2012年2月14日

文藝散歩 

カエサル著 「ガリア戦記」 
近山金次訳 岩波文庫 (1942年初版 1964年第4刷改版)

カエサル・ローマ軍のフランス遠征―元老院を狂喜させた戦争報告書 


戦記文学には古くからホメロスの「イリアス」、「オディッセイア」のトロイ戦争詩圏というものがあった。これを読んでシュリーマンは伝説文学ではなく戦記文学で、トロイは実在したと信じて発掘に成功した。それほどホメロスの「イリアス」、「オディッセイア」の文学性の香りが高かったというべきであろう。ではカエサル(シーザー)の「ガリア戦記」の文学性はどうだろうか。ガリアケルト人、アクイーターニア人、ベルギー人、ゲルマン人、ローマ直轄地プロバンキア人、アルプス山岳人などの風俗・民俗観察や歴史は十分に描かれて知るのだろうか。ここにいう人とは言語が異なる地方の人々を指すものと思うが余り厳密な定義ではない、族より大きな地方を指している。ガリアで最大の地方とはいうまでもなくガリアケルト(ガリアセルチカ)をさす。狭義にはガリアとはケルトといってもいいが、ケルトに周辺の地方をふくめて「ガリア戦記」はガリアといっているようだ。族とは戦国時代に日本が200あまりの諸侯に別れていたように、ひとつの政治的集まりで特に言語の違いはなかったようだ。今で言えば地方の市町村ぐらいの政治的単位を族といっていたようだ。本書で族名が多岐に渡り理解を困難にしているが、部族連合がモグラの頭叩きのように何度もローマに対して反乱を繰り返していることに、カエサルは統治に頭を悩ましたようである。植民地支配の宿命である。

カエサルの人類学者・文明史家としての目や、農産物や産業の政策者としての目はどうだったのだろうか。作品は紀元前50年以降のローマ時代に作られた。それまでローマ元老院に送ったシーザーの戦果報告書が貯まっていたのを、シーザーが編集して記憶を追加修正して(自分に都合のいいように)書き綴ったものとされる。本書に書かれたカエサルの軍団や敵の軍の規模などはいずれもあてにならない。敵を大きく自分の軍の規模を小さく書いて自分の戦功を誇るのは軍記の常である。大本営発表のように負けたことは出来るだけ書かないようにするのも常套手段である。とはいうものの本書でカエサルはすべてを自分の功績に帰すわけではなく、部下の副将たちの働きも功罪含めて記しているので比較的公平であるように思える。ただすでに2000年以上も前の事であるが、本書は文学書ではなく元老院への報告書であるので、当時誰もが知っている公知の史実に基づいているようである。本書を読んでみて、当時の地名と部族名と現在のフランス地名との関係性のわずらわしさからなかなか手ごわくて読むスピードも上がらないのだが、本書冒頭にある「カエサル時代の地理図(川、山、町の地図)」と「カエサル時代のガリア諸部族地図」をコピーして座右において本書を読めば内容がようやく頭に入ってきた。それからは流れるように読むことができた。源氏物語やロシアの小説で、登場人物相関図を座右にしなければ読めないのと同じである。日本では最古の戦記物というと、8世紀に編集された「古事記」、「日本書紀」が伝説にのっとって天皇家と藤原家に都合のいいように歴史を編んだものである。文学性は先史時代の伝説に存在するが、歴史時代に入ると俄然正史としての襟を正した書き方で面白くなくなる。文学性といえば鎌倉時代に作られた「平家物語」が群を抜いて愛好者が多いようだ。室町時代の「大平記」は講談物のように面白おかしく書かれてた。史書「増鏡」に比べて信憑性は薄弱であるそうだ。

カエサルの「ガリア戦記」はBC58年から同51年にかけてガリアケルト地方(今のフランス)戦われたローマ軍の植民地戦争であった。前後8年間の戦争は年毎に8巻あるが、第8巻は別人の書いたもので本書には集録されていない。ガリア戦争はBC52年のアレシアの戦いで総ガリア同盟軍が破れて決着がつき、BC51年はガリアに匪賊討伐戦くらいの意味しかなかったので、カエサル自身は書く気が乗らなかったのかもしれない。「ガリア戦記」に入る前の、ローマとガリアの関係をみると、紀元前390年にはガリアの将軍ブレンヌスがローマを攻略したが攻めることは出来ず、反ローマ同盟を作ったがガリア人の勢力が北イタリアに及ぶことはなかった。ハンニバルのアルプス越えにガリア人は勢力回復を試みたが、内紛分裂を重ねてローマに対抗することは出来なかった。紀元前2世紀になるとローマは南ガリア(マルセイユ)に侵攻し殖民地経営を進め、BC121年にはアルペース山脈からロダヌス河(ローヌ河)までをローマのプロウィンキア(属州)とした。そこからローマはヒスパニア(スペイン)を植民地化し地中海の覇権国家となった。こうしてカエサルの時代を迎えた。ガリア人は東からゲルマン人(今のドイツ)の侵入と、南からローマの侵入に曝されることになった。そしてこのことがガリア人の反ローマ同盟の結成とつながり、ヘルウエー族のオルゲトリクス、ハエドゥイー族のドゥムノリクス、セークァニー族のカルティクスの3名による反ローマ計画を生み。これがカエサルのガリア遠征の直接的契機となった。当時カエサルは43歳、ヒスパニアの経営で名を馳せていた。このガリア戦争でカエサルはローマのすべてを獲得したのである。

本書の構成を記す。
T 第1巻(紀元前58年) - ヘルウェティイ族との戦闘、アリオウィストゥス率いるゲルマン人との戦い
U 第2巻(紀元前57年) - ガリア北東部(ベルガエ人)への遠征
V 第3巻(紀元前56年) - アルプス越え開拓、大西洋岸諸部族との戦争
W 第4巻(紀元前55年) - 第一次ゲルマニア遠征、第一次ブリタンニア遠征
X 第5巻(紀元前54年) - 第二次ブリタンニア遠征、ガリア遠征初の大敗
Y 第6巻(紀元前53年) - 第二次ゲルマニア遠征
Z 第7巻(紀元前52年) - ウェルキンゲトリクス率いるガリア人の大反攻、アレシアの戦い
「ガリア戦記」の訳書としては日本では岩波文庫本近山金次訳と、講談社学術文庫本国原由之助訳がある。本書の訳者近山金次 (1907−1975年)は昭和時代の西洋史学者。明治40年4月12日生まれ。昭和20年母校慶大の教授となり、のち清泉女子大教授。古代ローマの政治史や中世精神史を研究した。

T 第1巻(紀元前58年) - ヘルウェティイ族との戦闘、アリオウィストゥス率いるゲルマン人との戦い

カエサルによると、ガリアは3つに別れ、ベルガエ人(今のベルギー・オランダ)、アクィーターニー人(ピレニー山脈まで)とケルタエ人(ケルト)である。いずれも言語と法が異なる。第1巻は今のスイスに相当する山岳族ヘルウェルティー族が、レーヌス河(レーヌ河)に東からゲルマン人の圧迫を受けて、自領の狭い山岳地から西の肥沃な平原に出ようとしたことから始まる。ヘルウェティイ族のオルゲトリウス、セークァニー族のカルティウス、ハエドゥイー族のドゥムノリスクとの間に軍事同盟が出来た。BC58年3月ロダヌス河を渡りローマのブロンキアを通過しようとする報が入ってカエサル軍はローマを出発した。カエサルはロマンヌス湖のイゥーラ山に砦を築いてヘルウェテー族を待った。ヘルウェテー族はセークァニー族からハエドゥイ族を抜けてブロンキアへ出ようとしていたので、カエサルはハエドゥイ族の住むアラル川でヘルウェテー族を破り勝利した。本書には決定的な戦争には陣地図が添えられている。基本的にローマ軍は歩兵部隊で、後にゲルマン人の騎兵隊を使うようになった。ヘルウェテー族は武装兵力は9万人で部族36万人が移動しようとし、戦争に敗れて本国に帰ったのはカエサルの調査では11万人であった。

戦いの後カエサルの同意を得て全ガリア部族会議が開かれた。ガリアには中心となる党派が2つあり、ハエドゥイー族、アルウェルニ-族である。2つの部族でガリアの中央平原を占め、覇を争いゲルマン人を傭兵とした。そのためゲルマン人部族がレーヌス河を西に渡って住居するようになり、常にゲルマン人の圧迫を受けるに至った。セークァニー族はゲルマン人の王アリオウィストゥスの侵略を受け1/3の土地を奪われていた。そこでガリア全土を王アリオウィストゥスの侵略から、カエサルの軍隊とローマの権威で守って欲しいと願った。ゲルマン人の進出はローマにっても脅威であったので、カエサルはセークァニー族の居住するドゥビス河の町ウェソンティオに入り、国境をレーヌス河とすることをアリオウィストゥスと交渉したがまとまらず、決戦となって若いクラックスの活躍でカエサルはアリオウィストゥスを破りレーヌス河までゲルマン人を押し戻した。冬営のためセークァニー族の領地に軍を入れ、ラビエースを守備隊指揮官として、カエサルはローマに帰った。

U 第2巻(紀元前57年) - ガリア北東部(ベルガエ人たち)への遠征

ガリアベルガエ人(今のベルギー・オランダ モサ川以西セークァナー河以東)の謀反の知らせが入ったので、カエサルは8個軍団(約4万人)でベリガエに遠征した。ベルガエ人の多くはゲルマン人から出たもので、昔レーヌス河を渡りガリア人を追い出して肥沃な土地に住み着いた。敵の勢力はベロウァキ族が中心になって15万人、それにゲルマン部族が4万人であった。カエサルはガリー人レーミー族らを励ましてアクソナ河を渡り陣地を構えた。サビーヌスを指揮官として守備隊を置きカエサルは敵の砦に正面した。砦の前の沼地を避けアクソナ河を渡る敵を殲滅した。カエサルはベロウァキー族の降伏を認め、カエサルはレーミー族からネルウィー族領のサービス河に向かった。カエサルはガリー人とともに行進し、ネルウィー族、アトゥアートゥキー族などのベルガン人を打ち破った。そしてクラックスは一個軍団で海岸諸部族を平定したという。カルヌーテーヌ族領に冬営軍を置いてカエサルはローマに帰った。ローマでは15日間の感謝祭が決議された。

V 第3巻(紀元前56年) - 大西洋岸諸部族との戦争

カエサルはBC57年通商の安全と不法な関税を排する目的でアルプス越えの路を確保するため、帰順していたガリア人スウェッシオーネースス族の王ガルバに1個軍団を持たせてレマンヌス湖とロダヌス河からアルペース山脈に派遣した。そこへ部隊を攻撃するセドゥーニー族やウェラグリー族の反乱が起きたという報が入った。ガルバは包囲を破って敵を壊滅させ、軍をアロブロベース族領内に入れ冬営した。太平洋沿岸に近いアンデース族領に冬営していた第7軍団のクラッススが食糧を求めて諸部族に軍使を派遣したところ、不意にウェネティー族に反乱が起きた。ウェネティー族はブルタンニアとの交易関税で利を得ていたので、周辺の沿岸諸族オシスミー族らの連合軍が形成された。カエサルは副将ラビエーヌスにレーヌス河沿いのゲルマン人の渡河を阻止するために派遣し、クラッススをアクアターニアに派遣し沿岸諸族の援軍の合流を阻止させ、副将サビ-ヌスにはウエネティー族と周辺族を分離させ、若きブルートゥスに艦隊を委ねて海からウェネティーに向かわせ、カエサルは陸からウェネティーに急いだ。ブルートゥスは海戦で敵の艦船を全滅させ、サビ-ヌスにはウエネティー族を征服した。クラッススはアクアターニアのソティアテース族、タルサーテース族の領土を落とした。アクアターニアの大部分の諸族はクラッススに降伏した。夏も終わりの頃ベルガル人のモリニー族とメナピー族が講和に来ないのでカエサルは軍を差し向け簡単に平定し、全土に火をかけ荒廃させた。

W 第4巻(紀元前55年) - 第一次ゲルマニア遠征、第一次ブリタンニア遠征

ゲルマン人のウシペテ-ヌ族とテンクテーリー族が同じゲルマン人のスエーピー族に圧迫され、海に近いところでレーヌス河を渡った。スエーピー族はゲンルマン人の中で最も好戦的で、定住せず農耕はせずに多くは狩猟に携わっている。ガリー人がゲルマン人を招いて事を企てる事を恐れたカエサルはいち早く軍団に戻り、モサ河のアンビウァリティー族領土にいるゲンルマン人に対峙した。ゲルマン領に戻るように交渉しているときに戦いとなり、撃破したカエサルはその勢いでレーヌス河を渡ってゲルマン領に入った。ウシペテ-ヌ族とテンクテーリー族が退却したスガンブリー族の村を焼き払いガリアに戻って渡河に使った橋を破壊した。これを第一次ゲルマニア遠征という。カエサルはブルタンニアに向かって急いだ。ガリー人との戦争で敵がブルタンニアから援助されている事をしっていたから、まずはブルタンニアの位置、上陸地点を見届けることが目的であった。これを第一次ブリタンニア遠征という。ウォルセヌスを軍艦で派遣し偵察を命じた。カエサルはブルタンニアのフランス側対岸にいるモリニー族領に入り、2個軍団の輸送に必要な船を集め、サビーヌスに留守守護隊を任じてブルタンニアに上陸した。(ローマ軍の上陸地点は東海岸であったようだ) 上陸戦に勝利したが騎兵を乗せた18隻の船が嵐で西へ押し戻され、カエサルの船も満潮で岸に打ち上げられ大きな損害を蒙った。この事を知ったブルタンニア人の反撃をかわすようにカエサルはすばやく帰国した。謀反したモリニー族に副将ラビエーヌスを派遣して征討した。カエサルは冬営地をベルガエ人の中に置いた。ローマ元老院は20日間の感謝祭を決議した。

X 第5巻(紀元前54年) - 第二次ブリタンニア遠征、トレウェリー族戦争でガリア遠征初の大敗

カエサルがローマに帰っている間に、副将らに多くの船を低めに作るよう指示した。潮が高くないので荷物や馬の輸送に有利な船の建造を急いだ。カエサルが諸族の巡回裁判を終えて内ガリアから冬営地に戻ると、船が600隻、軍艦が28隻も造られていた。ブルタンニアの対岸にあるイティウス港を部隊集結と定めて、カエサルは4個軍団でレーヌス河西岸にすむトレーウェリー族の平定に出かけた。トレーウェリー族は2派に分かれていたので、キンゲトリクス派は帰順したので、インドゥティオマルス派から人質を取り、何かと反抗的であった人質のハエドゥイー族のドゥムノリスクを殺して後顧の憂いを減じた。ラビエーヌスに3個軍団を預けて大陸に残し、カエサルは海を渡った。800隻以上の船を見てブルタンニア人は海岸から退却した。アトリウスに船を守備させ上陸した。(上陸地点は前回よりさらに北のサンドウィッチではないかと言われる) 敗走する敵を深追いすることは戒め陣地構築を急いだ。暴風が起きて船40隻を失ったが修復して船を陸地に引き上げ、かつ陣地が完成した。ブルタンニアの内地には固有の者が住んでいたが、海岸地帯にはベルギウムからの移民が多くガリー人の家に似て、家畜が多い。金、銅、鉄を貨幣に使う。産出量は少ない。カエサルに対峙したブルタンニアの敵の総指揮官はカッシウェラウヌスで、カエサルはタメシス河を渡り、カッシウェラウヌスを敗退させトリノウァンテース族、ケニマグアーニ族などが服従した。和議を結んで人質を課しローマに払う租税を決めてカエサルは大陸の冬営地に戻った。ガリー人会議をサマロブリーウァに開き、副将ファビウスをモリニー族におき、キケローはネルウィー族に、ロスキウスをエッスウィー族に、ラビエーヌスをレーミー族において、財務官クラッススと副将ブランクスとトレボーニウスが指揮した。この前に副将サビーヌスとコッタが指揮する軍団をエブロネース族に配置してあった。こうして軍団を分割しておけば穀物供給の負担が減りガリー人の反乱が緩和されると考えたからである。

カエサルが冬営地についてすぐに、モサ河流域のガリー人の謀反と騒乱がエブロネース族のアンビオリスクスとカトゥウォルクスによって引き起こされた。二人は副将サビーヌスとコッタに穀物を納めに来て退去して陣地を襲撃した。ガリー人はこの日を全ガリアの自由を回復する日と定めて全冬営地で決起する事に決めたという。これに対してティトゥリクスは敵の大軍がゲルマン人と合流する前に包囲を破って一気に敵を殲滅すべきだと主張し、コッタの反対にあったが議論は尽きず副将サビーヌスは夜明け前に行動開始と決めた。待ち伏せをしていたアンビオリスクス軍はこれを察知しサビーヌス軍を撃破した。ティトゥリクスと副将サビーヌスとコッタは戦死しローマ軍の15の部隊は全滅して、ガイリア戦最大の敗北を喫した。この戦いに勝利したアンビオリスクス軍は兵をネルウィー族の領地に入れキケロ軍を急襲した。ネルウィー族が支配する諸部族に檄が飛ばされキケロ軍7000人は6万人の軍に包囲された。無勢のキケロ軍は包囲戦で苦戦しカエサルに援軍を頼んだ。カエサルはクラックスに使者を送って援軍に加わるように指示した。ファビウス、ラビエーヌも援軍に加わり、カエサルはキケロ軍と合流して敵を打ち破った。カエサルは各部族の首長を集めて忠誠を誓わせたが、ハエドウィー族とレーミー族を除いて殆どどの部族もローマに叛くことは否定しえない状況であった。トレーウェリー族のインドゥティオマルスはゲルマン人を入れてローマに謀反するように諸部族を説いてラビエーヌス軍を攻撃した。この計画はラビエーヌス軍によって破られインドゥティオマルスは捕えられ殺された。エブロネース族とネルウィー族はこの事を聞いて立ち去ったという。

Y 第6巻(紀元前53年) - 第二次ゲルマニア遠征

ガリアの大動乱が予想されるので、カエサルは副将シラーヌス、アンティスティウス、セクスティウス、及びプロコンスルのポンペイウスに依頼して徴兵を行い、3個軍団を編成してティトゥリクスとともに失った部隊を補充した。前年度のトレーウェリー族のインドゥティオマルスの戦いの後、トレーウェリー族はネルウィー族、メナピー族、セノネース族などレーヌス河の手前の部族全部を味方につけて連合を作っていた。カエサルはネルウィー族の領地に向かい、ここを制圧してガリア会議をバリーシー族のルテキアで開催した。カエサルは全力を挙げてトレーウェリー族のアンビオリスクとの戦いに向けた。アンビオリスクは戦いを避け、ベルギウムのメナビー族を味方につけようとした。メナビー族はモサ河河口の森と沼に守られて要害となっていた。トレーウェリー族は歩兵と騎兵の大軍で冬営していたラビエーヌス軍を襲撃しようとしたが、カエサルの軍団が到着したことで攻撃を見合わせゲルマン人の援軍を待つことにした。偽計でラビエーヌス軍は逃げ出す態勢をとりトレーウェリー族が攻撃を開始するところを反撃した。トレーウェリー族の敗北を見てゲルマン人は故国に戻った。そしてトレーウェリー族の指揮権はキンゲトリクスに渡った。カエサルはメナビー族からトレーウェリー族に入り、レーヌス河を渡ってゲルマン人領に入りウビー族を帰順させた。ガリア人社会の観察が述べられる。ガリアの政治的中心はハエドゥイー派と、それについでセークァニー族の後をついだレーミー派が勢力を握っていた。ガリアには僧侶と岸の2つの人間がいる。僧侶は青年の教育を行い、裁判にも加わりギリシャ字を使う。最高位の僧侶は選挙で決められるという。ガリアの民は宗教に深い帰依をし生贄を尊ぶ。神ではメルクリウスが最高神である。

ゲルマン人はガリア人とは全く違う風俗を持つ。生活は狩猟と武事に励むことである。農耕には関心がない。食物は乳とチーズと肉である。部族にとって国境を荒廃させて置くことが名誉である。戦争にあたっては指揮官として首領が選ばれる。ガリー人はヘルニキアの森に移民したこともあったが、ゲルマン人に戦争で次第に負けて武勇でゲルマン人とは争わなくなったという。カエサルはゲルマン人に一定の勢力を見せ付けて退却し、アンビオリスクとの戦いに全力を集中するべくバシルスに騎兵をつけて先行させた。エブロネース族の王カトゥウォルクスが自殺したためセブニー族やコンドルーシー族はカエサルに帰順した。各軍団の1週間の偵察行動を命じ、ラビエーヌス軍はメナピー族へ派遣し、トレーボニウス軍をアトゥアートゥキーに派遣し、カエサルはスカルディス河と森にアンビオリスクを追った。留守部隊はキケロに命じた。そこにゲルマン人スガンブリー族の騎兵がキケロ軍を急襲した。かろうじて防御戦を勝ったものの2個部隊を失った。

Z 第7巻(紀元前52年) - ウェルキンゲトリクス率いるガリア人の大反攻、アレシアの戦い

ローマで紛争があったためカエサルはガリア前線には出られなかった。この機をとらえて又もガリアでは反乱が計画された。最後の戦いはガリア中央部を舞台に(今のパリの南の地方)カルヌーテーヌ族のグトルアトゥスとコンコンネトドゥムがケープナムを攻撃し略奪をおこなった。アルウェニー族のウエルキンゲトリクスは王と呼ばれ周囲の部族セノネース族、アウレッキー族などを味方にして、ビートゥリゲース族に向かい大連合部隊を集めていた。ポンペイウスの働きでローマの事情も落ち着いたので、カエサルはガリア・トランサルビーナに向い、ついでヘルウィー族に向かった。カエサルはビートゥリゲース族の最大の要害の町ノウィオドゥーヌスを襲撃しこれを落として、ついで要害都市アウァリクムに前進した。敗北を続けていたウエルキンゲトリクスはローマ軍の食糧を断つため町の焼き払いを行なったが、ビートゥリゲース族の誇りでもある美しい町アウァリクムを焼き払いたくないという懇願に負けてアウァリクムの篭城作戦となった。カエサルの包囲作戦が進行してついに町は陥落した。ラビエーヌスに4個軍団を与えてセノネース族とバリーシー族に入れ、カエサル自身は6個軍団を引きいてアルウェルニー族の町ゲルゴウィアに向かった。ウエルキンゲトリクスは町の側の山に陣地を布きカエサルと対峙した。ハエドゥイ族のコンウィクトリタウィスの謀反を誘いカエサルの側面を突く計画を立てたが、カエサルはゲルゴウィアを引く格好を見せてゲルゴウィアの敵を急襲し占領した。ハエドゥイ族の軍が来る前に決着をつけたのである。そして返す刀でハエドゥイ族に向かって進軍した。ハエドゥイ族の町ノウィオドゥーヌスを占領してセノネース族に向かった。副将ラビエーヌスは4個軍団でパリーシー族の町ルテキアにむかった。セノネース族の町メティオセドラム(今のパリ)を占領しルテキアの戦いに勝利した副将ラビエーヌスはカエサルと合流した。

ハエドゥイ族の謀反が知れ渡るとガリアの戦場は拡大した。全ガリア会議がビブラクテでひらかれ、ウェルキンゲトリクスが満場一意で総指揮官に選ばれた。1万5000の騎兵からなる8万の精鋭大部隊を集めたウェルキンゲトリクスは各部族を煽動し、カエサルはブローウインキアに逃げてガリアを去ると宣伝した。カエサルはセークアニー族に向かいブローウインキアに向かった。そこでウェルキンゲトリクスはマンドゥービー族の町アレシアに進んだ。カエサルは追撃してアレシアを包囲し陣地を布いた。多くの保塁塔を塹壕で結び完全に包囲した。ウェルキンゲトリクスは全ガリア会議を開き、援軍を募り25万の兵力と8000人の騎兵を集めるとアレシア援軍総指揮官は、コンミウス、ウィリドマルス、エポレドリクス、ウェルカッシウエドマルスとなった。コンミウスらの軍団がアレシアに近づくと外側の丘を占拠しローマ軍の近くに陣地を作った。決戦の戦いは半日続いてローマ軍に勝利が帰した。六万の精鋭を率いたウェルカッシウエドマルス軍を副将ラビエーヌスが破って勝負が判明した。ウェルキンゲトリクスは降伏を決意しカエサルに下った。元老院は20日間の感謝祭を決議した。


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