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太田昌克著 「日米<核>同盟」−原爆、核の傘、フクシマ
岩波新書(2014年8月)

米国核の傘の抑止力に依存する日本の安全保障と原子力核燃料サイクル神話に固執する政策を問う

本書の著者太田昌克氏は共同通信社の記者で現在は編集委員。1900−2000年メリーランド大学にフルブライト留学し、2006年ボーン・上田国際記者賞、2009年に平和協働ジャーナリスト基金賞を受賞した。著書から氏のジャーナリスト活動が分かる。「盟約の闇」(日本評論社)、「アトミック・ゴースト」(講談社)、「秘録 核スクープの裏側」(講談社)、「日米核密約の全貌」(ちくま選書)というように、主として核問題を追いかけてきたようである。1945年8月6日と9日の2回にわたり、日本はアメリカの人類史上初めての原爆投下の犠牲となった。これが戦後の核時代の幕開けで、かつ米ソ冷戦の始まりであった。米国は大戦中はヒットラーと戦い、戦後はソ連・中国という共産国陣営を敵にした戦略に替わった。そのため朝鮮戦争を契機にアメリカのの対日政策は大きく転換し、平和民主国家から対ソ・中冷戦体制の東アジアにおける自由主義陣営の基地としてそして先兵としての役割を担うことになった。サンフランシスコ講和条約と同時に旧「日米安保条約」という「日米同盟」を結んだ。その日米同盟は「核の同盟」である。そのことを再認識させられる事件が起きた。2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故であった。「日米<核>同盟」の盟主であるアメリカ国家安全保障会議は核テロに関係する「被害管理対応チーム」を人知れず日本に送り込んだ。米軍ヘリコプターを使って空中測定システムによって、福島上空から放射線量を測定して事態の把握に努めた。政府は科技庁の「スピーディ」という被害予測ソフトがあることも知らない段階のことである。日本の原子力発電が提起されたのは、1953年アイゼンハウアー大統領による「平和のための原子力」という戦略は、日本を「原子力の平和利用」という美名の下、日本を核の軛に縛り付け、同盟のたがが外れないようにすることが狙いであった。核兵器大国である米国は冷戦構造が核戦略を主軸としたものである以上、日米関係の「核同盟化」を図った。その象徴は、2010年民主党政権のもとで「国家のうそ」を認めた「日米核密約」である。日本政府は「核の持ち込み」はないという非核3原則の堅持という手前、米国核装備戦艦の日本の領海通過及び港湾への入港はあり得ないと国会答弁を繰り返していたが、実際は暗黙裡に「持ち込み」ではない「通過・立ち寄り」を黙認するという密約を結んでいたのである。日本が米国の「核の傘」による核抑止力を期待する以上日本政府がとらざるを得ない政策であった。福島原発事故後「日米核同盟」の深化が垣間見られる。民主党野田政権はは2012年9月「2030年年代の原発ゼロ」を宣言する一方「核燃料サイクル路線」の継承をするという、一見理解不可能な決定をした。核燃料サイクルには原発の技術開発以外に、核兵器に転用可能なプルトニウムを増殖させるという目的が見え隠れしている。つまり核燃料サイクルのプルトニウムには核兵器抑止力が埋め込まれているのである。そしてそれは厳格に米国の核戦略下で管理されている。原子力の平和利用とは核兵器は廃絶されないかぎり、核兵器と原発は裏表のセットになっている。世界唯一の核戦争被害国である日本は「核同盟」の虜状態と言いても過言ではない。日本の超保守勢力安倍首相らは集団的自衛権の解釈次第で戦争に参加できる国を目指しているが、それは積極的な核抑止力を前提とした米国の戦略下にある。日本の超保守層は「独自核武装」も夢見ており、プルトニウム大国日本の抑止力だけでなく、核武装も技術的には視野に入れておきたいのである。本書を流れる一貫したテーマは「核・原子力に対して日本人と人類は今後いかに向き合ってゆくか」という問いである。

日米安保条約と集団的自衛権については、豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」 (岩波新書 2007年7月) に詳しいが、戦後の日米安全保障条約の歴史が一読できる。原発の持つ核抑止力について、『今から約80年前に、ドイツの政治学者カール・シュミットは次のように指摘した。「自らの敵がだれなのか、誰に対して戦うのかを、もしも他者の指示を受けるとしたら、それはもはや政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」といった。国家主権の本質を「友・敵」関係(同盟関係と仮想敵国)の設定に求めた洞察は今も普遍的な意味を持つと考えられる。そうすると一貫して対米従属外交を戦後約70年近く続ける自民党は米国支配層のエージェンシー(代理人)に過ぎない。安倍首相が言う「アンシャンジーム(戦後体制)からの脱却」とは、対米従属路線を強化し、政治体制を戦後から戦前に戻すという信じられないほどの時代錯誤でなければ、知性の劣化著しい「痴人の夢」である。戦前型支配層の果てしない夢かもしれないが、国民を窮地に追い込むきわめて危険な夢であることは間違いないので、これは丁寧に反論してゆかなければならない。なにしろ彼らはあらゆる権力とメディアを使って、国民をだます術に長けているから。日本の核武装の要である原発再稼働と集団的自衛権は密接に関係していることを明らかにしてゆこう。原発は電力会社のドル箱だけではなく、日本の安全保障上のいわゆる「隠れた核抑止力」であり、同時に恰好のミサイル攻撃目標となるからである。ここで本書の原点となる集団的自衛権を定める国連憲章を見よう。憲章2条4項で、 「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない。」と武力行使禁止原則を謳っているが、次の3つの場合のみ武力行使が認められている。
@「安全保障理事会の決定に基づいて取られる軍事的措置」 
A国連の名において実施される集団安全保障
B加盟国に対する武力攻撃が発生し、安保理が必要な措置を取るまでの間に認められる、個別的自衛権と集団的自衛権の行使である。
集団的自衛権とは通説では「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」といわれる。これは軍事同盟にあてはまり、国連安保理の管轄下で実施される「集団的安全保障」と、軍事同盟の「集団的自衛権」とは根本的に異なっている。そして日本国憲法第9条は「国際紛争を解決する手段としての武力行使を放棄し、国の交戦権を否認する」とあるため、「集団的自衛権」の行使は認められないということが1970年来政府の一貫した解釈となっている。これに対して自民党は(政府担当政党だった)憲法改正を訴えてきたが国民の賛成を得られず憲法改正はできなかった。それを安倍政権は憲法改正と集団的自衛権を俎上に載せようとしている。アメリカの仮想敵国はこれまで幾度も変わってきたが、日本政府は無条件にこれを支持してきた。日米の仮想敵国とは現在は、超大国を目指す中国と核ミサイルを急ぐ北朝鮮のことであろう。アメリカは日本に対して、北朝鮮が発射したアメリカに向かう弾道ミサイルを、日本が迎撃できる「法的・軍事的体制」の整備を強く求めてきた。この「法的体制整備」が集団的自衛権の問題なのである。2003年12月に小泉政権がミサイル防衛システムの導入を決定した際の「専守防衛に徹し第3国の防衛のためには使用しない」という大前提さえ破るものである。』

新しくできた原子力規制庁緊急事態対策監の要職にあった某官僚がまだ資源エネルギー庁原子力政策課にいた2002年ごろ、当時の経産大臣平沼に呼び出されたという。再処理事業を続けるべきかどうか意見を求められたという。某官僚は建設費用が膨大なこと、エネルギー安全保障の問題で再処理事業について結論が出せないというと、平沼大臣は核燃料サイクルには経済的な次元を超えた国益があるといって核燃料サイクルの徹底推進を唱えたという。別次元の国益とは「潜在的核能力」のことである。つまり独自核武装の潜在的能力をてこに安全保障問題に立ち向かう姿勢を自民党平沼大臣は述べたのである。次期自民党総裁。首相を狙うう位置にいる(2014年9月)石破茂氏は「技術的抑止の必要性は高まりこそすれ、低くなることはない。プルトニウム濃縮と再処理の核燃料サイクルは回し続けなければならない」という。唯一の被爆国日本の権力機構の中枢にはこんな幻影が彷徨い続けているのである。まさにゾンビである。このような大日本帝国のゾンビを嫌うのは私達国民だけでなく、日米核同盟の盟主アメリカも日本を無力化したはずなのにと神経をとがらせている。冷戦時代最後の大統領レーガンは憲法改正や安保改定が日本尾自立かに結び付き、それが日本の核武装につながらないかと警戒していた。ところがオバマ大統領は日本の集団的自衛権行使容認を支持した。オバマは冷戦時代も過ぎた時代に集団的自衛権行使→自立化→独自核武装という単純な方程式は成立しないこと、そして何よりも日本の強力な反核世論が日本の核武装を許さないとの見方を示した。日本の集団的自衛権の行使を容認しても問題はない。むしろ財政の逼迫するアメリカの負担軽減になると見た。それでも日本に与えられた特権、すなわち原発から出る使用済み核燃料の再処理実施の包括的事前同意(1988年)という権利が、2018年で30年の日米原子力協定の有効期限を迎える。欧州原子力共同体加盟国を除き、米国が輸出した濃縮ウランや核燃料の使用済み核燃料の再処理を認めている非核保有国は日本だけである。オバマ政権内では日本が再処理を放棄するのが望ましいという認識で一致している。これが「2018年問題」というものである。日本の電力業界は東海村の再処理工場および英国、フランスでの使用済み核燃料の再処理委託事業を実施してきた結果、現在では45トンのプルトニウム大国となった。これは5000発以上の核爆弾となり得る量である。ただこのプルトニウム純度では「原子炉級プルトニウム」であり、プルトニウム239が大半を占める「兵器級プルトニウム」ではない。プルトニウム240が存在しても核爆発を妨げるわけではない。これだけのプルトニウムを蓄積する日本に世界が向ける目差しは複雑である。まして3.11以降軽水炉でのプルサーマル事業が止まっている段階でプルトニウムを消費できるめどは立たない。国も電力会社も青森県六ヶ所村の再処理工場の稼働を推進する姿勢は3.11後も変わっていない。六ヶ所村の再処理工場でプルトニウム回収が進むとすると、消費のメドもなくプルトニウム蓄積が進むことになり、国際社会の目は厳しくなってゆく。米国政府内の核不拡散推進派、特に連保議会からは日本尾「特権」はく奪をもとめる動きが顕在化すかもしれない。これが2018年問題の核心である。被曝国日本の政府は人道的立場から核兵器の使用を禁じるか「核兵器禁止条約」に後ろ向きである。それは日米核同盟の盟主米国の核の傘にある。核の傘がなければ、日本政府は不安で寝られないのであろうか。

1) フクシマとアメリカー3・11が照射した核同盟の底流

2011年3月15日福島原発事故を注視していたアメリカ政府の高官は2011年3月15日に次のような見解に達していたという。「あの時、ワシントンに大きな変化が訪れた。日本の事故対処能力に対する信頼が失われのだ。事態が制御不能になってゆくように映り、東京電力も現場を放棄し始めた。仰天した」と。3月15日未明菅首相は東電本社に乗り込み「日本はつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない」と檄を飛ばしたという。メルトダウンからメルトスルーによる12日1号機の水素爆発、14日の3号機の水素爆発、そして15日朝4号機の水素爆発と続き、東電作業員700名の内70人を残して第2原発へ避難をした。いわば極限状態になっていた。この危機のスパイラルに日米同盟の盟主である米国政府は日本政府と東京電力の当事者能力(危機対応能力)に見切りをつけたようだ。米国政府は3大核開発拠点の一つローレンス・リバモア国立研究所に「最悪のシナリオ」作成を命じた。これは日本側に共有されることはなかった。一方日本政府は3月25日に原子力委員会の近藤駿介委員長に「最悪のシナリオ」を策定した。そして日本版「最悪のシナリオ」は即時米国に開示された。メルトダウン、圧力容器のメルトスルー、使用済み核燃料の空焚きによる再臨界が発生し約1年核燃料は燃え続ける。その放射線により強制移転が必要な区域は半径170Km、自主避難区域は東京を含む半径250Kmにも及ぶというものであった。そうすると首都圏3000万人が西へ避難しなければならず、日本沈没の構図となる。この近藤氏作成の「最悪のシナリオ」はパワーポイント形式で13枚であり、福島原発事故独立検証委員会「調査・検証報告書」付録に収録されている。3月15日から米国政府は能動的に福島原発事故に関与し始める。事故対応物資の供給と同時に、海兵隊の特殊部隊CBIRFの隊員150名を日本に派遣した。核テロ対策チームであり、米国で2部隊を持つうちの一つを日本に派遣したのである。まさに放射能有事出動である。そしてアメリカ合衆国原子力規制委員会NRC専門家が2012年末まで日本に駐在して、原子力安全保安院の工程表作りから国際原子力機関IAEAに提出する報告書つくりの指導にあたった。こうした日米協力の構図は、日本政府の無能を暴露しただけではなく、日米同盟の本質をくっきり浮かび上がらせた。それは核のパワー「核の傘」を支配する米国の庇護下にある日本が「核の同盟」にあるということである。核の傘と原子力平和利用が表裏一体であることの本質を示している。被曝国であり同盟国である日本に原子力発電という肯定的側面を大衆にアッピールすることで、核の傘を裏付ける米軍核搭載艦の寄港を覆い隠す軍事戦略であった。「核の持ち込みに関する密約」は外交戦略であった。こうしてフクシマと核の傘が結びつくのである。核の傘が形成されてきたのは次の3段階による。
@ 1953年米回文空母オリスカニの横須賀寄港、領海通過(1992年戦術核撤去政策により終了)
A 1955年沖縄に配備された中・短距離の戦術核(1972年沖縄本土復帰時に撤去)
B 大陸弾道ミサイルICBM、潜水艦発射ミサイルSLBM、戦略爆撃機からなる長距離型戦略核(冷戦から今日まで継続)
日本で問題となったのは@の核搭載艦の通過・寄港問題であった。1960年の安保改定を実現した岸信介ら保守政権首脳らは原子力の軍事利用の「核の傘」の戦略的重要性を認識し、それを受け入れていった。そして岸らはマッカーサーとの間に「機密討論記録」という核搭載艦の寄港を事前協議の対象としない核密約を取り交わした。原子力の平和利用が日本に定着した経緯は山岡淳一郎著 「原発と権力ー戦後から辿る支配者の系譜」に詳しいので省略する。米国が原子力の平和利用をてこにしながら、日本を「核ならし」を推進、それによって被爆国の核アレルギーを緩和する方針から原発技術供与が始まった。

2) 3・11もう一つの教訓ー核テロチームを派遣した米国の懸念

原爆の被害は外部暴露と内部暴露の2通りがある。空気中の放射線量による外部被曝は体に損傷を与えるが放射性物質は残らない、内部被曝は放射性物質を体内に取り込んで(呼吸、食物)体内で被曝が継続するもので、放射線癌治療における線源埋め込みと同じことである。1945年の広島・長崎の被ばく影響は米軍の調査が不十分で、1969年になって米国「原爆傷害調査委員会」ABCCが長崎大学と共同で行った全身カウンターWBCが最初である。戦後すでに25年が経過した時点の調査で、結果は「被爆者の内部被ばく線量は少なかった」というお粗末な調査結果であった。内部被ばくによる死亡者(胎児被曝も含めて)が出尽くしたのちの生存者を対象にしていた。体内被曝が少なくて当然の結果である。そしてその結果をもとに政府は内部被ばく軽視の行政を横行させた。2011年3月14日ホワイトハウスの国家安全保障会議NSCは福島原発事故現場に「被害者管理対応チーム」CMRTを派遣し、空中測定システムAMSを使って上空から汚染状態の観測を行う決定をした。3月16日CMRTチーム33名が横田基地に到着し、17−19日まで第1原発の40Km圏の放射線測定を行った。そして米政府は偵察衛星や無人偵察機を使って原発上空の汚染や気温を測定し、圧力容器の空焚きを強く疑った。この特殊専門チームCMRTの役割が米軍による被災ち救援活動「トモダチ作戦」の露払いとなった。CMRTが海外に派遣されたのは福島原発事故が初めてであった。しかし18日よりCMRTから日本政府外務省に実測データを提供されたが、経産省原子力安全・保安院の担当者は幹部に伝えず首相官邸にも届かなかったという。恐るべき有事対応時の官僚の不作為・でたらめさである。3月20日には放射線汚染マップが米国政府荒日本側に提供された。これらのデーターが住民の避難情報に有効に使われなかったのはSPPEDIと同じである。これらの有事事態対応力の拙劣さが、専門家の無責任と無能力に対する国民的不信を巻き起こした。政府や官僚そして専門家の権威が地に落ちたのである。CMRTの放射線汚染マップによる米軍は「救護の不可能性」地域を把握し、米国民に80Km以内に近づかないようにという警告をだし、外国人の帰国につながった。この原発事故という4度目の惨事を経験したにもかかわらず、2008年に潘国連事務局長が提唱した「核兵器禁止条約」NWCや2012年10月国連総会に提出された「核軍縮の人道的側面移管する共同声明」への同意を日本政府は拒否した。2013年春核拡散防止条約NPTの声明にも日本政府は署名を教費した。2013年10月国連に再度同じ内容の声明が提出され、修正協議で「ステップバイステップ」というアメリカが求める漸進的アプローチを条件として、日本政府は賛成にまわった。日本の政治家がよく言う「前向きに善処します」程度の御愛想で、実は何もしない態度に似ている。「核が存在する限り米国の核抑止力に依存する」ということである。

3) 盟約の闇ー外務官僚、安保改定の半世紀

本書の著者太田昌克氏はこの章の題名と同じ「盟約の闇」(日本評論社)という本を刊行している。おそらく日本の政治家が最も得意とする国民への2枚舌である密約の存在を追求してきた経緯が、本章で一番力を入れて描かれている。1951年サンフランシスコ講和条約と同じ年に結ばれた旧安保条約は占領時代そのままの実に差別的な条約であった。第1条「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国およびその付近に配備する権利を、日本は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」、第2条「日本国はアメリカ合衆国の同意なしに基地の権利、駐留・演習の権利、軍隊の通過の権利を第3国に許与しない」、第3条「アメリカ合衆国の軍隊の日本国およびその付近における配備を規律する条件は、両国政府の行政協定で決定する」というもので、旧安保条約は核兵器の持ち込みから日本からの戦闘作戦行動をめぐり米軍にはフリーハンドを許与するものである。こうした一方的な旧安保条約は1960年に改定され、岸首相とハータ国務長官は「交換文書」を交わすが、そこには@米軍の日本への配備における重要な変更、A日本からの米軍の戦闘作戦行動が新設された「事前協議」の対象となった。これが真に対等ならば大変な前進なのであるが、文言は空虚なのである。ところが1960年に同時にこれを骨抜きにする藤山外相とマッカーサー2世駐日大使の間で「機密討論記録」が交わされた。米国は1953年から冷戦終了で戦術核が撤去されるまで、事前協議を一度も行った形跡はなく、核兵器搭載艦の領海通過と横須賀・佐世保寄港を許してきた。飛行機、戦艦、潜水艦に何が積んであるか一度も確認していないのである。「事前協議」という仕組みは「国家の大嘘」であった。この大嘘を暴いたのが2009年政権を取った民主党内閣の岡田外相であった。2009年から2010年にかけて行われた鳩山内閣の日米密約調査によると、「機密討論記録」には「事前協議はこれまでの(1960年までの)手続ききに影響を与えるものではない」と関係者には了解される事前協議に制約を与えている。2010年3月に最終調査報告をまとめた外務省有識者員会は「文書に基づく狭義の密約はないが、暗黙の裡に存在する合意や了解からなる広義の密約があった」と結論した。「機密討論記録」は1963年に大平外相とライシャワー大使の間の秘密会談で再確認が行われた。格艦船の通過・寄港は「持ち込み」に当たらないことを大平外相が了解した。しかし安保改定の国会答弁で赤城宗徳防衛庁長官は「核装備をしている場合、第7艦隊と言えどこれは事前協議の対象となる」と答えている。これは政府のアメリカ向けと日本国内向けの完全な2枚舌であり、歴代政権は国民に虚偽の答弁を繰り返したと、村田良平元外務省事務次官は回顧している。村田氏は、歴代の事務次官は引き継ぎの時、核についてこういう了解があるとメモを提示する習慣があって、核の通過寄港は事前協議の対象ではないことを引き継ぎ、信頼できる外相にはこれを口頭で伝えたという。そして「機密討論記録」なるものは外務省に保管されている。外務省事務次官の裁量で、政治家に伝えるか伝えないかを決める外務の密約管理の「官僚主導」が貫かれているということが重大である。大臣には北米局長がブリーフをする。鳩山政権の岡田外相が主導する日米密約調査において、「東郷メモ」という極秘文書メモが見つかった。東郷は安保改定交渉時の外務省安全保障課長であったが、ジョンソン駐日大使から米側の意図するところを改めて指摘されたのがこの東郷メモである。メモの内容は@ライシャワー駐日大使は大平外相に「事前協議には核兵器東西の艦船・航空機の一時的立ち寄りは含まれない」という述べたが、大平氏には反応がなかった。A1964年ライシャワーは佐藤首相に大平外相に話した内容を繰り返し、問題があれば指摘して欲しいと言ったが、佐藤首相からは返答がなかったというものである。さらに米軍が艦船や飛行機に搭載された装備に核兵器があるかどうかの質問には、「肯定も否定もしない」態度(NCND政策)を採っている。核兵器があるかもしれないという恐怖が相手国に圧力となるのであって、核兵器がないことが明白なら抑止力にならないという心理面をついているのである。なおこの東郷メモの余白に「御閲覧済」が手書きされており、佐藤総理、愛知揆一外務大臣、宮沢外務大臣、伊藤外務大臣、竹下総理は読んでいるか説明を受けている。海部内閣以降の首相や外務大臣には説明はなされていないこともわかった。2009年の岡田外相が主導する日米密約調査の過程で分かったことだが、2001年の情報公開法施行を前に、外務省内で核密約をはじめとする日米密約関連文書が大量破棄されていた問題である。(本当に破棄したのではなく地下に潜っただけのことだと思う) 密約に絡む公文書の破棄となればそれは即座に犯罪的行為と言わなければならない。情報公開法の反省から2013年安倍政権で「特定秘密保護法」が制定されるという矛盾はそれ以上に犯罪行為である。日米交渉で浮かび上がってきた重要文書の問題は、官僚主導の密約管理と政治家の無能を浮かび上がらせた。米国の同盟国で核搭載可能は米軍艦船の入港を拒否した国にニュージランドがある。レーガン大統領は直ちにニュージランドへの安全保障義務を停止するという報復措置を取った。そういう事態を日本外務省は恐れたのであろう。だから歴代自民党政権では核持ち込みに関する議論はタブー視されたのであろう。米国政府は民主党政権の密約調査の成り行きに注目した。最終調査報告書は何とも歯切れの悪い結論を出したが、米国国務省は機密討論記録はいまなお法的に有効と見ている。日本側の「解釈のずれ」というあいまいさも米国側はj否定している。アメリカ人は日本政府が好きな「鵺的2枚舌」を徹底して嫌うのである。

4) 呪縛の根底ー同盟管理政策としての核密約

日本国民の反核世論と核抑止力という2律背反の均衡点を見出す手段が核密約であった。このように密約は「同盟管理政策」としての対米呪縛の根底をなしている。非核三原則は「核を持たず、作らず、持ち込ませず」であるが、安保改定時の外務省事務次官だった山田久就は、後に非核3原則は「バカな話」だと酷評している。安保改定時の国会答弁で岸首相は、核武装も核兵器の持ち込みも認めないと明言している。非核3原則は、沖縄の核抜き本土並み返還を実現した佐藤内閣において国是として定着した。これも国内説明用の大原則に過ぎなかったようだ。日本政府=外務官僚機構は、米国の核の傘に頼る以上、危機に直面した際は核兵器の本土(沖縄基地はもちろん)持ち込みを容認するということが核抑止政策の論理的帰結である覚悟を持っていた。だから米軍核搭載戦艦の通過・寄港は端から問題ではないという認識に立っていたようだ。核の傘を絶対視しながら、核密約を受容していった日本政府の冷戦型思考が如実に透けて見える。1969年10月沖縄返還交渉を進めていた佐藤首相は牛場外務事務次官、東郷アメリカ局長を前にした会議で、「非核3原則」は誤りであったと言い切ったという。当時沖縄には1300発の核弾頭があった。「核抜き返還」を前にして、佐藤とニクソン大統領の頂上会談において、「沖縄核密約」に署名した。これによって1972年の返還時に核兵器は一旦撤去されるが、有事の際は米側の要請に応じて沖縄への再配備を容認するという密約である。これはキッシンジャー大統領補佐官と若泉敬特使との合意に基づいている。1974年退役米国海軍少将ジーン・ラロック氏が「核搭載能力がある艦船は日本などの国に寄港する際には、核は降ろさない」という議会証言を受けて日本国内が騒然となった。時の松永信雄外務省条約局長は、局地戦用の戦術核が発達した時代にもはや米軍核搭載戦艦の領海通過・寄港はやむを得ないとする極秘メモを作成した。これを「非核2.5原則化」という。日米核同盟の盟主米国の核について、一切真実を語ろうとしない、また話題化を避けようとする日本歴代政府と官僚の無責任な呪縛が形成された。1960年までに、北大西洋条約機構NATO諸国内に配備された核兵器は約3000発、フィリッピン、韓国、台湾の西太平洋に約1600発、沖縄に1300発が配備された。1953年10月オリスカ二空母群が横須賀に寄港した。核攻撃準備態勢に入っていたという衝撃的な事件であった。オリスカ二空母群は朝鮮戦争直後の韓国と日本防衛の任務に就いていた。こうした旧安保条約時代から続く各選管機構の常態化を堅持するために、米軍部には安保改定の「事前協議制」に抜け穴(骨抜き)が必要であった。それが核密約である。1960年1月米国側は例のNCND政策に依拠して核搭載戦艦の問題を扱った、高橋通敏条約局長と米大使館マウラとの秘密会談があった。ここで「海上の核はあるともないとも言わない」という言い逃れ戦術が採用された。ところが敵国情報網はどの戦艦に核が搭載されているかは知っているはずなので、核配備に拒絶反応を示す同盟国の世論対策のためにNCND政策が必要であった。オバマ政権は2010年「核態勢の見直し」で、核巡航ミサイル・トマホークの段階的退役を決めており、招来日本に寄港する戦艦に搭載される核兵器の可能性は無くなった。

5) プルトニウム大国日本ー懸念を募らせる米国

山岡淳一郎著 「原発と権力ー戦後から辿る支配者の系譜」 (ちくま新書2011年9月 )には、政権中枢が推進してきた日本の原子力政策の歴史がくわしく実名入りで述べられている。とくに核燃料サイクル事業の歴史についてまとめておく。 『1983年12月8日中曽根首相は青森市を遊説で訪れ、「下北半島は日本の原子力基地にすればいい。原子力船の母港(むつは事故で廃船となる運命)、原発、電源開発(新型転換炉)の基地となる」とぶち上げた。そして翌1984年元旦に「政府電力業界は青森県のむつ小川原地区に核燃料サイクル基地」を約1兆円かけて建設する」というスクープ記事が出た。1984年から低レベル核廃棄物貯蔵施設とウラン濃縮工場の建設に取り掛かるというものであった。六ヵ所村は「核物質の廃棄物処理場」とする動きが表面化した。核廃棄物は国が管理するという方針が大転換されたのである。使用済み核燃料を再処理しプルトニウムを分離回収しMOX燃料をこしらえ、高速増殖炉を稼働するという構想である。結果的にいえば世界の先進国はこの構想の技術的問題に匙を投げ放棄したものを日本が拾って開発しようとすることになった。問題の壁は先ず再処理工場の技術的蓄積がないかからすべて外国技術に頼っていることである。第2の問題は米国が濃縮ウランを提供する立場から再処理に介入したことである。そこでプルトニウムの抽出を諦め、他の材料と混ぜるMOX燃料を製造する指針が出たが、動燃の東海再処理工場の生産能力は限定されていた。そこで大量の再処理をまかなうには第2の工場が必要であった。電力業界は採算から海外への委託で乗り切ろうとしたが、通産省は再処理工場の建設をきめた。再処理は委託と国内処理の二本立てで進めることになった。ここに来て電力・通産連合が力をつけてきて、総理府ー科学技術庁ー原子力委員会に対して、通産省−資源ネルギー庁ー総合エネルギー調査会が原子力政策決定の権力を握ることになった。電機事業者連合会は1984年核燃料サイクル施設の建設構想を発表し、青森県に協力要請を提出した。サイクル施設の立地自治体は六ヵ所村とし、「日本原燃」が事業運営に当たる。再処理工場は870億円をかけて建設し、1997年には年間800トンの使用ズム核燃料を処理する見通しが発表された。1985年4月青森県は受け入れの正式解答を行なった。六ヵ所村は当初石油備蓄基地構想が先行したが、むつ小川原開発公社は土地が動かず2000億円を越える赤字を抱えて、核燃料サイクル誘致に踏み切ったのである。 六ヵ所村再処理工場はトラブル続きで工期が大幅に延長されその度に税金が投入される事を繰り返し、トラブルによる完成延期が18回に及び、2000年3月に生産ラインは次々と停止した。1993年に始まった建設は2010年9月の完成までの工期はさらに2年延長され、建設費は2011年度までに2兆1930億円に達した。2011年3月の大地震でも外部電力を失い、核燃料貯蔵プールの水が漏れた。六ヵ所村の核燃料サイクル施設は、放射性廃棄物の最終処分も決まらないまま、魔の轍にはまって抜け出せないでいる。1998年動燃の東海再処理工場で爆発火災が発生し、1999年9月東海のJOCで高速増殖炉「常陽」の燃料処理中に臨界事故が発生した。いい加減な作業マニュアルの横行が原因であった。これらの事故で科技庁の権威は失われ、2001年には文部省に統合され、原子力安全委員会は内閣府へ、原子力安全・保安院は経産省資源エネルギー庁に組みこまれ、事実上の科技庁解体となった。科技庁解体後、原子力行政の実権は電力・経産連合へ移った。その電力・経産連合も2002年GE社の自主点検結果の虚偽報告が発覚し、権力の腐敗の進行はやむところを知らなかった。相次ぐ事故と不祥事で原子力ムラが揺れる90年代末から21世紀初め、経産省内で電力自由化をめぐる電力派と自由化派の争いが発生した。これは欧州統合に向け国境を越えた電力取り引き市場の創設を眼の前にした経産省改革派が電力自由化を唱えたからで、従前の原発路線で潤っていた電力会社と資源エネルギー庁の守旧派の主導権の争いの図式で見ることが出来、原子力安全・保安院の情報隠蔽のリーク情報源は自由派官僚からであったと見られている。自由派の頭領は元事務次官の村田成二氏だった。小泉政権の規制改革に乗って、自由派の発送電分離方式まで議論が進むかどうかが注目されたが、アメリカの電力自由化のシンボルエンロン社の粉飾決算により逆風が吹き、東電の南社長は「責任ある発送電一環システムが日本において役割を果たしている」と分離方式を拒絶した。その直後から東電のトラブル隠しが露呈するのである。村田事務次官は東電の荒木浩会長、南社長、平岩外四を解任し責任を取ったとされるが、自民党の甘利明経産大臣、元東電副社長の加納時男らが巻き返しを図り、経産省の電力会社派が勝利し、結局国策は改められなかった。世界が見捨てた技術である高速増殖炉と核燃料サイクルという魔の轍からの脱却は、核武装潜在力を放棄することであり、核燃料サイクル堅持の国策には権力者の欲望が横たわっている。』

1974年インドはカナダの提供した重水炉とアメリカの提供した重水を使ってプルトニウムを生成し、これをもとに核実験を成功させた事態を受け、米国のフォード大統領とつぎのカーター大統領は、使用済み核燃料からプルトニウムを抽出する最処理事業の民間路用を停止する方針を打ち出した。こうした「第2のインド」をつくらないために、民生用原子炉での再処理事業を自ら止めたのである。1956年に策定された「原子力利用長期計画」では「将来我国の実情匂自他燃料サイクルを確立するための増殖炉、再処理などの技術の向上を図る」とされ、主として文部省科技庁が開発を担当することになった。その中心となったのが科技庁事務次官の伊藤義徳氏であった。資源に乏しい日本でウランを再利用する必要性が説かれ、国策民営事業が延々と50年以上続いているが、上に書いたように、プルサーマル事業を除いて、核燃料サイクル事業も増殖炉開発事業も頓挫の上に頓挫を重ね、2011年の3.11事故を受けてほとんどが停止した状態である。再処理でプルトニウム抽出はイギリス、フランスに委託して、MOX燃料を供給して貰っている。そのイギリスでは再処理事業を廃業したので今ではフランスのみに委託している。こうしていまや日本は使用済み核燃料を再処理して45トンのプルトニウムを保有している。民生用のプルトニウム保有量では英国が91トン、フランスが57トン、ロシアが51トンに次いで日本が5番目に多い国になった。米国、中国はほとんどゼロである。ただ軍事用のプルトニウムはロシアが128トン、アメリカが87トンである。2011年の福島原発事故以来、米国政府オバマ政権内では「日本が再処理を放棄することが望ましい」という議論が出てきており、「使用目的のない余剰プルトニウムは持たない」とする国際社会にに対する公約を履行することが求められる。非核保有国である日本が商用目的で再処理事業を行えるのは、1970年発効の核拡散防止条約NPT加盟国中で、唯一日本だけがアメリカの特別の認可を得ているからである。北朝鮮、イランなどNPT非加盟国に対しては、国際原子力機関IAEAがNPT違反が濃厚と見れば国連安全保障理事会に問題を提出し、国連制裁を科すことになっている。米国エネルギー省ポネマン副長官は、2012年9月民主党政権の前原政調会長との会談で「野田政権の2030年代に原発をゼロにする計画を柔軟にして後の政権で調整できるように」という内政干渉を行う一方、「プルトニウムの在庫量を減らしてほしい。高速増殖炉もんじゅが廃止となり、原発も将来ゼロとなるのなら、日米原子力協定の前提が狂う」といったという。2018年で日米原子力協定を延長しない意向を示したことになる。「日本の政権中枢はメルトダウンしている」と民主党政権の核問題に関する矛盾した態度を鋭く突いている。ところが野田政権の「2030年原発ゼロ」政策は、いわば掛け声だけでその実施に至る法制整備も何もないまま民主党政権はつぶれた。さらに韓国やイランからは、米国は日本のプルトニウム量産を放置しながらNPT加盟国には制約を加えるのはダブルスタンダードだという批判が出ている。米国はさらに現状のまま六ヵ所村の再処理工場稼働をすれば深刻な問題になるというメッセージを送っている。

6) もう一つの神話ー核燃料サイクルの軛

通常の核燃料ウラン235に回収したプルトニウムを混合した「MOX燃料」を使用するという、「プルサーマル事業」については福島第1原発3号機で使用された。このプルサーマル事業に反対した佐藤栄佐久元福島県知事を汚職事件をでっち上げ国策捜査を行って辞任させ、次の佐藤雄平知事の下で導入を図った。この国家権力の謀略に対して戦った佐藤栄佐久氏が著した本 佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年)には、プルサーマル事業の顛末が描かれている。『福島県は第1次エネルギー転換政策である「石炭から石油へ」により、常磐炭鉱の閉鎖に伴う県内産業振興策として原子力発電の誘致にかかり、1967年に着工し福島第1原発1号機は71年に運転を開始した。時の知事は佐藤善一郎知事で、福島県出身者であった木川田隆東電副社長と組んで誘致活動を推進した。次の木村守江辻の時代に操業が始まった。佐藤栄佐久氏が知事となった1988年には福島第1,第2原発発電所の10基はすべて稼働中であった。1971年より運転が開始され1987まで、福島第1原発よ福島第2原発において合計10機の原子炉が運転されたのである。1−2年に1基操業開始という猛烈な進行ぶりで立地市町村は潤い、浜通りは「原発銀座」と囃されたのである。佐藤栄佐久氏が知事に就任した1988年9月には、常磐炭鉱跡地に産業廃棄物の不法投棄という事件がおき、原発振興を陽とすれば陰の産業構造が存在していることが分かった。地元にとって原発は経済問題なのであるが、自治体は原発政策には関与できない構造がひかれていた。福島第2原発3号炉において、1988年の暮から1989年1月6日まで3回の警報がなり、3回目にしてようやく原子炉を手動で停止した。この事故の報告は福島第2原発から東京の東電本社へ、そこから通産省に、更に資源エネルギー庁に伝えられ、最後に地元の福島県に連絡があった。事故の内容は冷却水循環ポンプの部品が脱落し座金やボルトが原子炉に流入したというものである。問題は県には原発を止めたり、立ち入り検査をしたり、勧告をするような監督権限はないのだ。池亀東電原子力本部長は「座金が発見できなくても運転は再開する」と記者会見した。経済的損失を避けることが第1で、安全は2の次以降らしい。この事故を踏まえて、佐藤栄佐久知事は専門家を集め県の原子力担当部署を強化する決意を固めたという。2006年「ダム汚職事件」が知事追い落としの国策捜査(仕組まれた冤罪事件)であったという。その遠因が知事時代の佐藤氏のプルサーマル原発反対にあったそうである。知事の弟を取り調べた東京地検特捜部の森本検事は「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」と言い放ったそうである。ダム汚職事件は言いがかりにすぎず、真の目的は福島県から佐藤知事を追い落とすことにあったようだ。ではなぜ佐藤知事は嫌われたを、その遠因となった福島第1原発プルサーマル導入のいきさつを暴いたのが本書である。日本の原発行政の本質と腐敗構造が示されている。なお2006年「ダム汚職事件」の政治的側面は、佐藤栄佐久著 「知事抹殺」 (平凡社 2008年)に描かれている。あわせて御覧ください。それが証拠に佐藤栄佐久知事が辞任して2006年11月の知事選で当選した民主党推薦の佐藤雄平氏(福島県には佐藤の姓が多いので注意)は2010年8月プルサーマル受け入れを決定した。MOX燃料が福島第一原発に運び込まれて10年以上経過し、やっと福島県が受け入れを決定した直後、青森県六ヵ所再処理工場はトラブル続きで9月2日に18回目の操業延期を繰り返した。そして翌年2011年3月11日福島第1原発がメルトダウンを起こし、福島第1原発第3号炉のプルサーマルは4ヶ月の営業運転で廃炉の運命となった(プルサーマルの営業運転は玄海、伊方、高浜の3箇所のみ)。』

本章では姑息なプルトニウム消費策である「プルサーマル事業」よりは、外国に委託して行ってきたプルトニウム化学抽出と濃縮事業を国内で行う六ヵ所村再処理工場を取り上げる。「夢の原子炉」といわれ、プルトニウムを拡大再生産できる高速増殖炉に実用化は依然として霧の中にある。欧米諸国は技術面、経済性の理由から高速増殖炉サイクル構想から相次いで撤退した。ドイツは1991年に、米国は1994年に、英国は1994年に研究炉の運転を終了し計画を断念した。フランスも1997年に実証炉を閉鎖している。ロシアだけは高速増殖炉を1980年代から運転している。欧米では経済的に見合わず、資源的にメリットも少ない(ウランの埋蔵量が多いので)ため、プルサーマル方式を放棄し、使用済核燃料を再処理せずに直接処分へ移行する国が続出した。日本の高速増殖炉実証試験は原燃のもんじゅで行われたが、冷媒ナトリウム漏れ事故でとん挫し、再開後もまた失敗して3.11事故を受けて停止したままである。プルサーマル事業もデーター改竄事件でとん挫し、4か所の炉で動いてきたが3.11原発事故で停止したままとなっている。軽水炉サイクルに欠かせない再処理工場の建設費用は鰻登りに膨らみ、1979年に6900億円、それが1989年に7600億円、1996年の1兆8800億円に、1999年には2兆円を超え、2004年には当初見積もりの3倍を超える2兆2000億円となった。建設費以上に問題なのは、運転・保守・点検費用に加え再処理工場の閉鎖・廃止費用と手間である。電気事業連合会は総額19兆円のコスト試算を出した。工場解体費用だけで1兆6000億円である。最初は低く見積もって事業を開始し、あとは金食い虫のように増額をしなければ今までの投資が無駄になると脅かして計画の3倍以上の金を要求する官僚の手口から見ると、再処理事業は総額で50兆円を超えるのではないかと思われる。それが純粋に民間事業であるならば経済原則から投資に耐えられず自然淘汰されるべきことも、国策となると猪突猛進・初志貫徹の軍隊精神で国が財政破綻で滅ぶまで無責任に遂行する。国を滅ぼすのは昔軍隊、今官僚である。技術的なトラブルから六ヵ所村再処理工場は1985年以来20回も完成が延期され、3.11原発事故を受けて耐震追加工事など行いさらに費用が膨らむことは避けられない。「やめられない止まらない―国の事情」と官僚は自虐の歌を詠んでいる。日本の産官学の「鉄の原子力トライアングル」が猛烈に推進してきたか宇燃料サイクル事業は見直されることはなかったのだろうか。実は通産官僚の電力自由化論争と絡んで一部に撤退論がひそかに議論されたことがある。それは2002年前後のことである。東電の南社長に経産省より「六ヶ所と大間原発(プルサーマル)を止めたいと東電が言え」と打診めいた話があった。事業中止を自ら切り出さず、民に責任を押し付けようとする官のやり方をいちばん卑怯だと南社長が語った。これには当時の経産省事務次官村田成二の意向が働いていたようだ。村田氏は1990年代始め、資源エネルギー庁計画課長だったころ、六ヵ所(再処理工場)を止めようと動いたことがある。電力会社は再処理事業は国に押し付けられたという受け取り方をしているので、国が止めるといえば止めますという態度である。官は無謬性神話の中にあるから自分らの先輩が始めた事業を自分の時代に間違っていましたからやめますとは言えない。官僚村では先輩の顔に泥を塗ることになり自分の将来も危うくなるからである。厳しい情勢の変化に直面することを恐れ、そこから逃避を図ろうとする虚構性と、税金と国債を無尽蔵に使える浮世離れした世界、原子力ムラの病理が核燃料サイクルを巡る議論に現れている。


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