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松岡正剛著 「知の編集工学」

  朝日文庫(2001年年3月)

情報はひとりではいられない 編集とは関係の発見である

松岡正剛氏ほどの有名人を紹介する必要もないとは思うが、本書も松岡氏の思想遍歴、仕事内容の経過を辿っているので、本書の読書ノート自体が松岡しのプロフィールでもある。しかし念のため通り一遍の紹介だけはしておきます。京都の呉服屋に生まれる。東京都立九段高等学校進学の頃に東京へ引っ越す。早稲田大学文学部フランス文学科進学。高校から大学にかけて、革命的マルクス主義派(革マル派)に属し、学生紛争の論客として鳴らす。 大学4年の時に父親が多額の借金を残して死去したため、やむなく早大を中退。広告会社に勤め、営業活動のかたわら、高校生向けのタブロイド版の新聞「the high school life」を創刊。この時期、編集活動を通じて、稲垣足穂、土方巽、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志らと親交を深める。1971年に友人ら3人で工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年 - 1982年)を創刊する。「オブジェマガジン」と称し、あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは今日のインターネット文化を先見しており、日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。1987年に株式会社編集工学研究所を設立することになる。(現在、編集工学研究所は出版グループ「インプレス ホールディングス」のグループ会社となっている) 1984年からは、NTTが主催する「情報文化研究フォーラム」の座長を務める。ジャンルを超えた各界の研究者と議論を交わしながら、情報文化に関する考察を深めていく。1990年に放送がはじまった『日本人のこころ』(NHK)では、五木寛之、田中優子とともにレギュラー出演し、日本各地を歩き回りながら、日本文化に潜む魅力とその可能性について討論を交した。1997年からは、岐阜県で織部賞を開始、総合プロデューサーを担当し、ジャンルを問わずに内外の様々な人物を顕彰する。また、帝塚山学院大学に招聘され、教授としてゼミを担当した。2000年2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、2004年7月に良寛『良寛全集』で「千夜千冊」を達成した。2003年には、長年にわたって研究・思索してきた「日本文化の方法」を伝承することを目的とした特別塾「連塾」をスタート。「生涯一編集者」をモットーとする松岡は、生涯を通じて各種編集、プロデュースにかかわる中で「編集術」「編集工学」という独特の発想をつくり出した。これは、体系化された方法の"型"をエクササイズすることによって、情報編集の技術を手軽に修得できるプログラムであり、書籍や映像など編集業務における専門性の強化、ビジネスにおける企画力、教育や人とのコミュニケーションからクリエイティブワークにおける表現力の向上まで、あらゆる分野での応用性を目指している。

参考のため、松岡氏の主催する編集工学研究所や、私が時々訪れる「千夜千冊」のサイトを示します。なお「千夜千冊」は今1300冊を越えて継続中で、最近の話は「千夜千冊連環篇」に移動しております。ところで私も氏に倣って、ホームページで読書ノートを掲載しておりますが、本を読んでノートを書くということは、いくらがんばっても1週間で1冊ぐらいのペースですので、1年間で50冊ぐらいの進行度です。従って千冊の読書ノートを完成するには20年必要ということになり、私が死ぬまでに完成するかどうか覚束ないところです。しかも松岡氏の1冊ごとの記述量は結構多く、とんでもない馬力の持ち主である事が分ります。カットアンドペーストでやるにしてもその編集力はすごいものです。

本書は1996年朝日新聞から出版され、2001年朝日文庫に入った。私は文庫が発刊された2001年に一度読んでいた。それをあらためて2010年に読み直した。そして本書を読んでみて、大変面白いことに気がついて読書ノートを作る気になった。本書にはいたるところに面白い仕掛けがされている。例えば「まえがき」がなく「あとがき」がまえがきになっているのだ。「あとがき」から先に読む人をからかうために、頭ごなしに読めということである。本書は編集者のための本というよりは、包括的な情報文化の遊び方という本であり、松岡氏の思想遍歴でもある。イデオロギー中心の堅い思想空間ではなく、イメージの包活力の大きさを知らしめる知の楽しさを説いた本であろう。氏は編集工学センターおよび物語学会を組織して、ユング心理学の神話類型を中心としたマザー母型を究極の原型と考えるようである。松岡氏は今のITやパソコン、インターネットといったデジタル技術の行き着くところに必ずしも信頼していないようで、人間のもっとアナログ(非線形)の力を引き出すことの重要性を、博学知識で多方面の文化現象に分け入って、わくわくするような非線形の構造感覚を推奨する。本書はとても面白く、知的興奮が横溢した本である。「編集工学」という方法の入門書という位置づけであるが、「編集は人間の活動に潜む基本的な情報技術である」という広い入り口を示す。編集とは「切った貼った」をすることだと思われているが、それは編集の機能の一つである。しかし私達の頭の中で起っていることが編集的であり、コミュニケーションの本質も編集的なのである。「情報は1人ではいられない、情報は関係付けられることを待っている」という。編集とは関係を発見すること作業なのである。それは日常的に脳でおきているのだ。自分自身の頭の中で何をどう処理しているのだろうかを考えてみようというのが本書の狙いである。インターネットで「ウイキペディア」が本当に「相互編集性」になっているかどうかは別にして、「相互編集性と自己編集性を取り込んだ編集型マルチメディアの研究開発」が松岡氏の仕事であると云う。氏の編集工学研究所は各種の編集ツールの開発に取り組んでいる。編集工学は「考える技術」、「表現する技術」を探求する「方法の方法」である。氏らが構成した大きな編集作業を紹介すると、「全宇宙誌」、「アート・ジャパネスク」(全18巻 講談社)、「日本の組織」(全16巻 第1法規)、「情報の歴史」(NTT出版)などがある。


第1部 編集の入り口

1) ゲームの愉しみ

映画の編集とは撮り終わったフィルムを切った貼ったするだけのことではない。映画監督の頭の中では編集とは創作の本質に関る。。黒澤監督は「映画の本質は編集である」とか、神戸製鋼のラクビーを7連勝に導いた平尾誠二氏も「ラクビーは編集である」とか、故梅棹忠夫国立民族博物館長も「編集という行為は現代の情報産業社会の幕開け」という。京都の料亭「美山荘」の故中東吉次氏も「料理は編集である」という。料理の作り方は一種プログラミングであり、京都の懐石料理では、出される料理の種類だけでなく、一皿の中に「はしり」、「旬」、「名残り」の3種の材料を盛り付ける。ここにいう「編集」とは大変魅力的な言葉だ。ニュース報道は客観的事実を伝えていると思いがちであるが、とんでもない、テレビのニュース報道にも激しい編集が加えられている。テレビのニュースのテロップ(書き文字)がやたら目立つようになり、その言葉はまるで週刊誌のように扇動的である。電車の宙吊り広告、テレビ番組のヘッドライン、本の帯タイトルにも読みたくなるような、見たくなるような、買いたくなるようなアトラクティヴフラッグが書かれている。編集という基本的な特徴は人々が関心を抱くであろう情報の塊(クラスター)を階層付けて提供してゆく作業のことである。こうして編集とは対象となる情報の構造を読み解いて、それを新たなる意匠で再生するものなのである。このように編集とは広範囲な領域に適用される柔らかい手法なのだ。

連想ゲームという遊びがある。「風が吹いたら桶屋が儲かる」という因果関係の連鎖ゲームではなく、何が出てくるか分らない言葉の分岐ゲームである。ひとつの言葉には周辺領域が広がっていて、様々なイメージがぶら下がっている。ひとつの言葉は常になにかの言葉につながろうとしている。連想ゲームはデマの伝達の研究やコミュニケーション論につながってゆけるのである。言葉は記号に過ぎないが、言葉によってそれに対応するイメージを喚起することが出来る。言葉の辞書にはイメージの地図が連関していることが出発点である。どのように二つが対応するのかには「ツールの群」が必要で、経験によって獲得するとか、本来人間には文法を生成する能力があるとか説がある。情報連鎖の関係を編集といってもよく、連想ゲームは言葉遊であるが、遊びの本質は編集にある。遊びにはわくわくするような知的興奮が隠れている。遊びの種類には、競争顎ーン、偶然アレア、真似ミミクリー、熱狂イリンクス、興奮パイディア、無償ルドゥスがあるといわれ、興奮パイディアと無償ルドゥスが編集の本質である。日本の伝統的言葉遊びである連歌、句会にも通じている。ルールを設けて情報の連鎖を楽しむのである。このような座の状況は編集的状態にあるといえる。

いまどきいろいろな装置に便利なマイコンが埋め込まれているが、人口知能(AI)といっても人間の能力と比較するのも可哀そうなくらいお粗末な能力である。コンピュータが出来ない人間の諸能力とは、
@情報を処理編集しながら、同時に適切な表現様式を自在に選んでいることである。感情と行為(経験)が伴っているために知的判断は極めてスムースにゆく。
A人間の知的判断には、たくさんの役柄の振り分け・変更が起っている。全体をざっと掴んでその場になりきっていることである。
B部分と全体を適当に取り替えながら判断を進めることが出来る。全体を見て判断を仮止めしておき、詳細を検討できるのだ。
C状況に応じて問題解決のための方法を絶えず発見的に編み出していることである。試行錯誤できる能力の事である。
D非言語処理の能力に優れ、ルールを自分で作り出して仕事を進めることである。
このように能力の劣ったコンピュータを人間に近づけることはしばし置いておいて、人間の潜在的な能力「編集能力」を考え直す方が効果的ではないか。ニューロコンピュータの並列的情報処理・学習に注目が集まった時期があったが、いまだにニューロコンピュータは出現していない。それは「脳の情報処理には、直列型の論理計算と並列型の直感思考がある」と考えたことが短絡であったようだ。まだ脳科学が脳を理解ができていないことの裏返しであった。人間の学習能力は実は対話型で遊び的なのである。学習対象を見て生き生きとした学習意欲がおきるのは、対象と対話しながら進めるためである。それは編集能力でもある。

2) 脳という編集装置

私達の脳は経験したことを直列に思い出すわけでない。頭の中で情報圧縮をすることが出来る。情報には背景(地)と形(図)という構造があり、ポイントとなる形だけを抽出して頭に入れる能力がある。慣れない不得意な分野・対象については地と形の関係が曖昧でポイントを拾えない。注目する対象は知識ラベルといって意味単位のネットワークでつながっている。そのつながりは多層的でいわばハイパーリンク状態である。頭の中で考えるということは、この意味単位のネットワークをジグザグに進むことである。その進み方はでたらめではなく一定のプログラムがないと、脈絡を辿れないし、意味ある行動をすることも出来ない。その行動や思考を辿ろうとする時(思い出す)、我々は情報圧縮をしている。そこに編集の仕組みが関ってくる。

情報の海から意味ある事を抽出する時、我々は情報圧縮をしながら、情報に句読点を打って情報のオーダー(順番、秩序付け)を決めている。情報科学では情報は「発散するエントロピーの逆数」と規定している。秩序を見出すことで混沌たる情報に意味を与えるのである。情報の意味とは差異である。情報を意味あるコードに分節することが編集の第1歩である。ノドの文節から音声が生まれ、言語の文節から文法が生まれ、社会の文節から階層が生まれ、握る手の文節から数が生まれた。生命は情報そのものである。生命が遺伝子情報を持つのではなく、遺伝子情報が生命を持ったのであろう。進化とは情報の編集史のことだ。そのなかで仮の情報自己の設定、すなわちやわらかい自己組織化が行われてきた。

前節で編集の歴史は生命発生のドラマの中にあることを言った。編集は文化技術、社会技術など多方面の顔を持つため、なかなか実態を見せなかっただけである。人間の諸活動は全て編集だった。生物の情報編集の仕組みには3つの起源がある。@遺伝情報(進化の源泉)、A免疫情報(免疫的自己)、B中枢神経と脳のシナップス結合である。進化を生んだのは膨大な遺伝情報(遺伝子コードの長さ)のプ−ルのせいであり、免疫も膨大な遺伝子組み換えの可能性から出来たのであり、脳は超膨大なシナップス結合の数から生まれたのである。脳は一言で言えば中枢編集装置というものだ。脳の働きのなかで編集技術にとって注目すべきは、記憶と再生のメカニズムであろう。短期記憶はリハーサル回路で意味を持つ記憶(ストーリーと感情を加えて)に変えて長期記憶に蓄えられる。これはもう忘れない。記憶には注意の喚起が重大な契機となる。ノイズの中から注意する対象のシグナルを拾うようなものである。そして記憶の再生にはカテゴリー・プロトタイプ(類型、典型、原型)の役割が大きい。そもそも記憶の再生とは外からやってきた情報が自分に似たカテゴリーを探すことではないか。記憶と再生の脳構造には枠組み「フレーム」(スキーマ)が用意されているようである。デフォルト値を空欄にした構造を脳の中につくっているらしい。これを「見本」、「レパートリー」という。編集の構造といってもいい。個別体験のデフォルトをそこに記憶してゆく。このレパートリーの組み合わせがようするに編集の構造である。脳は電気回路や化学物質だけでは説明できない、記憶の増幅には報酬回路や大脳周辺部の感情も動員しているようである。脳はやはり精神(心)の座を管理するセンターである。自分の脳を研究する人は哲学者で、心は脳にあるのだ。精神の外化とその編集可能性という認識は、精神の自由な形態ー構造を様々な場所に作り出すことが出来る。これを外に漏れた脳という(観念論)が、社会や技術はまさに脳の構造そのものである。従って編集可能性に満ちている。

3) 情報社会と編集技術

日本は光ファイバーとインターネットと携帯電話の網の目を形成してきた。しかしそれがなんの役に立ったというのだろう。湾岸戦争や9.11同時テロ戦争や阪神淡路大震災で、見事日本のシステムの無能振りを全世界に明らかになった。阪神淡路大震災では政府は立ち往生し、効果的な援助を開始したのはボランティアであった。湾岸戦争や9.11では全くの情報不意打ちで、その戦争の意味すら分らずにアメリカに戦争協力金を払った。これは何のための情報網なのか。そもそも情報化と編集化は一体化であるにもかかわらず、なぜか日本では高度情報化ははハードウエアの情報化であって、ソフトウエアによる編集化ではなかった。電子の網は張り巡らしたのに、頭の中は空っぽだったのだ。編集されない情報とはゴミみたいなもので、情報に意味を持たせるには情報文化技術が必要である。大量生産技術によるパソコン生産はこのハードとソフトの分離に拍車をかけた。ハードとネットの情報化(情報技術)とソフトの編集化(「文化技術)は合体しなければならなかった。音楽配信、ビデオ配信、書籍の配信は始まったばかりで、20世紀の映画やCD・DVDのような普及状態ではない。このままではパソコンの販売も伸びないし、マルチメデァ社会やIT社会はうまくいかない。今日の情報技術はバラバラのメデァ技術の足し算で済まそうとしている。太古の昔、物語は語り部達が情報メデァであったし、文字が生まれるとすぐさま情報は物語として固定した。聖書、仏典、神話など巨大な情報システムは物語という様式によってファイリングされた。また文化は文様、彫刻、建築物によって具象化され物語を強固に補強した。音楽や文学思想などの文化の潮流がゴチック、、ルネッサンス、バロック、ロココ、ロマンなどの建築物に象徴されたのである。今日のIT社会には物語り技術(情報文化技術)が不足している。かって書物は世界そのものであった。近世のマルチメデイアの変革はイスラム社会からもたらされ、ギリシャローマ文化は高度にイスラム社会で発展して、科学技術や文学、社会システムとしてヨーロッパ社会に移植された。系譜の発見、複式簿記や株式投資システムなどのイスラムからの輸入であった。近世の情報革命はイギリスで始まった劇場文化であった。総合芸術であり世界を表現した。

インターネットはコミュニケーションの革命といわれる。ところがインターネットには悪を排除する機構は無い。当局によって悪と見なされたサイトを管理する中国のやり方は本質的にメディアとは相容れない。情報内容を生産し、内容を管理する分野を「コンテンツビジネス」というが、著作型編集資源である。ホームページでコンテンツを貼るのもこのタイプである。情報内容の不断の編集を行うことを特徴とする。サイトにも原理的なコミュニケーションモデルが機能している。これを「交換モデル」と呼ぶ学者がいる。伝統的なコミュニケーションモデルは「シャノン・ウィーバーモデル」といわれ、ノイズの中の通信理論を前提とした。送り手と受け手の間に信号化装置と信号取り出し装置が存在して翻訳と脱翻訳で情報を出したり受け取ったりするのである。それに対して、情報コミュニケーションプロセスをメッセージを交換するするのではなく、編集モデルを交換すると捉えれば「エディティング・モデル」となる。送り手は自分の編集になる情報を「意味の市場」に送り出し、受け手は自分の適当な編集モデルを使って必要な情報を受信するのである。これはある意味ではグーグルの検索システムかもしれない。両者の波長があった時にコミュニケーションが成立し創発される。これは写像関係マッピング理論(相似理論)で交換するのである。データを交換する事に意味があるのではなく、先行的な編集構造が先に存在することが必須である。経済は貨幣を言語とするシステム(交換行為を前堤とする財とサービス)の編集プロセスであると理解できる。マルチメディア社会とはそのようなネットワーク経済文化の社会でコンテンツが交換されることが経済行為であるような社会を理想とする。「経済も編集だ」と著者はいう。

歴史の中で経済文化を考えてみよう。それには典型的なモデルがある。西欧社会の「コーヒーハウス」と日本の「茶の湯」の場である。この二つは飛びっきりの経済文化のモデルであり、また比類ない編集空間であった。コーヒーハウスは17世紀末ロンドンで大量に発生した。市民革命の後であり産業革命の前夜であった。ブルジョアジーの出現と近代産業の勃興期であったといえば、その社会背景が理解できる。濃いコーヒーの香とタバコの煙が立ち込める空間であった(日本では安保闘争時期の大学周辺の喫茶店を想像すればいい)。そこで何が生まれたのかを記そう。
@まずコーヒーハウスは「ジャーナリズム」を創始した。新聞を読み、情報誌がおかれ、ヨーロッパ最初の活字編集メディアが生まれジャーナリズムの誕生となった。
Aコーヒーハウスは「株式会社」を発展させ、保険システムを生んだ。好奇な目で世界の経済情勢を見つめ。儲け話に投資をしてゆくのだ。イギリスの重商主義は七つの海に艦隊を派遣しそれがもたらす情報に商売のネタが渦巻き、利に敏い人々の投資とリスクの商売が生まれたのだ。
Bコーヒーハウスは「政党」をつくった。議会主義政治の背景を作った。党派ごとにコーヒーハウスを選び、そこで政策論議に花を咲かせた。パリでも同じ状況であった。
Cコーヒーハウスは「広告」をつくった。夥しい量のチラシがハウスにばら撒かれていた。
Dコーヒーハウスは「悪党」の巣であった。良いたくらみは「株式会社」をつくったが、悪いたくらみは犯罪者をつくったり、秘密結社をつくった。
日本の中世から戦国時代に始まった「茶の湯」というサロンは堺の鉄砲商人と大名が結びついて、独特の価値観を共有し、多くの職人が作る工芸品を洗練し、庭、茶室の建築文化にも発展した。サロンに集まる人の会話は、直接的ではないにしろ政治の機密や戦争の準備という経済行為につながっている。茶の場は牒報組織の会合である。千利休が秀吉に切腹を命じられたのも、極めてやばい場に長く居たためであろう。そこには経済と文化を結ぶび、この二つを織り成すインターフェイスは「好み」(美意識)なのである。このサロンという経済文化のプロトタイプは18世紀には「百科全書」と「マスメディア」の出現となった。さらに19世紀には「万国博覧会」と「百貨店」という形になった。現代日本にはこの経済文化プロトタイプが欠如している。著者がその編集空間を創ろうとしているのである。今の世界では「気候変動枠組み条約機構」という欧州を中心とする地球環境問題サロンが経済と政治環境を結び付けようとするひとつの試みかもしれない。


第2部 編集の冒険

4) 編集の冒険

著者は「編集工学」の意義に目覚めたのは1980年代の思想状況にあって、次の3つの契機を挙げている。
@フランソワ・リオタール「知の組み替え」 リオタールのいう「転移」とは編集なのではないかと思ったらしい。
Aエリッヒ・ヤンツ「自己組織化する宇宙」 生物が組織を形成するプロセスから、動くプロセスの複合体にひどく編集的な要素を感じたという。「ある科学」から「なる科学」に興味を持ったのである。
Bマーヴィン・ミンスキー「心の社会」 フレーム理論とはフレームの自己記述性が自己のモデルとなって思考している。認知科学や人工知能研究が刺激となったという。自分の中に情報モデルを常に用意している「編集的自己」という意味である。
そうこうしているうちに、司馬遼太郎「空海の風景」に不満が沸いて松岡氏は「空海の夢」を書いた。空海「三教指帰に」道教、仏教、儒教の3つ巴の思想劇を見て、空海の読書力と文章力に感激すると同時に卓越した編集技術を感じたのである。密教の曼荼羅とは様々な仏教思想に宇宙論的秩序をでっち上げるいわば編集(構成力)である。

子供の読む絵本には、膨大な物語がたった数ページに情報圧縮が行われ、また物語がドラマ化される脚本も恐るべき情報圧縮という編集力が働いているのである。つまり文化は編集なのだ。何かが保存され現実性を持って感銘を与えているのだ。これを著者は「編集的現実性」(エディトリアリティ)と呼ぶ。翻訳、文化の伝播にはこのエディトリアリティの共用的な関係保存機能が必要である。著者は編集工学の準備として、ボヤーとしながら自分の注意の移ろいを記録するという訓練を課した。要するに自分を不安定な自由編集状態にしておくことである。言葉の連想ゲームにも似ているが、これはイメージの移ろいである。これを「自他並列的編集工学の進行」という。こうした準備を経て、著者は1987年編集工学研究所(リーダー渋谷恭子)を立ち上げた。集団は3人からあっという間に7人になった。そして最初の仕事は1990年NTTの依頼になる「情報の歴史」であった。編集工学研究所のスローガンは「生命に学ぶ」ということで、@「脳」という編集装置を知る、A「歴史」とリンクする、B「遊び文化」を重視したイベントを重視することである。編集工学研究所の仕事とは次の編集素材の領域(マザーコード)にある。
* 身体に関するー喜怒哀楽、快楽、感覚、生死感、身体障害
* 好みに関するー遊び、趣味、芸事、工藝、熱中の意識
* 直感・啓示に関するー宗教、ヴィジョン、夢、トランス状態
* 学習性に関するー行動訓練、知識の加工、経験科学、コンピュータ操作
* 表現に関するー芸術、美術、文藝、文章、映画、劇画
* ゲームに関するー競技型遊戯、スポーツ、TVゲーム、投資、宣伝
* 図像に関するー文字、文様、寓意、絵画、世界図、トーテム
* 物語に関するー神話、伝説、説話、口承文藝、語り、挿絵
* 歴史に関するー戦争、政治、社会的動向、事件、メデァ
* 合理的再現に関するー科楽体系、医療、健康、器械主義的世界観
* 日常性に関するー雑談、礼儀、仁義、嫉妬、恋愛、憎悪、家族、友人知人

5) 複雑な時代を編集する

これまで世界をリードし支配してきたドラマがぼろぼろに磨耗してきている。戦後アメリカを中心とした自由主義・民主主義・豊かさと大量消費社会・GDP信奉社会などのセントラルドグマが立ち行かないのである。高度経済成長で花見気分でワーとやってきた全体を支配した世界が崩壊したのである。神の手がなくなったといってもいい。世界といっても国際関係から地球環境問題、会社の人間関係などを成り立たせていたものを「世界」という。その世界を前に人々は編集やコミュニケーションをしてきたのだ。世間の見方、世界観というワールドモデルを想定して話を進めてきた。編集とはこのワールドモデルを問い直す作業である。ワールドモデルとはあくまで、そこで進行する設定の舞台である。粉飾かもしれない。将棋やTVゲームも分りやすいモデルである。平安時代の藤原ワールドモデルとはこの世の栄華とあの世の浄土世界である。まことに身勝手なモデルではあるが、貴族にとってそれが世界だったのだ。デズニーランドも世界モデルである。空想社会主義者の「ユートピア」計画は産業資本主義の発展で踏み潰された桃源郷だった。ソ連のコルホーズも中国の人民公社のその類である。こうして色々なワールドモデルは磨耗してしまった。アメリカはろくなワールドモデルを持ち合わせていないくせに、主導権だけは握りたいのだ。石油文明は枯渇しつつあるのに、脱石油文明を描けずに戦争で主導権を誇示しているだけなのだ。世界金融危機ですでに資本主義はすでにニューワールドモデルを喪失し、新たな経済モデルも提案力を失って、途上国の高度経済成長利潤を横取りするしか能がない。「パラダイムシフト」が叫ばれて久しいが、まだ打開策は見えてこない。ワールドモデルは常に脱皮してゆかなければならない。編集工学ではワールドモデルを同型、準同型、凝同型とわけ、凝同型ではノンリニアーで非コヒーレント(同相的でない)様な文脈を持つ情報を編集するのに有効な役割でありたいと願っている。

物語には型がある。「物語の母系」とか「ナラティブ・マザー」と呼ぶ。たとえば英雄伝説は出発、試練、帰還という三段階の物語構造を持っている。世界の神話や民族の歴史(古事記、旧約聖書など)が共通の型を共有していることは知られている。ひょっとすると私達の頭の中にそのような物語構造が潜んでいるということかもしれない。ある種の物語の母型が私達の編集感覚の根本に関与しているなら、物語の母型構造こそ編集工学の根幹ではないだろうか。鋳型、原型が次々とヴァージョンを生み出しているということだ。編集工学はある段階から急に「物語学」に興味をもち、1993年には世界物語学会も発足した。ユング心理学は病症を神話の型に求める心理療法「箱庭療法」を開発した。日本では河合隼雄の「癒しとしての物語」の研究が有名である。世界で物語構造の共有性があることが、文化の伝達や移植、通信が可能となる人類の普遍的特性であると云う人がいる。物語構造は意外と単純である。河で世界が分けられるという「河マザー」による物語は無数にある。「境界マザー」、「往還マザー」、「応答まざー」、「遺失マザー」などさまざまなマザー(物語の筋)があって、編集工学の物語構造システムに登録されている。

言葉がぶら下げているイメージは不思議と世界的に共通しているようだし、時代性(世の動き)を言葉で言い表すことが出来る。たっとえば日本の明治時代を「大」、大正時代から昭和の戦前までを「新」、戦後を「高」という言葉で代表することがある。「大日本」、「新秩序」、「高度成長」という類の編集である。あたっているようでもあるし、無数の反論が出るであろうが、それとなく時代性をうまく表現しているようでもある。つまり編集的価値があると云うことだ。こういった感覚を「エディトリアリティ」があるという。厳密な定義ではなく「それとなく」、「さもありなん」、「もっともらしさ」という妙な現実感を「編集的現実感」というのだ。「エディトリアリティ」はそもそも厳密性は持ち合わせていないが、特徴を3つ挙げている。
@「エディトリアリティ」は「見当」とか「適当」という編集的価値が生きている。これは主語的、対象的でもないという特徴という。俺・お前という主語的世界ではなく、無責任な噂の世界であるので、メディア的であって、粉飾という編集が勝手気ままにつけることが出来て馬鹿受けして広まるからだ。デマもこの類である。週刊誌の世界もこれに入る。主体と客体をはっきりわけて考えるということは近代思想からの事である。オブジェクトという意味はデカルトまでは「観念の中に投影された表象」というぐらいの意味で、カントになってから「物自体」が自分の意識の外に想定した。
A「エディトリアリティ」はすこぶる述語的で、かつ述語的につながってゆくのである。編集工学では「述語的であること」を重視する。それは編集工学が分類的編集性より形容詞的編集性を重視するからだ。フレーゲという論理学者は「述語は関数と同じ働きをする」といい、西田幾多郎は「意識の範疇は述語性にある」といっている。述語に「関係の論理」を育む機能がある。
B「エディトリアリティ」はメタゲーム的である。メタとは暗示のことで、言葉の前の意識構造である。言葉は自分で自分を触媒し、言葉の連鎖という自己言及的なループが存在するようである。「情報の自己組織化から自己編集化」の言い換えといってもよい。
それにしても「主体」とはつまらないものである。喧嘩しかしない。つながろうとしないのである。「エディトリアリティ」で編集工学が主体的でないことを明確にしたかったのであろう。

6) 方法の将来

著者はパソコンの機能としてアップル社のマッキントッシュコンピューターの「ハイパーカード」を面白いといって紹介するが、私は使ったことがないので良く分からない。マッキントッシュは理科系の技術者が愛用するパソコンで論文書きには欠かせないツールらしい。マッキントッシュはあくまで近代的自己を理想の前提として、自分でファイルやスタックやハイパーカードを充実させ、自分なりの編集機能を目指したパソコンらしい。ところが白紙の自己は存在しないし、誰でも編集途上にあるのだから、それをどうするかは不明である。日本の和歌は月次や先歌取り、歌枕とかいう文化伝承の上に立っているので、白紙からは出発しない。ようするに物語的構造がパソコンにはない。知的編集システムが存在しないのである。藤原定家など新古今派の歌人は、現場で歌を詠んでいたのではない。すべて歌文化の集大成的知識の上に立って創造しているのである。編集工学では知的編集システムの構築に、つぎのようなアプローチを試みた。このへんからかなり専門的な術語が氾濫して分り難くなるので、サワリだけを記すに留める。
@知識をアルゴリズムで並べ替える方法である。人工知能型の知識工学、ソフトウエア工学の試みである。
A知識をハンドリングする方法に、人間と和解するコンピューターのOSを開発すること。
B知識の仕組みそのものをアルゴリズムに埋め込むこと。編集工学の目指す方向はこの方向である。

言語システムはひどくあやふやなもので、意味はどのようにも第2、第3の意味を引き出せる。それが編集工学の付け入る隙で、意味の科学は関係の発見である。絶対的な客体(オブジェクト)なんてどこにもなくて、あるのはオブジェという印象にすぎない。それが個人によって様々に違うのだ。編集は恣意的に創発(相転移)するだけでなく、観察しているだけで対象が移り変わるのでどこかに創発性が生じるのである。自然、生命、人間、社会、歴史、文化、機械を見る視点はその人の編集思想の立脚点でもあある。いわゆる切り口である。


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