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柴田三千雄著 「フランス史10講」 
岩波新書(2006年5月) 

絶対王政・革命・共和政・帝政と揺れ続けた欧州の中のフランス

本書柴田三千雄著 「フランス史10講」は、坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」近藤和彦著 「イギリス史10講」と同じ編集方針で書かれた3部作をなす「通史シリーズ」のひとつである。欧州ヨーロッパ地域世界のなかでのフランス、イギリス、ドイツという国が太古の昔からあったわけではない。ヨーロッパの古代の国は紀元前6世紀ギリシャの都市国家から始まって、ローマ共和国からローマ帝国がそれである。その時代はカエサルの「ガリア戦記」(岩波文庫)に描かれている、部族割拠と移動の時代であった。。「ガリア戦記」に入る前の、ローマとガリアの関係をみると、紀元前390年にはガリアの将軍ブレンヌスがローマを攻略したが攻めることは出来ず、反ローマ同盟を作ったがガリア人の勢力が北イタリアに及ぶことはなかった。ハンニバルのアルプス越えにガリア人は勢力回復を試みたが、内紛分裂を重ねてローマに対抗することは出来なかった。紀元前2世紀になるとローマは南ガリア(マルセイユ)に侵攻し殖民地経営を進め、BC121年にはアルペース山脈からロダヌス河(ローヌ河)までをローマのプロウィンキア(属州)とした。そこからローマはヒスパニア(スペイン)を植民地化し地中海の覇権国家となった。こうしてカエサルの時代を迎えた。ガリア人は東からゲルマン人(今のドイツ)の侵入と、南からローマの侵入に曝されることになった。そしてこのことがガリア人の反ローマ同盟の結成とつながり、ヘルウエー族のオルゲトリクス、ハエドゥイー族のドゥムノリクス、セークァニー族のカルティクスの3名による反ローマ計画を生み。これがカエサルのガリア遠征の直接的契機となった。当時カエサルは43歳、ヒスパニアの経営で名を馳せていた。このガリア戦争でカエサルはローマのすべてを獲得したのである。「ガリア戦記」に入る前の、ローマとガリアの関係をみると、紀元前390年にはガリアの将軍ブレンヌスがローマを攻略したが攻めることは出来ず、反ローマ同盟を作ったがガリア人の勢力が北イタリアに及ぶことはなかった。ハンニバルのアルプス越えにガリア人は勢力回復を試みたが、内紛分裂を重ねてローマに対抗することは出来なかった。紀元前2世紀になるとローマは南ガリア(マルセイユ)に侵攻し殖民地経営を進め、BC121年にはアルペース山脈からロダヌス河(ローヌ河)までをローマのプロウィンキア(属州)とした。そこからローマはヒスパニア(スペイン)を植民地化し地中海の覇権国家となった。こうしてカエサルの時代を迎えた。ガリア人は東からゲルマン人(今のドイツ)の侵入と、南からローマの侵入に曝されることになった。そしてこのことがガリア人の反ローマ同盟の結成とつながり、ヘルウエー族のオルゲトリクス、ハエドゥイー族のドゥムノリクス、セークァニー族のカルティクスの3名による反ローマ計画を生み。これがカエサルのガリア遠征の直接的契機となった。当時カエサルは43歳、ヒスパニアの経営で名を馳せていた。このガリア戦争でカエサルはローマのすべてを獲得したのである。

「ガリア戦記」の構成を次に示す。
T 第1巻(紀元前58年) - ヘルウェティイ族との戦闘、アリオウィストゥス率いるゲルマン人との戦い
U 第2巻(紀元前57年) - ガリア北東部(ベルガエ人)への遠征
V 第3巻(紀元前56年) - アルプス越え開拓、大西洋岸諸部族との戦争
W 第4巻(紀元前55年) - 第一次ゲルマニア遠征、第一次ブリタンニア遠征
X 第5巻(紀元前54年) - 第二次ブリタンニア遠征、ガリア遠征初の大敗
Y 第6巻(紀元前53年) - 第二次ゲルマニア遠征
Z 第7巻(紀元前52年) - ウェルキンゲトリクス率いるガリア人の大反攻、アレシアの戦い
近藤和彦著 「イギリス史10講」、坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」、そして本書 柴田三千雄著 「フランス史10講」も示し合わせてローマ帝国時代から書き始める。その理由の一つは部族民の彼らが文字を待たなかったので記録がないためであり、一つはまったく国の形を成していない部族割拠にすぎなかったのでイギリス、フランス、ドイツという区別は不可能で、せいぜい地域の自然環境を記述するだけのことであった。自然環境だけでは風土・文化の特徴にはならず、ましてフランス人共通の特徴があるわけではないのである。ローマ帝国の支配によってはじめて文化に浴し、社会的インフラや生活・国家のイロハを学ぶのである。だから欧州地域世界はローマ帝国属州になってから、国作りの第1歩が踏み出され、混沌から形ができ始めるといえる。だからローマ時代までは現在のイギリス・フランス・ドイツの国境線内での歴史はほとんど意味をなさない。それは近世まで続くのである。近代国家が形成される16世紀になってはじめて国境が意味を持つが、中世では現フランス領域にイギリス王朝とフランス王朝の領地が入り乱れていたし、ドイツは19世中ごろまで諸侯割拠の連邦であった。日本は海に囲まれているので国境の議論は最初から無意味であるが、諸侯乱立と徳川家の盟主制連邦であった。国とは諸侯のことであった。徳川家はあくまで家産的君主(諸侯中の第1位禄高)で中央官僚機構も不十分で、近代国家の態をなすのは19世後半の明治時代からであった。

第1講 「フランス」のはじまり (紀元前ー10世紀) (フランク王国と神聖ローマ帝国)

現在「フランス」と呼ばれる地に、初めから「フランス」がいたわけではない。多くの部族が割拠している地であった。「ガリア」と言われた地を文明化していったのがローマ帝国であった。カエサルはガリアの部族の激しい抵抗を排して属州にして、ローマ型都市を築いた。この間にケルト文明(欧州中央とイングランドに分布したケルト人は必ずしもガリア人と一致するわけではないが)とローマ文明とが融合し、部族の統一も進み始めた。この時代を「ガロ・ローマ時代」という。AD395年ローマ帝国が東西に分割支配となって、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に抗しきれなかった。ゲルマン人の侵入とは、中央アジアの遊牧民フン族がウクライナに侵入し、ゲルマン人の東ゴート族が西へ大規模な民族移動を始めたことをさす。ゲルマン人の侵入はローマ帝国内への入植となったり、ローマ帝国防衛の同盟軍として駐屯することを許される形を取っていたが、476年西ローマ帝国は滅亡して、ガリア地域は「ゲルマン人部族国家群」の時代になった。ローマ文化を継承する「ローマ・ゲルマン国家」の時代が数世紀続いた。5世紀後半の欧州中央には「ブルグント王国」が今のフランス南部とイタリアを支配し、東には「東ゴート王国」が、西のイベリア半島(今のスペイン)には「西ゴート王国」が、バルト海沿岸(いまの北フランスとオランダ、ドイツ)には「フランク王国」が存在した。6世紀中頃東ローマ帝国のユスチアヌス1世が東ゴート王国とブルグント王国を倒し、地中海沿岸のローマ帝国支配を(一時的であるが)復活した。結論的にはフランク王国のピピン3世(751-768)がガリアの統一に成功し、カール大帝(768-814)の時に隆盛を迎える。その理由としては、ガロ・ローマ時代には少数民族であったゲルマン人部族は次第に領地支配権力へ変わり、フランク王国のクロヴィスが496年にカトリックに改宗したことで、西ローマ教会と結びつき権威と正統性をもって征服を進めたことである。分割相続を原則とするゲルマン族の習慣によって、この「メロヴィング王朝」は次第に勢力を失ったが、732年イスラム教徒との「トゥール・ポワティエの戦い」で勝利したピピン3世が「カロリング王朝」を開いた。カール大帝は遠征を繰り返しフランク王国の支配を広げほぼガリア全域を統一した。そして800年ローマ教皇より「ローマ皇帝」の帝冠を受けた。これには東ローマ帝国に対抗するローマ教皇が強力な後ろ盾(財政、俗権)を求めたことと、俗権側が「塗油」の儀式によって王政の権威づけと正統性の確保を狙ったことである。9世紀には地中海世界は、東がビザンチン帝国(東ローマ帝国)、中央が「フランク王国」、西に「イスラム勢力圏」という3極により、「ヨーロッパ地域世界」が成立したことを示している。ビザンチン帝国とイスラム国は政権と教権が一致しているのに対して、フランク王国は教会の宗教的権威と王の世俗的権威がそれぞれ自立して共生関係にあることが特徴であった。フランク王国「カロリング朝」は広大な領域を支配したといっても統治機構が極めてぜい弱で、「伯」は独立傾向を強めた。その結果843年にヴェルダン条約を結び、東フランク、ロタール、西フランクの3国に分裂した。中央のロタールを長男が相続し皇帝の称号を継いだ。地理的には現在のフランス、ドイツ、イタリアの3国の原型となった。フランク王国は相続の度に再分割を巡って戦争がおき、しだいに衰弱していった。そこへ民族大移動の最後の嵐がやってきた。一つは西からイスラム教徒の地中海沿岸への侵攻であり、2つは9世紀末から10世紀後半にかけてのアジア系マジャール人の中部ヨーロッパへの侵入であった。西フランク王国にとって最大の被害は、スカンジナビアにすむゲルマン系のヴァイキングの襲来であった。911年バイキングのノルマン人に対してキリスト教への改宗と防衛を条件として定住を認めた。これが後世、イギリスを征服するノルマンディ公領の始まりである。西フランク王国の「伯」は地方権力を握り、武力抗争を経て自立し領邦権力に成長した。11世紀には公国(領邦君主領)としてブルゴーニュ公をはじめ15公国を数えた。王権の衰退は著しくなり、世襲制を廃止して選挙制に代った。987年ロベール家のカペー王(987-996)が王権を復活し「カペー王朝」を開いた。これがフランスの王朝の原型となった。東では同じころマジャール人排撃に功があったオットー1世(936-973)が962年「神聖ローマ帝国」を開き今のドイツの原型を作った。

フランスの起源をめぐる歴史意識は、ルーツ探しを超え、アイデンティティの確立をこえ、フランス人の正統性(神聖)というイデオロギーまで波及するのである。どこの国民にでもある国民国家または民族意識の確立期によくある実証性のない作り話である神話を、まじめ腐った学者や政治家が真剣に議論し、互いに排斥しあうという滑稽な光景である。しかし日本の天皇神話(古事記、日本書紀)を巡る明治から昭和初期にかけての論争は、美濃部達吉、津田左右吉などを社会的にほうむった戦いであった。丸山真男を恐怖に陥れた権力側の言論抑圧につながっているので、おろそかに議論するわけにはゆかない。日本の神話には宗教性は皆無であるので話は簡単で、権力側の創作であることは分かっていても、これを完膚なきまでに論破してこなかった日本の知識人側の弱腰は遺憾であった。王権神授説の蒙昧を徹底的に論破したジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」の論理構成と執拗さは勉強になる。6世紀後半に司教グレゴワールは「フランク人の歴史」を書いて、洗礼を受けたクロヴィスを称し、フランク人を選ばれた民としている。これによってフランク王国は蛮族国家ではなく、ローマの継承国家として位置づける。さらにフランク人はトロイの末裔である伝説をでっち上げ、これによってフランク人はローマ人と同祖であるとする。だから「ガロ・ローマ貴族」はローマ国家の継承者という「フランク神話」を構築することにより、フランク国家の王権イデオロギーを作った。そこへさらにキリスト教の神聖概念が付加される。751年ピピンによる塗油礼は、本当は王の簒奪者であったピピンは塗油によって正当な王であることを認められた。ルイ敬虔王(814-840)は塗油礼と戴冠式を組み合わせて新しい伝説を作った。「聖別」はカペー王朝のルイ19世(1326-70)のとき典礼として確立した。これは神意に立脚する王権という極めて宗教色の強い王権イデオロギーとなり、宗教上の使命を持つフランス王国という概念につながった。16世紀以来貴族の間で、フランス国家のフランク起源説、すなわちフランス貴族はフランク人(ガリア人)の末裔だという伝説を作った。ブルボン王朝の絶対王権に対する貴族階級の抵抗理論となった。フランク人起源説は実はフランク、ガリア、ローマの3つの要因がフランスを形成してきたことをあえて無視して、国家のアイデンティティを作る19世紀の国民国家のイデオロギー(ナショナリズム)となった。

第2講 中世社会とカペー王国 (11世紀ー14世紀前半) (王権と教権の抗争)

本書は中世を3つに分画する。ヨーロッパ史では中世は6世紀から15世紀までとし、それを前期(6ー10世紀)、中期(11-13世紀)、後期(14・15世紀)と分ける。第1講の後半が中世前期、本講が中世中期である。この時期にヨーロッパという地域世界の構造が形成される。この時期に人々は社会のまとまりをどう見ていたのだろうか。つまり食糧の豊富さだけでなく、安心して暮らせる社会共同体の秩序の観念のことである。1027年ごろ司教アダルベロンにより、「神の家」は祈り、労働、戦いの三機能からなり、地上では聖職者、農民、騎士によって担われるという説である。王がこの三機能を統合し秩序を保障するという。この社会図式は機能がやがて階層関係となり、働く農民が一番過酷な状況におかれた。教会を第1に、領主を第2に、民衆を第3として序列化する点において、中世ヨーロッパん地域世界に特徴的な観念であったといえる。領主、教会、民衆(農民、商工業者、都市生活者)の順に社会の秩序を見てゆこう。カペー家がフランス王として発足した10世紀末の勢力範囲は狭く、かつ領邦君主たちは臣従した形であるがじっすつ独立の政治勢力であった。11世紀になるとさらに権力の細分化が進行し、12世紀になると開墾や交流が盛んになり、広い領地の領邦君主が登場してきた。農民全体を支配し命令権を持つ領主と、領主間に支配関係も進み階層的な政治社会という「封建制」ができた。封建社会は10-13世紀に全盛となったが、封建社会の領主の典型は武装した城塞を持つ領主であった。他の部族の襲来時には城の中へ逃げ込み、さらには町全体が城の中にある城塞都市も出来上がった。領主は法定や牢を置き、城内の秩序の管理者として保護者であり命令権者となった。市場を管理し通行税という間接税を取って、一種の公権力となっていった。戦闘法の変化により、誰でも槍1本でできる歩兵から費用のかかる重装備の騎馬戦士となったことで、身分の世襲化・特権化に移った。同時に弱者の保護、教会への奉仕という使命感と高貴な価値観が「貴族」身分を生んだとされる。キリスト教はフランク王国で普及したが、王や領主の保護の頼らざるを得ないので、教会は王権に従属した。王や領主は教会の役職に親族を送り込み、教会組織を従士制のシステムに組み込んだ。その時点では教会は世俗権力と変わるところはなく教会の権威はなかったといえるが、中世中期より教会内部の改革によってその権威が確立してゆく。一つは修道院改革運動で地元の地元の封建権力から独立してゆく。一つは「神の平和」運動によって戦争から住民の保護を訴える運動で公的秩序の維持に関係した。一つは「グレゴリウス改革」で司教職の叙任権を教皇の手に取り戻す改革である。こうして封建社会の中で教会の地位と役割が確立し、聖職者のモチベーションが上がった。13世紀にはキリスト教組織の回想的編成(ヒエラルキー)も整備された。こうして教皇の主導で1095年「十字軍」が提唱された。聖戦という概念ができたのもこの頃である。

領邦君主による治安の回復(政治の領域)と、教区教会の社会規範の管理(道徳、心の領域)は11世紀から13世紀の農村を変貌させた。農民の生存条件が向上して村落共同体が成立してくる。農奴は廃止され賦役負担は貢租に代った。農民がいまや生産の主体となって、それらを売りさばき、交換する商業が盛んとなってきた。中世都市の誕生は新しい政治、社会、文化の空間となった。そして貨幣提供や納税と引き換えに、都市は行政、課税、裁判の自治特権を獲得した。要塞化した都市と大聖堂(カテドラル)はコミューンと呼ばれた空間となった。パリの建設は12世紀に始まり、セーヌ川の水路で各都市と結ばれた交易で、北と南フランスを結んだ。10世紀末に誕生したカペー王朝は、封建家臣団の他に雇い入れの常備軍を維持し、支配権を管理する有給役人(官僚機構)を擁した。コミューンを保護して都市から貢納金をとり、官僚と聖職者、軍隊が欧を取り囲む「宮廷」を作った。こうして王は領主、教会、都市と言った諸勢力の要の位置を占め、共生関係をもった。カペー朝はこうして王領地を広げ、14世紀初めには王国の約4分の3を支配下に置いた。同時期のドイツで(神聖ローマ帝国)では大小の領邦君主は分裂したままで、これがその後の仏独2国の歴史の重要な相違点となったといえる。王領地の拡大に努めたのは、フィリップ2世(1185-1314)、ルイ9世(1226-70)、フィリップ4世(1285-1314)であった。1214年フィリップ2世はイングランド、フランドル、神聖ローマ帝国連合軍をブ―ヴィスの戦いで破った。また1309年アビニヨンに移った教皇クレメンス5世を招き「教皇のバビロン捕囚」といった状態が70年続いて、教皇庁はフランス王の影響下に置かれた。1066年ノルマディ公ギョームはイングランドに攻め込み、ノルマン王朝を開いたが、1154年ヘンリ2世がイングランド王になった時、フランスの北からスペインのピレネー山脈までの広大な公領はプランタジネット家国家(アンジュ―帝国)と呼ばれ、カペー王領地を凌駕した。フィリップ2世からフィリップ4世に至るカペー王朝は術策を駆使してアンジュ―帝国を浸蝕し弱体化し、オセロゲームのようにカペー王領地に変えていった。こうして14世紀の始め、カペー王朝のフランスは、ヨーロッパ政治の中で第1級の地位を占めた。

第3講 中世後期の危機と王権 (14世紀中頃ー15世紀) (イギリス王朝とフランス王朝の抗争)

中世後期(14・15世紀)は大きな変換点となり、近代国家へ移行する時期となる。封建制という個別・直接的関係に立脚する王政が、租税収入を基礎に常備軍と官僚機構を持ち、貴族を宮廷に統合することが近代国家というならば、それは13世紀から17世紀に至る長い期間であったといえる。王と臣下(領主貴族)との関係からいえば、制限された王政になるか、絶対王政になるかは各国の均衡勢力によって王権の強弱で決まってくる。14・15世紀にヨーロッパを襲った危機とは、飢饉、疫病、戦争であった。13世紀ごろ生産力に比して人口過剰となった社会構造は、飢饉によって閉鎖的な自給社会に戻り経済は沈滞した。そこへ1347年疫病ペストが大流行し人口は激減した。さらにフランスのカペー王朝の王位継承をめぐって争われた英仏間の百年戦争が社会を大混乱に陥れた。カペー王朝はヴァロア家のフィリップ6世(1328-50)が継承した。イングランドの王エドワード3世は血縁からカペー王朝の継承権を主張し、積年の英仏王家の対立が再燃した。1339年エドワード3世は北フランスに侵入し百年戦争が開始された。カペー王朝は初戦で敗北するが1375年失地をほぼ回復した。カペー王朝のシャルル6世(1380-1422)の後継争いが弟と従兄の間で激化し、「ブルゴーニュ派」と「オルレアン派」の内乱となった。イギリスのヘンリ5世はこの内乱に乗じてノルマンディに侵入して勝利した。ブルゴーニュ派はヘンリ5世とトロワ条約を結び、ヘンリ5世はフランス王となった。こうしてイングランド王家とフランス王家は複雑な婚姻関係に入った。1435年「ブルゴーニュ派」と「オルレアン派」は和解しイングランド軍を駆逐し、百年戦争は事実上終結した。それ以降イングランド領は島国だけの小さな国になった。このことが後日のイギリスの特徴を規定し、パクス・ブリタニカの繁栄を導いた。何が得かわからない。かようにこの頃の政治情勢とは王朝の対立抗争と婚姻関係のことであり面白くない。中世末の危機とは、封建社会を構成する領主、教会、都市の力関係を大きく変化させた。最大ン打撃を受けたのは領主層であった。1358年には大規模な農民反乱も起きて、農民の囲い込みに失敗して領地経営がうまく動かなくなると、領主層は宮廷に入って国王の役人になる道を選ぶ人も多くなった。一方教会はアビニヨンの捕囚いらい、大分裂し1414年のコンスタンツ公会議で和解するが、教会の権威は失墜した。1438年シャッルル7世は、フランス教会を教皇から独立させる「ガリカニムス」(国家教会主義、イギリスの国教会にも通じる)の国事詔書を発した。都市の商人は増税に反対して反乱を起したが、寡頭大商人らは王に都市の保護を求めて王政の行政機構に協力し、体制内で立場を確保する方向を取り始めた。王政にとって中世末期の危機は有利に展開したが、王政機構の整備は欠かせなかった。高等法院、会計検査院が整備され、徴税と司法をつかさどる役人の世襲化の弊害を避けて、有給役人「バイイ」(セネシャル)が設置された。これに依り租税を効率的に徴収することが可能となった。1484年トゥール会議で、聖職者、領主、市民の代表が3部会を構成し、租税の審議が行われるようになった。そして最後の仕上げとして王権理論の構築と王室儀礼の典礼化が行われた。後年王権神授説の先駆けとなる王権理論(イデオロギー化)が、血統、神の恩恵を強調し、かつ王権を神聖化する様々なシンボル装置が発展した。ルイ11世(1461−83)は、王権を脅かす親族の王侯らの領主地を次々に攻略し、こうして領邦君主領は解消し、フランス王は曲がりなりにも領域的な統一を達成した。今のフランス全土を名実ともに統一するのはルイ14世(1661-1715)の時代である。これによりイングランドは大陸での足場をすべて失い、島国一つとなった。つまり土着化したのである。イングランドではノルマン征服王朝がアングロサクソン期の領邦君主領を解体し、王が全土の支配者となった。貴族にも課税され、シェリフという職務を得た。貴族はあくまで王権の代理人で政権の枠内での発言権を得た。従ってイングランドでは最初から王と貴族システムがバランスを保って進行したのに対して、フランスでは王権への集約は社会的条件の成熟を待たずに、王権が政治的に領邦国家を次々に寄せ集めた結果であった。

第4講 近代国家の成立 (16世紀ー18世紀初め) (ルイ14世 フランス絶対王政へ) グローバル化第1期

フランス史でいう「アンシャンレジーム(旧体制)」という言葉は、狭い意味で16世紀の近代(初期近代)から革命(1789年)までの時代区分の王政を指す。16世紀以降、ヨーロッパ地域世界はアジア、イスラム地域に比べて、経済・政治・文化・科学の面で著しい発展を遂げ、今日にいたる欧米の覇権プロセスが始まる出発点をなした。これを「世界の一体化」つまりグローバル化第1期と呼ぶ。15.16世紀の東アジアでも活発な海上進出の時期があり(明王朝の世界航路探検、日本でいうと室町時代の対明御朱印貿易、東南アジアへの倭寇の進出など)東アジア交易網が出来上がっていた。そこへヨーロッパ人が参入してきたのである。ところが17世紀初めに日本は国内秩序を優先して鎖国してしまった。海外活動の拡大に邁進するユーロッパ諸国の外向き姿勢が近代の資本主義的世界体制に向かったが、日本の徳川幕府や中国の清王朝は近世で西欧と同じスタートラインに立ったのであるが突如内向きの姿勢に転じてしまった。それが「眠れる獅子」、「太平の安眠」と言われる社会停滞時代を招き、西欧に一歩も二歩も後れをとってしまった。近世以降のヨーロッパは経済的には「大西洋経済圏」に転じた。遠隔地商業の重点が地中海とバルト海から大西洋に移り、はじめスペイン、ポルトガルの大航海時代が始まり、17世紀からオランダ、イングランド、フランスの海外進出となった。フランスはフランソワ1世(1515-47)の時に北米カナダの調査を始めたが、シャルル王政(1483-98)は1494年に始まるイタリア戦争(1559年まで)に目が向いて、海外進出に後れを取った。対外貿易は単に交易だけ(胡椒などの趣向品輸入)にとどまらず、国内経済の保護育成策と海外貿易が結びつくと初期資本主義の「プロと工業化」となるのである。そのためにも経済の単位として政治体としての個別国家の凝集力が必要なのである。艦隊派遣や軍事力が要請されたのである。イタリア戦争は1516年「ノワイヨンの和議」によって、北イタリアをフランス王領、南イタリアをスペインアラゴン王が支配することになった。1521年神聖ローマ帝国のハプスブルグ家カール5世(1519-56)がイタリア支配の野望を持ち戦争が再開された。1559年の「カトー・カンブレッジの条約」が結ばれ、フランスはイタリアをあきらめ、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国はミラノ、ナポリの支配だけに終わり、中世的帝国の夢は潰えた。当時世界最強の軍事力を持つスペイン王フェリペ2世が神聖ローマ帝国の野望を打ち砕いた。17世紀前半の「30年戦争」(1618-48)は宗教改革運動が連動した。宗教改革の進んだドイツを舞台として旧教徒派諸侯と新教徒派諸侯の戦争であるが、旧教徒諸侯派にはスペインがつき、新教徒側にオランダ、デンマーク、スウェーデン、イングランド、フランスが支援してヨーロッパ全域が関わった戦争となった。1648年のウエストファリア条約で集結し、神聖ローマ帝国とスペイン王朝は敗れてハプスブルグ家はもはやフランスの敵ではなくなった。30年戦争後ヨーロッパの政治的中心は、中部(ドイツ・オーストリア)から西北部(オランダ・イギリス・フランス)に移動した。こうしてヨーロッパ型「主権国家システム」と呼ばれるヨーロッパ独特の国家システムが出来上がった。宗教やイデオロギーよりは国益を優先させ、同盟関係によってバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の外交戦術(マキャヴェリズム)が主権国家を支配した。

17世紀後半、イタリア戦争後百年間の混乱を切り抜けたフランスは、太陽王ルイ14世(1643-1715)の治下でヨーロッパ第1の強国となった。16世紀の経済活動によって領主層の没落と新興ブルジョワジーの上昇という社会的交替が進行した。没落貴族領主層は農民の貢租だけでは生活できなくなり、宮廷に入って地方行政職や軍職や聖職を求めたが、すでに聖職の叙任権は1516年ボローニア宗教協約でガリカニスム(国家教会主義)によって国王の手にあった。ブルジョワにとって経済活動のために国内平和と海外利権確保を保障する強力な王政は頼もしい存在で、これを敵に回すことは夢にも考えていなかった。フランスの宗教戦争からルイ14世に至る「混乱の百年」の過程をまとめておこう。フランスで宗教改革運動が始まるのは1510年代であり、カルヴィン派の影響が強かった。フランスではプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、都市生活者に広がったが50年代からは貴族が加わった。フランスはもともとカトリックが中心で、プロテスタントは信仰の自由を求めるに過ぎなかった。王族の間でもカトリック派とプロテスタント派が対立した。1562年プロテスタント虐殺を契機とする宗教戦争内乱がはじまった。1572年「サンーバルテルミの虐殺」が頂点となった宗教戦争は王族間の主導権争いが絡んで複雑怪奇な様相を示しフォローするのもばかばかしいくらいである。結局ブルボン朝のアンリ4世(1589-1610)が1598年「ナントの王令」を出して宗教戦争は終結した。新王ルイ13世(1610-43)に時代に宰相リシュリューは強い王権をめざして補佐した。30年戦争中、1643年に幼少のルイ14世が即位した。宰相マザラン卿のときに「フロンドの乱」がおこった。弱い王権に対して1648年高等法院の権限をめぐる反抗がおき、1652年コンデ親王の反乱、これに民衆も参加して王権に反抗した。貴族、高等法院、民衆が連携して王権に反抗したが決定的打撃を与えるまでには至らなかった。ルイ14世は1661年から親政をとり、半世紀フランス王朝を支配した。ルイ14世の統治の特徴は、社会集団の伝統的権利を否定し制限したことである。そして宰相制を廃止し王直接政治をおこなった。官僚制を強化し、財務長官コルベールのもと地方長官の派遣を行い中央統制を強めた。オランダ・イギリスに後れた経済を徹底した重商主義システムを再編成した。そして国家機構そのものをヴェルサイユ宮殿において執務した。国家そのものが王の私的空間に存在したのである。ルイ14世の時代は「絶対王政」の典型と見られている。ヨーロッパの近世国家は国家と住民の間に様々な中間団体を置いて初めて機能する統一国家であった。中間団体とは、聖職者、貴族、民衆の身分の他、ギルドなど職能団体、農村共同体など自主的な社会的結合に基づいている。それとは別に王から認可され権限を保障された組織である「社団」というものがあり、これが社会を機能的にし社会を固定する役割を持った。以下のことは今の者にはにわかに理解しがたいことであるが、経済活動でブルジョワジーが産をなすと競って官職を購入したという。1483年財務官職の「売官制」がだされ、やがてすべての官職に拡大された。1604年より官職は売買や相続が可能となった。すると官職は権威と利益を同時に手にする有利な投資対象となったという。まるで国債か証券のようである。ルイ14世の1661年には官職保有者(オフシェ)は約5万人に増加した。これを成り上がり貴族または「戦士貴族」に対して「法服貴族」という。この戦士貴族と法服貴族の2つの階層は「社団」として編成され、王権の中に取り込まれている。こうして売官制度は新興ブルジョワジーを王政に結び付け、社会変革の要因を支配秩序の吸収する安全弁の役割を果たした。こうしてフランス王権は貴族原理とブルジョワ原理を総合して成り立っていた。フランスには16世紀以来多くの国家論が生まれた。セーセルの「フランス王政論」(1519年)は国家の形態を王政、貴族政、民主政を挙げて王政を最良とする。王政が最も安定であるからだという。ボダンの「国家論」(1567年)の「主権理論」は王が唯一の主権者であるがそれは「絶対」であるが「専制」ではないとされた。ルイ14世の時期は限りなく専制に近い「絶対王政」であったといえる。王権が弱くなったとき「制限王制」(立憲君主制)が有力になる。前者が近世フランスで、後者が近世イギリスであった。

第5講 啓蒙の時代 (18世紀)

ルイ14世後のフランスは比較的平穏であったが、18世紀後半からフランスのみならずヨーロッパ地域世界は再編成期を迎える。18世紀後半は第2期のグローバル化の時代で、それは「啓蒙」と呼ばれる時代である。大西洋経済の確立による経済的繁栄、英仏の覇権争い、新興国ドイツ・ロシアの台頭がそれぞれの国家の構造転換を促した。ルイ14世は4つの征服戦争を企てた。ネーデルランド継承戦争(1667-68)、オランダ戦争(1672-78)、ファルツ戦争(1688-97)、スペイン継承戦争(1701-14)を行ったが、フランス・スペインの統一、ネーデルランド獲得はならなかった。18世紀初めの国際関係は、イギリス、フランス、オーストリアの3強国の鼎立となった。イギリスは海洋国家となったが、フランスは海洋・大陸国家であるのでオーストリアのハプスブルグ家との抗争で国家財政を圧迫してきた。ルイ15世(1715-74)の時代はルイ14世時代への反動から、専制と豪華絢爛さの重苦しさから脱し、快適さ機知に富む都会的センス(ロココ風)がもてはやされた。政体は国王専制の「最高国務会議」を廃し「多元会議制」に代った。財務大臣ローを採用してルイ14世の財政破綻の解決のため、金融政策と植民地政策を進め金融バブルを引き起こした。バブルははじけたが1730年代は経済発展のモデルとなった。イギリスとは協調主義を取り国際関係は比較的穏やかだった。しかし18世紀後半は国際関係の激変期を迎える。ロシアではピョートル大帝(1682-1725)の文明開化政策は拡張主義となり、ドイツではプロイセンのフリードリッヒ2世(1740-86)がオーストリア継承戦争(1740-48)を起した。するとフランスはオーストリアと組み、イギリスがプロシアと組んで7年戦争(1756-63)となった。フランスはこの戦争で大打撃をこうむった。1763年のパリ条約で北米の海外植民地をイギリス・スペインに奪わた。1772年ロシアとプロイセンはポーランドを分割し、トルコ、スウェーデンを破った。フランスの友好国が次々敗れるということは、フランスの国際的地位の低下を意味し、国内では危機意識が高まった。フランスは財政難のために軍を出せなかったのである。18世紀前半はヨーロッパ経済は好況期に入り、特の大西洋沿岸部の経済は進展し、大陸内部や地中海沿岸との経済格差は拡大した。イギリスは最大の恩恵を受け、農業や工業の機械化が始まりつ次の時代の産業革命を準備した。フランスも「プロト工業化」といった農村部の産業資本主義の発展を見た。この経済力が7年戦争で植民地争奪戦を引き起こしたのである。

啓蒙の時代の社会構造をみると、まず階級対立である。ブルジョワの経済力が強まって貴族の特権と衝突するが、貴族とブルジョワは互い排除する敵対関係になるのではなく、両者の社会的混交が進んで、旧エリートから新エリートへの移行が始まっていた。同時代のイギリスでは貴族的な秩序原理を保ちながら、ゆっくりと平和裏に社会的移行を達成した。しかし新エリートの形成に温度差があり、閉塞状況におかれた階層が「ストレスゾーン」を形成した。これが都会の民衆層であった。都会ではさまざまな階層の人が意見を交わす場が増えてきた。国家機構から自立した民レベルの社会的結合関係が進んだのである。ブルジョワが「社団」的な公共圏を形成した市民社会の「公論」だけではなく、刊行物やパンフが行き交う世界で意見を交換することは「世論」形成である。絶対王政の政治秩序や正統性は絶対ではなく批判される対象であり、既存の権力を超えた「理性的な公正な意見」が求められた。国家機構はつねに「異議申し立て」に曝されるという新しい公共圏が外部に生まれたのである。光を与えるという意味のリュミエール「啓蒙思想」が民衆を啓示する時代がやってきた。フランスでは以前から高かった文化レベルに立ち、百家総鳴というべき思想家群が輩出した。エリート層からすると民衆は抑圧すべき危険な存在ではなく、教化すべき愚昧な存在に映った。国家の凝集力を高め民衆をより統合する必要が生じたのである。これが「啓蒙」の時代であった。18世紀後半のフランス国家において、財政再建の必要性はコンセンサスが生まれたが、その改革から革命に至ったのだ。まず1749年に聖職者と貴族に「20分の1税」を課した。ベルタン財務総監は規制緩和の自由主義的経済改革を行たが、高等法院の抵抗にあい不徹底の終った。1770年には高等法院はストライキを決行したので、大法官モブーは司法改革を行い、高等法院を改組し売官制度を廃止し有給裁判官に変えた。1774年にルイ16世(1774-92)が即位すると、この改革は撤回された。この段階でフランスは「啓蒙専制主義」に傾斜している。モブーの司法改革は啓蒙専制主義の典型であったが、改革断行力に欠いたものに終わった。アンシャンレジームの貴族王権の原理を維持したまま中央集権の強化を図るとどうしても専制に傾かざるを得なかった。ルイ16世は次に開明官僚テゥルゴを任命し自由主義改革を強行した。いずれの改革も高等法院の抵抗にあって対立し、高等法院は全国三部会を1789年5月1日に開催することを要求した。こうした政治危機は戦争の財政難を契機に王権と中間団体との対立からおきた。これが革命の背景の一つをなした。

第6講 フランス革命と第1次帝政 (18世紀末ー19世紀初め) (革命  第1次共和政  総裁制・統領制 ナポレオン帝政 王政復古 ) グローバル化第2期

フランスの激動期を描く第6講と第7講は文句なしに手に汗握る本書のクライマックスであろう。単純なブルジョワ革命論は意味をなさないほど複雑な展開である。しかも同じようなパターンである王政→革命→共和政→王政復古→ナポレオン型帝政を取るという不思議な歴史展開を見る。ビデオの再生ではない。大真面目に関係者が演じた現物の歴史なのである。ここにフランスの特徴が全部出ている。賢明なイギリス人がみたら「ナント愚かな」と言い出しそうである。時は18世紀後半から始まる政界体制の第2期への転換期に、フランス型国家構造の転換が世界中の国に衝撃を与え、世界中に革命が広がった。そこになにか政治文化の独自性を見るのである。まず20世紀の歴史家るフェーブルが提出した「複合革命論」をみると、フランス革命は一つの革命ではなく、貴族とブルジョワの混合エリート「アリストクラート」、ブルジョワ、都市民衆、農民の4つの革命からなり、ブルジョワの革命が最も成功をおさめたから「ブルジョワ革命」なのだという。一つ一つは危機要因ではないが同時発生によって結合関連を構成し革命が起ったのであるという。革命の動的要因からいうと、国家トウ地力の解体、変革主体の形成、民衆動乱という順になる。1788年からの高等法院の王権に対する反抗が王政の統治力解体を意味していた。ある社会的母体が状況によって革命主体が短期間のうちに形成された。母体とは都市の知識人集団「パトリオット派」のことである。宣伝文書、パンフの刊行で素早く情報を広めた。変革主体にとって重要な属性は政治プログラムを提供することである。自由と平等のもとに王権の専制を糾弾し、貴族の特権を否定する改革の論理で以て立ち上がり、きたるべき全国三部会を立憲的な国民代表者機関に転換するプログラムを示した。1789年5月1日に開かれた全国三部会は紛糾し7月9日に憲法制定国民会議に変身した。ここがフランス革命の最も緊迫した局面である。7月14日にパリのバスティーユ占拠事件がおき民衆と農民が沸騰状態になった。民衆の反乱は頻発した食糧暴動が全国三部会の時期に起きたことが革命要因となったのである。この時期パトリオット派と民衆運動は繋がっていない。7月12日改革派の財務長官ネッケルが罷免されたという情報がながれ、9月14日朝パリ市民は王の武力行動が近いと恐れて、武器集めに狂奔しバスティーユに集結した。裕福市民層やブルジョワにも民衆をコントロールする力はなかった。パリの報が伝わると、地方の都市でもパリに倣って、選出された市民代表が市政を掌握し民兵を組織する「市民革命」が起った。農村においても「大恐慌」というパニック状態となり、農民も武装した。この農民騒擾はほとんどが領主や地主であった国民会議の革命派議員にとってはゆゆしき状態であった。自由主義的貴族派の議員は反対派の居ないときを狙って議事を開会して、領主権、教会10分の1税、売官制の廃止を決議した。そして8月26日新憲法の前文となる「人権宣言」が採択された。

特権的中間団体と王権との抗争、経済発展を背景にブルジョワ層の上昇、民衆動揺は18世紀後半のヨーロッパ各国には共通の事情であったが、フランスにおいて特徴的なことはこれらが強い緊張で三極構造を構成したことである。王権と特権貴族の抗争が膠着化し、変革主体(知識人、地主、貴族議員ら)は農民と民衆動乱の力によって事態を打開して権力交替にこぎつけたが、民衆は同時に革命派特権貴族の所有秩序をも脅かす自律的存在であった。変革主体は民衆をコントロールすることはできない、王権派は国外勢力に頼んで反革命派に変貌した。フランス革命の1789年から1799年の10年間、この三極はまだまだ緊張をはらんで展開してゆくのである。革命急進派がどさくさに取り付けた議決は紙上の成果に過ぎず、革命派内部でブルジョワジーが分裂し、民衆運動の組織が進む中で変革主体は国民議会の多数派であるがその基盤は弱く不安定さを増した。91年憲法はリベラル穏健派(自由主義貴族、初期ジャコバンクラブ)の主導で制定された。自由と平等は近代国家原理として宣言されたが、制限選挙制で、王には拒否権が残った。この91年憲法体制は立憲君主制の域を出なかったが、91年9月共和政請願大会を契機にジャコバンクラブが分裂し、穏健派はファイン・クラブという右派となり、ジャコバン派(ジロンド派)が左派となった。ジロンド派は反革命の根を根絶するために対オースラリア宣戦(王党派がハプスブルグ家と通じているとみた)となったが、オーストリア・プロイセン軍がパリに迫る中で8月10日王権は停止された。1792年9月に選挙された国民公会(議会)ではジャコバン右派(ジロンド派)と左派(山岳派)に別れたが、戦況が悪化すると国民の支持を得た山岳派がジロンド派を国民公会から排除した1973年憲法を制定し、「革命政府」体制を樹立した。これがいわゆる恐怖政治とかジャコバン主義ともいわれる。リベラル主義のロベスピエールは反革命に対する仮借なき戦いと民衆の啓蒙によるコントロールを目指した。94年ロベスピエールは左右極論派を粛清し個人独裁に走ったとして議会で逮捕され、95年秋に「総裁政府」へ移行しリベラリズムが復活した。革命主体と民衆運動は乖離し、総裁政府は不安定であった。そこで政局安定のため一部議員が軍部と組んで1799年ブリュメール18日のクーデターを起し、「統領政府」が成立した。これはシェイエスが言うところの専制に近い権威主義体制であった。ナポレオン・ボナパルトが統領に就任し、「民法典」を制定して社会の安定を図り、王党派の蜂起を鎮圧して国民的人気を挙げ、1804年皇帝となった。これが「第1帝政」である。しかしナポレオン帝国は全国民に皇帝への服従を求める開明軍事専制国家であった。領主制の崩壊で土地を得た農民は権利保護を求めて保守化し、都市貧困層は食糧事情の好転で安定した。ナポレオンの大陸主義拡張軍事政策により、ブルジョワ層は対イギリス政策で利益をもとめナショナリズムが高揚した。ナポレオン戦争は征服戦争となって、解放の理念はフランス国家利益につながった。1810-12年が帝国の絶頂期であった。しかし英国にはトラファルガーの海戦で敗れ、スペイン人の蜂起がおこり、ロシア遠征がナポレオンの命取りとなった。オーストリア・プロイセンの反ナポレオン戦争によって1814年ナポレオンは退位し、ルイ18世の王政復古となった。

第7講 革命と名望家の時代 (19世紀初めー19世紀後半) (7月革命王政 2月革命・第2次共和政 ナポレオン3世帝政)

ナポレオン没落後19世紀のフランスの政治体制はめまぐるしく変転する。復古王政(1814-30)、7月革命・王政(1830-48)、2月革命・第2共和政(1848-51)、ナポレオン3世第2帝政(1852-70) パリコンミューン(1871) 第3共和政(1875-1940)となった。フランス革命以来85年間に11の政体が交替した。経済と産業革命の推進者であったブルジョワは常に歴史の中心にいた。国民の富の担い手はいつもキーパーソンであった。19世紀のフランス政治の展開には特徴的なことがある。一つは王政から共和政を経て帝政に至る経過が繰り返されることである。二つはフランス革命の経験が複数の政治文化としてシンボル化(形象化)され、統合原理として競合することである。統合原理としてシンボル化されたものは、正統主義、リベラリズム、民主的共和政、人民デモクラシー、アナーキズムなどの政治文化である。ルイ18世(1814-24)の復古王政は1814年の「憲章」に基づく自由・平等などの革命の原理を確認した中道政治であるが、国民主権を無視しカトリックを国教化するなどの反動面もあった。過激王党派は立憲主義を固持しようとし、1824年シャルル10世(1824-30)は反動政治を開始した。1830年7月パリ市民は蜂起し「栄光の3日間」でシャルル10世を追い出した。自由派議員はルイ・フィリップ(1830-48)の王政を選択した。これが改正憲法を遵守する7月王政である。イギリスのような市民社会が成熟し国家の権力を支えた安定したリベラル国家にならないフランスの特殊性とは、一つは貴族とブルジョワにできた深い溝があることである。貴族は革命を憎悪して地方の有力勢力(名望者)として存続した。またブルジョワジーの天下となった7月王政でもブルジョワジーは分裂していた。金融資本(ロスチャイルド)の寡頭支配に中小ブルジョワジーは反発していた。貴族とブルジョワジーの深い溝、ブルジョワジーの分裂では体制は安定しなかった。7月王政を支える議会多数派は保守的で、ティエールとギゾーが影響力を持っていた。ギゾーは「中庸政策」を取ったが収入による制限選挙制をしいた。しかし中間層は極めて狭く、リベラル派の寡頭性は浮いた存在でこれが7月王政の失敗である。

7月王政は1848年の2月革命によってあっけなく崩壊し、臨時政府が作られた。政府内の右派には自由主義共和派、左派に社会主義者、中間に共和主義左派がいた。1789年のフランス革命時と同じ三極構造の再燃であった。6月に民衆が蜂起して、11月に第2次共和政憲法が制定された。一院制議会と大統領制からなっていた。12月の選挙でナポレオン・ボナパルトが大統領に当選した。フランス革命で発揚された人民の権利と権威主義的指導者がもたらす秩序という2原則の結合こそが、フランスの混沌とした政界を打破し国民に栄光をもたらすという「ナポレオン的理念」(神話)の夢よもう一度の実現となった。1度目は悲劇として2度目は喜劇としてという言葉の通り、1851年ナポレオン3世はクーデタを実行し議会を解散させた。52年12月皇帝ナポレオン3世となった。これが茶番と言われた第2帝政である。このフランスの政治文化に原因がある。立憲王政のリベラル派は自由と平等の両立は実現できないと考え制限選挙制に固執した。共和派は普通選挙をスローガンとした。ナポレオン3世は普通選挙を実現したが、選挙は官撰候補者というトリックで政府反対派を締め出し独裁制に傾いた。デモクラシーが権威主義と結びつくと自由を侵害する専制となった。この点を鋭く突いたのがフランスの貴族知識人であったトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」だった。トクヴィルが言うデモクラシーの矛盾とは貴族の杞憂の形を取っているが、基本的には民主主義がおちいりやすい誤謬を指摘したことで画期的である。フランスが世界で最も早く1848年に普通選挙を実現したことは銘記されるべきである。第2帝政期にフランスの産業化は急速に進み、19世紀後半のヨーロッパ経済は好況期に入った。フランスは社会主義者サン・シモンの政策を取り入れ国家指導型産業化政策を推進した。公共事業としてパルの都市改造を行い今日のパリの街路が出来上がった。ナショナリズムと国家利益からフランスは北アフリカと東アジアでの植民地政策は成功したが、欧州でのクリミア戦争介入、メキシコ出兵に失敗し、ナポレオン3世は反省して権威帝政から自由帝政へ方向転換したが、1870年7月にプロイセンに宣戦布告したことが命取りになって、9月2日スダンの戦いでナポレオン3世は捕虜となり、9月4日議会は共和制を宣言した。

第8講 共和主義による国民統合 (19世紀末―20世紀初め) (第3次共和政)

19世紀末から20世紀の第1次世界大戦までのフランスは「ベル・エポック」(良き時代)と呼ばれる。この時代のヨーロッパは国民国家のシステムが確立し、国外の植民地を拡大して経済的、軍事的、文化的に絶頂期を迎えた「帝国主義」の時代であった。フランスは1870年からの普仏戦争に敗北して成立した第3共和国は最長の65年間継続した。ナポレオン3世後の空白のなかで、臨時国防政府が共和派によって即時結成され、1871年プロイセンと休戦し、ティエールは賠償金とアルザス・ロレーヌを割譲する条約に調印した。プロイセンに包囲されたパリで抗戦してきた民衆は条約に納得せず武装を解かないで3月「パリコンミューン」蜂起が発生した。「パリコンミューン」は無残な結末となったが、史上最初の「社会主義革命」と言われた。しかし革命という中核組織は存在しない暴動に近い民衆の抵抗であった。パリコンミューンを過酷に弾圧した国防政府の内部に亀裂が生じた。1873年王党派はマクマオン元帥を担いで王政復活を目指したが、立ち直った共和派は1票の差で第3共和国成立の1875年憲法を採択した。しかし大統領に議会の解散権があるので、極めて不安定な政局となり、1877年マクマオン大統領がシモン内閣を罷免し議会を解散させたことを契機に、共和派が議会の多数を占め、議会主義の原則(議会多数派が政権を取る)と大統領の名誉的存在に止まることを確認した。議会の多数派は穏健共和派で右派のオルレアン派と強調して政権を担った。クレマンソーに代表される急進派は議会の少数派で、多数派を称して「オポルテュニスト」(ご都合主義者、日和見主義者」と揶揄した。1880-90年代の政権主流派はこの「オポルテュニスト」達であった。自由主義政策、初等教育の無償義務化・世俗化が実現した。国民国家として教育を通じて子供を教育する権限をキリスト教会から国家の手に移した。1889年軍人によるクーデターの機運が高まった「ブーランジェ事件」が発生したが未遂に終わった。1894年「ドレフェス事件」がおこり、冤罪ではないかという運動が起って、無罪を勝ち取ったのは1906年のことであった。平和、反軍国主義、人権尊重の運動は近代フランスの政治文化にとって大きな転換点をなした。1905年急進社会党は共和主義の最大の敵は教会にあると認識して、国家と宗教を完全に分離する「聖教分離法」を制定した。19世紀末は各国の国民国家システムが成立し、イギリスのヴィクトリア時代の自由主義、プロイセンのビスマルクの権威主義、フランスの共和主義が全盛期を迎えた。フランスを特徴づける個性としての共和主義の政治文化を見てみよう。

共和主義を支える社会的条件として産業社会の確立による新しい中間層が成長したことがあげられる。ヨーロッパは1890年代から世界恐慌の1929年まで長い好況期が続いた。世界経済はアメリカや日本の参入によって拡大した。フランスでは第2帝政期から産業化が促進してきた。1889年のパリ万博はその一つの頂点であった。産業化は高収入を得る熟練労働者、工場管理者、自由職業人などの新しい中間層を育てた。さらに中下層にも分厚い中間層が育ちつつあった。新旧さまざまな非均質で広範な中間層が生まれた。共和主義の理念的源泉はフランス革命の人権宣言にある自由・平等の2つの自然権が核心である。1860代以降の共和派は科学・実証主義の世代になり、新中間層が産業化の社会的結果であることを認識した。ブルジョワ、勤労者、農民といった社会構成員と国家の役割をとらえた社会科学が発展した。共和主義は王か大統領か議会内閣制かという政体の問題のみならず、哲学の問題すなわち価値のモデル化であった。自由と平等を至上価値とする共和モデルにとって、個人の人権擁護問題だった。ドレフェス事件を教訓として、1901年「結社法」によって政党の設立が自由化された。組織と宣伝力による大衆政治時代が到来した。1870年から1914年までフランスの急進党内閣は60を数えるが、この政局の不安定にも関わらず政治体制は安定していたのは、共和主義への国民のコンセンサスがあったからである。1905年社会主義者ジョレスは「社会党」を結党した。労働者の間にはブルードン主義的なアナーキズム的行動が多く政党に不満な労働者は「労働総同盟」を結成した。そして「革命的サンディカリスム」の道を選んだ。フランスの植民地はイギリス、スペインに比べると小さい。西インド諸島とアルジェリアくらいであったが、第3共和国の80年代からアフリカの植民地を拡大した。1887年にはインドシナを獲得した。ビスマルク後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が積極的な膨張主義を取り出すと、国際関係が緊張した。バルカン半島を巡る露仏同盟1894年、英仏協商1904年、英露協商1907年を結び、英・仏・露がドイツ・オーストリアを包囲する体制ができた。フランス第3共和国の急進派内閣の左派ブロックはクレマンソーが首相となると冷却し、1913年対独強硬派のポワンカレ―が右派の支持で大統領になると国防問題が課題となった。そして1914年「サライヴォ事件」から第1次世界大戦となった。

第9講 危機の時代 (20世紀前半) (第1次世界大戦ー第2次世界大戦)

二度の世界大戦を含む20世紀前半は、ヨーロッパから覇権が失われアメリカに覇権が移動する時代である。フランス国民は1914年8月の総動員令を受け入れて戦争に入った。議会はヴィヴィアニ首相に挙国一致体制を承認した。第1次世界大戦ではドイツ軍はフランス北部に侵入したが、9月のマルヌの戦いで前進が食い止められ膠着状態となった。ドイツと英仏軍の消耗戦は4年続いた。戦時経済体制で全体戦争となり、政治の大衆化の時代に、戦争もまた国民総力戦となった。アメリカは1917年4月に参戦したが、ロシアのボルシェヴィキ革命政権は18年3月にドイツとプレスト―リトフスク条約を結んで戦列から脱離した。ドイツの大攻勢に英仏軍はペタン総司令官の下でよく耐え、18年11月に休戦協定が結ばれた。ヨーロッパ戦争史上空前の犠牲者をだし、イギリスは約90万人、ドイツは約180万人、フランスは約140万人の死者を数えた。1919年ヴェルサイユ条約が結ばれ、フランスはアルザス・ロレーヌの返還の他、ライン左岸の非武装地帯設定と、莫大な賠償金を獲得した。1925年ロカルノ条約は独仏国境の不可侵条約で保障された。これ以降ドイツ経済は目覚ましく復興しタガ、フランス経済も20年代の好景気に急速に回復した。政界ではフランスの政治の中心には急進社会党がいて、右に保守共和党、左に社会党がいて、連立を組むと中道左派、中道右派政権ができた。内閣の顔の大半は変わらずマンネリ化した。第1次世界大戦後の国際関係の変化はアメリカ合衆国の進出と、ロシアにおける共産政権の誕生である。レーニンは革命の拡大を考え「第3インターナショナル」を結成し、各国の共産党・社会主義政党に参加を呼びかけた。フランスでは1920年に協賛とyが結成された。フランスの共産党と社会党の違いはソヴィエト型共産主義か西欧型社会民主主義の対立構図であった。1929年ウオール街で起きた世界恐慌が世界経済を一変させた。自己金融型の企業が多いフランスでは直接の倒産は少なかったが、その影響は31年ごろから38年ごろまで続いた。フランスでも第3共和政を支えてきた共和国モデルを否定する右派の攻勢が、1934年2月反議会主義デモとなって表れた。急進社会党のないぶでも「青年トルコ」と称する極右団体がうまれ「ネオ社会主義」を唱えて共和モデルからの脱却が叫ばれた。1934年ヒトラーの総督就任に刺激されて、各国の極右団体の活動が活発化した。1934年社会党の反ファッシズム統一行動に、共産党が提唱する人民連合に社会党が加わり、6月ブルーム首班の「人民戦線」内閣が誕生した。1936年に「人民連合綱領」が作成されたが、同年スペインでフランコ将軍の反乱がおき支援をするかどうかで意見が分かれ、イギリス・フランスは不干渉協定を結んだ。1939年スペインは極右フランコ将軍が政権を握ったため、フランスの人民戦線内閣は崩壊した。第1次大戦後フランスが追及してきた安全保障体制は、ナチス政権によって35年再軍備宣言、36年ロカルノ条約破棄、38年ドイツのオーストリア併合、チェコのズデーテン割譲を認めたミュンヘン協定などによって次々と破綻していった。

危機は迫っていた。フランスは急遽35年仏ソ相互援助条約を結んだ。当初イギリスのチェンバレン首相はソ連とドイツを戦わせるために、ドイツの膨張主義をある程度満足させる外交政策を取った。フランスではドイツに対する緊急性はイギリスよりも強かったが、フランスの軍事力を考えるとイギリスに同調せざるを得なかった。ミュンヘン協定はヒトラーの意図を読み違えた英仏外交の大失敗であった。1939年9月1日ドイツ軍はポーランドに侵入し、3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦して第2次世界大戦がはじまった。イタリア、アメリカは中立宣言を出した。1939-40年にかけてポーランド、デンマーク、ノルウェーで展開し、独ソ不可侵条約を結んでドイツは西方戦線に軍を進めた。40年5月よりオランダ、ベルギー、フランスに一斉攻撃を開始した。パリにドイツ軍が侵攻し、6月ペタン元帥内閣は休戦協定を結んでドイツ軍の支配下にはいった。日独伊防共協定は40年9月に結ばれ、日本軍は仏領インドシナに侵攻した。フランス第3次共和政は消滅し、「フランス国」に変わった。国家主席にはペタンが就任した。ペタンはドイツに協力を表明した。ペタンの下にヴィシー政権ができ、ナチスがイギリスを征服することは確実だろうと考え、戦後の世界体制の中でフランスの位置を計算してドイツに協力をすることにしたのである。ナチスへの敗北の全責任が第3共和政にあるとして、老将ペタンを救世主に仕立てたのである。ドイツ占領軍にしても国民に信頼されていない人を選ぶより、フランスを中立化した方が得策だと考えてペタンに任せたようだ。ところが抵抗はロンドンで始まった。ドゴール将軍はロンドンに脱出し「自由フランス」を組織した。その数は少なくフランスへ出兵したことはなかった。ラジオを通じてアッピールを呼びかけた。本国で抵抗運動が起きゲリラ戦が起った。1943年ドゴールを指導者とする「レジスタンス国民会議」が結成され、ジロー将軍と「フランス国民解放委員会」が結成された。戦況はアメリカが参戦することで連合軍の勝利に傾いた。1943年2月ドイツ軍のスターリングラードでの降伏、5月北アフリカでドイツ・イタリア軍の降伏、9月米軍のイタリア上陸とイタリアの降伏、1944年6月ノ連合軍のルマンディ上陸により8月パリ解放となった。連合軍総司令官アイゼンハウアーはパリで民衆が蜂起したことを受けて、ルクレール将軍のフランス軍をパリに差し向け、こうしてパリは8月25日に解放された。レジスタンス参加者は約40万人で、うち10万人が死亡したという。連合軍はドゴール以下のフランス指導者の力を評価せず、ヤルタ会談、ポッツダム会談にもフランス代表を招かなかった。

第10講 変貌する現代フランス (20世紀後半ー) (第4次共和政 第5次共和政とゴーリズム) グローバル化第3期

1945年10月国民投票が行われ、第1党はレジスタンス運動を指導した共産党、第2党は同じくレジスタンス運動の担い手「人民共和運動」、第3党が社会党という結果となり、この3党で連立内閣を組織した。軍人ドゴールとは1線を画する政権で、46年10月に第4共和政憲法ができた。その後共産党は野党に回り、ドゴールの「フランス人民連合」RPFも野党であったため、政権は不安定となり12年間に25回内閣が代わる「事なかれ主義」に陥った。2007年ー2012年の6年間で6回の内閣という日本と同じ状態よりもなおひどかった。にもかかわらず、第4共和政は「中道政治」を取り、アメリカの経済援助で急速な復興を達成した。1947年「トルーマンドクトリン」によって冷戦時代となったが、共産党への根強い支持は1980年まで続いた。これはフランス特有の現象だが、1968年御「5月革命」、「プラハの春」事件は共産主義に対する知識人の幻滅となり、そして経済成長により大衆消費経済の浸透が「共和国モデル」と「社会主義的対抗モデル」の両方を減退させた。第4共和国憲法でも植民地の維持が重要と考えられ、「フランス連合」が規定されていたが、1954年フランス領インドシナでディエン・ビエン−フーが陥落し、フランスはベトナムから撤退した。同年北アフリカのアルジェリアで解放運動戦争が始まった。1958年アルジェリア独立承認派と現地の反対派が争い、現地反対派の軍隊がフランス本土の攻撃を始めた。コティ大統領はドゴールに組閣を懇請し、憲法改正を条件としてドゴールが首相となった。ここに「第5共和国」が発足した。無気力な事なかれ主義内閣に対する国民の審判が下ったわけであるが、ドゴールの独裁を懸念する声も高かった。しかしドゴールは「栄光の30年(1945−73」に象徴される経済の驚異的成長に助けられ1962年エヴィアン協定によってアルジェリア独立を承認した。ドゴール主義はナポレオン・ボナパルティズムの系譜にある国民的人気を背景とした独断政治で、緊急事態対処主義的なプラグマティックな対応力に負うところがある。ドゴールは大統領選挙制を間接式から国民直接選挙式に変えた。直接デモクラシーは議会の無視、大統領共和国という形態であった。対外政策の基本構想は米ソの対するヨーロッパの相対的地位向上であり、ドイツとの協調を基本とした。1968年体制への不満が噴出し「5月革命」が起きてドゴールは辞任した。ドゴール派を継いだポンピドウー大統領(1969−74)は、大統領のカリスマ政治の限界を反省し、政党政治と経済の近代化を重視した。ドゴールが拒否したイギリスのEC加盟を承認し、欧州共同体統合の道を選択した。ジスカールデスタン大統領(1974−81)はシラクを首相にしたが対立し、国民的人気はなく退陣した。1982年ミッテラン大統領(1981−95)の出現によって「ドゴールなきドゴール主義」時代は終焉した。ミッテラン大統領そしてシラク大統領(1995−)は共和国モデルの再構築を試みた。1990年ベルリンの壁の崩壊、1991年ソ連邦の崩壊によって米国の単独覇権が確立した。1992年ヨーロッパ統合へのマーストリヒト条約の締結、1999年共通通貨ユーロの流通、EUの東ヨーロッパへの拡大などが進んだ。これらを背景としてフランスの現在の共和政は。国家主権を溶解させない限りのグローバル化を推進し、人権擁護、社会の連帯、抑制された市場原理などについて緩やかなコンセンサスをつくる政治文化である。フランスを特徴づけてきた妥協を許さない苛烈な革命や内乱と言った政治文化は何だったのだろうか。ヴィノックは「フランスでは早熟な性急な中央集権化に対して、社会の成熟がおくれ、集権国家と個人の間の空白が生まれて直接的な対立となる。そこへボナパルティズムという独裁制が介入する」という。1986年の保守革新共存という事態は、かって見なかったことであり、フランスが2大政党制へ接近していることを示しているのだろうか。原点に帰ると、ジャコバン主義・共和主義とは三極構造のなかで局面打開のために、自由と平等の2原則の統一を求める政治文化であった。危機に際して共和主義にアイデンティティを求めるのがフランスの特徴であった。


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