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福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」

 (財)日本再建イニシャティブ  ディスカバー21 (2012年3月 ) 

民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相

2011年3月11日14時46分に起きた東日本大震災を機に発生した東京電力福島第1原発発電所の事故は、直ちに原子炉は自動停止したものの、第1号機から第6号機の外部電源をすべて喪失し、1時間後には津波により第1号機から第5号機までの非常用ディーゼル発電機も全喪失して、原子炉冷却不能の事態におちいった。第1号機から第3号機の炉心はメルトダウンし、4号機の使用済み燃料プールが破損した。福島第1原発事故は地震、津波、原発事故が絡み合った複合災害であり、いまなお11万人の福島県の住民が避難生活を余儀なくされている未曾有の大事故となった。ある意味で太平洋戦争の日本の敗戦と同じく日本の戦後の最大の危機であったし、いまなお危機の原因は取り除かれたわけではない。この原発事故の原因については、いろいろな分野から調査・検証が行なわれている。事故当事者から国民レベルまでの調査・検証報告書をならべてみると以下のような報告書がある。
1) 東京電力株式会社  「福島原子力事故調査報告書」 2012年6月20日
2) 内閣首相官邸原子力災害対策本部 「原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書」 2011年6月
3) 日本政府(野田内閣) 「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証 最終報告書」 2012年7月23日
4) 国会事故調査委員会 「国会事故調 報告書」 2012年9月30日
5) 独立検証委員会 「福島原発事故調査・検証報告書」 2012年3月11日
今のところ本となって市販されているのは4)国会事故調査委員会の報告書と5)独立検証委員会の調査・検証報告書」の2つであり、購入して読むことにした。1)、2)、3)の事故調査報告書はホームページでダウンロードが可能である。膨大なページ数なのでダウンロードとコピーには二の足を踏むがいずれ概要だけでも読むことにしよう。なお官邸の原発事故対応の最高責任者であった福山官房副長官による証言は、福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」 (ちくま新書 2012年8月 )にまとめられておりこれも重要な資料である、是非併せて見て欲しい。 

福島原発事故の検証委員会を企画したのは、2011年3月11日の福島原発事故を契機に立ち上がったシンクタンク「日本再建イニシャティブ財団」の船橋洋一理事長である。船橋氏が「独立検証委員会」のプログラム・ディレクターを務めた。船橋氏の人脈で「福島原発事故独立検証委員会」の招聘委員のメンバーが選ばれた。委員会の構成は以下の6名である。委員会は2011年10月14日に初会合を開いた。委員会の役割はワーキンググループの作業(インタビューから資料整理そして1次原稿執筆)結果の議論・検討及び総括である。
委員長: 北澤 宏一 (前科学技術振興機構理事長)
 委員: 遠藤 哲也 (元国債原子力機構理事会議長)
 委員: 但木 敬一 (弁護士)
 委員: 野中 郁次郎 (一橋大学名誉教授)
 委員: 藤井 真理子 (東京大学先端科学技術研究センター教授)
 委員: 山地 賢治 (地球環境産業技術研究機構理事・研究所長)
基礎作業を行ったワーキンググループは約30名よりなり、原子力工学、科学行政、社会学、政治学、地方自治、危機管理、国際政治、弁護士、研究者、ジャーナリストなどの専門家である。主なワーキンググループのメンバーには、秋山信将(一橋大学法学部教授)、井形彬(慶応大学法学部大学院学生)、砂金祐年(滋賀大学コミュニティ学部准教授)、大塚隆(日本再建イニシャティブ 元朝日新聞科学医療部長)、開沼博(東京大学学際情報学部大学院生 社会学)、勝田忠広(明治大学法学部准教授 原子力行政)、菊池弘美(フリージャーナリスト 元朝日新聞記者)、北澤桂(日本再建イニシャティブ スタッフディレクター)、佐々木一如(明治大学講師 行政学)、塩崎彰久(弁護士 日本再建イニシャティブ監事)、信田智人(国際大学教授 国際関係学)、菅原慎悦(東京大学工学部原子力国際大学院生)、鈴木一人(北海道大学教授 公共政策)、戸崎洋史(日本国際問題研究所主任研究員 核軍縮・安全保障)、友次晋介(名古屋短期大学助教授 国際関係論)、中林啓修(明治大学危機管理センター研究員 政策メディア論)、藤代裕之(ジャーナリスト)、藤吉雅春(フリージャーナリスト)、堀尾健太(東京大学工学部原子力国際大学院生 原子炉x材料)、山口孝太(弁護士)らである。なおワーキンググループの検証手続きは、まず情報提供チャンネルを開設してウエブ上に情報を集めた。ワーキンググループは2011年8月27日に準備会合をスタートさせ、合計10回の会合を実施した。会合は丸1日を費やして、主にヒアリングを通じた事実関係と時系列記録を行い、グループで分析するという手法である。ワーキンググループが呼んだ当時の政府要人のゲストは以下である。谷口富裕全IAEA事務局長、海江田経済産業相、深野原子力安全保安委員長、福山官房長官副長官、細野環境・原発担当相、広瀬内閣官房参与、枝野官房長官、斑目原子力安全委員会委員長、小佐古内閣官房参与、下村内閣審議官、森口文部科学審議官、大塚厚生労働副大臣、福島衆議院議員、酒井放射線医学総合研究所センター長、久木田原子力安全委員会委員長代理、田坂内閣官房参与らであり、インタビューには300人が応じたという。取りまとめ作業の総括は北澤桂スタッフディレクターと大塚隆エディターが当たった。

本論に入る前に、船橋洋一氏が述べる本書の志を聞いておこう。第1に「政府からも企業からもどこからも独立した市民の立場から検証を進めた」という。政府が事故調査委員会を作るという状況の中で、民間事故調には政府事故調にはない歴史的意義を持つものであると云う認識からスタートしたという。その意義とは、
* 巨大技術の事故と被害を専門的知見によって調査検証することは、将来の世代の人々への責任である。
* 公共政策の遂行と政府のパフォーマンスの検証と評価を、政府・業界からも、政治からも独立した民間の立場で行なう。健全な民主主義の発展には欠かせないことである。
* この事故は技術の運用の失敗にとどまらず、企業、政府、さらには戦後の日本人の考え方における「ガバナンスの危機」でもある。
* その検証と教訓を導き出すことが、今後の日本の「国のかたち」の再構築によってかかせない重要なことである。
* この報告書は世界の知的財産として刊行し、報告書を英語で世界に発信する。
そして報告書には次のような観点が織り込まれなければならない。
* 民間事故調は政府と東電が国民を守る義務をどこまで果たしたかを検証することである。つまり政府の責任を明らかにする。
* 事故対応については政府特に首相官邸の意思決定の検証が重要である。
* 事故と被害の原因には、近因、中因、遠因を層別に描き分ける必要がある。
* 事故の見えない部分に目を向け、構造、権力、メカニズム、行動スタイルなど自然科学的分析と社会科学的分析を統合する必要がある。
* 「パニックをおこしてはいけない」という心配のもとで情報操作がおこなわれたが、「情報は誰のものであるか」という視点が必要である。
* 世界の中の東電原発事故という観点をもって、リスク管理のルール、国際協調プロセスの検証が必要である。

本書の検証内容は以下の12章から構成される。
第1部  事故・被害の経緯
   第1章 福島第1原発の被災直後からの対応
   第2章 環境中に放出された放射性物質の影響とその対応
第2部  原発事故への対応
   第3章 官邸における原子力災害への対応
   第4章 リスクコミュニケーション
   第5章 現地における原子力災害への対応
第3部  歴史的・構造的要因の分析
   第6章 原子力安全のための技術思想
   第7章 福島原発事故にかかわる原子力安全規制の課題
   第8章 安全規制のガバナンス
   第9章 安全神話の社会的背景
第4部  グローバル・コンテクスト
   第10章 核セキュリティへのインプリケーション(省略)
   第11章 原子力安全レジームの中の日本
   第12章 原発事故対応をめぐる日米関係(省略)
本書の内容のうち、第10章 核セキュリティへのインプリケーションと第12章 原発事故対応をめぐる日米関係については、そのために事故が起きたわけではなく、福島原発事故の検証とは直接の関係は無いので省略する。検証の詳細に入る前に、順序は逆だが先ず本書の結論「総括」を述べておこう。その方が見通しがいいからである。(別に予断に満ちているわけではない、詳細は後に述べる) この福島第1原発事故の最大の特徴は、東日本大地震と津波による全電源喪失に端を発した、炉心溶融と水素爆発を伴うシビアアクシデント(過酷事故)であった。1号機、2号機、3号機の炉心はメルトダウンした。また4号機の建屋が吹き飛び使用済み燃料プールも破損した。その過程で放射能汚染が極めて広範囲に広がり、IAEAがレベル7と位置付ける(旧ソ連チェルノブイリ原発事故に相当する)史上最大規模の原子力災害となった。建屋爆発により数名の方が亡くなり、急性被曝による死者はなかった(低線量被曝による長期の影響である小児白血病などは今は言わないでおこう)が、事故による放射性物質飛散と汚染によって住環境を奪われ、避難を余儀なくされている福島県の住民はいまなお11万人もおられる。農畜産物・水産物への被害、風評被害、生活破壊、雇用喪失、不動産価値の暴落など産業・労働への影響は甚大であった。復興は今なお模索中で効果が出る段階ではないが、ひとり復興予算(早くも無駄使いと流用が始まっているそうな、2012年10月時点の新聞情報)と仕事が増えて喜んでいるのは官僚組織だけである。

総 括

1) 複合災害と並行連鎖原発事故: 福島第1原発事故は地震、津波、原発災害が相互に絡み合った複合災害であった。マグニチュード9の地震と10mを超える津波が、電気、通信、道路、輸送を破損し、中央と地方の行政機構が麻痺したことが、原発災害対応を困難とした。世界最頻地震多発国の原発立地場所の問題はさることながら、津波を想定外と言い切れるものであろうか。今回の事故はこれでもかというほどの複合災害の恐ろしさと原発の制御の難しさ(石油ガス火力発電なら電源喪失は発電停止に留止まる)をみせつけられた事故であった。これらへの備えがコストパフォーマンスから出来ないなら、民間企業は原発発電はやめるべきであることを迫るものであった。原発災害そのものも、第1号機、第2号機、第3号機の3つの原子炉と4つの使用済み燃料プールの危機に同時に対応しなければならない超人的な能力を要求する「平衡連鎖原発災害」の状況が生まれた。(福島第2原発2基、及び茨城県東海原発も一時危機的状況となったが、非常用ディーゼル発電機が動いたので救われた) 危機の最中に菅首相は近藤駿介原子力委員会委員長に「不測事態の最悪シナリオのスケッチ」を策定させたが、それによると福島第1原発、第2原発の全面崩壊により170kmの範囲の首都圏3000万人の移転という日本統治機構の解体につながる事故になりかねなかったという。するとアメリカ軍による統治管理という事態も想定された。空母が一時日本に接近したのもそういう読みが米国にあったからだ。

2) 事故は防げなかったのか: 全電源を喪失し冷却機能が停止すると5時間から8時間後には炉心は溶融する(メルトダウンし核燃料は炉心を溶解し原子炉格納器に落ち、最悪事態として格納器もメルトダウンするといわゆる「チャイナシンドローム」となる)。タラレバになるかもしれないが、並行連鎖原発災害の引き金は1号機の非常用復水器(IC)の隔離弁が「閉」状態にあった事を知らなかったことである。現場ではICが作動していると思い込んで初動対応が出来なかったことである。炉心冷却機能が途絶えたことに早く気がついていたら第1号機への消防ポンプによる外部代替注水に踏み切ることで最悪の事態を招かなかったかもしれない。この原発運転技術者のヒューマンエラーは政府事故調が綿密に解析しているところである。

3) 人災−備えなき原発過酷事故: 東電の「事故時運転操作手順書」には、全電源喪失対応は存在しなかった。過酷事故に対する備えは用意されていなかった。非常用復水器(IC)を実際に動かした経験は誰にもなかった。国際原子力機関IAEAの「基本安全原則」は「放射線リスクを生じる施設と活動に責任を負うもの」を定義しているが、今回の事故の第一義的責任は東電にある。想定外事故として無過失論をリークする東電は著しく責任を欠いているといわざるを得ない。しかし原子力安全委員会の「安全設計審査指針」には「長期にわたる全交流電源喪失は送電線の復旧または非常電源設備の復旧が期待できるので考慮する必要は無い」と設計上全交流電源喪失を想定しなくてもよいと記している。福島第1原発事故は長時間(8時間程度)の全電源喪失の結果として生じた事故であった。原子力安全委員会の責任は大きい。想定しなくていい「備えなき原発事故」となった。これを人災といわずして何と言えようか。1999年の東海JOC臨界事故の教訓から生まれた現地対策本部「オフサイトセンター」は今回の事故では全く機能しなかった。管理運営を担う原子力安全保安院の責任は重い。緊急時迅速放射線影響予測ネットワーク「SPEEDI」も住民避難の時には全く機能しなかった。30 年をかけて100 億円を使って開発した文部科学省自身が信頼性がないと公表を躊躇ったことは、この国の政府の無責任体制を赤裸々に見せ付けたものであった。さらに文部科学省はこのシステムを評価し使うのは原子力安全保安院つまり経産省にあると、長年の二元原子力行政の象徴のような責任の押し付け合いを見せ付けたのは醜悪としか言いようがなかった。日本の統治機構は所詮このような程度のもので、国民を守る意識も責任感も持ち合わせていない。統治者・官僚機構は東日本から避難する計画があっても、国民は日本を逃げることは出来ないのだ。戦争末期の空襲に逃げ惑う国民をよそに、松本に大本営を移す計画と同じである。 「日本は二度破れたり」、しかも「国破れて山河あり」ではなく「国破れて山河喪う」なのである。これは「浄土なき末世」であろうか。

4) 絶対安全神話の罠: 原発事故に対する備えそのものが住民の不安を引き起こすという恐れを、原発推進利害者「原子力ムラ」が抱いて原発災害をタブー視する心理を作り出したものと考えられる。原発災害への心配は本当は皆無では無いのだが、原子力ムラも原発立地自治体もリ「想定外」という言葉でシビアアクシデントには眼をつぶったというより、むしろ積極的に「安心」という信仰に走った。想定外を口にすることはリスクマネージメントを放棄することにほかならない。世界の原発安全性への科学的知見や最新の技術成果を既存の原発システムに取り込む「バックフィット対応」を怠り、日本の安全技術は世界最高と無理に自負することで、世界の安全思想から取り残されてしまった。耐震性の機器設計だけは分厚く発展したが、確率的リスク対応は低いといういわゆる「ガラパゴス的進化」をとげてしまった。

5) 安全規制ガバナンスの欠如: 日本の原子力安全規制体制は、文部科学省と通産省の二元体制で構成されてきた。2001年の科学技術庁改革によって現在の経産省傘下に原子力安全保安院、内閣府に原子力安全委員会のダブルチェック制度は、実は実施部隊を持たない原子力安全委員会が経産省の政策を追認するだけの無力な存在に成り下がった。2007年IAEAは「総合規制制度サービス(IRRS)」によって日本政府への報告書をまとめ、「規制機関である原子力安全・保安院の役割と原子力安全委員会の役割、とくに安全審査指針策定における役割を明確にすべき」と勧告した。誰が見ても日本の安全審査体制は不明瞭であった。国際原子力機関の勧告にも従わない「安全規制のガラパゴス化」が進んでいたのだ。原子力安全・保安院は原発推進機関である経産省資源エネルギー庁にくらべて、圧倒的な人材や資源量の差が目立ち、規制官庁としての理念も能力も人材にも乏しかった。原子力安全・保安院も原子力安全委員会も「東電を規制しているようで、実は御用聞きに過ぎなく、東電の追認道具にされていた」という見解は的を得ている。サプライヤー重視の経産省の組織では原子力安全・保安院といった規制官庁は小泉改革以来力を失っていた。こうして事故は起こるべくして起きたのである。

6) 国策民営のあいまいさ: 東京電力の危機管理能力と意思決定、そしてガバナンス(統括能力)の弱さは、このような東電に原発を行なう資格があるのかと疑わせる。そもそも日本の原子力発電は「国策民営」というもとで、政府の掲げる原発推進国策を、民間企業が民営で行なう体制で進められてきた。これは古くは文部科学省が原発の国産技術開発を行なう方針であったが、増殖炉「文殊」、核燃料リサイクル工場の失敗、使用済み核燃料処理技術開発の遅延などで国産原発技術開発は遅遅として進まなかった。(その結果科学技術庁は実質上解体された) 一方商業炉として通産省は「沸騰水型・加圧水型軽水炉」の「フルターン方式」で安易な完成品技術購入に走った。外国メーカーから原発の失敗の恐ろしさを伝授されることなく、地震のないアメリカや欧州ではない、世界一の地震国日本の海岸線に55基の原発を設置してしまった。そもそも論からいえば、地震国の海岸の居住接近地に原発を設置すること自体が暴挙であるといえる。設置基準の問題と安全性規制の無能力が原発事故の伏線であった。原発事故損害賠償問題も東電には当事者として解決に当たる意思は認められない。国の支援と方針・枠組みを待つだけの無責任な態度が日本の原発体制であった。儲けは享受して賠償は回避するご都合主義の東電を国有化してはならない。損害賠償を全部国民の金で始末するだけである。賠償にかかる数十兆円の費用、汚染除去にかかる数百兆円に費用も経営リスクと見るのが資本主義企業の鉄則であるなら、原発を運用する企業はあるのだろうか。民間企業はそろばんに合わないと見れば撤退する。企業責任を完遂すること、それが脱原発の最善策である。うまい話は国民の税金・資産を食い物にできる国策民営である。

7) 危機管理とリーダーシップ: 菅首相をトップとする官邸は事故における東電の対応に不信の念を募らせ、15日政府が東電本社に乗り込んで「総合対策本部」を創った。これは菅首相の大英断と評価できる。これ以降政府の事故対応は機動に乗ったとされる。東電本社と福島第1原発現場の関係、政府と東電本社の関係、規制官庁と推進官庁・原子力ムラの関係など二重・三重の「信頼の連鎖崩壊」が起きていた。東電では現場の独走(吉田所長)という問題が指摘されるが、営業と企画畑の東電本社と技術畑の原発現場の意思疎通は明らかで、東電本社の意思決定はただ迷走するだけであった。官邸の意思決定のうち、11日夜から避難区域を逐次3km,10km,20kmと拡大していったのは予防的観点からは評価できるが、3月25日の「自主避難」指示は住民に混乱を招いた。原発事故の最大の危機は11日から15日にあったといわれる。清水東電社長が深夜官邸の三人に「撤退」をしたいという電話をかけた事件はいまなお真否は闇の中にある。官邸はこれを「全面撤退」と理解し、菅首相が問う東電に乗り込んで、檄を飛ばした。あとで清水社長は官僚らしく撤退ではなく「退避」だという。東電は今回の民間事故調のインタビューを拒否した。政治指導者に対する科学技術者の助言機能は非常に弱かったようだ。原災本部事務局も機能しなかったようだ。そもそも原子力安全・保安院は危機対応の備えがなかった。政治家の質問にも的確に答えることが出来なかった。官邸地下にある危機管理センターや危機管理監も十分に機能したとは言えない。危機管理センターから情報が上がってこなかった。つまり官僚機構は危機対応が出来なかったということである。もちろんシビアアクシデントを想定外とした「原子力災害マニュアル」も何の役にも立たなかった。事故対応時に官邸から見えた風景(官邸の情報も限られていたので限定された風景である)は福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」 (ちくま新書 2012年8月)に書かれている。

8) 復元力に期待する: 東京電力の事故シュミレーション解析(2011年11月発表)によると、高温で溶解した核燃料の大半は炉心容器を突き抜けて、外側で炉心を包む格納容器の底部のコンクリート床にスラグとなっていると推定されている。際どいところで最悪のシナリオは回避できた。運が良かったといっては、危機管理は成り立たない。危機管理は事故の全貌を各方面の専門家達が明らかにしたならば、それを教訓として国民的合意(法)として落とし込まなければならない。そして国と組織と人々の復元力(再生の知恵)を高めるために生かさなければならない。3月11日を「原発防災の日」とする事を提案するとして本書は終っている。

検証結果

第1章 福島第1原発の被災直後からの対応

時系列的に事故対応をまとめた章である。絶対的に客観的な事実の系列は知る由もないので、これは執筆者がどこを強調したいかによって異なってくる。執筆者の論点は@福島第1原発事故における安全機能の劣化、Aマネジメント活動ははたして妥当であったかもしくは有効であったかを検証したいという。事故の直接的な原因は、津波に対する備えが不十分で電源喪失による多数の危機の故障が発生したことに尽きる。中央制御盤の計器も動かず、官邸でかき集めた非常用電源車の連結ができず、たとえ連結できても冷却ポンプは水没して使えない状況で、消防車のポンプをラインに繋いで連続的な淡水注入が出来たのは事故後14時間たって(12日午前5時46分)からであった。結果的には第1号機から第3号機の炉心は多少の時間遅れはあったがメルトダウンに至ったものと推測される。(4号機は停止中だったが使用済み燃料棒プールの破損が問題となる。第5号機と第6号機は少し高台にあったのと非常用デーゼル発電機1台が稼働できたので冷却機能は回復した) 事故の進行の時系列事象は一切省略するが、第2の論点については津波に他する事前の対策が不十分であったこととシビアアクシデントに対する事前の対策マニュアルが存在していなかったこと、東電ー福島に連絡経路の一部に混乱が見られたことである。複合災害の影響で,通信や輸送の手段が限られ,大幅な遅滞が見られたこと、連鎖する原発炉の事故が発生し暗闇の中で作業は困難を極めたこと、オンサイト原発関係者全員に安全に関する考え方が不十分であったなどがあげられる。

第2章 環境中に放出された放射性物質の影響とその対応

福島第1原発事故によって環境中へ放出された放射性物質は非常に大量であり、旧ソ連のチェルノブイリ事故の1/10に相当すると推定される。地表面の汚染はモニタリングにより測定でき、居住空間として適不適が判定され、国が約束した汚染土壌の除去にかかる費用は国家財政の非常に大きな負担となっている。また除去された土壌の保管場所や一般廃棄物の焼却埋め立て処理は付近住民の理解が得られないと難しい。放射線の汚染は飲食物摂取量の制限と出荷制限となり、食品衛生上の暫定基準がない状況で多くの混乱と風評被害をもたらし、被災地の産業復興にも暗い影を投げかけている。文部科学省原子力災害支援本部はセシウム、プルトニウム、ストロンチウムの土壌モニタリングを3月15日より行なって「放射線量等分布マップ」の作成した。3月23日より海洋のモニタリングも行った。航空機モニタリングは3月25日から行なった。厚生労働省は3月17日に「飲食物摂取制限に関する指標」を暫定基準値として用いることとし、3月21日より地域によっては農産物の集荷制限がなされたが、政府は4月4日に出荷制限とその解除に関する原則を示した。この間のギャップにより一部のスーパーでは農産物の販売が行なわれるなどの混乱があった。さらに低線量被曝(100ミリシーベルト以下)が人体に与える影響については学説がまちまちであるが、国際放射線防護学会ICRPは「閾値なし」のLNTモデルをとる。どのような低被爆量でも生涯積算量がガン発症確率に影響するという立場で極力被曝を避ける必要があるという。子どもの被曝基準として学校での被曝量を20ミリシーベルト以下にするという4月の文部省の指針は7月に見直され、1ミリシーベルト以下を目指すという表現に改められた。低線量被曝限界は確たる証拠があって議論する内容ではなく、政策としてきめる暫定基準である。

第3章 官邸における原子力災害への対応

この章の内容はかなりの部分が福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」 (ちくま新書)に重複するが、菅首相のパーソナリティを好意的に見るか悪意を持ってみるかの違いはあるものの、それほど異なるものではない。法律と災害対応体制の詳細は省くが、福島第1原発事故対応に当たっては全く機能しなかったことは事実である。シビアアクシデントを想定外とするインサイト事故を対象とした官僚作文の無効を意味するものでしかない。歴史にタラレバは禁物であるが、もし事故当時に「政治家の無能と官僚任せ」を特徴とする自民党政権だったらもっと恐ろしい事態(官僚の無作為と東電の現場放棄と悪魔の連鎖)が起きたに違いない。民主党菅首相の「東電の撤退は許さない」の一言で政府・東電の統合対策本部が設置されたことが日本を救ったといえる。誰しも経験したことがない事態に敢然と官邸主導(悪意を持つ人はこれを「官邸介入」といい対応の邪魔をしたという)を貫いて、事故対応に政権が立ち向かったことは日本の政治に稀有のことであった。本プロジェクトの検証は@シビアアクシデント対応マニュアルの不在と官邸の認識不足、A東電及び原子力安全保安院に対する官邸の不信、B原子力災害の拡大に関する強い危機感、C菅首相のマネジメントスタイルの論点を設定した。事故対応を通じて官邸は、東電、原子力安全・保安院、原子力安全委員会(斑目委員長)、官僚機構、専門家に対して歯がゆい思いだけでなく次第に不信感を持つようになったとされている。現場状況と意志疎通を欠く東電経営者陣の応答、東電の追随機関にすぎない無力な原子力安全・保安院と技術を全く知らない安全・保安院長・副院長、水素爆発を予測できなかった斑目原子力安全委員長、情報を上げてこない危機管理センターの「無作為と自己保身、責任転嫁」を特徴とする官僚機構を見ていれば、彼らに任せていては日本は破滅すると恐怖した菅首相の心情・決断は間違っていなかったと私は考える。

第4章 リスクコミュニケーション

原子炉の状況や低線量被曝に関するパブリックコミュニケーションは政府にとって始めての経験であった。その試行錯誤の過程で国民の信頼を失ったことは否めない。また海外への情報発信はどうだったか、ソーシャルメディアでのリスクコミュニケーションなどが論点となった。先ず政府のリスクコミュニケーションの中心となったのは最初は首相であったが,次第に枝野官房長官のみとなった。通常の首相のぶら下がり記者会見対応には5人の秘書官(財務、外務、警察、経産、厚労の出向官僚)が担当したが、震災後は厚労と経産で取りまとめ起草し、広報官の下村審議官が第一原稿を書く流れで進んだ。震災後はぶら下がり取材はなくなった。3月12日広報担当であった原子力保安院の中村審議官が「炉心溶融」の可能性を発言したことで広報担当者は交代させられ、炉心溶融の表現はうやむやになった。しかし15日に東電がメルトダウンの解析結果を公表したことで、保安院の欺瞞的表現が曝露された形となった。枝野官房長官は3月11日から2週間で39会の記者会見で9回「直ちに人体、健康には影響は無い」と発言した。連続して摂取したとしても問題ないというその程度問題で、揚げ足取り的な消耗な議論が起きた。「安全安心」という信仰に似た境地が存在するため、まだ日本国では実質的なリスクコミュニケーションの文化は存在しないようだ。しかし10年から20年先の発ガン率の有意な上昇があるのかどうかは誰にも分からない。官邸は国際広報室を2010年10月に作り、英語では震災情報のブリーフを発信した。それでも海外のメディアには一部誇張された表現が存在し、発表内容が海外の要求レベルに合っていなかったのか、海外とのコミュニケーションは難しい問題を残した。ネット上のホームページやグログ通信は一方的で、双方向コミュニケーションにはなっていない。政府や東電のウエブ情報発信は国民への情報発信となったのだろうか。官邸は「官邸災害ツィッター」を3月21日に立ち上げたが調査によると信頼性は低いと見られていた。震災情報は新聞・テレビで知る人が圧倒的に多かった。特に被災地では通信や停電で情報が得られなかったが、避難情報をテレビで知る人も多かった。

第5章 現地における原子力災害への対応

第5章では、@現地対策本部となる「オフサイトセンター」が機能しなかった理由、A自衛隊・警察・消防の災害対応、B緊急時迅速放射能予測ネットワークシステムSPEEDIが役に立てなかった理由、C避難指示は適切であったどうか、D地方自治体の原子力災害対応はどうだったのかの5つの問題を検証する。
@現地対策本部となる「オフサイトセンター」が機能しなかった理由: 1999年茨城県JOCウラン加工工場における臨界事故を受けて、原子力災害特別措置法によって、国、都道府県、市町村などの関係者が一堂に会して情報を共有しながら緊急災害対応を行なう「オフサイトセンター」の設置が決まった。施設要件は施行規則に定められるが、福島県オフサイトセンターは大熊町(第1原発より5Km,第2原発より12Km)に2002年に設置された。原子力防災専門官の事務所を設け、2008年10月に福島第1原発3号機の事故を想定した訓練が実施された。あくまで事業所内で収束する事故として、シビアアクシデントによる住民避難情報や誘導の訓練は行われていない。事故前の小規模の訓練が役に立ったためしはないが、今回の原発事故でこうも簡単にシステムが放棄された事実は検証しなければならない。第1に地震によって通信網と交通が途絶えたこと、基礎自治体が壊滅したこと、そして5Kmの位置では12日午前5時に避難区域に指定されたことによって、14日22時にオフサイトセンターは福島県庁に移された。しかしオフサイトセンターの体制は結局再構築されずに放棄された。オフサイトセンターが被災地とならないほど遠くに設置すると機敏に機能しないことは自明である。このような大地震と大規模原発事故では、原発事業所近隣のオフサイトセンターの設置は再検討されるべきである。

A自衛隊・警察・消防の災害対応: 対象として福島第1原発3号炉への3月11日から21日の放水活動をケースとし、オンサイトへの関与のあり方を検証する。原子力防災計画に定められる警察の実施項目は、屋内退避・避難誘導・犯罪の予防、緊急輸送のための交通の確保、住民への情報伝達活動である。自衛隊は被害状況の把握、部隊派遣、輸送支援、応急医療支援、除染などである。消防は消防法防災業務計画に基づく活動を行なうが、消防隊員の被曝防止のために放射線被曝の危険性が高いところへの侵入は禁止されている。自衛隊・警察・消防の情報共有や連絡がスムーズであったとはいいがたい面がある。政府は自衛隊を主とし警察・消防を従とする体制をとったが、はたして自衛隊によるヘリコプターの放水活動が有効であったと思えない。むしろ消防隊のセメントポンプ(キリン)による放水活動が第4号炉の使用済み核燃料冷却プールへの放水は効果があったとされる。原子炉の冷却は消防車ポンプによる海水・淡水の注入が功を奏して、炉心の全面崩壊をきわどいところで防いだ。警察・消防の活動は最大限の力を発揮したが、今回のような原発大規模災害には自衛隊・警察・消防の緊密な連携・連絡体制について検討課題が残った。

B緊急時迅速放射能予測ネットワークシステムSPEEDI: 今回の原発事故での謎の一つがSPEEDIの無能であった。問題の本質は解析ソフトではなく、それを評価し避難に生かさなかった体制の問題であった。SPEEDI開発の契機は1979年のスリーマイルズ島原発事故であった。1980年日本原子力研究開発機構が設計を開始し、84年には基本システムが完成し、運用は1986年より開始された。その後改良が加えられ2005年には高度なSPEEDIが完成した。 開発運用にかかった費用は2010年度までに120億円である。結果的にSPEEDIの予測データは官邸トップにはなかなか上がらず、避難指示の意思決定には生かされなかった。原子力安全・保安院の緊急時対応センターERCは「プラント事故挙動データーシステムPBS」のなかから事故の状況に近いデータを用いて、1号機については保安院は12日6時にSPEEDIでのデータ解析を行なった。この結果を官邸危機管理センターのオペレーションルームに送ったとされるが、保安院が「信頼するにあたらない」とコメントしたため、緊急管理センターではトップには上げなかったようだ。はじめてSPEEDIデーターが公表されたのは3月25日のことである。5月3日にはすべてのデーター(5000件)が公表された。今回の事故で3月16日までに出された同心円状の避難指示は予防的措置として適切であったと考えられる。緊急時の意思決定において、根拠となる科学的裏づけの正確性をどこまで求めるかによって、不確実性が有ると見られるときには予測データーを判断材料に用いることは現実的には難しい。SPEEDI予測データーは所管の文部省、評価する原子力安全委員会、運用する保安院という3つの組織が関与することで、データ−が人の手に隠れてしまったようだ。また公表することによる避難パニックを起こす場合は非公開という「政府事故調中間報告」では述べられている。

C避難指示は適切であったどうか: 避難指示は大きくは三段階におよぶ。事故直後からの小刻みの避難指示(3月11日:3km圏内避難、3-10km圏内屋内退避、3月12日:10km圏内避難、福島第2原発10km圏内避難、第2原発20km圏内避難)、3月中旬の避難指示及び自主避難要請(3月15日:20-30km圏内の屋内避難、3月25日:20-30km圏内自主避難要請)、4月下旬の避難指示見直し(4月21日:20km圏内警戒区域、4月22日:計画的避難区域の設定、緊急時避難準備区域の設定)の妥当性を検証する。 事故直後の東電第15条通報(冷却機能喪失事故)より避難指示までに2時間以上を要しているのは問題が多い。「現時点では放射能が出ていない」という説明はうなずけない。放射能が出て(被曝の可能性が現実的になって)から避難という矛盾が起る。ベント時には3km圏内避難という指示は斑目電子力安全委員会委員長の了解に基づくので妥当であるという評価である。3月12日の10km圏内避難指示は水素爆発のリスクを考慮して判断されたもので予防措置として妥当であるという評価である。3月12日の20km圏内避難は1号機の水素爆発を受けて出された指示で、IAEAでも基本的には同心円状の避難指示を想定しており、全方向へのリスクを考えた避難指示は何ら問題は無い。3月15日の20-30km圏内の屋内避難指示は、斑目原子力安全委員長らの「20km以上の避難は必要ない」という助言に基づいた指示である。一番の問題は3月25日の20-30km圏内自主避難要請である。自主避難とは法的意味も不明であり、かえって住民に不安と混乱をもたらす原因となった。4月21日、22日の計画的避難区域、緊急時避難準備区域の設定はSPEEDIの予測およびモニタリングに基づいて行なわれた。飯館村のように30km圏外でも高濃度汚染地域が発生した。

D地方自治体の原子力災害対応はどうだったのか: 原子力災害対策特別措置法では事業者からの緊急事態発生の報を受けて、主務大臣が都道府県、市町村に対して、地域住民への情報伝達、避難誘導を指示するという筋書きになっていたが、今回の震災・津波・原発事故では情報通信が被害を受け、計画に定められた連絡機能が麻痺した。国・県の指示は基礎自治体には届かなかった。交通の遮断などによりオフサイトセンターに駆けつけた関係者は一つの町に過ぎなかった。福島県、大熊町、浪江町、楢葉町、富岡町を調査したところ、基礎自治体では地震・津波への対応に忙殺され、原発の状況把握まで行なえるところはなかった。東電は3月11日15時42分第1号機ー第5号機の第10条事項(全交流電源喪失)、同日16時45分第15条事項(非常用炉心冷却装置注入不能)を各関係部署に報告したが、一部の自治体はファックスを受信したが、他の自治体は連絡はなかった。また一連の避難指示の連絡を受けた市町村はなく大体テレビを見て知ったという。各市町村の避難は12日に第1次避難が始まり、15日以降第2次避難となった。原発事故による大規模住民避難は想定されておらず訓練もなかった。事故直後は市町村は避難先の確保で忙殺されていた。そのなかで「双葉病院」の患者移送を巡る誤報も発生した。

第6章 原子力安全のための技術的思想

なぜ原子力災害に対する備えが十分でなかったのかを、社会・政治制度と風土のより深いレベル(遠因)で検証しよう。その主因は「安全神話」で自分を騙し続けてきたことである。そして原発推進体が強固なスクラムを組んできたためである。経産省・文部科学省、設置自治体、電力会社と政治家・学者らで構成される「原子力ムラ」が原発推進母胎となった。国が原子力政策を推進し電力会社が原発を運転する「国策民営」体制(これを中国では「開発独裁」体制という)であったため、安全性向上に対する責任があいまいになり、民間企業では補償し得ない膨大な事故賠償金の問題を棚上げ(電力会社は国が負担すべきと考えているようだ)して、リスクには目をつぶって馬車馬のように突っ走ってきた。そうしたことが一方では膨大な原発のハード面での安全点検規制がつくられ、安全性は確保されているとしたために、シビアアクシデント対策の未整備に繋がった。本来原発は「深層防護」の安全技術的思想で安全対策が実施されているはずである。定期的な安全評価、対策が行なわれながらなお今回の事故は防げなかった。「千年来の想定外的災害」といって済まされない、技術的思想からの逸脱があったのではないだろうか。IAEAが定める基本安全原則Tには「安全のための一義的な責任は許可取得者つまり電力事業者にある」と述べている。一方基本安全原則Uは、政府の役割を独立した安全規制機関を含む効果的な枠組みを定め、それらが守られている事を監督することであるとされる。したがって電力事業者と規制機関の関係は車の両輪のようであるが、国によってどちらのイニシャティブが強いかどうかの違いはある。米国では電力事業者が弱体で、フランスでは電力事業者と規制機関が1対1で対し、日本では規制機関が弱体である。IAEAの基本安全原則は規制機関が技術的に独立した存在でなければならない。原子炉の安全性とはIAEAの「深層防護」の手順によると、「逸脱防止」、「止める」、「冷却する」、「封じ込める」にある。非常時には制御棒を全面挿入して熱中性子を吸収して核反応を止め、核崩壊熱を冷却し続けることで低温停止することが安全対策上の重要な関心事である。

安全性評価手法には、設計想定事象DBEの決定論的安全評価とシビアアクシデント確率論的安全評価の二つがある。1960年以降DBEを基にした安全対策が強化され、二重の安全設備、信頼性の高い設備、材料設計の改良などが行われてきた。これに関しては日本は高いレベルにあった。しかし1970年ごろからシビアアクシデントのリスクは設計の範囲を超える事象によって発生する確率論的対策がWASH-1400報告によって主張された。米国ではスリーマイルズ島事故以来、シビアアクシデントの研究が盛んとなった。日本では確率論的安全評価の規制要件化が実施されなかったことから、安全性評価の効果は限定的であったといえる。今回の福島第1原発事故では原子炉を「止める」ことは出来たが、「冷却する」(→メルトダウン)、「封じ込める」(→ベント開)ことには失敗した。設計・建設の問題は、津波高さ想定の甘さ、非常用ディーゼル発電機および配電盤を地下に設置したことである(第5号機、第6号機は建屋においたので冠水をまぬがれ事故にならなかった)。福島第1原発は米国GE社のBWR型原子炉の輸入で設計から工事まで「フルターンキー方式」(すべてお任せ)であったため、わが国特有のリスクである地震と津波への配慮を欠いたことが今回の事故につながったといえる。原子炉は運転期間中の検査として、年4回の保安検査、原子炉を止め手行なう1−2年に1回の定期検査、10年に1回の定期安全レビュー、30年以降に実施する高経年化技術評価がある。原子炉全体の安全性を考える指標として、計画外停止頻度と確率論的安全評価PSAがあり、日本の原発の操業率の高さ(計画外停止頻度の低さ)はフランスより10倍高いといわれる。そこに安全神話がうまれ、PSAの必要性を軽んじたのではないだろうか。東北の太平洋側にある15のプラントのうち、福島第1原発第1,2,3号機だけが炉心損傷に至ったのは、構造物・原子炉・機器SSCの経年劣化と無関係とはいえない。日本の原発のアクシデントマネジメントAMの方向性が、設計想定事象DBEに終始して、事故発生時の対応が取れるような準備と対策が不足していた。例えば、ベントには放射性物質除去の巨大なフィルターが付いていないので、ベント開放で放射能が環境中へ撒かれる。炉心異常圧力開放のためのベント末端にラプチャーディスク(薄板安全弁がない)。水素爆発は炉心に窒素を充填しているので大丈夫と関係者は信じおり、炉心破損による水素漏れで建屋が爆発することを考慮していなかった。消防車による炉心注水という操作が福島原発の手順書に書いてなかったため、第1号機への給水の遅れとなったなどが挙げられる。

第7章 福島原発事故にかかわる原子力安全規制の課題

IAEAが定める基本安全原則T「事業者の責任」、U「政府の安全規制と監督責任」、V「政府の放射線防護規制責任」において本章は第Uの安全規制の歴史的経緯を検証する。内容は@津波、A全電源喪失、Bシビアアクシデント対策、C複合原子力災害への備えをみる。福島第1原発の設置認可を下1866−1972年には津波に対する明確な基準はなかった。そこで1960年のチリ地震を参考に潮位+3.12mを設計基準とした。1981年に「原子炉旧耐震基準」が決められたが津波への言及は無い。奥尻島津波を契機にして1994年通産省は「津波安全性評価評価結果報告」を了承した。チリ地震を最高位とする津波高さが共有された。2006年原子力安全委員会は「極めて稀に発生する津波に対する備え」を明記したが、津波算定方法の基準は示していない。2007年中越地震による刈羽崎原発の加速度GALが設計基準の2倍を超えたため、耐震性のバックチェック(見直し)がなされたが、津波に対する安全性評価は含まれていなかった。この見直しの中で東電は土木学会の「原子力発電所の津波評価技術」2002年を用いて再評価を行い、福島第1原発で+5.4-6.1mでの対応をとった。1995年の阪神淡路大震災を契機に、地震の技術的評価と原子炉の確率論的安全評価は進んだが、津波については今後の課題とされた。2004年のスマトラ沖地震によるインドマドラス原発が津波によって原子炉停止となったが、日本の規制関係者がこの事例を重視した様子は見られなかった。原子力安全機構JNESは2008年より「地震に係る確率論的研究手法」の事業に取り組んできたが、2011年の報告書では貞観津波を無視した。2007年茨城県は「津波浸水想定」を行い、現状4.9mの堰を見直すよう日本原電に求めた。原電は新たに6.1mの高さに嵩上げ工事を着工中であった。今回の津波ではおよそ5.4mが襲ってきたので既設の堰部分では一部浸水したが、新規堰部分は浸水を免れ冷却機能喪失を辛うじて回避できた。

全交流電源喪失SBOに対する規制の備えを見る。福島第1原発の第1−3号機の全交流電源喪失の状態が長時間続いたため、炉心冷却不能となり炉心溶融メルトダウンと水素爆発を招いた。1990年の「安全設計審査指針」では「短時間のSBOに対して原子炉を安全に停止し、停止後の冷却を確保できる設計」となっており、「長時間のSBOは送電線の復旧または非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要は無い」とされた。まさにこの無視した事態が福島原発事故で発生したのだから、ひとたまりもなく炉心はメルトダウンしたのだ。なお「短時間」とは30分程度とされている。日本では外部事象由来のSBOの可能性を十分に考慮するに至らなかった。東電のアクシデントマネジメントAMは内部事象を起因とした想定事故であり、送電線の復旧不能や受電設備の故障、非常用外部電源の故障などは考慮外にあった。「理論的にはありえても確率的には現実には起こりえない」というある種の「信仰」が支配していた。斑目安全委員長の炉心再臨界の可能性についての発言「可能性はセロではないが、ありえないほど低い」という禅問答が「あるのかないのかはっきりしろ」という官邸を苛立たせた。リスク論としては無いという方へ傾くのではなく、あるかもしれないので対策をするというのが確率論的安全評価である。事故が起きた場合の深刻さを想像することにより事故をなくする対策をするのである。コストが膨大になるので対策できないという事業者の言い訳は事業を起こすに価しない態度である。チェルノブイリ原発事故を受けて米国では外部事象のAMを実施し、欧州ではベントにフィルターを設置したが、日本の通産省は1992年規制的措置ではなく、電気事業者の自主的措置としてAMを整備してゆく事を要請した。理由は日本の原発の安全規制は万全でありAMの可能性は限りなく低いという自信(安全信仰、傲慢)のためである。通産省はAMを事業者に規制なしの研究課題と提示したにすぎない。2003年までに書類上の原発事業所AM整備は終了し、保安院はこれを了とした。

日本の原子力安全規制が地震対策の構造強度偏重型に傾き、リスク情報を活用した安全解析の方には進まなかった。しかし2003年12月原子力安全委員会は定量的目標と定性的目標を示した。定性的には「公衆の日常生活に伴う健康リスクを有意には増加させない水準に抑制する」ことであり、定量的目標は「被曝による公衆の平均急性死亡確率は年あたり100万分の1以下とし、低線量被曝による発ガンによる平均死亡率は年あたり100万分の1以下とする」というものである。原発に対する具体的性能目標として、炉心損傷頻度は1万年に1回、格納容器損傷頻度は10万年に1回という目標値が示された。しかし原発操業後わずか40年で炉心損傷を起こした。何か根拠があってこのような目標値が出てきたとはいえないので、これは各事象の確率数値の掛け算からでた架空計算(10年に1回の事象が5個連続して発生すれが事故になる確率計算にすぎない。ところが故障とは連鎖して並立して発生する場合が多い。2個の安全装置が同時に故障する類である)であるので、安全目標値の高さに比べて事故発生の簡単さに驚くばかりである。これは人を馬鹿にした知の傲慢といえよう。今回は地震と津波(この2つは連動する場合が多い)と原発事故による複合災害である。原子力安全委員会が策定した「原子力防災指針」には内部事象のみによる事故であり、自然災害や武力攻撃などの外部事象と原発災害が複合する場合は明示されていない。安全規制関係者の共通認識には外部事象に起因するSBOやSAについてリスクの存在はあったと思われるが結果的に間に合わなかった。規制官庁とくに保安院の専門性の低さが問題である。保安院の官僚の殆どは事務系官僚であり、技術的な専門性は完全に独法原子力安全機構JNES任せになっており、しかもその意思疎通は図られていなかった。官僚という行政機構には原子力安全規制を任せるのは難しいといえる。高度な専門性を維持する規制官の育成、法律や指針の改定を頻繁に行なう期間の連続確保が2―3年の在位期間では不可能であるからだ。IAEAによる総合規制評価サービスIRRSは「日本の原子力安全保安院を評価して、事業者を指導し抑圧する姿勢が強い、また事業者も規制基準を遵守していれば事足れり」といい、安全文化が日本の原子力安全規制システムにおいて十分に養われていなかったといえる。

第8章 安全規制のガバナンス

原発の安全規制の建前は、事業者が安全の第一義的責任を持ち、原子力安全・保安院が電気事業者を監督し、原子力安全委員会は安全規制の指針を作ることである。しかし現実は事業者は安全規制の当事者としての責任を十分にはたさなかったし、原子力安全委員会は有識者の集まりであったが、十分な法的権限と調査分析の資源をもたないサロンにすぎず、原子力安全・保安院事業者に対して専門的な安全規制をする能力はなく、技術資源が圧倒的に劣っていた。電気事業者の追認機関に甘んじていた。この原因を作ったのは、日本の原発推進体制が、文部科学省の原発開発と通産省の商業炉建設と電力供給に別れていたために、推進と規制のの区別があいまいになったことであり、決定的な原因は2001年省庁再編により文部省管轄の科学技術庁が実質解体され、新設された原子力安全・保安院が経産省に組み込まれたために、規制担当が推進担当の下になり安全規制のガバナンスが空白状態「無責任体制」が生まれたことによる。福島第1原発事故が起こった遠因には、日本の原子力安全規制のガバナンスが機能してこなかったことがある。安全規制のガバナンス(管理監督)のアクターである、電気事業者、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、原子力行政省庁の歴史的な背景を検証する。日本が原子力発電に向かった政治・社会的経緯は山岡淳一郎著 「原発と権力」(ちくま新書 2011年)に描かれている。原子力行政は1955年に「原子力基本法」が成立し、総理府(翌年科学技術庁に再編)に原子力局が生まれ、1956年総理府に原子力委員会ができ、原子力技術開発をになう科学技術庁が発足したことからスタートする。科学技術庁と原子力委員会が安全規制にも責任をもつガバナンスの仕組みとなった。こうして「国策民営」路線が生まれ、国産原子力技術開発を科学技術庁が、商業炉導入を通産省と電力事業者が推進するという原子力二元推進体制となった。原子力発電所の設置建設は通産省が責任を持つ「電力事業法」、原子炉の運転や検査は科学技術庁が責任を持つ「原子炉等規制法」の二本立ての安全規制となり、責任があいまいとなった。商業炉は100%外国メーカーの原子炉の輸入であったため、外国の安全基準を維持すれば安全は保証されるという認識であったという。

1961年に成立した「原子力損害賠償法」では、民間の損害賠償額に上限を設け、それを超える場合は民間事業者の賠償を国が援助をする」ということになり、ここで事業者の「モラルハザード」となり、安全規制に対する責任の所在が曖昧になった。「原発が国策であれば、事故の損害賠償は国が援助をすべきだ」という暗黙の了解が関係者に生まれたようである。大蔵省は賠償の第1義的責任は事業者にあると主張したので、この点も曖昧にされた。1978年原子力船「むつ」の放射能漏れ事故を契機に、原子力委員会から「原子力安全委員会」が分離され、原子力安全に責任を持つ専門組織が出来た。また科学技術庁は1976年に原子力安全技術センター(現在は原子力安全基盤機構)を設置した。原子力委員会が原発推進の旗振りをし、原子力安全委員会とは違う見解を示すなど「二元審査体制」の軋轢が目立つようになった。1973年以降伊方原発裁判を受けて、安全規制の検査がエヴィデンス重視の安全点検となりやたら書類重視の官僚主義傾向に終始するようになった。1999年のJOC臨界事故の反省においても2001年「原子力の安全基盤の確保について」という報告書が出されたが規制の見直しにはならなかった。2001年原子力安全・保安院が資源エネルギー庁に新設されたが、文部科学省の予算確保のため原子力安全事務局が新設され原子炉規制などの権限は残された。このため一層規制行政は複雑化しただけになった。原子力安全より官僚機構の保身策の方が優先した小泉改革であった。科技庁のもとには、原研、動燃、核燃料サイクル、原子力安全技術センターなる機関があった。2005年には原研と核燃料サイクル機構は公益法人原子力研究開発センターJAEAに統合された。経産省のもとには原子力安全基盤機構JNESが設立された。これが原子力安全・保安院の技術業務を補佐する任務を期待されていたが、実質は仕事の85%は外注する事務機関に過ぎないようである。この二元安全機構法人も、科技庁系列の原子力安全基盤機構JAEAと経産省系列の原子力安全基盤機構JNESが並存することが縦割り行政の弊害の典型である。この間に「安全性審査」が落ち込んでしまった。

2001年の省庁再編に伴って科技庁の一部を取り込んで経産省資源エネルギー庁の外局として原子力安全・保安院が誕生した。原発 安全関係者は約330人で全国21箇所に事務所を持ち原子力防災専門官が常駐している。経産省の原発推進予算は1816億円、そのうち保安院予算は283億円であるが独法原子力安全地盤機構JNESへ201億円の運営交付金が含まれている。JOC事故で科技庁は潰されたようなものだから、保安院もしっかりしないと経産省も潰されるという危機感は当初存在していたようだが、結果的に保安院は安全規制機関としての役割を果たせなかった。そのわけを検証する。安全・保安院の検査官を増員し50名から100名となったが、キャリア事務官僚は経産省との間を2-3年で往来するのでスペシャリスト化は進まなかった。プロ集団には程遠く、今回の事故には危機対応の遅れを指摘された。斑目安全委員長は「保安院という組織が消えうせていた」と事故当時を振り返っている。保安院は2002年元GE子会社職員の内部告発による東電の「検査データ−改竄」トラブルでは、通知を受けてから2年も結論が出せず内部告発者の名前を東電の教えるなどという不祥事も引き起こしている。データ改竄事件については佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年)に詳しく描かれている。2011年九州電力の「やらせ投稿」事件ではエネ庁と保安院の職員が原発賛成の発言を依頼したことから、原子力安全・保安院という規制機関が電力会社や原発推進機関を一緒になって行動するなど、癒着や馴れ合いが続いていた。保安院はJNESという専門集団が出来て協力して規制の高度化が進むとき期待されたにもかかわらず、完全にお任せとなって意思疎通(技術会話も出来ない)が出来ない状態に陥っていた。JNESは2005年から「前兆事象評価」を実施し、2008年から確率論的安全評価手法の改良版に取り組み海岸線の原発は津波を受けるリスクが高く炉心損傷の可能性をしてきたのも係らず、保安院はこれを採用しようとしなかった。つまり新知見の意義も理解できなかったようだ。保安院は原子力安全委員会の指針をほとんど鵜呑みにして遵守するだけで、シビアアクシデント対策SAの手順書の見直しで事業者の指導は出来なかった。

規制官庁と電力事業者の間には圧倒的な能力差が存在し、東電を規制するどころか東電に利用されているだけであったという。お墨付きを付与する機関に過ぎなかった。原子力安全委員会は経産省や文科省からは中立の第8条委員会で5人の専門家委員で構成され原発などの安全性を調査審議する。内閣府に事務局がおかれた。に安全審査とその指針を出すが、直接事業者を監督指導することは出来ず、首相を通じて勧告権を持つに留まる。業者の保安、監視は安全保安院が行なう。安全委員会が策定する指針には強制力がなく、規制の実効性を欠いた機関である。原子力安全委員会には高度の専門性が必要なため、専門審査会として原子力安全と燃料安全審査会が2つ、専門部会が10、さらにその下に多くの小委員会から構成される。緊急事態においては「緊急技術助言組織」が招集できるが、今回の事故で3月11日に召集されたが、なすすべもなく顧みられることはなかったという。安全委員長は原子力災害対策本部の本部員ではなく、安全委員長は個人の資格で首相官邸に詰めていただけであった。原子力安全委員会による原発の安全検査が書類重視となり、形式的に機械的に基準がクリアできているかどうかで、安全性が確保されているとするパターンが確立した。

東京電力は1951年「発送電一体型」の地域独占会社としてスタートした。2010年度資本金9009億円、売上高は5兆3685億円、総資産額14兆7903億円、従業員3万8671人、電力生産量は2890億KWh(原発発電量は30%)で日本全体の1/3を占め、民間電力会社としては世界最大の規模である。経営の安定性の秘密は、「総括原価方式」で費用をすべて電気料金に上乗せできることであった。発送電地域独占なので顧客は他の電力会社を選択できない。東電が受け入れた中央官庁からの天下りは2011年で50人を超える。東電の技術力・企画力は規制官庁を遥かに凌駕し、周到なプランは官僚作文とは比較にならないほど提案力を持つという。実力において官庁による規制は極めて難しい。東電は業界リーダとして原発の旗振り役を務め、1997年の京都議定書の腹案は原発20基の増設に基づいている。電力会社として「プルサーマル計画」を進め、高速増殖炉の失敗をリカバーするプルトニウムの有効利用を進めた。福島第1原発第3号機に使用されているMOX燃料のため、今回の事故による放射能漏れに半減期がとてつもなく長いプルトニウムが検出されるのはそのためである。東電は福島第1原発に6基、福島第2原発に4基、刈羽原発に7基の計17基の原発を運転してきた。経営陣は政財界への人脈が豊富な総務部門が主流で水野ー平岩ー那須ー荒木氏らが社長を占め、1995年頃から始まった電力自由化への対応から経営の合理化を重視し企画部門出身の社長として1999年より南ー勝俣ー西澤氏を輩出した。(東電では技術系役員が社長に付くことは一度もなかった。) 南氏は経営の合理化によってコストを2割削減し電気料金の値下げを行なった。2002年8月GE子会社社員の「データ改竄」内部告発事件で南社長、荒木会長、那須・平岩顧問の四氏が退陣して責任を取ったが、「安全性に問題がなければ、多少のことは報告しなくていい」という誤った考え方が支配していた。それは採算重視で原発を止められないからである。しかし2003年にはすべての原発を停止するという経営危機に陥った。現場の原子炉を一番良く知っているのは日立や東芝のメーカであるが、東電とは主従関係にありメーカーが問題提起をすることはなかった。書類重視の安全審査では東電社員が現場を見る時間も少なくなり安全文化は次第に劣化していったという。原子炉をよく考えるという習慣もなくなっていった。形式的な安全点検とはいえ国が整備内容を了承しているのであるから国に責任がないとは言えない。しかし東電が「国の基準を守ってきたのだから、事故は我々の責任ではない」と考えるのは、事業者としての第一義的責任を放棄するモラルハザードである。

第9章 安全神話の社会的背景

福島第1原発事故の原因には、「技術的な側面」、「行政制度・政策的な側面」と「社会的な側面」がある。前の2つの側面はすでに論じてきたので、本章では「sy快適な側面」を扱う。事故が起こった背景に何があったのかを考える時、「安全神話」という社会的な認識を避けて通るわけには行かない。なぜシビアアクシデントに備えなかったのか、それは原発が限りなく安全でありSAに備えるべき現実的必要性を感じない」という原子力安全委員会の「安全審査指針」があったからだ。では原発が安全であると云う設定は正しかったのかというと、それは3.11複合原発事故によって無残に否定された。では安全というのはデマゴーグであったのか。原発の現場では原子炉の構造安全のための限りない努力をして居る事は認めよう。しかしそれを凌ぐシビアアクシデントの確率的発生に備えることは海外先進国の潮流になっていた。そのための科学的知見が蓄積されつつあるのも係らず、日本の原子力(推進・規制)関係者の頭の中に「原発は安全だ」というデマゴーグによって過剰な自信、傲慢が生じていたことが事故への備えを無視することになった。では誰がこのようなデマを意図的に流したのかというと、間違いなく原発推進派の政治家、行政官僚、財界、学識経験者、地方自治体がそれぞれの利害関係によって安全神話という「共同幻想」の場をこしらえたのであろう。それによって原発推進が出来れば彼らの利益になるからだ。騙す相手は自分自身であり、かつ第3者の世論の反対派である。皆が楽しい夢を見る事をぶち壊すような世論は村八分にして排除することに莫大な金も使われた。そのムラとは「原子力ムラ」のことである。原子力ムラの構成員は、第1に原発推進派の様々な利害関係者、第2の構成員とは原発設置を受け入れる立地自治体、第3の構成員は第1.第2を除いた第3者であるが原発推進体制に無関心で批判的な眼を持たない世論である。

第1の原子力ムラつまり中央の「原子力ムラ」を見て行こう。力も金も持ち合わせた経団連・電力事業連合会を始め産業界は原発建設を一貫して支持し推進してきた。一時は規制側の経産省の一部勢力は電力自由化を通じて業界の利益構造の解体を試みたが、結果的には見事に自由化政策は撃退され、発送電一体体制と地域独占体制、そして「総括原価方式」は温存された。その背景には電力会社の技術力、政治力、ロビー力があったからである。電力事業者の政治献金は形を変えながらも、2011年度の自民党の個人献金の72%が電力関係者からのものであった。もちろん民主党への献金も忘れてはいない。また電力事業体の広告費はテレビなどのメディアを黙らせる力を持ち、立地自治体への寄付(補助金)も巨額に上っている。次に立地自治体という地方の「原子力ムラ」を見ると、固定資産税や電源三法による補助金は自治体の財源のかなりの部分を占め、これらがなくなると自治体は干上がってしまうのである。福島第1原発の近隣自治体の双葉町は20億円を交付され全収入の30%を占める。大熊町は17億円を交付され全体の財源の1/4を占める。富岡町と楢葉町では全体の1/7ほどを交付金に頼っている。その結果交付金の増額を狙って「原子炉の増設」、「関連施設の建設」を電力会社に請願する有様となっている。これを「麻薬的」効果というらしい。表現はさて置き、立地自治体は原発にドップリ浸かってしまって抜け出す事は断末魔の苦しみを意味し、さらに原発(薬)を欲しがるような立場に追い込まれている。もちろんこれには地方過疎と格差という日本全体の構造的問題があり、地方自治体だけのせいにすることは出来ない。第3の「原子力ムラ」は一般国民である。一般国民が無知から安全神話を信じ込んでいるというわけではない。原発推進側は膨大な対策費をつかって、メディア支配を企画し、「安全と安心」を振りまいてきた宣伝効果のせいである。福島第1原発事故はこの安全神話を打ち砕いたが、それでも原発推進側は2011年12月「事故収束宣言」をかってに出して、あらためて安全神話を再構成するため「ストレステスト」を実施して原発再稼働につなげようとしている。また受け入れ側では立地自治体の推進派が次々と選挙で勝利した。昔どおりの構図が動き出している。

第10章 原子力安全レジームの中の日本

この章では国際的な原子力安全の規範とくに地震と津波に対する事故対応指針が、1979年のスリーマイルズ島事故、および1986年のチェルノブイリ事故の教訓を経て次第に整備されてきたことをまず振り返り、そして日本の規範を見て行こう。チェルノブイリ原発事故の後、国際原子力機関IAEAでは原子力利用安全基準を実行あるものにするべく専門家による総合評価(ピアレビュー)制度が精緻化した。これは強制力のないソフトアプローチといわれる。この国際レジームを通じ日本はこれまで「警告」を受けていたのも係らず、原子力安全条約CNS、原子力災害時の早期通報条約、国際協力のあり方を規定した援助条約に照らして日本の福島原発事故の国際対応が妥当であったかどうかを検証する。IAEAの「原子炉施設に関する原子力安全基準」NUSS計画は1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて大幅に見直され、1993年「安全原則ー安全要件ー安全指針」の三層構造からなる原子力安全基準が完成した。そして基準文書は1996年に統一された。それらの文書はあくまでレファランス(参照条件)とされた。IAEAは各国の国家主権を尊重し各国が自国の判断として利用可能なピアレビュー制度を整備した。1989年IAEA は国際規制レビューチームIRRTプログラムを開始した。国際原子力安全条約CNSは2005年「総合規制評価サービス」IRRSを開発し各国へのサービスを開始した。一方原子力事業者は1987年「世界原子力発電事業者協会WANO」を結成し、1991年よりピアレビューを開始した。

このIAEAやWANOによる総合安全評価ピアレビューに日本は必ずしも積極的には向き合ってこなかった。IAEAの安全運転調査団OSARTは1988年に高浜原発、1992年に東電福島第2原発、1995年浜岡原発、2004年には刈羽原発でレビューを実施した。福島第2原発ではOSARTから多くの勧告が出されたが、東電はこれを無視したといわれる。浜岡原発に対する勧告にも中部電力の対処は不十分だったとIAEA関係者は語っている。ピアレビューの検査が日本の事業者の隠蔽体質をかたくなにしたようであった。2007年IRRS実施報告書には保安院と原子力安全委員会に対して改善点が5つ示された。それに対する保安院の2008年プレスリリースは指摘を拒否する内容であった。ところがWANOの利用は2003年より福島第1原発、同第2原発で自主レビューが実施されている。IAEAは2007年の新潟沖地震による刈羽原発事故に危機感を感じ、国際耐震安全センターを設立し新基準DSS422を策定した。こうした新基準の見直し作業「地震確率的安全評価PSA」は、今回の福島第1原発事故防止にはつながらなかった。IAEAの安全基準には「想定起因事象PIA」(1万年に1回以上おきる可能性)を想定しなければならないとされている。2009年IAEAの「立地評価安全ガイド」にも歴史的津波を徹底的に考慮する必要性を求めている。今回の事故を調査するためにIAEAは2011年5月専門家調査団を派遣した。報告書には日本における幾つかのサイトで原子力発電所における津波のリスクが過小評価されていると指摘している。

日本政府から国際社会への事故に関する情報発信のあり方には一定の評価ができる。IAEAに対する事故報告は5月末までの800件を越した。また外務省によるブリーフ情報発信も評価できる。その内容が外国通信員の求めるものであったかどうか、外務省では科学コミュニケーションが出来るのかという課題を残した。1986年IAEAはチェルノブイリ事故直後に「早期通報条約」を定めた。日本は同条約の締結国であるものの、IAEAの天野事務局長は「3月16日の時点で日本の当局から十分な情報が提供されていない」と述べていた。4月4日、放射性汚染水を通報なしで海洋放出をしたことは重大な問題を孕んでいる。外務省は1996年のロンドン議定書の義務に反するものではなく法的義務はないとしているが、6月には韓国、中国、ロシアに説明を行なった。放射線防護の関する国際レジームはICRPと国連科学委員会UNSCEARによって構成されている。ICRPの1990年勧告は「防護の最適化」原則を定め、被ばく線量限界は社会的経済的要因を考慮し合理的に達成できる限り低くすべきであるとした。日本の原子力安全委員会はICRPの1990年勧告モデルを取り入れている。ところが欧州放射線リスク委員会ECRRはICRPモデルより発ガンリスクを数百倍高く見ている。福島第1原発事故後国際レジームの強化改正作業が進んでいる。2011年4月CNSの再検討会議が行われ、2012年8月に特別会合を行なうとした。2011年5月G8サミットではIAEA 支援を決めた。1011年6月「原子力安全IAEA閣僚会議」では改正よりは運用強化で対応するとした。2011年9月IAEA理事会は原発安全行動計画を採択した。WANOでは事故後3月30日に「WANOポスト福島委員会」が設置され勧告が出された。2011年11月にウイーンの19カ国IAEA加盟国にWANOを加えた会議が開催され、シビアアクシデントをレビューする事を決めた。


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