2010年1月3日

文藝散歩 

ショーペンハウエル著 「哲学小論文集 三部作」
岩波文庫


主著「意志と表象としての世界」を補遺・注釈する哲学小論文集三部作

私は哲学は苦手であり、あの抽象的思惟にはとても付いて行けない。従ってまともな哲学書は読んだことはない。今回のショーペンハウエル著「哲学小論文集 三部作」 である「読書について」、「自殺について」、「知性について」は哲学書という意味で読んだわけではない。なんと失礼なと言われそうであるが、随想ぐらいの感覚で手にしたのである。ショーペンハウエルの主著「意志と表象としての世界」も読んでいない。この書の書評として有名な松岡正剛氏の千夜千冊遊蕩篇「意志と表象としての世界(T、U、V)」を紹介するに留める。これとてかなりの長文である。つまり今回の文藝散歩であるショーペンハウエル著 「哲学小論文集 三部作」は彼の哲学の周辺を散歩するだけで、哲学の本丸は歯が立たないので眺めるだけにしておこう。今回の書物は北海道大学文学部の人たちによって訳出された岩波文庫本三部作を読んだ。以下の書物である。
1) ショーペンハウエル著 斉藤忍随訳 「読書について」 岩波文庫(1960年)
2) ショーペンハウエル著 斉藤信治訳 「自殺について」 岩波文庫(1952年)
3) ショーペンハウエル著 細谷貞雄訳 「知性について」 岩波文庫(1961年)

アルツール・ショーペンハウエル(1788-1860年)はドイツの哲学者でカントの観念論の流れに位置する。欧州では市民革命後の産業革命の時期で、日本では幕末の時期である。本書はショーペンハウエル晩年の著書「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」(1851年)のなかの一部である。主著「意志と表象としての世界」(1819年)は彼の30歳にして完成した哲学体系であり、それ以降の彼の人生は主著の注釈・付録・補遺に終始した。その労作「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」はその内容からすると、彼の「哲学小論文集」である。「哲学随筆集」といってもよい。本当にこの著作を理解するには当然主著を読んでいたほうがよいのだろうが、何せ大部であり、難解な「観念論」であるので遠慮したい。主著を知らずとも一応読めるのが「哲学随筆集」の謂れであろう。ショーペンハウエルの主著「意志と表象としての世界」は発行以来長い間無視されてきたようであるが、主著よりもこの「哲学小論文集」は人々に愛読されてきた。それは歯切れのいい辛口の厭世観に満ちた「警句」や「アフォリズム」は読む人の知性を刺戟するからである。ショーペンハウエルの哲学は我国においてあまりポピュラーではないし、真正面から問題にされることもなかったという。欧州では19世紀中頃以降からショーペンハウエルの哲学に関する関心が高まり、ニーチェなどにも影響を与えたといわれる。ショーペンハウエルは一流の文章家であり、警句箴言の大家である。彼の文章中で「天才」という言葉が頻出するので、彼の哲学を私のような凡才ではとても理解できるわけはないのだが、この三部作に関しては面白くて分りやすい。彼は「カントと自分の間には何も見るべきものはない」とドイツ観念論の正統と自負して、ヘーゲルをコテンパンに貶しているが、この辺の哲学上の論争については私は立ち入らない。ただ出版会やジャーナリズム批判については今でも十分新鮮である。

ショーペンハウエルは裕福な商人の家に生まれ、ベルリン大学でフィフテに接し、ゲーテにも接触した。1820年ベルリン大学の私講師となり、正教授ヘーゲルと競争講義をして破れたのは有名な話である。彼の前半生はドイツ観念論の範疇にあり、30歳で終世の哲学体系「意志と表象としての世界」を著わしたが、世に迎えられず私生活の思索のなかで自身の哲学を深め、晩年になってようやく一般の思想界に登場した。30歳の哲学を一生守り抜くという自己貫徹のたくましさが彼の思想生活である。カントの「物自体」に相当する「自己」として把握したのが「意思」である。それはカントが説くような実践理性に導かれた意志ではなく、生と現実に押し向かう盲目的(大脳中心部的)な生命意志である。人間が経験する世界は現象に過ぎない。しかも生命意志の惨虐な実態を反映する表象で、悪夢が人生である。なんと悲観的な悲惨な厭世的な世界である。つまりドイツ観念論の崩壊後に生まれた、ぺシミスティックな幻滅の人生観を基調とする世界観である。キリスト教の人間の「原罪」の宿命に似た、生まれてきたこと自体が罪で、何のためにこの世に出てきたのか分らない。そこに残された生き方とは禁欲と幻想なき受苦の生活である。この点でショーペンハウエルは仏教に極めて接近したといえる。ショーペンハウエルの哲学には矛盾が多いといわれる。意思的存在の2次的な現象に過ぎない「認識する知性」でどうして、この世界を認識しているのか自己矛盾である。盲目的意志は認識しないのである。個ではなく連続する生命体の意志とは何ぞやと問いたい。それはそうとして、彼の哲学の本質は形式的には観念論であるが、人生感的実質にあるといえる。それは宗教といっていい。カントや観念論者が全面的に肯定していた欧州的な人間本質とその歴史的発展を、彼が始めて全面的に否定したのだ。政治的にいえば、欧州の市民革命の楽観主義が挫折し始めた頃、それを受けたトーマスマンやニーチェのニヒリズム思想に影響したのである。



ショーペンハウエル著 斉藤忍随訳 「読書について」 岩波文庫(1960年) 
1) 思索

自分で考え抜いた知識であればその価値は絶大である。知るためには学ぶべきであるが、しかし考え抜かれたことしか知にはならない。読書と学習は誰でも直ぐに取りかかれるが、思索はそうはゆかない。自ら思索することと読書では精神に及ぼす影響は計り知れない。すなわち読書は精神に他人の思想をおしつけることであるが、自ら思索する精神は自らの関心と衝動によって動く。読書は思索の代用品で、読書は他人に思索してもらうことである。ゲーテは「己のものとすべく、自ら獲得せよ」という。つまり自ら思索する者はまず自説を立て、それを補強するために他人の説を学ぶに過ぎない。哲学者にも「書籍哲学者」と「思索哲学者」の別がある。「書籍哲学者」は他人の意見を比較検討し批判するのである。博識強覧の批評家である。これに対して思索は何時やってくるか、自分の意志とは無関係にやってくるものである。何もしないでそれが現れるのを待つべきであり、読書で時間を費やしていては思索の到来の機会も見逃してしまう。「思索哲学者」は事柄そのものを自ら直接に根本的に問題にしている。読書と同じように経験も思索の補強にはならない。権威ある言葉の前で思考停止し、その権威の力を借りて物をいうのは思索哲学者のすることではない。「ソフィスト」になってはいけない。知を愛する哲学者は自分自身のために思索するのである。

2) 著作と文体

著作家には二つのタイプがある。第1のタイプの人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値があると認めている人である。第2のタイプの人々とは書くために考え、出来るだけ長く文章を綴ろうとする職業著作者である。本の出版によって報酬を受け、著作権法で他人の追随を許さない。低劣な著作家は新刊書以外は読まない民衆の愚かさだけを頼りに生きている。彼らの名前はジャーナリストである。したがって著者には3種類ある。何も考えないで書く人、書きながら考える人、考え抜いてから書く人である。執筆すべきテーマの素材を自分の頭脳から取りだすものだけが、読むに値する著作家である。
学問・文学が常に進歩すると信じたり、新しいものはいつも古いものより価値があるを思い込むのは非常に危険である。新刊書の悪書が古人の良書を駆遂するのは世の常であった。我々は重大な問題についての創始者の著作、少なくとも定評ある専門の大家の著作を読むべきであり、むしろ古書(古典)を求めるべきである。
書名は簡潔で本質を突いたものでなければならない。
思想の価値をきめるものは、思索の対象つまり素材であるか、素材に施す加工(編集)、形式(文体)つまり著者が対象にめぐらせた思索のどちらかであろう。ドキュメンタリーなら素材にこるが、詩や文学のように形式に価値をおく範疇では素材に頼りすぎるのは絶対に禁物である。

思索・思想の命はまさに言葉になろうとする地点までである。思索に言葉は要らない。ひとつの仮説は頭脳の中に生きている。
風刺は抽象的な不定の価値の操作にあてるべきで、間違っても生きている人に風刺を加えてはならない。
不朽の作は時代が変わり人が変わっても何かひとつの美点を持つ作品である。その著者は大概同時代の人の支持を得られない孤独な著者である。彼は流行の外に身をおいている。三文文筆家の悪書が悪徳を撒き散らしているが、これを防止するには評論雑誌が正当に評価する必要がある。無頼漢的文筆家には「匿名」を廃止する必要がある。出版言論の自由はそれを抑制する法的仕組みも必要である。

文体は精神の持つ顔つきである。他人の文体を模倣することは仮面をかぶるに等しい。ある精神的作品を評価するには、その著者が何について、何を考えたかを知るにはおよばない。その人の全著作を読む必要があるからだ。さしあたりどのように考えたかを知るだけで十分だ。「いかに、どのようにして」とはその人固有の思索の性質であり、それが文体に現れてくるのである。ある著書の書いた書物の最初の数十頁をしっかり読め、その流儀がわかったら理解は流れるように進むのである。ここからドイツ哲学の文体の批判が出てくる。フィフテ、シェリング、ヘーゲルの悪口になるが、私にはその理由も判別できないので省略させて頂く。「制約する」、「定立する」などといった哲学用語の曖昧模糊性を指摘し、誰にでも分かる言葉を使えという調子で批判している。そして本章のかなりの部分をドイツ文法の時制の乱れを嘆いているが、これも私にはよく分らないから省略したい。ドイツ文学が堕落し、古典語が無視されている現在、文体が乱れるのも当然であるが、その原因は主観的であることだ。誰もがわかる明瞭に表現する義務があるはずである。18世紀初頭までは学者はラテン語で書いた。典雅なラテン語で書くことがドイツ文学者の誇りでもあった。ところが今では時制の乱れ、女性詞の乱れなど国語の荒廃、拙速粗雑文章となって現れている。ドイツ語の特徴は、いくつもの文章が織り込まれて複雑な構造になりうること、長文の悪文が書かれることである。最初は記憶力だけで聞き、後でよくその文章を考えないと分らない。最も悪いのは、二つの違った考えを十字架のように組み合わせとんでもない結論に導くことである。

比喩、直喩は未知の状態を既知の状態の還元することで大きな価値を持つ。直喩が一層詳しくなれば寓喩(寓意)となるが、如何なる場合もそれが何であるかを捉えようとすれば、まず比喩から出発しなければならない。理解とは結局ある状態を把握することである。異なった二つのケースに現れる同一の状態を把握するかぎり、状態一般についてひとつの概念を持ち、したがってより深い知、より完全な知を持つことになる。比喩の業は天才たることの証なのである。

3) 読書について

無知は富と結びついて人間の品位を落とすが、貧困と困窮は貧者を束縛し知から遠ざける。読書は他人に物を考えてもらうことである。ほとんど丸1日多読についやする勤勉な人間はしだいに自分で物事を考える力を失ってゆく。読んだことを後でしっかり考えないと、精神の中に根を下ろすこともなく直ぐに失われてしまう。著作者の才能を読書によって呼び覚まし明白に意識することが出来る。したがって読書によって自発的活動を促されることが目的である。文学においてもどうしょうもない人間のくずに行き当たる。悪書は読者の金と時間と注意力を奪い取るのである。読者は時代遅れにならないように読書に励み、皆と同じ話題にことかかないように、知識階層を誘導してきたのが出版界である。したがって読書に関しての心がけは、読まずに済ませば一番いいことだ。膨大な新刊書の寿命は1年である。不朽の名作といわれる天才の作品だけを熟読すべきである。また古典的書物を解説した本を読むが。その人の作品は読まないというヒ人がいる。それというのも新刊書だけを読むからである。シュレーゲルの警句に「勤めて古人を読むべし、古人の名に値する古人を読むべし、今人の古人を語る言葉、さらに意味なし」という。駄書を排して原書(翻訳でもよい)を読むべきである。秦の文学とは永遠に持続する文学である。

重要な書物はいかなるものでも続けて2回読むべきである。作品は著者の精神のエッセンスである。何度も読むことで、ひとつの作品を違った照明のなかで味わうことが出来るのである。精神の清涼剤としてギリシャ・ローマの古典の読書に優るものはない。政治史では半世紀は重要な意味を持つが、文学史は半世紀が意味のある時間とはみなされないこともある。たえず振り出しに戻る周転円であるからだ。人間の精神構造は太古の昔からそれほど変わっていないことになる。見かけ上同じことをぐるぐる廻っているだけの事かもしれない。文学、芸術、学問の時代精神が30年ごとに破産宣告を受けるのである。カントのドイツ観念論は19世紀前半に完全に破産した。文学史とは時代の奇形児の陳列室かもしれない。



ショーペンハウエル著 斉藤信治訳 「自殺について」 岩波文庫(1952年) 
1) 我々の真実の本質は死によって破壊せられ得ないものであるという教説の補遺

我々の個人的な意識の全部が、死後も個体的に存続するという「霊魂」の説に関して、多くの卓越した知性の持ち主が悪戦苦闘している。心霊と肉体を誤って対立させたり、肉体の永遠不滅まで高めた議論は、真実の認識である「我々の本来の本質は時間や因果や流転を超えて不滅なものである」を混乱させるだけである。死後には生まれる前の存在に戻るだけという割り切り方が必要だ。なぜ生まれるということは意味を持たないと同様に死んだらどうなるも意味を持たない。すなわち現存在は本質的に個人的なものであり、「我々」という場合はこれは生の本質をいい、個人を超えている。もし我々が一切を認識し理解している存在を考えるなら、永遠に存在するというのも時間の現象の形式に過ぎないので、時間という形式を外したら存在する物質も無になる。あるのは生という意志だけだ。新しい存在の絶えざる生成と消滅は時間と空間という脳の見方に起因している。この世界のものはすべては単なる現象でしかない。だが我々は物自体をあるがままに認識しているのではないというのがカント哲学の核心である。死は自分の生命の終りであるかもしれないが、自分の存在が死によって止めを刺されるということは有り得ないと確信できる。

「世界はわが表象である」というショーペンハウエル(カント観念論)の第1命題からして、客観的な現在だけが時間という直感を形式として持っているが、主観的な現在は不動で時間で流れるものではない。「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ」と考える。現在こそ一切の実存性の唯一の形式であり、その源泉を我々のうちに持ったいる。死は我々にとって全く新しい見慣れない状態への移行ではなく、むしろ我々自身の根源的状態への復帰(生まれる前も含めて)にほかならない。脳髄の作用である知性(個体的意識)はたしかに死と共に消滅するが、我々の生の意志こそが根源的なのである。これをショーペンハウエルは「再生の神秘」という。ここにいたっては宗教の境地ではないか。しかも仏教的輪廻にも近い概念であるが、「輪廻」は霊魂が別の肉体に移ることであり、「再生」は個体の解体と再建を意味し、その場合ただその意志だけが持続する。「知性は形而下的性質、意志は形而上的性質」という教説である。人間を二つの相反する性質である、時間と共に過ぎ去り行く個体と、現存在のうちに自己を客観化する不滅の根源的存在ということの対立を統一することが、本来哲学の主題である。

2) 現存在の虚無性に関する教説の補遺

この虚無性は現存在の形式全体のうちに表現せられている。時間と空間の有限性(一瞬ある)に表象する現存在は、無限なる意志の世界の中に存在するのである。時間と空間の観念性が一切の真実の形而上学の鍵である。万物が旋回と流転の中に巻き込まれているような世界に辛うじて身を保つ人生において、自分が一体幸福であったかどうかそれとも不幸だったのかは結局どうでもいいことなのだ。飢餓と性欲の中に生かされている人生、有限的現存在に対する否定的認識がプラトン哲学の基礎となった。生きんとする意志の否定が哲学の根底にある。個体的意志は飽くことを知らないし、人生が自己目的化しており、人間的存在が何かの錯誤ではないかという問いが現存在の虚無性のテーマである。現存在はそれ自体何の価値も持たないなら、退屈とは減存在が空虚であると云うことの感覚に他ならない。享楽の渇望でさえ達成されれば消滅する。その都度我々は現存在の虚無性と無内容に直面させられ、それが退屈というものである。結局人生は現存在の本質的な惨めさから脱出しようとする空しい試みにほかならない。人間は単なる現象であって、如何なる物自体でもないし、如何なる真実性もないということから、死の必然性が出てくる。時間は徹頭徹尾虚無的な現存在に持続という幻想を与える仕組みである。生物は流動的存在で、絶えざる物質の新陳代謝を条件として存在する生命体である。イデア観念だけが真実の存在であると云うのがプラトン哲学の根底であった。困窮と退屈の繰り返しということは、人生は何らの真実の内容を持たない、欲求と幻影によって動かされているだけである。

3) 世界の苦悩に関する教説の補遺

人生にとって本質的な困窮のなかからたえず湧き出てくる苦痛、つまり不幸一般が人生の原則なのである。我々が何かを意識するということは、それは我々の意志通りにいっていないことの証拠であり、何らの障害にぶつかっていることに相違ない。これを「矛盾」といってもいい。善と安楽と幸福は消極的意味であって、苦痛こそが人生の積極的意味である。(なんという悲観論者!) 何よりも力強い慰めは、自分より不幸な人を見ることであり、歴史は諸民族の戦争以外に物語るべきもものを持たない。労働と心労と困窮とは殆ど人生の全期間の運命で、誰でもがしっかりと真っ直ぐに人生を歩めるのはこの揺れ動く圧力のためである。安楽と幸福は人を退屈と堕落に導き、ひどい精神的抑圧を加えるのである。人間は脳神経作用が発達したため、動物より格段に感情や将来への不安が強い。また反省という報酬回路によって感情が増幅される。美食と麻薬・アルコールなどの快楽の感情、名誉と恥辱という社会的欲望に関する感情は人間のみが持つものだ。困窮と退屈という両極端の間の振幅が大きく、これが人間を痛めつける。そういったものから動物は解放されている。動物には不安も希望もない、なんと幸せなことか。さらに人間は快楽よりも苦痛の方がはるかに多い。人間が死の事を知っていることから、死に救済を求めるという宗教的心情に傾きやすい。恐怖と不安、災厄の予見が心痛を増幅する。この精神的圧迫がさまざまな精神病を生んだ。人間の高められた認識力が人生を一段と苦痛多いものにしている。認識が精神を苛むのである。子供や動物のように何も知らないことが一種の幸せである。大いなる希望にたいして、人生は全体としては失望と欺瞞である。徳川家康は「人生は重荷を背負って歩むが如し」といったが、人生は苦労して果たすべき課役であろう。世界はまさに地獄である。この世界が神の創り給うた傑作だという見解は結果的に欺瞞であろう。こんなへたくそな神もいないほど惨めな世界である。神の罪業に違いない。それを神は「人の原罪」といって人のせいにしている。キリスト教は本質的に厭世的な精神である事が分る。すると世界はまた人は、もともとあるべきではなかったところの何物かという疑惑が沸沸とわいてくる。世界は不完全性というより、むしろ歪曲性に満ちている。原罪が人間の本性であると云う教義であり、「人を赦す」という思いやりの精神に神はおられる。

4) 自殺について

旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らの禁令も、それを決定的に否定する言葉は何も残されてはいない。しかしユダヤ教徒は自殺を犯罪と考えているようだし、キリスト教徒でも自殺者の埋葬を辱め、自殺者は精神錯乱者と判断する。刑法で罰則によって自殺を禁じてさえいるのである。一対全体自分自身の身体と生命に関しては争う余地がない権利を持つものと考えるのは間違っているのだろうか。「時宣を得た死は何ものにも優る。神はかくも多くの苦難に満ちた人生における最上の贈り物として自殺の能力を付与してくれた。」とプリニウスは言っている。ストア学派にいたっては、自殺を一種の英雄行為として称賛されている。しかし英国国教会は自殺に反対する倫理的根拠として「自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単に仮象的な救済を差し出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗している」を挙げる。キリスト教はその本質において、苦悩が人生の目的であるという真理を含んでいる。一般的にいって、生命の恐怖が死の恐怖に打ち勝つ時人間は己の生命に終止符を打つものだ。精神的苦悩と肉体的苦悩の対立においてバランスが保たれていれば自殺はしない。純粋に病的に深刻な憂愁によって自殺へ駆られる人もいるが、その人たちは自殺への障壁がないのである。ただ自殺する本人にとって、自身の問いの解答は永遠に得られないというジレンマはあるが。

5) 生きんとする意志の肯定と否定に関する教説の補遺

生きんとする意志とは現存在の拡張であり、生きんとする意志の否定とは現存在の縮小である。今まで意欲してしてきたことをもはや意欲しなくなることで、生きることの否定は仏教でいう涅槃、新プラトン派のいう彼岸である。生きるために必要な知性が、生きる意欲を否定するという絶対矛盾に陥るのである。ギリシャ人の目的とすることは我々をして幸福な生活を送るにふさわしい人間になることである。インド人の倫理は人生一般からの解放と救済であった。ギリシャ・ローマの世界精神とキリスト教の精神との対立は、本来的には生きる意志の肯定と否定との間の対立である。結局キリスト教のほうが根本的には正しかったようだ。新約聖書の精神は禁欲主義的精神であり、生きることの意志の否定にほかならない。ショーペンハウエルの哲学は本当のキリスト教哲学といわれる。人間的欲望はそもそも罪で、従って生きんとする意志は退けられるべきである。この世に満ち溢れている悲惨と残虐は、まさに人間的本性の必然的結果である。生きんとする意志の核心は生殖行為である。男と女の役割(意志と知性、束縛と救済)についてはショーペンハウエルのいうことは私には理解できない。とかく彼にはユダヤ教徒と女性にたいする抜きがたい差別が存在するように思える。修道院や仏教徒の寺院も生きる意志の否定の修養場であった。不正な行為、悪意ある行為は、それをなす人間においては生きんとする意志の肯定の強さの指標である。人間の生活は通例悲劇としての性格を持っている。現存在それ自体は無い方がましな、一種の錯誤である。幸福な人生とはそもそも不可能である。



ショーペンハウエル著 細谷貞雄訳 「知性について」 岩波文庫(1961年) 
1) 哲学の方法について

我々の認識と科学とがその上に乗っている基礎とは、本来説明不可能なものである。それを形而上学という。人間一般のことから、そこから導かれる系のことに思いをめぐらせるのが哲学者である。個別的な物事の中に普遍的な事柄を見ようと努めるのである。普遍的な事柄へ向かう精神的傾向は哲学と詩、芸術と学問において、真に価値ある仕事を成し遂げるために必須の条件である。独立して活動する知性にとって、存在するものは概念やイデア(理念)という普遍的存在のみである。哲学をするためには、心にかかる如何なる問いも率直に出し、自明と思われることも問い直すことが必要である。詩的作品が想像力によって現出する世界は万人によって享受されるが、哲学的体系系は生まれるやいなや、他人の考えに対して戦闘状態になる。哲学体系は独立王国を要求して、そして不朽の位置を勝ち取るのはやはり偉大なことである。哲学の省察に較べて、対話は断片的で生産的ではない。哲学者も天賦にして初めて成るもので、詩人よりも稀な存在かもしれない。哲学を概念に基づく学問とするのは一面的で、真の哲学は単なる概念から編み出すことは出来ず、内外の観察と経験に基づかなければいけない。全体として哲学は時計の振り子のように、合理主義(客観的認識作用)と照明主義(主観的認識作用)の間を行きつ戻りつするものである。合理主義は独断主義から批判主義、先験哲学のことで、照明主義とは内面に向かう知的直感、理性とかを重んじる神秘主義となり、伝達不能になり、言語も役に立たない。ショーペンハウエルの哲学は、哲学は伝達可能な認識であるべきで、したって合理主義でなければならいという。照明主義(神秘主義)を存在するものとして示しながら、そこへ踏み込まないように務め、世界の現実存在についての窮極の解明を与えようとはせず、客観的な合理主義の道で辿れるところまでしか進まなかったという。そこで自己の内部において告知され、内面の唯一の本質をなすところの意志という経験的事実うを把握し、そしてこれを客観的な外的世界認識の説明に使用するという方法で進んだ。

哲学に懐疑は必要であるが、懐疑派はいつも数学が備えているような明証を哲学が持ち得ないと非難する。知らないということがある事は明らかにしておくことが必要なだけで、この方法の重大さが損なわれるものではない。誰もが検討なしに真理と認める命題は大脳から生まれたものでこれを「理性の発言(公理)」と呼んでいる。唯物論であれ観念論であれ、事物の客観的な直感的な把握から出発し首尾一貫して展開された世界観はまったくの虚偽ということは無い。最悪の場合でも一面的だというに過ぎない。それぞれの真理性は相対的なものに過ぎないのである。しかし矛盾と虚偽が存在すれば、それは客観的な把握から発したものではなく、楽観主義にそのような面が見られる。形而上学(狭義の哲学)の進歩が自然科学の進歩に較べていかにも遅いとはいえ、哲学は権力者や宗教によって何時も圧迫を受けている。哲学の妨げになるのは先入観と偏見で、似て非なるアプリオーリとなって人を誤謬に誘い込むのである。人は書物の中から見出した思想、他人から習得した思想より、自分で得た思想をはるかによく理解できる。知性は世界を把握する手段とはなるが、世界の現実存在をその本質によって目的として理解することの方が決定的に優れている。意識し認識する主体はどうしても個人であり、真の現存は全て個人に属することになる。従って広大無辺なる外界はその現実存在を認識者の意識の中に有するに過ぎず、内に向かう哲学、主観から出発する哲学はデカルト以来の近代哲学の正道となった。哲学はどうしても経験的な基礎を持たねばならず、純粋に抽象的な概念から編み出すことは出来ない。哲学が考察する第1のものは、経験一般すなわち表象、認識、知性であり存在論と呼び、第2に抽象的表象とその操作の考察となる。これを形而上学と呼ぶ、狭義の哲学である。現象の背後に潜んでいる本体の考察を形而上学というが、自然、美、道徳の3部門に分かれる。魂の形而上学は存在しない。

2) 論理学と弁証法の余論

普遍的真理はそれから相当数の特殊的真理を導くことが出来るため、普遍的真理を得ることが哲学の目的となる。総合判断とはすでに知られている知性の中に存在する二つの概念から、第3の概念を形成することである。分析判断は定義するだけの同語反復である。ひとつの命題からはひとつのことしかいえない。二つの命題を組み合わせて3段推論(3段論法)でそれ以上の帰結を導くことが出来る。命題の証明とは、すでに確定された一つの命題から、もうひとつのた確かな命題を論理的に導くことである。これらの約束事が論理学である。理論的な問題についての討論・論争は少なくとも同じようなレベルの哲学者間でやらないと有意義ではない。論争で使われる手練手管が論理学、弁証学、修辞学であるが、不正直な手管も多い。アリストテレス、プラトン以来、弁証法が対話の方法を説いている。論争の骨格論というべきものは、テーゼが提出され反駁が試みられる。反駁には対象に訴える様式と相手に訴える様式がある。相手の前提とする否定してかかる「直接の道」と、その推論帰結に非真理性を見出す「間接の道」がある。そのほか「帰謬ウ法」、「拡張解釈」、「理屈詰め」、「方向転換」、「時間稼ぎの自説固持」など攻撃の戦術は多々あるが、我意や虚栄や不正直と結びついた逃げ口上をあげつらっても気分が滅入るだけである。しかし討論では一応注意しておかないと言い込められる。

3) 知性について

哲学においては必ず前提があり、主観的なもの(自己意識、表象、主観、意志)から出発したカントは、主観的なものから客観的な物を導き出した。カント哲学を補充する意味で、外的自然という客観から知性を導きだす反対の事をショーペンハウアーが行ったという。

4) 物自体と表象との対立について

物自体とは、我々の知覚にかかわらず現存するもの、本当の意味での存在する者という意味であった。デモクリトスにとっては「形ある物質」、カントにとっては「不可知のもの」、私にとっては「意志」である。最もはっきりした唯物論から始まり、しかし観念論への道を辿って、ショーペンハウアーに至って完結する系列であると彼は自讃している。我々が事物と世界全体について経験的に認識できるのは、その表象すなわち表面だけである。この現象の詳細な知識は自然科学(形而下学)である。自然学的説明はいつも原因からの説明であり、形而上学的説明はいつでも意志からの説明である。意志とは自然の中では「自然力」として、さらに「生命力」として現れ、動物・人間には「意志」という名を与えられる。理解するということは表象の作用であり、理解の対象は現象に限られている。存在する者自体が自己を認識する「自己認識」は、意志が自分の有機的身体とその頭脳でもって自分の知性を創造し、この知性をともなって自己を意志として発見認識するのである。事物の内的本質は、根拠律(原因の連鎖)には無縁である。それは物自体で、純一なる意志である。あらゆる事物の根本的性質は無限に営みを続けることである。知性ではこの闇を知る事はできない。カントは「知性は超越的には使用できない。理性は形而下的であって、形而上学的ではない」という。

5) 汎神論について

有神論と汎神論の論争が起きている。汎神論は「世界は神である」という。汎神論は有神論を前提として受け入れている。すると人は世界から出発すべきであるのに、神から出発する。そして神の役目を世界に引き受けさせるのが汎神論の起源である。世界は苦しみあえいでいるように神も苦しまなければならないが、それも一興ではあるが、もし神ならもう少しましなやり方があってしかるべきだろう。汎神論は仮装した無神論である。最高の力と最高の知恵が神の属性なら、汎神論は不合理である。愚かな人を悟らせるための細工だと思えなくも無いが、全知全能の神のすることではない。汎神論者は輪廻転生に神という名を与えているが、神秘主義者は涅槃という名を与えている。一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ根)だけは正しい意味で神を定義している。


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