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豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」
岩波新書(2007年7月) 

集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む

今から約80年前に、ドイツの政治学者カール・シュミットは次のように指摘した。「自らの敵がだれなのか、誰に対して戦うのかを、もしも他者の指示を受けるとしたら、それはもはや政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」といった。国家主権の本質を「友・敵」関係(同盟関係と仮想敵国)の設定に求めた洞察は今も普遍的な意味を持つと考えられる。そうすると一貫して対米従属外交を戦後約70年近く続ける自民党は米国支配層のエージェンシー(代理人)に過ぎない。安倍首相が言う「アンシャンジーム(戦後体制)からの脱却」とは、対米従属路線を強化し、政治体制を戦後から戦前に戻すという信じられないほどの時代錯誤でなければ、知性の劣化著しい「痴人の夢」である。戦前型支配層の果てしない夢かもしれないが、国民を窮地に追い込むきわめて危険な夢であることは間違いないので、これは丁寧に反論してゆかなければならない。なにしろ彼らはあらゆる権力とメディアを使って、国民をだます術に長けているから。日本の核武装の要である原発再稼働と集団的自衛権は密接に関係していることを明らかにしてゆこう。原発は電力会社のドル箱だけではなく、日本の安全保障上のいわゆる「隠れた核抑止力」であり、同時に恰好のミサイル攻撃目標となるからである。ここで本書の原点となる集団的自衛権を定める国連憲章を見よう。憲章2条4項で、 「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない。」と武力行使禁止原則を謳っているが、次の3つの場合のみ武力行使が認められている。@「安全保障理事会の決定に基づいて取られる軍事的措置」 国連の名において実施される集団安全保障、AB加盟国に対する武力攻撃が発生し、安保理が必要な措置を取るまでの間に認められる、個別的自衛権と集団的自衛権の行使である。集団的自衛権とは通説では「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」といわれる。これは軍事同盟にあてはまり、国連安保理の管轄下で実施される「集団的安全保障」と、軍事同盟の「集団的自衛権」とは根本的に異なっている。そして日本国憲法第9条は「国際紛争を解決する手段としての武力行使を放棄し、国の交戦権を否認する」とあるため、「集団的自衛権」の行使は認められないということが1970年来政府の一貫した解釈となっている。これに対して自民党は(政府担当政党だった)憲法改正を訴えてきたが国民の賛成を得られず憲法改正はできなかった。それを安倍政権は憲法改正と集団的自衛権を俎上に載せようとしている。アメリカの仮想敵国はこれまで幾度も変わってきたが、日本政府は無条件にこれを支持してきた。日米の仮想敵国とは現在は、超大国を目指す中国と核ミサイルを急ぐ北朝鮮のことであろう。アメリカは日本に対して、北朝鮮が発射したアメリカに向かう弾道ミサイルを、日本が迎撃できる「法的・軍事的体制」の整備を強く求めてきた。この「法的体制整備」が集団的自衛権の問題なのである。2003年12月に小泉政権がミサイル防衛システムの導入を決定した際の「専守防衛に徹し第3国の防衛のためには使用しない」という大前提さえ破るものである。

瞬時に廃墟にされる危険を冒して何のために北朝鮮がアメリカを攻撃するのかという初歩的な政治レベルの問題さえ考慮されていない。気違いが発射ボタンを押すという前提であるようだ。こうした恐怖の無限増殖は正常な人間のなすことではない。このような発想しかできない自民党戦後体制の本質と、安部政権の「集団的自衛権」行使問題の裏にはどのようなメカニズム(政治力学)が働いているのだろう。おじいさんの岸政権ができなかった「日本の軍事的貢献度を高める」ことで米国にたいする「対等性」を確保したいという願望は見果てぬ夢であろう。アメリカから見ると従順な犬に過ぎない日本をいつでも都合によって見捨てる可能性は極て大きいのである。1960年の安保改定に際して、マッカーサー駐日大使は、日本が戦前の軍事的侵略という歴史問題によってアジアから反発を受け孤立しており、地域的な集団安全保障に入ることができず、結局日本にとって唯一可能なアプローチは米国との提携以外にはないという見通しを示していた。以降半世紀を経過して、このマッカーサー駐日大使の見通しが的確であったと認めざるを得ない。小泉政権は靖国神社参拝問題を契機に北東アジア諸国と緊張した関係になる一方、米軍再編によって日米関係は強化され、そして今や集団的自衛権の問題が焦点となってきた。2006年9月15日のワシントンポストの社説は「日本は歴史に誠実でなければならない。もし日本が過去の誤りを誠実に認めるならば、責任ある民主主義国家として認められるであろう。南京における少なくとも10万人の中国人虐殺を含む自らの過去を認めないならば周辺諸国との緊張関係が高まり、集団的安全保障はできそうにない」と主張した。アメリカが自らのベトナム戦争の誤りにどれだけ誠実であったかという問題はあるが、この主張は発足間もない「1周遅れのネオコン」安倍第1次政権に重大な衝撃を与えた。米国の保守主流派が日本保守派の歴史的認識問題を改めるよう要求してきたのである。従軍慰安婦問題で安倍首相はブッシュ大統領に謝罪するという珍事態となった。謝罪するのはアジアに向けなければならないのに、なんと米国大統領に謝罪しているのであった。安倍首相はドイツナチスは侵略であったが、日本は侵略ではなかったというみょうちきりんな信念をお持ちのようである。歴史問題は「後世の歴史家に任せるべき」と言った無責任な態度を取り続けるならば、間違いなく東アジア諸国からつまはじきされるのである。このように異様な屁理屈を言う自民党政治の状況で、自衛隊の武力行使の領域が飛躍的に拡大されるであろう「集団的自衛権の行使」を憲法改正をせずに解釈変更だけで行うとするとすれば、周辺諸国が重大な警戒をいだくのは当然である。強いアメリカの虎の威を借りた狐が、身近な国を尻目にして強がっている構図である。合従連衡という政治力学からしても極めて危険な処世法である。村山談話、河野談話の線に沿って、近隣諸国との集団的安全保障に努力するのが正常化への第1歩である。米国の犬になって近隣諸国からつまはじきされ嫌われることは日本の生きる道ではない。

2005年10月自民党は結党50周年を迎えるにあたって、新憲法草案を発表した。問題の第9条は「戦争の放棄」を放棄し「安全保障」の変更し、9条第2項では「我国は自衛軍を保持する」、「自衛軍は国際的に協調して行われる活動を行うことができる」と書かれている。「集団的自衛権」は自民党内でもまだ議論の余地が残る課題であった。2006年に首相となった安倍氏は早速集団的自衛権の行使に向けて「有識者懇談会」を設けるなど、戦後初めて集団的自衛権を政策課題とした。安倍首相は「美しい国へ」(文春新書)において、戦後体制からの脱却を唱え、憲法改正、集団的自衛権の行使をできるようになって日米の「対等」の関係を目指すとした。集団的自衛権という問題に対する歴代政府の見解は安倍氏の夢に大きな障害となっている。1972年10月田中角栄首相は社会党の質問に答えるため、参議院決算委員会に次のような政府見解資料を提出した。まず集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国に対する攻撃を、自国が直接攻撃されていないにも関わらず、実力以て阻止すること」と定義した上で、国際法の上では日本も集団的自衛権の権利を有しているとの立場を明らかにした。憲法9条は戦争を放棄し、戦力の保持を禁止しているが、個別的自衛権の行使は認めていると解釈した。しかし自衛のための措置は無制限に認めているとは解されないとしてその行使には厳格な制約がはめられていると強調した。そして「我国の憲法の下で許されるのは、我国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られ、他国に加えられた武力行使を阻止するためのいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」とはっきり述べた。つまり「国際法上保有するが、憲法上行使は不可」というのが今日に至る政府見解の原点である。1981年5月鈴木善幸首相は答弁書において、集団的自衛権の行使はできない旨を明示した。ところが安倍氏は「美しい国へ」という本のなかで「権利があっても行使できないという論理はいつまで通用するのだろうか」という疑問を出した。この論はいわゆるもっともらしく見える俗論であって、国際法の京都大学浅田教授や東京大学の大沼教授らは次のように論駁した。「権利を保持する能力と権利を行使する能力というのを峻別することは、法律学では常識である。それ矛盾だという方が意味が全く理解できない。」と述べている。2004年安倍氏が幹事長であったときの集団的自衛権の行使に関する質問に、秋山内閣法制長官は次のように答えた。「国家が国際法上有して権利は、憲法や国内法によってその権利の行使を制限することは有り得ることで、法律論として特段問題があることではない」、「我国に対する武力攻撃が発生していない状況では、外国のために実力を行使することは我国への攻撃が発生している条件を満たしていないため自衛権の行使ではない。自衛権行使の3条件という制約においては、最小限とかいう数量的な概念で許容するという問題ではない」とはっきり否定した見解を示した。本書は徹頭徹尾、第1次安倍政権の「集団的自衛権」批判であり、日本が米国戦略に完全に巻き込まれる危険性への警告である。

第1章 憲章51条と「ブッシュ・ドクトリン」

安倍氏の「美しい国へ」には国連憲章第51条には個別的自衛権集団的自衛権が定められている。だから日本も自然権として集団的自衛権を有するのは当然だと述べている。国連憲章第15条を見ると、「国連加盟国に武力攻撃が発生した場合には、安保理事会が何らの措置を取るまでの間、個別的自衛権または集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」と規定されている。安倍氏に理論的影響を与えたといわれる拓殖大学の佐藤教授は、個別的・集団的自衛権の権利は固有の権利というのはそれが自然権とになすことである。犯し得ぬ・奪い得ぬ権利として個別的と集団的自衛権を定めた国連憲章は画期的であると絶賛する。果たしてそう読めるのだろうか。そのために国連憲章成立のいきさつをみる。1944年8月米英中ソ4か国は国連憲章の基礎となるダンバートン・オークス提案をまとめた。そこには「武力行使の一般的禁止」と「いかなる強制行動も国連安保理事会の許可がなければ、地域的にとってはならない」と述べられている。ところが1945年2月のヤルタ会談において常任理事国に拒否権が認められたため、安保理事会が機能しない場合が想定された。そこで4月のサンフランシスコ代表者会議で安保理が機能しない場合には自衛権を発動することが可能となる憲章第51条が導入された。こうして個別的自衛権は認められることになったが、米国修正案により個別的自衛権と集団的自衛権とを明確に峻別し、後者の集団的自衛権には個別的自衛権以上の厳しい縛りをかけることとなった。イギリスとフランスは戦争に訴える権利を確保したい考えであったが、米国案は完全な行動の自由は国連を破壊するとして、「固有の自衛権」は安保理の行動を前提とした自衛権であり、その発動は武力攻撃の場合に限定され、国家がとりうる行動の自由は制限されるとした。そしてソ連は「安保理が必要な措置を取るまで」という文言を挿入した。こうして憲章第51条が生まれたわけであるが、原則として紛争の解決手段としての武力行使(交戦権の否定)は禁止され、武力攻撃が加えらた場合に限り国連が必要な措置を取るまでの暫定的権利として個別的自衛権と集団的自衛権が認められたのである。「犯し得ぬ・奪い得ぬ権利として個別的と集団的自衛権」と言った「自然権の概念」は全く否定されているのである。安倍氏・佐藤氏はどこをどう読み違えたのであろうか。日本の平和憲法第9条にも通い合う精神である。戦争をする権利(自然権)を否定し、紛争解決は国連安保理事会が行い、加盟国は自国に武力攻撃が加えられた場合に限り、国連が機能するまでの間には、個別的自衛権と集団的自衛権を認めると読むべきものである。1984年米国レーガン政権がニカラグアを攻撃した事件に対して国際司法裁判所は「米国の集団的自衛権の行使であるとの主張は正当化されない」と判断を下した。1979年ソ連のアフガニスタン侵入なども集団的自衛権の濫用であり、大国による集団的自衛権の濫用が横行している。次にブッシュ政権のイラク戦争、イスラエルのオシラク空爆などに見る「自衛権」概念(論理)を検証する。

政府の集団的自衛権の定義は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにも関わらず実力をもって阻止する」ことができる権利とされている。ここで自国と密接な関係にある外国とは戦後の歴代政府にとって安保条約を結んでいる米国のことである。とすれば日本が集団的自衛権を行使する相手国の、現在の米国のブッシュ政権(本書が書かれた2007年段階で)がいかなる自衛概念を持っているのだろうか。そこで2003年のブッシュのイラク戦争が参考になる。イラク戦争の正当化の根拠は国連安保理決議678「イラクはいかなる大量破壊兵器も使用、開発、入手してはならない」(1991年4月3日)と、同決議1221「大量破壊兵器の武装解除の義務に違反するなら、重大な結果に直面する」(2002年11月)などである。しかしブッシュは「安保理決議案に拒否権を行使すると表明する国がある。国連安保理は責任を全うしなかった。それゆえ我々の責任において立ち上がる」と言明した。ここでは憲章51条の「武力攻撃の発生」も「差し迫った脅威」も前提とはされていない。行動するのが手遅れとなる前に、危険を排除するという「予防戦争」(先制攻撃論)である。こういう自衛権概念は2002年9月20日の「米国の国家安全保障戦略(ブッシュドクトリン)」で展開された概念である。「ならず者国家」、「危険な人物」、「狂人」やテロリストといった従来の用語にはない情緒的な概念で戦争が起せるとした。その先駆をなす例は1981年6月7日のイスラエルによるイラクのオシラク原子炉空爆である。国連で激しい議論が交わせられイスラエル代表は「自己保存のための固有かつ自然権としての自衛権の行使である。イラクは1980年半ばまでに核兵器を製造する能力を獲得するだろう。フセイン体制は残忍で無責任で破廉恥で好戦的である。イラクが核兵器をもてばイスラエルにとって重大な危険が生み出される」から原子炉を破壊したという論理を主張した。こうしたイスラエルの先制的あるいは予防的侵攻に対して各国から非難が出され、「武力不行使の原則」を破った国連憲章第2条侵犯行為であるとした決議を全員一意で採択した。自衛権の無制限な拡大解釈が横行する状況で、アナン国連事務局長は2005年3月国連憲章の根本的な再検証を行い、「アナン報告」がまとめられた。国連憲章第51条は変更する必要はないことを確認した。ブッシュ政権の自衛権概念が、国際法レベルで論理的に否定された。むしろブッシュ・ドクトリンが「核の拡散」ならぬ「先制攻撃の拡散」をもたらす現実的な危険性にあった。中国は2005年3月の「反国家分裂法」において、平和帝再統一の可能性が潰えた時に台湾を非平和的な手段で併合する、つまり先制攻撃を明言している。このようなテロに対する先制攻撃論の自衛権概念であるブッシュ・ドクトリンに従えば、日本は国家でない集団(テロリスト)に対する先制攻撃に否応なく巻き込まれるのである。日本も先制攻撃に加わるのかという議論はなされていない。

第2章 第1次改憲の動きと60年安保改定

日本国憲法9条問題を軸とした憲法改正の動向は、まず1954年春に憲法調査会が設置され、自由党の憲法改正要綱と日本民主党(鳩山内閣)の憲法改正に対する政策大綱が相次いでまとめられた。そして1955年の自民党結党当時を「第1次改憲」の時代と呼ぶ。現在の安倍首相の改憲の論理が第1次改憲の論理に立脚している。しかしながら日本民主党の「政策大綱」では「自衛軍を整備して、逐次駐留軍の撤退を実現して、自主防衛体制を整備する」、「積極的自主外交を展開し、各国との国交の正常化を図る。平和外交の積極的展開を図る」とされ、改憲の論理として、憲法も安保も米国の押し付けであったという認識から、「自主防衛体制」と「自主外交」という2本の柱があった。つまり「対米一辺倒」という吉田外交からの重大な方向転換を目指した。ところが安倍首相の論理とは、「憲法9条を変えても、安保条約の条文は変える必要がない」というように、吉田内閣の「対米一辺倒外交」の継承に過ぎない。安倍氏と小泉元首相の路線は日米関係の緊密化(日本の安全は米国の軍事力で守られる)であり、基本的に戦後体制の継続路線である。第1次改憲時代の政治指導者の「独立」への模索は、圧倒的な米国の力の前に挫折した。1955年6月鳩山政権の重光外相がダレス国務長官と会談し、日米安保条約の自主対等の改正提案をし、そして安保条約改正後90日以内に米軍の撤退を要求した。対等はあり得ないとダレスに一蹴され、「まず憲法改正を行って、集団的自衛権の行使を可能とする」ことが先決だといわれたという。さらにダレスは日本の再軍備による防衛力に期待はしておらず、「日本が集団的自衛権を行使して米国を守る事より、米国が日本の基地を維持し続ける方が戦略的に重要である」と安保条約の本質をついた発言があった。ダレスの安保条約交渉の本根は「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐在させる権利」を日本側に認めさせることにあった。重光外相が結果的に玄関払いを食らったことを受けて、1957年3月外務省条約局で作成した「日米安保条約改定案」では、重光の試みた「双務的」条約ではなく、日本についてだけ共同防衛方式を取り、何よりも在日米軍の義務と行動の限界を明確にすることで、一方的軍事同盟(占領状態)から少しでも脱却を図る戦術に転換した。つまり在日米軍の日本防衛義務を定め、日本国政府の事前の同意なしには基地を使用できないとし、同意とは国連による軍事行動に米軍が参加する場合である。そして旧安保条約の「極東条項」の削除である。極東で異変が起きた場合駐留米軍が基地を利用することで自動的に日本が戦争に巻き込まれることを防止するためであった。現状を認めつつ相手の手に縛りをかける巧みな戦術であったが、集団的自衛権については「他国の領域まで防衛することは憲法第9条の趣旨からあまりにも逸脱した解釈である。相互防衛関係はいわば日本と在日米軍との間に成立するもので、一方の側だけに軍隊が駐屯する場合の相互防衛関係としては最も自然である」と位置付けた。

1957年2月首相に就任した岸信介(安倍のおじいさん)は条約改正に意欲を持っていた。しかし安保条約の根幹に切り込む外務省条約局と、「微調整」で済ませようとする欧米局の間で調整が進まなかった。また当時第5福竜丸水爆被曝事件、基地闘争や相馬ヶ原射爆上での農婦射殺事件で国民の反米感情の高まりの中で安保改定作業は進まなかった。こうした中で安保条約の抜本的な改正に動き出したのはマッカーサー駐日大使であった。1958年2月マッカーサー駐日大使はダレス国務長官に11条からなる新条約草案を送った。この条約案の最大の眼目は第5条の西太平洋(具体的には日本をさす)という「条約区域」の規定である。米国としては新日米安保条約は、東南アジアや西太平洋諸国と結んでいる諸条約と同じ基本形をとることであった。マッカーサーは日本の憲法上、米国領が攻撃された場合米国を援助することは実質不可能であることを認めて、重要な日本の基地を保持し続けることができるなら、双務的集団的自衛権の要求は取り下げてもいいとしたことをダレスに納得させることであった。日本には基地提供義務はあるがアメリカには日本防衛義務はないとする「一方的で片務的」な条約を改め、基地を使用する見返りに米国の日本防衛義務を明確にした「相互的」な安保条約の締結をダレスに迫ったのである。こうして1960年安保条約改定において、「集団的安全保障問題」は棚上げになったが、日本は深くアメリカの防衛体制に組み込まれた。マッカーサーとアイゼンハウアー政権も、日本国民の反米中立主義の世論と大衆運動を恐れ大胆な方向転換を行った。このことは沖縄返還交渉においても、米国政府は沖縄の祖国復帰の世論と基地使用ができなくなるリスクを天秤にかけ、基地継続使用を条件としてパワーポリティクスで対応した。なお新安保条約では沖縄や小笠原は削除され、米軍の占領下に置かれた。結果的には沖縄は改めて本土政府から見捨てられた。こうして「日本国の安全に寄与し、並びに極東における平和と安全に維持に寄与する」ために米軍が日本の基地を使用するという第6条ができた。これは占領条項の性格を引き継いでいる。無目的・無期間で基地を使用できることは、国連憲章第51条の武力攻撃の発生という「縛り」がない。そこで「事前協議制」が1960年1月、岸・アイゼンハワー共同声明で盛り込まれた。一応在日米軍の動きに対して「拒否権」を持つ体裁が整えられた。直接日本の安全にかかわらない台湾問題に関して米軍が出動する場合、拒否権の発動や条約の破棄もありうるという原則的立場はできたが、核艦船の寄港問題や朝鮮半島有事など、事前協議を骨抜きにするさまざまな「密約」が取り交わされていたようだ。集団的自衛権については、1960年2月参議院本会議で岸首相は「他国まで出かけて行ってこれを防衛するという集団的自衛権は、憲法上そういうことはできないことは当然であります」、「海外派兵はいたしません」と述べている。同年5月赤城宗徳防衛庁長官は「日本が集団的自衛権を持つといっても集団的自衛権の行使というものはできないというのが憲法第9条の規定である」と再確認をした。岸政権は「本来の」あるいは「中心的な」集団的自衛権の行使ととらえて、狭義の集団的自衛権については憲法上できないという見解である。しかし基地提供や経済援助などは「広義」の集団的自衛権とみなして容認されるという考えである。「狭義の武力行使」については自衛隊が戦争中のイラクにまで行ってもなお行使できない領域である。自衛隊の武器の所持は認められず、他国の軍隊に守ってもらう形で支援活動にあたることになる。

第3章 政府解釈の形成と限界

安保闘争によって岸政権が退任し、池田隼人が首相に就くと「在任中は改憲はしない」と表明し、日本はひたすら経済成長の時代に入り、1960-1980年代は改憲無風時代となった。1969年11月佐藤首相とニクソン大統領は沖縄の「核抜き本土なみ返還」が合意されたが、「韓国・台湾条項」が確認された。韓国・台湾有事の際に米軍が日本の基地を使用するにあたって速やかに対応することを約束したのである。1972年5月参議院において、有事の際に集団的自衛権まで踏み込むのではないかという危惧に対して、佐藤首相はきっぱりこれを否定した。そして1972年10月14日集団的自衛権に関する「政府資料」が提出された。1970年代はニクソンショックに象徴される「緊張緩和デタント」の時代であったが、1979年ソ連がアフガニスタンに侵攻して「新冷戦」の時代に入った。レーガン、サッチャーの新保守主義の時代となった。1983年日本では中曽根首相とレーガン大統領の共同声明以来日米同盟関係が進展した。中曽根首相は予算員会で「日本が攻撃を受けた場合、公海上で自衛艦が来援する米軍艦の護衛にあたることは憲法に違反しない」、「日本への物資を輸送している第3国の船舶が攻撃を受けた場合、その攻撃を排除することは、個別的自衛権の範囲である」と答弁した。中曽根内閣は1981年の政府答弁書を踏まえ「集団的自衛権の行使は元より憲法上許されない」という見解を取りながら、日本有事という条件を付けながら様々な事態を個別的自衛権の解釈の範囲を拡大しようとした。1990年代に入って「冷戦の終焉」とともに発生した「湾岸戦争」で事態は一気に進んだ。日本有事・極東有事という条件を揺り動かし、「国際貢献」の名において自衛隊を中東まで派遣する「海外派兵」の是非が議論されることになった。1990年10月海部首相は集団的自衛権は行使しない前提に立って、「後方支援」する国連平和協力法を提出したが、第3国の武力行使と一体化する後方支援は許されないとする世論によって廃案となった。1994年の北朝鮮の核危機、1996年の中台危機を背景に、1996年4月橋本首相とクリントン大統領の会談で日米共同宣言が出された。これが「安保再定義」であり、安保条約の対象が「極東」から「アジア太平洋地域」の平和と安全に一挙に拡大された。そして1997年「ガイドライン」の見直しが行われ、新ガイドラインでは日本の任務として、周辺事態において補給、警備、民間空港・港湾の米軍使用など40項目が追加された。これを受けて1998年4月周辺事態法案が提出され成立した。橋本政権は集団的自衛権に関する政府解釈を変更しないことを確認し、後方支援において武力行使と一体化しないことを前提として実施されることとした。1999年小渕首相は、誰が周辺事態を宣言するかという質問に関して、米国が周辺事態と認定すれば、日本政府は無条件で協力するという立場を公然と打ち出した。「安保再定義」の契機となったのは、1994年細川内閣が「多角的安全保障保障協力の促進」を打ち出したからであり、米国はこれを日本が日米同盟から離れつつあると危機感を強めた。そこで国防次官補のジョセフ・ナイが「安保再定義」の戦略をまとめ、1996年日米共同宣言、1997年新ガイドラインと進み、日本を米国に引きつけ締め付けを強化したのである。スタンフォード大学のホフマン教授は「日本が引き続きアメリカ外交政策の従順な道具となり、独自の対中国政策を持つことなく、アメリカの信頼できるジュニア・パートナーであり続けることを期待する」と述べた。

2000年10月アーミテージやナイをはじめとする米国の「知日派グループ」は、特別報告を発表し「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟関係を制限している。この制約が取り除かれならさらに効果的な安保協力が可能となる」といった、内政干渉的要請を発した。2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件は日米関係に重大な影響を与えた。小泉政権は10月に「テロ対策特別措置法」を提出し、イージス艦のインド洋派遣を根拠づけた。「武力行使はしない、戦闘行為には参加しない、戦場となっていないところで支援活動を行う」といった論理でテロ戦争に大きく踏み込んでいった。さらに2002年4月「武力攻撃予測事態法」案をまとめた。具体的な「日本有事」から「武力攻撃予測事態法」は予想される事態を想定して、総理大臣は自衛隊の出動を命じることができ、さらに地方自治体や民間には協力することを義務とするという内容である。アフガニスタン戦争でアルカイダ壊滅ができない状態で、ブッシュ政権は2003年3月からイラク戦争を始めた。小泉政権は直ちに協力を約し、「イラク特別措置法」を提出した。自衛隊の活動は非戦闘地域に限るが、米軍の養成があれば外国へ踏み込むことができるのである。こうして自衛隊は2004年1月から非戦闘地域とされるサマワに派遣された。イラク特別措置法はあくまで復興支援の活動が目的であって、武力行使と一体化しない措置が前提となっているので、州っ男的自衛権の中核には踏み込んでいない。イラク戦争は世界的な規模で「海外駐在米軍の再編」と密接に関係している。日本の米軍基地と自衛隊司令部との一体化が図られた。自衛隊は米軍基地の統括下に入った模様である。「軍事的一体化」は「国家戦略それ自体の一体化」につながっている。日本は完全に米軍の命令下に組み込まれているのである。2005年2月日米両国の外交・防衛責任者によって共同声明が発せられた。「共通の戦略目標を追求するため緊密に協力する必要性」が確認され、「共通戦略目標」が設定された。これに基づき「部隊戦術レベルから国家戦略レベルに至るまで情報共有および情報協力をあらゆる範囲で向上させる」とされた。米軍再編成は2004年になって本格化したが、自衛隊の軍事的約賄強化を求める米国に対して、福田官房長官は難色を示し、細田官房長官と川口外相と石破防衛庁長官の3人は「申し入れ書」をまとめて米国に提出した。米国の国家戦略に巻き込まれる危険性と米軍再編成が国民の理解が得られない場合もあることを懸念したものである。2004年12月には防衛計画大綱が閣議決定された。それを乗り越えた形で2005年2月には日米の共同声明に至った。こうして米国の世界戦略に巻き込まれる危険性を孕みながら、日米軍事関係の再編成が進行しつつある。アーミテージは「憲法9条が日米同盟関係の妨げになっている」と言明した。とんだ内政干渉だが、集団的自衛権の課題は国家戦略の一体化のなかで実現一歩手前まできている。そのアーミテージの代理人となっているのが安倍首相である。

第4章 「自立幻想」と日本の防衛

日本が集団的自衛権を行使するという課題は、米国にとって日本を名実ともにその軍事戦略に組み込むための不可欠の課題として長年要求し続けてきたが、奇妙なことに日本の指導者は「対等性」とか「双務性」と言った文脈で位置づけている。安倍氏は「日米安保条約の双務性を向上させる責任がある。双務性とは集団的自衛権の行使のことである」、「集団的自衛権を行使できれば日本は対等になる。対等になればもっと日本はアメリカに対して主張できるようになる」と述べています。あきれるぐらいさかさまの論理ではないだろうか。日本がアメリカに対して優等生になれば、アメリカは日本を大事にしてくれるといった甘えた考えである。韓国はベトナムでもイランでも兵隊を送ったが、今や北朝鮮の核の恐怖にさらされ、アメリカは韓国の頭越しに北と2国間協議をしているのである。アメリカは同盟国を信義で守るわけではなく、パワーポリティクスで処理している。安倍氏の論理は甘いというか、それも嘘だとすれば国民をだましてアメリカの従順な代理人に堕しているといわなければならない。イラク戦争においてアメリカブッシュ大統領のイエスマンの代表が英国ブレア首相であった。にもかかわらず、2003年3月11日ラムズフェルド国防長官はイギリス抜きでも行動すると告げた。英米共同作戦行動が計画されていたが、このことはブレアの面目を地に落とした。「アメリカにも見捨てられたブレア」と新聞は書きたてた。史上最大の軍事力を誇る米軍にとって同盟国の軍事的貢献はさほど意に介していないようだ。まして自衛隊の武力なぞにはこれぽっちも期待していないだろう。安倍氏はそれを知ってか知らずか、協力したら対等になるとノー天気に信じておられるようである。それは「幻想」以外の何物でもない。英国のブレアにあたるのが日本では小泉首相であった。小泉氏は米国に対してイエスという日本を作ってきた。安倍氏は「集団的自衛権について憲法解釈の変更や改憲でできたとしても行使するかどうかは政策的判断です」というが、しかし現実の日米関係は日本に主体的判断を許すだろうか。米国を代表する保守系誌である「ナショナル・レビュー」編集長のロウリーは露骨な表現であるが「同盟における目上のパートナーとして、米国は日本が周辺地域を安心させる役割を果たすべきである」、「日本は米国がアジアで必要とするような同盟国になる」という。安倍氏が「対等」とか「双務性」とかいうのに対して、ロウリー氏は米国は目上のパートナーとして日本をそのコントロール下において軍事的貢献を求めるという態度である。国務副長官だったアーミテージは2001年9.11テロ事件のとき、日本の駐米大使に対して「ショー・ザ・フラッグ」と迫り、日本の政策決定に重大な影響を及ぼした。2002年10月日米安保審議官級会合においてローレンス国防総省次官補が「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)を求めたという。これがイラク特別措置法上程につながった。米国の意向を象徴する言葉として日本の政界を威嚇し政策決定を促がしたといえる。安倍氏が言う「政策的判断でイエスもあればノーもある」という建前的発言がウソみたいに聞こえる。事前協議制が一度も発動されることなく、小渕首相が公言した「無条件に協力する」ことが日米同盟関係の実態である。もし日本が「ノー」と言えばただちに日本切り捨てとなる。今や米軍再編において国家戦略のレベルまで日米一体化が進められようとしている。2007年2月の「第2次アーミテージ報告」では、憲法が日米協力への制約となっていることを指摘し、「集団的自衛権に関する新たな決定を待つことなくより高いレベルの自衛隊派遣が可能とする、日本が成熟したパートナーとなる」ように求めている。これは法的手続き(改憲)をとらずに政府の解釈次第で海外派遣ができるようにしろと言っているのである。その要求にそって安倍氏は独特の柔和な日本語(双務性、対等性)に翻訳しているのである。これは命令である。立場を逆転させた竹下首相の「思いやり予算」も、基地費用負担を要求されたことへの言いかえ表現に過ぎない。

安倍氏がいう圧倒的な軍事力をもつアメリカと「対等な安全保障上のパートナー」を結べる国が世界中にあるのだろうか。安保条約は日本側の基地を提供した見返りとしての「ただ乗り」、「片務性」によって規定された同盟関係に過ぎない。軍事評論家の江畑謙介氏は安保条約をこう評価している(2005年 「米軍再編」)。「日本はイギリスと並んで、米軍の全世界的展開を支える最も重要な戦略拠点と位置付けられる」、「それは政治的に安定し、高い技術力と経済力を持ち、米軍基地というインフラが存在するという意味で、三沢、横田、横須賀、相模、横浜、岩国、佐世保、沖縄の重要性は増大している」、「冷戦時代の日本防衛という役割はほとんどなくなり、日本はそれほど差し迫った形で米軍の軍事力の助けを必要としていない」という。つまり在日米軍とその基地は、日本の防衛のためにあるのではなく、世界の半分をカバーする米軍の戦略展開のための最大拠点であり、むしろ自衛隊が米軍基地の防衛にあたっているのである。劣等感の裏返しの安倍氏の「双務性、対等性」は、冷戦時代の日米関係を未だに引きずっているといえる。軍事戦略上の問題は弾道ミサイルによる攻撃についてはアメリカの「核の傘」とかミサイル防衛システムに頼らざるを得ない。ここで中国や北朝鮮を仮想敵国として、そこからアメリカに向けて発射された(核搭載)弾道ミサイル防衛での協力が、集団的自衛権を認める最優先的課題となる。米国は日本に対して、ミサイル防衛と「核の傘」という2つの防衛システムという両面戦略が必要であるとされる。ミサイル防衛の論理は「核の傘」の論理が効かなくなった場合に備えるシステムである。核の傘の論理は「懲罰的抑止」に基づくが、共倒れを防ぐためには核は使用できないという論理である。それにたいしてミサイル防衛システムは、ミサイルを撃ったとしても撃ち落されるという「拒否的抑止」に基づく。迎撃ミサイルが技術的に可能かどうかは別にして、ミサイル防衛の論理は「核抑止」が機能しない、失敗する場合(正常な判断力を持たない「ならず者国家指導者」、あるいは「テロ集団」が核のスイッチを押すことを前提として)を想定したシステムである。もう一つの戦略上の選択肢として、ミサイル基地をたたくという「先制攻撃」が考えられる。しかしそれは報復を招くので完璧な選択ではない。問題はこのミサイル防衛システムははたして技術的に機能するのだろうかという疑問である。発射された鉄砲玉を鉄砲で撃ち落とせるのかという例え話がよく語られる。今日の計画ではイージス艦搭載の迎撃ミサイルSM-3と、地上発射のPAC-3による迎撃システムが整備されようとしている。SM-3は大気圏外の「ミッドコース段階」で撃ち落とし、PAC-3はミサイルが落下する「ターミナル段階」で撃ち落とす。極東より米国をねらう弾道ミサイルの高度は700KM以上であるので日本にミサイル防衛では撃ち落とせない。発射直後の上昇ブースト段階で撃ち落とすことができたとしても、日本の上空で散乱される放射性物質で日本は惨憺たる状況となる。ところが2006年12月米国のローレス国防次官は「ミサイルが米国に向かうことが明らかであるのに、法的に日本がそれを撃ち落とせないはクレージーだ、それは日米同盟ではない」と叫んで、改憲を強く求めたという。しかし米国へ向かう弾道ミサイル以上の最悪シナリオは日本海側の原発施設を狙ったミサイル攻撃である。現在の原発施設を地下深く設置しない限り、現時点ではミサイル攻撃に耐える原子炉は存在しない。核を搭載しなくてもミサイルが原子炉を破壊したら結果的に核攻撃と同じになる。

全く無防備な原発をミサイル攻撃から守る対策のほうが日本として最重要課題になるのだが、全国のPAC-3配備には30兆円をはるかに超え、アーミテージ報告は日本に1兆円の特別予算を勧告している。2004年の新防衛大綱は、ミサイル防衛が日本の防衛政策の根幹に据えられた。ところがラムズフェルド国防長官は相次ぐミサイル迎撃実験の失敗から、運用にはいたらない「試用の段階」であると言明した。ミサイル防衛こそ「現代版の大艦巨砲」の悪夢でないだろうか。ソ連邦が消滅したのもこの「大艦巨砲の悪夢の連鎖」に耐えられなかったためである。膨大な税金を必要とするミサイルシステム開発を合理化するために、宇宙戦争の動画まがいの恐怖をあおり、かつ迎撃の可能性も演出しなければならないので、この最悪シナリオを突き詰めてゆくと、国民の安全を守るうえで滑稽なほどリアリティを欠いた無用の長物を生み出してゆくのである。バーチャルリアリティといった仮想空間の呪縛に陥っていないだろうか。際限なき軍拡競争はソ連をつぶしたが、クリントン元大統領は2004年に「ミサイル防衛システムを配備すれば、世界をさらに大きな危険にさらすことになるだろう」といった。1960年代の中国の脅威は今の北朝鮮の比ではなかった。1964年に原爆実験を行い、1966年にアジア全体を射程におく核ミサイル実験を成功させ、翌年には水爆実験を成功させた。1970年には人工衛星を打ち上げ、大陸間弾道弾の開発に着手した。また文化革命において好戦的な言辞がもてはやされ、「攻撃的な核保有国」が出現した。しかし当時の「中国の脅威」は1971年のニクソン訪中による「米中和解」がなって、中国を国際社会に参加させることが脅威を取り除いたのである。いまや中国が攻めてくると恐怖をあおる人は、右翼以外にはいない状況である。北朝鮮に対してもそのような外交方針で臨めばいいのである。21世紀になって国際情勢を混乱させているのは、むしろブッシュ大統領の好戦的なイデオロギー戦略ではないだろうか。2002年漫画的な「悪の枢軸」論がそれである。北朝鮮、イラク、イラン、アルカイダを挙げるが、国家組織を持つ「主権国家」は自爆テロを敢行するテロ組織とは根本的に異なる原理で動いているのである。そしてブッシュ(子)は、テロにおいても地域の「土着パルチザン」と「革命的パルチザン」の区別もできない。「土着パルチザン」は政治目標の達成を目的とし、テロは手段に過ぎない。幕末の日本でも薩長勢力は盛んにテロ攻撃を行って幕府を揺さぶったのである。薩長が権力を握れば文明開化と維新国家建設に邁進した。「革命的パルチザン」には革命の輸出が目的で、政治目標がない点で大きく異なるのである。

第5章 「脅威の再生産」の構造

米国は当面の国益から、「敵の敵は友」という短絡的な戦略・戦術を採用することによって、同盟国を振り回すだけでなく、結果的に新たな脅威を生み出すという悪循環を起してきた。その「脅威の再生産」の構造をイラク、アルカイダ、パキスタンの3つの事例で検証しよう。

1) イラク

レーガン政権が誕生した1981年には、イランイラク戦争が勃発していた。イランのホメイニ革命に対抗するためイラクを支持すべきという主張が優勢になった。ところが1979年にカーター政権は同国をテロ支援国家に指定し、両国への武器売却を禁止していた。カーター政権は1982年2月、イラクをテロ支援国家のリストから外し、イラクへの融資保証の道を開いた。12月国防長官ラムズフェルドは大統領親書を携えサダム・フセインとのトップ会談を行った。ラムズフェルドは「イランとシリアの拡張を阻止することは米国とイラクの共通の利益である」と定義し、イランへの兵器供給の封じ込めと石油パイプラインの建設を約した。ところが米国はイラクが化学兵器製造能力をもとかつ戦争で使用していることを知りながら、これを黙認する。1984年11月米国とイランの正式な外交関係が樹立されたことで融資保証や信用供与でイランは大量の兵器調達ができるようになった。そしてフセインは1988年「アルファ作戦」でクルド人自治区を襲い18万人以上を殺戮した。化学兵器で5千人以上を殺害した。こうしてレーガン政権はイラクがイランに対してばかりでなく、同国人のクルド人殺害に化学兵器を使用していることを掴んでいたが、国連安保理でイラクに対する化学兵器使用非難決議が採択されが、米国はイラク制裁には反対した。1988年8月イラク・イラン戦争は停戦し、翌年ブッシュ(親)政権が発足した。ブッシュ政権はレーガン政権のイラク支援政策を踏襲し、国務長官ベーカーは新しい米国―イラク・ガイドラインをまとめた。イラクが巨大な軍事的政治的パワーに成長し、ソ連から離れつつあること、莫大な石油埋蔵量という点からイラク支持を続けるというものであった。1989年8月にイラクはBNLアトランタ支店を通じて米国から巨額の不正融資保証を受け、西欧諸国に複雑な兵器調達ネットワークをつくりあげているということがFBIの強制調査によって暴露された。「サダム・フセインの戦争マシーンへのベーカーの裏口融資」と非難されたが、ブッシュ政権はフセインのクウェート侵攻までイラン支持を続けた。これらのレーガン政権とブッシュ政権のイラク援助政策は「イラク・ゲート事件」と呼ばれた。イラクの大量破壊兵器問題の起源は、米国を始め西欧諸国の軍需産業がイラクを巨大な市場と見て、最新の軍事テクノロジーや資材を大量に売り込んだことによる。その信用保証をアメリカがしたのである。このように「敵の敵は友」という短絡的視野からなされたフセインへの援助政策が、ついに制御不能のモンスターを生み出し、湾岸戦争からイラク戦争を引き起こした。

2) アルカイダ

レーガン政権はその「敵の敵は友」戦略によって、フセインとは別の重大なモンスターを作り出していた。レーガン政権は1981年1月末に発足したばかりに「国際テロリズムとの戦い」を掲げた。当時テロ組織とは、ソ連、リビア、イラン、シリア、北朝鮮、キューバ、ニカラグア、レバノンの過激派、パレスチナ解放機構PLOなどであって、なかでも焦眉の課題は1979年12月にアフガニスタンに侵攻したソ連との対決である。ソ連の言い分は1978年に締結したアフガニスタン・ソ連友好条約に基づき政府の要請を受けて集団的自衛権を行使するというものであった。このアフガン侵攻は10年にも及ぶ泥沼の戦いとなった。米国はアフガニスタンのムジャヒディン(イスラム聖戦士)に援助を与えることでソ連を攪乱することであった。1985年レーガン大統領はムジャヒディン援助をエスカレートさせ兵器を大量に供与した。これを受けてケーシーCIA長官は3つの措置を実行した。1つはムジャヒディンにスティンガー対空ミサイルを供与し兵士を訓練した。2つはパキスタンの情報部ISIとCIAが協力して、ソ連の補給路であったタジキスタンとウズベキスタンに対するゲリラ攻撃を強化すること。3つ目の措置は、世界からムスリム急進派をパキスタンに結集させムジャヒディンとともに戦わせることであった。サウジアラビア情報部の指揮のもとに世界34か国からムスリム急進派が3万5千人集結した。周辺から援助したムスリム急進派は10万人に達したという。サウジアラビアのオサマ・ビン・ラディンがCIAの援助と豊富な資金力を得て急進派を組織していった。ムジャヒディンを支援するセンターとして「アル・カイダ」(基地)を設置した。テロ活動のノーハウを教え込み、武器を与えてアフガニスタンに送り込むという路線にCIAが踏み込んだ。ムスリム急進派の組織化が一気に進み、新たなモンスターが誕生した。オサマ・ビン・ラディンは母国サウジアラビアへの米軍駐留を、異教徒の軍隊によるイスラムの聖地占領として激しく非難し、やがて反米テロの指導者になった。アメリカは飼い犬に手を噛まれることになった。米国が養成したフセイン、アルカイダという脅威はまさにレーガン政権とブッシュ政権が作り出した制御不能の巨大モンスターである。ある容易に対抗するために、米国が手段として利用した主体が、新たなる脅威として登場するという「脅威の再生産」の構造にこそ、アメリカの戦略の本質である。

3) パキスタン

米国外交問題評議会のファーガソンは2006年3月特別報告書をまとめ、テロリストが化学・生物・核兵器などの獲得に懸命に動いていることを指摘し、なかでもテロリストによる核攻撃の脅威が高まっていると警告を発した。核兵器製造は困難なので盗み出すことを狙っているという。米国の核はPALという認証コードを解除しない限り使用できないが、ロシアの戦術核やパキスタンの核兵器を危惧している。そしてファーガソン氏はもしクーデターでパキスタン政府がテロリストの手に落ちた場合が最も懸念されるとしている。なぜならパキスタンにはアルカイダの基地が多くあり、軍にはアルカイダのシンパがいること、核管理システムが未熟であること、ムシャラフ大統領の暗殺未遂事件がおきたこと、カーン博士の核闇市場が存在したことなどが心配する根拠である。インドが1998年5月に核実験を行うやパキスタンは5月に6回の核実験を行った。1999年ムシャラフがクーデターで政権を取ると核は軍事政権の手に移った。米国自体が包括的核実験禁止条約CTBTの批准を拒否したため、パキスタンへの説得は力を持たなかった。2001年の9.11同時多発テロ事件は、ブッシュ(子)政権はアフガニスタンのアルカイダへの戦争を遂行するにあたって、パキスタンを戦略拠点として利用するため、インドとパキスタンへの制裁を解除した。パキスタンの核開発は1980年代にさかのぼるが、レーガン政権はソ連のアフガ二スタン侵攻に対処するため、パキスタンの核開発を見て見ぬふりをしていた。ソ連がアフガニスタンから撤退するとパキスタンの戦力的重要性がなくなり、クリントン政権は一変してパキスタンの核開発に厳しい目を向けた。ブッシュ(子)政権はまた核容認の態度に転じた。パキスタンは米国の戦略に振り回されたが、パキスタンと同様日本の外交政策も米国戦略の変更の度に、米国に歩調を合わせて猫の目のようにパキスタン経済制裁から緊急援助へ変更をしている。パキスタンの核技術が北朝鮮のミサイル技術とバーターされ、ウラン濃縮用遠心分離機が北朝鮮に輸出されている。さらのリビアやイランにも遠心分離機が輸出されている。2004年ムシャラフ大統領がカーン博士を処分したのを受け、2005年3月パウエル国防長官は「パキスタンを非NATOの主要同盟国」に位置づけた。この危険な国を米国の主要同盟国に格上げした。核兵器をもつ最も不安定な国家パキスタンという脅威を事実上放置してきたこのご都合主義の米国戦略こそ世界の不安定の元凶であろう。

第6章 日本外交のオルタナティブ(第3の選択肢)を求めて

国民に対する嘘とごまかしでなければ、おぼっちゃまのきれいごとに過ぎない安倍政権の集団自衛権問題を巡る日米関係の「双務性、対等性」についてはこれまでで明らかになったが、本章では対米従属でない日本外交の新しい選択肢を模索する。まず日本外交の国際貢献について考えてゆこう。発展途上国という概念が存在したが、東京大学国際政治学の田中明彦氏は安全保障からこれを「混沌圏」と呼び、世界の脅威はここから生み出されるという。田中氏は世界の不安定性から先進国を守るための制度としての安保条約の存在意義を確認する。しかし本当に先進国はその役割を果たしているのだろうかを、旧ユーゴ紛争で検証することにしよう。旧ユーゴ紛争は東欧共産圏の崩壊によって、チトー大統領のまとめた独自の社会主義国が分解される過程で生まれた。この紛争の主たる原因が「大セルビア主義」を掲げることによって各民族の民族主義をあおりたてたセルビア共和国の指導者ミロシェビッチ氏にあるとされている。しかし問題は先進国たるEC欧州共同体の対処法であった。処置を誤るとバルカン戦争の事態になりかねない。1991年スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ECは元イギリス外相キャリントンを議長とするユーゴ和平会議を発足させ和平の仲介に乗り出した。独立の認定基準として「少数民族の法的保護体制」の確立を決めたが、ドイツはクロアチアの独立を承認する方が戦争拡大を防止できるとした。ECはドイツに引きずられる形で、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナの独立を承認した。そして民族間のボスニア内戦となり泥沼の紛争に発展した。ECではドイツの責任を糾弾したが、紛争の調停にあたる先進諸国が紛争に油を注ぐ愚を犯したのであった。1995年国連事務総長であったガリは紛争「予防外交」を唱え、緊張を緩和させることや紛争拡大を阻止する外交であるとしたが、旧ユーゴ紛争ではECの外交は「紛争拡大外交」になってしまった。そしてNATOによる空爆という事態では完全に紛争当事者になった。これは「介入」と言われる。大国の介入で暗躍するのが武器輸出業者である。国連常任理事国にドイツを加えた6か国だけで兵器輸出の81%を占め、米国だけで46%と圧倒している。火に油を注ぐ軍産複合体と言われる戦争拡大政策によって利益を得る団体が世界の最も不安定要因となるのである。武器輸出3原則によって、公的には兵器輸出を行ってこなかった唯一の国である日本の立場こそが、紛争地域への兵器輸出禁止条約の国際的な枠組み形成を主導する役割を担えるのである。

ここにデヴィッド・レイ・グリフィン著 「9.11事件は謀略かー21世紀の真珠湾攻撃とブッシュ政権」(緑風出版2007年9月)という本がある。9.11同時多発テロ事件をブッシュ大統領の自作自演謀略と見る説もある中、一連のテロ事件の最後に起きた「炭疽菌テロ事件」は何とも歯切れの悪い事件であった。2001年10月「炭疽菌」粉末を入れた封筒が政府機関に送り付けられ、5人が死亡した事件である。当初政府とメディアはアルカイダの仕業と発言していたが、この菌の遺伝子解析によってメリーランドにある「陸軍感染医学研究所」(生物兵器製造研究)が保管していた炭疽菌と一致した時から、事件について沈黙と抹殺が行われた。これについて語ることはタブーとされたのである。この文脈で類推すると9.11事件そのものが「テロとの戦い」を標榜するブッシュ大統領の謀略を感じさせるものとなった。国民が新型生物兵器の効果を確認する動物実験にされたとみられる。1975年に発効した生物兵器禁止条約は「紳士協定」で実効性を持たず、1995年から検証議定書を作る多国間交渉がまとまり2001年春に草案ができた矢先に、ブッシュ大統領はこれを葬った。疑惑の中心は米国にあったからこれを潰す作戦に出たのであろう。同じことは1997年に発効した化学兵器禁止条約においても見られる。禁止条約事務局長のブスター二氏を2002年に解任した。ブスター二氏は加盟国を広げ、イラクの条約加盟を進めてきたが、査察の手続きになればブッシュのフセイン打倒という計画に齟齬を来すことになるで解任されたとみられる。米国は1998年国内法で「安全保障上の脅威となるなら査察を拒否できる」と決めていた。条約というものは参加国の平等性(対等性)が原則であるが、ブッシュ大統領は核拡散条約NTPと同様、化学兵器、生物兵器条約でも、「米国の特権的立場」を維持しようとし、認められなければ条約を潰すか、自国だけは査察を受けないという「差別性」を主張した。核不拡散問題では、北朝鮮とともにイランの核開発問題が切迫してきた。国連安保理で一連の制裁決議が可決され、米国がイラク戦後処理が落ち着いたらイランに武力攻撃をおこなうことも危惧されている。イランの核開発問題の解決には、まず「核拡散をめぐる西側のダブルスタンダード」を止めることで、「中東全体の非核地帯宣言」が必要である。ダブルスタンダードとは、イランの核開発には反対しながら、イスラエルの核保有は黙認しているという欧米諸国の立場のことである。イスラエルが1000発近い核弾頭を保有していることは常識となっている。しかもイスラエルはNPTに加盟していない。なぜ欧米諸国はイスラエルの「特権的立場」を認めてきたのだろう。1969年ニクソン大統領とイスラエルのメイア首相の会談で、イスラエルは核保有を認めたという。そこで米国のキッシンジャー補佐官は、イスラエルが核保有を極秘にするなら米国は黙認するという了解が成立したようだ。米国はホロコーストの道徳的責任はないにもかかわらず、米国がイスラエルを支持する根拠は何かというと、金融資本を通じた「イスラエルロビー」の存在である。このダブルスタンダードを背景にイスラエルの核保有が黙認されたために、インドやパキスタンがNPTの枠外で次々と核保有国となり、北朝鮮がNPTから脱退して核実験を行い、イランの核開発が問題となっているのである。このダブルスタンダードが核拡散を許してきた元凶である。要するに示しがつかないのである。唯一の被爆国である日本が非核3原則を堅持して核不拡散を国是としてきた実績から、イスラエルの核保有問題に切り込み、核不拡散の方向性を示すことが中東で果たすことができる「国際貢献」である。2006年3月米国とインドは原子力協定を結んだ。しかも原子炉16基のうちIAEAが査察できるのは8基のみで、あとの8基は軍事用なので査察を拒否している。この「差別」に反発したパキスタンは7月にプルトニウムを抽出できる原子炉の建設に着手するという。米国がその時の短絡的なご都合主義でインドを優遇すると、パキスタンの核開発に拍車をかけ、そこへテロ組織が乗じる危険性が増すのである。脅威を増殖する役目を米国が行っている。

北朝鮮が核開発を進めるならば、日本も核武装すべきだという主張がある。しかしこの論は歴史的観点を欠いている。なぜなら中国は1966年に核ミサイルの開発に成功していた。1981年には大陸間弾道弾ミサイルを開発した。ソ連は1957年に世界初のICBMを完成させた。「米国の核の傘」はなきに等しかったにもかかわらず、この間にソ連や中国からミサイル攻撃を受けたことはなかった。ミサイル攻撃を受けるかどうかは緊迫した政治情勢が問題になるのである。今日中国の核弾頭ミサイルが日本に飛来することを心配することは杞憂に過ぎない。では北朝鮮の日本へのミサイル攻撃という差し迫った脅威(北朝鮮が日本から受ける脅威のこと)はあるのだろうか。つまり問題はミサイルの性能とか破壊力という軍事技術レベルのことではなく、すぐれて政治外交的レベルの問題であることがわかる。主権国家はテロリストとは違い最重要課題は「体制の生き残り」にある。核は交渉の手段に過ぎない。相手が多少とも脅威と感じるならばの話である。どうせ使えない核兵器なんぞは怖くないと居直った国には通用しないテクニックである。日本は核兵器よりも恐ろしい規模の原発を53基と、使用済み核燃料を膨大に抱えており、この事故の方がはるかに国家体制存続の危険因子なのである。もし日本が核武装するならば、NPTは崩壊するであろう。そして無秩序な核開発が横行し東アジア一帯が不安定化する。1998年8月31日北朝鮮はテポドンの発射実験に成功した。発射直後日本が国連で非難決議を求めたにもかかわらず、米国はニューヨークで米朝高官協議を続け、9月10日にKEDOや軽水炉工事の再開を約束した「包括合意」に達し、日本に建設費分担を求めた。戦域ミサイル防衛TMD構想の共同研究参加を強く求めてきた。北朝鮮の脅威が米国によって煽られる一方で、日本の頭越しに米朝間の関係交渉が進むという構図は、2006年のミサイル発射と核実験にも基本的に引き継がれている。こうした日本の置去りは過去に何回も見られた。その最たるものは1971年のニクソンショック(米中和解)であった。こうした頭越し外交は日本でけでなく台湾もその犠牲者であった。1998年クリントン大統領の中国訪問、2006年陳水扁総統のアンカレッジ立ち寄り問題などである。米国は中国を北朝鮮問題における6者協議という場で仲介者の役割を求めた。中国は経済的発展に従って軍事的拡張も著しい。2007年1月ミサイルによる衛星破壊実験に成功し、「宇宙の軍事化」に踏み出した。宇宙の独占こそブッシュが求めていたものであり、核エネルギーの宇宙配備を目指したのはほかならぬ米国である。核兵器のみならず宇宙兵器禁止条約の制定、非軍事原則を高く掲げる必要が日本外交の基本となるべきである。さらに日本は北東アジアの非核地帯構想(朝鮮半島と日本)実現に向けた努力をすべきである。


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