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坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」 
岩波新書(2003年2月) 

小邦君主乱立で統一と議会政治が遅れた学問の国ドイツ

本書坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」は、柴田三千雄著 「フランス史10講」近藤和彦著 「イギリス史10講」と同じ編集方針で書かれた3部作をなす「通史シリーズ」のひとつである。著者はあとがきで「ドイツが何であるかは、ドイツだけを見ていてもわからない。・・・・・ヨーロッパの中でドイツとは何か、何であったか、それを自分なりに確かめたい」と抱負を語っている。本書でそれがうまくできたかどうか、それは私のドイツ通史理解がどこまで進んだによる。著者の狭義の専攻は第5講「絶対主義」、第6講「ドイツ統一」の17世紀半ばから19世紀末の時代であるという。フランスの歴史でいうとルイ14世から皇帝ナポレオン3世の時代のころである。イギリス史、フランス史の10講シリーズで時代背景や国際関係事件などは3書でかなり被っているところが多い。これはヨーロッパの中のイギリス史、フランス史、ドイツ史という編集方針のもとで書かれたシリーズであるから当然のことである。まだ統一された国らしきものが存在しなかった、古代や中世ではなおさらのことで、家産による国が入り乱れていたので、それに宗教宗派も絡んできて複雑怪奇で、各国史では捉えられない。王朝や諸侯の合従連衡の様は現在の国の地域から見てもわからない。中世の9世紀にフランク王国でやっとフランス・ドイツ・イタリアのヨーロッパの原型ができ始めた。本書の第1講、第2講、第3講はその混沌期を描いている。各国史としてイギリス史、フランス史、ドイツ史が意味を持ち始めるのは、まずイギリスが島国となって大陸と縁が切れたのは、「イングランド王にしてフランス王」の意味がなくなった16世中ごろの百年戦争後のことである。それ以降は厳密にイギリスとしてのアイデンティティが定まる。フランスでも百年戦争後、各地に割拠していた領邦国家を征服し、今のフランス全土を名実ともに統一するのはルイ14世(1661-1715)の時代である。ドイツではさらに領邦君主国家時代が長く続き、形だけのドイツ連邦が発足するのは1815年、この連邦制に乗っかって絶対君主のドイツ帝国ができるのが1871年のことである。それまでは地域史に過ぎない。日本でも諸藩連邦の上に徳川家の「大君」が君臨する徳川幕藩体制が倒れ、明治維新が成るのが1867年のことである。日本は島国であったことから、他国の侵略がなくアイデンティティは保たれていたので、大和王朝ができた6世紀ごろに(もっと厳密には飛鳥王朝のできた7世紀)日本という国家が存在した稀有な例である。それに対して朝鮮半島は中国王朝が交替するたびに征伐され属領化されていた不幸な歴史を背負ってきた。「ドイツ民族」とかいうイデオロギー神話ができたのは、ヒトラーの時代のことである。ということでドイツ史と言っても18世紀までは「現在のドイツの地域史」と理解しておきたい。それまではプロイセンという王朝はあっても「ドイツ」という言葉はなかった。分かりやすく言えば徳川時代に島津藩にいる農民に、あなたのお国は聞くと「島津」と答えるだけで、日本と答える人はいないということである。

ここに民族という概念が虚構であると断じた書がある。なだいなだ著 「民族という名の宗教」(岩波新書)がそれである。「民族は近代国民国家のフィクションである。人をまとめ、排除するために利用された。」というのが結論である。「国民と民族」というイデオロギー を概観すると、その端的な例はチトーというカリスマが社会主義で作った多民族国家がユーゴだったのである。チトー亡き後はたがが外れた桶みたいに国は分解した。民族という言葉を使ったが、実はこれには実体はない。国家、国民、民族皆同意語である。決して血液的に定義された言葉ではない。まして人類も交雑可能は一つの人種であって、黒人、白人、黄色人という人種はない。一つの種である。欧州ではいち早く産業革命を成し遂げたイギリス、フランスでは19世紀には国民国家を形成した。部族を超えて大きくまとまるには民族意識は都合のいい観念だ。まずは言葉を共通にする部族が民族に纏め上げられた。民族主義というイデオロギーが作られた。産業力と軍事力を背景に近代国家を作った欧州列強は戦争という手段で植民地獲得に乗り出した。世界資源争奪戦である。遅れながら日本、ドイツ、イタリアも統一を達成し近代国家を作って植民地戦争に参加してゆく。帝国主義の時代の幕開けである。江戸時代は日本は数百からなる諸藩連邦国家であったが、武士という階級の帰属意識はあったが国民意識は存在せず、お国とは藩のことであった。そこで列強の侵略を危機意識とした明治維新では江戸幕府を倒した後、天皇家の神話を持ち出して統一のイデオロギーにすり替えた。西欧文明の吸収によって急速な近代化を成し遂げる途上でも、戦争は一気に国民意識を高める特効薬となった。日清日露戦争で日本に住む人間が始めて日本人意識を持った。排他原理とその裏にある人をまとめる原理に利用されてきたのが、世界中から排斥され流浪の民といわれるユダヤ人である。ユダヤ人は部族集団である。2000年間キリスト教から迫害され離散民となった。ユダヤ人にもその土地の社会に溶け込んでいった集団もある。特にドイツ社会に入った人々には有力な経済人、芸術家、学者を輩出した。メンデルスゾーン、ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、モディリアーニなど数え上げれば切りがない。音楽家でユダヤ系何とか人は実に多い。ところがドイツでも近代国家を形成するときにゲルマン民族と言い換えて統一を図り、その返す刀でユダヤ人の迫害が始まった。民族主義はまとめる原理であったが同時に排斥する原理でもあったのだ。民族を問わない新天地アメリカに逃げるユダヤ人もいたが、シオニズム運動といってユダヤ人自身が民族意識を持ち始めた。旧約聖書の約束された地エルサレムに帰ることを願望した。明治維新後日本では教育によって日本人意識を植え付けることに成功したが、近代国家の国民を均質な働き手にするために「同じ日本人」意識が必要だった。日本の近代の政治家・官僚は、日本人を単一民族にしようとして、教育、交通、通信、電力など国内体制の均一化も強力に押し進めた。単一民族とは均質化された国民のことである。民族はフィクションである。

第1講 「ローマゲルマンの世界からフランク帝国へ」 (紀元―8世紀)

紀元9年ローマ初代皇帝オクタヴィアヌス(尊称アウグストゥス)は、カエサルがガリアの領域をライン川以西と定めて以来、ラインの東のゲルマニアを平定しようとして軍を派遣した。ローマ軍ははるかエルベ川にまで至ったが、「トイトブルグの森」でケルスキー族のアルミ二ウス率いるゲルマン部族軍に包囲殲滅された。歴史は後から作られるというように、アルミニウスを「ゲルマニアの解放者」と讃美したのは、反ナポレオン愛国詩人クライストが著した「ヘルマンの戦い」(1808年)であった。ローマがフランスと二重写しになり、ヘルマン(アルミニウスのドイツ名)を国民的英雄としてヘルマン記念像まで出来て、軍神となり以後ドイツ軍国主義の象徴となった。ところが歴史家メーザーの「悲劇・アルミ二ウス」(1749年)には、ゲルマン諸部族の内訌を描いて、「ドイツの自由」を脅かす専制の危険を匂わせる。「ドイツの自由」とは皇帝権力の巨大化を恐れるドイツ諸侯のイデオロギーであり、アルミニウスは啓蒙専制君主になぞらえている。この2つの書に見るように、歴史とはその時代の様相を如実に表す映像装置に過ぎない。ついでに言うと現在のヨーロッパの動きは、国家・国民の重点を下げて、EU統合に向けた流れで理解されている。だから国家間の争いの基である国民国家論は時代遅れになりつつある。ヨーロッパの原型は9世紀に成立したフランク帝国にある。本書の通史シリーズも英仏独を一つのヨーロッパとして、その中のドイツを見てゆこうとする。坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」、柴田三千雄著 「フランス史10講」、近藤和彦著 「イギリス史10講」の3書は同じ趣旨で、この古代は英国史、フランス史、ドイツ史ではなく、ローマ帝国時代の地域史を論じている。ローマ帝国時代のドイツとヨーロッパに戻ろう。ローマ皇帝オクタヴィアヌスはゲルマ―ニアーの直接支配をあきらめ、ライン・ドーナウの国境線を固め、メーリスという長城的土塁を築いた。これがローマの世界とゲルマンの世界を分かつ線となった。この線が永久に社会構造を規定する線だと見る必要はない。375年に始まるゲルマン民族の大移動によって、395年にはローマ帝国は東西に分裂し分割統治となった。そして西ローマ帝国は476年に皇帝が暗殺され滅亡した。ゲルマン民族大移動の結果、今のドイツという地域にいたフランク族が西に移動しガリアに定住した。民族移動時に小部族は統合され王国的部族国家に纏められたが、なおドイツ域内には5つを超える地域的大部族国家に別れていた。それらはフランク帝国に包摂され、教会国家としてのフランク王国は「神聖ローマ帝国」に受け継がれるというのが大きな流れである。フランク帝国481年メロヴィング家のクローヴィスの下に統合され統一王国を形成する。クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受けカトリック教会国家になるのである。フランク王国はカロリング家が統一し、751年ピピンが教皇の支持を得てカロリング朝を開いた。次の王カール大帝が今日のフランス、ドイツ、北イタリアまで支配を広げ、800年にローマ教皇より「ローマ人の皇帝」として戴冠された。ライン以東のゲルマンの諸部族はカール大帝に従属し、キリスト教化された。フランク王国の支配権とカトリックの布教圏は完全に一致した。コンスタンチノープルの東ローマ帝国ではローマ以来の世俗的統治組織があったが、西のフランク帝国にはそれがなく教会組織がそれに替わった。国王は各地を巡回し、各地で開かれる「王国会議」で教会関係や行政・裁判を決めたという。日常の各地の統治は王が任命する伯が行い、500人ほどの伯がいた。時代を経ると伯権力の領主化につながった。フランク王国の統治の特徴は伯による統治と教会の統治の組み合わせで行われたといえる。

第2講 「神聖ローマ帝国とヨーロッパ」 (9世紀中頃―13世紀)

フランク王国では長子相続ではなく分割相続が基本であったので、相続の度に分裂し騒動が持ち上がった。843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約などを通じて東西フランクと中央フランク・ロータール(長男の名前)(イタリアを含む)の3つの王国に分裂した。大まかに言えば現在のフランス、ドイツ、イタリアの地域的原型が生まれた。イタリア王国と今日のスイスにあたるブルグント王国と東フランク王国を併せた領域で「神聖ローマ帝国」が生まれるという流れになる。東フランク王国の下に5つほどの分国に分けられ王より任命された有力貴族が統治した。主な分国にはザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァ―ベン、ロートリンゲンなどであった。旧部族というよりは行政名に近い。統治者は「大公」という。東ではカロリング朝は911年に絶えたので、ザクセン朝のオットー1世が936年東フランク国王に即位し、962年にローマ皇帝から戴冠した。これが「神聖ローマ帝国」の始まりである。この神聖ローマ帝国は後にイタリアやブルグントの支配権を失い実質的に今日のドイツに限定された。もちろんこの頃には「ドイツ」という言葉はない。国王は有力分国の貴族による選挙制国王であった。柴田三千雄著 「フランス史10講」では、ヨーロッパ史では中世は6世紀から15世紀までとし、それを前期(6ー10世紀)、中期(11-13世紀)、後期(14・15世紀)と分類している。東フランク王国、「神聖ローマ帝国」は中世前期の終わりごろに相当する。オットー1世は「整合キリスト教世界の指導者」で、教会組織の要である司教座や大修道院は「王国教会」とされ土地を寄進され手厚く保護された。教会そのものが領主となる世俗権力であった。国王は聖職者の任命権を握って王国教会を国の統治機構に利用した。1024年までザクセン朝が続いたが、コンラート2世がザーリアー朝を開いて、再び東フランク(ドイツ)・イタリア・ブルグントの領土結合を成し遂げた。次のハインリッヒ3世のときボヘミヤ王国(チェコ)を服従させ、イタリアで貴族の争いうによって3人の教皇が立つという混乱を収め、腐敗と混乱の教会粛清を行った。この粛清に対して教皇側は、皇帝による司教の「叙任権」は違法だとして争い、皇帝と教皇の紛争となった。1077年皇帝ハインリッヒ4世の「カノッサの屈辱」という形で皇帝側は折れたが、次のハインリッヒ5世のとき1122年「ヴォルムスの協約」で妥協に達し、司教の叙任と司教領の世俗的支配権の叙任は別物だとして前者は教皇に、後者は皇帝に属するという仕分けであった。神聖ローマ帝国では皇帝の世俗的権利の授与が先行し、実質的に皇帝が教会を支配する体制であった。こうして皇帝権力から神権的性格は奪われ世俗的権力のみとなった。聖と俗の2つの軸でヨーロッパ世界が動くということである。皇帝の神的カリスマ支配がなくなったことは、ドイツ諸侯の国王=皇帝に対する自立化、封建領主化が促進されることになった。ザーリアー朝は1125年に絶え、1132年シュタウフェン朝のコンラートが選ばれて皇位についた。名だたる皇帝を輩出しシュタウフェン朝は中世盛期を迎えた。フリードリッヒ1世は何度もイタリア遠征を行い、フリードリッヒ2世皇帝は十字軍遠征を行い精緻を回復しエルサレム王にも戴冠した。彼の時に神聖ローマ帝国の版図はドイツ王国・ブルグント王国・イタリア王国・シチリア王国・ボヘミヤ王国とほぼヨーロッパの中央を占める広大な領土となった。封建国家というのは、国王が領域全体を直接支配する条件がなかった時代に、帝国諸侯と呼ばれる地方の領主支配者と主従関係を結んで国を収めるシステムである。これを封建=レーン制と呼ぶ。1250年フリードリッヒ2世の後はシュタウフェン朝は絶え、1273年にローマ教皇に促されてハプスブルグ家から皇帝が出るまで「大空位時代」が生じた。これ以降ドイツ史は「皇帝の時代」から「諸侯の時代」に入る。

第3講 「カール大帝と中世後期のドイツ」 (13世紀中頃ー15世紀)

中世後期のドイツとヨーロッパを見てゆこう。それまで地中海沿岸がヨーロッパ世界の中心であったが、中世後期にはヨーロッパ世界の重心は大陸の中央に移り、バルト海から大陸そして地中海への縦の線が開通したというべきであろうか。(それが近世になるとさらに西へ移動し大西洋沿岸に移るのである) これは名実ともにローマ的世界の崩壊で新しい時代に移ったことを示している。そしてイタリア南部のアラゴン王国は分裂し、14世紀初頭(1308年)教皇庁がローマからフランス南部のアヴィニョンに移転(教皇のバビロン捕囚)して以来イタリアに重心も北に移動した。ヴィスコンティのミラノが突出した。フランス王国がルイ9世(1226−70)、フィリップ4世(1285−1314)のときに国内統一を果たしキリスト教世界第1の神権的世俗権力たる地位を得た。バビロンの捕囚は言葉通り「捕囚」ではなく、世俗権力に皇帝がすり寄った結果である。英仏は百年戦争(1339-1453)を戦った後はそれぞれ地域的なまとまりをもった「地域主権国家」のようなものの形成に向かう。神聖ローマ帝国は大空位時代に地方的国家権力を固めてしまった諸侯にとって強大な国王=皇帝は好ましくなかった。この12−14世紀に神聖ローマ帝国はさらに東へ張り出した。ドイツ人の東方植民エルベ川から東へ植民活動を行い、スラブ人居住地域に進出した。ハンガリー、ボヘミヤ、ポーランドの王たちが農業技術を持ったドイツ人の植民を歓迎した。バルト海沿岸にはドイツ騎士団国家を建設し、後年プロイセン王国に編入される。バルト海沿岸都市に「ハンザ同盟」という連帯と相互援助の商業都市を築いたギルドの中世都市は市民の自治体組織であった。こうしてドイツ人の活動の場が東へ広がった。それもヨーロッパの拡大であった。北へ東へとドイツ圏が広がった。ボヘミヤ王国は現在のチェコのような小さい国ではなく、国王オタカル2世(1253−78)のとき、オーストリアから南はアドリア海にいたる広大な領土をもち神聖ローマ帝国皇帝の選挙侯であった。大空位時代が終わり、1273年ハプスブルグ家のルードルフが高手になると、これに異議を唱えて戦争となった。1278年マルスフェルトの戦いでオタカルは戦死し、オーストリアをハプスブルグ家に奪われた。これがハプスブルグ家の興隆の第1歩となった。ボヘミア王国はオタカルの後、フランスから帰ったカ−ル4世(1316−78)が1347年ボヘミア王とドイツ国王=皇帝になった。ドイツ国王は自動的にローマ皇帝とみなされていた。そしてボヘミア領邦会議に合わせて一連の勅書をだし、ボヘミヤ国王・選挙王として全領邦の一体化を進めた。皇帝の都プラハの建設を大々的に進めプラハ大学を創設した。金印勅書の発布者として1356年国王=皇帝選挙の手続きと7人の選挙侯を定めて特権を授与した。多数決選挙法など最初の全ドイツ的憲法と思われる。カール4世は1356年ドイツ・ブルグント・イタリアの3王国国王と神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を果たした最後の皇帝となった。この時代の政治は基本的には有力諸侯の権利を認めつつ、その諸侯の合意を得て誠意を行う、「等族=身分制」政治システムである。同等の身分の有力貴族と家臣団がパートナーとなって、租税賦課の協議交渉を行う。フランスの三部会やイギリスの2院制議会と並んで、ドイツでも12世紀の宮廷会議が14世紀には「帝国議会」として体裁を整えつつあった。神聖ローマ帝国は国王と選挙侯会議を2本の柱とsる選挙帝政といえる。カール帝はボヘミヤ王国の家紋権力拡大策に専念しオーストリア・ハンガリ―の両雄まで視野に入れた。皇帝の世襲も行いルクセンブルグ朝を築いたが、4代で終焉し家紋権力の皇帝政策は次のハプスブルグ家に移るのである。1438年ハプスブルグ家のアルブレヒトが帝位についた時から皇帝位独占が始まる。戦争によらない結婚政策によってフリードリッヒ3世(1440−93)、マクシミリアン1世(1493-1519)、カール5世(1519-56) らは領土を広げ、ブルゴーニュ公国、ネーデルランド諸州、スペイン、ボヘミヤ・ハンガリー王国を手に入れてしまうのである。マクシミリアン1世はイタリア諸都市と同盟してイタリア戦争を戦うのであるが、国際関係の出発点として近世の始まりと位置付けられる。戦費調達のため1495年「帝国改革」が行われ、以降の帝国の枠組みが形成される。帝国議会は選挙侯部会と、一般の聖俗諸侯部会、都市部会からなる等族身分制議会となった。帝国最高法院、皇帝の帝国宮内法院などの設立が行われた。

第4講 「宗教改革時代のドイツとヨーロッパ」 (16世紀―17世紀前半)

ここより近世の時代となる。宗教改革とドイツの状況を知るためにも、教会の大分裂以降の教皇庁とヨーロッパ諸国の関係を見ておこう。アヴィニヨンの教皇庁は1377年ローマに帰還した。フランスの枢機卿らはローマを引き上げてアヴィニョンに別の教皇を立て(日本の南北朝時代に同じ)、最後は3人の教皇が鼎立することで教皇の権威が失墜したが、1417年コンスタンツ公会議で収束した。教皇の相対的地位が下がり、教皇至上主義か公会議主義かで議論となった。この対立は宗教改革時のカトリック側の足並みの乱れにつながった。アヴィニョンの捕囚時代に教会組織は整備された。教皇庁を中央政府として、ヨーロッパ各地の教会と教会領を支配する中央集権的行財政組織を作ろうとした。それはこか国家主義の観点からは地方行政組織に教会組織が食い込む形になるので王権側からは警戒された。教会の行政組織はすなわち集金網になるので、イギリスでは地方の教会管理に教皇の介入を拒否した。1351年の「聖職者任命無効令」や1353年の「上訴禁止令」などがそれである。フランスは1438年に領内の教会管理権は王権に属するという「ガリカニムス」を詔勅を出して宣言した。そして1516年ボローニアの政教協約でフランス国内の最高位聖職者の任命県はフランス国王にあることを教皇に認めさせた。突き詰めればもはや教皇の普遍的至上権などは認めない世俗主権諸国家が生まれてきた。教皇の有様は世俗君主に近くなり出費は増える一方で、ルネッサンスの豪華な教皇庁の宮廷生活を営むには金が足りなくなって、免罪符(贖宥状)の販売を行った。直接的にはヴァチカンのサンピエトロ大聖堂の改築資金を得るためであった。英仏ではあまり期待できないので、バラバラの領土からなるやり易いドイツで免罪符の販売が盛大に行われた。1517年ザクセン・チューリンゲンのヴィッテンベルグ大学教授のマルチン・ルター(1483-1546)が贖宥状の効力に関する「95か条の論題」を公表し、これが宗教改革の狼煙となった。ルターは「神の前で義とされるのは善ではなく、信仰のみである」という確信を持っていた。1519年ライプツッヒで神学論争を行ってからは、急速に教会の全面的な改革が必要であると認識し、宗教改革の3大論文を発表し、1521年ローマ教皇はルターを破門した。宗教改革については、徳善義和著 「マルティン・ルター」(岩波新書)に詳しい。

当時の神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1519-56) は1521年ヴォルムスの帝国議会でルターを諮問し帝国追放刑に処した。当時の政治状況をみると、宗教改革を進める側も阻止する側も中心が不在であった。皇帝カール5世はスペイン戦争やイタリア戦争、1529年のオスマントルコのウィーン包囲で、30年間もドイツを留守にしていた。そしてルター自身も聖書のドイツ語訳に没頭して山籠もりをしている間に、ルター抜きで宗教改革運動が進められた。改革運動はさまざまな分派を生み、ルターのコントロールの外にあった。親鸞の弟子唯円の「嘆異抄」のようにすぐさま異端が現れる状況であった。宗教改革の動きに便乗するように世の中にくすぶっていた不満が噴き出した。時代錯誤な貴族の反乱である1522年の「騎士戦争」、農民の権利復活のために1524年西南ドイツで起きた「農民戦争」などである。ルターはこの農民戦争で農民虐殺を見逃した。1526年諸侯による宗教改革を勝手にやってよろしいという事が決定された。ルター派諸侯とカトリック派諸侯の戦いは宗教闘争というより、世俗権力つまり政治闘争そのもので極めてわかりにくい。日本でいえば戦国時代のようなものだろう。1555年の「アウクスブルグに宗教和議」によって、ルター主義を選ぶかカトリックを選ぶかは諸侯に任せられた。ルター派領邦においては君主の統制下に領邦教会制度が整えられる。つまり領邦単位の国家教会である。領邦君主の支配権が強められた。英仏では国単位で行荒れた教会統制が、ドイツでは領邦単位で行われたということである。ルター派はドイツでは北ドイツ一体に広まり、北東のドイツ騎士団領(後のプロイセン公国)もルター派になった。デンマーク、スウェーデンもルター派となった。カルヴィンははフランスではユグノーと呼ばれ、スコットランドでは長老派、イギリスではピュリタンと呼ばれた。カトリック派は1545年からのトリエント公会議で教会改革に乗り出した。イエズス会が有名である。皇帝ルードルフ2世(1575-1612)はボヘミヤ領邦等族に対して古来の権利と宗教の自由をほしょうする「特許状」を発行したが、次の皇帝マティアスがこの特許状を制約しようとしたことから、皇帝とボヘミア王族は「30年戦争」(1618−48)となった。ボヘミア諸侯は1620年に敗北したが、1648年の「ウェストファリア条約」において、神聖ローマ帝国の帝国等族=諸侯と諸帝国都市は、領邦国家としての君主的・国家的諸特権を確認され、外国との条約締結権さえ認められた。神聖ローマ帝国は300あまりの諸侯の連合体であることが確認された。これで宗教紛争や戦争の火種は取り除換えれた。

第5講 「絶対主義の歴史的役割」 (17世紀中頃ー18世紀末)

30年戦争はドイツ社会に大きな災害を持たらした。当時のドイツの17世紀初めの人口は1600万人と推定されるが、30年戦争で20−30%も人口が減ったと社会経済史学者のへニングはいう。(ただし推計には異論が多い) ヨーロッパの経済の中心が大西洋沿岸地域(イギリス、フランス、オランダ、スペイン)に移ってしまって、ドイツはその後背地になっていたことや、東からオスマントルコ帝国がハンガリーに侵攻しウイーンを脅かしたこと、西ではフランスがライン川沿岸を攻撃し「プファルツ継承戦争」となったことで、ドイツの復興はなかなか進まなかった。ドイツが戦争から解放されたのは、1699年のカロヴィッツ条約でトルコを去らせ、1714年ラシュタット講和条約でスペイン継承戦争が終わった時点であった。つまりドイツの経済復興は18世紀に持ち越された。1648年の「ウェストファリア条約」以後の神聖ローマ帝国の状況をみておこう。なぜ小さな領邦国家が存続しえたかというと、条約によって帝国の構成国として国際的に認めらたからである。しかしこの神聖ロー帝国は戦争被害から帝国全体を復興させうるような強力な国家ではない。政治的には帝国レベルではなく領邦レヴェルで動かざるを得なかったからである。ドイツの特殊性は等族=身分制が帝国レヴェルと領邦レヴェルの2重構造になっていたことである。皇帝の国オーストリアでは、1620年ボヘミヤ諸貴族のプロテスタント連合を破ったことがハプスブルグ家の絶対主義につながった。オーストリアは再カトリック化を行い、1683年ウイーンを包囲したオスマントルコを押し返し、1699年カルロヴィッツ条約で全ハンガリーとクロアティアを支配し東方の大国としての地位を固めた。首都ウイーンは宮殿を始めバロック建築ブームとなった。しかし1700年にスペインのハプスブルグ家は断絶しスペイン継承戦争(1701-14)となった。皇帝カールが1740年に没し、娘マリア・テレジアが継いだときプロイセンのフリードリッヒ2世が介入してきてオーストリア継承戦争(1740−48)となった。ブランデンブルグ辺境伯公国=選帝侯国と北東のドイツ騎士団の作ったプロイセン公国を併せたプロイセン王国は地理的に離れた飛び地からなる王国でブランデンブルグ辺境伯公はプロイセン公を兼ねた。プロイセン王国は常備軍を持ち恒常的な租税収入を確保した軍事国家として(ギリシャ時代のスパルタを想定させる)台頭し始めた。大選帝侯ヴィルヘルム(1640−88)が改革を進めた。プロイセンの絶対主義は1653年ブランデンブルグの領邦等族と協約を結んだ時から始まる。この協約は等族貴族(ユンカー)の「土地を通じての支配」を無制限に認め、かわりに軍事税を課す約束であった。軍人王ヴィルヘルム1世(1713−40)は貴族を国家の将校団に取り込み、徴兵制で農民を集めた。そして軍事国家を支える官僚制に貴族を使いこなした。ヴィルヘルム1世の長子フリードリッヒ2世(1740−86)のときハプスブルグ家のオーストリアに挑戦し、オーストリア継承戦争(1740−48)でシュレージェン地方をオーストリアから奪ったが、オーストリアはプロイセン包囲網を敷いて7年戦争(1756−63)を起したが決着はつかなかった。18世紀は「啓蒙」の時代である。プロイセンでは1794年「プロイセン一般法典」を定め、オーストリアのヨーゼフ2世(1765−90)は行政機構の整備、統一関税制度、「寛容令」で宗教の自由を認め、教会への介入・修道院廃止・没収を進めた。フリードリッヒ2世とヨーゼフ2世の治世は「啓蒙絶対主義」といわれる。絶対主義の定義は「人々はすべての権利を国王に委ね、国王は個人の内面的自由を侵さない」というホッブスの論理が受け入れられた。

第6講 「ドイツ統一へ」 (18世紀末ー19世紀後半)

1789年のフランス革命と第1次共和政に対してオーストリア・プロイセンは1792年介入戦争を起した。革命はナポレオンの征服戦争に受け継がれ、ドイツ諸侯の戦いはナポレオンの前に破れ続けた。プロイセンは1795年「バーゼル単独講和」を結んで戦線を離脱し、ポーランド分割によって領土拡大戦術に変更した。オーストリアは英国と組んでたたかったが1805年「プレスブルグ講和」で敗北しナポレオンに服従した。フランス皇帝となったナポレオンを保護者としてドイツ諸侯国は「ライン同盟」を結んだ。1806年ウイーンの皇帝は帝冠を棄て、ここに神聖ローマ帝国は終焉した。中立だったプロイセンは無謀にもナポレオンに挑んだが1807年「ティルジットの講和」で国土の半分を失った。ナポレオンの下でライン同盟やプロイセン、バイエルンの国造りのための改革が始まった。1812年ナポレオンがロシア遠征で敗れると、反ナポレオン同盟に参加した「諸国民戦争」となった。1814年ナポレオン後のヨーロッパ体制を決める「ウイーン会議」で、オーストリアの外相メッテルニヒは「正統主義」(秩序復活)と「勢力均衡」を理念とした。1815年西南ドイツの旧ライン同盟諸国がそれぞれの国作りの憲法を発布し、議会を開設した。ドイツ統一国家を求める運動がドイツ連邦を生んだが約40の連邦組織(300もあった時代に比べると随分と整理統合された)で、統一国というよりは神聖ローマ帝国なき後の国際的な君主同盟に過ぎなかった。1848年フランスの2月革命の余波を受けて、各連邦の政府は軒並み倒れて「三月革命」が起り、自由主義的な「3月内閣」が作られた。こうしてウイーン体制は崩壊した。農民開放による領主制は解体され、近代化のための改革はナポレオン時代に始まり1848年の革命で完成された。そういう意味ではナポレオンはドイツを啓蒙したといえる。個別に諸国家が生まれ、政府機構も改革によって近代化されている状況で、5月「憲法制定ドイツ国民会議」がフランクフルトで開催された。しかし憲法を議論している間にオーストリアの反革命が起った。オーストリアでは多数の民族主義運動で解体寸前であった。オーストリア帝国の不分割を主張して「大ドイツ統一案」を拒否した。結局、1849年オーストリアを除いて「小ドイツ主義」のドイツ帝国憲法が成立した。ところが、プロイセン国王は皇帝につくことを拒否し、オーストリアはもちろん反対で主要国が不承認だったのでドイツ統一を目指したドイツ革命は頓挫した。

国民会議は失敗したが、経済力が突出していたプロイセンがドイツ統一に向かって歩み始めた。1834年のドイツ関税同盟は20年をかけてほぼ全ドイツが参加し、オーストリアはプロイセン主導なので参加しなかった。オーストリアはクリミヤ戦争(1853−56)、イタリア統一戦争(1859)で外交的的失敗を続け、国内的には絶対主義に復帰するなど反動が続いた。その間プロイセンは1850年憲法で遅ればせながら立憲国家になった。1862年プロイセン首相に任命されたビスマルク「鉄血宰相」は国民の支持の下にドイツ統一を果たすことと、政治の主導権(主権)は皇帝にあるという信念でプロイセン王国主導のドイツ統一を目指した。ホルシュタイン公国を巡るデンマークとの戦争から1866年普墺戦争がおこり、プロイセンとオーストリアの2大国の対立抗争は戦争となった。この戦勝によってプロイセンに対する諸国の反応に変化がみられ、小ドイツ的統一への道が開けた。独断専行のビスマルクと議会のわだかまりは、ビスマルクの和解によって「協商議会主義」という協議と妥協の政治運営となった。普墺戦争勝利によって北ドイツの大半を自分の領土に編入したプロイセンは20邦からなる「北ドイツ連邦」を創設した。この北ドイツ連邦の南への拡大を阻止しようとフランスの皇帝ナポレオン3世が介入し、普仏戦争(1870−71)が起った。ビスマルクは一挙にパリを包囲し、ナポレオン3世を捕虜にした。そして1871年「ドイツ帝国」が発足した。ビスマルクは普墺戦争ではオーストリアから賠償金はとらないで、関係を直ちに修復した。フランスに対しては多額の賠償金をとり、アルザス・ロレーヌの割譲を強いて、これが仏独の長い軋轢の基になった。

第7講 「ドイツ帝国」 (19世紀後半ー20世紀初め)

ドイツ帝国は25国からなる連邦国家である。プロイセン直轄の北ドイツ連邦を土台とし、プロイセン1国で全ドイツの2/3を占める。小ドイツというより大プロイセンと言った方がいい。プロイセン国王が皇帝となった。皇帝が帝国宰相を任命して帝国の政治を行わせる。帝国議会参議院の議席配分は全58票のうちプロイセンが17を占める。拒否権が14票なので、プロイセンにとって不都合な法案は拒否できたという程度である。一応議会のチェックアンドバランスが成り立っていた。帝国議会と連邦参議院との関係もバランスを取っている。帝国議会は当時のヨーロッパで最も民主的な男子普通選挙でえらばれ、法律の議決権や予算審議権をもつ。連邦参議院は法律の認可権を持ち最終決定権は参議院にあった。この政治システムの中で相当の政治力を持たないと動かせない勢力均衡型の政治体制であった。そのなかで1890年まではビスマルク時代と言われた。統一ドイツ帝国がヨーロッパで存在するためにはバランスに心を砕かなければならなかった。ビスマルクの外交方針はフランス以外の国と友好関係を築くことであった。1879年「独墺同盟」、1882年「独墺伊同盟」、なかでも英国との友好関係を第1とした。ビスマルクは内政では強権的にふるまった。穏健自由主義勢力をパートナーとし、中央党によるカトリック勢力は弾圧した。カトリック教会を国家に服従させるための「文化闘争」を展開し、1873年「五月諸法」の各種教会規制法を成立させた。1878年「社会主義者鎮圧法」は効果はなかったといわれる。「飴と鞭政策」で1880年代には社会政策立法は「医療保険法」、「災害保険法」、「老齢・疾病保険法」などを施行したが、1875年ドイツ社会民主党という社会主義政党が生まれた。ドイツ政界はビスマルク派の国民自由党は工業界を代表し、保守党は農業界を味方にし、カトリック政党として中央党が、労働者の政党として社会民主党があった。ドイツ経済は1873年の恐慌で低迷したが、1895年から第1次世界大戦前は好況期に入った。ドイツ経済の牽引車は豊富にあった「石炭と鉄」に象徴される重工業が中心で、電機や化学工業が世界をリードした。この時代にドイツは農業国かた工業国に転換しイギリスと並ぶ工業製品の輸出国であった。ビスマルクが引退してからは、宰相の地位はカプイヴィ(1890−94)、ホーエンローエ(1894−1900)、ビューロ(1907−09)、ホルヴェーク(1909−17)と受け継がれた。各政府とも支持政党の組み合わせに苦労し、安定多数には成功しなかった。ホルヴェーク時代には1912年社会民主党が第1党になったので非難決議を受けることになった。ビスマルク外交の後に、ヨーロッパの状況は大きく変わった。逆のドイツが孤立化させられることになった。ロシアとの「再保障条約」は破棄され、1894年「露仏同盟」、1904年「英仏協商」、1907年「英露協商」となってドイツとイギリスとの関係は悪化した。ドイツ葉「独墺伊同盟」だけになって、オーストリアがボスニアヘルツェゴヴィナを併合しセルビアがこれに反発して、ドイツを巻き込んで第1次世界大戦の導火線となった。帝政ドイツ社会の特徴は、軍国主義、学問業績の素晴らしい国、テクノクラートという大学と資格社会の国であった。人口は急速に増大し、1871年に約4千万人、1914年に6700万人となった。ベルリンの都市改造、インフラストラクチャーの公営化が進み、人口は200万人、都市職員は1万人という文字通り「世界都市」となった。

第8講 「第1次世界大戦とワイマル共和国」 (20世紀前半 1914−1933)

第1次世界大戦は1914年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告したことに始まる。オーストリアはドイツの強い後押しを得たものであるが、セルビアの背後にロシア・フランスがおりこれらを誘いこむリスクを承知の上で、イギリスの中立に最後まで期待をかけていたらしい。ドイツは8月1日にロシアに対して宣戦した。ところがドイツはロシアに向かわずフランスに軍を進めた。8月3日フランスに宣戦した。ロシア、フランスと両面に敵をもつため、まず弱いフランスをついて次にロシアに向かうという2段階戦を採用したのである。イギリスは8月4日ドイツに宣戦した。ドイツ国内は「祖国防衛戦争」に熱狂し政府は国内の統合に成功した。しかし挙国一致体制もあくまで短期決戦を前提とした兵站計画であった。9月フランスに入ったドイツ軍はパリ郊外で押し返され英仏連合軍と対峙し、ロシアとはタンネンブルグ戦線で食い止め、どちらの戦線も膠着状態になった。以後3年間塹壕戦・砲撃戦を続けるという長期物量戦争となり、かつ両軍に膨大な犠牲が出た。英国に海上封鎖されアメリカの参戦も招いたのでドイツは戦闘継続ができなくなった。1917年ロシアで革命が起き戦線から離脱したので、1917年7月帝国議会は「平和決議」を採択したが、西部戦線で最後の賭けに出て失敗し9月即時停戦を提議した。アメリカのウイルソン大統領の和平提案に沿って動けず、海軍兵士の反乱によって帝国は崩壊した。政権を投げ出した首班マックスから政権を譲られた社会民主党のエーベルトは憲法制定国民会議選挙を呼びかけ、大統領となったエーベルトは連合内閣を完成させて、ヴェルサイユ講和条約を結んで新憲法制定を行った。講和条約は前例のないことだがドイツに戦争責任があるちう決定に基づいて天文学的な賠償金を課し、フランスはアルザス・ロレーヌの返還を求めた。1919年7月に採択されたドイツ国憲法(ワイマル憲法)は君主のいない連邦共和政となって、連邦は州に格下げされたかなり集権制の強い連邦制になっている。国会は2院制だが参議院の権限は弱められ実質的に1院制に近い。国会は男女平等の普通選挙で比例代表制をとったので、 政党乱立となり安定政権が困難となった。また国家元首の大統領は直接選挙で選ばれ、内閣の任免権、国会解散権、緊急立法権など大権を有するので、議会民主主義と大統領制が複雑に拮抗する体制である。この理想主義的な憲法が機能するかどうかは別問題で、実際の政治は国民も官僚も議会政治には慣れていないというか、政治的に成熟していなかった。ワイマル憲法下の共和国は、社会民主党・中央党・民主党の「ワイマル連合」であるが、いきなり左右の攻撃にさらされた。

右翼にヒトラーが登場し、軍はカップという右翼政治家と組んで3月にクーデターを起こす。カップ政権はゼネストで倒れたが、右翼のクーデター、暗殺で揺さぶられ、労働者のストライキが多発しワイマル政権はおよそ安定しない。1923年フランスは賠償金未払いを理由にしてルール地方を占拠し、賠償金の為の通貨発行が膨大となってスーパーインフレとなりマルクの価値は1兆分の1となり、賠償金を大幅に減らすことができたが、国民生活は破たんした。このインフレが反政府・反共和国勢力を勢いづかせた。ザクセンで共産党政権ができ、ミュンヘンで「ヒトラー一揆」が起った。これが1923年の危機と呼ばれる。1923年の危機を脱した後、賠償金の支払い条件の緩和を求めた「ドーズ案」が成立し、アメリカ資本の援助でドイツ経済は回復傾向に向かった。西部国境の不可侵を決めた「ロカルノ条約」が結ばれフランスやベルギーとの関係も改善した。1926年にはドイツは国際連盟への加盟も認められた。1929年には賠償支払いの減額を決めた「ヤング案」が調印された。この1924から1930年までの5年間は「相対的安定期」という。この時期の都市型大衆文化を「ワイマル文化」という。ただし内閣の不安定は改善せずいずれも短命綱渡り内閣で、1925年元参謀総長のヒンデンブルグが大統領になると、政治はしだいに右傾化していった。そこに大恐慌が世界を襲い、ドイツでも失業率が1932年には30%になって内閣は崩壊状態となり、大統領の非常時大権による非議会的「大統領内閣」が続いた。そんな議会で勢力を伸ばしてきたのがヒトラーのナチスである。1932年秋までに誰も期待しない議会において第1党となった。機能しない議会の支持者がいないことからワイマル体制を「共和主義者のいない共和国」という向きもある。1933年1月30日のヒトラーの首相任命となった。2月の選挙中に「国会放火事件」が起き、共産党の弾圧が行われ、新議会で「全権委任法」が成立してワイマル共和国の議会政治は終焉した。

第9講 「ナチスドイツと第2次世界大戦」 (20世紀前半 1933-1945)

ヒトラーは1933年2月「国民への呼びかけ」で「国民革命」という均質な国民の挙国一致を呼びかけた。7月には「新党設立禁止法」でナチ以外の政党を認めない1党独裁制国家となった。(社会主義国で共産党以外の政党を認めないのと同じ)「国家新編成法」と「国家の均制化法」により州の自治は失われ、全体国家の中央集権的国家となった。労働組合は解散させられ「ドイツ労働戦線」に再編成された。1935年「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪われ、亡命を余儀なくされた。約50万人いたユダヤ系市民のうち36万人が国外へ逃亡した。ナチの設立時に定めた「25か条の綱領」とは、ドイツ民族主義とある種の社会主義、反ユダヤ主義を強引にまとめたところがあり、領土拡大やユダヤ人排斥、国営化を含む社会主義的政策などかなり雑多なスローガンを並べた感じである。(2009年に成立した民主党政権のマニフェストみたいなもの)  ヒトラーは「親衛隊SS}を指導して、政敵を逮捕、射殺した。そしてヒトラー1934年「総統」の地位を得てヒトラー個人独裁が完成した。1939年以降は内閣はなく、閣議も行われなかった。ヒトラーの下には宣伝相ゲッペルスなどの担当者がいたに過ぎない。独裁国家の暴力装置とは「秘密国家警察 ゲシュタポ」、「親衛隊 SS」を兼ねたヒムラーが担当した。1932年ごろから世界の経済は好況期になり、ドイツでも失業率は改善した。アウトバーン建設などの公共事業で雇用を創設し、軍備拡張政策も雇用を生んだ。1935年には工業生産指数が大恐慌間前の水準に復帰し1939年には125と増加した。ヒトラーの外交政策が成功したのもこの時期である。ヴェルサイユ条約を修正し賠償金をほとんどチャラにした。そして1933年ジュネーブ軍縮会議を脱退し、国際連盟を脱退、1935年徴兵制実施、1936年ラインラントに進駐しフランスは動けなかった。ベルリンオリンピックは国威発揚の絶好の機会となった。1938年オーストリアを合邦化し大ドイツ主義が実現した。これらの成功でヒトラーがとどまっていれば民族の英雄となっていたのだが、ヒトラーの欲望は止まらなかった。(これはナポレオンの征服戦争とおなじで、総統とは止まったら倒れる自転車操業のような人気稼業なのである) 1938年チェコを巡って英・仏・独・伊の4か国がミュンヘン会議を開き、チェコ・ズデーデン地方のドイツ併合を認めた。さらに1939年チェコに進駐しチェコをドイツの保護領にした。ついでポーランドに対してヴェルサイユ条約で割譲した「ポーランド回廊」の返還を要求した。電撃的に「独ソ不可侵条約」を締結したことで、西欧社会はドイツへの態度を急変させた。この条約は、ソ連とドイツでポーラン分割や東欧の勢力圏の画定を約束したものであった。1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻し、3日に英仏はドイツに宣戦した。こうして第2次世界大戦がはじまった。

ヒトラーの行動を支えた世界観とは何だったのか。それは「人種闘争史観」というもので、世界の支配権を目指す人種ないし民族ないし国家の闘争を言う。そしてドイツの生存圏は東のロシア周辺にあった。ドイツ民族の優秀性を固持する態度は「社会ダーウィ二ズム」を借用したもので、反ユダヤ主義は「優生学」から引用したものである。実は反ユダヤ主義はキリスト教の普及とともに広まったもので歴史は古い。反ユダヤ主義はキリスト教の聖書に起源があった。ソ連共産党政権もユダヤ主義の化身ととらえ、その撲滅戦争に邁進したのである。1939年9月末にはドイツはワルシャワを占領、ソ連とポーランドを分割した。翌年1940年5月、ドイツは反転し西進した。オランダ・ベルギーを突破してフランスに侵攻し6月14日にはパリに入った。フランスの和平派ペタン元帥を首班とする政府との間で休戦条約は結ばれた。フランスの北部をドイツが占領し、南部をペタン政府が管理した。フランス進行と同時にドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し制圧した。イギリスは大陸から撤退し、イタリアがドイツ側に行いて参戦し、9月には「日独伊3国同盟」が調印された。こうして破竹の勢いでドイツは西ヨーロッパを制圧した。ここでドイツは「フランク王国」のような版図を得て「新秩序」を宣言してもよかったのであるが、ヒトラーは政治的には動かず次いでソ連侵攻作戦を準備した。1941年6月22日に、360万人の軍隊をもってソ連を奇襲した。モスクワを包囲したが、ソ連の「祖国防衛戦争」に阻まれ冬将軍はソ連に味方してドイツの短期決戦は挫折した。その政治的解決もできないまま、12月8日ドイツは日本の真珠湾攻撃に合わせてアメリカに宣戦布告した。全世界を敵に回して戦うという、これは正常な常識では判断できないヒトラーのやけくそ的行動である。アメリカを参戦させることで、戦局は大きく変わった。ドイツ本土への爆撃、大陸封鎖となり、1943年1月ドイツはスターリングラードの攻防で敗北し降伏した。ヒトラーの戦争目的であった「東方生存圏」がいつのころから不明となり、「ユダヤ人問題の最終的解決」という人種撲滅に傾いた。1942年から終戦までに殺されたユダヤ人は約560万人、精神障害者7万人、ジプシー約50万人に上った。ドイツ軍と民間の戦死者550万人、ソ連の戦死者は併せて2000万人であった。1945年4月30日ヒトラーは自殺してドイツは無条件降伏した。歴史は人類に猛反省を促している。ワイマール共和国のあの惨めさとヒトラードイツ帝国の力強い躍進とヨーロッパ制覇の間の落差は異常である。ワイマール共和国時代に国民の間にものすごいエネルギーが蓄えられ(それを強いたのは西欧列強のヴェルサイユ体制であった、窮鼠猫を噛む式)、それを一気に解き放ったのがヒトラーの独裁制であったといえる。ヒトラーのカリスマ支配は支配の正当性を、独裁に至るまでは一応国民の支持に求める。その支配は目覚ましい成功の連続によって維持される。そこには歯止めの機構は完全に欠落していた。これはナポレオンのケースと同じである。それを支えた官僚機構とテクノクラートも目隠しされた馬に過ぎない。

第10講 「分割ドイツから統一ドイツへ」 (20世紀後半 1945−)

1945年連合軍の占領下に入り、米英仏ソ4か国が占領地域を管理した。米英は第1次世界大戦の戦後処理に失敗に学んで、ドイツ自体の経済復興を優先させた。米英仏3国の占領地は一体化しソ連の占領地と対峙することになった。1948年ドイツ経済復興の基盤となる通貨新マルクに切り替えられた。ソ連占領地では東マルクを定めたので統一通貨が失われ、そしてベルリンの壁ができ「ベルリン封鎖」危機となって、ドイツの2分割化が避けられなくなった。1949年西側でボンを首都とする「西ドイツ連邦共和国」、東側で社会主義統一党の一党独裁でベルリンを首都とする「東ドイツ民主共和国」ができた。西ドイツでは「マーシャルプラン」による援助でドイツ経済の復興が進んだ。政治的には「非ナチ化」が図られ、州政府と議会が連邦を組むという中央集権の否定であった。中央の政治権力は大統領ではなく、連邦政府と2院制議会に集中した。政局はキリスト教民主同盟が右派で、社会民主党が左派の2大政党ができ、それに左派自由主義の自由民主党が絡む構造であった。キリスト教民主同盟と自由民主党の連立政権は長期安定政権を作り、政府機能を軌道に乗せたのがアデナウアーであった。軍事ブロックではソ連に対抗する北大西洋条約機構NATOの一員となり再軍備をした。それに対して東ドイツの再建は苦悩を極めた。ソ連の現物賠償と称して工業資産を根こそぎもってゆかれインフラも失われた。1961年までに西側に逃れた脱出者は250万人となった。1959年マルクス主義を脱した社会民主党はキリスト教民主同盟と自由民主党と大連合を組み政権についた。首相ブラントの下で新東方外交を展開し東ドイツとの共存関係を結んだ。このブラントとシュミット首相(1982年まで)の政権時代に戦後ドイツの第2の安定成長期を迎えた。1989年11月9日の劇的な「壁の崩壊」から、翌90年10月3日ドイツ統一となった。ドイツ統一は、フランスとソ連のゴルバチョフが賛成したことで成立したといえる。法的には東の5州と西ベルリンがドイツ連邦に新たに参加する形で統一が行われた。当時の情勢の不透明(東欧社会主義国のドミノ崩壊とソ連の崩壊)さからコール首相が多少ゴリ押し的に統一を進めたようである。何よりも過去と違うところは、ドイツにおける民主主義の成熟である。「過去の克服」が国民のコンセンサスとなった。「緑の党」という環境主義政党も取り込んで、2011年原発廃止と環境保護を国是とすることになった。


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