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桐野高明著  「医療の選択」
岩波新書(2014年7月) 

日本の医療の将来を選択するための論点整理

戦後の日本社会は、弱者や恵まれない人々が悲惨な目に合わないような社会を作ろうとしてきた。2012年に社会保障制度改革推進法が成立し、法に基づいて社会保障制度改革国民会議が内閣府に設けられた。会議は2012年11月から2013年8月にかけて20回の審議を行い2013年8月に「社会保障制度改革国民会議報告書―確かな社会保障を将来世代に伝えるための道筋」を公表した。少子化対策、医療、介護、年金の者愛保障四分野での国がとるべき方向性を示した。消費税の税率引き上げを財政的な基盤として、改革を進めるとしている。報告書は医療の分野については「医療消費の格差を招来する市場の力でもなく、提供側の創意工夫を阻害する恐れがある政府の力でもないものとして、データによる制御機能をもって医療ニーズと提供体制のマッチングを図るシステムの確立を要請する声があがっている」という。残念ながら日本ではよい医療を持続させる条件が失なわれつつあると桐野高明氏はまず危惧する。しかし自分を鼓舞するかのように「我々には悲観を上回る希望がある」という。それぞれの国の医療制度は、その国の国民性、文化や社会の歴史的な背景をもとに作られてきたものである。どれが正しいと決めつけるわけにはゆかない。それぞれの国の医療制度はそれぞれの国民の選択によって運営されるべきものである。少子高齢化と人口減少社会は確実に迫っている。だから医療の在り方を選択する論点を示そうという。医療の在り方を選択するということは、医療のみならず社会全体のシステム設計と連動していることを頭に入れなければならない。医療は1国の経済の中でサブシステムとして動いているが、グローバル経済との連動の度合いは低い。医療は日本では公平・平等を原則として提供されることに重点を置き、国民皆保険制度の中でその価格や消費の総量を公的に制御する医療制度を採用しているからである。一方米国では医療は国民が自己負担で購入するサービスと位置づけ、公的な介入は一切ない。経済活動の中で医療活動を特別なものと考えないので、グローバルな経済活動と連動している。環太平洋戦略的経済提携協定TPP交渉の中で、米国は日本の医療活動に大きな変更を要求してくるだろうが、日本政府は現在の医療制度を守る立場を表明したといわれる。米国は医薬品や医療機器の価格の自由化、混合治療の解禁、民間保険の利用、医療機関の株式会社化などの市場経済方式への切り替えを主張している。医療制度の選択は1国の国民のどのような生活が望ましいかという価値感に関係している。西ヨーロッパではすべての人に必要な医療を提供し、すべての人の老後が支えられることを理想とする。現実は経済成長が鈍化したことで持続可能性に不安感を抱く人が多い。日本の総医療費は年間38兆円を超え、その半分は保険料から38%は公的財源からでており、その将来は楽観を許さない。GDPの2倍以上(1000兆円)の国際残高を抱えている日本は財政的基盤がぜい弱で、現在の社会保障制度の中で医療制度を維持できるかどうかが問われている。1961年に国民皆保険制度が実現し、国民にとって医療はこれまで以上に利用しやすくなった。高度経済成長の中で国民医療費は増大し、1973年に福祉元年の掛け声とともに老人医療費が全国的に無料となった。その同じ年に第1次石油ショックが発生し低経済成長時代が始まった。医療を取り巻く環境はい大きく変化したが、医療制度はその基本構造をまり変化させていない。その特徴には@国民皆保険、A公定価格、B自由開業性、C医療機関へのフリーアクセスがあげられる。日本の医療提供体制は、医療の費用は公的制御を受けるが、医療の地峡は主として医師が私的に設立した病院や診療所による。これはヨーロッパや米国にも見られない特徴である。政府が大きな強制力を持って体制の変革をことは事実上困難である。日本の医療制度の欠点としては、医療施設や医師の地域的偏在のため、医療を受けにくい地域が存在する。医療機関や施設の集中化が進まず、急性期向け病床が過剰に存在する一方、回復期や慢性期の病床が不足している。しかし全体的にみると日本の医療は比較的低廉な価格で、質の高い医療を良好なアクセスの範囲内で運営していると世界的にも評価は高い。

日本の医療法人は非営利を原則として経営されている。私的な医療機関を公的な役割を果たすことが期待されている。救急医療、周産期医療、災害医療、研修医や看護しの教育などである。その一方、国立病院、労災病院、社会保険病院など公立病院が独立行政法人化され、医療経費に関して財政援助をう承けない独立採算方式で運営されている。自治体病院ではまだ多額の公的資金野援助を必要とする病院もある。公的、私的な医療機関の混在した体制でほぼ同等の条件で競争していることが、あるいは健全な姿かも知れない。急速に進む高齢化に伴い、日本医療提供体制は、病院中心の完結型から地域中心の地域包括ケアー型にシフトしてゆくことが求められているが、医療や介護の体制の改革はあまりにスピードが遅い。スウェーデンではサービスハウスがこれまでの老人ホームや療養型病棟を廃止した。日本では時間をかけた漸進的方法が理解が得やすいという伝統に立っている。かっての社会保障の問題は経済成長が解決してきたが、リーマンショックによる経済危機と東日本大震災と東電福島原発事故によって日本経済はますます閉塞観を強めた。安倍政権は円安、超低金利政策と「3本の矢」という経済政策を打ち出し、経済成長に期待している。ここで筆者桐野高明氏はローマクラブの「成長の限界」を持ち出し、経済生長の持続は世界にとってよい未来をもたらすわけではなく、かならず限界に達して、世界を崩壊に導くという予測に立って、困難な社会福祉政策のかじ取りを心配する。国債残高の利子支払を考えると、金利1%増は10兆円の財源が必要となり、消費税率4%分が消えてゆくのである。だから超低金利政策が必要なのである。このまま国債に依存して社会保障の給付を続けるには、金利上昇のリスク(ギリシャの財政危機に同じ)を負わなくてはならない。社会保障目的の消費税増税をさらに追加するほうが、国民の痛みは増えるが国家財政破綻の危機を回避することができる。ヨーロッパの消費税率は10−20%であることを見るなら、価値観の転換が必要である。消費税増税をしながら法人税の大幅減税をするという政策は痛みを国民に一方的に押し付ける結果となり不公平感が増す。大きい政府より小さい政府という米国式の社会保障の削減、医療の自己責任という政策を取ると、格差が拡大し人と人が分断され、社会から連帯意識が消失し、恵まれない人々と一部の金持ちの間に埋められない格差が生じる。今後の医療や社会保障の持続のために、若い世代にも理解され継承したいと思われるような制度を選択することが必要である。本書を一読して、著者桐野高明氏の見識の高さ(医者の社会音痴ではなく)を感じられた。幅広いものの見方ができる人物であり、本書がその制度選択の材料になればという目論見で公平な論点を数多く提出されている。医療という専門性から「白い巨塔」と呼ばれた権威集団からものを言うのではなく、分かりやすい言葉で医療の現状と未来の議論ができるように導こうとしている。桐野氏のプロフィールを本書末の略歴から紹介する。桐野氏は1946年佐賀県生まれで団塊の申し子であり、1972年東京大学医学部卒業、東京大学医学系研究科脳神経外科学教授、同学部長、東京大学副学長、独立行政法人国立国際医療研究センター総長、分子脳神経学会会長を勤められ、現在は独立行政法人国立病院機構理事長である。主な著書に、「脳虚血とニューロンの死」(中外医学社 1996)、「脳虚血の分子医学」(羊土社 1994)などがある。本書の最大の特徴は、書かれている内容の質や量ではなく、思わず引き込まれしまう語り口にあるようだ。専門家にしてはよく一般向けの本を読んでいるし引き出しが多いようで、自然な物語構成がうまい。

第1章 二つの選択

米国の医療の驚くべき実態については、堤未果著 「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書 2008年)で詳しく描かれている。米国では国民の6人に1人は無保険者であり、米国では民間保険に加入していてもその保険からの医療費の支払いが不十分なことが多い。「貧困大国アメリカ」のなかで、「命-医療・健康保険の民営化」 という章から抜粋する。堤氏は『80年代以降、新自由主義の流れが主流になるにつれて、アメリカの公的医療も徐々に縮小した。政府は「自己責任」という言葉の下に国民の自己負担率を拡大させ、自由診療という保険外診療を増やした。政府が公的健康保険から手を抜き始めると、民間の医療保険が拡大し保険会社の市場は拡大した。だが、国民の命に対して国の責任範囲を縮小し民間に移行することは取り返しのつかない「医療格差」を生み出した。アメリカの乳児死亡率は年間平均1000人に6.3人という先進国では最も高い率で(日本では3.9人)ある。2005年の全破産件数208万件のうち企業の破産は4万件で、個人破産が204万件であった。その内半分が高額医療負担による破産であった。例えば盲腸で一日入院するとニューヨークで243万円、ロスで194万円(日本では4,5日入院しても30万円を超えることはない)である。日帰り出産費用は165万円(日本では35万円の出産一時金が出る)である。これではアメリカに住みたくないと思うのは私だけではないだろう。2007年で4700万人の無保険者がいる。このような恐ろしい状態になったのは、効率と利益を求める競争原理を医療現場に持ち込んだためであり、政府の責任放棄であろう。医療機関は医療過誤訴訟などマイナス要因で民間保険会社の登録からはずされるのを恐れ、看護師削減、産科の廃止、コストダウン、ベット効率回転合理化などを迫られている。医療機関は保険会社と個別に契約するため、保険料請求事務が大変な負担になっている。こうして1960年代に成立したアメリカの「メディケア」、「メディケイド」は次第に破綻しつつある。「メディケア」受給者数は4230万人、「メディケイド」受給者数は5340万人で高い医療費と保険会社の支配下で州政府の財政を圧迫している。 日本の医療費は出来高払いであるが、1983年以来アメリカは病気別定額払いDRGになり、医療サービスの数を減らす事が病院側の利益につながる仕組みである。したがって入院日数や入院数、ベット総数の減少を余儀なくされ、ついに病院数自体も減少した。病院の経営は日本は医療法人であるが、アメリカは非営利型から株式会社型の経営に切り替わった。HCA社という巨大病院チェーンの利益率は18%である。普通の企業ではあまり見られないほどの高利益率である。病院の吸収、買収が日常化している。1999年の医療過誤「医療事故」で死亡する人は年間7万1000人であった。年間4万人の自動車事故よりはるかに多い数であった。院内感染は入院患者の5%、年間180万人が感染症にかかった。これを医療不信・医療崩壊といわずしてなんだろうか。「医は算術」は日本では公にできないが、アメリカではまさに「医は算術」である。保険会社は病気になった人保険から締め出し、一度病気なると無保険者にならざるを得ない。国民は健康なうちは会社を通じて安い医療保険に加入できるが、一度病気になり働けなくなると、高額な自己加入保険か無保険者になってしまう。医療費負担破産はクレジット負債破産についで自己破産の直接原因の第2位である。アメリカ国民は日本の国民皆保険制度を理想の医療制度だと絶賛しているのだ。市場原理とは弱者をこのように切り捨ててゆくシステムなのです。民主主義国において市場原理主義を絶対に入れてはいけない「セーフティネット」があります。それにたいして政府が責任を持たなければ国とはいえません。』と結んでいる

次に英国の医療制度の改革を見てゆこう。第2次世界大戦後の1948年、国民保健サービスNHSを発足させた。チャーチル首相のもとでベバリッジが1942年に発表した報告は戦後の社会保障政策を設計した。アトリー内閣のベバン保健相は「無料で一定レベルの医療を受ける仕組み」を訴え、医師の反対と妥協を受けて1948年にNHSを立ち上げた。このNHSは世界に影響を与え、日本やカナダでも医療化改革が進んだ。日本の皆保険制度は1961年に実現するが、最初は医師の猛反対を受けたものである。ところが1970年まで英国では充実した社会保障と基幹産業の国有化などの政策でいわゆる「英国病」が蔓延し経済は行き詰まった。そこで登場したのは鉄の女サッチャーである。国有企業を民営化し労働組合を潰し経済を活性化したといわれるが、医療制度改革は大失敗であった。サッチャー首相は1990年「NHS・コミュニティーケア法」により、国民はNHSを強く支持するなかNHS改革を始めた。その手法は民間企業のマネージメント手法と競争原理の導入であった。病院を独立採算制とし、医療費もこれまでの公定価格制から、病院が設定できるようにした。医療費を抑制しつつ病院の生き残り競争を激化した。経済的効率は医療の質向上に必ずしも結びつかない医療の特殊性を無視し、競争を激化すれば医療崩壊につながることの典型的な悪例となった。「待機患者問題」が深刻化し自由なアクセスができないことへの不満が爆発した。次のブレア―政権はNHS改革に乗り出し、医療費の急速な増額、医師養成の急速な増員などの修復を行った。未だ英国の医療制度は回復したとは言えないが、日本の医療とイギリスの医療制度の違いは、英国では税金で賄われる無料の医療であること、そして患者は綜合医(一般医)GP制度のなかにあることである。日本の医療が学ぶべき点がありそうである。医療そのものに対する評価ではWHOは日本の医療は最高レベルであるといっている。医療制度のみならず、現場の治療成績も高いレベルにある。ところが日本国民の医療への満足度アンケートではいつも満足度は15%ぐらいで低迷している。各国民の医療への満足度は各国の生活満足度によく一致する。日本人は現状の生活に満足しない国民性であるようだ。医療制度の比較でよく用いられるものさしとは、@コスト(医療費)、Aアクセス(医療機関)、Bクオリティ(医療レベル)であるが、日本の医療は優れた面の多い制度にあるといえる。アメリカの医療制度は「医療は各個人が自分の責任において購入するサービス」という考えに基づいている。世界でずば抜けて医療費が高いし、必ずしもだれでもアクセスできるわけではない。だからアメリカの制度は間違っているともいえない。なぜなら米国は優れた医学教育、最高峰の研究開発能力、医薬品や医療機器は米国製が多い。これは米国型の新自由主義的医療制度は高額の医療費に支えられて、世界中の優秀な研究者を雇用することができ、新しい治療法や薬の開発に多額の研究費支出を可能としている。米国の大リーグは高額の年俸(3年で30億―50億円以上)を払うから優秀な選手が世界中から集まるのである。そういう面では優れた競争型システムであるが、際限なく競争が進行すると、コストが下がるのではなく逆にコストは高くなってゆく。世界で最も多額の医療費を使いながら、格差のある大きな医療体制のために、米国の保健医療は成功しているとは言えない。

システムが巨大化し資本が大きくかつ独占的になるとサービスの購入者である患者の選択が働かなくなってしまうのである。ヘルツリンガーは「米国医療崩壊の構図」において「消費者が動かす医療を作りあげることが重要で、かならず消費者のニーズに合う最適で低価格のサービスが提供されるはずだ」と述べている。巨大な資本の利潤追求の前で消費者が全く無視されているのである。自由と競争の原理は、新しい治療技術の開発には有効であるが、人間を対象とするサービスでは医療の質が低下し人間を疎外するようになる。日本では医療の株式会社制度が禁じられているのは、そこに歯止めをかけるためである。一定の成長を遂げたOECDやG7のような国において、社会福祉の充実が経済成長を阻害するというのは間違いである。G7の中でGDPに対する総医療費の比率は以外にも日本が一番低いのである。経済成長の要因は全く別の因子で決定されるので、社会福祉の充実で経済成長の足を引っ張るという証拠はない。むしろ医療費の増大による波及効果は高いし、社会の安定要因となる。豊かな国ではすべての人々に必要な医療を提供することを目指している。イギリス、カナダ、北欧のような税による医療費負担を制度化している国々、ドイツ、フランス、日本のように国民皆保険を実現している国々は、それぞれの伝統と文化と歴史と国民性にマッチする適当な制度を採用している。最後に米国の民営化のすさまじさを描いた、堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年)では完全民営自治体サンディ・スプリングスという金持ちだけの自治体が出現したという。富裕層だけの独立自治体で、そうでない人々から教育、医療、交通、福祉の権利を奪い取っている。これでは公共や政府という概念さえ成立しなくなる。まるで西部劇にでてくる、お雇い用心棒によって警察代用とし、無法者を吊るし首にする、成功した農園主のエスタブリッシュメントが自治のすべてをつかさどるという様相ではないだろうか。きびしい時代に生きた人々の精神ではあるが、人類は何のために社会と国を生み出したのかを考えなければならない。

第2章 脆い国民皆保険制度

日本で国民皆保険実現に先立って、1960年より老人医療費と乳児医療の無料化を達成した村があった。岩手県沢内村である。それが引き金となって1973年に国の制度として70歳以上の老人医療費無料化が実現した。岩手県は地域医療の確保が難しい医療過疎地域で、県民は組合による医療経営を立ち上げ、国保組合が医療保険と医療の提供をおこなう「保険と医療の一体化」の実績を上げた。医療費はただでいいのかという議論では、医療費の無駄遣いを誘発する「医療保険のモラルハザード」が指摘される。医療費の出来高払いもその原因の一つであるという議論がある。老人医療の「薬漬け・検査漬け」は国民医療費の高騰を加速した。医療側と患者側の両方に甘えが生じたのである。1983年鈴木善幸内閣は老人医療費無料を廃止させる老人保健法を成立させ、ここに10年続いた老人医療費無料制度は廃止された。日本の高齢化率(65歳以上)は1995年には14%を超えた。医療保険を民間に任せていると、保険料が高騰し加入できない人が出てくる。そこで保険を全員強制加入方式とする国民皆保険制度が生み出されたのである。そうすると純然たる保険ではなく、所得の再配分機能も交じった制度となる。1980年代はイギリスのサッチャー首相、米国のレーガン大統領が世界を新自由主義の方向に舵を切った時代である。「小さな政府」の経済運営が世界の主流となり、「福祉国家の危機」の傾向が強まった。医療費の抑制、効率化の提案、限度を超えた医療負担のあり方などどの国も大きな悩みを抱えている。では医療費はどのように決められているのだろうか。医療費の計算は1件づつを合計してゆく「出来高払い方式」で行われてきたが、2003年より大きな病院では「包括払い」DPCで計算される方式が導入された。診断名であらかじめ点数が決められている。ただ手術などの高度な治療では「出来高払い」で計算される。患者は医療費の合計の3割を負担し、残りは健康保険が負担する。個人負担が限度額を超えるときは「高額療養費制度」があって、後日払い戻しがある。業務上の疾病や負傷、健康診断、予防治療、正常妊娠・正常分娩などには健康保険は使えない。診療報酬の具体的な点数は厚生省の中央社会保障医療協議会(中医協)の答申を受けて厚生労働大臣が決定する。中医協は支払い側7名、医師側7名、公益側6名の委員で構成される。日本の総医療費はすでに年間38兆円を超えている。毎年1兆円づつ自然増加傾向である。小泉内閣の予算削減政策により2002年と2006年に医療費本体部分の切り下げにより、「医療崩壊」と呼ばれる危機的な状態になった。診療報酬制度は公的な保険点数の設定があるため、@医療の価格を設定する機能、A医療の水準を設定する機能、B医療提供という資源配分機能、C政策誘導機能が期待される。診療報酬制度は治療法が確立されている病気に対するもので、新開発の治療法までよくカバーすることはできない。そこで将来診療報酬点数表に掲載する前段階として、「先進治療」等の保険外併用治療に申請することができる。承認されていないか、将来保険治療を目指さない混合治療とは意味が異なる。2010年の国民医療費は37兆円を超え、総医療費の対GDP比率はOECD加盟国の平均値(16位)であった。2011年では12位となって医療歩の伸びは大きい。ただG7の中では日本の医療費対GDP比は最下位である。日本は先進国の中では国民医療費の少ない国である。断トツに医療費が高いアメリカの対GDP比は2011年で17.7%、日本は9.6%であった。アメリカの総医療費の著しい増大の理由として、ここ20年間に医療技術の進歩のために医療にかかる費用が高騰したためである。CTスキャナー、MRIと言った画像診断装置が極めて高価である。第2の理由として人口の高齢化があげられる。しかしアメリな社会の高齢化率(12%)はさほど高くはない。高齢化率の最も高い日本(23%)では医療費対GDP比は先進国で一番低い。つまりアメリカの医療費の高さは異常である。結局医療費の高騰は、医療を市場的な制御のみに委ねたことによるのである。市場のアクターが相対的に弱く市場が拡大傾向にあるとき競争原理が働いて費用は下がる傾向にあるが、市場が成熟し、独占が進んだ状態では競争が行われず、寡頭支配のもと価格がつり上げられるのである。共産国の中国の医療は実はアメリカと同様最も格差の大きな状況にある。医療体制が公的であっても医療費を単純に市場的に解決しようとした結果であるといわざるを得ない。同じ共産国キューバでは限られた医療資源をプライマリーケア―と予防医学に徹底的に配分した結果、充実した医療を実現している。

毎年増え続ける医療費のため健康保険の財政が危うくなってきた。健康保険は民間企業の職域ごとに形成された組合健康保険と、各市町村が運営する国民健康保険がある。小さな会社の場合全国健康保険協会がまとめる協会健康保険がある。組合健康保険と協会けん保を合わせて加入者は3800万人、国民健保は3800万人、公務員が入る共済組合には約900万人が加入している。75歳以上の後期高齢者医療制度1500万人である。これらを合計すると約1億3000万人となり、我国の総人口に等しい。保険料は収入に連動している。医療費負担は小学生から70歳になるまでが3割負担、70歳から75歳までは2割負担(1割据え置きの年代もある)、75歳乗は1割負担である。診療費が高額な時には高額療養費制度があり、上限額以上の医療費は保険が支払ってくれる。国民がかかった医療費は保険料から50%、税金負担が38%、患者個人負担が12%である。負担関係は複雑で、若い人が多くて財政的余裕のある組合健保、協会健保、共済組合から後期高齢者支援金が拠出される政策(年間保険料の約40%拠出)のため、黒字組合などは少なくなってきた。保険料金を収められない人の割合は国民健保で11%であるという。それぞれの平均保険料率は2013年現在で、組合健保が収入の5%、、協会健保で7.2%、国民健保で9.7%、共済組合で4.9%である。高齢者の多い市町村の国民健保の保険料が一番高い。2001年に始まった小泉内閣の国民医療費抑制政策は、毎年2200億円削減するという自然増抑制政策がとられた。また2002年より医療費の本体部分(医療技術料)の切り下げにより、医療費総額は2.7%切り下げられた。こうして2008年まで2年毎の切り下げにより病院医療は崩壊の時代となった。病院は急性期医療に集中し、平均在院日数の削減などの医療費抑制策を講じ乍ら、診療報酬の削減されるなかで医療の質を上げる努力も必要であった。イギリスのサッチャー首相によるNHS改革、小泉首相による医療費削減政策は著しく医療の荒廃を招いたが、ブレア―首相が医療費の増額を図り、日本では民主党政権でのわずかながら医療報酬の切り上げが行われた。米国の医療レベル(質)が世界最高であることは間違いないとしても、大きな医療格差(医療費、アクセス可能性)という問題を抱えている。これを市場主義医療のパラドックスと呼ぶ。アメリカでは医療費を削減するため様々な方策が考えられている。「オレゴンプラン」では医療行為の効果(死亡は0、完治は1として0-1の値をつける)と費用を勘案し、順序をつけてある番号より下は保険給付(もちろん民間医療保険のことだが)の対象外とする。コストが高くて効果が少ない治療法は社会的損失なので保険の対象外となる。金持ちは一縷の望みをかけて自費で治療する。さてこういった割り切り方が日本で通用するだろうか。医療費抑制の一番有効な方法は特許が切れたジェネリック医薬品を選択することである。さらに保険の免責という方法もある。一定額を保険から免責し、患者が自己負担する方法である。患者の受診を抑制する方法だが保険会社優遇策のようで患者には納得できないだろう。また診療費が一定額以上を超えたら、超えた部分を自己負担とする方法もある。これは混合診療の変種かもしれないが、日本の高額療養制度の逆を行く制度であるが到底日本では理解されないだろう。アメリカ式医療の現状は憂鬱な選択になるだろう。今ある皆保険制度を全部廃止するのではなく、基本部分は守り、それを超える部分は患者の自由な判断に任せるという混合診療の全面解禁案もある。この混合診療は1976年の中医協で禁止通達が出された経緯をふまえ医師会を始め医師の団体は強く反対しているが、経済界は全面解禁を強く主張している。早川幸子氏の「混合診療にまつわる3つの誤解を解く」という記事が2013年7月6日の朝日新聞に掲載された。
@ 確実な治療法に対しては先進医療の保険外併用療法があり、日本の医療制度が硬直的だという批判は当たらない 
A 混合診療を無制限に認めると根拠のない危険な医療がまかり通り、自由診療の方がよい治療を受けられるという期待は誤解である。
B 保険適用外の薬は高めに設定され、医療費は高騰することは容易に推察できる。混合診療の方が国民負担は軽くなるという説は誤解である。

2012年度の厚生労働省白書は「社会保障を考える」というテキストとして好評であった。「なぜ社会保障が必要か」という題で社会保障の必要性や歴史が説明されている。社会保障は近代産業資本主義社会の中で生まれ、社会の安定と国家の発展を支える制度として制度設計されてきた。その制度化に大きな役割を果たしたのが、プロイセンの宰相ビスマルクだという。1879年のパリコンミューン革命の影響を受けて19世紀末はドイツでも革命が起りそうな社会情勢となった。ビスマルクは軍事力で晋仏戦争に勝ち、重工業の労働者の生活改善により社会主義革命から体制を守る必要から、世界でも最初の医療保険制度が作られた。明治維新政府が派遣した岩倉使節団はドイツを訪問して、ドイツから国の制度設計に影響を受けたという。我国の国民皆保険はビスマルク時代のドイツ帝国のエイドを見習ったもので戦前に導入された。1943年には国民の70%が加入する制度となった。そして1961年には文字通りの国民皆保険制度が実現した。国の基本政策が、税金と社会保障負担の合計が高いか低いかと、公的サービスの給付レベルが高い低いかでもって考えなければならないであろう。高負担低給付は収奪型国家のてんけいで話にならないし、低負担高給付は財源として持続的ではなく石油産出国でないと実現しない。高負担高給付は北欧型社会の特徴であり、低負担・低給付は未開国または小さな政府の特徴である。国民負担率(主として国民所得に対する)でみると、2013年ではイタリアが62%、フランス60%、スウェーデン59%、ドイツ50%、イギリス47%、カナダ42%、日本38%、韓国33%、米国31%であった。小さな政府のアメリカが最低の負担率で、日本もどちらかと言えば小さな政府であろう。また日本の公務員数は約538万人で人口1000人当たり42人であり、イギリスは98人、フランスは96人、アメリカは74人、ドイツは70人となっており、日本の公務員はかなり少ないほうですでに小さな政府が実現している。現在小さな政府の新自由主義国家は、富が上から落ちてくるという「トリクルダウン」現象は起きず、富の偏在が進み、貧富の差が拡大した。その結果少数者による富の独占、教育機会の不均衡、富と職業の世襲化などの格差固定化が深刻な問題となった。可能な限り公平で平等な医療制度を持続させようとすれば、国民の負担が増さざるを得ない。これはヨーロッパ型の社会保障である。国民負担という点で各国の消費税率を見ると、2014年現在で日本は8%、イギリスは20%、ドイツは19%、フランスは20%、スウェーデンは25%である。税率が上がることは国民として歓迎されることではないが、医療財源確保の立場からいうと、
@ 医療費を含めた社会保障のために税や社会保険料などの負担増を認める。(大きな政府)
A 社会保障レベルを維持することは当然としつつも負担増は認めず、政府のむだをなくして財源を確保する。
B 経済生長第1主義で、社会保障の負担を最小限にとどめる。(小さな政府)
という3つの立場がある。民主党政権下でAの方向で隠し財源を探して見つからなかったこと、国債依存率が50%の予算では財源はないことは明白であるので期待できない。すると小さな政府か大きな政府のどちらを選択するかという問題である。

第3章 超高齢社会に立ち向かう

団塊の世代(1947-1949年生まれ)と呼ばれる世代は2015年に前期高齢者(65歳―74歳)に達する。高齢者が増えれば医療や介護の必要度が高くなる。それをどうすることもできるわけはないが、国や地域ではそれへの対応が必要だ。少子高齢化という人口動態は、すでに決まったことでこれから20年間という1世代間までいかなる施策も無効である。つまり施策の効果が現れるのは20年後である。河野稠果著 「人口学への招待」(中公新書 )に、近未来的な日本の少高齢化は「合計特殊出産率は2013年まで1.21まで下がり、2007年より日本の人口は減少傾向になる。2055年には総人口は9000万人をきる。65歳以上の高齢化人口は2040年まで上昇し、14歳までの未就業人口は一貫して減少し続ける。100年後には日本の人口は4000万人以下となる。何らかの人口抑制策を講じて2025年にもし人口置き換え水準に恢復したとしても、2080年に人口は8000万人に一定化する」というのである。産めよ増やせよという戦前のスローガンとおなじような政治家の掛け声だけが無内容に聞こえてくるのは当然である。政治家や経済学者は子供を消費者としか見ていないようで、生きづらい世の中をどうするのでもなく、女性の地位と負担を軽減するわけでもなく、都議会の野次のように女性に向かって産めということしか言わない。2012年に高齢化率は24%を超えた。超高齢化社会は長寿社会を実現してきた先進国にとって必然の現象である。日本社会の持続性にとって、高齢化は実は重要な問題ではなく、少子化こそが大問題なのだ。平均寿命はゼロ歳児が今後何年まで生きられるかという指標で男性で80歳、女性で87歳を超えた。今ある年齢の人があと何年生きられるかという推定値を平均余命という。厚生省の完全生命表データからいうと55歳の人は17.8年であるという。平均的には73歳で死亡するということだ。高齢者の平均余命は実はそれほど大きくは伸びていない。また日常的に介護を必要とせず自律して生活ができる期間を健康寿命という。2010年で男性は70歳、女性は73歳だという。健康寿命から平均寿命までの10数年間が人のお世話になって生きる期間であろう。人は時が来れば死ぬものであり、その運命を受容しなければならい。生物学的に言うと、人の細胞分裂には固有の限界がある。これを「ヘイフリック限界」と呼ぶ。又遺伝子レベルでいえば、テロメアという染色体の末尾に着く塩基配列が少しづつ短くなってくると、細胞周期抑制タンパク質が作られて細胞分裂が止まるのである。それが生物学的死である。日本人の生活レベルの向上によって戦後は結核は急速に減少し、脳卒中、がん、心疾患が死因の3大疾病となり、先進国型の疾病構造となった。西ヨーロッパでは、最初に医師に診察を受けるプライマリーケア―、専門分化した治療を受けるセカンダリーケアとに分離している。専門医と綜合医は最初から分離して別々の職能集団を構成する。米国ではプライマリーケア―は診療所、セカンダリーケアーは病院が担当する。病院はオープンシステムで運営され、最初に診断した医師が病院に行って患者を治療する。つまりプライマリーケアー医師とセカンダリーケアー医師に身分の差はない。日本病院のあり方は米国とも西ヨーロッパとも異なる。戦後日本では公的大病院が作られたが、1960年ごろから民間の中小病院が急増した。プライマリーケア―を担当していた医師個人の診療所が小規模病院を目指した。民間病院は小規模病院から大規模病院を目指すことになった。私的運営の病院とはいえ、救急医療、災害医療、へき地医療、周産期医療、小児医療など公的な面も担っている。

日本の医療提供体制は、医療費は公的な国民皆保険制度が、医療の提供は主として民間が支えるという体制で行われてきた。その特徴は医療のかかり易さ(アクセス)重視の医療であり、誰でもどこでもどこの医療機関へもアクセスができることである。1960年代は先進国間の医療体制にさほどの差はなったが、他の先進国が病院を急性期治療に切り替え、医療を「成熟社会型」に改革した。日本では病院改革は急速には進まず、病院の数は多く急性期の病床の数も多かった。又平均在院日数は他の国よりずば抜けて多かった。他の先進国の在院日数は2週間以下であるが、日本では1か月以上であった。1997年医療法改正により医療の安全や、患者の権利尊重に重点が置かれた。2004年福島県病院事件が起こり医師が逮捕起訴された。これが小泉内閣の総医療費抑制政策の中で、日本の医療崩壊の引き金になった。成熟社会型医療への改革を進めることになり、@充実した教育体制と厳格な専門医認定制度、A病院機能の集中化・集約化、B病院と診療所の密接な連携、Cチーム医療の推進と職種による制限の見直し、D医療安全と患者権利尊重のためのシステムがその特徴である。高齢化社会では病院完結型では限界があり、退院後の在宅ケア―やリハビリや、介護体制がキーポイントになる。これを地域完結型と呼ぶ。21世紀になって医療への批判が噴出している。まず医者がそれほど尊敬されなくなった。医者の父性権威が地に落ちたのである。医療事故・医療安全・医療崩壊について日本社会に不満が広がったためである。福島原発事故で専門家・学者の権威が地に落ちたのと同様な現象である。フリードソンは「医療と専門家支配」で医療への信頼が危機に瀕していると警告した。イリッチは「脱病院化社会」で医原病から患者の命を守る市民運動が広がっているという。イリッチは社会が病院を過剰に信頼し、医療に過剰に依存している現状を批判している。多剤耐性菌問題、過剰な手術、下手な手術、エックス線被ばく問題、抗がん剤多用による衰弱死という問題を指している。日本でも岡田正彦著 「医療から命を守る」(日本評論社 2005年)近藤誠著 「医者に殺されない47の心得」(アスコム 2012年)などの書がある。日本では急性期医療の有効性に目を奪われ、その充実に力を注いできたが、幅に広い総合的なプライマリーケアをになる人材養成が遅れている。大病院に人材が偏在したため地域医療のスタイルはマイナーとみなされてきた。優れたびゅいんのイメージは大きくて立派な建築物、最新の機器、集中治療室の充実、ヘリポートもステイタスシンボルである。病院間の競争も投資額の大小で集客力が支配される。医科学研究には莫大な研究費が投入されるが、高齢者福祉には概して貧弱な対応しかしてこなかった。医師の専門性はますます狭く深くなった。一人の複雑な患者にはチームが作られ複数の専門医が対応する時代となった。2013年4月厚生労働省は専門医のあり方の審議会の結果を公表した。継続的で全人的な医療の専門家として「綜合診療医」を位置付け、専門医養成プログラムに組み入れるという。2017年度をめどに要請が開始されることになった。治療が成功したといっても必ずしも健康な生活ができるとは言えない。寝たきり老人やスパゲッティ症候群となっては、その人の人生の予後はよい状態とは言えない。高齢者を病院から放り出せば勝手にうまくゆくわけではない。受け皿が必ず必要だ。治療後の生活を支える地域包括ケアの充実が2008年の研究会報告書で指摘された。その運営主体に医師会またはNPO法人、または自治体が中心になってさまざまな取組が行われている。

第4章 新しい治療法を目指して

2010年日本学術会議の金澤会長は、ホメオパシーが科学を無視した荒唐無稽な治療法であるとして、これを臨床の現場から追放すると訴えた。偽の薬で、本来効果はない治療法が効果を発揮する現象をブラセボ効果という。平安時代の密教などはこうした治療(加持祈祷)で天皇の神経症を治して、巨大な寺院を賜って聖人となった。薬の有効性は二重盲検法で効果を統計検定する。薬効のメカニズムはその段階で分からなくてもいい。最初は動物で有効試験をし、次にやはり動物で毒性試験を実施し、最後に残った候補薬を人を対象とした臨床治験を行う。本書ではサリドマイド胎芽症、フレミングのペニシリンの発見とフローリー・チェインが量産技術開発によって抗生物質が広く使われるようになった話や、抗胃潰瘍薬シメチジン(H2ブロッカー)の開発物語、ピロリ菌が胃潰瘍の原因となる話など薬や医療の開発物語を楽しく読むことができるが、それらは省略して医薬品や医療機器開発に移ろう。臨床治験の全過程を、日本では医薬品開発は独立行政法人医薬品医療機器総合機構PMDAが監視する。薬の開発には10年、1000億円という費用が掛かる。差金新薬の開発はさらに難しくなってきている。年間1000億円を超す売り上げをしめす大当たり新薬を「ブロックバスター」と呼ぶ。そのような薬は、高脂血症治療薬、高血圧治療薬、抗血小板剤、間接リュウマチ治療薬、抗ぜんそく薬などがある。高脂血症治療薬アトルバスタチンは年間1兆6000億円にも達した。しかし新規の新薬は全世界で年間15−20製品にしかすぎない。新薬開発はこれほど困難でギャンブル性の高い事業である。生活習慣病関連の新薬は飛躍的に進歩した。胃潰瘍や十二指腸潰瘍薬、慢性間接リュウマチ,気管支ぜんそく、潰瘍性大腸炎、クローン病の薬物療法が長足の進歩を遂げた。ハーセプチンは乳がんの治療薬解いて注目されたが、HER2という標識を持つがん細胞にしか効かない(全乳がん患者の20%−30%)ので、HER2陽性患者を見分ける「個別化医療」と併用される。個別化医療(オーダーメイド)は遺伝子診断技術の進歩とともに期待される分野である。肺がんの抗がん剤でチロシンキナーゼを選択的の阻害する「イレッサ」が注目されたが、日本では間質性肺炎の副作用で大きな社会問題となったことは記憶に新しい。抗がん剤のような作用が激しい薬は副作用の危険もまた大きい。医療は不完全であり、医薬品もまた不完全なのである。2013年5月読売新聞は「医療後進国になるな」という見出しで、日本の医薬品と医療機器の開発力が乏しいとして、貿易赤字は2011年で2.9兆円に上ったと警鐘を鳴らした。日本の赤字の主役は資源エネルギーで、黒字の主役は自動車などの機械類である。その差が貿易赤字であり、財務省のデータでは医薬品の貿易赤字は1.4兆円で、日本全体の貿易赤字総額の3.7%を占めるに過ぎない。それはそれとして、日本の製薬企業の開発力は弱いことは事実である。今後の発展が期待されるバイオ医薬品で後れを取っていることは、心配の種である。日本の医療機器メーカーが国際的に特徴ある製品を開発してきたことは良く知られている。診断や治療に欠かせない超音波装置、内視鏡、レントゲン写真フィルム、パルスオキシメーター、CTスキャン、手術内視鏡がある。90年代になって医療機器の貿易赤字は6000億円を超えた。この原因はカテーテルなどの治療機器の割合が増加したためである。医療研究の世界でのレベルは、論文数、被引用数のいずれもの本は上位を占めている。世界の大学ランキングでは日本の基礎研究機関はトップレベルに付けている。しかし日本は臨床医学というと論文数は世界の18位と遅れている。日本の臨床論文では症例報告は多いのだが、治療のエビデンスを示す大規模ランダム試験、コホート研究などの研究が少なくい。また臨床治験の力も不足しているといわれ、ドラッグ・ラグ、あるいはデバイス・ラグの原因となっている。医学教育面でも公衆衛生学部での生物統計学、疫学、感染症学、栄養学、遺伝学、行動科学、国際医療保険額、医療政策学の分野で海外の大学に後れている。大型で本格的な臨床研究を実施する基盤が十分でなかったことが、臨床研究が振るわない要因であった。大学の中に臨床研究センターのような機関の設置が必要であろう。医療産業の発展を優先するならば、日本の医療制度を大きく米国型に変える必要があるという見方も生まれている。混合診療の全面解禁により医薬品や機械の価格を高めに設定することができ、患者は健康保険の他に民間医療保険にも加入し総医療費を増加させ、投資価値のある魅力ある医療産業を興すべきであるという意見である。病院運営についても株式会社制度を認め、資金と競争力のある組織にすべきであるという。その例をお隣の韓国に見ることができる。韓国では医療の営利化・産業化は日本より先行している。そして韓国では病院の質の低下と医療費の高騰を招いた。市場主義医療のパラドックスがここでも現出したのである。効率化(高収益率)のスローガンの為、非人間化が招来される。いったい医療産業は誰のためにあるのだろうか。患者の為か投資家の利益の為か。ヨーロッパにも優秀な製薬会社は多い。諸外国に学ぶ必要はあるのだが、米国一辺倒である必要はないのだ。米国で実現しているのは国民のなかの大きな経済格差と社会の分断である。米国のように、医療を受けるために支払い不能な治療費を請求され破産を覚悟しなければならにような社会がはたして健全な社会と言えるのだろうか。


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