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長谷川公一著 「脱原子力社会へー電力をグリーン化する」 

 岩波新書 (2011年9月)

電力のグリーン化による脱原子力社会のシナリオ

2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故を契機として、世論に大きな変化が生じている。少なくとも原発に関して無関心から反対まで様々な意見が噴出した。安倍自民党政権は2007年憲法改正のための「国民投票法」を作ったが、今これを逆手に使って原発推進か脱原発かの国民投票を行なえば間違いなく原発反対意見が多数を占めるだろう。しかし原子力発電問題は単に賛成・反対の決を取るだけでは、むしろ支配者側の陥穽に嵌められるだけである。2011年11月現在で、九州佐賀県の玄海原発運転再開と来年の夏の電力不足を天秤にかけた脅迫宣伝が流されている。原発反対には選択肢を用意しなければならない。アルタネーティヴがないと自民党と共産党の議論に過ぎない。結局金と力で屈服させられて沈黙を強いられることになる。外国の人から、「広島・長崎で原爆を経験し、第5福竜丸で死の灰を洗礼を受けた日本人がどうして原発を推進してきたのか」と問われることが多いと聞く。原子力発電を技術的に究極の発電と理解するか、それとも政治的な文脈で理解するかで考え方は大きく変わる。今原発の技術論はさておいて、日本が原発を推進したのは、それは日本が米国の占領下にあったからだ。アメリカ製憲法を拝承し、サンフランシスコ単独講和で自由主義陣営の一員として宿命付けられたとき日本の政治的方向が決定され、原発もアメリカからやってきた。1953年アイゼンハワー大統領の国連での演説「平和のための原子力」には、アメリカが商業的にライセンス料や核燃料を売り込むだけでなく、原子力協定によって日本の核武装を永遠に封じ込めるための仕組みが隠されていたのである。石油が無くて南方へ進出し太平洋戦争に敗れた日本としては、資源が無い国としての科学技術立国という面目が立ったのである。京都物理学派の湯川秀樹博士や坂田昌一博士が原発及び核兵器反対の立場を取ったにもかかわらず次第に排除され、同じ京都学派の南極観測隊の西堀栄三郎氏は原子力船開発事業団理事であったが、原発反対論者を「火を恐れる野獣の類」といった。「バカ」発言で有名な石原慎太郎氏以上の暴言を吐いたものだ。原発は冷戦と高度経済成長の時代が要請した技術であった。

著者長谷川公一氏のプロフィールを紹介する。長谷川氏は1954年山形県生まれ、東京大学社会学研究科卒業後、1984年より東北大学へ移り、東北大学文学部教授となった。専攻は環境社会学、社会運動論、市民社会論である。著書には「脱原子力の選択ー新エネルギー革命の時代 増補版」(新曜社 1996年)、 「社会学入門ー紛争理解をとおして学ぶ社会学(放送大学教育振興会、1997) 、「環境運動と新しい公共圏―環境社会学のパースペクティブ」(有斐閣、2003年) 、「紛争の社会学」(放送大学教育振興会、2004年) などがある。原子力発電について、技術論で述べた書物は多いが、社会学の視点から包括的に述べた書物は少ないという反省から本書は書かれた。いつもトンチンカンプンの技術論で誤魔化されてきた人には、待望のわかりやすい、眼から鱗式の本である。情報公開時代のもかかわらず発電コストは機密事項ということで、真っ黒に塗りつぶされた発禁本なみの罫線しかみえない資料が経産省や東電から渡されるだけで、技術者でさえ原発の真の姿はよく見えない。原子力ムラという産学官のスクラムは鉄壁である。それが国民の税金と電力料金を食って、怒涛のように原発政策を推し進めるのである。それだけのエネルギーと資源を使えば、原発以外の選択肢も容易に推進できる。つまり原発は国策であって、究極の策ではないのである。

2011年3月11日の東日本大震災とそれに続く福島第1原発事故以来、私も深い関心をもち原発を勉強しなおした。以下の書は技術論ではなく、多方面からの原発告発の書である。
内橋克人編 「大震災のなかで」(2011年6月 岩波新書): 岩波新書が震災後総力を挙げて各界の著名人に、この事故の意味を問う緊急出版の本であった。まさに日本のあらゆる病根を抉り出そうとする意欲の書といえる。
室田 武著 「原発の経済学」(1993年 朝日文庫): 30年も前の書であるが、物理学科出身の経済学者による原発の経済学という当時の異色の書であった。原発は経済的という政府の嘘を暴いた内容は、資料は古いが今でも真実をついている。30年前から原発の体質が変わっていないことの証明である。
石橋克彦編 「原発を終らせる」(2011年7月 岩波新書): 地震工学の著者は、地震列島の上に原発を54基も作るという無謀さを指摘し、脱原発のシナリオを提起した。
広河隆一著 「福島 原発と人々」(2011年8月 岩波新書: 「東京に原発を」を提起したジャーナリストの著者による、震災直後から線量計を持って福島に入ったドキュメンタリーである。東京と地方格差(地方収奪)構造を指摘し、長崎大学放射線医学の御用学者のはたした住民欺瞞の方便を告発しているところがユニークである。
佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(2011年6月 平凡社新書): 「知事抹殺」の書で知られる元福島県知事による、東電の疑惑を告発しプルサーマルの反対の烽火を上げた当事者の書である。政府・官僚の反発を招いて建設汚職疑惑事件で知事を追放され、福島第1原発事故が起きたという因縁の書である。この権力機構にしてこの原発事故ありとする原発政策の本質を描いている。
西岡秀三著 「低炭素社会のデザインーゼロ排出は可能か」(2011年8月 岩波新書): 経産省とはちょっと毛色の違う環境省の役人が書いた地球温暖化対策「2050日本低炭素社会シナリオ」の解説書である。経産省は地球温暖化対策に原発推進を暗に含ませ、原発技術輸出を国を挙げて取り組んでいる。これに対して環境省は表立って反原発とは言わないが、省エネルギーを説くことは原発依存体質から脱却することである。地球に優しい発電として再生可能エネルギーを推奨している。

1) 誰も止められないのか、日本の原発政策

福島第1原発1号機の水素爆発によって吹き飛んだのは原子炉建屋だけではない。溶融したのは燃料棒だけではない。多くの国民がこれまで漠然と寄せていた国家と電力会社への信頼感、原発システムへの信頼感などが吹き飛んだのである。福島第1原発から東電が逃げ出そうとしたとき、菅首相はこれを許さなかった。日本の原子力技術とはかくも脆かったのである。世界一稼働率が高いとか、世界一安全だという自負は砂上の楼閣の神話に過ぎなかったというより、真っ赤な嘘だったのである。メルトダウンの恐怖に駆られた東電社員は職場を放棄して避難しようとしたのだから。その一方では政府は「放射能の恐れはありません」と嘘の官房長官談話を流し続けたのだ。私達は何も信じられなくなった。先ず政府・東電の発表は疑ってみること、そして自分で放射能を測ることからスタートした。政府への不信、原発システムへの懐疑を前提にした新しい時代の始まりである。実は世界では新しい時代が始まっていたのである。ゴルバチョフ回顧録によると「チェルノブイリはわが国体制全体の多くの病根を照らし出した。このドラマには長い年月に積もり積もった悪弊がすべて顔を揃えた。異常な事件、否定的なプロセスの隠蔽、無責任と陽気、投げやりな仕事、そろいも揃っての深酒。これは急進的改革が必要であるひとつの確実な論拠であった」、「従来のシステムがその可能性を使い尽くしてしまったことをまざまざと見せつける恐ろしい証明であった」という。そしてペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)という改革が加速したが、時既に遅しというように、1986年のチェルノブイリ原発事故から3年後にはベルリンの壁が崩壊し、東欧のビロード革命がおこり、その2年後1991年にはソ連邦自体も崩壊した。体制の腐敗をチェルノブイリ事故が象徴したのである。チェルノブイリ事故は世界史上の大事件として、欧州の冷戦終焉に至る大きな転換点と位置づけられる。では日本では「そろいも揃っての深酒」は自民党の中川財務大臣に象徴され、体制の腐敗は自民党歴代政府と官僚機構に象徴される。続く民主党政権の無政府状態は議院内閣制とか政党政治への不信感を倍増し、福島第1原発事故に続いて起る日本の崩壊の条件は揃った。

3月11日14時46分マグニチュード9.0の巨大地震は発生し、福島第1原発の運転中の1号機から3号機は自動停止した。15時20分大津波によって原発のすべての非常用発電機は停止した。16時36分東電は全冷却機能喪失と判断し、19時03分政府は原子力緊急事態宣言を発令した。19時50分頃には第1号機の炉心溶融(メルトダウン)が生じた模様である。翌日12日6時ごろには圧力容器の底に穴が開き炉心の冷却水が喪失し、第2号機、第3号機でもメルトダウンが起きた。10時17分格納容器の圧力が上昇しているので、ベント開放排気をおこなった。これが地域住民への放射線被爆の開始となった。14日11時第3号機でも水素爆発がおき、15日第4号機でもなんらかの爆発が起き火災が発生した。東電と政府(通産省)は原発事故の経緯を、大津波による全電源喪失による炉心溶融と断定して、「想定外」の事故だとあたかも「責任外」かのような言動をおこなったいた。ところが田中三彦氏は「地震発生時に原子炉冷却水系配管の損傷が起き冷却材喪失事故が起きていた可能性が高い」という見解を出している。だとすると、原発の耐震安全設計に根本的問題を提起するものである。これも永遠の闇に葬られることになるのだろうか。地震学者石橋克彦神戸大学教授が1997年に提起した「原発震災」の懸念が将に出現していたのだ。4月2日から6日までに海洋投棄された高濃度放射線汚染水の量は推計520トン、4700Tベクレルで、低濃度汚染水の放出量は1万4000トンに達した。漁業関係者や近隣諸国から厳しいい批判を浴びたのである。

ゴルバチョフがソ連政府の末期的症状を「長い年月に積もり積もった悪弊がすべて顔を揃えた。異常な事件、否定的なプロセスの隠蔽、無責任と陽気、投げやりな仕事」といったように、福島第1原発事故はわが国の原発政策の積年の悪弊がすべて露呈した感が強い。まず津波の高さを5.7mの想定では不十分である事は何度も指摘されてきたが、東電と政府(原子力安全保安院・原子力安全委員会)はこれを無視してきた。実際は15mの津波が襲った。そして非常用電源の配置位置(米国式に地下に配置)と全電源喪失の想定を検討する必要は無いとマニュアルも用意していなかった。避難範囲を10kmまでしか想定してこなかったこと(防災指針、IAEAは5−30kmの緊急防護措置計画範囲を提案)などが幾つも重なった今回の事故であった。原子力の安全を規制すべき機関が、金をかけたくない東電に譲歩して手を打ってこなかったことが被害を倍増したいわゆる人災に相当する。避難した福島県住民の数は8万人(7月段階で)に達した。事故直後の高濃度放射能気流(プルーム)が襲った「計画的避難地区」(4月22日指定)の住民には、その事実(「SPEED1]のデータ)さえ隠蔽し、その結果多くの人が被爆した。低線量被爆は急性被害を示さないので、政府がいう「直ちに健康を害するものではない」という言葉は欺瞞に満ちており、言葉を返せば「何年か後にガンになる可能性は知ったことではない」といっているのだ。数年か10年後には水俣病被害者賠償以上の福島第一原発事故被害訴訟が起こされるであろう。しかしそのころには決して責任を遡及されない官僚は逃亡しており、莫大な賠償金はなんと国民の税金で賄われるのである。被害を受けた国民が自分の税金で救済するというだけのことかもしれない。「お墓に避難します」とは緊急時避難準備地区に住む93歳の老人の遺書であった。絶望に苛まれた高齢者の自殺が目立っている。

日本は4つの地層プレート境界に位置するために「地震大国」であり、地球の全地震回数の1割は日本列島に集中している。そこに計54基の原発を持ち、計4896万kWの設備容量を持つ世界第三位の「原発大国」である。福島第1原発事故後、7月13日に菅首相は「原発に依存しない社会を目指す」と明言した。原発の3つのうたい文句である「エネルギー安全保障」、「環境配慮」、「経済効率」をことごとく破壊してきたのも原発である。
@停電・節電など電力危機はいつも原発がもたらした。
A原発事故によって凄まじい環境と社会の破壊が起った。
B事故リスク・廃棄物処理コストを含まないなど隠蔽されかつ嘘で固めた発電コストが白日の下に曝された。
1970年代より日本は毎年約2基の原発を設置してきた。日本の原発は東京電力を中心とするGE・日立・東芝系列の沸騰水型炉が30基と、関西電力を中心とするウエスティングハウス・三菱重工系列の加圧水型炉が24基である。関西電力は大飯4号機を最後に1993年以来原発の新設は控えている。これほどの多数の原発を計画的に作ってきた政府通産省・電力会社の原発計画システムは、建設省の道路法システムと全く同じである。長期エネルギー需給見通しと原子力開発利用長期計画(2005年より原子力政策大綱)が計画を立てる。「長期エネルギー需給見通し」は通産大臣の諮問機関である総合エネルギー調査会(2001年より総合資源エネルギー調査会)が審議する。それに基づいて電源立地が進められ、国会審議を経ることなく閣議決定される点も道路整備5カ年計画と同じである。日本の原子力行政は商業用は通産省、開発段階は科学技術庁が所管する2元体制であった。原子力行政の最高決定機関として原子力委員会があり、原子力開発利用長期計画を立案してきた。001年小泉改革の省庁再編で科学技術庁は解体され、原子力行政は経産省に移管された。そして原子力委員会の地位は低下し、原子力行政は経産省の管轄下に入った。日本の原子力行政の問題点は原子力安全委員会や原子力安全・保安院が十分な独立性を持っていないことであるとよく言われている。原子力安全委員会の委員は5名,スタッフは約100人、経産省内の原子力安全・保安院のsyたっふは800人である。アメリカの安全規制委員会NRCのスタッフは3800人、予算と絶大な規制権限を持ち、1975年にNRCが発足して以来稼動した原発はゼロとなった。実質的に原発は安全上許可されなかったのである。そしてアメリカの原発離れが進行した。日本はブレーキなしのアクセルだけの車に乗っているようなもので、経産省と原子力ムラは原発推進に抑制的に機能するあらゆる組織改正を拒んできた。これが今回の福島第1原発の事故に直結した体制的欠陥であった。

止まらない大規模公共事業だけでなく、日本政策転換の遅さ、政策決定過程の硬直性は、経産省や国土交通省の共通した特徴である。官僚制はそもそも省益と称する自己維持的な性質を持つ。日本社会は戦前から係長、室長クラス(軍隊では下士官)が政策実行者であり、ボトムアップ構造である。社長クラスが仕事をするアメリカ式と違って、日本では係長クラスが仕事の中心である。上役はかれらの仕事の事後承認役に過ぎない。したがって内部調整と合意形成に時間がかかるので、一般に政策転換は容易でなく、主としてアメリカからの外圧で政策転換が行なわれてきたのが通例であった。そして官僚派2,3年ごとに交代するので、組織全体としては前任者からの方針の踏襲を是とする「累積された事なかれ主義」が横行している。そういう意味で担当者が責任を取る体制ではない。波及効果を恐れるあまりきわめて自己防衛的硬直的対応をとる。1箇所の原発が止まると、全部の原発が止まるかのようなドミノ理論をおそれる防衛的心理が働き、批判的意見には耳を貸さない。これらの硬直的政策が続く裏にはそれを支える財政的なメカニズムが出来上がっている。道路財源の裏づけが「特定財源」にあり、ガソリン税が道路を作ってきた。原子力関係予算は2010年度で年間4300億円程度であるが、電力にかんしては電力料金に「電源開発促進税」があり、一般家庭ではおおよそ1年間に1350円程度を支払っており、収入は約3160億円、そのうち「電源三法交付金」に1790億円が回される。さらに原子力関係では関係者が電力会社のみで、道路建設のような「族議員」が発達せず、経産省と電力会社との調整で意思決定がなされるという。そして国民の最後の手段でもある原発差し止め訴訟においては、裁判所は悉く国側勝利判決をするので、提訴によって原発建設工事が中断されることは一度も無かった。かつ原子力関係の環境保護規制に対しては、原子力基本法は独自の法体系をなして、「聖域」である事が特徴で一切の規制から逃れてきた。1997年に成立した「環境アセスメント法」では発電所に関しては特例扱いで除外されている。2011年4月成立した「環境アセスメント法改定」でようやく発電所も対象とされたが、放射線汚染は影響評価項目から除外されている。こうして原子力行政は一切の掣肘をはらいのけて、将に権力そのものが「わが道を行く」ごとく突進してきたのである。

ではこうした原子力行政に立地を許可してきた市町村や県はどのような恩恵(影響)を受けてきたのだろう。 伊藤久雄氏は「原発依存の地域社会」において、「原発は過疎地域」に立地されてきた。多くの原発立地市町村は原発のおかげで過疎地化を免れた。放っておけば間違いなく過疎地になっていた市町村が、辛うじて人口を支え雇用を守ることが出来たには、原発のおかげであるといわんばかりのやり方である。全国の原発立地市町村の財政状況を見ると、財政指数が1を上回り、歳入オーバーで繰越しが可能で、公債比率が10%以下の市町村は、東海村、刈羽村、大熊町、玄海町、御前崎市、女川町、泊村、東通村、楢葉町、敦賀市、おおい町、高浜町である。ところが原発所在地でも財政が苦しいのは、柏崎市、双葉町、美浜町,松江市、伊方町、石巻市、川内市などである。なぜかというと、原発関連交付金(電源三法による)と固定資産税収入による財政効果が違うからである。出力135万kwの原発立地の試算では原発関連交付金(電源三法による)により、10年の建設期間に481億円、運転開始から毎年約20数億円が市町村にはいり、そのほか国交付金が様々な名目で数億円づつが交付される仕組みである。ところが固定資産税は耐用年数16年で計算され、運転開始から5年で半額査定となり、20年経つと簿価1億円程度に減額される。」という。 清水修二氏は「原発立地自治体の自立と再生」において、「電源立地効果の一過性問題で地元には一時的に金が入り、一躍トップクラスの所得水準になるが、原発の建設が行なわれると大きな産業構造変化を伴う。電力業界が第3次産業である事から第3時産業比率が一挙に高まり、一時的に建設業という第2次産業が栄えるのである。だから地元は「原発の増設」を願い、夢よもう一度と地元政治家を動かす。原発は麻薬だといわれる所以である。市町村は挙げて城下町になり地域経済の自律性は喪失される。都市と過疎地はとても平等な関係ではなく、むしろ一種の支配隷従関係、あるいは「差別の構造」である。福島第1原発のお膝元双葉町は間違いなく廃炉の運命を迎えるだろう。麻薬が切れて「無原発状態」になると、復興から再生へというビジョンをどう描けばいいのだろうか。」と結んでいる。原子力施設の誘致を契機に持続的な経済発展を遂げた地域は、日本国内にも外国にも一例もない。

原発は永遠の未完成技術、「トイレの無いマンション」といわれるわけは、技術プロセスの最終段階である放射性廃棄物処理を持たないからである。核燃料サイクル路線を取る日本では、使用済み核燃料はすべて再処理し、ウラン235とプルトニウムを回収する。そして残った高レベル放射性廃棄物はガラス固化体にして、30−50年冷却貯蔵をし最終的に地下300−700mに地層に永久処分をするというストーリー(放射性物質の半減期は長いもので10万年以上)である。ところが欧米では再処理はせず、直接処分といって使用済み核燃料を地層処分をする計画である。アメリカのカルフォニア州では「連邦政府が高レベル放射性廃棄物処理に関する実証的な技術が確立するまで、いかなる原子力施設も許可しない」というカルフォニア原子力安全法が出来たため、1976年以降新規の原発建設は不可能となっている。フィンランドでは「オンカーロ」という埋設施設を建設中で、2020年から受け入れる予定である。はたして日本で永久埋設施設が可能であるかどうかに関しては、3つの難問が横たわっている。ひとつは2000年に「原子力発電環境整備機構NUMO」が出来たが、候補地問題は一向に進展していない。そうなると六ヵ所村か各原発敷地内かということが話題となり、立地各県では最終処分地になる事を懸念し始めている。第2の難問は日本特有の余剰プルトニウム問題である。日本は国際公約として原発の原料となるプルトニウムを持たない事を1991年に宣言している。ところが日本は2009年までに34トンのプルトニウムを保有し、そのうち24トンは六ヵ所村再処理工場内にある。プルサーマル(軽水炉でMOX燃料を使うこと)の実施が大幅に遅れ、その実施原子炉であった福島第1原発第3号炉が廃炉になる運命となったので、さらにプルサーマリ計画は頓挫した。第3の難問は、欧米では再処理を禁止しているが、経産省内の電力自由化論者は再処理凍結派だったが省内路線で敗れ再処理派が勝利したため政策転換が難しい。もし再処理工場がフル回転しなければサイクル施設は実質的に「原子炉発電のごみ捨て場」となるので、青森県は使用済み核燃料の搬入を拒否するかもしれない。将来軍事転用可能な権益を守りたいとする政府筋の思惑がありなお政策転換を難しくしている。非核保有国で、ウラン濃縮、再処理、高速増殖炉などの技術保有を認められているのは日本のみである。1969年の外交機密文書「わが国の外交政策大綱」(現在機密解除)には「当面核兵器は保有しない方針を採るが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対する掣肘を受けないように配慮する」という。これが「核兵器を持ちたい」権力の真意であり、「六ヵ所村再処理工場は形だけでもいいから運転していることにしておけ」ということにある。北朝鮮やイランの思惑に近いものがある。これでは原子力行政は国家権力そのものであり、首相の首を何回飛ばしても、容易に政策転換はできない事を覚悟しなければならない。

2) 脱原発は世界の潮流

アメリカは現状で世界最大基数の原発を保有する国である。ところがよく見ると1979年のスリーマイルズ島事故よりも数年前から原発の新規発注は途絶えていた。2001年ブッシュジュニアが大統領に就任して以降宣伝された「原子力ルネッサンス」で、アメリカでは30基も原発の発注が出されたが、2011年段階で建設に入った計画はひとつも無い。福島第1原発事故を契機にして原発のコストは更に上昇するので投資ファンドは撤退するだろうと見られる。アメリカでは1953年以来249基の原発が発注された。2011年運転中の原発は104基で、1974年以降過去37年間、新規に稼動した原発は1基も存在しない。国家社会主義計画の日本と違って、アメリカでは原発建設は純粋に民間企業の投資によるもので、採算が合わないと見るや直ちに撤退か計画を廃棄するのである。原発計画のキャンセルや建設中止は1970年−1974年に集中して発生し、これまで合計126基の発注が取り消された。経年的・経済的に閉鎖されたのは過去19基になり、差し引き249−126-19=104基が稼動している。アメリカの場合、原発離れは1970年代前半に既に始まっており、スリーマイルズ島事故はそれを決定的にしたと理解される。原子力発電は冷戦と高度経済成長の象徴となった技術であり、同じ時期に冷戦と高度経済成長が終焉を迎えると後退しつつある。さらにいえば原発と高度経済成長は冷戦が生み出した自由主義陣営の幻だったのかもしれない。

アメリカのカルフォニア州都サクラメントには、原発を住民投票で閉鎖し、見事に甦った電気事業者がいる。人口142万人のサクラメント地域の公営電力公社(2006年契約60万件、需要電力330万kW)である。1989年6月住民投票によりノーを突きつけられた電力公社はランチョ・セコ原発の閉鎖を決定した。1975年稼動の原発は58%の電力供給を目指したが、平均稼働率39%とトラブル続きで電力コストは上がり経営を圧迫していた。原発撤退の英断を下した電力公団の新総裁はエネルギー利用の効率化と再生可能エネルギーの開発利用を掲げた。この決定はウヲール街の債券市場で好感を持って迎えられサクラメント電力公社の評価は上昇したという。電力公社が需要を抑制し省電力を呼びかけ、電力設備投資を控えて稼働率を高めて経営効率を改善するというデマンドサイドマネージメントDSMに向かったのである。ランチョ・セコ原発の発電量80万kW相当の節電が目標となった。これを「省電力発電」と評価する人もいる。原発の本質として出力調整は困難で(出力調整実験で原子炉が暴走したしたチェルノブイリ事故を想起すれがその困難さがわかる)100%のフル運転でこそメリットが発揮されるのである。したがって原子力発電からは電力需要抑制やDMSは動機付けられない。サクラメント電力公社はおおくの省電力プログラムを用意して需要者に協力をお願いした。1993年からはじめた「太陽光発電パイオニア」制度を、1997年よりコミュニティ・ソーラー・プログラムで割増料金をお願いして節電とパネル設置助成を行なうのである。そして水力発電供給率を20%に高めた。60万の顧客には「スマートメータ」を配備し、リアルタイムの電力需要を公団と顧客が同時に共有できるようにした。

日本は2001年にアメリカ大統領となったブッシュジュニア−の戦争政策を全面的に支持し、それに便乗して自民党政権(小泉、安倍、福田、麻生内閣)は国内の保守寄り政策を進め、格差拡大、グローバル化による空洞化、地球温暖化対策を原発推進にすり替えた。「原子力ルネッサンス」の掛け声が一世を風靡したようであった。これに産業界が答え、2005年東芝はウエスティングハウスの原子力部門を買収し、2006年日立製作所はGEの原子力部門と事業統合を行ない、三菱重工はフランスのアレバグループと提携した。こうして世界の原子力業界は3つのグループに再編され、原子力ルネッサンスの分け前に与ろうとしたが、はたしてこれは経営の英断というのかジョーカーを引いたいうのだろうか。世界全体での原発運転状況を見ると、95年の437基から2010年に443基とわずか6基が増加した。欧州では150基が129基に減少し、アメリカでは109基が102基に、ロシア東欧では68基が67基に減少するなど欧米での減少傾向は顕著である。増えたのはアジアである。日本が51基から54基へ、韓国が11基から22基へ、中国が3基から13基へ、インドが10基から20基へ増加している。この地域による時間差傾向は経済発展と電力需要増大に連動している。原子力業界はアジアでの受注商戦に必死である。特に日本では福島原発事故を受けて菅内閣は原子力に依存しない社会を言いながら、ベトナムの原発受注に出向くなど同一人格の行動とは思えない支離滅裂な言動を行なった。1997年イギリスには35基の原発が稼動し電力の26%が原発に依存していたが、旧型のガス炉の閉鎖が続き2009年には依存度は16%に低下している。ドイツは福島第1原発事故を受けて、原発より撤退する宣言を行なった。電力自由化が進んだ欧州では建設コストとリスクの高い原発は敬遠されている。原発復活はどこの国でも保守的政策のシンボルとして利用されてきた。日本では保守化した政治家と環境学者の一部が温暖化対策に原子力を利用する宣伝を後押しした。1997年の京都議定書はクリーン開発メカニズム(CDM)を導入したが、2001年のマラケシュ合意(COP7)では原発に対する投資は持続可能な技術では無いとして京都メカニズムCDMの対象にはならないということになった。日本政府の狙いは、政府がODMとして資金を提供し電力会社が技術援助をする形で、開発途上国の原発建設を進めそれによる炭酸ガス削減量を日本の削減分にカウントすることであった。執拗に日本政府はこの原発CDMを主張しているが、福島第1原発事故で公認される可能性は消し飛んだと見られる。

電力を再生可能なエネルギー技術によって置き換える事を「グリーン電力」と呼ぶが、これはイメージを喚起するためであって、電力にグリーンもダーティもないことは自明である。日本では長い間電力は地域独占で、供給も分配も同一会社が担ってきた超独占経営方式であった。そのため地域で小規模に生産された電力を電力会社に買い取ってもらう場合、電力会社の裁量で低いコストに抑えられ、殆どの事業体は利益をだすどころか、投資さえ危ぶまれる状況であった。再生可能エネルギーは安全性や環境負荷が少ないなどさまざまな社会的特性を有するが、低密度で大規模発電ではコストが高く、供給安定性に欠けるなどデメリットもあった。そこでエネルギーの多元化をはかり高いコストをどう負担するかについて「グリーン電力制度」という仕組みを考えなければならない。グリーン化を進める政策には、再生可能エネルギーによって発電された電力を固定価格で買い取る事を電力会社に義務つける「固定価格制」か、販売電力量に占めるグリーン電力の一定比率を義務付ける「固定比率制RPS、割当制」とがある。固定価格制を実施したドイツ、スペイン、デンマークでは風力発電が急増し、割当制を実施したイギリスでは20%を目標としたが占有率が伸びなかった。投資家にとって固定価格制が有利に働き、割当制では電力会社に不当に安く買い叩かれるため投資家は敬遠するのである。日本では2003年度より「新エネルギー特別措置法」により割当制を実施し、しかも占有率の目標を1.3%と著しく低い目標で、従来の電力会社の利益を損なわない範囲で実施する意図が露骨である。中国では固定価格制度を実施し、2010年度の風力発電量はアメリカを抜いて世界1となった。風力発電の世界トップ三位は、中国、アメリカ、ドイツであった。日本の再生可能エネルギー固定価格買取制度は現在国会で審議中だが、もしこれが実現すると電気料金転嫁方式とセットで実施される。日本では2009年より「太陽光発電促進付加金」として消費者が負担することになった。1kWhあたり48円として電力会社が買い取り、消費者は1kWhあたり0.03円を負担すると、平均的な家庭で1年で108円のコストを負担している。原発のための電源三法負担金は特別な説明も無く、年あたりに1350円も負担してきた。環境保全と経済活動を対立するものとして捉えることは硬直した財政支出肥大をもたらすばかりで建設的では無いと著者はいうのである。政府、企業、市民の三者が協働して政策を運動化し、運動を政策化し、運動を企業化してゆくことで生産的な政策提案となると、長谷川公一氏は市民運動論、環境運動論を展開する。持続可能エネルギー採用による電力負担増、節電による生活レベルの低下などといえば反対に傾くことは必至であるが、現在原発建設コストが国税と電気料金に織り込まれており、事故賠償コストや廃棄物最終処分コストは全く考慮されていないで、結局これらも国税でまかなわれるなら、原発コスト自体の再計算が要求されるだろう。その上で消費者負担分を議論しなければ、「新エネルギーはお荷物だ」という電力会社の欺瞞に満ちた言い分を打破することは難しい。

3) 脱原発住民運動 

1996年8月新潟県西蒲原郡巻町(現在新潟市)で、原発建設の是非をめぐって条例に基づく日本初の住民投票が行なわれ、61%の反対投票があり巻町原発建設計画を中止に追い込んだ。あわせて推進派町長をリコールし、反対派町長が生まれるという運動に展開した。巻町の住民投票は直接民主主義(法的拘束力はないが、自治体首長へ強い影響力を持つ)の力として評価され、それ以降5年間で全国で12回も公式の住民投票が行なわれた。原発関連で条例が成立したのは高知県窪川町、三重県南島町、宮崎県串間町、新潟県巻町、新潟県刈羽村、三重県海山町である。投票が実施されたのは新潟県巻町(1996年)、プルサーマル実施を巡って新潟県刈羽村(2001年)、三重県海山町(2001年)である。ほかに基地問題が5つ、産廃問題が5つ、可動堰問題、採石場問題であった。住民投票が1種のブームとなったが、それは地域の問題は地域の住民が自己決定権を持ちたいということ、裁判所など司法の場が行政側を是として支持するので勝訴の可能性が少ないことによるものである。企業や国はこれを「地域エゴ」といって非難するが、「公共性」を錦の旗にして、権力を背景にして住民の意見を排除すること自体を隠蔽するものである。福島第1原発事故を受けてイタリアでは原発に関する国民投票が実施され原発凍結が94%を占めた。なぜ日本で国民投票がなされなかったのか、安倍内閣では憲法改正のための国民投票法が成立したが、原発凍結に対する国民投票法が存在しなかったので、それは手続き論的に実施不可能であったに過ぎない。菅内閣は国民投票法を通過させるべきであったが、「原発に依存しない社会へ」という首相の個人的な意見表明(閣議了承でもよかったのに)に終っているの残念である。

ここに再生可能エネルギーによる町おこしの例を3題取り上げている。ひとつは山形県立川町の風力発電事業である。1989年の「ふるさと創生1億円事業」に応募して、1993年町営の100kWの発電用風車3基を設置し、1992年から始まった「余剰電力買取制度」によって東北電力に販売された。1996年には400kWの風車2基をによって全国初の民間売買会社が事業を開始した。1998年から町が出資して第3セクター方式となった。町には2011年現在風車14基、7850kWの設備用量がある。次の例は岩手県葛巻町の風力発電所である。袖山高原に第3セクターのエコワールド葛巻風力発電所の400kW風車3基があり、上外川高原にはJパワーの1750kWの風力発電機12基が2003年より運転している。これは1万5000世帯分に相当する。ミルクとワインとクリーンエネルギーが待ちのキャッチフレーズである。上の2例が「自治体風車」だとすれば、3つ目の例は北海道濱頓別町の「市民風車」である。生活クラブ生協北海道を主体となって、チェルノブイ事故の翌年1987年に泊原発1・2号機の運転を巡って道民投票の実施運動が盛り上がった。1996年には泊原発3号機計画反対署名運動が起きた。これらの運動は原発を止めることにはならなかったが、1999年運動の中心がグリーン電気料金運動を起こし、北海道グリーンファンドという寄付金募集をおこなった。2000年に1口50万円の出資を呼びかけ1億4000万円が集まり、事業運営にトーメンジャパンの協力を得て、濱頓別町に出力990kWの風車設置が決まった。事業主体は「北海道市民風力発電」が発足した。平均の設備利用率は実績27%であった。日本の現状では太陽光発電は収益性や事業性は期待できなかったが、風力発電事業はすでに欧米では営利事業として運営されていた。著者の長谷川公一氏はこの事業は「地域性、運動性、事業性」の成功例として高く持ち上げている。風力発電を洋上大規模化施設とするか、欧州のようにデンマークでは小規模事業者による「農民風車」の例もあるが概して大規模化には向かないとしている。

4) 脱原発社会へのシナリオ

世界及び日本での反原子力運動はいかなる経緯をとってきたかを、デモクラシーの観点で整理する。1970年以降環境保護運動は国際的に活発化するが、そのなかで原発反対運動は、欧米では核兵器廃絶運動や平和運動と連動しながら展開された。グリーンピース、地球の友など全世界的な環境運動団体が生まれ、文明的・価値観的な運動となって社会紛争を引き起こした。ただスリーマイルズ島事故以来、1980年代から原発建設計画が下火になるにつれて反対運動も全般的に停滞した。日本の反原発運動は優れて立地点の地権者・漁業権中心の反対運動であった。欧米のような核廃絶運動や平和運動との結びつきは弱かった。立地点の市町村長及び議会の反対によって、高知県窪川町、和歌山県日置川町、日高町の立地は断念された。立地点運動は利権によって「切り崩され」、住民の分裂・村八分といったコミュニティの破壊を伴った。全国レベルでの反対運動のネットワークは貧弱で、又それを支援する科学者の数も少なかった。科学者はたいてい体制迎合派でしかなかった。ただ西尾獏氏、高木仁三郎氏、室田武氏、清水修二氏、細川弘明氏らの名前は記録されるべきである。1986年のチェルノブイリ事故を契機に広瀬隆氏らの新しい市民運動が起った。「反原発ニューウエーブ」と呼ばれて注目された。そして食品汚染問題から女性の運動参加も目立った。これらの運動はネットワーク志向型で一過性のものであった。その後飯田哲也氏の「市民フォーラム」は政策提案型としてNPO法人「環境エネルギー政策研究所」というグリーンインスティテュートの設立となった。「気候フォーラム」は温暖化問題や原発問題に活発に取り組んでいる。ただ福島第1原発事故後日本の各地で起きている東電や政府に対する抗議デモは東京で起きているが、いずれもお祭り気分のパフォーマンス重視で、テレビカメラ露出型にすぎず、かつ政治的工程表を持たない。むしろテレビタレントであった山本氏の直接行動型の方が迫力があった。したがって署名運動や政治的な働きかけがないので、当局者にとって痛くも痒くもないのは腑に落ちない。爪を切られた猫みたいな運動である。

福島第1原発事故後の欧州の反応は、当事者の日本の政治家とは比べ物にならないほど敏感であった。ドイツのメルケル首相は3月14日、脱原発へ政策を転換して計8基の運転中止を決定した(2010年17基稼働中)。スイス政府は5月25日原発の新設禁止と稼働50年をメドにして順次閉鎖、2034年までに現在稼働中の5基を全基閉鎖する事を決定した。イタリアでは6月13日に国民投票を実施し原発計画凍結が多数を占めた。2020年に最初の原発を稼働させる計画を放棄したのである。イスラエルのネタニヤフ首相は3月16日原発建設計画の中止を決定した。タイも原発導入計画を断念することになった。ここにドイツの20年にわたる原発政策の討議デモクラシーの原点は、1975年のヴィール原発阻止闘争に端を発する。これが1980年の「緑の党」の創設となり、フライブルグ環境都市の原動力となった。1986年のチェルノブイリ事故と1989年のドイツ統一はドイツの冷戦社会構造を根本的に変え、ドイツの原子力政策に大きな転換点をもたらした。時系列で追ってみると、
1989年ヴァッカースドルフの再処理工場建設中止、ミュルハイム原発試験運転停止となった。
1990年旧東ドイツの稼働中原発5基を全基閉鎖し、新設計画を中止した。
1991年カルカー高速増殖炉閉鎖を決定した。
1994年原子力法を改正して電力会社に対して燃料再処理義務を解除した。1995年MOX燃料加工場を閉鎖した。
2000年6月政府と各電力会社との間に歴史的な脱原子力合意が世界で始めて成立した。原発の寿命を32年として、2021年ごろに全原発が閉鎖される目安となった。電力会社は政府に補償を求めないことにした。原発全廃にいたる具体的なプロセスに原発利害関係者全員が合意したのである。
2002年2月この合意に基づいて原子力法が改正され「脱原子力法」が成立した。
2009年9月メルケルの率いるキリスト教民主同盟と自由民主党の連立政権は平均12年間の運転期間の延長を認める決定を行なった。脱原子力政策の一歩後退を印象つけた。
2011年3月14日福島第1原発事故を受けてメルケル首相は8基の原発の運転を停止し、脱原子力政策へ軌道修正を行なった。3月22日に「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」設置が決められ、5月30日に委員会は答申し、政府は2022年度までに原子力発電所全17基を停止することを合意した。約20年に及ぶ原発の是非をめぐるドイツ国内の政策論争は、福島原発事故を契機に基本的合意が定まった。

ドイツでは20年もかけて討議デモクラシーに基づいて原発凍結へ導いた。では日本では福島第1原発事故をうけて、日本のエネルギー供給のあり方を根本的に見直す契機となるのだろうか。結末の無い原子力シナリオを国民はいつまで見て見ぬ振りをしているのだろうか。筆者は1996年以来提唱してきたのは、@社会的合意の原則、A合意に基づく非原子力化の原則、B原発設備用量をこれ以上増やさない原則、C再生可能エネルギー最優先の原則 の4つの基本原則であった。温暖化か原発かという忌まわしい二者択一(ジレンマ化)から脱却して、第3の道を選択しなければならない。原発は出力をコントロールできない事を宿命とする、いわばブレーキをなくした自動車の運転のようなもので、夜間出力を揚水発電とセットにしたり、他の火力発電などの出力コントロールのアシストがなければ、単独では自己をコントロールできないシステムである。それでも原発稼働率は2002年以降80%を超えたことは無い。原子力に依存しない社会を築く必要性は、第1の理由は重大事故の危険性であり、第2の理由は核兵器転用可能技術であり、第3の理由は放射性廃棄物問題が未解決であることだ。原発に明るい未来があるとは思えないが、では再生可能エネルギーに重点を置いて安定的な電力供給は出来るのかという疑問が付きまとう。著者の居住する地区である東北電力の電力構成をみながら脱原発が可能であるかを検討すると、再生可能エネルギーの開発を待つまでもなく現時点でも脱原発は他の発電方式の稼働率を上げることで可能である事が分かる。それが証拠に2011年夏の電力節減は余裕を持ってクリアーできたではないか。2009年の東北電力の資料によると次のようになる。

2009年東北電力電源構成
(発電量736億kWh)
電源構成構成割合%稼働率
水力10.323.2
原子力60.668.5
火力27.716.9
再生可能1.443.9
東北電力の特徴は、原発依存度が極めて高く、火力・水力の稼働率が極めて低いのである。原子力をすべて停止しても(2011年度秋現在停止中であるが電力不足は深刻ではない)、宝の持ち腐れであった火力と水力の稼働率を上げれば容易にクリアできることが分かる。ではなぜ原発の構成比率が高いのかといえば、それは温暖化対策であり、発電コストが理不尽に安く見積もられて(税金に化けているにすぎない、経済外行為)原子力を使うほど電力会社の利益が上がる経済政策的仕組みが出来ていたからである。
次に日本全体の電源構成を見ながら原発をなくする3つのオプションを検討しよう。
2010 年日本の電力電源構成
(発電量9762億kWh)
電源構成構成割合%稼働率
水力8.720.7
原子力30.870
火力
 天然ガス
 石炭
 石油
59.3
 27.2
 23.8
 8.3
44.8
 48.5
 68.2
 20.1
再生可能1.4-
オプション1:原発を完全に火力で置き換えるシナリオ。火力の稼働率を68%に上げるだけである。炭酸ガス排出量は15%ほど上昇する。
オプション2:オプション1の天然ガス火力発電の稼働率を引き上げる。7.5%の節電を実行することで原発は停止できる。炭酸ガス排出量は約8%増加する。
オプション3:5%の節電で原発7基分、天然ガス稼働率引きあげで原発26基分、再生可能エネル義開発で原発13基分をまかなうシナリオである。


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