2012年7月9日

文藝散歩 

徳善義和著 「マルティン・ルター」 
 岩波新書 (2012年6月)

キリスト教会の一元支配を改革し欧州の中世を終らせたマルティン・ルターの評伝


キリスト教の教義には迂遠にして無関心な私がコメントできるわけでもないが、マルティン・ルターの宗教改革の歴史的意義は西洋史で習った。本書がルターの評伝であると云うことで途端に興味が湧いた。特に最近読んだ本で、マックス・ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫 1989年改版)が禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理が勤勉と資本蓄積をもたらしたというくだりがあって、プロテスタンティズムに興味を持っていた。そのプロテスタンティズムの祖マルティン・ルターの生涯について全く知らなかったのを恥じて本書を手にした次第である。現在のキリスト教会は大きく4つの世界があるといわれる。ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント派教会(ルーター派、カルヴィン派など改革派)、英国国教会である。特に複雑に分派が見られる改革派は英国でも清教徒(ピューリタン)がアメリカに移民した。この教徒が興した国の資本主義精神にヴェーバーが注目したのだ。改革派の複雑な分派は日本でいうと全学連・全共闘の学生運動の分派の如く麻の様に乱れている。宗教社会学者のヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかでキリスト教諸派の社会学的解析を試みているが、私の興味には無いので省略する。私はプロテスタンティズムの教義が進歩的だと肩入れするわけではなく、ローマ・カトリック教会やギリシャ正教会を反動団体だと決め付ける見解をとる者ではない。ましてキリスト教とイスラム教に見られる原理主義を批難するわけではない。私には縁遠い世界の事で、宗教の教義とは別の政治的・人文文化的な歴史のほうに意味を求める主義である。

マルティン・ルター(1483−1546年)の活躍した16世紀前半とはどんな時代であったのか。日本では室町幕府の権威がなくなり、諸侯が入り乱れて覇を競う戦国時代に入った。封建諸侯の領土争いの中で自由商業都市や一向宗の自治都市が割拠し、ある意味では近代化への息吹きに満ちた活気ある下克上の世界であった。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下統一へ向かって諸侯盟約がなったが、本質的には諸侯分割支配の封建時代で、国王の支配する官僚体制の近代国家(絶対王朝)ではない。欧州ではルネサンスと宗教改革の嵐により中世的な世界観にかわり、近世的な新しい世界観が生まれた。また、これまで天動説の体系が長らく信じられてきたが、ニコラウス・コペルニクスにより地動説が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する天文学者もヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイの登場まで現れなかった。ポルトガル・スペインそしてイギリスの大航海時代における「冒険の時代」から「征服の時代」へと移行した。16世紀前半の主な出来事を年譜にすると、
1511年 ポルトガルがマラッカを占領する
1517年  マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」(宗教改革の発端)。
1521年 マゼランが太平洋経由でフィリピンへ到達し世界一周を成し遂げる。
1524年  ルターの宗教改革がドイツを混乱させ、農民戦争を起こした。
1529年  神聖ローマ帝国の首都ウイーンがオスマン帝国に包囲される(第一次ウィーン包囲)。
1533年 インカ帝国、フランシスコ・ピサロにより征服される。
1534年  教皇クレメンス7世がイングランド王ヘンリー8世を破門。イギリス国教会がカトリック教会から分離。
1536年 ジャン・カルヴァンの宗教改革。
1543年  日本へ鉄砲伝来。 ニコラウス・コペルニクスが地動説(太陽中心説)を発表。
1544年   ルター訳聖書(新約聖書・旧約聖書全巻)の刊行。
1555年  アウクスブルクの和議。ルター派信仰認められる。

マルティン・ルターの略年譜を併せて示すと、
1483年 アイスレーベンで誕生 父は鉱山業者のハンス・ルダー
1501年 エルフェルト大学教養学部に入学、法学部に進む
1505年 落雷事件で転向し、アウグスティヌス修道院に入る
1507年 司祭となり、大学講義も受け持つ
1512年 ヴィッテンベルグ大学聖書教授となる 詩篇講義、ローマ書講義
1517年 95か条の提題発表
1518年 ハイデルベルグ討論、アウグスブルグで異端審問を受ける
1519年 ライプツィヒ討論 カール5世神聖ローマ皇帝となる
1520年 「キリスト者の自由について」など宗教改革的著作を相次いで発表
1521年 正式に破門される ウォルムス喚問を受ける 帝国追放処分となりワルトブルグ城に保護される
1522年 ヴィッテンベルグ町教会で説教を行なう 新約聖書ドイツ語訳を出版 改革運動を開始する
1525年 ドイツ農民戦争で農民を見殺しにする ボラと結婚
1529年 「大教理問答」、「小教理問答」を出版
1530年 アウグスブルグ信仰告白を提出
1534年 旧約聖書ドイツ語訳出版
1536年 創世記講義
1545年 ドイツ語著作全集、ラテン語著作全集刊行開始
1546年 アイスレーベンで死去 63歳

著者徳善義和氏とはどんな人物なのだろうか。経歴を見ると面白い。1932年東京生まれで1954年東京大学工学部卒業、1956年立教大学神学部博士課程中退、1957年日本ルーテル神学大学卒業だそうである。日本ルーテル千葉教会牧師、稔台教会牧師を経て、1972年より、日本ルーテル神学大学の教授になる。1985年に、新設されたルター研究所所長を務める。1994年より、日本キリスト教協議会(NCC)副議長を務める。現在、日本エキュメニカル協会の理事長を務める。ここでエキュメニズム は、キリスト教の超教派による結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のことである。世界教会主義ともいうらしい。エキュメニズムのことはよく分からないが、とにかく日本のルター派牧師さんだそうだ。キリスト教について関心がないならここで本書を閉じてしまってもいいのだが、パスカルがパンセで言っているように、「死後天国があるかどうかわからないにしても、確率的には信じた方が得だ、もしあったら不信心だと地獄におちるから」 なんとパスカルはせこいことをいうが、私は西欧人がこれほど精神的に深い影響を受けているキリスト教の理解なしには西欧文明も理解できないと考えるので出来る限り興味を持ち続けよう。マルティン・ルターという人はまさに16世紀の宗教改革という、中世の闇を打ち破るそのような結びつきを持つ歴史上稀有な人物であるらしい。無謬神話に胡坐をかいていた教会の権威を否定し「教皇と教会も間違いを侵す」と言い切ったルターの改革の烽火は瞬く間にドイツに広がり、無数の改革派の分派を生んだことはやむをえない。教皇権威と世俗権力の一致が中世だとすれば、これを否定したことは近世の始まりであった。

著者は「ルターは言葉に生きた人であった」といい、本書も「ことば」の段階によって章分けを行っている。「ことば」とは「聖書のことば」という理解であって,言語学のことばといういみではない。聖書の文脈を理解するために「聖書読み」に徹し、聖書の言葉を日常語のドイツ語(ザクセン地方語)で語ったというところにルターの革新性がある。仏教の「お経」も誰が聞いてもちんぷんかんぷんであるが、まだ文章にすれば中国語であるので理解不可能ではないが、ところどころ中国語の翻訳不可能なところは古代インド言語で音だけを追ってあるところはまるで呪文である。玄侑宗久著 「般若心経」(ちくま新書2006年) によると、般若心経中に漢字に翻訳されていない箇所が三つあるという。「般若波羅蜜多」、「阿耨多羅三藐三菩提」、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」 この部分は古代インド文字でヴェーダ(呪文)といっている。浄土宗で「ナムアミダブ」をとなえれば浄土へ行けるというのと同じことだ。仏教徒は響きのままに唱えれば全体性の中に生命の喜びを感じるらしい。これと同じように、当時の聖書や祈祷書、賛美歌はラテン語やギリシャ語で書かれており、一般庶民では読める人はいなかった。これでは「呪文」と同じである。 したがって誰も聖書に基づいてキリスト教を理解していなかった。牧師や教会の言うとおりにキリスト教を信じているに過ぎなかった。そこを日常ドイツ語で聖書を読めるようにした意義は大きい。イスラム教では21世紀の今もなおアラブ語のコーランを他の言語に翻訳することは禁じられている。聖書の解釈は当時の教会の権威の下で疑ってはいけない教義として教えられた。だから随分いい加減な便宜的なことがまことしやかにやられていた。「免罪符」がそうである。お金を出せば(寄付)、罪を認め悔い改めをしたのと同じ効果があるという、教会の経済行為である。ルターはここに噛み付いた。宗教改革とは聖書の言葉によってキリスト教を再形成した出来事であった。

聖書の言語をみると、旧約聖書はパレスチナで生まれたユダヤ教の聖典であり、原典はヘブライ語で書かれている。ユダヤ教が広まるにつれ旧約聖書はまずギリシャ語に訳された。新約聖書は紀元1世紀頃地中海の共通語であった古典ギリシャ語「コイネーギリシャ語」で書かれ、旧約聖書とともにラテン語に翻訳された。こうして紀元4世紀にローマ帝国の国教となった。4世紀に冷ヒエロムニスによってラテン語に翻訳された旧新約聖書は「ウルガタ版」といわれ、中世以後のローマ・カトリック教会において唯一の公式翻訳書としての扱いとなった。8世紀から礼拝儀式はすべてラテン語によって営まれた。こうして庶民の読めないラテン語がキリスト教会の"公用語"となって以来、教会と民衆の隔絶が確定した。それが後の宗教改革の要因となったのである。キリスト教の言葉から疎外された民衆は極端に言えば見捨てられたのも同然の存在であった。キリスト教の「悔悛の秘蹟」といわれる「懺悔聴聞」は民衆の苦しみを解く唯一の場であったが、中世以降の年に一度の罪の決算となった。懺悔とそれにと伴う償いの結果、本当に自分は許されたのかいう不安は解消されたわけではなく、教会はその不安対策として「免罪符(贖宥)の制度』を編みだした。教会の経済的理由で免罪符は大々的に販売されるようになった。そして教会の腐敗がはじまった。

1) ことばとの出会いー神の義(律法と福音)の理解

1483年ドイツ東部のザクセン地方のアイスレーベンという町でマルティン・ルターが生まれた。父ハンスは一代で鉱山精錬企業家となった努力の人であったという。ハンス・ルダーはルターを大学に入れて法律家にしようという当時では稀な教育熱心な父であった。まずマンスフィールドの教会付属学校に通わせ、13歳になるとマクデブルグ大聖堂付属学校にはいり、1501年18歳のルターはエルフェルト大学に入学した。1502年教養学士を卒業し、1505年(22歳)に教養学修士となった。そして専門学部は父の希望で法学部に入学したが、1ヵ月後帰省中に落雷に遭遇し修道士になる事を決意したという。ルターはアウグスティヌス隠修修道会に入会した。これがルターの人生の転回点となった。毎日がラテン語の「詩篇」の朗読と聖書読みであった。6世紀以来集団修道院の理想は「清貧」、「貞潔」、「服従」に徹した。こうして葛藤に満ちた修道士生活であったが、1507年(24歳)ルターは司祭に叙された。13世紀以来哲学と神学において主流を占めたのは、トマス主義の「実在論」と、オッカムの「唯名論」であった。実在論は観念論として、人間総体の存在と本質を問うもので、唯名論はその反対論で人間総体とは名ばかり(唯名)で存在せず、存在するのは個々の個体であるとみる。個体こそ実在して、その実在は意思と能力によって確認されるというものであった。ルターが在席していたエルフェルト大学神学部はオッカムの学風で知られていた。神の前に立つ個体が意思と能力の限りを尽くして努力すれば救われるという救済論は人間中心主義の能動論である。それに対してルターはそうした努力に懐疑心を持ち葛藤に悩んでいた。1511年(28歳)修道会に命じられてルターは籍を創設間もない(ライプツィヒ大学に対抗して、1502年選帝侯により創設された)ヴィッテンベルグ大学に移した。そこの聖書教授となった。ルターは詩篇講義を受け持ち、神の義(正しさの神)について全く新しい認識を得たという。

2) ことばが動き始めたー95か条の提題

神の義とは人間に裁きを下す律法として正しい神を意味するものではなく、ルターは聖書は義を「解放」や「救い」や「福音」と結びつけていると解釈したのである。葛藤の原因であった恐ろしい裁きの神と救いの神が一致したことでルターの内面は解放された。語弊を畏れずにいえば、これは仏教において12世紀真言宗の自力本願から浄土宗の他力本願へ移ったことと似ている。日本では貴族祈祷仏教から大衆救済仏教への転換が12世紀に起きた。ルターは1513年(30歳)詩篇講義に続いてローマ書を取り上げた。ルターは人間存在の罪を狭い意味ではなく、神にふさわしくないとか神にそむくものという意味に捉えた。神の義から人間の罪へ論点を展開した。時は人文主義の時代で文献学的研究は相当流行しつつあり、ルターはローマ書に続いてガラヤ書、ヘブライ書を取り上げ、「神学的命題」を全面的に展開した。これを「十字架の神学」という。中世の神学は「栄光の神」を中心に構築されたが、「十字架の神学」とは凡そ栄光とかけはなれた無残で哀れなキリストの姿こそ、神の恵みと認める神学のことである。人間の自由意志に基づくと人は悪しか選ばない。 自分を徹底して無意味な存在と認識して、神の受難と十字架を受けいれるのである。無残なキリストの姿こそ神が人間に与える義であり、人間はその義を受け入れることで救われるという。こうしてルターは大衆の説教に町へ入った。説教師が「免罪符」のお札を渡している当時の状況に対して発言するということは、ローマ・カトリック教会の大きなシステムに対して疑義を提起することである。ルターは1517年(34歳)10月に、95か条の提題(贖宥の効力についての討論)を教会の扉に張り出した。宗教改革という大事件の幕開けである。「贖宥」とはいかにもドイツ的な商取引と刑罰の考えであった。損害・賠償・代理という慣習に基づいていた。それがローマ・カトリック教会の経済的収入と結びついた。免罪符の販売認可を教皇から得ると莫大な儲けにつながったようである。

3) ことばが前進するー教会との闘いへ

1518年4月(35歳)修道会はルターに神学討論を行なうように命じた。これは「ハイデルベルグ討論」と呼ばれる。 ルターは自らの神学構築に自信を持って、神学的提題と哲学的提題の2つの問題を掲げた。神学的提題は、@律法では人間は救われない、A人間の自由意志は悪を侵すだけである、B神の恵みは人間自身に絶望することから始まる、C神の恵みを得るにはキリストの十字架によってのみ与えられるを核心とした。こうしてルターは教会と全面戦争に入った。95か条の提題を時のローマ教皇レオ10世はドイツの田舎での論争ぐらいに考えていたが、一躍ルターは時の人となった。1518年から21年の4年間は教会との闘いとなった。1518年4月の「ハイデルベルグ討論」から始まり、同年10月カエタン枢機卿がアウグスブルグでルターを異端審問した。ここで大司教は教皇を頂点とするローマ・カトリック教会というシステムを根底から揺るがす主張である事を認識した。1519年(36歳)6月神学者ヨハン・エックが仕組んだ「ライプツィヒ討論」が2週間も行なわれた。エックは「ヤン・フスの火刑」を引いてルターを挑発した。教会の権威を認めない点でフスと同じでは無いかと詰問するエックに、ルターは「教会の歴史の中で、教皇も公会議も誤りを犯すことがあった」と言い切った。ルターは無誤謬神話で権威を保っていた教会に対する批難の言葉を出してしまった。こうして1521年1月教皇からついに「大破門」の教勅が発せられた。ルターの考えは選帝侯らの支持を得ていたので、高度に政治的な問題に発展し、1521年新皇帝カール5世はルターをウォルムスで開催される帝国議会に召喚し、「ウォルムス喚問」を行なった。ルターは主張の撤回を拒否し会場を後にしヴィッテンブルグへの帰途に着いた。皇帝はルターを帝国追放処分とした。ルターの身辺を心配した選帝侯らによって、帰途の途中のワルトブルグ城に匿われた。ワルトブルグ城ではルターは著作活動に専念し、そこでの最大の仕事である新約聖書のドイツ語翻訳に着手した。ルターはウルガタラテン語訳聖書、エラスムス新約聖書を基に翻訳を進め1522年(39歳)9月に選帝侯認可の形で出版された。ヴィテンブルグでは改革の努力が同僚の手によって続けられたが、カールシュタットの急進的改革は、修道院廃止や礼拝改革に突っ走り、市政は混乱状態になった。当時の世相を見ると14世紀から始まったルネッサンスは人間中心主義を理想とし、哲学の宗教からの離脱を始め、宗教からの解放を目指した文化運動となった。絵画、音楽、建築など総合的文化創造となる。

4) ことばが広がるー説教運動と著作活動

ヴィッテンベルグに帰還し、カールシュタットの急進的改革による町の混乱をルターは連続説法によって鎮静に導いた。ルターの宗教改革は教会との論戦で始まったが、宗教改革の具体的な形は、説教運動と著作活動で静かに広がった。宗教改革とはアジテーターのそれではなく信仰者の生き方を示すことであり、聖書のことばを通して民衆に伝えることであった。ルターの布教活動はグーテンベルグの活版印刷技術なしには考えられない。印刷と二人三脚で宗教改革が進行したといえる。宗教改革の時期に欧州で600万冊の書籍が発行されたが、ルターの著作はいずれもベストセラーを続け累計300万冊をこえる書籍が売れたらしい。ルターの著作活動のピークは1520年(37歳)であった。「宗教改革五大著作」が発刊された。@「善い行いについて」、A「ローマの教皇制について」、B「キリスト教界の改善について,ドイツの貴族に宛てて」、C「教会のバビロン捕囚について」、D「キリスト教者の自由について」である。Cを除いてすべてドイツ語で公刊された。説教活動、著作活動に続いて教会の慣習改革運動に取り掛かった。民衆運動としての宗教改革は必然的に倫理的な市民の生活運動指導として進行した。「礼拝改革」は懺悔ではなく、神が人間に奉仕する場として考えられた。教会はコミュニケーションと人の楽しみの場でもあった。賛美歌を収集し教会に集まる人々が歌う事を始めたのがルターである。1524年(41歳)グレゴリー聖歌、詩篇などの讃美歌集が発行された。民衆運動としての宗教改革には聖書を読み聞かせる受動的な「ことばの運動」と、メッセージを声を出して歌う能動的な「歌声運動」が定着した。コラール、モテット(合唱曲)など後年のバッハの作曲になる分野はルターが作ったのである。17世紀から18世紀前半にかけてバッハのオルガン曲、カンタータ曲、受難曲、オラトリオなどの傑作は人類への遺産となっているが、それもルターが基を作ったからである。ルターは学校教育の改革も手がけた。1524年「ドイツの参事会員に宛てて、キリスト教的学校の設立について」で呼びかけた。「子どもを学校に送ることの説教」は親の教育の義務を説いたものである。又修道院制度を徹底的に批判し、自ら剃髪を廃止し、修道服を脱ぎ捨て結婚した。日本でいうと親鸞に相当する。

5) ことばを受けとめるー宗教改革の悩み

ローマ・カトリック教会という巨大なシステムや熱狂主義という急進分派との戦いにルターは悩まされた。また人文主義者のエラスムス(1467―1536年)の人間理性主義にルターは一定の距離を置いていた。1524年(41歳)エラスムスは「評論 自由意志について」という本においてルターの義に対する見解をまとめて,討論を呼びかけた。人間の進歩を信じるエラスムスが信仰を強調するルータへの討論であったが、ルターは殆ど相手にしなかったようだ。ルターの改革を契機に社会全体が流動してくると、各地で要求を掲げた農民運動・一揆が起り全国化の勢いをみせた。1525年南ドイツの農民は12か条の宗教的・社会的要求を掲げた。これに対してルターは農民への「勧告」を書き、諸侯の責任を指摘し、農民には平和的解決を呼びかけた。農民が暴動化してゆくためルターはついに農民を批難し、諸侯に暴徒の鎮圧を求めた。これがドイツ農民戦争となって農民の虐殺に繋がった。このため南ドイツでは宗教改革への支持を失った。南ドイツにはルター改革は浸透しなかった。またユダヤ人問題についても、いずれはキリスト教に集約されるはずだと考え,頑迷なユダヤ人を批難したことが、400年後にはナチスの反ユダヤ主義に利用されるはめとなった。これらはルターの限界であると同時に歴史の皮肉でもある。宗教改革者としてのほかにルターには神学者として研究と教育にも力を注いだ。1534年(51歳)旧約聖書のドイツ語訳が刊行された。ドイツ語訳新約・旧約聖書の普及とともに、期せずしてザクセン地方のドイツ語が全ドイツに普及して標準化されていったのである。ルターは標準ドイツ語の誕生にも一役買ったのである。ルターの宗教改革的発見は聖書を掟の書とは見ないで、神学的には「律法」と「福音」の2通りのことばで人間に語りかけているとみるのである。ルターは受動的な受け入れ(他力本願)を強調したといえる。

1520年代諸侯や都市ではルターの改革を導入し、その勢力は北ドイツの大部分に広がった。フランスとの抗争に明け暮れていた皇帝カール5世はいよいよドイツ国内の宗教改革に終止符をうたなければならなくなった。1529年帝国議会の決議に反対した諸侯達をとらえて、カトリック側が「プロテスタント(反対派)」と呼んだことから、カルヴィン派も含む改革派全体が「プロテスタント」と総称された。この議会に改革派は「アウグスブルグ信仰告白」を提出し、これはルーテル教会の基本的立場を示す文書となった。両者の対立はますます深まり、プロテスタント側諸侯とカトリック側諸侯はそれぞれ軍事同盟を結び、1546年(63歳 逝去の年)についに軍事衝突に進展した。カール5世皇帝はカトリック側に立ち戦争には勝利したが、プロテスタント諸侯を屈服させることはできなかった。この決着はルターがなくなって10年後の1555年の「アウグスブルグ宗教和議」(諸侯が決定する領土内教派を認めるという、教派属地権)まで待たなければならなかった。1539年から刊行を始めた「ルター ドイツ語茶作全集」、「ルター ラテン語著作全集」の自序において、ルターは聖書の読み方を3か条にまとめた。
@ 聖書は祈りを以って読むべきだ。
A 聖書は黙想して読むべきだ。
B 聖書は試練を以って読むべきだ。


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