080915

上杉隆著 「ジャーナリズム崩壊」

 幻冬舎新書(2007年7月刊)

日本の新聞のジャーナリズムをだめにしているのが、記者クラブと匿名記事だ。

そもそもジャーナリズムの存在理由はなんだろう。日本のジャーナリズムは明治元年、明治新政府が成立するやいなや活動を開始した。政府が厳重な取締令を発したので、佐幕派新聞は続々と廃刊を余儀なくされた。明治二年「新聞紙印行条例」を公布して、はじめて正式に新聞の発行を認められた。しかし自由民権運動、議院開設運動の挫折によって、日本の新聞の活動は変形し、提灯記事から大政翼賛会があって、昭和以降は全く政府の宣伝機関に堕して、戦前は健全なジャーナリズムは育たなかった。そもそもジャーナリストの仕事は権力の監視であり、現在を切り取る作業である。権力に擦り寄る事は愧ずべきである。それによって同時代に生きる国民(読者・視聴者)に、権力内部で起きている不正や真実をを知らせることができる。

私は始めて上杉隆氏の著作を読むので、まず氏の略歴をみた。東京都出身、都留文科大学文学部英文科卒業。卒業後NHK報道局で記者見習いとして働く。26歳から鳩山邦夫の公設第一秘書を5年間務め、ニューヨーク・タイムズ東京支局の契約社員記者になる。2000年、文藝春秋誌上で、外務大臣就任前の田中真紀子批判キャンペーンを開始。2002年フリーランスジャーナリストとしての活動を開始。主に政治記事を執筆。この分野に関しては、議員秘書時代に築いた人脈が役に立っているという。また、日本のジャーナリズム・マスメディアのあり方に対しても批判をしている。2003年には北朝鮮に入国し現地からのルポを送る。その後は、国内の政治取材を中心に活動。安倍晋三内閣の発足にあたっては、その翌日の新聞インタビューで1年で終わることを予測。2007年8月、安倍内閣の内幕を描いた『官邸崩壊』を出版し、政治関連本としてはベストセラーとなった。著作には「石原慎太郎五人の参謀」(小学館) 、「田中真紀子の恩讐」(小学館) 、「田中真紀子の正体」(草思社) 、「議員秘書という仮面―彼らは何でも知っている」(小学館) 、「小泉の勝利 メディアの敗北」(草思社) 、「官邸崩壊 安倍政権迷走の一年」(新潮社)、「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎)がある。

この経歴からは想像できないが、本書のプロローグにおいて氏が書いているように、鳩山邦夫の秘書を辞めてから10年間、政治記者として永田町を取材してきた。その取材方法はフリーとしてはゲリラ取材であり、大手新聞社から言わせると「不法」、「違法」な取材である。週間雑誌記者のように、記者クラブに属さないので「記者証」なしである。フリーでは記者クラブは記者証は発行してくれない。記者クラブには大手新聞社しか入れない。従ってゲリラ取材は大手新聞社や政治家・官僚からは忌み嫌われる。選ばれた新聞社の横並びの平等主義という「記者クラブ」は欧米では信じてもらえない組織であり、EUから何回も改善要請が出されている。最後に生き残った護送船団方式の業界こそがマスコミ、なかでも記者クラブなのである。今日インターネットを介した新しいメディアの台頭によって、既存の報道機関が消滅する事も近いかもしれない。すでに日本のジャーナリズムの崩壊は始まっている。本書の目的はただ二つである。欧米ジャーナリズムに倣って、記者クラブの解体と匿名記事の禁止である。本書は体験に基づき、実名で書かれているので、読み出すと面白い。枝葉末節のことも面白いのであるが、結局言いたいことは、日本のジャーナリズムの健全な発展のためには、上の2点が重要であることにつきる。時には面白い話題も入れながら、本書の章立てに従ってまとめる。参考までに、上杉隆氏の公式ブログ「東京脱力新聞2.0」を紹介しておく。

1、日本にジャーナリズムは存在するか

日本に「ジャーナリズム」は存在するのか。日本で云うジャーナリズムとは、海外でのワイヤーサービス(共同通信、時事通信、ロイターなどの通信社のことで、速報性をその際優先課題とする)に相当する。海外でのジャーナリズムとは時事的な事象を報じるだけでなく、もう一歩進んで解説や批評を加える活動を一般にジャーナリズムと呼んでいる。その機能をうんと絞り込むと,公権力に対する監視役としての「第四の権力」といわれる役割こそが欧米ではジャーナリズムと理解されている。新聞と通信とは異なるのだ。事件・事故の第1報は新聞の使命ではないと欧米では考えられている。海外の新聞は日本では週刊誌か専門誌の記事だと思えばわかり易い。従って欧米の新聞社記者数は少ない。ニューヨークタイムズの記者は海外を含めて300人くらいだが、読売・朝日新聞では約3000人の記者を抱えている。

米国の新聞は、自らの支持する政党や候補者を社説で事前に明らかにすると云う伝統がある。自らの立場を明らかにすることは、「客観的報道」などありえないということを自覚しているからだ。ところが日本の新聞の政治部は「不偏不党」を謳いながら、政権与党に擦り寄った報道を繰り返している。自民党の派閥ごとに担当記者を置き、デマを流したり、スキャンダルを隠したり、特定政治家が首相になれば自分も社内で出世が出来るというような、オブザーバーでと云うよりはプレーヤーになっている。NHKでは島会長、海老沢会長などがまさしく政治介入型記者であった。だから国会承認が必要なNHK事業報告がスムーズなのだ。日本の新聞が如何に政府寄りの情報を流すかの典型的な例が、2008年3月のガソリン暫定税率法の期限切れ報道であった。国民的視線に立てば、ガソリンが値下げになるのは歓迎すべき事柄なのに、政府の言い分通り、値下げをすると混乱が起きて国民が迷惑するといった報道を流した。困るのは石油業者、財源の減る地方自治体と官僚にすぎないの、これで一体新聞は誰のいい分に忠実かがはっきりした。

国会での記者クラブでは奇妙な光景があると云う。ぶら下がり取材が終ると各社の記者たちが円陣をくんで記事メモを見せ合う習慣である。取材内容の確認をしているのである。円陣を組む「メモ合わせ」はジャーナリストとしては致命的な悪習である。これではどの新聞を読んでも記事は同じような内容になる。海外では若し記事内容が字句まで同じであれば、その記者は間違いなく首になる。独自性がなく、新規な切り込みがない才能のない記者と云う烙印を押されるのである。まさに記事のコピーといわれてもやむをいえない。メモあわせでなくとも、警察番記者が貰う警察発表記事をそのまま記事にする悪習も目立つ。そして「権威筋」とか「政府筋」、「政府高官」、「自民党幹部」とかいう名での情報リークはクレジットを隠す姑息な行為である。海外の新聞では取材元を検証できない記事は没になる。日本では「筋」でいいらしい。誰にも確認が取れない記事は記事ではない、デマかもしれない。

政治記者が政治家・政府官僚に近寄り、その筋の引き立てで社内で出世をして記者が経営者になる例はNHKに極めて多い。NHKの「公共放送」に疑問を呈した書として、川崎泰資著「NHKと政治」 朝日文庫(2000年3月発行)があった。こうして自民党はNHKを支配したのだ。ニューヨークタイムズと云うより米国の新聞では編集局と経営は全く独立している。記者の最終位置は編集局長であり、経営陣が編集局に口を出すことはない。不健全な編集と経営の癒着は日本のマスコミの特徴である。2007年秋の「大連立」の仕掛け人であるといわれる読売新聞の渡邊恒雄氏は会長権主筆という、経営と編集のトップを兼ねているが、これは欧米では奇妙な独占と映る。まして編集が政治のプレーヤーになってはいけない。政治権力の監視役であるジャーナリズムが政治権力の当事者になっては矛盾である。

2008年2月宮内庁から「秋篠宮家」の報道に関する「申し合わせ」が各新聞社に要請された。つまり「縛り」、「報道協定」、「自主規制、自粛」が宮内庁から堂々と新聞社に要請され、各新聞社は唯々諾々とそれに従った。宮内庁と云う行政機構が流す情報どおりに新聞記事にすると云う内容である。大政翼賛会以上に宮内庁に対する隷従である。おまけに宮内庁の要請には「罰則」まで付いていた。これに従わないなら今後便宜供与はおこなわないというものである。何時から新聞社は宮内庁の下部組織(広報部)になりくだり、職務命令まで受ける立場になったのだろうか。この公権力との癒着は皇室報道だけに限ったものではない。日本全国のあらゆる記者クラブで共通して見られるようだ。これは世界では日本と韓国の一部にしか見られない特異現象らしい。岡田代表の時に民主党は記者クラブを開放した。これは画期的なことであった。30年以上日本外国特派員協会FCCJは記者クラブの開放を求めて抗議しているが、最近ようやく一部で発言権無のオブザーバー参加を認める動きはある。全新聞の論調が揃うことが度々起きる。まるで大本営発表のように。2007年秋インド洋での給油活動法が切れた時、日本の国際信用が低下すると新聞は書き立てた。別に信用度低下どころか、アメリカは極めて冷静であった。つまり新聞はありもしない危機感を煽って政府自民党の政策に有利に世論を誘導しようとした。政府発表の報道に頼りきって、それを疑問視しない批判精神の欠如が政府の提灯持ちに堕している。新聞はこのような公権力の一部になりきって安心している。

2、ジャーナリズムの誇りと責任

NHK記者採用に政治家の推薦状が有利である事は公然の秘密である。NHKは「歩けば政治家の子女にあたる」といわれている。そもそも米国メディアは新卒採用はない。専門分野を持った人物のヘッドハンティングが主流である。そして記者とは年度契約で野球選手と同じ考えである。記者のほうはキャリアーとして、最終的にはフリーランスとして活躍する事こそ究極の目標とする人が多い。記者の間に専門分野で本を著わす事が重要視されている。会社は記者に本の出版のための優遇措置を与えるのだ。そして記者として一番大事なことは、署名できない記事は書くなということだ。書かれた相手への尊敬の念を忘れず書き、だから相手の名を明らかにしながら自分の名を匿名にして逃げるような事は決してあってはならないことなのだ。米国では署名記事が絶対条件になっている。2008年6月18日朝日新聞の「素粒子」欄で死刑執行のことで鳩山邦夫法務大臣(当時)を「死に神」と呼んだ。これに対して犯罪被害者の人々や全国から抗議を受けて6月21日に「コメント」を出して批判を断ち切ろうとした。この「コメント」たるや謝罪にもなっていないし、責任の所在は不明である。「素粒子」蘭は無記名記事であることから、朝日新聞はのらりくらりと逃げているだけであった。

新聞がお互いの氏名を曝してまでやりあうことは殆どない。それは下のランク週刊誌のこととお高く留まっているが、自らが批判の対象になった場合、目も当てられない醜態に陥る。いかに日頃から討論の訓練がなされていないかが良く分かる。高い安全地帯から匿名で記事を書いて議論を避けてきたからである。ジャーナリズムで批判の対象になるのは「私人」ではなく「公人」である。公人とは税金で持って生活している人をさし、「準公人」とは記者会見や寄稿誌で反論手段を持っている人々をさすと上杉隆氏は定義する。それ以外の反抗手段を持たない民衆を叩くのは武士の風上にも置けない狼のやることらしい。従ってテレビでご活躍のジャーナリストはたとえ同業者でも批判の対象となる。

3、記者クラブとは何か

1999年、ニューヨークタイムズのクリストフ日本支局長が小渕首相に単独インタービュを試みたが内閣記者会に阻まれて実現しなかった。内閣記者会が内閣へのアクセス権を独占して身内以外の記者のアクセスを妨害しているからだ。その時内閣記者会にインタビュー申請書を出すと、返事は「記者クラブ会員でもなく、オブザーバーでもない記者の単独インタービュは認められない」ということだった。政治家も自分が断るのではなく、内閣記者会をつかってメディアの交通整理をやらさせている。内閣記者会はあたかも内閣官房室のような機能を持っている。つまり政治のプレーヤーである。ジャーナリストの取材源へのアクセス権が保障されるのは万国共通の常識である。これは世界のフリープレスの原則と云う。こんな当たり前のことが保障できない日本のメディアは世界の笑いものである。海外もメディアよりもさらに立場の弱いのが日本のフリーランス・記者である。フリーでは内閣記者会主催の記者会見に出ることは至難の技である。そこで著者の上杉隆は永田町ではいつもゲリラ取材をする。そのため政治家・官僚から忌み嫌われている。首相のぶら下がり会見には、立花隆氏や櫻井よし子氏のような著名なフリーランスが申し込んでも門前払いを食らう。ということでニューヨークタイムズ紙東京支局としては、内閣記者会に参加を申請するため二社の推薦状を取る事は容易だが、こんな身勝手なルールに従う事は世界の常識に反するとして、意見書を送った。

記者クラブの歴史は1890年帝国議会の発足と同時に「議会出入り記者団」を結成した事に始まる。「情報を隠蔽する体質の根強い官庁に対して報道側が記者クラブをつくり、公権力に対して情報公開を求める」と云う労働組合のような志で作られたが、戦前大政翼賛会に吸収され、戦後1949年アメリカ占領軍の下で親睦団体的な意味で再結成された。ところが1978年日本新聞協会の見解で「日常の取材活動を通じて相互の啓発と親睦をはかる」という取材のための団体に変心した。メディアの選別と排除という権力側の機能の一部代行をおこなうことで、権力側と取引をしたのである。記者クラブが「出入り禁止」ということを他のメディア媒体に対して強行できるのは、権力との一体化であり、記者クラブの驕りと欺瞞の本質はここにある。本来国家首脳へのアクセスは国家が選別する。いやな相手には会わなくていい。それを国家が表明する事で、時の権力の性格が分るのである。それをカムフラージュしてくれるのが、記者クラブである。つまり日本の新聞は政府の広報機関と同じ役割である。恐ろしい変質が起きた。あの公権力に対してスクラムを組んで取材しようとする明治のジャーナリズム精神は何処へ消えたのか。政治家はテレビ・新聞記者に対しては警戒心を抱かない。恐れるのは雑誌とかフリーの記者に対してである。

記者会見というのは権力側が主催するのではなく、かたち上は記者クラブ主催が前提である。記者クラブは自分達が情報を独占し、同業者の取材を妨害することで、情報の選別もおこなっている。新聞記事は既に発行される以前に偏向している。読者が本当に判断しなければならない情報は交通整理され加工されている。もっと最悪なのは、記者が自分の足で取材することが少なくなっており、公権力側の情報の垂れ流し(リークと云う名の謀略や世論誘導操作)に頼り切った、足腰の弱い取材しか出来ていない。腐った肉を投げられても、腐っているかどうか自分で判断しないことが致命的である。

4、健全なジャーナリズムとは

ニューヨークタイムズ紙はアメリカの地方紙であるが、地方の文化となっている。日本では岩波出版や朝日新聞が知識人と文化のよりどころであるのと似ている。ニューヨークタイムズ紙での記事の評価には「アフガニスタンルール」と云うものがある。つまりアフガニスタン戦争のような遠方で起きた事件を報じた記事は取材は簡単で、誰も簡単には検証できないので好きなように煽動的に書くことができ、想像を交えて思い切った言及ができ人気を得やすいが、社内では評価されない。むしろニューヨーク市の地方記事ほど検証が容易で、ウソはかけないし当事者が多いので記事内容は細部まで緻密である。又反論も受けやすいのでしだいにレベルが向上する。このような記事に賞を与えるべきだと云うルールである。若い記者はそうした検証困難な記事に流れやすい。批判精神の欠如した日本独自の「スポーツジャーナル」に流れるのと似ている。新聞の最近の傾向として自分に体験を書くメモワール文学(随筆)が盛んだが、それはジャーナリズムの自殺行為である。個人の体験は検証できない議論の対象にならない。文学書を読めばいいことはジャーナリズムの使命ではない。日本では最も反発の強い現政権への批判記事は安っぽいと見られたり、関係者の死に絶えた過去の記事や事件を懐古することを評価する傾向がある。それは違う。ジャーナリズムは究極的には権力監視であり、現在を切り取る作業である。同時代に時の権力の真実や不正を知らせる事こそジャーナリズムの真骨頂である。

日本の新聞は誤報を隠そうとする悪しき体質が昔から顕著である。官僚の無誤謬性神話とおなじ驕りである。同業他社のミスにも目を瞑る。いわば馴れ合い護送船団業界である。海外の新聞は違うらしい。自らの過ちに極めて正直であろうとする。正直でなければ生き残れないからだ。そのため新聞には「訂正欄」が確立している。日本の新聞で「訂正欄」を持つ新聞はない。ニューヨークタイムズ紙ではイラク戦争の口実となった大量破壊兵器の疑い報道を行った。大量破壊兵器がデマ報道であったことが分っていまニューヨークタイムズでは検証キャンペーンを始めた。世界中の新聞の間違いは多いが、その間違いを検証することは日本の新聞ではありえない。9.11事件でピュリツアー賞を受賞したジェイソン・ブレア記者の記事が捏造盗作に満ちていた事が分り解雇追放された。時の編集長も追放された。これだけ不祥事が続くとニューヨークタイムズ紙は倒産かといわれたが、徹底的に過ちを認め再発防止を約束した事で読者が戻った。2005年1月「安倍・中川氏の圧力でNHK番組改変」を扱った朝日新聞記事はその後の上杉隆氏の検証で、中川氏は関与していなかった事が判明した。朝日新聞は記事を書いた記者を不明にしたまま、誤報を最期まで認めず、曖昧に時の過ぎるのを待った。誠に哀れむべき官僚体質である。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system