文藝散歩 

加藤周一著 「日本文学史序説」上下 
ちくま学芸文庫


日本人固有の土着的世界観をさぐる日本文化思想史概論

加藤周一氏の名は殆どの読書子はご存知だと思う。本書のカバー裏には「常に広い視野に立ち、世界的な観点から論評する文明批評家、知の巨人」と紹介されている。斉藤茂吉を初めとして東京大学医学部卒の医者で文学者・批評家は多い。加藤周一氏は生涯「リベラル左派」を貫いた知識人として、政治学者丸山真男氏と双璧をなしている。私はこのページで丸山真男・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」 岩波新書を紹介したことがある。昨年2008年に加藤周一氏は89歳の天寿を全うされたのを機会に、私は氏の代表作である「日本文学史序説」を読んだ。この書は「序説」というからには「本説」があるのかな思いきや、それ自体が1100ページ(ちくま学芸文庫)に及ぶ大書であり、「概説」といった方がいいまとまりをなしている。デカルト「方法論序説」を意識した題名かもしれない。「本説」を書くのは次世代の人々かもしれない。「日本文学史序説」は1973年から1978年まで「朝日ジャーナル」に連載され、1980年に筑摩書房から刊行された。本書は1999年ちくま学芸文庫本として発行された。本書の扱う時代は死んだ人まで(棺をして人の評価は定まる)であるので、概ね第2次世界大戦前で終る。本書の目的は「日本の土着世界観が外部からの思想的挑戦に対して各時代に反応してきた系列を、文学を通じて確かめた」ものである。加藤周一氏はさしずめ日本の「百科全書派(エンサイクロペディア)」というべきか。論文に総論と各論があるとすれば、本書はまさに総論であろう。日本文化思想史を総覧する本である。

日本という国はダーウインの「進化論」におけるガラパゴス諸島に相当し、進化から取り残されて、昔の適応形態を墨守する文化現象といえる。古代ユダヤや近代ポーランドのように強国の軍隊の通過する地域ではなく、東海の離れ島に隔離され、第2次世界大戦までは他国に占領されたこともなかった。第2次世界大戦後アメリカ軍が占領し、日本人の体格・身長が飛躍的に増大した。未来の人から見ると戦後日本人はアメリカ人との混血が進んで雑種化したと思われるほどである。日本の歴史上他国の侵略の危機は5回あった。第1回目は飛鳥時代の「白村江の戦争」で唐・新羅連合軍に破れた時、第2回目は鎌倉時代のモンゴル(元)の来寇、第3回目は戦国時代の大航海時代を反映した欧州キリスト教来日の時、第4回目は幕末の黒船来航による欧州列強の通商条約の時、第5回目は太平洋戦争に敗れて本当にアメリカに占領された時であった。第4回までの危機では日本が東海の孤島に位置することによって、列強の遠征ロジスティック(兵站)能力不足で辛うじて占領を免れた。これに気がつかずに変に自信をつけたガラパゴス島のイグアナ(日本の天皇制軍部・官僚独裁政権)は日本の取り残された進化形態を日本独自の国体とかん違いし世界戦争に乗り出した結果が、自身の兵站能力不足と資源・生産能力不足で壊滅した。これが日本の世界史である。そして第2次世界大戦後には日本の国体は世界最高の理想的憲法をもち、いまだに原始的な精神構造と悪戦苦闘してのである。日本人の思想史を論じた本に、吉本隆明・梅原猛・中沢真一鼎談 「日本人は思想したか」 新潮文庫があるが、結論は「体系的な思想は日本人からは出なかったが、歌や宗教などに縄文的な日本人の思想の流れがある」ということであった。この「縄文的な日本人の思想」というのが、加藤氏がいう「日本人固有の土着的世界観」に近い考えであろう。本居宣長がいう「めめしい」という特徴に尽きるようだ。

日本の「百科全書派」加藤周一氏の略歴を紹介する。1919年東京渋谷生まれ。旧制府立一中(現在の都立日比谷高校)、旧制第一高等学校を経て1943年に東京帝国大学医学部卒業。学生時代から文学に関心を寄せ在学中に中村真一郎・福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文学に関する評論、小説を執筆。新定型詩運動を進める。終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として被爆の実態調査のために広島に赴き原爆の被害を実際に見聞している。1947年、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『近代文学』の同人となる。1951年からは医学留学生としてフランスに渡り、パリ大学などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後にマルクス主義的唯物史観の立場から「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。1958年に医業を廃し、以後評論家として独立した。1959年〜60年のいわゆる安保闘争において、改定反対の立場から積極的に発言した。1960年秋、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に招聘され日本の古典の講義をおこなった。これは1975年に、『日本文学史序説』としてまとめられている。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けた。『雑種文化』・『読書術』・『羊の歌』等の著書がある。また、平凡社の『大百科事典』の林達夫のあとをついで『大百科事典』をもとにした『世界大百科事典』の編集長をつとめ、その「富岡鉄斎」「日本」「日本文学」「林達夫」「批評」の項目を執筆した。2008年89歳で逝去。

本書は長いので、答えを途中で見失わないように結論から述べよう。思想的に見れば、「日常的現実に超越する存在や価値観を認めない世界観が土着思想の特徴である。言語と世界観の特徴は、時代の思想を思弁的な体系にまとめることよりは、個々の特殊な場合に応じて文学的に表現する。つまり主語を必要としない文学である。仏教・儒教・西洋科学の外来思想流入において、むしろ土着思想の世界観の持続と、その外来思想の日本化によって対処するという特徴を持つ」。そしてその日本化の方向は、「抽象的・理論的な面の切捨て、包括的体系の解体(彼岸的体系の此岸的再解釈)、実際的特殊領域への還元、超越的一元的原理の排除(排他性の緩和)」であった。何でもかんでも実に無原則的に便利な方向へ混合する代表が、神仏混淆であり、さらに儒・仏・道の三教一致である。阿弥陀もアマテラスも孔老も自分の現世的利益になれば皆同じでいいといういい加減な無思想である。その方向を決定したのが藤原家天皇制ではないだろうか。思想はなくあるのは「血の利益」のみであった。

次に文学の特徴を見て行こう。
第1の特徴は、抽象的な思弁哲学は育たなかったが、具体的な文学作品のなかで日本文化は展開してきた。鎌倉仏教哲学と江戸時代の儒教だけが例外として、日本の文化は抽象的・体系的・合理的な秩序追求よりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊場面に即した言語が特徴であった。日本文化は音楽的様式や哲学的思弁はまったく不得意であるが、仏教彫刻や絵巻物といった造形美術に才能が発揮された。すなわち日本文化の中心は文学と美術があった。西欧や中国の体系的学問を解体して実践的用途に還元するのが「日本化」の本質である。
第2の特徴は、発展の型に持続性があり、新旧が交代するのではなく古いものに新しいものが盛り込まれる形で発展してきた事だ。日本語による文体と叙情詩の世界では短歌が綿々と今日まで続いてきた。古い文学形式や言語といえば紀元前3000年ごろのシュメル神話やラテン語のギリシャ文学などいくらでもあるが、今は途絶えてしまっている。日本文学は5,6世紀以来の歴史的一貫性が著しい。
第3の特徴は、日本語の表現が中国の漢字を基に作られて以来、ずっと日本語の文学と中国の詩文が並行して存在したことである。漢字の造語能力はすばらしい。外来文明の翻訳で世界を日本化してきた技術は世界的にも珍しい能力である。日本語には具体的特殊的に成立する文脈・言語に頼るところがあり、主語の存在しない言語といわれる。そして言葉は状況から語られる。主語ー動詞ー形容詞ー名詞の順番が西欧や中国語とは逆になる。部分を繋いでいって文をなす事に専念し、主語が誰だったのかは当事者にしか分らない。「源氏物語」がその典型である。寄せ集め文学である「今昔物語」などは、ストーリーや全体構造などは殆ど気にかけないのである。
第4の特徴は、文学を担う階層(貴族・僧、武士、町民)が狭い事、都会(中央)中心であること、文化を担う集団が小さく閉鎖的である事(藤原氏、五山、文壇)である。平安時代の文学は藤原氏の独占物であったし、室町時代まで文学の担い手は平安貴族と僧であり、江戸時代には武士階級となり、明治以降は都市中産階級と地方地主階級であった。総じて地方の文化が貧弱であったことは、生産様式と富の蓄積が不十分であった事の反映である。都がすべてを吸い取っていたのである。集団内でしか通じない感覚はすぐに月並みな表現に堕落し形式化した。ようやく徳川時代中頃から社会階層が分化したといえど、江戸文学の対象は遊里に限られていた。
第5の特徴は、多くの外来思想の浸透によって上に述べた日本文学の本質は大きな変更を受けなかった事である。仏教、儒学、キリスト教、マルクス主義などは「日本化」によって無害なものに変質された。政治学者丸山真男氏はこれを「執拗な通奏低音」といった。日本化の執拗な繰り返しで政治機構が根本的な変更を受けないのである。「古い皮袋に新しい酒を入れる」ことで、日本文化は伝統を守ってきた。そのことを可能にした根本的な理由は、日本が東海の孤島で外国の武力占領を受けなかった事である。このことはアメリカ軍の占領を経た今日でも、政治的に二重構造を保っている事に現れている。これを日本化というか、暫定的妥協というかは分らない。今後世界の距離は狭くなるのでいつまで可能かは分らない。

1)万葉集の時代: 7世紀ー8世紀 飛鳥から奈良時代

日本文学の歴史は,7,8世紀に始まる。この時代は朝鮮三国の動乱に巻き込まれた日本が白村江の敗戦で唐・新羅連合軍に敗れて撤退し、朝鮮経営から手を引いた時代で、また遣隋使・遣唐使を送って中国王朝に蛮国として朝貢を余儀なくされていた。歴史の教科書では遣唐使は先進知識である仏教や律令制を学ぶために学生が派遣されたということであるが、これは歴史の歪曲で実はまごうかたなくこれは正使を定期的に派遣さする宗主国への貢物外交である。現在でもアメリカの大統領が代わったり、日本の首相が代わると必ず日本の首相が訪米して(その逆はない)大統領に挨拶するのと同じで、なにか手土産が必要なのである。天皇による中央集権国家への移行は、6世紀末推古朝における聖徳太子の権威政治、645年大化の改新による支配機構の整備、672年壬申の乱を経て奈良時代701年の大宝律令による中国式中央集権官僚制度の確立と繋がる時期であった。律令制を支配理念とするべく、「17条の憲法」が定めらた。日本書紀は聖徳太子の作とするが十分な証拠はない。内容の全体は官僚の心得の如きものであり、忠と二君なしとする儒教的考え、和を尊重する事、仏教を重んじる事ヶ述べられている。天皇制権力の確立と共同体の和を強調してやまぬ精神である。統一国家の成立は平城京(奈良時代)の建設と国史の編纂で始まった。712年「古事記」、720年「日本書紀」を完成させた。古事記は日本語式変体漢文で、日本書紀は正式漢文で書かれた。中国王朝からの要求による正式な史書が日本書紀で、古事記はその試作品であろうが、文学的には古事記の方が圧倒的に面白い。史書の目的は王権の正統性を明示する事であった。出雲系と大和系や越、備などの古代部族の歴史を強引に取捨選択して天皇家に支配が集約するようにつじつまを合わせたに過ぎない。古事記と日本書紀の政治的内容については省略する。ただ古事記の最も美しく感動的な部分は殆ど恋の話しやヤマトタケル命の秘話にある。記紀や風土記(常陸国、播磨国、出雲国だけが残っている)に謳われた「古代歌謡」は男女の恋愛の歌が殆どである。形式的には不定形ながら、5音と7音の句を作ることである。中国と違って日本の歌謡には「長歌」の伝統はない。万葉集に僅かに見られる程度である。日本文化の中で永遠なるものは「短歌」の形式である。

万葉集の成立は8世紀後半で、歌の制作は7世紀後半からの100年に集中している。編纂者は不明であるが大伴家持らが中心であったらしい。歌の分類は「雑歌」、「相聞」、「晩歌」にわかれるが、柿本人麻呂の公式な求めによる歌を除いて、圧倒的多数は個人的な抒情歌である。高市黒人、山部赤人の叙景歌、額田王や坂上郎女ら女流詩人の「相聞歌」、山上億良と大伴旅人だけは中国的な政治的な歌を詠み、大伴家持は既に詩人の悲しみを歌った。大衆の歌といわれる「防人」の歌には政治的使命を歌ったものは数少なく、恋人や家族への愛を歌っている。日本の土着思想は決して自然ではなく、まして政治的態度でもなく、何よりも先ずであった。それ以来日本文学の主題は男女関係に始まり、自然に及んだのである。また万葉集に仏教の影響は見られない。民間信仰は現世快楽主義である。あの世には関心はなく。この世の男女関係でその中心は寝る事ばかりである。そして向かう先は当然繊細な感覚の世界で、平安時代の「もののあわれ」は直ぐそこにあった。このような土着世界観による外来文化の日本化とは、内容の細分化と手段の洗練という必然的な方向を目指す事になった。

2)第1の転換期: 9世紀の日本化  平安時代初期

794年平安遷都から10世紀初めまでの10年間は、大陸文化の「日本化」の時期である。その日本化の結果は、その後の日本文化に決定的な意味を持ったのである。日本文化の抜き難い通奏低音が決定された。日本語の発音が9世紀において固まった。そして万葉真名に代わって、「かな」の体系が発明された。この時代の特徴は、政治的には律令制が変質され、中央集権制の官僚機構も不十分のまま、藤原家と天皇家の血の混血がすすんで分離不可能になって、天皇の権威と藤原家の実質的な権力の二重構造という日本固有の伝統が典型的に作り出されたということである。班田授受という律令制(最初からどこまで有効であったかも不透明だが)は庄園性という土地私有制に移行した。仏教思想界では、二大宗派、天台宗(比叡山、最澄)と真言宗(高野山・東寺・神護寺、空海)という密教万能時代がうまれた。天台宗の特徴は総合性にあって密教・禅・浄土教を含み、後代には神仏習合さえやってのけるという融通無碍な思想である。真言宗は三蜜の加持祈祷の魔術を発揮した。雨乞い・病気治癒・国家鎮護という農業土木・医術・軍事まで包括した。これを宗教というのか、はたまた政敵まで呪い殺してくれる統治技術というのか別れるところだ。藤原氏という平安貴族支配一族の絶対的支持を得た。唐滅亡後の中国の混乱期に乗じて、894年遣唐使は廃止され、事実上の鎖国状態になって日本化が一層促進される時代となった。9世紀の社会的な特徴は、政治経済支配者(天皇家と藤原家)と、文化創造者という知識人層が分離したことである。知識人官僚の代表が紀貫之、菅原道真である。平安朝の美的価値は「古今集」によって確立し、以後室町時代までの600年間の勅撰和歌集を支配した。

弘法大師空海は830年「十往心論」を著わして、外道や仏教各派の要点をまとめて仏道修行の十段階を秩序付けた。また漢詩の要点をまとめた「文鏡秘府論」を著し、空海は異なる思想体系に一つの秩序を与えようとした精神(批評精神)の日本最初の出現となった。空海の哲学思想は彼岸性の徹底、土着世界観の克服にあり、仏教の日本化の一つの対立点となった。薬師寺の僧景戒の作った「日本霊異記」には因果応報の不思議な話しを集めてた説話集である。仏教的因果応報と話しのストーリーの面白さが妙にアンバランスな小話集であっる。作者には現世の細部に関する興味が中心であったとしか思えない。「地獄の沙汰も饗応次第」という。このように日本霊異記の世界は、仏教の日本化というよりも、土着思想が仏教を解体し、装飾的効果に還元しようとする世界である。仏教は空海の「十往心論」と「日本霊異記」の間にあって揺れていたようだ。9世紀の初め日本で最初の勅撰の漢詩集「凌雲集」、「文華秀麗集」、「経国集」が編まれた。日本人の漢詩の習熟は菅原道真、嵯峨天皇、空海にいたってようやく心を表現できるようになった。知識人官僚を代表するのはこの菅原道真と紀貫之である。漢心を代表する菅原道真に対して、紀貫之は和の心を代表してかな書きの「土左日記」を作った。貫之は身辺雑事にしか興味はなく、いわば私事の随筆をかなで書いたというところに画期性がある。かな書き小説は「竹取物語」、「伊勢物語」に展開した。「竹取物語」は民間伝承を起承転結のはっきりした物語に纏め、「伊勢物語」は日本初のドンファン小説の歌物語となった。転換期として9世紀文学は和歌に美意識の典型が見られる。選者は紀貫之・壬生忠岑・紀友則・凡河内躬恒になる「古今集」は、かな表記による序を持ち、万葉集と違って短歌のみからなる。古今集の詠み手は下級貴族知識人と僧侶と宮廷の女であった。美意識が集約されているので古今集の世界は全く閉鎖的で宮廷貴族社会に限定された。古今集が万葉集と似ているところは、徹底して世俗的で恋という男女関係しか興味がないようだ。そして仏教的な彼岸への関心は全く感じられない。古今集における美意識の洗練は「日本的季節感」の確立にはじまり、風景の「歌枕」は日本の歌の集中的傾向となった。ただ万葉集に現れた「寝る」という露骨な男女関係表現はなくなり、「思う」、「夢」において結実した。古今集の特徴は「夢見る恋人」となった。このような感覚の洗練と時の流れに対する敏感さ、その上に築かれた繊細な美学は貴族社会の深層に達し、これが300年の平安摂関時代の文化の主軸になった。

3)「源氏物語」と「今昔物語」の時代: 10世紀ー12世紀 平安王朝時代

輸入された中国文化が9世紀からはじまり300年間続いた鎖国政策によって、日本化されて日本型の文化が、政治・経済・言語・文藝と美的価値の領域に渡って成立した。帰属支配層が外来文化と土着の風俗を融合して作った、自己内整合性の著しい自己完結的な文化体系を平安朝文化(王朝文化)と呼ぶ。時代の政治権力は、10・11世紀には「摂関政治」、11世紀末から12世紀には「院政」で特徴付けられる。「摂関政治」では天皇(幼少)権力と藤原氏の権力独占であったが、「院政」では上皇と武士・反藤原勢力の権力奪取の時代となった。「摂関政治」権力も「院政」権力も「荘園」に依拠していた。天皇家・藤原家の権力独占は少なくとも200年の安定期を享受した。平安文化はきわめて小さな貴族社会(殿上人数十人を藤原家が独占)によって担われており、その中の文化集団(これまたほとんどが藤原氏)への組み込まれ方が支配的であった。平安仏教の著しい特徴の一つは「加持祈祷」であった。仏教と陰陽師(道教由来)の呪術的側面が土着的世界観の上に成り立っていた。11世紀末に現れた「神仏習合」思想は大陸仏教と土着的神々の野合である。そして平安仏教の特徴である「浄土教思想」でさえ、阿弥陀の絶対性を説くものではなく、現世の絶対権力をあの世まで持って行きたい藤原貴族の願いであった。彼岸の浄土が此岸に降りてきたという無節操ぶりである(宇治平等院)。天台浄土教の源信が編んだ「往生要集」は「厭離穢土・欣求浄土」の念仏中心主義を説き、阿弥陀称名主義は12世紀末の法然に受け継がれた。一方民間信仰者は教団外で活動し、空也は一種のシャーマン的呪術であった。仏教が平安時代の大衆を変えたのではなく、大衆が念仏や地蔵信仰を通じて平安仏教を彼ら流に改造したのである。

王朝文化の特徴は伝統の固定と文学活動の制度化へ流れ、その傾向は和歌の分野で一層著しい。勅撰集の編纂は905年の「古今集」に始まり、「後撰集」、「拾遺集」、「後拾遺集」、「金葉集」、「詞華集」、そして1189年の「千載集」にいたる。古今集以降の様式上、内容の上でも全く進展はなく「墨守」することが芸であるかのようだ。(それは今の歌舞伎など伝統芸能の特徴でもあるが) 女流詩人(和泉式部、赤染衛門、伊勢ら)の情熱の表現力は評価されるが、平安王朝文化は独創性を評価したのではなく、伝統的な型を評価した。漢詩文は9世紀には日本人知的階層の分野として確立していたが、道真に匹敵する人材は現れなかった。藤原明衡は11世紀中頃「本朝文粋」に10世紀の作文を編集した。圧倒的に日本人に読まれた漢詩は「和漢朗詠集」によれば「白氏文集」であるが、日本の漢詩にはついに中国の伝統である社会的な「憂国」の詩は書かれず、季題による漢詩の和歌化と社会的逃避と私生活の崇高化であった。

平安王朝知識人の作り出した散文は「源氏物語」の前には、10世紀後半の「落窪物語」と「うつほ物語」に代表される。伝統墨守の和歌とは対照的に、物語文学は実に独創性を発揮した。「落窪物語」は勧善懲悪・一夫一妻制の道徳を説くかのような継母の継子いじめ物語である。家族の日常を描いて、西欧の近代小説に匹敵する文学が日本の10世紀に成立していた。小説の構成も緻密で「竹取物語」と並ぶ。「うつほ物語」は「源氏物語」の3/5に相当する長編小説である。血縁を絶対視する貴族社会と琴音楽の讃美を描いて、関連性の濃密でない4つの話から成る。「うつほ物語」には「源氏物語」以上の和歌が含まれ、「伊勢物語」の伝統を踏まえている。こうして「うつほ物語」は長編小説の形式、閉鎖的な宮廷社会という舞台、芸術理想主義と人物の理想化を「源氏物語」のために準備した。女流作者による日記文学が輩出したのもこの時代である。「かげろう日記」(藤原道綱の母)、「枕草子」(清少納言)、「紫式部日記」(紫式部)、「更級日記」(菅原孝標の娘)、「あじゃり母集」、「讃岐典侍日記」などであるが、これら女房文学の作者の本名は知られていない。女房文学は宮廷社会という外界と切り離された支配集団に埋没し、庶民の生き方の諸様相や権力からも隔離された女性の日常身辺観察である。和歌、物語、日記を描いた女性らの思想背景は浄土教にあった。特に紫式部には浄土教を媒介とした環境の相対化があり、周囲の人間から知的距離があった。

11世紀初め紫式部によってつくられた「源氏物語」は54帖から成る長編小説である。光源氏とその息子葵の君を主人公とする宮廷社会を描いている。宮廷内のスキャンダル、光源氏の女性遍歴、芸術論を書いている。美的感情の理想化これに尽きるものはない。宮廷内部の閉鎖集団のことであるから、あからさまに主語は述べない文章で第三者には分りにくい。加持祈祷と彼岸救済の浄土信仰が背景になっており、主人公の遍歴した女性の殆どが出家し、光源氏も死の前には出家した。すべての人間が生きることの喜怒哀楽と時間の1回性のはかなさを描いて小説の神髄とした。源氏物語以降の宮廷文学が藤原摂関家の栄華を記した「大鏡」、「栄華物語」という歴史物語と、宮廷恋愛物語の「とりかえばや物語」、「狭衣物語」、「夜の寝覚」、「浜松中納言物語」、「堤中納言物語」が残っている。 「今昔物語」は宮廷以外の地方豪族や,武士や農民の生活を描いた。12世紀前半に成立したといわれる「今昔物語」はインド・シナ・日本の三部1000篇の小話を含む。本書の目的は大衆に向かって僧が説教するための説話集として編纂された。今昔物語の仏教は天台・真言をふまえ阿弥陀如来の浄土信仰が加わった。浄土教を説くにしてはあまりにも現世利益型の話が多い。獣が化けた仏にさえ験すという合理精神は庶民のものである。源氏物語の性が倒錯的へ向かったのに対して、今昔物語の性描写は直接的である。

4)第2の転換期: 13世紀鎌倉幕府の時代 鎌倉仏教と王朝貴族文化の最後

12世紀の「院政」は天皇家と藤原摂関家との権力ヘゲモニー争いであるが、保元・平治の乱をへて実質的な権力を握ったのは武士の頭領平清盛であった。つまり藤原摂関家に代わって平家が摂関家になったのだ。荘園という基盤を共通にもつ武士と貴族の権力争奪戦であった。次に武士同士の源平の乱をへて1192年に源頼朝が鎌倉幕府をつくった。守護・地頭を平家領に設置する権利を獲得して軍事・徴税・警察権を獲得した武士階級の前に、平安貴族政権の時代は終った。しかしながら源頼朝は自身の権威「征夷大将軍」を得るため宮廷と妥協を図り、京都と鎌倉の二重政権が並存する事になり、この制度は源氏が三代で亡ぶと、北条執権家は都から幼少の征夷大将軍を頂き実権を握った。鎌倉幕府の中でも二重構造が生まれた。形式的な権威(天皇、征夷大将軍)と実質的な権力(摂政、院、執権)の組み合わせによる支配という日本政治伝統の二重構造が継承されたのである。天皇家は鎌倉時代を通じて、武士指導者間の不和を利用して失地回復を願うという政策が一貫していた。1221年の「承久の乱」は失敗し、後醍醐天皇は1331年元弘の乱で失敗して貴族階級の権力奪取能力はなくなっていたことは明白であった。結局北条家鎌倉幕府は関東の御家人新田義貞によって滅ぼされ、足利尊氏が後醍醐天皇親政の「建武の中興」を滅ぼして室町幕府を起こした。そして南北朝時代の混乱期に宮廷貴族階級は政治はいうに及ばず、文化・文学の主人公の地位から引き摺り下ろされた。貴族支配体制の崩壊は不安感の「末法」思想に代表され、現世の救済をあきらめ仏教の彼岸的・超越的な点が、土着の此岸的・現世主義を凌いだ。ここに室町時代までの中世的文化の諸様相が顕著になる。それは大衆に広まった浄土真宗や権力者のための日蓮・禅宗の鎌倉仏教の勃興であり、また追憶と逃避に生きる貴族文化の没落であり、武士・大衆世界の表現の拡大である「平家物語」であった。

13世紀に浄土教と禅宗がにわかに興った。浄土教の画期的な発展は12世紀の法然には始まる。易行とされる念仏称名を専らにして(専修念仏)、阿弥陀の絶対性による他力救済を目指すもので、修行による自力救済を目指す天台・真言では大衆は救われないとした。信仰の対象である阿弥陀の超越性と、信仰の内面化(専修念仏)がはっきりあらわれた。親鸞の考えは専修念仏から「信心」へ発展した。ようやく現世利益の土着宗教から脱皮し、絶対者の救済を求める宗教になったといえる。16世紀の西欧の宗教改革が社会的変革へのイデオロギーを用意したのとは違い、親鸞の宗教は武士や庶民の社会改革イデオロギーには向かわなかった。遊行の一遍上人も大衆に向かって「踊念仏」を始めたが、これは大衆のエネルギーを吸い上げるというよりは刹那主義に向かっていった。この辺が日本の中世宗教改革の特徴だろうか。日蓮宗は教義上は天台宗の法華経であって、宗教改革というよりは日蓮個人の強烈な闘争本能がなす「宗教国家」の樹立を目指したものだ。当然鎌倉幕府の権力と衝突した。禅宗は栄西が12世紀に伝えた天台教学の禅定に属して、これも宗教改革ではない。禅修行による「鎮護国家」を説くもので最初から幕府権力者である武士階級のためのイデオロギーであった。道元の「曹洞宗」は座禅行を強調し、永平寺を開いて「正法眼蔵随聞記」という優れた散文を著わした知識人であった。

鎌倉幕府に実権を奪われた京都の貴族階級は政治的に巻き返しを図ろうとした努力は既にその力がないことが明白になり、幕府に取り入って自身の宮廷内の昇進を図る人もいたが(藤原兼実や定家ら)、依然文化の担い手は貴族階級にあった。1201年後鳥羽天皇の命で「和歌所」が作られ、藤原定家らが「新古今集」の編集にあたった。定家は父俊成の「古来風体抄」をふまえて、歌合・題詠・歌論の定式化をすすめ、文学的価値の意識化に努めた。「幽玄」、「有心」などという言葉で表現される美的価値の主張と、「本歌取り」にみる歌論の伝統主義という工夫である。1205年「新古今和歌集」が六人の選者によって編纂され1978首の和歌をあつめた。新古今の特徴は「詠み人知らず」の歌がなく収録されたのは同時代の専門家歌人の歌ばかりである。歌の制度化と専門家の時代となった。また女性歌人が1/3を占めた。古典を踏まえて、掛け言葉(今でいう駄洒落)を駆使して、複雑な内容を凝縮するのが新古今流であり定家流であった。現場を見ないで作るのが普通であった。浄土教は風俗にとりれられているが、法然や親鸞の思想には程遠い。貴族階級は絶対者の浄土教をいまだに理解していなかったようだ。定家とならんで多く採用されている西行の歌は殆どが月並みの主題により、旅に出ても自然を見て詠んだものではない。旅で重要なのは「歌枕」である。歌枕を詠むためにそこにいったに過ぎない。鎌倉三代将軍実朝の歌は「ますらおぶり」ともてはやされことが多いが、武家気質は何も感じられない。北面の武士西行と同様に貴族文化への全面降伏を見るだけである。平資盛との恋愛生活の追憶に生きるほかなかった「建礼門院右京太夫集」はまさに黄昏の貴族階級の歌集である。鴨長明の「方丈記」は慶滋保胤の「池亭記」を下敷きとした随筆で逃避者文学の典型である。貴族に憧れてもそこに入れてもらえなかった神主の息子が、第三者の目で貴族の風俗、天災地変、都の住居および歌壇に対する鋭い観察が生彩を放つ。体制の崩壊が貴族知識人にもたらした危機意識と歴史意識は慈円の「愚管抄」に良く現れている。歴史的事実がなぜこうなったのかに対して「道理」を求める姿勢が面白い。とんでもない超自然的力(妖怪変化、怨霊、鬼)に道理を求めたりおかしな点はいっぱいあるが、とにかく歴史叙述にある秩序を考える姿勢は評価できるのではないか。13世紀の貴族文化は、定家は和歌の伝統を墨守し、建礼門院右京太夫は失われた時を追憶し、鴨長明は退いて観察し、慈円ははじめて道理で歴史を整理した。これが平安朝文化最後の知識人たちの新時代に対する対応であった。鎌倉時代に成立したといわれる「平家物語」は僧侶や王朝知識人によって書かれたが、王朝文学と決定的に異なるのはまさにその受け取り手が宮廷外の人々であったことだ。物語序文は「祇園精舎の鐘の音」ではじまる浄土教的立場であるが、これは貴族的趣味や価値の典型である。価値体系の保守性に対して登場人物の行動の多彩さと漢字混じり文(和漢混淆体)の名調子は次の時代の幕開けを告げるものであった。聴衆がそのような血沸き肉おどる活動的な話を要求したに違いない。そしてちょっぴりはかなさと無常のスパイスを織り込んで。世俗的説話集は「今昔物語」の流れをくんで、橘成季の「古今著聞集」と大円国師無住の「沙石集」は、武士下人百姓の世界を小話にして、滑稽味も出して下世話な話集である。

5)能と狂言の時代: 14世紀 室町時代

1333年鎌倉幕府は関東御家人間の闘争で崩壊し、その隙をぬって2年間建武の中興という後醍醐天皇親政期があったが、足利尊氏が室町幕府を開いて朝廷は南北朝に分裂した。自領で力を養った御家人は地方に根をはやし、室町幕府時代の14世紀後半から16世紀前半まで「封建制」と呼ぶにふさわしい社会体制が確立した。ここに貴族文化は名実ともに衰微した。貴族階級の崩壊に際して貴族の歴史意識が高まって、北畠親房の「神皇正統記」、「増鏡」、度会神道、吉田神道など神道デマゴーグが輩出した。凡そ神道なるものには理論も何もなくごちゃ混ぜの粗雑なスローガンに過ぎない。神道の定義が難しいのは中心の理論がないためである。一方武士階級の闘争は絶えることがなく、14世紀前半の南北朝の闘争、15世紀後半の応仁の乱、百姓の国一揆、浄土真宗の「一向一揆」、16世紀後半から戦国時代へ突入し、ようやく全国統一の中央政権樹立の機運となった。封建時代から近世への社会動乱期が室町時代である。この時代の文化の著しい特徴は,鎌倉時代の禅宗が武士階級に支持されて世俗化したことで、茶・水墨画・庭園・漢詩等の五山・十刹(東山)文化が花開いた事、経済に繁栄による余裕が生まれて芸術の専門家が成立した事である。

中国の元時代は鎌倉の禅宗保護政策によって圧迫された禅僧が日本に亡命した。14世紀に盛んになった日宋貿易の時代には日本から100人近い禅僧が中国に留学した。室町幕府は禅宗の五山十刹制度を定め、無窓疎石に天竜寺を創建させた。禅宗は権力と癒着することによって、制度化され世俗化していった。禅宗美術は、寺院建築と造園に始まって、「頂相」(高僧の肖像画)や水墨画を生んだ。さらに「五山文学」では漢詩文の隆盛をみた。最初は水墨画の「讃」の流行があり、宗教的な「偈」、「漢詩」が作られた。詩には同性愛の詩文が発達した。禅宗では「茶道」という総合芸術が興った。茶室、書画、生け花、陶芸、美的生活と会話という芸術で、紹鴎、珠光らが「侘び茶」を完成し、16世紀後半の利休の「小座敷の茶」、「露地茶」へ受け継がれた。宗教的な禅の、政治化と美学化を内容とする世俗化は、日本人の意識の此岸性・世俗性以外の何物でもなかった。武士階級や世俗化禅僧の集団から疎外された知識人の文学として、まず吉田兼好の「徒然草」がある。意識の流れるままにあらゆる対象を綴った時間の文学である。他方、世俗化禅僧を攻撃し続けた一休宗純の「狂雲集」という漢詩文はまさに奇書である。社会階層と身分の上下を越えて大流行した「連歌」はこれも無限に続く時間の文学であった。連歌は短歌の上の句と下の句を受けついで行く言葉遊びである(しりとり連想ゲーム)。14世紀中頃に宮廷貴族側には二条良基・救済法師の編んだ「莵玖波集」があるが、題材も言葉も「古今集」以来の勅撰和歌集に範を求め花鳥風月と恋の宮廷貴族文化から一歩も出るものではなかった。15世紀末には宗祇法師を中心に「新選莵玖波集」が編まれた。前集から140年もたっているのに内容は「莵玖波集」に全く同じである。連歌は始めも終りもない時間の連続で、全体構造もなくあるのは部分だけと云う日本人の伝統的な土着世界像の繰り返しである。連歌の大衆化は16世紀始め山崎宗鑑によって「犬筑波集」に結実した。これを「俳諧連歌」と詠んだ。和歌のパロディーが多く、性的表現も露骨で滑稽を旨とした。大衆の歌集として「小歌」がうまれ、16世紀初めに「閑吟集」が編まれた。恋の抒情歌が中心でいかにも日本的伝統に則っていた。知識人向けに南北朝時代の歴史書として「太平記」が書かれた。南朝讃美から始まって足利幕府の賛美に終わるというなんととも無節操な史書であるが、歴史書としてはお粗末でも、武士階級の飽くなき戦い、離合集散と裏切りを描いて筆は冴えている。主義主張のない人間像の相克を描いている点が日本的である。大衆向きの小説として江戸時代まで続く「御伽草子」や「曽我物語」、「義経記」が語り物として愛好された。聞き手は大衆である。

日本独創的演劇は14、5世紀に完成した「申楽」といい、歌舞を中心とする「能」と会話を中心とする「狂言」である。申楽は平安時代からの「舞楽」、「散楽」が土着の歌舞を吸収した「田楽」を継承する。神社と結びついた申楽と田楽は大衆の見世物となっていった。そして日本人は初めて感情生活と世界観の表現手段としての演劇を獲得したようだ。申楽を時代の頂点まで洗練させたのは、貴族や武士からでた知識人ではなく、大衆から出た(河原乞食と蔑まされた)芸能家であった。申楽の保護者は足利将軍を含む武士階級と寺社で、将軍と大衆が同じ場所で楽しむ演劇はきわめて珍しい画期的な出来事である。14世紀中頃から15世紀中頃に観阿弥とその子世阿弥が出て能の美的価値を「花」、「幽玄」となずけた。世阿弥の理論書「風姿花伝」は「秘すれば花」という美学を完成させた。いっぽう狂言の世界こそ、「今昔物語」以来の土着世界の表現に成功した。美学の違う能と狂言がいつも同時に演じられるという此の不思議さが室町時代の芸術であろう。

6)第3の転換期: 16世紀中ー17世紀中 徳川時代武士文化の確立

この時代は日本に初めて西洋文化が伝えられ、日本に中央集権の全国統一政権が成立した時代である。1534年ポルトガル人が鉄砲を伝え、イエズス会がキリスト教を伝導し始めた。ポルトガル、スペイン、英国、オランダとの貿易が始まり、日本も東南アジアとの交易を盛んに行ったが(南蛮貿易)、西欧の野心を見抜いた徳川幕府は1635年には「鎖国令」を出した。13世紀以来御家人の分国(封建制)で成り立っていた武士政権は、この時代に覇権を目指して全国統一の機運となった。これは農業生産力と貿易による経済力がついてきたことを背景として、織田信長の軍事独裁政権が全国制覇を目指し、豊臣秀吉、徳川家康に受け継がれ、1603年に成立した徳川政権は中央政府の統制力を強化した。全国石高の1/3を占める直轄領と常備軍(旗本)8万騎で圧倒的優位に立つ徳川武士団は「幕藩体制」を敷いた。幕府機能の中央集権化と官僚化だけでなく、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」による身分制度の固定化と、「宗門改め」、「檀家制度」による宗教界の行政下への組み込みによる支配機構の安定化に成功した。室町時代の大衆文化は徳川時代の武士支配層と大衆の文化の二重構造に変容した。西洋がもたらした軍事技術と対外貿易とキリスト教は桃山文化として豪華絢爛たる賑わいを見せて日本はこのまま近代化に向かうかと見えたが、17世紀前半の徳川幕府の諸政策によって消え去り、儒教を中心とした封建身分社会が出現した。かくして徳川時代は支配層と大衆の文化が分裂しはじめ、価値意識や行動において表と裏の二重構造が絡むことになった。

徳川時代初期の知識人と文化の特徴は、室町時代からの禅寺で発達した宋学(儒学)である。徳川時代の知識人の大部分は儒者であった。徳川三代(家康・秀忠・家光)で徳川の基礎が固まったのであるが、その政治顧問として枢機に参画したのが、禅僧金地院崇伝と天台僧天海僧正である。崇伝は外交顧問として対外政策と寺院対策にあたり、天海僧正は宗教面の世俗化と密教と神道の融合「本地垂迹理論」を推進した。政治顧問ではないが幕府内の儒学の普及に尽くしたのが、藤原惺窩と林羅山であった。林羅山は将軍の学問係りで、宋学を唱えたことから17,18世紀に儒教が武士階級で流行し、その世界観が江戸時代の思想界の枠組みとなった。宋学は万物の根源を説く「形而上学」と五倫・五常をとく「倫理学」から成り立っていた。羅山は家康に取り入った曲学阿諛の徒と非難される場合が多い。武士階級の精神的イデオローグとなったのが禅僧沢庵と宮本武蔵の「五輪の書」である。禅の境地と剣の極意の相似を説いた沢庵の「不動智」が有名である。大衆に向かって生活道徳を説いたのが武士から禅僧となった鈴木正三である。いっぽう武士から詩人に逃避した石川丈山は京都北白川詩仙堂で余生を詩と庭に遊んだ。

17世紀前半に起こった造形美術は、日本を代表する真に独創的な仕事をした。建築では城郭建築の様式を生み出し、露地茶室は日本人の美意識を極度に洗練したのである。修学院離宮(後水尾上皇)と桂離宮(八条宮智仁親王)の造園は、建物さえも造園の一部として取り込んで回遊式庭園の美の極致を作った。絵画では大和絵の伝統は琳派に結実し、俵屋宗達、尾形光琳らの天才的画家を生んだ。茶道の陶器には古田織部の独創的な造形、武家の御用絵師狩野探幽らの障壁画・襖絵など豪華で装飾的な絵画、水墨画の傑作「松林図」を描いた長谷川等伯などの天才が傑出して日本人の芸術的創造力が花開いた時代であった。美術の世俗化が徹底したのもこの時代の特徴である。宗教的題目から全く世俗的な目的に奉仕して美術と宗教の分離は確定的となった。これは宗教が行政の末端と化し、すでにイデオロギーとして無力化したのに他ならない。本阿弥光悦は書・陶芸・漆芸の複合芸術家として京都鷹が峯に光悦村を作って、職人集団による工芸という総合芸術に活躍した。

7)元禄文化: 17世紀末 江戸文化開花時代

16世紀末から17世紀初頭に、安定した徳川幕府治世下に上方と江戸の都会で栄えた文化を元禄文化と呼ぶ。その特徴は学芸の多くの分野で独創的(日本的)な工夫が相次いで現れたことである。宋学(朱子学、儒教)の実証的文献学方法論を確立した荻生徂徠、博学で知性的な政策決定者新井白石、浄瑠璃の独特な舞台形式を完成した近松門左衛門、連歌の発句から叙情詩の俳句を独立させた松尾芭蕉、町人世界の色、金の世界を正確に描写した世界初のリアリズム文学創始者井原西鶴、琳派という装飾的絵画に独創的なフォルムをつくった尾形光琳らが輩出した。その多くが武家の出身で、元禄文化は正確な意味で町人文化ではなかったが、しかし眼は町人に向いていた。武士の価値体系と町人の価値体系が二重構造で並行していた時代であった。(表と裏、建前と本音、義理と人情)

「孔孟の教え」という古代儒教は宋学(朱子学)において形而上学的な理論化を整えた。「理気」説は宇宙の根源的な力について、鬼神によらない合理的(?)体系的世界観を持とうとした。今から見れば、古代ギリシャの哲学にははるかに及ばない屁理屈に過ぎないが、宗教から離脱する意味において価値が認められる。宋学のもう一面は政治倫理的な孔子の教えである。徳川幕府の支配イデオロギーとして役に立つので、儒教は大いに奨励された。朱子学が日本において定着したのは、形而上学的な部分を切り捨て(日本人は形而上的思考は全く不得意で、20世紀後半までついに哲学という学問は日本には根付かなかった。)、むしろ宋学の周辺の自然学や倫理学、政治経済学という日常生活に必要な部分だけが取り入れられる「日本化」に他ならなかった。元禄時代の前に熊沢蕃山、山鹿素行、山崎闇斎らが宋学を勉強したが、形而上学的な概念は全く把握されていらず、心の問題に矮小化し、ついに神道と混合する有様であった。元禄時代になって、貝原益軒が出て博物学「大和本草」、衛生学「養生訓」に見るべきものが現れた。しかし彼が求めたのは体系的思考ではなく、網羅的知識(博物学)であり、日常的経験の尊重、折衷主義、中庸主義の傾向が如実である。伊藤仁斎は何事も孔孟の原典に立ち返り批判するという態度で、倫理の面を強調して宋学を非形而上化した。将軍綱吉の側用人柳澤吉保の儒家であった荻生徂徠は宋学の文献を和訳せず中国語読みによって理解するという独特の文献学的方法を確立した点がユニークである。支配階級の政治的倫理を歴史的に重視する「君子論」を持って将軍吉宗に仕えた。

新井白石は将軍家宣、家継の2代の実質的政策立案者であった。彼は儒学者ではなく、幅広い人文地理学に精通した実務家として、合理主義と事実を尊重する精神においてその時代の卓越した政治家であった。また江戸時代随一の日本語による明晰な散文家であった。白石はその公的活動において、「生類憐みの令」の廃止、年貢過重訴訟において農民側にたったこと、朝鮮使節接待の簡素化、通貨純度向上改革、長崎貿易制限による金銀保護策、イタリア宣教師不法上陸事件の尋問を行ったが、合理的な判断、広い国際的視野は一流であった。自伝「折りたく柴の記」、世界地理書「采覧異言」、シドッチ尋問記「西洋紀聞」、日本地理書「蝦夷志」、古代史「古史通」、武家の歴史書「読史余論」は実証的であり、徳川時代の列候年代記「藩翰譜」は客観的記録で日本語散文文学の傑作である。一方、武士道を代表する山本常朝の「葉隠」は偉大な時代錯誤の記念碑であった。一度も刀を持って戦闘したことのない人が、思いを戦国時代に投影して作り上げた「死の崇高化」というばかばかしい妄想の限りである。

町人世界において死でもってしか実現できない「愛の死」を描いた、人形浄瑠璃脚本家近松門左衛門は「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺膏地獄」、「冥土の飛脚」という世話物で浄瑠璃の舞台芸術の極致を作り上げた。近松は独特の美文修辞法で道行きの情景を謳いあげ、観客の涙を誘ったという。この七五調修辞法は連歌の技法の流で理解できる。時代物では「国姓爺合戦」で町民の喝采を受けた。
連歌の西山宗因の「談林風」の言葉遊びは「矢数俳諧」という遊戯を生んだが、松尾芭蕉は連歌の発句を独立させて抒情的表現の俳諧を確立した。「新古今和歌集」の「芸術のための芸術」を継承して、芭蕉は「風雅の道」を作り上げたのだ。芭蕉は現世と一切の関係を持たず、自己疎外を芸術家の運命と理解した。芭蕉は小旅行の紀行文「更科紀行」、「甲子紀行」、「奥の細道」などを残したが、芭蕉が旅行家であったことはない。芭蕉が行った場所は歌枕の名所旧跡に限られており、恋や人情を読むことは苦手であったので、やはり新古今和歌集の伝統のなかに自然を見ることが芭蕉の本質であったといえる。短歌から俳諧という新しい歌の形式を生んだことが芭蕉の最大の功績である。芭蕉が主催した俳句連歌は「冬の旅」、「廣野」、「猿蓑・、「炭俵」、「続猿蓑」などである。
井原西鶴は町民の生活を色と金の2面から描いた最初の小説作家であった。色物では「好色一代男」、「好色五人女」、「男色大鑑」、金物では「日本永代蔵」、「世間胸算用」、雑小説には「西鶴諸国話」、「武道伝来記」、「武家義理物語」などである。好色シリーズはドンファン、恋愛事件を描き、金物では経済史的に見て大変面白い内容を含んでいる。金融資本の原則は今でも成立している。

8)町人の時代: 18世紀 注目すべき思想家たちと実証的国学

18世紀になって進んだのは学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し、地方でも藩校を新設し18世紀前半に40校、後半に80校に及んだ。藩校は武士の子弟の教育が目的で、教育内容も殖産興業の実用的なものになりつつあった。寺子屋の初等教育に続いて私塾や官立校の一部開放によって、武家・僧侶中心の教育から町人の教育が実現する機運が出来た。この時代を通じて社会的な困窮や不満は農民大衆の「一揆」・「打ち壊し」・「強訴」となって爆発したが、18世紀だけで70件を数えた。そのいずれもが武家体制の変革を求めたものではなく、その体制を前提として政策の変更を求めたものであった。社会的不安は「おかげ詣り」という狂乱的な現象を生んで、数百万人の人間が伊勢参宮に出かけたという。この大衆のエネルギーは正しく誘導されれば社会変革に繋がりうるものであったが、そうはならず鬱積したエネルギーの爆発は今でも不思議な社会現象として語られる。民衆の思想開明は鎖国という安定した武家支配下では、閉じ込められたまま開花しなかった。八代将軍吉宗は1720年キリスト教を除く洋書輸入の禁を解いた。入ってきたのは中国語訳のオランダの学問であった。18世紀後半に影響した西洋は技術的知識で、西欧思想の影響はは19世紀を待たざるを得なかった。18世紀前半の武士知識人のタイプは、体制イデオログーの儒者、医者などの知的技術者、書画文藝に通じた文人、僧・神官と町人に分けられる。18世紀になって始めて成立した「文人」の代表は、18世紀前半では柳沢淇園がいる。当人の生活の楽しみのための趣味人で、あらゆる芸術を動員する態度は人生の芸術化に向かっていた。池大雅は文人画の名手であった。18世紀後半の文人の代表は木村蒹葭堂も多芸の文人であった。その周辺に司馬江漢、蜀山人らがいた。農民出身の文人には与謝野蕪村がいた。文人社会の定義は難しいが、美的に洗練しようとする共通の価値観を持ち、一種の美的享楽主義をその原理とした。これも都会の余剰生産物に寄生できる余裕がしからしめたものであろう。彼らは権力機構からはみ出してはいたが、権力機構の十分近くに位置していた。文人は大衆から遠く離れていたが大衆の生活と無縁ではなかった。

18世紀前半の思想家には富永仲基、安藤昌益、石田梅岩が上げられる。夭折の思想家富永仲基は、儒教・仏教・神道のすべてに独自の理論を持って激しい批判を加え、徳川幕府の支配イデオロギーに挑戦した。彼は特定の考えを絶対視せず、思想体系の流れを歴史的発展の流れと理解して、思想の展開に内在する法則、言語の時代的な変遷(思想理解の手段)と国民文化の癖(社会的文化的条件)を説明した。思想展開に内在する法則とは「加上の理論」といい、その時代の思想は必ず前の思想の足らない点や否定という面を持って現れるという思想の相対化理論である。そういう意味では荻生徂徠は孔孟の「先王の道」を絶対化して、それ以降の諸説を相対化したものであった。富永仲基は絶対的な価値や真理という物を認めない、日本初めての客観的な思想家であった。言語論では「言に人有り、世有り、類有り」といって、言語の多義性、歴史性の構造を考慮した。「国民文化の癖」とは比較文化論である。「仏教の癖は幻術、儒教の癖は文辞、神道の癖は神秘すなわち隠すことである」と断罪した。本居宣長が日本文化を「めめしくあわれ」といったのと同じ切れ味である。富永仲基は夭折したので他の学者への影響は殆どなかったが、本居宣長は彼の方法論を評価し、明治時代に内藤湖南が彼を再発見した。
安藤昌益は八戸の町医者であった。自然主義を目指すユートピアを夢見た「自然新営道」を著わして、徳川身分制社会に根本的な批判を加えた点が独創的である。安藤は一人、儒・仏・記紀を排して独自の自然哲学を主張し、人為的な社会制度を廃して自然のままに生きることを理想とした。安藤昌益の方法は演繹的(体系的)に世界の構造を説明することであったが、彼が得たと称する結論のほとんどは今から見ると独りよがりの間違いだらけであった。「気」の問題という朱子学の形而上学を運用して妙な体系を組み立てたが、彼の主張は世界の予定調和と農業による自活(無階級農本主義)であった。
京の商人であった石田梅岩は町人のための儒教的倫理を説いて「心学」の創始者となった。彼の説く町人像は一に倹約、二に稼業精進、三に忠孝という「心」を知る事である。「なにを以って商人ばかりを賤しめるぞや」という動機に基づいた思想は、士農工商の身分制に大きな疑問を呈することができた。しかし資本主義のイデオロギーにはならなかったし、儒教による徳川幕府の身分制固定を破壊するには至らなかった。

近松門左衛門以降の人形浄瑠璃は大阪を中心として18世紀の前半に栄えた。浄瑠璃作家の合作が流行し、題目の筋の展開よりエピソードの細部に凝った面白い演目が町人に愛された。「時代物」として「菅原伝授手習鑑」、「義経千本桜」、「仮名手本中心蔵」などが喝采を受けた。町民の娯楽は井原西鶴の成功の後、単純化と月並みの通俗小説が流行した。江島其磧、上田秋成、平賀源内、山東京伝らの色とかねの伝統に怪談ものが好まれた。
1720年八代将軍吉宗の洋書輸入の解禁によって長崎から蘭学が始まった。文人と技術者の二つの顔を持つ平賀源内は、静電気発生装置をつくり鉱山開発に励んだが失敗して、ひとから山師と呼ばれた挫折の心労を文人として川柳・狂歌、通俗小説、西洋画に気を紛らわせたが、結局人々に新たな価値観を提供できなかった。医者として蘭学を紹介したのが杉田玄白と前沢良沢の翻訳本「解体新書」である。オランダの科学を驚きをもって杉田玄白は「蘭学事始」に書き残した。自然と人間を包括する総合的な体系への関心が僅かながらも出始めたのがこの時代である。三浦梅園は自然哲学者で生涯「玄語」という著作に打ち込んだ。「天地の条理」と呼んだ宇宙の根源的な原則を知る事を知的探求の目標とした。朱子学の「気」を自然哲学から論じたというが今では何のことやら判らない。純粋思考の哲学者が出たということが、日本では画期的なことなのであろうか。山片蟠桃は大阪の商人で蘭学を学んで実証的な知識をもとにすべての世界と文化を相対化した。地球は丸いとか太陽が中心であるとかという科学の知識を基に、世界地理を概説し西欧の植民地帝国主義をすでに知っていた。鬼神を否定し無神論に徹し、「夢の代」という晩年の大著で彼独特の唯物的世界観を著わした。

18世紀後半の最大の知識人はいうまでもなく本居宣長である。師賀茂真淵から古代言語学を学び、荻生徂徠から実証的文献学方法論を学んだ松阪の小児科医本居宣長は、儒仏の影響の深くおよんだ文化の中で、日本の土着世界観を知的に洗練して「国学」に高めた。宣長は日本の古代思想を学問的に明らかにしようとした最初の人である。彼の学問は頭から古事記の記述は事実であると云う信念に始まった。そして儒教的価値観を「おおしくさかしげなる」といい、日本古代の価値観を「めめしくはかなきこと」と定義した。宣長の思想はアンチ儒教で、自分を日本人として自覚する民族主義的傾向を持った。小林秀雄の本居宣長論は有名で、小林の直感主義も本居宣長に通じるところがある。本居宣長の業績は言語学においては「古事記伝」、「詞の玉緒」、哲学的議論においては「玉くしげ」、「玉勝間」、美学的には「源氏物語玉の小櫛」、「石上私淑言」、民族主義イデオロギーには「くす花」、政治社会問題には「秘本玉くしげ」がある。本居宣長は古代の心を「真の道」といい、人の情のありのままを尊重するところから保守主義に傾くのはやむをえない。また神話と歴史を混同し天皇制の神秘化につながり、文化の特殊性(めめしさという美的な癖)を思想の普遍性と混同したことが宣長の問題点である。この宣長の民族主義は平田篤胤の神道イデオロギーに直結した。宣長の対極にいたのが上田秋成であった。彼の強烈なナショナリズム批判は群を抜いていた。宣長は同時代の意識下の価値観を明らかにしてそのまま受け入れたが、秋成はその常識の拒否であった。秋成と宣長の論争は長く続いた。秋成の晩年の大著「胆大小心禄」は、一貫して反権威主義な態度で無慈悲で痛烈な批評精神に溢れていた。秋成の通読小説「絵月物語」、「春雨物語」は怪奇譚であり、神と狐狸が同列に論じられていた。

18世紀の後半になって歌舞伎芝居が人形浄瑠璃に替わって見世物の主流となった。歌舞伎芝居の脚本は何の脈絡もなく場面の寄せ集めで、一貫した筋も主張もなくまして思想は初めからなかった。セリフは日常的な表現のみで、西洋芝居のような普遍的な人間洞察には向かわなかった。あったのは役者の所作(見えを切る)だけである。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」はまさにエログロナンセンスの極致で血まみれの官能性を追求するものであった。
浮世絵の木版画は多色刷りの「錦絵」に発展した、喜多川歌麿の美人画と東洲斎写楽の役者絵が芸人のプロマイドのように人気を博した。このように18世紀後半の江戸の町人文化は、感覚的刺激のみを追い求めて美的に洗練したのである。社会生活の表と裏の均衡を保つのは、諧謔という知的距離感であった。川柳と狂歌はパロディーというテクニックで世の中を笑い飛ばした。

9)第4の転換期: 19世紀 幕末から明治維新 支配層の分裂と西欧文明の影響

19世紀には農産物の商品化と貨幣経済の進展により都会の格差は極端になって、社会不安と身分制の破壊が進行した。百姓一揆、都市貧困層の打ち壊し、武士階級内部の矛盾激化、欧米列強による市場開放圧力と植民地化の恐れが幕藩体制の崩壊を招いて明治天皇制官僚国家が成立した。徳川幕府を支えていた武士知識人や朱子学者の分解と政策担当能力の無力化は明白となって露呈した。水戸学は儒学を政治的イデオロギーに還元し、尊皇攘夷・富国強兵の政策課題優先問題で各派が争った。下級武士と蘭学者の中から時代を先取りする政治的人材が輩出したが、多くは維新を前に亡くなった。同じ時代の町人文化は体制内部の政治化と無縁にむしろ逃避して快楽主義に埋没していた。

宣長の弟子を自称した平田篤胤はこじつけの歴史観と寄せ集めの神道理論で、本居宣長の「国学」をイデオロギー化したがおよそ政策を具体化する力はなかった。ロシア船以来、水戸学派は政策としての「国体」に興味を持ち、藩主徳川斉彬と彰考館の儒者は急速に政治化した。会沢正志斎は「新論」第1部に「国体」を書き漠然と天皇を中心とする共同体を描いていたが、この「国体」論は明治維新の原動力にはならなかった。むしろ明治政府の官製イデオロギーとして後日に利用され、第2次大戦前の天皇制超国家主義のスローガンとなった。「新論」は攘夷の不可能性を見抜いて開港を受け入れて、軍備の西欧化という方針に転換したのは佐久間象山の「海防策」と基本的には同じスタンスであった。水戸学派がなぜテロリズムに傾いたのかは不明であるが、学無しの過激派が1860年桜田門外の変、1862年英国大使館切り込み事件、1862年坂下門の変と矢継ぎ早にテロに走ったことは、徳川幕府の衰退を早めたという副産物はあったようだ。
日本で西欧との開かれた窓口は長崎のオランダ貿易であった。蘭学は18世紀に天文・医学・暦の知識の吸収に務めていたが、19世紀には対外政策上、国際情勢と軍事技術にかんする西欧の知識を獲得することが目的となった。渡辺崋山は画家で蘭学者であった。画家としては写実的な肖像画に優れた作品を残したが、幕政に対する鋭い反権力の批評家でもあった。海防係りとして「西欧事情書」は西欧の圧倒的な力を前に幕政を痛烈に批判した。かれは蘭学者グループとして、高野長英、小関三英、川路聖謨、高島秋帆らと交友を続けたが、幕府の蘭学者への弾圧は1829年シーボルト事件、1839年「蕃社の獄」となった。高野長英,渡辺崋山は捕らえられて自殺した。
信州の朱子学者佐久間象山は1840年のアヘン戦争を期に、彼の関心の中心は幕藩体制を前提とした対外政策にあった。軍事力の強化、海防策の整備を最重要課題として、欧米列強との武力衝突を避ける現実的外交と限定された開港通商政策である。西洋流砲術の講習を通じて、坂本竜馬、勝海舟、吉田松陰と知り合った。幕府は彼の策を理解せずに、米艦隊を前に通商条約の締結となった。渡辺崋山は反権力とすれば、佐久間象山は権力の中での政策提案であったが、結局幕府の採用するところとはならず1864年暗殺された。

19世紀前半に起きた漢詩文の日本化は菅茶山から始まった。京都遊学の後、備後国(広島)の故郷の山に引っ込んだ菅茶山は「黄葉夕陽村舎詩」を著わして、故事でもなく枕詞でもない普通の田舎風景を題材とした漢詩を編んだ。詩的写生主義の創始者(正岡子規の先輩)となった。知識人が政治化する一方、彼は政治を避け、空想的主題ではなく日常的事実に即した写生を徹底することで、漢詩による日本の土着的世界の表現形式となった。また遊里を詠う詩は市河寛斎の「北里歌」、寺門静軒の散文「江戸繁盛記」に見える。漢文の日本化の代表は頼山陽である。頼山陽は間違いだらけの粗雑で問題の多い歴史書「日本外史」で英雄主義と尊王主義を書いたが、歴史書としては無能でも、文章では調子のよさで大いに青少年に受けた。
江戸時代農民の生活にふれた文学は稀である。俳人小林一茶は故郷の柏原に帰郷してからの晩年は暗い私生活であった。「父の終焉日記」はその私生活を綴って後世の私小説の先駆となった。句集には「おらが春」がある。町民文化は農民の生活と地方文化を殆ど無視していた。十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」は都会人の町民の機微を描いては写実的であったが、地方の描写は浅薄で、宿屋、茶店、遊郭の話が多い。話は独立した小話からなり、いつ止めてもいいような筋立てである。会話による滑稽な場面は狂歌の世界である。式亭三馬の「浮世風呂」、「浮世床」も統一した筋はなく、断片的な話の寄せ集めで、江戸っ子の啖呵の切り方に生彩がある。徹底して現世的で現実主義的精神が作者の鋭い観察眼と表現力で生きた町人のための滑稽本である。19世紀世の中が騒然としてきたなかで、町人の世界は没世界で、身の回りにしか関心を払わない精神が行き着くところは空想的世界への逃避であった。山東京伝の洒落本「通言総籬」は閉鎖的な遊里の「通」の世界に逃げ、為永春水の人情本「春色梅児誉美」は恋愛心理小説でドンファン小説の伝統線上にあった。滝沢馬琴の「椿説弓張月」、「南総里見八犬伝」はまさに荒唐無稽な空想小説で、小説の価値観は因果応報と勧善懲悪という陳腐な脚色であった。歌舞伎には河竹黙阿弥が泥棒を主人公とする「白波物」として「三人吉座」、「鼠小僧」、「弁天小僧」で喝采を浴びた。話の筋はばかばかしいの一言であるが、セリフの七五調の調子のよさが受けたのだろう。

広範な大衆の身分制度の束縛と武士階級の支配からの脱出は鬱積したエネルギーとなって、1830年伊勢参宮の「おかげ詣り」となった。400-500万人が参加したらしい。大衆的熱狂は要求も指導者も組織も持たなかったが、借金踏み倒しや年貢軽減となる場合もあった。1836年天保の大飢饉がおこり大規模な打ち壊し、農民一揆が頻発し、1837年大阪の同心大塩平八郎の乱が起きた。大塩の乱は全国に聞こえ幕藩体制の危機感を強めた。1867年には「ええじゃないか」の狂乱踊りが名古屋に始まった。不思議な社会現象でいまだにその原因は分らない。

1830年代生まれの群像は明治維新を青壮年として生き、鋭く政治化した。主として幕藩体制下の下級武士であった。1858年の安政の大獄は激しい政治闘争を生み出し、下級武士はテロ化した。30年代のエリートには吉田松陰、坂本竜馬、橋本佐内、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らの明治維新の政治的指導者、西周、井上毅、森有礼らの明治政府高級官僚、福沢諭吉、中江兆民、福地桜痴、成島柳北らの民間ジャーナリスト、仮名垣魯文らの芸術家がいた。明治社会を作ったのはこの世代である。吉田松陰は長州荻の下級武士で佐久間象山の門に入った。師の勧めで海外密航を企て失敗して囚われた。故郷野山の獄につながれたが、「松下村塾」を開いて多くの青年を煽動して、藩主をして天皇に攘夷を迫らせ、幕府老中の暗殺を計画して、ついに戸塚原刑場の露に消えた。その策は稚拙なほど非現実的で激情的、孤立から過激へ悲劇的な結末は尊皇攘夷の象徴的存在に化した。ただその思想には独創性はなく、行動だけが詩的であった。
明治維新後、官吏につかず民の立場から近代化(西欧化)を進めたのが福沢諭吉である。福沢諭吉は封建的身分制度に激しく反発して、人が独立するために学問と教育の西洋化に邁進した。慶応義塾という英語塾を作って民間人の近代化に一生をささげた。福沢は教育者であるとと同時に著作人であった。「西洋事情」、「学問のすすめ」、「文明論の概略」、「脱亜論」、「福翁自伝」などを福沢は誰よりも早く豊富な知識で平易に提供した。彼の西洋化は少なくとも明治政府の方針に反するものではなかった。福沢の体系では国の独立、国権の伸長、そして富国強兵は国民個人の自由独立の教育と民権の伸長を前提としたものであった。こうして福沢のなかでは個人の自由独立が優先する価値であるが、国際政治の力関係の中では国の独立が急務であるという優先順位をつけたのである。個人の文明化を望むこと切なるゆえに福沢は無知文盲の民(すなわち労働者農民)を嫌った。また西欧の植民地帝国主義政策を是認して、日本もアジアの未開国に対して西欧と同様の態度をとることを是とした。名文といわれる福沢の著作の特徴は、漢文の教養が日本語散文の文体となり、文明批評を通じて理想主義と現実主義の結合をはかったことである。
留学経験からフランスの自由民権思想を紹介し、明治政府に対する反権力立場を貫いたのが中江兆民であった。中江兆民は幕臣時代はフランス語通訳であったので、明治維新後は政府と距離をおいて新聞に論陣を張った。ルソーの「民約論」を翻訳しフランス哲学を紹介する上で漢文の教養が多いに役に立った。抽象的論議には日本語は不向きで、漢文のおかげで西欧文明の輸入が出来たといえる。この辺の事情は丸山真男・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」 (岩波新書)に詳しい。福沢は見事な口語文を書いたが、兆民は漢文の素養が深く、浄瑠璃など伝統的芸術にも関心が深い知識人であった。権力に対しては兆民の方が福沢より批判的であった。兆民の自由民権は国を超える普遍的価値観である。したがって兆民は明治社会では失敗者で彼の系譜を継いだのは幸徳秋水であろう。「三酔人経綸問答」は彼の代表的政治文学である。喉頭がんを患い1年半の余命宣告を受けて闘病生活を描いた「1年有半」で「わが日本には古より今に至るまで哲学なし、政治においては主義なく、党争においては継続なく、小利口、小巧智にして極めて常識に止める民なり」は今でも通じる言葉を残した。

官に仕えず、反権力の立場を守った江戸幕府遺臣には成島柳北、栗本鋤雲、福地桜痴らがいた。彼らは隠棲し江戸文化の遺産への郷愁が強かった。成島柳北の「柳橋新誌」は花柳界を描いて時代批判が痛烈を極めた。その江戸趣味は後世永井荷風の「墨東奇譚」に受け継がれた。江戸文化は明治維新で断続しなかった。永井荷風の説によると関東大震災で江戸はなくなったという。文人画の伝統を守った富岡鉄斎もいた。柳北においては江戸文化への郷愁と政府権力への反発が結合して、明治社会の周辺にはじき出されたというべきであろう。彼らはジャーナリズムに拠って戦い。筆禍や弾圧をうけ(讒謗律)、筆を折られたり投獄された。

明治維新前後に生まれた群像には、少年時代に漢文の素読を受け、ついで英語学校から大学へ進んだ人がいる。彼らの大部分が受けた初等教育は徳川時代以来の漢学を継承するものであった。明治維新から帝国憲法発布までの20年間は日本で広範な社会変革がなされ急速な西欧化が進んだ時期である。彼らは西欧文化との広範な接触と伝統的教養の深さ、社会全体に関する関心の深さが特徴であった。その時期の知識人を類別すると、伝統主義者として幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花らは色濃く江戸町民文化を引きずっていた。普遍的基準から伝統文化の対象化を行った人には、岡倉天心が日本美術の再評価と復興を図って日本画の院展を作った。天心には「茶の心」、「東洋の理想」という英文の名著がある。鈴木大拙は禅と日本文化の紹介を行った。柳田国男は日本社会の古層を掘り起こして「常民」の継続性を明らかにした。普遍的価値からの文芸復興は短歌では正岡子規、斉藤茂吉、伊藤左千夫らがいた。西欧文化と日本文化の対立に生きて創造力を発揮した文学者には森鴎外、夏目漱石がいた。森鴎外は「史伝」で新境地を開き西洋散文と漢文の混交文を完成させた。この文体は森鴎外で止めを刺した。夏目漱石は小説をかってない水準で完成させた。地方の裕福な階層から上京した文学者は家族と個人の関係で悩んだ。二葉亭四迷から田山花袋までの一群は「自然主義私小説」と呼ばれた。文学者以外には哲学者西田幾多郎、キリスト教徒内村鑑三、社会主義者木下尚江らの思想家もいた。
幸田露伴は幕臣の息子で、「五重塔」など職人(仏師や大工)を描いた明治初期の短編小説を著わした。晩年に「運命」という明朝の建文帝の末路を描いた歴史小説がある。「芭蕉七部集評釈」は露伴の随筆文学の精髄といわれる。露伴は徳川時代の儒教倫理を受け継いで伝統的な文化を継承した。尾崎紅葉は江戸町民の子である。「硯友社」に参加し山田美妙らと文学活動をし、「金色夜叉」という通俗小説が代表作となった。金色夜叉は徳川時代の町民の価値観をそのまま継承している。泉鏡花は金沢の彫金師の息子で、尾崎紅葉に弟子入りし、職人をあつかった作品が多い。能楽を扱った傑作「歌行燈」では江戸弁の会話が見事で、しばしば幽霊や化け物がでてくるが、日本の叙情的で絵画的な散文が見事な冴えを見せる感覚小説の頂点をなした。

日本仏教、特に禅宗と浄土真宗の伝統を明解に語ったのが、金沢の医師の息子鈴木大拙であった。著述の大半を英語で書き、禅を普遍的言語で語った。それは「日本的冷霊性」の集約的表現である。鈴木大拙の業績は、禅と日本文化の対象化、経典の文献学的研究、禅思想史研究、浄土真宗に関する研究であった。鈴木の影響を最も受けたのが親友の西田幾多郎の哲学であった。西田幾多郎は「善の研究」で純粋経験を貴び、田辺元や三木清など戦前の「京都学派」へと受け継がれた。日本民俗学の祖といわれる柳田国男は農商務省の官僚としての全国へ旅行の間に、日本民俗学の基礎を築いた。「常民」の風俗などの民俗学的資料としての価値は比類がない。一地方の包括的著作は「遠野物語」以外には少ない。中心的な課題からいつも逸脱して、個々の伝説や風俗の記述はテーマと独立した価値があった。常民の世界の構造は彼は説明していないが、日本人の死後観が身近な山にとどまるという仏教以前の考え方を示したことは画期的であった。これは彼の弟子折口信男の「死者の書」に受け継がれている。

正岡子規は松山の下級武士の子で江戸の名主の子夏目漱石と同じ年の生まれである。二人は学生のころからの親友で「ホトトギス」に俳句を交換する仲であった。二人とも病人で、子規は結核、漱石は鬱病であった。正岡子規の文学的功績は、俳句や和歌を材料にして、明治の文壇に文芸批評の形式を作ったことである。「歌詠みに与ふる書」は挑戦的で歌所を攻撃し、金塊和歌集を理想とするものであった。写生を重んじた子規の句は一茶の句に似ている。子規の歌は決して革新的でもなく、その本質は文芸批評にあった。夏目漱石の俳句は蕪村的である。坪内稔典著 「俳人漱石」(岩波新書)に漱石の俳句が紹介されている。江戸子漱石の俳句と英文学、そして晩年の漢詩は「高等遊民」の面目約如たるものがある。学者の漱石は「文学論」において、意識と情緒の間に文学を定義しようとした。出世作「吾輩は猫である」は江戸滑稽文学の延長線にあって自虐的風刺が強烈である。心理小説家としての漱石は「それから」、「門」、「行人」、「こころ」、「道草」、「明暗」などで最高の境地を開いた。漱石は日本の近代化が外部的な変化として避けがたいと感じて、そこで生きてゆくには「個人主義」に徹する他はないと確信したようである。森鴎外は帝国憲法発布以降に活躍を始め、日本の近代化の殆どすべての面において時代の人格化であった。森鴎外はドイツ官僚機構で自然科学を学んで時の権力者山県有朋を通じて権力の階段を登り、軍医として最高の地位についた。彼は学問に関する限り西洋化論者で、社会的にはドイツ法治主義者であったようだ。同時にヨーロッパ近代文学作品を「即興詩人」から「ファウスト」まで翻訳した。鴎外の文学的貢献は西洋文学の紹介と翻訳、小説的題材の多様で群を抜いていたこと、詩人らとの交際において「明星」の抒情詩を支持し、歴史小説において日本語散文の文体を完成させた。漢文と西欧文の表現を日本語口語体に仕立て上げた。この文体を超える文学はいまだに出ていない。殉死を扱った「興津弥五右衛門の遺書」や江戸時代の儒学者の伝記「渋江抽斎」などはその骨太の文章で主人公の生き方に共鳴しているようである。

西欧文明の影響という点ではキリスト教の問題は避けて通れない。明治維新のころには日本人のキリスト教徒の集団には、横浜バンド、熊本洋学校を中心とした熊本バンド、札幌農学校を中心とした札幌バンドが形成された。熊本バンドから新島襄が京都の同志社を作り、札幌バンドから内村鑑三がでて日露戦争以前の青年の計り知れない影響を与えた。アメリカ人由来のプロテスタンティズムを受け入れたのは、薩長権力に疎外された旧幕臣の人が多かった。したがってプロテスタンティズムは権力批判の立場を取った。彼らは必ずしも教義の中心に近づいたわけではなく、洗礼を受けて5年以内に棄教した人々は多い。島崎藤村、徳富蘆花、木下尚江、有島武朗らはキリスト教によって日本人の伝統的世界観を棄てなかった。しかしプロテスタンティズムをその核心において受け入れ生涯生き通した例は内村鑑三である。内村は札幌農学校でクラークにより洗礼を受け、三年間アメリカで聖書と神学を学んだ。1891年教育勅語不敬事件を起こし、内村の良心において天皇神格化拒否に及んだ。日本的伝統の中で内村の信仰と行動は画期的なことである。そして日露戦争に反対して「万朝報」に拠って、幸徳秋水や酒井利彦らと論陣を張った。内村は無教会主義や無抵抗主義で絶対平和主義に近づいた。「余はいかにしてキリスト教徒となしか」、「羅馬書の研究」は内村の信仰の内容を明らかにした傑作である。内村自身は反戦論者であったが、社会主義運動には参加しなかった。キリスト教は社会的正義の観念を明治社会にもたらし、日本で最初の社会主義政党「社会民主党」が1901年に結成された時、6名の発起人のうち5人までがキリスト教徒であった。社会民主党の結成者の一人阿部磯雄は新島襄に動かされてアメリカの神学校で学び、キリスト教社会主義の影響を受けて、貧乏を克服するには社会制度の改革が必要であると確信した。阿部に協力したキリスト教社会主義者木下尚江日露戦争に反対し幸徳秋水や酒井利彦らの反戦運動を支持したが、日露戦争後は社会活動から離れ、キリスト教も棄てて「法然と親鸞」という著書を書いて日本的なものに埋没していった。

1870年代に地方で生まれ東京の私大(早稲田)で学んだ小説家の一群を「自然主義」文学者という。島崎藤村、正宗白鳥、国木田独歩、岩野泡鳴、田山花袋、徳田秋声らはいずれも地方の没落士族の息子であった。彼らは江戸町民文化も武士階級の教養を継承するわけではなく、西欧文化に育てられた一群である。しかしキリスト教から西洋の窓口に入っただけで、ほとんどが直ぐに棄教しキリスト教の核心(原罪と唯一神による救済)の影響も受けていない。彼らはキリスト教の中に自己実現の手段を夢見たが、その夢が場違いである事を理解するのに時間はかからなかった。そして彼らが自分を所属させる事ができた集団は「文壇」であった。坪内逍遥は小説論「小説神髄」で「心の中の内幕を洩らすところなく描いて周密精到」を小説の目的とした。人物を理想化せずにあるがままに描きだそうというわけである。二葉亭四迷は口語体の小説「浮雲」で自分の人生をそのままに、そして話し言葉で誰でも書ける小説を作った。彼らの経験とは田舎の大家族の束縛から自分を解き放とうとして出来なかった大家族の生活のことであった。そして東京での文士生活の些事や人事の葛藤であった。田山花袋の「布団」は別れた女のぬくもりに涙を流す哀れな文士のことを書いた。こんな小説を読んで些事の心理が分ったとして何の役に立つというのか。19世紀フランスのゾラの説いた「自然主義」とは何の関係もなかった。ゾラは科学主義に起点を置いた社会的視野の中で、自分を書くのではなく市民社会を対象とした。日本の文人は誤って「自然主義」を翻訳しただけの事であった。例外は島崎藤村の「夜明け前」は明治維新の激動の中の人間を主人公とし、「破戒」は被差別部落の人間の運命を描いて歴史の中に捉えた壮大な叙事詩であった。正宗白鳥はキリスト教を捨てたあと文壇という集団に移った後も、棄教の理由を生涯意識した人であった。生涯聖書を座右において、ダンテの妻の猜疑心、トルストイの恐妻振りという「真相」にほとんど自虐的に固執した。人物の精神性より些細な真実が重要と見たのだ。これについては小林秀雄が「正宗白鳥論」(未完)を書いて議論している。日本人の宗教性は神か仏かという峻別をもとめるのではなく、神でも仏でもよく、無差別に救済してくれるものへの信頼感、安心を提供してくれる現世利益型宗教のことである。

初期の社会主義者やキリスト教社会主義者と違う一群の社会主義者が日本でも生まれてきた。中江兆民の流れをくむ幸徳秋水は、フランス革命の理想「自由・平等・博愛」の原則において、明治天皇制官僚国家の権力に批判的な活動家だった。日露戦争前の幸徳秋水の立場はキリスト教社会主義者と大差はなく、倫理的な規範、合法主義的な活動範囲、平和主義という立場であったが、渡米中にアメリカの社会革命党に接触して後は、議会主義を離れ無政府主義に近づいて労働者の直接行動によるしかないと確信したようだ。クロポトキンと接触していた形跡がある。1911年「大逆罪」で死刑になった。幸徳らの処刑を受けて、京都大学のマルクス主義経済学者河上肇は「日本独特の国家主義」を著わして、日本人の最大価値は国家であり天皇は国家神の具現化で、最も恐れるのは国家を破壊する者であることを明確に示した。「貧乏物語」は多くの青年に影響を与え、共産党に入党し逮捕入獄されても転向を拒み刑期満了による出獄後は引退した。この辺の事情は「自叙伝」に詳しい。この自叙伝が日本文学の傑作といわれる理由は強い人格的自己同一性と一貫した個性を備えるからである。

明治維新後の第1世代知識人は、多かれ少なかれ明治の日本と自己を同定する傾向があり、儒教的教養のうえに西洋の影響を強く受けナショナリズムの色彩を帯びていた。自然主義小説家は最初から明治官僚国家での出世の道はあきらめていた。近代化を推進する上でも批判する上でも彼らは無力で、自分の身辺的雑事に関心の領域を限られていた。例外は有島武郎や永井荷風である。彼らは親の位置からすれば十分の社会に出ることは出来たはずだが、明治社会とは距離を置いて社会への組み込まれを拒否し批判的な立場を貫き、自身の自己実現を目的として信念と原則に従って生きることに自覚的であった個人主義者であった。有島においてはキリスト教が、永井においては江戸文人の伝統が支え、外国での生活経験があったという共通点がある。有島武郎はアメリカ留学中に社会運動に近づいたが、帰国後は個人的な行動で小作人の共産農場をつくって破産させた。有島は「或る女」など多くの恋愛小説を書き、心中事件で彼は個人主義を生きたのだろうが、太宰治と同様金持ちの坊ちゃんのわがままな優雅な暮らしに過ぎない。文学的には永井荷風の方が重要である。フランスから帰ると「フランス物語」という感傷的な文章を書いた。鴎外や漱石が西欧化を批判しながらその必然を十分自覚してたのに対して、荷風は歴史と社会から身を引いて、裏通りに江戸の残影を拾うという生き方が明確であった。日中戦争中から荷風は芸妓の世界に出入りし「腕くらべ」、「墨東奇譚」など人情の機微に埋没した。日記文学で見逃せないのが「断腸亭日乗」である。

10)工業化の時代: 20世紀 大正教養時代とマルクス主義文学

日本の工業化は日清(1895)・日露戦争(1905)後に急速に進み、紡績や重工業が進展して、明治天皇制官僚国家の権力はようやく安定すると同時に、アジア大陸に対してはその侵略的性質を露にして、国内に対しては体制批判に対する弾圧政策をさらに強化した。1910年日韓併合と大逆事件が起きた。明治維新後の第1世代知識人は、多かれ少なかれ明治の日本と自己を同定する傾向があったが、1885年前後に生まれた世代は日露戦争中に青春時代をすごし、国家から離れて自分自身の問題を考えるようになった。志賀直哉、谷崎潤一郎、木下杢太郎、北原白秋らは生涯を通じて、美学や日本語の伝統に向い政治や社会的な問題に向かうことはなかった。しかし詩人で新聞記者の石川啄木は強権社会を「時代閉塞」と呼んで、同時代の青年の内訌的傾向と時代状況に対する戦闘の態度を併せて表現した。「一握の砂」、「悲しき玩具」の歌集は「テロリストの悲しき心」も理解した。後代の1900年生まれの世代(三木清、中野重治ら)に較べるとマルクス主義に近づいた者は少ない。むしろ超国家主義に同調し、軍国主義を謳歌した斉藤茂吉、武者小路実篤、高村光太郎、菊池寛などを輩出した。

感覚的な快楽主義者といわれた谷崎潤一郎は友人永井荷風と比較して、「芸術至上主義には賛成するが、自分には親の資産による欧米生活経験がなく、社会批判の精神がない」と言った。谷崎は伝統的浄瑠璃作家の流れを受け、「陰翳礼讃」、「鍵」、「蓼喰う虫」、「春琴抄」などの嗜虐的・被虐的性的刺戟を美化する小説の世界に専念した。谷崎は「源氏物語」を訳したが、ついに彼自身の源氏物語「細雪」を書いた。中流階級の瑣末主義に徹した作品はあまりに女々しく、軍国主義がないとの理由で陸軍省から発禁となった。つまり軟弱思想は戦争遂行によろしからずということだ。志賀直哉の世界は谷崎よりさらに狭い。「暗夜行路」は妻の姦通事件を扱って、何にも影響されない自律的閉鎖人間を提出したに過ぎない。自己中心主義は夏目漱石の個人主義を歪にした。鬼怒川流域の農民を描いた長塚節の「土」は、誰も描かなかった農民生活の貧困と後進性と自然との親密さに浸された詩情でもあった。1910 年代に独創的な叙情詩を「スバル」、「アララギ」に発表した木下杢太郎、北原白秋、荻原朔太郎、斉藤茂吉がいた。北原白秋は「邪宗門」において、西洋への憧れや異国趣味を江戸時代の俗謡や浄瑠璃の情緒と総合して独特の詩的世界を作った。群馬の詩人荻原朔太郎は「月に吠える」、「青猫」で口語による自由詩で自分の内面の表現に徹底した。木下杢太郎は「食後の唄」を発表したがやがて抒情詩と文壇から離れ、はるかに広い知的世界に迷い込んだ。杢太郎は皮膚科の医師であったが仏像の系譜に興味を持ち「大同石仏寺」を書いて、ヨーロッパに医学留学生活を送った。そしてキリシタンの歴史に関する研究をおこない、又雑草に興味を持って「百草図譜」を著わすなど興味は多岐にわたった。斉藤茂吉は子規や伊藤左千夫の系統である「写生」を引き継いで和歌に専念した精神科の医師であった。「赤光」、「あらたま」などを出して、故郷の山形や精神病院や旅先での自然や女の肉体を詠んだ。日本の叙情詩の伝統は恋の感情のみを詠い、人生の全体について知的・哲学的反省を含まないという点で中国の詩の伝統とは対照的であるが、茂吉においてはじめて人生の知的反省を歌の要素とした。医師で文学者の系譜は江戸時代の本居宣長から明治の文豪森鴎外、短歌の斉藤茂吉、詩人の木下杢太郎と多くの才人を輩出しているが、本書の著者加藤周一氏もそうである。人間に関する科学である医学と文学は共通する才能が必要なのかもしれない。

第1次世界大戦後日本は第2の工業化時代を迎えた。対外的には海外市場への進出であるシナとシベリア出兵は欧州列強の干渉を招いた。対内的にはソヴィエト革命の影響で労働運動が重要な社会問題になり、1925年「治安維持法」の制約の下での普通選挙法と政党内閣は一定の社会改革となっていわゆる「大正デモクラシー」時代が出現した。この世代の知識人の特徴は、マルクス主義との影響と西欧文明への強い志向が相克したことである。1922年日本共産党が非合法組織として結成され、1923年関東大地震の時無政府主義者大杉栄が暗殺された。共産党の理論的支柱は山川均の「労農派」と野呂栄太郎の「講座派」に分かれ、にわかにマルクス主義は一時代の知的関心の中心となり、当時の青年は「はしか」のようにマルクス主義の洗礼を受けたのである。プロレタリア文学運動組織が結成され機関紙「戦旗」に活躍した小林多喜二、三木清、羽仁五郎、野呂栄太郎らがいた。マルクス主義は科学的世界観歴史観を提供したが、大正デモクラシーは世界に向かって知識人の眼を開いた。西欧文化一般が知識人の自己形成の中心となった。芥川龍之介はその典型であるが、海外渡航経験はなく主として輸入書籍から世界を学んでいったのである。彼らを作ったのは丸善の輸入書籍部であった。林達男、渡辺一夫、石川淳、横光利一、南原繁、矢内原忠雄らは鋭い批判精神と独立自由主義的立場から個人主義に徹した。

マルクス主義者として誰よりも早く画期的な歴史を書いたのが27歳の野呂栄太郎であった。1927年「日本資本主義発展史」を書いた野呂は1930年共産党に入党し、1934年拷問で官憲に殺された。野呂が羽仁五郎や服部之総と著わした「日本資本主義発展史講座」はマルクス主義の中心的理論となった。彼らの歴史を書いて修辞を忘れた文章は生硬で味がないといわれた。マルクス主義は両大戦中の日本文学に題材の範囲を広げた功績がある。小林多喜二の「蟹工船」はさまざまな社会層の人物を描き、「党生活者」は私小説の系譜になるが生活内容の点で異なる次元を描いている。宮本百合子の「伸子」、「二つの庭」、「道標」の3つの長編小説は、中流階層の子女が成長して社会的問題から社会主義者に成長する過程を描いて時代の証言となった。詩人中野重治はk戸場に対する鋭い感受性を生かして課題を畳み掛ける独特の修辞法と感覚的表現に優れていた。確かにマルクス主義者の文章は粗雑で稚拙であったが、文学者を文壇の外へ引き出したという功績はある。1932年中野は逮捕されて転向を余儀なくされるが、「歌の別れ」、「村の家」という小説を書いて、軍靴喧しい世情に非協力の態度を貫いた。

大正デモクラシーの理論的指導者が吉野作造であったとするならば、文壇の代表者は芥川龍之介であった。10年間の文学活動で芥川が示した短編小説の多様性は同時代の作家のなかで群を抜いていた。彼はマルクス主義を絶えず意識して自分の立場を考え続けた近代小説家である。反軍国主義、反国家主義、自由主義的な意見は芥川の作品に一貫している。「河童」で国家主義を風刺し、「藪の中」では今昔物語のパロディを考えさせた。彼には江戸時代の文人趣味が継承しており、文藝の広範な知識と言葉にたいする微妙な感受性が持ち味になっている。ただ野生的な強さにかけているのが惜しい。芥川は西欧生活をしないで西欧を知った最初の作家であった。ヴァレリーの警句、スイフト、ニーチェ、ゴーゴリなど西欧の作品を読みつくして、さまざまな衣裳をまとったジャンルの短編小説を書いた。彼は精神病を病んで自殺するまでの経緯を書いた「歯車」、「或阿呆の一生」が遺作となった。川端康成は「雪国」、「伊豆の踊り子」であくまで少女の肉体を愛し、少女の肌を焼き物の質感に喩えた。川端は横光利一らと「新感覚派」と呼ばれ、自身の感覚的世界の鋭さは類を見ない。「雪国」は川端の最高の傑作であると同時に、その時代の小説の中でも傑作のひとつである。井伏鱒二は大衆を描いて、「遥拝隊長」では権力の言いなりではあるがお先棒を担がず戦後体制が変わっても自身の考え方は替わらないという愛すべきスタイルを描いた。、「ジョン万次郎漂流記」では農村漁村にへばりついて生きてきた人が偶然そこから出て外の世界を知る人間を描いた。「黒い雨」では原子爆弾の雨を受けた娘のその後の人生と差別を描いて、小さな人間が大きな変動に会う衝撃を描いた点では「ジョン万次郎漂流記」の流れにある。大正デモクラシー時代の通俗小説では大仏次郎の「鞍馬天狗」、「パリ燃ゆ」があった。彼の晩年の「天皇の世紀」は明治維新を多方面から客観的に眺めた歴史小説である。明治維新を王政復古と見ないで、勤皇方の正義を書くのではなく、明治の近代化計画を歴史として著わした文学作品として、これほどの規模と深さを兼ね備えるものは恐らく存在しないだろう。

明治時代の中国文学研究の中心は内藤湖南らの京都大学学派で、そこから貝塚茂樹(湯川秀樹の兄)や吉川幸次郎が出た。西洋文学の研究ではラブレー研究の最高峰を極めたのが渡辺一夫であった。渡辺は16世紀フランス思想で見たのは、エラスムスの狂信主義に対する風刺、ラブレーの戯画化する語彙の拡大、モンテーニュら「ユマニスト」たちの狂信者の不寛容に対する戦いであった。渡辺は加えるに滑稽化するのに落語や浮世床の修辞法を動員したのだ。現代日本の散文における知的ユーモアーの一つの典型を作った。戦時中の集団志向の強い日本で、少数派の価値観を貫くには徹底した個人主義的信念を必要とした。西洋詩の翻訳には豊富な語彙を必要とし、いまなお日本の現代詩は現実からはなれて存在は出来ない。その中で特殊な(独創的な)詩的言語を発明したのは宮沢賢治の「農民芸術運動」であった。宮沢の詩の大部分を納める「春と修羅」には方言、擬声語、仏教用語、科学用語のすべてを含んだあふれる饒舌で、想像力を全開する。宮沢は37歳で肺結核で死んだが、同じく夭折した詩人中原中也はその死を早くから予感していたように、詩の側から生涯を振り返る瞬間の愛惜に満ちた詩情が滲んでいる。「山羊の歌」、「在りし日の歌」の歌集には、声に出して響きを味わう特徴がある。七五調を中心として、繰り返しを活用し、日常語で会話体で、道化に似た自嘲の悲しみにあふれていた。宮沢と中原は朗誦に向いた現代日本語の詩を書いた点で画期的であった。
第1次世界大戦後の「大正デモクラシー」とマルクス主義の流行のなかで青春時代を送り、軍国主義と太平洋戦争の中に壮年期を過しながら、大勢に順応することを拒否し、一貫して自己の立場を徹底した三人の知的巨人がいた。それが林達男、石川淳、小林秀雄である。西洋志向型の「大正教養主義」に対しては、林達男は明確な意志を持って西欧の芸術と思想の歴史を研究し普遍的に至ろうとしイタリア文藝復興期の象徴精神史を書いた。石川はアンドレ・ジット「背徳者」、「法王庁の抜け穴」の訳を行うと同時に「新訳雨月物語」や「古事記」の現代訳をおこない西欧と日本のぎりぎりでのつりあいを求め、西欧と日本文化を漁歩するところは芥川を抜いている。小林は西洋志向型を背景にしていたが、かれの中心は思想と人間、表現と人生にあって、フランスの象徴詩の仕事はそのために役に立ったというべきである。二つの文化の対立を自分の内面の問題に還元した。マルクス主義に対する3人の対応は、林の場合「ヨーロッパにおける宗教的精神の推移と発展」で理論的にマルクス主義に近づいた。しかし「スターリニズム」に対して反共の立場からではなく激しい批判を加えた最初の日本人であった。石川の場合小説「普賢」、「白描」で反権力の立場からこの鋭敏な個人主義者は反応した。ソ連邦の現実に対する幻滅は林と石川をしてイデオロギーと国家権力を鋭く引き離す立場に導いた。小林の場合自己周辺のマルクス主義者を激しく非難して、理論と人間の結びつきの浅さを攻撃した。マルクス主義は「様々なる意匠」において流行に過ぎないといった。小林はマルクス主義の理論や構造を問題としたのではなく、社会科学的抽象概念よりは美学を選択したのである。小林の本質は主観的で超歴史的な心の内的経験を重視する。日本軍国主義と戦争に対する三人の反応は、林の場合軍国主義の手口は簡単に見破ったが、沈黙を守り反語に生きた。軍国主義に対する黙する知的対極であった。石川の場合「マルスの歌」で日中戦争の本質を暴いた。小林の場合戦争批判は一切しなかったが便乗もしなかった。そして戦争中は日本の古典文学について書いていた。文学や文章についての3人の特徴は、林の場合戦後ベルグソンやファーブルの訳本を著わしたが、エッセーでは日本思想への批判が見られ、けだし現代日本語による理性的な散文の最高に位置した。石川の場合語彙の豊富さ、語法の気品、内容の緊密さにおいて永井荷風を抜いて森鴎外に迫った。和漢の文学的伝統、考証伝記、エッセー、小説など文学的活動は広い。小林の場合芸術的活動の機微に触れた日本最初の散文である。批評を文学作品としたのが小林である。人間の内面性を絶対視して社会的世界を無視したのは当然かもしれない。

11)戦後の状況

本書の主文は第2次世界大戦中に活動を始めた文学者の世代で終る。戦後活動を始めた若い世代の客観的な評価や歴史的評価は困難である。「棺の蓋をして人の評価は定まる」という言葉の通りで、彼らがまだ生きているからだ。したがって本章はあとがきのようなもので、1945年からの30年間、日本文学に現れた問題の整理のひとつに過ぎない。戦後日本は占領軍の政策に従って政治社会制度に大きな変化が起きた。自律的運動では不可能なくらいに外的な強制力によって、軍国日本は解体され、天皇制官僚国家が民主化され、世界に冠たる平和憲法が成立したのだ。しかし日本は市民革命を経た社会とは異なり、明治以来の中央集権的構造を引きずったままの二重構造社会で、地方自治や人権意識は極めて脆弱である。軍隊はなくなったが集団志向型の社会は企業文化にも引き継がれている。対外関係で一番の優先性は日米関係である。朝鮮戦争以後に急速に経済が復興し、1960年代には高度経済成長期を迎え、1980年代には日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となった。

この30年間の日本の文学活動は貧しかった経済復興期には活発であったが、1970年以降の経済的繁栄を達成した後には独創的な活気を失ったようである。第2次世界大戦の戦争体験と日本軍国主義の経験は、経済から政治、伝統文化に至る戦後の知識人の自己理解の試みとなった。思想的領域で戦後の青年に最も深い影響を与えたのは丸山真男の「超国家主義の論理と心理」、「日本ファッシズムの思想と運動」であった。天皇制国家の無責任性は国家主権のみが絶対的価値で、国家主権を超えた同義的基準に拘束されなかった。したがって国家の指導者が彼らの決定や行動について責任を取らないという、中心に向かうにつれて空白になる体制があったという。これは官僚機構の特徴で仕事をするのは30代の主任クラスの若手で、管理職を上がるに連れ現場から離れる構造である。空気とか勢いを隠れ蓑にしてやりたい放題の無責任体制である。丸山は「歴史意識の古層」とか、小林秀雄や本居宣長が愛用した「なる・なりゆくもの」という非合理性を問題にしたのである。
戦争体験を生涯にわたって文学的仕事とした大岡昇平は「俘虜記」、「野火」、「レイテ戦記」で愚劣な戦争の犠牲を描いて、戦争文学の記念碑を立てた。軍隊を描いたのは野間弘の「真空地帯」である。
戦後の人生の挫折と人格の崩壊を描いた太宰治の「人間失格」、「斜陽」はおそらく源氏物語以来の女々しさ、自己陶酔の再現かもしれない。
戦後怒涛のように押し寄せたアメリカ文化と技術はまさに第二の開国騒ぎであった。戦後もっと西欧文明を学び直さなければならないと決意した森有正はフランスに渡って内省的な随筆「バビロンのほとりにて」を書いた。25年もフランスにいた彼でも、フランス語も日本語の論文も書くことはできなかった。異邦でさ迷う感受性の典型であろうか。
戦後西欧の文化遺産を吸収しながら、同時に日本の伝統の中に創造的な仕事をした文学者も少なくなかった。文芸評論家寺田透は「道元の言語宇宙」は禅の思想の構造を論じた戦後評論の一つの頂点となった。中村真一郎は「王朝の文学」、「頼山陽とその時代」を書いて日本文化回帰に終らなかった。
アメリカから最も深い影響を受けた鶴見俊輔は戦前の若い時代のアメリカ体験を経て、戦後「思想の科学」によって「転向」問題を扱い同時代の社会の日常的な現実から新しい問題を発見する能力は際立っており、それは日本文化から知的距離を置いていたからであろう。鶴見の行動様式は自由主義左派を自認して生きることで、小田稔らと「ベ平連」を作ったことに現れている。
中国文学から影響を受けた竹内好は魯迅を通じて中国式革命方式の植民地解放の理論を学んだ。大衆の解放があってはじめて支配と被支配の関係を断つことが出来るのである。
1960年代から1970年にかけてのベトナム戦争反対運動は小田稔のベ平連を生んだが、小田は行動するジャーナリストとして第3世界の反体制運動市民運動を記録し続けた。その饒舌な文体は朝日新聞社の本田勝一らと同じ軌道にあった。
高度経済成長が達成された時に中流社会が成立し管理社会が到来した。それが文学の領域に生み出したのは作家の密室化と商業主義である。作家は文学固有の領域とくに私生活上の心理と美意識へ向かった。1年余りのアメリカ生活体験を書いた安岡章太郎の「アメリカ感情旅行」に見るように、なんら日米間の新しい情報を提供するのではなく、個人の苛立ちや当惑という心理的曲折を綴っただけのことである。
三島由紀夫は心理作家ではなく、粗雑な耽美主義者で、人格にはエロティックな死の讃美があった。美少年の「楯の会」を作って、男色主義と肉体美の世界に沈着し、商業主義を利用して時代錯誤の死の舞台を演出(割腹自殺)した。
大衆の価値観を掴んだのが大衆小説家司馬遼太郎である。剣豪ではなく管理社会の知的英雄である企業戦士を描いた。彼の歴史とは企業向け雑誌「プレジデント」が要求する経営者の成功パターンの類型探しに貢献した。
組織の中に組み込まれ吸収されてゆく個人の疎外感、組織に対立する個人の無力感を蟻地獄と見た阿部公房の「砂の女」は寓意的である。環境問題と市民の戦い「水俣病」を描いた石牟礼道子の「苦海浄土」、鋭く社会問題を抉り出した山崎豊子の「白い巨塔」、大衆娯楽の芝居の形式を自由自在な言葉を通じて社会状況の批判の道具に転用し、江戸時代の川柳や諧謔の伝統を今に生かす井上ひさしの「しみじみ日本・乃木大将」はおそらく最も痛烈な明治天皇批判である。アメリカと日本の権力に抗議しつづける大江健太郎の「ヒロシマノート」、「同時代ゲーム」は、はっきりと体制権力にノーを突きつける。


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