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山岡淳一郎著 「原発と権力ー戦後から辿る支配者の系譜

  ちくま新書 (2011年9月 ) 

原発というシナリオに群がった人々 

原子力発電それは戦後日本にとって最高のシナリオだった。技術立国と科学技術信仰に国民を酔わせ、再軍備から核兵器への道につながるその魅力に多くの政治家を夢中にした。いち早く原子力予算を成立させ原子力大国を目指した中曽根康弘、中曽根安弘、総理への野望に原子力を利用した宣伝担当の正力松太郎、資源外交を展開した田中角栄、核燃料サイクルと核兵器の潜在能力にこだわった自民党世襲政治たち、原発輸出を推進した民主党の「革新」政治家たちの頭の上に、2011年3月福島第1原発事故が落ちた。原発の第1前提であった「安全性」が神話であったことが白日の下に曝され、原発を動かす権力に敗北が宣言された。山岡淳一郎氏は「ああ、これで昭和は終った。一貫して国策として推進された原発は、最後の昭和モデルであった」という。原発の生みの親である93歳の中曽根康弘元首相は2011年6月、「原子力には人類に害を及ぼす一面もあって、それを抑えるのが人間の文化と歴史です。・・・これからは日本を太陽国家にしてゆきたい」というメッセージを送った。心からの反省であったなら政治家の変節で済むが、世を憚るいい訳なら欺瞞であろう。原発ムラの有力な推進役であった自民党はいうに及ばず、福島第1原発事故までは原発のセールスマンであった民主党政権閣僚達の反省の弁はついに聞こえてこない。菅内閣の福山官房副長官の書いた福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」(ちくま新書 2012年8月)が結果的に反省の辞であればいいが。敗戦前の国家主義者と戦争推進派が1日にして民主主義者や反戦論者に変身した記憶はまだ忘れてはいない。そして地球温暖化問題が原発推進派と資源枯渇を武器にする産油国の策動であったことも曝露された。今日、地球温暖化の話は話題から消えた。2012年8月内閣府は原発にかんする3つの選択肢のパブリックコメント調査結果を発表し、9割の回答は原発ゼロを支持したという。政府は恐ろしくて回避するであろうが、もし「国民投票」でシナリオの選択肢を問うならば間違いなく脱原発が過半数を占めるであろう。しかし55体制と同じく戦後50年以上続いてきた原発依存体質を断ち切るのは容易でないことも我々は自覚しなければならない。

全開運転で制御不能(チェルノブイリ原発事故は原発の絞り運転が可能かどうかの実験中におきた。また出力制御の出来ない原発は夜間電力消費を奨励し電力大量消費時代を招来した)の、かつ核廃棄物の方策もない原子力発電を日本は国策として進めてきたのはなぜか。1970年代の石油ショックにより資源小国の日本が安定した電力をまかなうには原発しかないという結論となったというのがその回答の第1である。しかしそれは理由の一つであって全部ではない。ところが原発稼動基数の統計を見ると、経済変動(高度経済成長、石油ショック、バブル期、平成不況など)に全く無関係に1966年から2000年まで原発設置数は一直線に増え続けてきた。原発の発電シェアーは2009年に30%となり、さらに2014年に37%、2019年には41%にまで拡大する予定であった。「低コスト」、「安全性」、「温暖化防止」という理由はあいまいなまま、安全神話に警鐘を鳴らす人々を背徳者のように排除し、電源三法による補助金で設置市町村を麻薬の切れた患者にして原発の増設を申請させ、学者や地権者・漁業者を札束でひっぱたき、巨大な原子力ムラの自己増殖はやむところを知らない。そして1990年代より技術的にも経済的にも見通しのたたない「核燃料サイクル」にのめりこむことになった。ブレーキのないブルドーザーは国家を道連れにして崖っぷちに向かって猪突猛進してゆく感があった。このような動きはどうして止められないのかと考えると、著者は「権力は原子力を好む」ということに行ききつくという。原子力利用と核兵器開発は双生児のようにつながっている。原子力と核兵器は政治という薄い皮一枚で隔てられているに過ぎないという。プルトニウムの蓄積は核オプションに連なる。北朝鮮が垂涎のようにして欲しがるプルトニウムが日本には何百万トンと存在する。北朝鮮の核実験は日本の核潜在能の前には学校のビーカー実験に過ぎない。日本政府が原子力発電に着手したのは冷戦下東西陣営が核武装に狂奔している最中であった。1953年12月米国のアイゼンハワー大統領は「アトムズ・フォア・ピース」の演説で核戦争の脅威を指摘して、各国に原子力の平和利用を呼びかけた。つまり独占していた原子力関連技術を西側陣営の強化に使おうとした。

日本は原爆の悲劇を2回経験し、「第5福竜丸」は水爆実験の「死の灰」をあびた経験をもつ唯一の国家である。にもかかわらず日本の左右陣営はこぞって原子力の平和利用という言葉に乗せられた、稀有な、愚かな国民である。反省は経験から学び取るものであるが、悲劇という経験から何も学ばなかった日本という国の底知れない反省のなさに唖然とする。ドイツはユダヤ人虐殺に猛反省をしていまや世界をリードする健全な国家になりえた。日本では先の大戦で軍人は滅んだが、軍国を支えた官僚は生き残り、経済成長に的を絞った統制経済的手法で日本を乗っ取った。原子力は支配体制を再構築するするには戦後の格好のターゲットとなった。そして日本を底知れず腐敗させている体制は「大政翼賛会」というよそ者を排除する総与党体制である。自民党政治家のみならず、野党政治家、知識人とくに大学の科学者達全員が原子力平和利用の大合唱に巻き込まれた。原子力に批判的な意見は「文明を知らない野蛮人」と罵倒した京大の教授がいた。いつも村八分を恐れて空気を読む人々が原発に賛成したのだ。この雰囲気は国体を恐れアカ・非国民呼ばわりに恐怖した人々が戦争に巻き込まれたのと同じ原理である。原子力発電はどこから来たのか、そして推進した者はだれか、実名で記録しておかなければならない。特に権力に群がった政治家たちの名前を。著者山岡淳一郎氏のプロフィールをみよう。1959年愛媛県うまれ、出版会社を経てノンフィクションライターになる。近現代史、医療、政治などの分野で活躍している。主な著書には「国民皆保険が危ない」(平凡社新書)、「医療のこと、もっと知ってほしい」(岩波ジュニアー新書)、「狙われるマンション」(朝日新聞出版)、「後藤新平」(草思社)、「田中角栄}(草思社)などがある。山岡淳一郎氏はこのようにノンフィクションライターである。本書は政治家の事しか書いていない。政治家イコール権力者というわけではないし、権力の中枢というわけでは決してない。だから本書の副題にいう「日本の支配者」に肉薄した内容を持つものではない。せいぜい原発の甘い汁に群がった政治家というような意味であろう。以下本文では重要な人物は実名ごとに太字で銘記する。推進派もいれば反対派、中間派もいるので、太字の付いた人の意味は文脈からよく吟味していただきたい。

1) 冷戦が押し開けた原子力の扉ー中曽根康弘の原子力関係予算化

米軍の占領政策は日本の民主化を最優先にして軍国主義の根を絶つことであったが、ソ連の国力の脅威に驚いたGHQは日本を「反共の防波堤」とするために、日本の経済力回復へと楫を変えた。そこで軍国官僚や政治家・旧軍人・右翼を取り込んで、日本の左翼陣営を弱体化させ保守勢力を強化した。筆者は政治の動きにページを費やする傾向にあるが、私はそれは他書に譲って、原子力関係を中心にまとめたい。戦犯の釈放で岸信介・後藤文夫といった東条内閣時代の官僚・閣僚が政治に参加した。後藤文夫は大政翼賛会の顔ともいうべき存在で東条内閣の国務大臣であったが、戦犯として収監された巣鴨で英字文献を読んで原子力発電の事を知っていた。後藤は元秘書官であった橋本清之介(のちの原子力産業会議の代表理事)と話し合って米国発の原発に関する情報を電力界にもたらした。橋本文夫は後藤隆之介の主催する講演会で田中慎次郎から原子力発電を勉強したという。後藤隆之介とは近衛の「昭和研究会」を取り仕切り、大政翼賛会(当初大政翼賛会は左翼も連合する緩やかな組織であった)の組織局長となった男である。後藤慎次郎も朝日新聞の田中慎次郎も左翼系である。新聞界では朝日新聞の田中清次郎が最も早く原子力に目をつけたといえる。1951年最後の「日本発送電株式会社」(9電力会社に分割・民営化される)の総裁であった小阪順造は電力経済研究所を創設し、橋本清之介を常任理事に、後藤文夫を顧問に迎えた。こうして戦中の国家総動員体制の落ち武者が原子力ネットワークの要所を押さえたことになる。

戦時中、日本にも原爆研究がなかったわけではない。1941年陸軍の安田武雄中将が理化学研究所の大河内正敏所長に原爆製造研究を依頼した。大河内は仁科芳雄に原爆研究を命じたが、仁科らはガス拡散でウラン濃縮すれば原爆は作れるといったが、研究はもっぱら原子核物理のサイクロトロン基礎研究に費やされ原爆研究には熱心ではなかった。そして米軍は1945年8月日本に2発の原爆(広島:ウラン濃縮、長崎:プルトニウム)を投下した。占領軍は原子力研究を全面的に禁じた。こうして日米の原子力研究の差は大きく開いた。日本の科学者で原子力利用を訴えたのは仁科の門下生だった武谷三男(反体制派物理学者。・科学史家)である。1950年武谷は「自主・公開・民主」の平和的な原子力研究を行なう権利を日本人は持っているといった。物理学者の動き対して原子力を政治の舞台に引き上げたのが、日本の再軍備を主張する中曽根康弘であった。1950年朝鮮戦争は日本の再軍備という「逆コース」の変更を迫った。1951年ダレス大使が来日したとき、中曽根は、最軍備への援助や原子力研究の自由化・民間航空の復活という要望書を出した。1951年9月サンフランシスコ単独講和と日米安保条約はセットで締結された。東大の茅誠司伏見康治らが原子力研究再開に向けて動き出した。茅は1952年秋の学術会議に原子力委員会設置を図り、伏見康治にシナリオを書かせたが、茅・伏見の提案は学術会議の若手物理学者の猛反対を招きシナリオは却下された。

中曽根はキッシンジャーの招きに応じて「ハーバード大学の夏季セミナー」に参加し、最軍備・反共の姿が注目された。帰路中曽根は嵯峨根遼吉を訪問し、二人でカルフォニア・バークレーのローレンス放射線研究所を見学した。嵯峨野は中曽根の日本の原子力研究をどう進めるかという質問に答えて、次の指針を与えたという。(出来すぎていて、後付けの感が否めないが、これが日本の方針となった)
@ 長期的な国策を確立すること。とくに政治家が決断しなければならない。
A 法律と予算を持って国家の意志を明確にし、安定的研究を保証する。
B第1級の研究者を集める。
1953年国連総会でアイゼンハワー大統領の「原子力平和利用」演説の後、国際原子力機関IAEAの設置を呼びかけた。1954年防衛産業の育成に力を注ぐ経団連会長石川一郎と三菱の郷古潔の二人は日本航空のアメリカ乗り入れに招かれて訪米し、嵯峨根遼吉に会いバークレーのローレンス研究所を訪問した。政界と財界の原子力利用への動きが始まりつつあった。官は政治が予算の筋道をつければ自動的に動き出すものである。「原子力予算を入れよう」と言い出したのは斉藤憲三だったが、改進党の中曽根康弘、稲葉修、川崎秀二、斉藤憲三、小山倉之助らは1954年度予算修正案を上程した。総額2億6000万円の原子力予算が盛り込まれていた。学界や民間でも茅・伏見の原子力派科学者と大政翼賛会左派の旧昭和研究会グループの田中慎次郎らが「新しいエネルギー−原子力」と銘打った講演会を開いた。同年3月米国の水爆実験がビキニ環礁でおこなわれ第5福竜丸が被曝したにもかかわらず、原子力予算は国会を通った。原子力予算説明で改進党の小山倉之助は「現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であります」といい、原子力利用の目的は核兵器使用にある事を明白に露呈した。

2) 原発導入の露払いー正力松太郎の野望

本書は第2章の正力松太郎の記述になると、客観的な記述から急に曝露物的な扇情的記述になっている。闇権力の正力とCIAの関係はその骨頂であるが、ここは原子力関係だけに焦点を絞って振り返る。正力松太郎氏は元警視庁警務部長で、1923年「虎の門事件」の責任を取って辞任し、潰れかかっていた読売新聞を買収し「読売新聞中興の祖」と呼ばれた。戦犯で巣鴨から出所し、読売新聞ー日本テレビの電波網の確立に力を尽くした。米国政府は日本原水禁運動と反米感情を静めるために、日本のメディア利用に注目し正力に接近したという。1954年鳩山一郎、岸信介、三木武吉、河野一郎、石橋湛山らが反吉田で民主党を結党し、河野は70歳を眼の前にした正力に参加を呼びかけた。読売新聞は鳩山の民主党に、朝日新聞は緒方竹虎の自由党にという対抗図式が出来上がった。読売新聞の政治好きは正力から渡辺に受け継がれている。日本のどちらの政党・新聞社にも米国国防総省CIAの目は光っていた。正力に最も早く原子力を教えたのは電力経済研究所の橋本清之介だった。彼らは警視庁の人脈で繋がった。正力は最初から最後まで原子力のことは門外漢であやふやな知識しか有しなかったが、原子力予算が成立してから眼の色が変わり、側近の柴田秀利から原子力情報を得た。柴田は米国原子力平和利用使節団の招聘を目論み、正力は読売グループ上げて原子力平和利用啓蒙キャンペーンを張るつもりであった。1955年1月米国政府から日本に「濃縮ウランの供与」の打診が行なわれた。春の総選挙で衆議院議員となった正力は財界人を集めて4月に「原子力平和利用懇談会」を発足させた。そこへ5月米国原子力平和利用使節団がやってきて、鳩山首相と面会し「原子力平和利用懇談会」と会合を持った。日米の原子力協定締結が閣議決定され、「日本原子力研究所」が設置された。将に電光石火の如き速さでことが動いた。政界は「保守大合同」に向かって、正力は自由党の大野伴睦、民主党の三木竹吉を引き合わせ両者に政治資金を贈った。同年秋に日比谷公園で「原子力平和利用博覧会」が開催された。こうして政治的には自由民主党の「55体制」ができあがり、いけいけどんどんの「昭和モデル」である日本の原子力利用が始まったのである。

1956年元旦、原子力委員会が発足し正力は初代委員長に就任した。物理学者湯川秀樹、総理府原子力局長の佐々木義武、同総務課長の島村武久が委員になった。正力は委員長声明で5年後に実用規模の原子炉の自力建設を主張したが、湯川の反対で(3月には湯川は辞任)暴走は止められた。産業界は3月東電の菅札之助を会長に「原子力産業会議」を設立した。56年5月には総理府原子力局を母胎に科学技術庁が発足し、正力はその長官となった。原研設置地は東海村に決定した。原研には燃料生産を担う「原子燃料公社(原燃)」も併設された。こうして研究開発を担う「科技庁集団」が結成され、電力産業界は商業炉輸入路線をとり、「電力・通産省連合」が出来上がった。田中角栄時代の航空機売り込み合戦に政治家が暗躍したように、原子炉輸入について正力は英国のコールホルダー型黒鉛炉に傾いたが、電力業界は東電はGEの沸騰水型軽水炉、関電はWHの加圧水型原子炉に傾いた。政府は英国のコールホルダー型を導入することになり「電源開発」を受け皿とする意志であったが、電力業界は57年「原子力発電振興会社」を設立しようとした。そこに河野一郎が川島正次郎に仲裁を依頼し、9月閣議で「日本原子力発電株式会社」(政府出資20%、民間出資80%)の設立が決められた。原子炉製造メーカの免責条項と電力事業者の無限責任(ただし原子炉保険で現在1200億円の責任を負うが、それ以上は国が被害者を救済する)といった仕組みも出来上がった。原子力委員会の重要な仕事は「原子力開発利用長期基本計画」の作成である。それは典型的な戦時中の統制経済政策の踏襲であり、社会主義国家と見間違う計画経済政策であった。1956年の長期計画が「増殖炉型動力炉」の国産化を最終ゴールとした。

国産増殖炉への憧れは科技庁集団を縛り続け、半世紀以上たっても実現のメドがつかないばかりか、事故と隠蔽工作によってついに科技庁集団は解散させられ2001年経産省資源エネルギー局に吸収された。しかしこの電力・経産省集団にも、2011年福島第1原発事故によって大失敗を喫する運命が待ち構えていた。国策の呪縛の強さ、官僚の硬直性を思い知らされるばかりである。政界において正力が原発導入の旗振りをする傍で実務的に科技庁集団と電力・通産連合の2極体制を整えたのが中曽根康弘であった。中曽根は超党派の4人組、自民党の前田正男、社会党の志村茂治松前重義でジュネーブの原子力平和利用国際会議に参加し、各国を視察した。1955−56年にかけて原子力基本法、原子力委員会設置法、書く原料物質開発促進法、日本原子力研究所法、原燃公社法など8本の法案を議員立法で国会に提出した。田中角栄の道路関係の議員立法と同じ精力ぶりであった。今日ではこのような政治家は絶えて久しい。中曽根は民営論(電力・通産派)の正力より、官営論(科技庁派)の河野の線に近かった。高度経済成長の時代、一時の原子力ブームは急速に凋んだ。エネルギー資源の比重が石炭から石油に移って火力発電コストが下がったためで、正力の「無茶苦茶な英断」の時代は終った。日本初の商業炉である東海原発は485億円を費やして1965年ようやく運転にこぎつけたが、そのとき正力はよみうりランドの建設で大赤字を抱えていた。

3) 資源外交と核ー田中角栄と柏崎刈羽原発

1966年自民党幹事長であった田中角栄は東電の木田川社長から柏崎刈羽の不毛の砂丘に原発を持ってきてはどうかと誘いを受けたという。戦後田中と原子力を結びつけたのは理研ピストンリング会長の松根宗一氏であろう。原発誘致は松根から田中へそして小林柏崎市長へとつながった。戦前からの理研人脈によって柏崎原発の立地は決まった。そこからは田中角栄の土地ころがしのマジックで「室町産業」、木村刈羽村村長を経由し、1971年刈羽砂丘は東電に売却された。凡そ買値の26倍であったという。柏崎刈羽原発計画の建設計画発表は1969年9月であった。原子力発電は1960年代半ばからGEの「沸騰水型軽水炉」がリードし、WHの「加圧水型軽水炉」が追いかけた。東電は沸騰水型軽水炉を採用し東芝−日立ーGEの企業系列を確立し、福島第1号(1971年)から営業を開始した。東北、中部、北陸、中国の各電力会社はこれにならった。関西電力は加圧水型軽水炉を選択肢、関電ー三菱ーWHの企業系列を確立した。北海道、四国、九州の各電力会社はこれにならった。いずれも政治家が絡んだ土地買収の発信源は電力・通産省連合からであった。一方高速増殖炉(大洗の常陽)、新型転換炉(敦賀のふげん)、核燃料再処理(フランスのゴバン社への委託設計による東海再処理工場)、ウラン濃縮(原研にガス拡散法開発、動燃に遠心分離法開発)という4つを重要国策とする科技庁グループは1967年動燃開発事業団法を成立させた。動燃は1998年核燃料サイクル開発機構へ改組したが、核燃料リサイクルの中心となった。こうして科技庁グループは核燃料再処理とウラン濃縮に組織ごとのめり込むように宿命付けられたようだった。この背景には、1968年の防衛庁の報告書「日本の安全保障」に「自衛のために通常兵器であろうと核兵器であろうと、これを保有すつことは憲法9条からは禁じられていない」という解釈を示した。つまり「核武装の潜在力」を滲ませた権力側の政と官のすさまじい執念が感じられる。1967年佐藤栄作首相はジョンソン大統領と沖縄返還交渉を行った。問題となったのは沖縄への核の持込である。佐藤首相は12月の国会で「非核三原則ー核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を言明して、1969年佐藤は沖縄返還条件を「核抜き、本土並み」と公言した。同年11月アメリカで沖縄返還交渉をおこなった佐藤総理は「事前通告」の解釈において、キッシンジャー補佐官と若泉敬(京都産業大学教授にして佐藤の密使)との間で緊急事態には黙認するという密約が結ばれ、沖縄返還交渉は妥結した。そして1970年核拡散防止条約NTPに日本は署名したのである。1970年代に入って高浜、美浜、大飯、女川、伊方と原発は次々と建設された。

佐藤から政権を引き継いだ田中角栄首相は1972年アメリカに飛んで、航空機と濃縮ウランの購入交渉という「資源外交」を展開した。1973年田中を囲んで資源派財界人が集まった。リーダーは中山素平日本興銀会長、今里広記日本精工社長、松根宗一理研ピストンリング社長、両角良彦元通産事務次官、右翼フィクサーの田中清玄らが集まった。、目的は北と南の石油油田開発交渉であり、もうひとつはロスチャイルド家の影響下にあるフランスのウラン利権の共同開発であった。フランスから日本へウラン濃縮「ガス拡散法」のの共同開発が持ちかけられた。さらに田中は1980年から濃縮ウランをフランスから輸入すると公言した。これに乗ることはすなわち「米国の核の傘」の外へ出ることであり、これが米国の神経に触れて田中角栄はロッキード汚職事件というスキャンダルで消されたと著者はいう。1973年「石油ショック」が日本を襲った。田中はソ連との石油開発交渉は座礁に乗り上げて帰国する。11月には石油ショックでパニックが起きた。石油確保のためには田中は反イスラエルのアラブ諸国に接近しようとした。これもアメリカの逆鱗に触れた。田中はエネルギー資源外交で世界中を飛び回る中、1974年6月原発立地の難航に対して、「電源三法」を成立させた。電源三法の仕組みは電力会社の税から積み立てこれを立地自治体にさまざまな交付金・補助金・委託金にして支払うことであった。例えば刈羽原発の刈羽むらには230億円が流れ込む。しかし電源三法の資金は原発設置から30年が限度である。それを元手に自律的な産業が育つわけでもなく、永久に原発を作り続けなければムラの財政は破綻するのである。これを「シャブ漬け」と皮肉る向きもある。

4) 権力の魔の轍「核燃料リサイクル」−中曽根康弘と六ヵ所村プルトニウム基地

1983年12月8日中曽根首相は青森市を遊説で訪れ、「下北半島は日本の原子力基地にすればいい。原子力船の母港(むつは事故で廃船となる運命)、原発、電源開発(新型転換炉)の基地となる」とぶち上げた。そして翌1984年元旦に「政府電力業界は青森県のむつ小川原地区に核燃料サイクル基地」を約1兆円かけて建設する」というスクープ記事が出た。1984年から低レベル核廃棄物貯蔵施設とウラン濃縮工場の建設に取り掛かるというものであった。六ヵ所村は「核物質の廃棄物処理場」とする動きが表面化した。核廃棄物は国が管理するという方針が大転換されたのである。使用済み核燃料を再処理しプルトニウムを分離回収しMOX燃料をこしらえ、高速増殖炉を稼働するという構想である。結果的にいえば世界の先進国はこの構想の技術的問題に匙を投げ放棄したものを日本が拾って開発しようとすることになった。問題の壁は先ず再処理工場の技術的蓄積がないかからすべて外国技術に頼っていることである。第2の問題は米国が濃縮ウランを提供する立場から再処理に介入したことである。そこでプルトニウムの抽出を諦め、他の材料と混ぜるMOX燃料を製造する指針が出たが、動燃の東海再処理工場の生産能力は限定されていた。そこで大量の再処理をまかなうには第2の工場が必要であった。電力業界は採算から海外への委託で乗り切ろうとしたが、通産省は再処理工場の建設をきめた。再処理は委託と国内処理の二本立てで進めることになった。ここに来て電力・通産連合が力をつけてきて、総理府ー科学技術庁ー原子力委員会に対して、通産省−資源ネルギー庁ー総合エネルギー調査会が原子力政策決定の権力を握ることになった。電機事業者連合会は1984年核燃料サイクル施設の建設構想を発表し、青森県に協力要請を提出した。サイクル施設の立地自治体は六ヵ所村とし、「日本原燃」が事業運営に当たる。再処理工場は870億円をかけて建設し、1997年には年間800トンの使用ズム核燃料を処理する見通しが発表された。1985年4月青森県は受け入れの正式解答を行なった。六ヵ所村は当初石油備蓄基地構想が先行したが、むつ小川原開発公社は土地が動かず2000億円を越える赤字を抱えて、核燃料サイクル誘致に踏み切ったのである。

日本の土地私有制度は「建築自由の原則」が極めて強固であるといわれる。薄皮一枚の土地に上(ブラックホールまで)と下(地球の中心まで)に何をどこまで建設しようと自由である。人々の生存や安全に係る公共的問題が、「土地代金」に転嫁されるところに日本社会の病根があるのだ。計画を立てる政治家がインサイダー取引と同じように土地を先行して買占め、値上りを待って売りさばくという角栄的手法で濡れ手に粟の巨利を貪る仕組みが出来ている。それが政治家である。話を核燃料サイクルに戻すと、六ヵ所村再処理工場はトラブル続きで工期が大幅に延長されその度に税金が投入される事を繰り返し、トラブルによる完成延期が18回に及び、2000年3月に生産ラインは次々と停止した。1993年に始まった建設は2010年9月の完成までの工期はさらに2年延長され、建設費は2011年度までに2兆1930億円に達した。2011年3月の大地震でも外部電力を失い、核燃料貯蔵プールの水が漏れた。六ヵ所村の核燃料サイクル施設は、放射性廃棄物の最終処分も決まらないまま、魔の轍にはまって抜け出せないでいる。中曽根元首相は福島第1原発の事故の後雑誌インタヴューに答えて「新規の原発建設は難しい。安全の再点検を十分にし尽くして再起・継続を図るべきです」(2011年5月 アエラ)といった。筆者は中曽根政権のもと原発利権に群がった人は旧海軍人脈にあるという。中曽根は海軍経理学校出身、日本工業新聞社長、産経新聞専務の小林義治、鳩山威一郎首相、東北電力副社長臼井秀吉、防衛庁長官大村襄治、最高裁判事岡村治信、厚生大臣早川崇などが中曽根と同期(土曜会)であった。海軍経理学校の後輩には数十基の原発建設を請け負ったスーパーゼネコンである鹿島建設会長の渥美健夫、鹿島一族の科学技術庁長官平泉渉、さらに中曽根人脈は旧制静岡高校の中曽根後援会「仰秀会」に、日本原子力発電社長鈴木俊一、資源エネルギー庁長官天谷直弘、博報堂取締山崎幸雄、日本エナジー相談役笠原幸雄、三菱自動車社長曽根宏、日産化学社長草野操氏ら、旧制静岡高校の卒業生には科学技術庁長官足立篤朗、科学技術庁長官・運輸大臣森山欣司、建設大臣原田昇左右など原子力と密接に係る人々が多い。なかでも中曽根に繋がる政治家では日本原子力発電から中曽根の秘書になった与謝野馨が最も中曽根に親密である。与謝野馨は福島原発事故後、「事故は神様の仕業であり、東電の対策は人知を尽くしたものであった」と東電擁護の弁を張っていた。

中曽根が重用した民間人のブレーンのなかで、元陸軍大本営参謀瀬島瀧三は数々の中曽根の私的諮問会に係った。なかでも1983年に始めた「平和問題研究会」が原子力発電推進を国防と絡めた線を出した。その研究会の座長は京都大学の政治学者高坂正堯であった。研究会の報告書は第1に「防衛費GNP1%枠の見直し」を主張し、第2にエネルギー問題と称して「自主的な核燃料サイクルの確立」を謳った。これらの論点はいずれも国家主義的な本音が露骨である。公した私的諮問会に報告書を出させて政策に移してゆく手法は、国会無視のクーデター式手法であるが21世紀になって小泉元首相がその後継者となった。この報告書を受けたかのように、中曽根はレーガン大統領に対して、1987年日米原子力協定の改定に乗り出し、核物質の国際移転を米国の個別同意を得る関係を、向う30年間の「包括合意」に改めた。1986年チェルノブイリ原発事故で世界中の原発に急ブレーキがかかっても日本の原発建設はお構いなしに進められ、また1990年代のバブル崩壊後の経済不況も尻目に見て直線的に原発設置数は増加した。まさに国策で決めた計画に沿って原子力ムラのための原発建設が続けられたのである。1995年12月高速増殖炉「もんじゅ」の出力アップの試験中に冷却剤のナトリウム漏れによる火災と人身事故が発生し、これに動燃の情報捏造と隠蔽が加わって厳しい批判が巻き起こった。原発設置県の佐藤栄左久福島県知事、栗田幸雄福井県知事、平山征夫新潟県知事は橋本龍三郎首相に、 @国民の意見を反映させる体制 A情報公開 B原子力長計の見直しの3点について改善策を求めた。橋本首相は「原子力円卓会議」を設け127人から意見を求めたが、通産省はそれとは無関係に、1997年2月佐藤信二通産大臣は三知事を呼んで、「プルサーマル計画」の積極的推進の閣議決定を告げた。高速増殖炉で行き詰まり行き場を失ったプルトニウムを軽水炉でMOX燃料として使用する計画である。東電荒木社長は福島第1原発と新潟刈羽原発で1基づつスタートさせるつもりであった。尚プルサーマル計画と東電の情報隠蔽については、佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年6月)に詳しく記されているので参照してください。

1998年動燃の東海再処理工場で爆発火災が発生し、1999年9月東海のJOCで高速増殖炉「常陽」の燃料処理中に臨界事故が発生した。いい加減な作業マニュアルの横行が原因であった。これらの事故で科技庁の権威は失われ、2001年には文部省に統合され、原子力安全委員会は内閣府へ、原子力安全・保安院は経産省資源エネルギー庁に組みこまれ、事実上の科技庁解体となった。科技庁解体後、原子力行政の実権は電力・経産連合へ移った。その電力・経産連合も2002年GE社の自主点検結果の虚偽報告が発覚し、権力の腐敗の進行はやむところを知らなかった。相次ぐ事故と不祥事で原子力ムラが揺れる90年代末から21世紀初め、経産省内で電力自由化をめぐる電力派と自由化派の争いが発生した。これは欧州統合に向け国境を越えた電力取り引き市場の創設を眼の前にした経産省改革派が電力自由化を唱えたからで、従前の原発路線で潤っていた電力会社と資源エネルギー庁の守旧派の主導権の争いの図式で見ることが出来、原子力安全・保安院の情報隠蔽のリーク情報源は自由派官僚からであったと見られている。自由派の頭領は元事務次官の村田成二氏だった。小泉政権の規制改革に乗って、自由派の発送電分離方式まで議論が進むかどうかが注目されたが、アメリカの電力自由化のシンボルエンロン社の粉飾決算により逆風が吹き、東電の南社長は「責任ある発送電一環システムが日本において役割を果たしている」と分離方式を拒絶した。その直後から東電のトラブル隠しが露呈するのである。村田事務次官は東電の荒木浩会長、南社長、平岩外四を解任し責任を取ったとされるが、自民党の甘利明経産大臣、元東電副社長の加納時男らが巻き返しを図り、経産省の電力会社派が勝利し、結局国策は改められなかった。世界が見捨てた技術である高速増殖炉と核燃料サイクルという魔の轍からの脱却は、核武装潜在力を放棄することであり、核燃料サイクル堅持の国策には権力者の欲望が横たわっている。


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