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長谷川宏著 「丸山真男をどう読むか」

 講談社現代新書(2001年5月)


戦後知的社会の巨人 丸山真男の功績と限界

竹内洋著 「丸山真男の時代ー大学・知識人・ジャーナリズム」という本は、丸山真男氏の社会的な位置を分析したものだ。本書である長谷川宏著 「丸山真男をどう読むか」は著者長谷川宏氏の市井の哲学者として視点から見た丸山真男の功績よりは姿勢の限界を主な話題にしている。いずれの本も丸山真男氏を多角的に理解する上で参考になろう。丸山真男氏の経歴については前書に詳しいから、繰り返さない。著者長谷川宏氏の視点を知っておくために長谷川氏を紹介する。長谷川氏は丸山氏の活躍の華やかなりし60年安保闘争のときに、同じ東大文学部の学生であった。当時は完全に丸山世代を代表するような信奉派であったが、吉本隆明氏の「丸山真男論」を読んで丸山真男に対して批判的視点を持つことを学んだ。哲学研究科大学院学生のとき全共闘学園紛争が起きて大学を去り、所沢で塾を経営しながら市井のヘーゲル哲学者の二重生活に入った。まさに丸山氏が言うところの「在家仏教徒」の生活である。そして丸山真男氏の功績は功績として、しかし生活レベルの大衆の視点から丸山氏にすっぽり抜けている視点・姿勢を問い続けた結果が本書となった。
丸山真男氏の交流する知的階層(インテリ)における快活聡明な姿勢はなぜか大衆市民に向かわないことの違和感を抱くのである。丸山氏の大衆とは教育すべき、啓蒙すべき、政治に目覚めさせるべき対象であったようだ。丸山氏は軍隊嫌いであったことは有名であるが、軍隊にいる人は大衆そのものであって、その軍隊大衆への興味のなさ、嫌悪感はすなわち大衆社会との断絶を意味する。たしかに日本の近代化は知的社会と大衆の社会との亀裂を深めるように進行した。明治維新以来急速な官僚養成の為西洋文化の摂取を目的としたエリート層が形成された。そこには上昇志向と大衆との切断願望が一体となって現れた。知的制度の確立は大衆の上に立つ階層を形成して、知的社会と大衆の生活との切断の固定化に向かった。戦後の知的特権階層としての丸山真男氏は切断された大衆の生活をイメージしたり汲み取ることはせずに、自分の階層から見た抽象度の高いイメージをもとに論を進めた。学問側の言い分は大衆には理解しえないのに、大衆を高めて啓蒙するという本末転倒な姿勢に終始したようだ。

日本ファッシズム論

日本の戦後の民主化は占領軍主導で行われ、民主化の目的は戦前の封建的社会制度と軍国主義の打破であった。丸山氏はこの外からの流れに乗って発言の場を得て一躍世に出た。丸山氏の「超国家主義の論理と心理」、「日本ファッシズムの思想と運動」、「軍国支配者の精神形態」の三論文が世の反響を呼んだ。「超国家主義の論理と心理」では社会的・政治的な一切の価値を包括する国家それが日本の全体主義であったと捉えた。国家が精神的価値の独占的決定者として現れるのは「教育勅語」、「国家精神総動員運動」においてである。天皇は西欧独裁君主のような唯一の主体的自由の所持者なのだろうか。天皇は人間的存在ないしは人格的存在ではなく、構造的(場)存在である。日本のファッシズムはそういう天皇を作り出した。天皇を始め、政治的支配者は主体的責任意識が稀薄で茫洋たる(中心に行くほど空虚な場)存在であった。しかし天皇が精神的権威と政治的権威を一元的に占有するので、その中にいる人々や集団は自己の自覚も決断、責任を持つことも困難であった。権力者といえどあまりに矮小で、戦争責任裁判において横とおしゃべりをしたり無知をさらけ出したり、清水の舞台から飛び降りるつもりで戦争をしたとか、あまりに決然と責任の結果を自覚することがなく、欧米の裁判官が拍子抜けしたといわれる。
ただ自分達の支配の虚構を指摘したり糾弾されることには潔癖で、場を壊す異端分子の排除のみに異常な情熱を示した(治安維持法など)。その場の存続が何よりも重視されたところでは、個人の存在や自由が価値を持つことはなかった。その場とは「国体」の護持であった。日本という場において国体護持が全ての人の頭に呪文のように纏わりついた。明治以来日本では個人とか自由とか言うことは育たなかったうえに、戦争中はファッシズムが個人の自由を徹底的に弾圧した。ファッシズムを推進したのはドイツのような下からの運動ではなく、日本では軍部、官僚、政党、資本家、貴族など既存の政治権力が上からの統制で作ったものである。
日本における主体的自由の意識の未成熟は、上は天皇から下は底辺の民衆に至るまで、どの階層を見ても明確な主体的自由の意識の存在は皆無であった。意識して独裁をしたというなら必ず責任の自覚があるはずなのに、だれも悪いことをしたという自覚はない。いわば確信犯のいない業務上過失罪程度の意識である。西欧では自立した個人の闘いによって思想と政治体制・市民革命が発展しつつ持続してきた。それを支えるのが知と思考の力なのである。
日本の戦後の主権在民では、自由な主体の確立が戦後の最大の思想課題であったが、権力の抑圧がなくなったというだけでは個人は自立した主体になれるものではない。日本の近代化は個の確立という点で未だ未成熟である。60年安保闘争でも70年全共闘闘争でも闘争が終わるたびにきまって自由で自立した主体の存在の不十分さが反省されている。日本の知識人階層は明治以来最初から権力側に立脚しており、ファッシズムを擁護推進したのも学歴で差別する知識人(官僚、学者、経済人など)であった。己の知的確信に基づいて自立的に行動することや自由な主体の形成ということは戦後においても困難な道であった。

福沢諭吉と日本の近代化

自由な主体の確立という先覚者が福沢諭吉である。丸山真男は日本の思想史のなかで荻生徂徠と福沢諭吉をよく勉強したという。福沢諭吉は「独立自尊」というが、それは決して個人主義に埋没することではなく、国家を独立した個人の内面的自由に関連つけて考えることである。日本の稀有な自由主義思想家である。丸山氏は福沢諭吉については「文明論の概略を読む」という大著を著した。そもそも「独立自尊」とは身分的秩序に縛られた従属的精神から解き放って、新たな秩序を創出する精神を言うのである。権威に囚われず、「多事争論」のうちに自由な気風が養われるのである。権力への位置関係は個人によって違うが、日本文明の構造的特質(儒教的世界といったほうが正しい)はこの差異に価値が入ってくることだ。多少の違いにも「偉い」という価値付けが行われ個人を束縛する。これを「権威の偏重」という。
1974年の明六社には福沢諭吉も参加したが、非政治的結社でありながら時の政府から解散命令が出され抵抗したのは福沢と中村のみで他の八人はさっさと藩閥政府の官僚になった。当時の知識人は権力に対抗する強さを持ち合せていなかった。明治20年の欽定憲法発布において板垣退助の率いる自由党はあっさりと伊藤博文に身売りし、板垣は洋行という買収に応じた。この事件はあまりに権力に無抵抗な知識人の姿である。明治20年をもって自由民権運動は鎮圧され、天皇制国家が成立した。古河財閥と官憲に死ぬまで抵抗した足尾銅山鉱毒事件の告発者田中正造翁の気骨はどこに行ったのか。明治の知識人エリートたちの立身出世意欲の強さは個の自由や自立の思想の弱さと表裏をなす。何が足りなかったのか。一つは精神的強さが足りなかった。二つは知識人の知と思考が民衆に近ずく方向性を持たなかったからだ。そこが民衆といっしょに行動した田中翁の粘りと違うところであった。
戦前は言うに及ばず戦後においても高度経済成長や情報社会化の到来も未だ健全な市民社会をもたらすには至っていない。現代社会では個人は砂のようにバラバラに流され、政治に近づくことが難しくなった。そういう社会の中においては、文学、ボランティア活動、環境活動のような非政治的或いは反政治的生き方も、個の自由と自立を求める近代精神の育成になるのではないだろうか。

日本政治思想史

丸山真男氏の近代政治思想史は儒教(朱子学)荻生徂徠と国学の本居宣長の二人に集約される。近世政治思想史の機軸となるのは儒教である。儒教は徳川幕府の武士階級が官僚として組み込まれるに当って、民衆の上に立つ者のイデオロギーであった。徳川家康は儒教を国の教えとし林家をその番頭とした。林家に対抗して立つ行動の儒教が朱子学である。これは明治維新の立役者吉田松陰や下級武士のイデオロギーとなった。儒教は個人(孝)と社会(忠)と自然(理)の一体をとく。朱子学の徒荻生徂徠の革新性は公と私の領域の峻別、および主体的な聖人の定立にあるとされる。儒教的な秩序観では人間は制約される受け身の存在でしかない。そこで聖人を置いて改革を正当化するのである。丸山氏は、この聖人の主体性が人間一般の主体性に成長する兆しを期待する。国学の本居宣長は道理の及ばぬ領域(国学という学問の場)に異質な論理を置いて道理を覆そうとする、反政治ないしは非政治の思想であった。儒教イデオロギーの替わりに実証的文献学で「源氏物語」、「古事記」を読み解くのである。まさに近代的自我の出現であろうか。支配・非支配を抜け出して自由な個の意識が文献に向かい己の感性と知性を頼りに思考を積み上げる。
丸山氏の古代から中世までの思想史は「古層」(「原型」、「執拗低音」とも呼ばれる)といわれるが、政治的思考の原型は倫理意識、歴史意識、政治意識の三つとなる。私には、前二者は共同体に関わることで妥当性は今となっては返って不明瞭なのでコメントしない。政治意識の原型は国家という権力機構に関する意識なので説明しよう。日本の古代政治の「政」の観念は下から上への一貫した流れ「奉る」にある。それを丸山氏は日本尾支配構造が統治権の帰属者たる天皇と実質的な権力行使者が分離(一体化していたのはせいぜい飛鳥時代までで、後は藤原氏が支配の実権を握る。そして平家、源氏、北条、足利、戦国大名、豊臣、徳川、明治の元勲、軍部が支配権力の行使者)し、一種の二重政治が行われたことによるとした。つまり正統性の所在と政策決定の所在が分離したことである。天皇は神と皇祖に奉り、支配政府高官は天皇へ奉り、庶民は官へ奉る流れが出来、誰が支配の中核か不明な点が日本の政治構造であった。天皇は人格的存在ではなく一つの空間的時間的存在として君臨する共同体(国体)のシンボルに過ぎない。日本の権力中枢は近づけば近づくほど虚無になる共同幻想である。したがって実質的政策決定者も無責任で、権力の由来意識も明確ではない。この日本的政治構造は実は今日でも官僚や企業の政策決定に当てはまる。実質的決定者は主任クラスで、上へ行くほど責任意識は稀薄になる。上役は現場から乖離し承認の判を押すだけの存在で、切り盛りするのは30台の主任や班長、課長代理クラスである。不祥事があると知らなかったで済ます。これは政治家でも同じ。最近は米国流のトップダウン方式が流行になりそうだが、現在の経営者は長い現場不在のため有効な手が打てるとは考えられない。あーこの無責任日本社会!

最後に長谷川宏氏が見た丸山真男氏の思想の流儀について考察しよう。長谷川氏が地域の住民と読書会を実践されている中で、主婦の丸山氏像を聞いたらしい。すると回答は「回りくどく、分らせようとする意思が感じられない」ということだった。丸山氏の活動は殆どが学問の世界のことである。丸山氏の学術と地域住民の日常はあまりに乖離してしる。これは丸山氏だけの問題ではなく、大学関係者、知識人のスタンスの問題である。上から大衆の啓蒙という向き合いかたが丸山氏の流儀であった。普遍的な思想を民衆の生活に近づけるのではなく、民衆の意識を普遍的な思想や理念に向かって引き上げることが丸山氏の思想的感覚であった。現在の学術世界においても、実用的科学分野での研究は結果が生活に利すればよいことだが、文科的分野では民衆的基盤に立っていると考えられるのは稀薄である。社会科学という分野では社会学、心理学、民法などでは民衆の生活に関係する。丸山氏は、既成の政治団体だけでなく民間の自主的な組織が活動することで民意の多様な形成ができると期待される。かっての日本や今の韓国のように政治に全ての価値を置くのではなく、芸術や学問などに多様な価値を見出して、政治の優位を否定することに丸山氏は活路を見出そうとする。丸山氏はムラ共同体思考を切り捨てるべきだと言い、長谷川氏は村志向を切り捨てることは生活の否定と同じで生産的ではない、むしろ生活密着思考様式を容認して認識を深めるしかないと言う。さてどちらが正解だろうか。


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