070701

なだいなだ著 「民族という名の宗教」

 岩波新書(1992年1月発行)

民族は近代国民国家のフィクションである。人をまとめ、排除するために利用される。

なだいなだ著 「神 この人間的なもの」の10年前に岩波新書から刊行された「民族という名の宗教」という本はたしかに前書の一部分になっている。1992年という時代はソ連・東欧という社会主義国が崩壊し資本主義の勝利と大きく宣伝された時代だった。しかしその資本主義も不動産バブルが崩壊し深刻な経済不況が襲ってくる時代になった。金融崩壊の前夜にあたる。著者なだいなだ氏は精神科医で作家、「進歩的知識人」で自称「心情左翼」のへそ曲がり的抵抗主義者と本人が言っている。なだいなだ氏の心のよりどころであった社会主義が崩壊したショックは大きかったらしい。「社会主義は最後に資本主義に勝つ、社会は必然的に平等で公平な搾取のない社会になるというというのは嘘だった。しかしwが枯れた社会主義の未来がバラバラだった人をまとめることに成功したことは確かだった」と著者は言う。本書はある意味で社会主義のいいところを見直そう(著者に言わせると社会主義のリサイクル)という姿勢から書かれた。それは人を国家という競争原理から解放して、人をまとめる原理になるということであった。そして現代社会のひずみや行き過ぎや危険性に対しては抵抗する少数派をまとめる理論として社会主義が使えるのである。つまり理性的批判主義として為政者への警鐘になり、政策批判から政策の是正になる力を生むのである。いわば日本共産党が言う「確かな、健全野党」精神である。民族主義を標榜する戦争、国際紛争、公害輸出や地球環境問題にたいして宇宙的視野、国際的連帯感情が必要な時代である。

なだいなだ氏の書は、丸山真男氏の書「自己内対話」のような、二人の人物の会話形式で進行する。友人であったり、先生と生徒の関係であったりするが、要するになだいなだ氏の内部にある意見を闘わせるのである。闘うばかりではなく、論理のお膳立てであったり、補足意見であったりもするのだが、疑問と回答を交互に繰り返す会話形式である。したがって文章は平易で判りやすく、結論も用意されている。読みやすい書である。よほど頭がいい作家なのだろう。本書の内容から大きくは、ヒトが集団を必要とする意味、部族から帝国へ、国民と民族というイデオロギー、排他原理とまとめる原理の四章に分けて本書を解説する。

ヒトが集団を必要とする意味

ヒトは他の動物に比べてあまりに弱弱しい、肉体的にあまりに貧弱で一人では他の動物を殺すことは出来なかった。だからこそ人間の成功は、人間が集団を作って共同して狩をするようになったことが、決定的な進歩である。道具や火の使用は食料範囲を広げたに過ぎない。この見解は仮説だと著者は言っているが、画期的な進化論ではないだろうか。一番弱い立場が人間を一番強い立場に改良した。それも脳という高次機能が生み出した社会の創造によるものだろう。人類の歴史の最初から大きな集団作りが競争原理であった。さらに大きな集団になるためには人間の敵は動物ではなく人間になった。テリトリー争いにおいて集団で行動が取れるために命令系統がきちんとしていないといけないので、社会に構造が出来、言語が重要な道具になった。ここで集団というのは家族ではなく、オス同士の共同社会のことである。

部族から帝国へ

集団同士の闘いにおいて、人の肉は食べないとか、近親相姦は避けるとかというタブーが自然的に発生した。それは仲間うちのオス同志が喧嘩して殺しあってはならないため、さまざまなタブー・倫理が作られた。オス同志が協力する上で家族の血縁関係(血族集団)が最初の基盤になった。この集団には小さな集団を集めて構造・階層を積み上げていった。そして狩猟から耕作に向って集団は定着生活に入り急速に大集団になったようだ。そこで集団に指導者トップが生まれ、神聖視され、集団の系譜や国作り神話という「血の信仰」がでって上げられていたのである。つまり部族社会のフィクションである。ローマ帝国、漢帝国、ペルシャ帝国などの文明社会つまり都市社会がうまれた。帝国は急速に巨大化した。有史以来部族社会から都市文明へと人類は戦争を続けてきた。そして平和のために戦争をしてきたのだ。種が絶滅しないためには平和と資源が必要だが、そのため他の集団と抗争を繰り返して巨大になってきた。都市文明と世界的帝国の出現とほぼ時を同じくしてゾロアスター教、仏教、キリスト教など世界宗教が生まれたのである。戦争に勝っても勝利した部族の血の信仰を他の部族に強要することはできない。つまり帝国規模の集団にはそれをまとめるイデオロギーが必要になった、それが世界宗教であり、ローマ帝国ではキリスト教が採用された。日本においても部族の信仰である神道(多神教)では統一的なイデオロギーにはならない。仏教の伝来を待って奈良時代に中国的な律令制度という中央集権国家になることが出来たのである。この帝国も中国を除いて中世にはバラバラの小さな集団(国)に分解した。それが再度まとめられるのが近代に入ってからである。

国民と民族というイデオロギー

今最も複雑な民族問題はユーゴ内戦であろう。チトーというカリスマが社会主義で作った多民族国家がユーゴだったのである。チトー亡き後はたがが外れた桶みたいに国は分解した。民族という言葉を使ったが、実はこれには実体はない。国家、国民、民族皆同意語である。決して血液的に定義された言葉ではない。まして人類も交雑可能は一つの人種であって、黒人、白人、黄色人という人種はない。一つの種である。欧州ではいち早く産業革命を成し遂げたイギリス、フランスでは19世紀には国民国家を形成した。部族を超えて大きくまとまるには民族意識は都合のいい観念だ。まずは言葉を共通にする部族が民族に纏め上げられた。民族主義というイデオロギーが作られた。産業力と軍事力を背景に近代国家を作った欧州列強は戦争という手段で植民地獲得に乗り出した。世界資源争奪戦である。遅れながら日本、ドイツ、イタリアも統一を達成し近代国家を作って植民地戦争に参加してゆく。帝国主義の時代の幕開けである。江戸時代は日本は数百からなる連合国家であったが、武士という階級意識はあったが国民意識は存在せず、お国とは藩のことであった。そこで列強の侵略を危機意識とした維新では江戸幕府を倒した後天皇家の神話を持ち出して統一のイデオロギーにすり替えた。西欧文明の吸収によって急速な近代化を成し遂げる途上でも、戦争は一気に国民意識を高める特効薬となった。日清日露戦争で日本に住む人間が始めて日本人意識を持った。言語の標準化これもフィクションなのだが、近代化で一丸となるには避けて通れない課題であった。近代日本が切り捨ててきた小集団の習慣を拾い集めたのが柳田国男の民俗学である。

排他原理とまとめる原理

世界中から排斥され流浪の民といわれるのがユダヤ人である。ユダヤ人は部族集団である。2000年間キリスト教から迫害され離散民となった。ユダヤ人にもその土地の社会に溶け込んでいった集団もある。特にドイツ社会に入った人々には有力な経済人、芸術家、学者を輩出した。メンデルスゾーン、ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、モディリアーニなど数え上げれば切りがない。音楽家でユダヤ系何とか人は実に多い。ところがドイツでも近代国家を形成するときにゲルマン民族と言い換えて統一を図り、その返す刀でユダヤ人の迫害が始まった。民族主義はまとめる原理であったが同時に排斥する原理でもあったのだ。民族を問わない新天地アメリカに逃げるユダヤ人もいたが、シオニズム運動といってユダヤ人自身が民族意識を持ち始めた。旧約聖書の約束された地エルサレムに帰ることを願望した。明治維新後日本では教育によって日本人意識を植え付けることに成功したが、近代国家の国民を均質な働き手にするために「同じ日本人」意識が必要だった。軍隊では特にその傾向は滑稽なまでに著しかった。日本の近代の政治家・官僚は、日本人を単一民族化しようとしたが、教育、交通、通信、電力など国内体制の均一化も強力に押し進められた。単一民族とは単一化された国民のことである。民族はフィクションだ。


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