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加藤周一著 「読書術」

  岩波現代文庫(2000年11月)

博学強記の「日本の知性」が指南する、中高生むきの本の読み方

「何を読むかは教えられないが、どう読むかは教えられる」で始まる読書指南書である。対象は中高生であろうか。一言いうたびに比喩を引いて分りやすく説明している。これから読書を志す少年少女にとって、やさしい道案内人である。著者自身は「乱読」の楽しみは人生の一部となっているという。この本はじつは古い本で、1962年光文社から発刊されてベストセラーになった。そして30年後岩波同時代ライブラリー版「読書術」が1993年に発刊された。そして2000年に岩波現代文庫版「読書術」の発刊となった。読書の楽しみは何十年経っても、社会情勢が変わっても、人の頭がそう変わっていないようなので、いまも本書に書かれている事は妥当である。

加藤周一氏の名は殆どの読書子はご存知だと思う。「常に広い視野に立ち、世界的な観点から論評する文明批評家、知の巨人」といわれている。斉藤茂吉を初めとして東京大学医学部卒で文学者・批評家は多い。加藤周一氏は生涯「リベラル左派」を貫いた知識人として、政治学者丸山真男氏と双璧をなしている。日本の「百科全書派」加藤周一氏の略歴を紹介する。1919年東京渋谷生まれ。旧制府立一中(現在の都立日比谷高校)、旧制第一高等学校を経て1943年に東京帝国大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文学に関する評論、小説を執筆。新定型詩運動を進める。終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として被爆の実態調査のために広島に赴き原爆の被害を実際に見聞している。1951年からは医学留学生としてフランスに渡り、パリ大学などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後にマルクス主義的唯物史観の立場から「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。1958年に医者を廃し、以後評論家として独立した。1959年〜60年のいわゆる安保闘争において、改定反対の立場から積極的に発言した。1960年秋、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に招聘され日本の古典の講義をおこなった。これは1975年に、『日本文学史序説』としてまとめられている。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けた。『雑種文化』・『読書術』・『羊の歌』等の著書がある。また、平凡社の『大百科事典』の林達夫のあとをついで『大百科事典』をもとにした『世界大百科事典』の編集長をつとめた。2008年89歳で逝去。

ペシミスト・ショーペンハウエルは「読書について」岩波文庫において、「読書に関しての心がけは、読まずに済ませば一番いいことだ。膨大な新刊書の寿命は1年である。不朽の名作といわれる天才の作品だけを熟読すべきである。駄書を排して原書(翻訳でもよい)を読むべきである。真の文学とは永遠に持続する文学である。 重要な書物はいかなるものでも続けて2回読むべきである。作品は著者の精神のエッセンスである。何度も読むことで、ひとつの作品を違った照明のなかで味わうことが出来るのである。精神の清涼剤としてギリシャ・ローマの古典の読書に優るものはない。政治史では半世紀は重要な意味を持つが、文学史は半世紀が意味のある時間とはみなされないこともある。たえず振り出しに戻る周転円であるからだ。人間の精神構造は太古の昔からそれほど変わっていないことになる。見かけ上同じことをぐるぐる廻っているだけの事かもしれない。」といいいながら、読書の弊害を「読書は精神に他人の思想をおしつけることであるが、自ら思索する精神は自らの関心と衝動によって動く。読書は思索の代用品で、読書は他人に思索してもらうことである。」といい、読書よりも思索の方が重要だという。当然であろうが、しかし頭の中が空っぽでは思索も出来ない。松岡正剛著 「知の編集工学」は読書と思索を二元対立的に考えるのではなく、「材料を仕込むことが読書とすれば、思索は加工と編集力かも知れない。」といって、両者には創造も模倣もない編集状態があるだけだという。

テレビや映画を見るには何も必要がない。ただテレビの前や、映画館の座席に坐ればいい。ところが本を読むには机の前に坐るだけでは何も進まない。読もうとする気力や意志や目的がなければならないのである。テレビ・映画は受動的であるなら読書は能動的である。どちらも人生の楽しみであり、楽しみは多い方がいい。静かな環境で誰にも邪魔されずにその本の世界に浸れる、それが読書の醍醐味であり、また本を読む時の姿勢は自分一番楽な姿勢でいいのです。宗教では「座禅」、儒教には「端座書見」、礼儀には「正座」という言葉があるが、そんなことは読書の楽しみを奪うに過ぎない。著者は少年時より病弱であったため、何時も寝て本を読む習慣がついているので、一番リラックスできる姿勢は寝て読むことであるそうだ。本を読むには机・椅子はいらない、書き仕事をする時には資料をおくために机が必要になるという。図書館や研究所は環境が整えられているので、本を読むための施設である。ところが本はどこでも読めるのである。芥川龍之介は英国紳士がいつも傘をステッキ代わりに持ち歩くように、本を片手に持ち歩いたという。また旅は本を持ってゆく人も多い。旅に出かけるのと本を開くのは、未知の世界に踏み出すのと同じことである。片道1時間あまりの通勤電車の中で著者はラテン語文法の勉強を志し、1年間欠かさず本を読んでマスターしたらしい。通勤電車というのは、退屈で容易に読めない本を読むには格好の場所だそうだ。普通学生は通学電車の中で、英単語のカードを暗記したり、歴史年表を暗記した経験があるだろう。何のために読書をするのかというと、正しい意味では知識を得るのが目的である。必要に迫られて読む、ぼんやりした目的意識で読む、退屈しのぎに読む、色々な読み方はあっても、読む人に新しい世界、見方を教えてくれるのである。

1) おそく読む「精読術」

本を読み方とは速読のことだと思う人が多いが、急ぐことだけが人生ではない。図書館に出かけて館内を展望すれば、一生かけてもどうにもならないくらい書物の数は天文学的である。なら自分の興味の狭い範囲内で、深く、広く味わうことにしかずという気になる。「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉があるが、いいと思えば繰り返し読むことが基本である。おそく読む対象は週刊誌や新聞・新書の類を指すのではなく、「古典を読め」ということである。日本人のものの考え方の根本を知るには、まず徳川時代に確立した朱子学(宗学)の儒教の聖典「論語」を読むことであり、日本及び中国思想を知る上で欠かせない。日本では「忠孝」の書というが、春秋戦国時代に出来た論語のにはもともと「忠」は存在しない。日本で言えば応仁から戦国時代の覇権を争う時の忠という思想はないのと同じである。利害関係、土地所有欲がメカニズムのすべてであった。「忠」は日本人の創作である。そして奈良時代に隆盛を迎え、鎮護国家の元になった仏教、そしてようやく日本文化の開花となった平安貴族文学(和歌や源氏など)が古典である。西洋ではキリスト教の「新約聖書」であり、ギリシャ思想である。「ヘブライイズムとヘレニズム」の理解なくして西洋人の考えは分らない。では何のために古典を読むのかというと、自分の発見のためである。自分の経験と照らし合わせながら、ゆっくりと繰り返して読むという古典の読み方があるはずだ。現代世界を知るためには、アダムスミスの「国富論」、マルクスの「資本論」が欠かせない。古典をじっくり読むことは、色々な現代の本を読む上の拠点となり辞書となる。そして本を早く読むためにも、一冊の本をゆっくり読んで精通しておくことが必要になります。

2) はやく読む「速読術」

今日の世界の特徴は、専門化した知識の集積が恐ろしく早いことです。世の中一般の事を知る高校生の時代を卒業すると、突然狭い範囲に閉じ込められ、そこを追いかけるだけで人生は終わりそうです。懐かしい言葉に「全人教育」というのは、今の世界では到底出来ない相談です。理科系の大学教育は4年では全く不十分で6年間の勉強が求められています。そのためにも早読みが必要になってきます。受験勉強や秀才教育や官僚養成教育や、司法試験などでは如何に要領よく多くの書物を勉強するかのテクニックを身につけているが決め手です。速読術というのはいかにもアメリカ的な言い方ですが、方法論をマニュアル化するのが得意なアメリカ人は、目の動きに注目した。眼球の視野を広くし、スピードを上げる練習法まであるそうだ。目の動きだけでは意味が取れませんが、意味を早く読み取るには、関連した術語を多く知っておくことが先決です。重要な術語を拾い読みするだけで、書かれた内容を知る事ができる。そして、目次を読み、序論と結論を注意深く読んでおおよその内容を掴み、中間の各章を駆け足で通り抜けるか、特別に興味を抱いた章を読むだけで、書評を書くことは出来るのだそうです。幸い日本語の文章は、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの文字の視覚的効果で意味が取り易い構造になっている。また日本語論文は著者の立場で、保守系か左翼系かで使う言葉が決まっているので、その字面を追うだけで定型的な文章は瞬時に理解できる。経済学や政治、文学などは何冊かの本を同時並行に読む方がいい。片寄った意見に長時間縛られるよりは、ある程度距離を置いて数人の意見を眺める程度の読み方も必要である。これは芝居の見方にも通じることで、劇的な対立、構成は共通したことが多いため、材料こそ違え、落ちは同じということが多い。テレビのサスペンスドラマ、恋愛ドラマなどいくつ見ても同じような話である。本当に出来るかどうかは分らないが、杉浦明平氏は「一日一冊主義」を唱え、1ヶ月1万ページを読んだという。松岡正剛氏はアラビアンナイトのように、自分のホームページで「千夜千冊」というとてつもない書評を完工した。私にはただうらやましいと思うだけで、できる話ではない。話言葉で聞かれた「源氏物語」や、琵琶伴奏付きで語られた「平家物語」などは、今やそのスピードで読むこと自体が不可能なほど、当時性、当事者性がなくなったのである。

3) 本を読まない「読書術」

「汗牛充棟」というほど、本を貯め込む人はいるだろう。それは蔵書家であって多読家とはいわない。これを「つんどく、積読」という。つまり読む本と読まない本の選択とは表裏の関係にある。一冊の本を熟読する人の方が、乱読する人よりも理解が深く知性のレベルが高いようである。誰にでも青春の愛読した作家がいるはずである。芥川龍之介であったり、森鴎外、夏目漱石であったり、1人の作家に集約する。そして長い間1人の作家に付き合っていると、人生の一部となって一時代を一緒に生きたという気持ちになるのである。そして何かを二項対立的に悩むのではなく、イデオロギー問題を笑い飛ばすくらいの喜劇を読むことが、安心立命というか精神衛生的に人生には絶対必要であろう。モリエールの喜劇や井上やすしの喜劇は面白い。とにかく目的をはっきりさせて、その目的のために特定の本を選び、他の本は一切無視するというのが「本を読まない法」の根本だそうだ。そのため自らは読まない本の内容程度は知っておくために、ダイジェストや書評が役に立つ。書評はイギリスで発達したもので、評価と批評の両面を必ず含むものである。いまではウイキペディアで調べることが流行っているが、特に両論並立されている書評として十分役に立つ。ただ受け売りは軽薄でいけない。抄録は専門学術分野毎に定期的に発行されていたり、CDロムになって供給されるので、あるテーマで何が行われているかを即調査する上で利用できる。読書の代用になるものとして、優れた友人から聞く耳学問は特に重要である。そのためにも自分からも供給できるほどになっていなければいけない。よく知らなくても、知った振りをして相手からうまく話を聞きだすテクニックとしての「知的スノビズム(俗物根性)」はあった方がいいのではないか。知らないといってしまえば、そこで座は白けてお開きとなるのだから。

4) 外国の本を読む「解読術」

自分の専門外の外国の本は読むのに時間がかかる。それは単語を知らないからである。同じバイオ系でも理学系の人は医学系の論文を読むには必要な単語をかなり覚えなければならない。著者は医学部を卒業しているので必要に迫られてドイツ語はマスターしたが、フランス語はフランスに住んでから覚えたという。日本で教える外国語の教科書は内容があまりにつまらないものが多いようである。どうしても読みたい内容が無ければ、外国の本は読めるものではない。語学的には文学書のほうが、大部分の専門書よりはるかに難しいそうだ。19世紀のイギリスの小説の難しさは、工学書の比ではない。外国語の新聞や雑誌は易しいほうだ。しかし文学書、なかんずく詩の翻訳は全く困難である。翻訳で訳せるのは意味だけです。著者は娯楽、教養のための読書は日本の著書ですませばいいし、有名な小説には立派な翻訳書があるので、翻訳書で読めばいいとする。思想の仕方でもある言葉は単なる記号の変換ではないので、下手に外国の原書を手にする必要はない。本は難しいことより易しいことの方がベターである。明晰であればいい。

5) 新聞・雑誌を読む「看破術」

自然科学の研究者は専門雑誌だけを読んで仕事をしている。教科書的書籍は研究の過程を追跡することはできず、それは万人の財産であって研究のスタート点ではない。科学的研究には「古典」がないわけではないが、そんな物を参考にする人は「科学史」・「科学哲学」の分野だけである。社会科学者の場合は少し事情が異なり、一方で必要な若干の古典を参照しながら、他方で絶えず専門雑誌を読んでいる。哲学者や文学者は雑誌よりは古典に傾いている。雑誌は研究成果を発表するところで、研究対象は古典にある。なぜ哲学や文学が万人の共通の財産とならないのかといえば、それは個性的な部分、作者の個人的な経験に密接に結びついているからです。別の個性を持つ人には財産とならないのである。デカルトの「我考える、ゆえに我在り」というのは、他人と違うことを考えるのが自分というものであるといえる。古典を読むということは、その時代や文化や個性との対峙を意味する。文学は進歩するかといえば、少なくとも数万年の脳の進化がなければ、同じ問題の永遠の堂々巡りということも出来る。違う個性を見るだけのことかもしれない。古典を読むことが多ければ新刊書や新聞雑誌から遠くなり、永井荷風は「文学者は文芸雑誌は読んではならぬ」といったほどです。芭蕉の句は「不易と流行」を兼ねねばならないといわれる。古典に通じる物を不易というなら、新味・創造に近いものを流行という意味である。二つを外してはならないというのも真実でしょう。古典や専門雑誌を読む人は少数派で、今の世の中の人は活字を読むということは新聞雑誌を読むということに等しい。

新聞の特徴は、「事実」を選択して報じること、見出しをつけて目を集めること、今日あったことを報じて記憶は持たないことであるといわれる。「事実」についてはは各新聞社で違う扱いをするので、立場の違う数社の新聞を見ないと誤ったことを信じてしまう。見出しは書く人の立場でもたれる印象が異なってくるので要注意。新聞の論調が何時しか変わっていることは新聞の編集方針が変化したことである。新聞社の報道の真実性はいつも問題になるが、上杉隆著 「ジャーナリズム崩壊」 に次のようなルールがある。ニューヨークタイムズ紙での記事の評価には「アフガニスタンルール」と云うものがある。つまりアフガニスタン戦争のような遠方で起きた事件を報じた記事は取材は簡単で、誰も簡単には検証できないので好きなように煽動的に書くことができ、想像を交えて思い切った言及ができ人気を得やすいが、社内では評価されない。むしろニューヨーク市の地方記事ほど検証が容易で、ウソはかけないし当事者が多いので記事内容は細部まで緻密である。又反論も受けやすいのでしだいにレベルが向上する。このような記事に賞を与えるべきだと云うルールである。つまり真実を見抜くには、最もよく知っている事柄についての記事を注意深く読むことである。日本の月刊雑誌、週刊誌、婦人雑誌は世界に誇るユニークな存在で、こんな便利で役に立つツールを利用しない手はない。ただ真実はどこにあるかは利用する自分の責任である。

6) むずかしい本を読む「読破術」

絵画や音楽は厳密な意味で分る必要はない。見る方・聞く方の好みで判断すればいい。しかし本を読むというということは、分らなければ無意味である。理解の出来ない本は一切読まないほうがよい。時間の無駄である。なぜ分らないのかは読む人の頭のせいにされるが、そうではない場合がある。第1に文章そのものがへたということがある。源氏物語は悪文だという考えが根強くあり、普通の人が読んでもまず理解不能であろう。学者のつけた注解と解説がなければ読み続けること自体難しい。この物語は本来宮廷で顔見知りの人が局に集まって噂話をしているので、陰語やはばかり語が多くて、わざと主語が分らないようにしてある。だから源氏物語が分らないのはあなたの頭のせいではない。第2に書いている本人さえ分っていないことがある。特に哲学の翻訳書に多い。また昔の学生運動のアジテーション文章に多かった。さらに書き手の陰謀なのか曖昧な表現に徹した官僚作文は、掴んだと思ったらするっと言い逃れをされるので慎重にならざるを得ない。特にかっこよくカタカナ英語を使って、多義性をモットーとして、ばら色のいいことを想起させるが、文章の本音は別のところにある。つまり英語言葉を定義しないで使うのだから、実は掴まえようがないのである。そういった悪質な文章は別にしても、哲学用語には本当に苦労させられる。言語明瞭にして意味不明なのだ。本を読んでわかるには読者の側にも努力が必要です。文章を正確に理解するには、まず単語の意味を正確に理解することです。そして曖昧な言葉をなくしてゆかなければいけません。「民主主義」という言葉にも「ピンからキリまで」の意味が歴史的に異なっている。民主主義で人を殺してもいいということも出来るのである。言葉の意味の歴史的変遷は国語辞典では調べられないので、百科事典を利用するのが適している。

読書生活での積み重ねはまず言葉を自分のものにしてゆくことから始まる。言葉の意味は現物を見て、そこに立って始めてわかることがある。経験は言葉の感性をブラッシュアップするのである。なぜこの印象の後に、この感想が出るのかは、その著者の経験の質の問題である。小林秀雄の文章は難しいといわれ、国語の受験問題によく採用され、落とし問題といわれてきた。一ひねり二ひねりをした根性の悪い策略かと思われるのだが、これは小林秀雄の感性の問題である。マキャベリの「君主論」もいまや理解が困難と成っている。それには具体的なイタリアルネッサンス期の権力闘争の経験と哲学を理解しなければならない。誰にとってもやさしい本というものはない。しかし私にとって必要な本は難しくては役に立たない。私にとって必要な本は易しくなくてはいけない。難しいところがあれば、具体的問題を想定し当てはめて、比喩的に理解することも必要だ。必要な本を読むには最初の50ページを丁寧に読み、言葉の意味を正確に把握し著者の論理を理解できたら、後は流れるように進むというのが私の教訓となっている。


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