割を演じた。仁君明天子の誉、無為にして恩威を垂れる存在であった。これを「唐虞三代の治世」という。恩威と暴威が背中合わせの時代には、ただ徳だけが社会の理想であった。そして人智がようやく開け進歩して科学の法則を探究する時代となると、人が自然を支配できることが分かり、人は身体の束縛を脱し、精神の自由を得て、暴力支配から合理的(道理)支配に進むと、民衆の力が暴威を制する時代となった。従って政府と人民の力関係も一方的な従属関係を脱し、対等もしくは社会契約的な職分の関係となった。君主制のからくりが分かると恩威に萎縮することは無くなり、代議士と言えど公僕であると考え、政府には税金を払ってこれを支え、人民の福祉に答える存在となった。政府は外国の侵略を防ぎ、世の中の悪を止めるだけの道具ではなく、社会経済的事物の順序(秩序)を法によって保証し、効率的なサービスを行うべきものとなった。これを「文明の太平」と呼ぶ。次に文明の時代に徳義が行われるべき場所を考えよう。結論から言うと徳義が行われるのは家族という骨肉の場所だけであり、人の交際(社会)の場所においては、徳とは縁のない約束事が支配する場所に変わる。友人関係、君臣関係などは歴史的に変幻きわまりないところで、裏切り・反逆・殺戮が常態化していて、徳義が一貫して行われたためしはない。徳が通用しているのは家族内のみで、外に出れば徳の力は急速に失せるのが人情である。代って約束・規則が最重要な戒めとなる。証文、法律、条約などは悪を防ぎ善人を保護するために作られる。規則によって社会関係を整理する際には、個人間の信用など徳義のことは一切度外視される。信が破られた時を想定し損害を補償する新たな信用関係を築くものである。ここに規則とか法律の目的が設定される。規則は悪を防止するものであるが、世の中の人が全員悪人であるわけではなく善と悪が混合しているから、善人を保護するため定めるのである。政府と人民の信頼関係を保証するため、規則煩雑な法の支配を受け入れることが、一国の文明を進めその独立を保つために避けて通れない方向である。福沢は「法律蜜にして国に冤罪少なく、商法明にして便利をまし、会社法正しくて大業を企てる者多し。租税の巧みにして私有財産を失うもの少なし。・・・万国公法も粗にして遁る可しといえども殺略を寛にし、民庶会議・著書・新聞は以て政府の過強を平均すべし」と締めくくった。』

第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」は、丸山氏の著書では第12講「畏怖からの自由」と第13講「どこで規則が必要になるか」という2つに別れます。まず第12講「畏怖からの自由」に入りましょう。ここは統治の歴史を時間軸で述べています。前章で智徳の違いを述べたが、人間の行動様式が複雑な段階になってくると、その時々に応じた状況認識が必要となり、昔は簡単な道徳律で済んでいた問題が知性の問題になってきます。その時々場所での状況認識(時代と場所)を考えると、便利ともいえるし不便とも見えるということは、福沢の基本命題の一つでした。あくまで条件付きの善でしかない。道の議論ではいつも「一貫」が強調されるが、「古来の歴史において人の失策はと称するは、悉皆この時と処とを誤りたるものなり」という。公式主義を排し、実用主義で判断してゆくことは日本人の得意とするところで、しかし度が過ぎると「ご都合主義」になります。ここから太古の歴史になりますが、未開の時代では自然の聖霊に対する恐怖と祈祷が人々の心を支配していました。すこし人智が進んで、政治権力が発生すると権力者への恐怖と喜悦が中心となった。統治者の神格化、君主の天命説のような虚飾がはじまり「周唐の礼儀」と言った儒教の「仁政主義」が説かれた。これを福沢は「野蛮の太平」と呼ぶ。統治者は治水や道路といったインフラ整備を行い生産力強化に努め、人民には道徳律で治めることが仁政と言われた。さらに人智が進むと、利を図り害を避ける工夫をめぐらすことができるようになり、懐疑の精神と知性による制御の時代となる。懐疑精神は科学の発展と社会の合理的体制に向かい、人が自然を畏れなくなることを福沢は「人をもって天を使役する」といい、知性の勇気と呼んだ。自然のコントロールが可能になると、今度は人事社会の合理化に勇気が向けられました。政治権力のコントロールという時代になったのです。「暴威に基きたる名分もこれを倒すべし。「理をもって暴を制するの勢いは、地位に上下あることなし、政府と言えど畏るべからず」というように人民は自然と権力からの自由を獲得する。「政府は政府なり、我は我なり、一身の私については政府の嘴を入れしめんや」という私権の自由主義思想は福沢の基本命題です。しかし民主主義については民力が弱すぎる段階において、政府と人民の同権という段階には福沢は到達しませんでした。福沢の思想はアメリカの自由主義者に近く、自由と独立を尊重して他人の世話は受けないという福祉国家反対論のようでした。そして最終的なユートピアでは「文明の太平」が訪れることも夢みていました。

つぎに第13講「どこで規則が必要になるか」に入りましょう。ここは徳と智の通用する領域を区別し、かつ社会において規則がなぜ必要となるのかを述べます。徳義が成り立つのは家族肉親の中だけです。兄弟は他人の始まりという諺からいうと、家族の中も怪しくなります。無償の愛が通用するのは親子のみでしょうか。徳義の領域には限界があります。福沢は社会問題のすべてが徳義で解決されるという建前が支配している社会を前提として、これを打ち破る議論を展開している。家族と社会の区別を具体的に検証してゆきます。家制度や民法は省略します。家を一歩出ると親戚を含めて社会です。古来社会には本当は利害で結びついている君臣の情宣や「お家」(藩)を中心とした党派心を、福沢は徹底したイデオロギー暴露を行います。ですから社会に出ると徳義だけではどうにもならないことだらけです。そこで規則が必要となります。ロックは「社会契約説」によって、ロバート・フィルマーの家父長的な政治理論に基づく王権神授説を否定し、自然状態を「牧歌的・平和的状態」と捉えて、公権力に対して個人の優位を主張した。自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産(所有)の諸権利(固有権)を有するという自然法に従うと唱えた。トマス・ホッブズ(1588-1679)がいう『万人の万人に対する闘争』や外国勢力の侵略に対して、自然法だけでは対応不可能であるので、諸国民の同意によって政府は設立されるとした。立法府ー政治権力は諸国民の固有権を守るために存在し、この諸国民との契約によってのみ存在する。我々は我々の保有する各個の自然権を一部放棄することで、政府に社会の秩序を守るための力を与えたのである。言い換えれば、政府に我々の自然状態下における諸権利に対する介入を認めたのである。政府が権力を行使するのは国民の信託 によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば抵抗権をもって政府を変更することができると考えた。トマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約説が中世から近代への突破口となった理由は、『国家権力(社会規範)が、神から王(権力者)へ授与される普遍的な権力(規範)ではなく、人民の相互的な契約によって人工的に創作されたものであり改変可能なこと』を自然状態の理論モデルを通して合理的に説明したからです。福沢は維新直後においてこうした近代法的な考えを持っていました。福沢はこれを「国法」といい、「世の文明を進めるには、規則を除いて他に方便なし」といい、「法の支配」は文明の重要な要因であるとしました。「今日は人民、法を設けて政府の専制を防ぎ、自らを保護するにいたれり、一国の文明を進め、その独立を保たんには、唯この一法あるのみ」と第10章の「自国の独立を論ず」を先取りしています。また経済道徳にも規則が必要で(商法)、卑怯な方法で儲けることは長続きしない、信用の世界を築くために契約や規則があり、悪徳商人を取り締まるのではなく、市場を成り立たせるために規則がある。

9) 第8章 「西洋文明の由来」

『福沢はヨーロッパの文明史はフランスのギゾーから引用したという。ギゾーによると西欧文明の特徴は諸説紛々で一として纏まるものがないということである。政治、宗教、貴族制、神聖政府、立君制、民主制などの説が並立して、各自自主自由の様相であることだ。ヨーロッパ文明史をローマ滅亡後から簡単に振り返る。ローマ帝国は4世紀より衰微し、ゲルマン民族が侵入して帝国は分裂し西ローマ帝国は滅亡した。8世紀に一時フランク王国がフランス・イタリア・ゲルマンを統一したが一代限りで分解した。4世紀から10世紀までをヨーロッパ暗黒時代という。いわゆる中世である。その間に勢力を拡大したのがキリスト教団で、教権と俗権を併せ持った。暗愚蒙昧の時代にキリスト教は大衆の心理を占領した。ローマ時代の都市国家の市民会議の伝統が残るところでは民主制が芽生えていた。ローマ滅亡後各地の諸侯が乱立し後世の君主制のもとになった。ゲルマン人の野蛮は一切の権威に服することなく自由独立の気風が養われた。暗黒時代が過ぎ10世紀から16世紀は封建割拠の時代となった。国に君主はいたが名目のみで、国内は武人によって割拠領土に分割され、自由な人間は領主貴族のみで、国法なく人民の議論もなく、専制を制する力は存在しなかった。12世紀から13世紀には庶民の身体は王侯貴族の制約(俗権)を受け、精神の働きはキリスト教の圧迫(教権宗教)を受けた。このころに宗教の権力が最大となったといえる。都市国家においては商業が盛んとなって城壁を設けて一種共和国の態をなしていた。13世紀にはヨーロッパの自由都市は同盟を結び、王侯貴族政権と対抗して兵を持ち法を作って独立国を謳歌した。これは欧州の民主制のもとになったといえる。15世紀フランスのルイ11世が貴族諸侯を圧倒してブルボン王朝を開き絶対王政が開始された。この時代は王は第3勢力(有力市民)を利用して貴族を没落させ、全国統一の中央集権国家の形成に向かった。1520年ルターの宗教改革によりプロテスタントという宗派が生まれた。この宗教論争は人民自由の気風を反映して文明進歩の兆しとなった。1649年イギリスでは清教徒革命がおき一時王政は廃止されたが、以降は君主政府の態を改め、自由寛大な君民同治の政体となった。英国議会内閣制の政治は漸次改革の風を生み、政権は安定し文明が多いに進んで、自然科学の進歩により産業革命の道に邁進した。フランスでは1643年ルイ14世が即位して絶対王政の絶頂期を迎えた。18世紀になってルイ15世の時代は王政が衰微し、無力無法の政治退廃の時代となった。政体が腐敗するころ啓蒙思想、自由主義思想がすべての学問を改革した。人民の智力が生気を増した時期であった。』

8章「西洋文明の由来」は、丸山氏の著書では第14講「ヨーロッパ文明の多元的淵源」、第15講「ミドル・クラスの成長と英仏二大革命の背景」の二つの題目に別れます。では第14講「ヨーロッパ文明の多元的淵源」に入りましょう。丸山氏はこの第8章「西洋文明の由来」は次の第9章 「日本文明の由来」を際立たせるための伏線にすぎず、第9章と第10章が福沢諭吉著 「文明論之概略」の結尾であり、福沢の大面目である「主権的国家の形成」の結論的命題を構成しているとの見解を示します。第9章が「権力の偏重」という独特の大命題でもって日本の1千年を超える歴史を裁断します。それは日本の文明と社会についての共通する特徴であると提起するのです。むろん福沢は歴史家ではありませんので、第9章は系統的に日本尾歴史の由来を説くものではありません。そして第8章「西洋文明の由来」はもっぱらギゾーの文明史からの引用でなっています。ギゾーはヨーロッパの近代文明の基本的特徴を古代文明(古典的ギリシャ文明)との対比において捉え、古代文明の単一性(完成形)に対するヨーロッパ文明の多様性(発展性)で捉えます。多くの社会的要素がふだんに変化し闘争するからこそ、ヨーロッパ社会と文化の豊穣と非停滞性をもたらしたという見方です。福沢はギゾーの文明史観に根底から動かされ、それを日本の伝統的な社会と文化に対するイデオロギー批判の根拠としました。ギゾーはフランスの7月革命から2月革命の間の王権復活時代に活躍した政治家でもありましたが、福沢らはそういう政治的評価抜きに維新直後から、ギゾー、ミルやスペンサー、トクヴィルらの影響を受け、日本の知識人に紹介しました。ギゾー(福沢)の歴史解釈は歴史学の体裁を整えてはいないかもしれない。ある独断(命題)で歴史を一刀のもとに裁断することは我田引水のイデオロギー的手法でバランスのある歴史理解ではないだろう。しかし福沢が維新直後の日本のおかれた状況から、喫緊の行動に立ち上がるには十分なスプリッツを得たようである。西洋の文明は4世紀末の西ローマ帝国の滅亡の混乱と闘争に始まったという。東方から独立不羈の蛮族ゲルマン人の侵入(独立精神と忠誠心)、ローマ時代の自治都市システムの市民会議(自由精神と貿易商工業の発展)、中世の封建貴族諸侯の乱立から絶対王権の成立(王権秩序と隷従)、キリスト教の教権から宗教革命と云う多様な観念が併存したことが、ヨーロッパの近代化へ導いたということである。各要素勢力の解説は「帯に短し襷に長し」程度で、取り上げて言うこともないので省略する。要するにギゾーの史観のポイントは「多元的な組織原理」であり、福沢はここから「自由は多事争論にあり」という命題を引き出したのです。

次に第15講「ミドル・クラスの成長と英仏二大革命の背景」に入りましょう。ギゾーは中世の自治都市の意義をブルジョワジーの発生に結び付けました。福沢はここに注目して「民政の元素」、「市民」という概念を発見しました。、ギゾーは自由都市の近代化の担い手として、独立市民および自治を評価しました。つまりは知識人・ブルジョワジーのことですが、福沢は「ミドルクラス(中間階級)」という言葉を与えました。ギゾーはまた近代ヨーロッパは社会の異なった階級の闘争から生まれたといいます。今「勝ち組・負け組」と言った皮相な新自由主義の言葉が流行していますが、ギゾーや福沢はあたかもマルクス主義の言葉で語っていました。ミドルクラスは12・3世紀ごろから興る君主政王権も交えて近代国家の要素を生み出した。君主・諸侯貴族・ミドルクラスの権力要因が「一つの国民・一つの政府」という政治的統合を形成して、ヨーロッパの近代になります(16・17世紀)。君主と貴族という複数の権力構造が、16世紀にフランスのルイ11世による民衆を味方にした君主の一方的勝利となり絶対主義的君主制が興ります。そして欧州に近代国家が生まれてゆきました。ルターの宗教改革も人智と合理的精神による自由改革の一環として捉えられる。近代国家の形成と市民革命は17世紀のイギリスにおいて起こりました。絶対君主政治は民衆の力を借りて興ったものであるから、最初から民衆に力がなかった東洋的絶対専制国家にはならなかった。むしろ君主制は「啓蒙君主(開明君主)」と呼ばれれる王による、立憲君主制(王権を監視し制約する民衆議会とバランスする)でスタートしました。近代国家は領域国家であることを福沢はギゾーから学びました。従って国境を持ち外交で勢力バランスを図る国家からなります。国家が独立して存在するということから、福沢の悩みや文明化の困難が始まるのです。ギゾーは、1649年のイギリス革命(清教徒革命・ピュウリタン革命)で王位を廃止したが、1688年王位が復活したが自由寛大な君民同体政治(福沢の訳語)となったといいます。フランスの近代化はルイ13世の宰相リシュリューから始まるとされ、太陽王ルイ14世のときに絶対主義王政の最盛期を迎えました。この時代から近代的外交が生まれたといいます。福沢が「外国交際」というのはこのことです。ところがルイ15世のころからフランス王朝は衰え、停滞し、政府の権威は地について無政府状態に陥った。ところが民の力によるフランス社会の活発化が進み、いわゆる啓蒙精神という普遍的価値の自由探索が盛んとなった。このフランス革命がおこる社会情勢については福沢はギゾーに依ります。一切のものが同時に研究と懐疑の主題となったといいます。ギゾーは宗教改革は教会における専制権力の打倒と捉えますが、福沢は宗教に関しては興味を持たないためこれに言及しません。イギリスではフランスのような絶対王権の確立は行われず、聖と俗界における自由獲得が同時に進むという例外となります。つまり君主制と民主政、地方分権と中央集権制という異なった原理が並行して発展し、多元的な原理や社会要素の同時併存と拮抗というテーゼを、イギリス文明は集中的に表現している。フランスでは君主制と自由民政がフランス革命において激しくぶつかりました。フランスでは中央集権制絶対王朝政府の集中が進み、一方民衆側では多様な分野での自由探究と社会活動が活発化しました。ギゾーはまさしくフランス中心主義の考えで文明論を書いていますが、福沢のイギリスびいきはイギリス風立憲政体を讃美します。

10) 第9章 「日本文明の由来」

『前の章で見たように西洋の文明は、その人間の社会関係(国家政体論)には諸形態が同時並立して、時間をかけて漸く近づき遂に一体化して文明の開化となって、自由が行き渡ったものと理解される。福沢はこれを「合金」に例えて、成分とは違う全く別の特性を獲得したという。単一の成分からなるものが進化発展したものと違って、「3本の矢」のように諸変化に対応する能力がすぐれ強靭な性質を獲得した。文明の自由は買うことはできない。諸々の力の中間に存在して、諸意見を入れ諸力を結集するところに、独りの英雄の智恵に頼る危うさを回避し「三人寄れば文殊の知恵」の民衆合議政治の良さが発揮される。これを政治学の言葉でいうと、政治課題に処するに各利益者の合議とすることで、専制を防ぎ最もいいところに解決策を見出すことである。ところが日本の文明を西洋の文明と比較すると、この「権力の偏重」ばかりが目立つのである。そしてこの権力の偏重とは2極間の権力格差ではなく、ピラミッド型の権力移動でありすべての階層間で越えることのできない権力格差があり、それに迎合する卑屈なまでの人格が形成される。自分のすぐ上の上司は天皇であり、すぐ下の部下は自分の奴隷であるという関係の隔壁的連鎖構造である。自分から上は見えないように仕組まれた権力支配の巧妙な分断支配策で、直接の怨嗟はトップの権力者には届かないのである。人は上の権力を利用して下を支配する。「虎の威を借りた狐」である。これを福沢は「強圧抑制の循環、窮まることなし」という。以下に日本の権力構造の特徴をまとめてゆこう。
@ 権力の偏り 治者と被治者に分かれる:この議論で行くと権を恣にして権力の偏りを招くのは決して政府のみではなく、全国人民の気風である。政府にある者は人民を治めるもので、被治者を下にみるのはアジア・日本の悪習である。日本の文明は治者と被治者をはっきり分かつことで、この悪弊が社会の隅々まで貫徹していることである。
A 国力 王室に集中する:身体能力が大きくかつ富を有するときは必ず人を制するの権を獲得する。この日本の文明を行う権力は一人政府に在って、人民はただその指揮に従うのみであった。古来律令制の時代より日本全土は王室のもので、さらの王室と人民の間を細かく分ければ、それぞれに権力の偏りがあった。
B 政府は変わっても国体は変わることはない:保元平治以来国権が武士階級に帰したと言え、それは治者の中での移動に過ぎず、国司から守護地頭の職に移っただけのことである。治者と被治者の関係(国体)は依然として上下関係にあって昔と何も変わっていない。応仁の乱以降の戦国の世にあって、武人の世界には栄枯盛衰があっても、百姓には関係のないことで年貢の納め先が変わるだけのことである。
C 日本の人民は国政にかかわることはなかった:治者と被治者の間には高い障壁があって両者に交通がなく、日本は平安時代、数百人の藤原貴族と数十人の皇族が支配し、それ以外は被治者であった。宗教も学問も治者層のために使役され、富も才も美も栄華もともに治者の独占するところであったことは文学作品に如実に表わされている。「日本には政府在りて国民なし」と福沢はいう。
D 国民は一度も独立市民の地位を求めたことがなかった:被治者が被治者の位置で権力をつけてゆくのではなく、治者の世界へもぐりこむことで変身していったというべきである。下剋上の限界もここにあった。欧州の独立市民は人の世話にならずに(権力筋に取り入ることなく)商売を伸ばし、商売を保護育成するためインフラを整備し軍隊を持ち、近世にいたって中産階級の人々は議院を起して、自分の地位保全と圧政を抑制した。戦国時代に堺や京都の商人の活躍はまさに独立市民の誕生かと思われたが、資本主義を生むに至らず徳川幕府に抑圧・窒息死された。
E 宗教はいつの時代も権力のためにあった:神道はいまだ宗教の体をなしていないので、日本で文明の一翼をになったのは仏教であった。しかし仏教は導入の最初から治者の道具であった。日本中の大寺院は天皇家・摂関家あるいは将軍家・執権家の建立になる。寺院の大伽藍は権力の象徴として存在した。僧侶は政府の奴隷で厳しい制約を課せられていた。本来大衆宗教である真宗本願寺派も治者の仲間入りをなし、宗教組織は檀家制度によって幕府の戸籍係の末端を担った。幕府の大衆支配と大衆宗教が手を握った。
F 学問には権力はなく、専制権力の独占事業であった:儒道学問も最初から政府の公営事業としてスタートしている。日本の学問はいわゆる治者の世界の学問で、しかも政府の一部分にすぎなかった。徳川時代に学者の志を得たのは政府諸藩の儒学者であった。彼らが官位を得ていることは医者(典医)と同じであった。大学者とは幕府の儒学を独占した林家、藤原家みたいな御用学者をいう。「人間社会に停滞の害毒を流したのは儒学の罪というべし」と福沢は糾弾する。
G 戦国武士に独立の精神なし:古来日本は武勇の国と称し、武士は自由の精神にあふれているかのような誤解を生じている。実はゲルマンの野蛮人のような他を頼まない独立不羈の精神とは程遠い代物であった。日本の武人はただ権力偏重において養われ、上は藩主から下は下級武士にいたるまで汲々として人に屈するを恥とも思わなかった。日本の武人には独立一個人の気概乏しく、すこぶる卑劣な所業を平気で行う破廉恥な輩と見える。
H 権力偏重ならば治世乱世ともに文明は進まない:日本の統治は古来、治者と被治者の2つに分かれて、国民全体を治め富ませる意味の国家は古来存在しなかった。官僚機構というもそれは家の執事の拡大で、産業といっても家の御用を満たすだけのぜいたく品製造所にすぎなかった。おおよそ権力の偏りの政治は古来徳川家が一番巧みであった。徳川の治世をみると人民は権力の頂点に専制政府を抱き、世の中の人民は士農工商という身分の箱の中へ押し込められ、一人一人が壁で囲われているようであった。人民は自ら難を侵してまで事をなすの勇気はなく、運動力を奪われて停滞の淵に沈んだ。人民に気概がないなら治世と言えど乱世と言えど、文明は決して進むことはできない。
I 経済二則 蓄積消費、理財の働き:権力の偏重の弊害は経済の進展にも影響を与えた。この章は経済活動(蓄積と投資)と理財管理について述べる。経済には2つの法則があるという。一つは蓄積・費散、二つは理財であるという。第1則の蓄積・費散とは企業活動による資本の蓄積と、費散とは拡大再生産のための設備投資である。 第2則の理財とはこの蓄積・費散を管理する智と習慣であるという。とにかく国の富はこの蓄積・費散とを盛んにすることである。これを国財といい、これには全国の国民の働きによる外はない。全国経済の様子を見るとその進歩の遅いことは、西欧の産業革命後の経済発展に比べたら愕然たる差を生じた。経済第2則の理財(国家財政)の要とは、活発な流通と投資、節約勤勉の力によるところ大で、蓄積・費散の拡大を図るものである。理財を投資すれば国財の一部となり国は富むはずであるが、いまだに日本が貧乏なのは財の乏しきには非ず、財を理する智力が乏しかったためである。』

いよいよ福沢諭吉の「文明論之概略」の最終段の2章を残すのみとなった。丸山氏はこの9章「日本文明の由来」を3つに分かつ。第16講「日本には政府ありて国民なし」、第17講「諸領域における権力の偏重の発現−その1」、第18講「諸領域における権力の偏重の発現−その2」で、この9章は丸山氏の専門である「日本政治思想史」に近い分野であるためか、最も力の入った解説となり新書本にして130頁を費やしている。第9章が福沢の特色や見識が最もよく表れているといわれる。9章「日本文明の由来」、第10章「自国の独立を論ず」の2章は、当然ながら日本の事柄のため下敷きはなく、最も福沢のオリジナリティが現れている箇所である。では第16講「日本には政府ありて国民なし」に入ろう。上の権力構造の特徴@からDを述べる。第9章は第1義的にはイデオロギーー批判です。ただし宗教や制度やその時代のドグマの教義の内容について議論するのではなく、外からその社会的政治的役割を論じ、それがどの階層の利益を守るためかを暴露することです。つまり敵の隠された動機や役割を明らかにする批判様式です。第2の特徴は、福沢は「権力の偏重」という言葉を用いて、あらゆる社会的文化的領域に潜んでいる人間関係の横断的特徴を抉り出すことを行っています。それは日本の社会学の先駆ともいえる優れた分析になっています。文明の自由については福沢はギゾー、バックルから考え方を学びました。「多事争論」という言葉でどの勢力の自由も絶対的な力を持たないところから自由が生まれるということです。福沢の思想の本質は民主主義(デモクラシー)より自由主義(リベラリズム)に主眼がありますが、両者は絡み合っていますので分離は難しいといわれています。だから状況によってどちらに重点が置かれるかで、福沢は政治的には立憲政府派と見えたり、民選議院派とも見えるわけです。福沢が学んだギゾーやトクヴィルやミルも社会的に複雑な動きをするので、簡単に何派と決め付けるのは浅薄というものです。福沢は本章で「権力の偏重の禍」と呼ぶ根本テーゼを提示します。官尊民卑への攻撃が福沢の決まり文句で、パワーバランスを大事にして腐敗と停滞の基になる「権力の偏重」を徹底して嫌うのです。政治も権力機構ですので、福沢は政治主義(何でも政治家が決めるということ)を嫌います。テレビタレントあがりの無節操な者が知事や代議士になったからといって、急に政治家として偉くなったような行為は笑止千万です。福沢は日本社会ではあらゆる人間交際(社会関係)のなかに、権力の偏重が構造化されていると主張します。そして権力の偏重は価値観(下より上はえらい、大は小より立派)を伴っていることです。それを人民が信じていることです。それは「寄らば大樹の陰」と卑屈な奴隷根性につながるのです。またこの権力の偏重は何段とも知れないピラミッド型権力構造(官僚制 ビューロクラシーがその典型です)が社会の交流と自由を妨げていることです。つまり閉塞感と停滞感の温床となっています。「たこつぼ」型社会構造のことです。維新政府の参議たちの心情はどうだったかはわかりませんが、民選議院論派からは「有司専制」と攻撃されていました。権力の偏重は実体概念ではなく「関係概念」であると福沢は見抜きました。日本社会の病理的解剖を試みた社会学として福沢はその先駆者であった。権力を恣にするのは、その人間の特性ではなく行動様式のパターンで、「日本社会(東アジア独特のといってもいい)の人民の免れない流行病」である。権を恣にするのは権力者の通弊であるとして、人間がその地位についたらとたんに権力に囚われるのは、生まれ持った人の性格ではなく、まして風土から出てくる日本人の特性(民族性)でもなく、社会の構造的関係がそうさせるのだという見識です。そういう風に平生から教育されているからである。福沢はそれが儒教的イデオロギーであるということを看破しました。

ここから日本国の歴史を展開します。ただし福沢は歴史家ではないので歴史的事実問題の細部で異同があっても、それをもって福沢はナンセンスだというのは文脈で理解しないことになり、おそらく福沢の本意ではないでしょう。事実の背景関係で理解するようにつとめ、本文では史実にはあまり触れないでおきましょう。古事記の神話による神武天皇の開闢に始まり、福沢は「治者と被治者とあい分る」といって政治権力の発生の段に入ります。腕力と智力に優れた部族の指導者(酋長と呼びます)がでて、世襲化されるにおよび治者は固定化され上下関係が発生する。能力が身分となるのです。(無能なタレント2世が跋扈して、歌舞伎のような梨園を形成するようなものです。CMと視聴率に毒されたテレビ界の怠慢で新人育成がおろそかになったためです。政界でも同じです。野球界でも一時その2世が現れて世間の笑いものになったことを憶えています。) 日本の王政(ヤマト王国)は豪族との武力抗争の結果、確立された王権(朝廷)はその伝統的正統性を主張するため、歴史をでっち上げます。それが「古事記」であり、対外文書が「日本書紀」でした。これだけの文書が書けるということは、渡来人の力もあるでしょうが、外から上からの文明化が進んだということです。大和朝廷主導の文明化は、貴族の所用を満たすための工芸技術、学芸、法的整備、財政、土木工事など文明を施工する権力は悉皆朝廷官僚の手によって行われた。また仏教・学問も朝廷の位を持つ僧によって担われた。上古以来「日本には政府ありて国民なし」という状態であった。形だけの律令制(律は刑法、令は政令)も整えられ、不完全な全国制度も作られた。律令制全国制度(国司)は貴族と寺院の土地私有制によって平安時代後半期から次第に緩み、不在国司に代った地頭、受領が徴税の実権を握り、源氏平家の武士階級が勃興した。12世紀末には国権は武家に帰した。官位制度はそのままにして鎌倉・室町時代には朝廷と公家の支配権はほぼ失われた。王朝文化も失われ、鎌倉時代には貴族仏教は大衆仏教に取って代わられ、室町時代には茶、能歌舞伎などの日本文化が勃興した。政権担当階級は次々と変わったが、治者と被治者との関係は特に変わらなかった。それは治者内の勢力交替に過ぎなかった。人民の視点で見れば王室も武家も区別はなかったので、「治乱興廃はただ黙してのの成り行きを見るのみ」といい、人民にとって政権争奪の乱は傍観者にすぎなかった。王室も武家も人民から見ると、どちらも寄生階級であることに変わりはなかったのである。王室と武家という関係は西欧では君主と諸侯のパワーバランスという意味ではない。王室の虚名をいだいた武家の実施支配ということで、あえていえば鎌倉執権家と御家人の主従関係が見えるだけでこれもパワーバランスの上に立っているのではなかった。「日本には唯政府在りて国民あらず」、「日本国の歴史はなくて日本政府の歴史あるのみ」も福沢の基本命題にひとつである。権力者史観に偏った(明治までの)従来の史書批判につながる。西欧ではその国勢の変ずる(革命)にしたがって政府もまた趣を変えるが、日本はそうではない。宗教も学問も商売も工業の悉皆政府の中にあり、すべてを規制することができる。だから政府に変があっても、社会構造は何も変わらない。応仁の乱の時期の下剋上といっても、治者内の順序が変わるだけで、人民が権力に加わることではない。被治者の側には、自ら政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化の問題に傍観者的態度が蔓延している。戦国時代の領土争奪戦でも人民にとってどちらが勝とうと無関心である。戦乱に巻き込まれて人命と収穫を奪われないように注意するだけであった。これは近代国家間の戦争ではありません。「報国心」や「愛国心」が生まれるわけはなかった。愛国心が鼓舞されるのは近代国家の時代であり、実質的に人民主権思想の裏付けが必要でした。日本では明治維新まで政府はあったが、国民および国民国家はなかった。ところが大西洋戦争で政府は国民総動員令をだし愛国心を鼓舞し報国の魂を説いたが、それは掛け声だけで国民が国土を死守する気力はなく、敗戦となり連合軍が日本を占領すると、国民は易々と占領軍の指令に従った。米軍はゲリラ戦も覚悟していたが、全くあっさりと無条件降伏し組織だった抵抗は全くなくて拍子抜けしたという。要するに日本という国を国民は愛するに値しないとみていたことは、戦国時代の農民と同じだったようだ。豊臣秀吉の立身出世は農民という境遇を抜け出て支配層にもぐりこみ、自分だけが治者の階段を上り詰めた偶然の成功者に過ぎないと福沢は裁断しました。この問題は明治になっても、立身出世がたデモクラシーの問題性につながっています。ヨコの連帯意識はなく、自分の出世のためには周りの人を出し抜くことが称えられる世の中です。一人勝ち組に入って良しとするか、分厚い中間階級の一員として、独立市民として社会に貢献するかの問題です。福沢は民衆の生き方として、@誰かの権力の下で生きるか、A自分が権力を取って民衆を圧迫するか、B地方や階級の利益のために政治的な発言するかという設定で、自主的な連帯意識に基づく政治的社会的活動という意味での独立市民像を描いています。

次に第17講「諸領域における権力の偏重の発現−その1」に入ろう。上の権力構造の特徴のEFGについて述べる。宗教、学問(儒学、国学)、武士階級の3分野において権力の偏重を実証する。まず宗教の問題であるが、日本では神道は教義や道徳を持たず、皇室を拝むだけの行為であるから宗教とは言えないとして、仏教について考察をする。福沢は宗教音痴(特にキリスト教には全く関心がない)でしたので、宗教を社会的役割から功利的にみる傾向が強い。ギゾーの文明史から得た、俗権に対する宗教権力の抗争に注目します。宗教には少なくとも良心の自由があり、それを脅かす権力への抵抗という構図で見ている。ところが日本社会は後日この神道によって大変な難儀を見ることになる。帝国憲法では信仰の自由が保障され、神道の国教化は目指さないとしたが、平田神道と大日本帝国の国体論と癒着した「国家神道」が教育の現場で浸透し、「神風」が吹くから「神国」は負けないという神がかりのデマで太平洋戦争に突入したのです。福沢が軽視した事象が日本全体を狂わすという大失態となりました。徹底してこれを粉砕しておくべきでした。誰も反省しない、何事も徹底しない無責任国が日本の特徴です。という話は本筋から外れるので、話を仏教に戻します。ところが仏教も百済から伝わった時点で初めから治者階級に取り入り、その権力に頼ったというべきでしょう。名僧知識といわれるものは国費で入唐し、帰って支配者の物力で壮大な伽藍を築き、人民を教化するというが、実は貴族階級の加持祈祷仏教(密教真言、天台など)に過ぎなかった。もし天皇の頭痛や神経衰弱が祈祷して治ったら大僧正となり一寺を賜り、爵位を受けることができた。鎌倉時代の新教勃興時代に浄土真宗、法華経、禅宗などが勃興したが、大衆に目を向たのは真宗だけであった。日本では昔から僧侶が俗界の位階や勲等をありがたく受ける習慣がある。大寺院に皇族が持参金付きで門跡となって天下りしてくることが常習化していた。「古来日本に宗教はあれど自立の宗教なるものあるを聞かず」と福沢は嘆いている。律令時代から律宗や僧尼令で政治権力の統制を受けていた。御用学者という言葉があるように勅願所は「御用寺」という。宗教の威力ではなく権力の威力を借りているだけの仏教である。戦国時代真宗教徒は自治都市を作り、一向一揆で石山本願寺は毛利と組んで織田信長に抵抗したが、徳川時代には完全に行政組織に組み込まれた。僧侶は俗権によって裁かれる「御定書百か条」が作られ、明治時代になって僧侶に肉食妻帯が許された。「僧侶は政府の奴隷」と福沢は断じた。
次に学問の分野に移ろう。「学問に権なくして却って世の専制を助く」と福沢はいう。漢字が伝わって以来人民は字を読めず学問は僧侶の独占するところであった。「知らしむべからず」の無為の治政では、人民を無智に置くことで治世が成り立っていた。長年政府の官僚と僧侶が学問の担い手であった。最初から政府の御用学問として存在してきた。徳川幕府は学問所を作り積極的に学問の輸入を行い翻訳事業も進めました。そのため儒教が勧められ幕府知識人に合理主義が浸透し、それが明治維新以来の西欧文明輸入に受け皿としての役割を果たしたことは福沢も評価している。しかし学問が数家に独占され、我国の学問はいわゆる治者の世界の学問であって政府の一部分であるにすぎなかった。この幕府による学問の独占が敗れ始めるのは、民間学者による国学の発展を待たなければならない。学校と言えば幕府の昌平黌か藩校に過ぎず、民間では寺子屋で子供の読み書きそろばんを教えていた程度で私立学校は皆無であった。幕末に蘭学の私塾ができたことで(福沢が通った適塾もそのひとつ)、自発的結社による学問の伝統が長い間存在しなかった。明治維新後の福沢らが作った明六社がその私学の初めとなった。アカデミーという言葉は教育組織とは区別される。アカデミーとは研究者の同業組合的存在であるが、日本では大学所属意識が強く、名刺に「・・・大学教授」と書いて通用する意識に問題がある。幕府時代に儒学が政府の専制を助けたということは、儒教のイデオロギーからして当然のことだとしても、儒学以外にほかの学問(自然科学、政治学、経済学など)が西欧に比べて遅れたことが、学問自立の道から長く遠ざかる原因となった。儒学は人間の関係(政治)を説く学であったとしても、堯舜を理想とする尚古主義だけでは革新の機運を封殺することであって、末世は堕落史観である。懐疑の精神と実験の精神で文明を推し進める学問ではなかった。また儒学の模範主義教育は近代日本を後々までも支配し、今日の教育で「期待される人間像」といった画一主義に毒されている。

次に武士階級の権力を見てゆこう。武士道(武士のエートス)というものは昔から独特の倫理観と忠誠と勇気(一見ヤクザの任侠道もこれをまねしたものか)を称賛され、新渡戸稲造も「武士道」を書いた。しかし戦争が無くなった太平の世の武士道は虚飾の塊みたいなもので(武士は食わねど高楊枝)、「乱世の武人に独1個の気象なし」と福沢が攻撃するのは乱世(戦国時代)の武士である。福沢は「やせ我慢の説」で「旧幕臣は武士の節操をもて」みたいなものを主張しますが、ここではあくまで乱世という暴力のみの時代のことです。室町中期以降になって荘園制が崩壊し守護地頭の一元支配が顕著になり、かつ下剋上現象が著しくなった時代です。福沢の主張にはギゾーのゲルマン蛮族の独立不羈の気象と日本の武士を比較しているのです。武士の大義名分とは君臣関係のに決まっているのです。「乱世の武人に独1個の気象なし」とはインデヴィリアリティのことで、トクヴィルやミルの「自由論」の「個性」に相当します。ミルは平均化された大衆に対する個性を「自由論」でのべたものです。近代的自我という個人主義または個性的個人主義のことです。福沢はそのような西洋政治哲学思想の意味合いではなく、個人の自立性というほどの意味で使っています。福沢は乱世の武家の大義名分を、皇室の虚名を争う「児戯に等しき名分」とからかっています。明治維新の大政奉還と同じ構図です。武士は権力偏重の中で養われ、人に屈することを恥としなかった。福沢は一見不羈豪邁の武人の気象がいかに内面に卑屈さを秘めていたかを暴露している。「強圧抑制の循環、窮極あることなし」と権力の偏重構造を見ています。「この偏縮偏重の権力を一体に集めて、これを武家の威光となずける」抑圧移譲の原理であるといいます。つまり自分が受けている抑圧を、弱い人へ押し付ける論理である。自分が頭を下げた分、下の人間の前では威張るのです。その無限の連鎖が開闢以来の日本社会の閉鎖構造(権力偏重)を生んできたのです。分断支配構造と言ってもいいでしょう、下から突出する反抗力を避けるための防御壁を無数に張り巡らした構造というか、弱い抵抗力を封じ込める人のバリアーと言ってもいいかもしれない。東洋の人民は突き抜ける力を持たない弱い人の群れだったのだろうか。

次に第18講「諸領域における権力の偏重の発現−その2」に入ろう。上の権力構造の特徴のHIについて述べる。第18講は第9章「日本文明の由来」のまとめというべき「権力偏重ならば治乱ともに文明は進む可からず」が先に来て、次に付録のように「経済二則:蓄積消費、理財の働き」が加わります。これで第9章は終わります。「権力偏重ならば治乱ともに文明は進む可からず」という福沢の命題からいうと、治だから文明は進むとか乱だから進まないということではなく、むしろ太平の停滞、乱の革新ということもあるが、日本社会の伝統ともいえる権力偏重で民衆が政治に参加できなかったために、勢力の交替やパワーバランスという国体の変更がなく、治者対被治者の分裂状態は文明という智の発達を阻害してきたということだと福沢は云うのである。日本の史書が最高の権力の趨勢にしか興味がなかったように(今日の政界ジャーナリズムは首相交代劇にしか興味を持たないのと同様に)、権力の偏重は治者の独占であった。国家という言葉があるように国は家であり、家は国であった。つまり支配者の家(日本では朝廷)のことである。江戸時代ではお国とは藩のことです。諸侯の家という意味です。福沢の特徴ですが福沢は「国家」という言葉を嫌って「国」と表現します。古来日本の政府はすべからく専制政府であり、民が対抗勢力になることは一度もなかった。これは近年まで東洋諸国に共通の国体であった。中国は専制に加えるに中央集権官僚制+軍閥国家であった。近代西欧国家は多様な価値と意見の統合(多様な勢力のバランス)に立った国体で、国と国民という関係で結ばれ(国民が国家を形成する)、治者と被治者の関係は固定していません。日本は古来文明を進めるのに必要な国の体をなさなかった。徳川の太平の治世を見るように、権力の偏重政治が巧みであったためかその時代が長すぎたためか民の気象が萎え、敢為の精神(アドヴェンチャー精神)が喪失したままになった。幕末日本に来た英国の外交官アーネスト・サトウが「ここでは政治的停滞が安定と取り違えられている」と日本社会を評した。明治維新があって廃藩置県となったが、全国の人の性は俄かには変えることができない、もはや民の奴隷根性は病気に近いと福沢は語気荒く罵倒します。このことで福沢は愚民蔑視論者だと誤解されました。こんな状態では明治9年に起きた民選議院設立要求運動において福沢は時期尚早論者のような複雑な態度を示すのです。西洋の人の能力に差があることは事実だけれども、人々は自ら頼む独立進取の精神で臨むのであるが、日本人は古来権力から差別されてきたため社会的活動も禁じられ、活気に乏しく自分の殻に閉じこもる傾向が強いので、これでは文明の道を行くことはできなかった。これが日本文明の病理であると福沢は断定します。
西洋では世間で商工業が繁盛し、中等の人民(ミドルクラス)にも権力(政治的権力のみを言うのではなく、学問、教育、地域などで活躍すること)を有する者が増えてくると、政府にかなり影響を与えて政策変更を迫るのに対して、わが日本では宗教も学問も商売も悉皆政府に取り込まれていて人民が活動する場がなかった(官のみあって民がなかった)。この節は経済のことを扱いますが、 福沢が蓄積消費と理財の経済二則を持ち出したことについては、丸山にもその典拠が分からないそうです。第1則は財の蓄積と消費(費散 投資も含む)とその関係です。拡大再生産方式の原則が述べられています。アダムスミスの「国富論」から来たのでしょうか。経済の第2則は理財です。財務会計といってもいいでしょう。述べられている内容は全く教科書的で、特に福沢の見解があるわけではないので簡単にして省略します。人は生まれつき「富強と貧弱」があるわけではないが、その格差が生まれるのは如何とも仕方がないといいます。現在の自由主義論者の言い分のように聞こえます。そして日本の古い社会において、生産者(農民)は富の蓄積(生産、納税)のみで費散を知らない、治者は費散のみで生産しない消費階級であるといいます。問題は国富の蓄積者つまり農工商の民衆が、消費者としての幕府関係者の処置にクレームをつけられない以上、政府は収支のバランスを取ることもせず、納税という収入を増やすこと以外の智恵がない。徳川270年の太平の時に経済が長足の進歩をしたかというと、経済の停滞期であった。幕府の不明で規制が多すぎて経済発展ができなかったのか、実業界の蓄積が少なくて資本主義に移行できなかったかは定かではないと福沢はさじを投げます。福沢の経済知識と経験はそれほどでもなかったのです。

11) 第10章 「自国の独立を論ず」

『「学問のすすめ」第3編に、 「国は同等なる事」、「一身独立して一国独立すること」が書かれている。「文明論之概略」のこの10章もかなりのページ数を費やして自国の独立について述べている。日本は西欧文明を取り入れることを国是とするといいながら、そのためには日本国が存在することが最前提となるのは自明の理である。福沢は中国や朝鮮といった他国の近代化を論じているわけではないからだ。しかし圧倒的な文明(科学技術と経済力)を持つ西欧列強と交際するには、よほど注意しないと貿易や軍事的に不利な立場に追い込まれ、ついには植民地化されることも心配されるのである。植民地化されれば、インドにみるように列強によって強引に単一生産を強いられ、近代化が遅れ格差が固定化される可能性があった。鎖国を開き自国を近代化するためには、自力で立ち他国に制約されないために、まず独立していることが第1条件であることは論を待たない。福沢は当たり前の「独立論」が旧態の皇学者、儒学者に誤解されないように、歴史的に近代国家の独立の必要性を正してゆくのである。今ではくどいかもしれない自明の理を、当時福沢は大まじめにこれと闘っている。我国の文明の度合いは、自国の独立さえおぼつかない状態にあることを心配するからだと福沢は章のはじめに述べている。徳川封建時代には君臣の義が人間社会のすべてであった。我国の人民は数百年間天子の存在も知らなかった。明治の王制一新は、千数百年前の大義名分を突如思い出したからではなく、幕府の政を改めるために起こった事件である。明治の人民と皇室との関係は政治上の関係であって、皇学者のいう国体論は懐古の情であり人民を文明開化に導くことではない。一方キリスト教を導入して文明開化を進めようとする極論もある。福沢はキリスト教の教義のことには口を挟まず、人間社会活動特に貿易・外交・戦争には宗教は関与しないと考えてこれを排除した。宗教を広げて政治上に及ぼすことは1国独立の基をあやまることになる、今でいう政教分離政策である。また漢学者(儒学者)の言う礼楽征伐をもって人民を御することでは、専制政府あるのみで民を考えず、官あるのみで私を顧みない論で、人民を卑屈隷従せしめる愚民政策となる。外国がなぜ日本に来るかと言えば、それは貿易の為である。未開半開の国から一次産物を安く仕入れて自国で加工する2次産業を持つからである。一国の貧富は意外と資源の多寡にあるのではなく、人の労働(付加価値)による製品によって決まる。これはマルクスの言う労働価値説である。加工することで(人の労働が加わることで)製品価値が高まるのである。当時日本の唯一の貿易品と言えば横浜から輸出される絹糸であった。これがフランスのリヨンで高価な絹製品に変わるのであった。 維新後人民同権の論議は甚だ盛んであるが、幕末に結んだ通商条約が極めて我国にとって不平等であることを知る人は少なかった。アメリカのペリー総督が5隻の軍艦を引いて浦賀にやってきて、商売しなければ攻撃すると徳川政府を脅かし、それが横浜など5港の開港となり、次々と5か国と不平等な通商条約を締結させられた。居留地、内地旅行、外人雇い入れ、税などの案件について我国は対等の権利を失った。この不平等条約の屈辱は、我国の実力がなく大砲に怯えて恐喝に応じたこと、そして為政者(治者)がその被害をこうむる人民の苦しみを分かっていないことから起きたことである。福沢は英国の植民地インドの例をひいて、インド人の人民が英国人に酷使され、栄達の道をふさがれた状態を説明する。外国人の制御を受けたなら、日本の人民は残酷酷薄の中に閉塞死するであろうという。外国列強が現地人や先住民を殺し・圧迫し・権利をはく奪した事例をあげ、文明化とは白人の奴隷になる事かと罵倒する。文明とは人民の気風のことであるので、独立していなければ何の役にも立たない。国とは土地と人民を合わせた態勢で独立と文明は同意義である。むろん外国人個人の交際は信用できるものであっても、国と国との関係は自然状態である。そこで福沢は国民に臥薪嘗胆をとき、まず日本を文明化し科学や社会組織を充実することが先決であるという。今の日本では総力において外国と戦争できる状態にはないのである。外国から軍艦や大砲を買ってくることはできても、圧倒的な経済力を買ってくることはできない。攘夷の論、皇学者の国体論、漢儒学者の君主論では明治の人心を維持することはできない。目的を決めて文明化に進む以外に道はない。その目的とは独立を保つことである。独立を保つ術策は文明しかないと福沢は結論した。独立と文明化は鶏が先か卵が先かという論であるため、多少話が前後して腑に落ちないところがあるが、どちらも必要ということが現実的な政治課題である。古来日本が独立を維持できたのは、国に独立の勢いがあったからではなく、偶然敵が日本という島国を攻めてこなかったに過ぎない。』

第10章「自国の独立を論ず」を丸山氏は、第19講「維新直後の精神的真空と諸々の対応策」、第20講「主権的国民国家の形成へ」の二つに分かつ。最後に論じる「自国の独立」が「文明論之概略」の根本的テーマであることがわかる。では第19講「維新直後の精神的真空と諸々の対応策」に入ろう。自国の独立を図ることは文明論のなかでは些末な1章と思われるかもしれないが、実は我国の文明の度においてそれは大変困難な問題でおろそかにできない喫緊の課題であると福沢は問題の優先度を指定する。ヨーロッパの文明を目的とするといいながら、そのヨーロッパから植民地化の危機が迫っているのである。すべての問題は相対的で、機微はその順序にあるという福沢の現実主義が発揮される。福沢はその危険性を認識するように感情的なまでに警告を発し続けるのである。当時の維新政府の要人たちがそのことを認識してたかどうかは知らないが、条約改正に動いたことは歴史的事実である。独立に関しては福沢の危惧は回避されたということは確かである。しかしこれも当時の世界情勢のなさしめるところで偶然の僥倖という説もある。アメリカは南北戦争という国内分裂の危機で大変だったし、19世紀末各国はそれぞれの内政問題で手いっぱいだったとか、当時は中国への侵略で大忙しで次は日本も狙っていたとか、日本が資源的にまったく魅力がなかった(今の北朝鮮と同じ状況)などの理由で、かろうじて誰も日本を侵略しなかっただけのことだという論が多々あるようだ。それはさておき、福沢は維新後の国民の意識の真空状態を懸念する。幕藩体制の価値感が一挙に崩壊して道徳的靭帯(モラルタイ)がばらばらになったと福沢は嘆いています。恩義中心の武士のエートスは廃藩置県で藩が無くなって分解し、帯刀禁止令で形だけの武士の精神もなくなった。福沢はモラルタイの代わりに「報国心」(愛国心)に転じさせようと考えたのでしょうが、自分の国という概念は未だ生じていなかった。それは人民の地力が活発化して、他に制せられない独立市民の形成された西洋にはとてもかなわないと福沢はしきりに嘆いています。軍備、経済、科学、社会組織などの総合力でとても戦争して勝てる相手ではないと、戦わずして自分の非を認めていた。「敵を知る者は百戦危うからず」のことわざ通り、維新政府は西欧諸国との戦争を避け富国強兵政策に動いたようで、それは大成功でした。古い道徳的靭帯の解体後の真空状態を、物質的安楽がすべてだという精神状況が入り込んで、旧士族を始め金もうけ主義に走った。何でこの精神的真空状態を埋めるかという論議で、@尊王的国体論、A儒教、Bキリスト教、C万国公法、D攘夷論および軍事的ナショナリズム。E鎖国復活論などが出てきますが、福沢はこれらではだめだという批判を行いました。つぎに福沢は各説を次々と論破してゆきます。それを見てみましょう。

@ 尊王的国体論: 平田派国学では王政復古は建前では神武の昔に戻ることです(儒学では堯舜の昔に戻る)と同じように、時代錯誤も甚だしいのですが、福沢は皇室と国民の関係をきわめてドライに突き放しました。「我国の人民は数百年の間、天子あるを知らず」と、天皇は忘れられた存在でいまさら「国民統合の精神」には使えないといいます。そして武家政治の約700年間は暴力だけの世界ではなく、日本文明の大半はこの時期に発生した。それをいまになって突然思い出したように千数百年以上昔の太古には戻れないと福沢節はなかなか快調です。そして「尊王問題」を政治上の関係の得失に求めないで、唯懐古の情に訴えるのははなはだおかしい限りだと一笑しました。福沢は皇室をきわめて功利主義の立場で考えていましたが、後日の天皇制国体をあまりにも甘く見ていたようです。ここだけは福沢の見損ないです。
A 儒教: 儒教批判はいままで多くの言葉を費やしているので、一言でいうと儒教精神には上から(治者)の発想しかなく、国の構成主体としての人民が不在であり、人民独自の自主的な精神活動を(これが文明のこと)を認めないから話にならないということである。
B キリスト教: キリスト教を国教にという説は中村正直が出しました。福沢は宗教音痴なので、宗義には踏み込みませんが、キリスト教が植民地化の先駆をなした点とかにこだわってキリスト教には反対します。キリスト教を社会功利主義で利用することは是としています。キリスト教=博愛主義という考えには納得できないようです。福沢は明治10年ごろから色濃くなる「大陸経営論」を唱えて読者を混乱させますが、福沢は冷徹な国家実存に依拠した論理は一貫しています。日清戦争や朝鮮干渉には福沢は支持しました。国家権力とナショナリズムの偏狭性と、普遍的理念性の国家平等観はたえず牽制されていなければいけない。そうでないと底知れぬ自己欺瞞と偽善に陥ることを福沢は認識していたので、時事局面で一律には捉えられない発言があります。
C 万国公法: 世界の国家間を律する国際法あるいは自然法は万国公法と呼ばれ、国家主権の絶対性が西欧社会で当然視されていたことと相対する概念です。「学問のすすめ」で福沢は道理に基づく国家平等説を展開しました。これを一辺倒に主張すると「建前論」となり福沢はこれを「結構人の議論」といいます。国家実存理由も展開しなければなりません。福沢の表現がかっての主張と反することは常套的で、しかし同一書内で相矛盾するかのような表現も多々出てきます。だから福沢は文脈で読めといわれるのです。自分のなかで競合し優先性のある説が表の表現に出てくるのですが、それも相対的です。それが主ではない状況想定では前説を覆すこともしばしばです。だから第10章の自国の独立という国家の機微に相当する問題では福沢が何を言いたいのかはしっかり吟味しないと、支離滅裂の印象を持つことになります。

次に第20講「主権的国民国家の形成へ」に入ろう。ここではD攘夷論および軍事的ナショナリズムとE鎖国復活論を扱います。この節で福沢はわざわざ「聊か平生の所見を述べざるを得ず」と断って、D攘夷論および軍事的ナショナリズムとE鎖国復活論を単に批判するだけでなく(E鎖国復活論批判は実に簡単なことで省略します)、積極的に今後の方策論について自説を展開するつもりです。自説とは@外国交際(外交)問題、A外国交際と経済、B不平等条約、C人の平等と国の平等、D西欧列強の世界制覇、E軍備とナショナリズム、F国の独立と文明、G日本国の独立のことです。
@ 外国交際(外交)問題: 外圧または外国交際(国際外交)は近年とみに困難性を増してきていると福沢は危機感をあらわにする。国際関係ということは西欧的国家システムと言われる近代国際社会に日本が自主的に参加するということです。よくいわれる「脱亜入欧」のなかの「入欧」のことで、平たく言えば西欧列強の中へ日本も特別参加することの困難性です。19世紀後半までにできた主権国家を構成員とする国際社会のことです。パワーバランスの中で伍してやっていけるかという問題性を鮮明に意識しました。そのための課題は日本を国民国家にする事、二つは日本を主権国家にする事でした。結果的に言うと東洋で主権国家になれたのは日本だけでした。この点で福沢の指摘は成功しました。次に福沢が心配する点は次の2点にありました。
A 外国交際の経済上の不利: 開国で産物輸出の国になるか、製造国になるかという問題です。一次産物輸出国日本は西欧先進工業国と不平等通商条約を結んでいました。関税率を決められないということです。また外資が日本に流入して搾取されることも恐れていました。不平等条約の改正は実に長い時間がかかりましたが成功しました。福沢の心配は除かれました。投資や利を争うことは市場ではあたりまえのことで、経済についても理解も進みました。
B 外国交際が行動様式や気風に与える影響: 自由と平等を旗印にする西洋列強の現実の経済面での強欲・偽善には福沢は現実主義者として認識していましたが、外国人の内地雑居論には、福沢は無形の精神的影響を心配していました。外国人の問題というより日本人の問題です。モラルを心配していますが、福沢の杞憂にすぎず、結局もまれて強くなるしかいないのです。
C 人の平等と国の平等: 国の平等問題に対する不感症を取り上げます。人が平等であるように国も平等であるという考えは、民権論と国権論が不可分の形で論じられました。天は人の上に人を造らずという平等の理念は身分の平等をもたらしましたが、国家平等という普遍的理念はまだ日本の知識人でも認識する人は少なかった。外国人に蹂躙される恐ろしさを鎖国時代になれた人には理解できなかったようです。反抗せずに順応する国民性のふがいなさを熟知したいました。それで上で述べた不平等条約改正や精神面での影響の心配となったのです。
D 西欧列強の世界制覇: 西洋国家の文明とは現地人を大量に殺戮し、奴隷にしたり、原住地から追い払って土地を奪うことを平気で行いました。貿易という名の略奪も行わrれていました。日本の開国とは白人の奴隷になることではないと福沢は自嘲気味に熱く語ります。欧州帝国主義がアフリカ分割を終えて東アジアに向かうのは1890年以降のことでした。福沢は日本というよりアジア対ヨーロッパという意味で警告を発します。福沢というと明治10年代の「脱亜論」が有名ですが、別に福沢の言うとおりに明治政府が進んだというわけではありません。政府要人が持つ危機感と福沢という民間人ジャ−ナリスが持つ危機感と政策はおのずと別次元で動いていたでしょう。両者の距離感と価値観の共有問題はまだ実証されていないようです。ただここまで発言できる福沢はやっぱりすごいと思います。
E 軍備とナショナリズム: 攘夷論の変化としての軍備優先論はナショナリズムにつながります。国を過つ最も偏狭で危険な思想です。福沢は学問文化、経済力を含め国力全体の国勢という観点で、国力不相応な軍備に反対します。巨大軍艦を買ってきても、砲弾や燃料など資源面・産業面のロジスティックがない状態では、巨大な厄介者にしか過ぎないのです。借金で自ら破産するだけのことだと福沢は罵倒します。しかし福沢はキリスト教立国論への反論で、国家実存理由を述べたところで「戦争は独立国の権威を発揚する術で、貿易は国の光を放つ」ということをいい読者を混乱させます。明治10年ごろから日清戦争にかけて福沢の国権論と大陸進出論へ力点が異動する「転向」の萌芽とみる識者がいます。現実主義者福沢のしたたかぶりというか、また状況での文脈で言っているのか理解に苦しむところが福沢の魅力です。ただし国際戦争において侵略戦争が国際法違反として犯罪視されるようになったのは、第1次世界大戦後の国際連盟規約第16条においてでした。だから福沢のいう戦争観は外交の術としての戦争だといえます。
F 国の独立と文明: 「全国人民の間に一片の独立心あらざれば、文明も用をなさず、これを日本の文明と名づくべからざるなり。土地と人民を併せてこれを国と名付け、その国の独立という。その人民相集まりて自らその国を保護し、自らその権義と面目とを全うするものである」と福沢は国の独立と文明の定義を行いました。外形の文明を学ぶより、人民独立の気風を学ぶ方がはるかに困難だといいます。
G 日本国の独立: 「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは内外の区別を明らかにして我国の独立をたもつことなり。而して独立を保つの法は文明の外に求むべからず」と言って、堂々巡りの議論は終わりました。どこまで深読みするかで福沢の論は玉虫色にひかります。100数十年を経てなお福沢の「文明論之概略」が読み続けられるのにはそれなりの魅力があるからです。


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