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渡辺 靖著 「アメリカン・デモクラシーの逆説」 

 岩波新書 (2010年10月)

空洞化するアメリカ民主主義の転倒状況の社会人類学

著者渡辺 靖氏は始めてお目にかかるので、まず氏のプロフィールを本書末尾よりまとめておこう。1967年生まれ、1990年に上智大学外国語学部卒業後渡米留学し、 1992年ハーバード大学大学院東アジア地域研究科修士課程を修了し、 1997年にハーバード大学大学院人類学部博士課程を卒業した。博士論文をもとに執筆した処女作『アフター・アメリカ ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>』は、各界に話題を引き起こしいくつもの賞を受けた。現在は慶應義塾大学環境情報学部教授兼政策・メディア研究科委員である。専攻は文化人類学、アメリカ研究、文化政策で、感性豊かなフィールド研究に定評がある。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞で文化・オピニオンコラムを担当している。主な著書には「アフターアメリカ」(慶應義塾出版会)、「アメリカン・コミュニティ」(新潮社)、「アメリカン・センター」(岩波書店)などがある。著者の経歴から7年間の長いハーバード大学留学がこの人の特徴を決定したと考えられる。しかもアメリカの底辺ではなく主流である「ボストンのバラモン」と呼ばれるエスタブリッシュメント階級に入り込んだ調査研究をやってきたことで、アメリカ社会のトップ階層の考えに身近に接してきた。したがって、極端な反アメリカ論や、アメリカ人が読むと噴飯ものの内容ではなく、「アメリカ人が読んでも納得の行くアメリカ論」を展開することが本書の目的である。著者はアメリカ論が専攻というよりも、学問分野としては人類学、人間学に対する関心が強く、アメリカはそのフィールドのひとつという意識でやっているそうだ。ハーバード大学ではヤルマン教授、故ルイス教授から「アメリカ社会の主流にいる人たちの事を研究すること」を望まれた。

「権威主義や形式主義とは無縁の自由な精神に導かれたアメリカを敬愛してやまない」という著者は本書で着目したのが、苦悩するアメリカ社会の「逆説」である。逆説とは想いとは裏腹な関係にある現実の事であり、明確に意識すればダブルスタンダードのことであり、目的と手段がいつの間にか転倒していることである。そして本書の下敷きになっている本がある。それは古典的名著といわれるフランス19世紀前半の政治哲学者アレクシス・ド・トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」である。トクヴィルはアメリカ人の重大な特徴は、欠点を自ら矯正する能力を持っていることだと述べる一方、トクヴィルは社会的紐帯や共同体の分断を懸念し、「多数派の専制」を予感している。そういう意味で本書はトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」の21世紀版かもしれないし、本書のいたるところでトクヴィルの主張が引用されている。なおトクヴィルの民主主義への懸念については富永茂樹著 「トクヴィルー現代へのまなざし」(岩波新書)に詳しい。

本書は最初2008年のオバマ大統領の理念から始まる。2008年の大統領選の経過とオバマの演説の意義そして半年間の大統領施策の評価については砂田一郎著 「オバマは何を変えるか」(岩波新書)に詳しい。本書はオバマの具体的政策よりは、オバマの理念・理想を問題としている。そこでオバマが何をなしたかではなく、オバマ大統領が登場してきたことの意義をアメリカの民主主義の流れの中で議論することであろう。オバマはアメリカに「不同意」が存在する事を認識し(不同意への同意)、ひとつのアメリカへ向けた決意を語った。オバマは、現代アメリカを蝕み続けた「分断の政治」を超克し、理念の共和国というアメリカの理想と伝統を志向するものであり、これまで多くの大統領が言って来た「アメリカの原点」への回帰である。2008年11月4日、大統領選に勝利してオバマは早速共和党への気配りを見せた。「共和党とは、自助自立に個人の自由、そして国の統一という価値観を掲げた政党です」と国民の和合を訴えた。

アメリカにおいてはこれまで共和党と民主党の政権交代は何回もあったが、左右の政策の軌道修正に過ぎず、相手の否定には及ばない。すなわち共和党と民主党の価値観は基本的に同じである。アメリカは1776年の建国以来連邦政府の独裁を防止する様々な仕掛けを憲法草案に盛り込んだ。1861年に始まる南北戦争では北部の商工業と南部の農業勢力が対立したが、保護貿易や国立銀行をもとめる北軍が勝利した。南北戦争後は北部主導の国家的統一が進み、アメリカは近代国家として急成長した。ところが共和党の自由放任主義は1929年の金融恐慌を招いて、社会的弱者救済と公正で自由な社会への軌道修正を図るルーズベルト大統領の「ニューディール政策」が取って代った。リベラリズムとは第2次世界大戦後の福祉国家(修正資本主義)や1960年代の公民権運動を下支えした民主党を担い手とした政治思潮である。アメリカでは「保守主義」も「リベラリズム」も自由主義を前提としており、もともとイデオロギーの幅は狭い。保守主義は自由主義右派に過ぎず、リベラリズムは自由主義左派といえる。1980年代のレーガンニズムの「保守大連合」とは、@強いアメリカを目指すネオコン、新保守主義、A小さな政府をめざすネオリベラリズム、新自由主義、B伝統的価値を重んじる宗教右派、C穏健保守の寄り合い世帯であった。最大公約数はセルフガバナンス(自己統治)という考え方である。

格調の高い演説をするのがアメリカ大統領就任演説だとすれば、理念理想のないのが日本の首相の就任演説である。一見相反する立場を折衷させるオバマの思考や手法は本体民主党の多元的価値の是認という開かれたものである。オバマはノーベル平和賞受賞演説で「人間の不完全さと理性の限界という歴史を認める」と述べたが、理想と現実のギャップの深淵は深くて暗い。アメリカにおける保守的潮流の根強さは、日本で想像するより容易には「変革」しないようだ。保守は「リベラル」を、「大きな政府」、「左翼」、「エリート主義」として批難・忌避している。2010年のギャラップ調査によると、過去18年間の国民の保守派、穏健派、リベラル派支持率は40%、40%、20%とほぼ一定している。これは付和雷同的な日本の政党支持率の世論調査結果とは隔絶した現象である。アメリカ人の思考の根源的な性質であろうか。もちろんアメリカの中間票である穏健派がどちらに就くかで共和、民主の支持率が変わるのである。

2005年8月末過去最大級のハリケーン「カトリーナ」がニューオリンズ市を襲い、黒人らが住む地域が壊滅的被害を受けたことは記憶に新しい。同じくハリケーンの襲来を受けているフロリダ州では救急や復興は比較的早いが、ニューオリンズのあるルイジアナ州で個人所得が全米で最も少ない(貧困層が多い)州で自己復興能力が乏しく、共和党の牙城である事から政党の競争になる事はなく注目度の低い政治的配慮を得難い環境である。人口動態統計によると、アメリカ国民のうち貧困層(年間所得200万円以下)は12.3%、黒人では24%であった。ニューオリンズでは黒人が人口の2/3を占め、貧困層は30%に達している。そして彼らが住む「低所得者向け団地」は犯罪と麻薬の温床と揶揄されるが、強制退去命令が出ると銃を持って反抗したのがこの地区の住民であった。鬱積していた政府への不信感が爆発したようだ。ルイジアナ州はもともとフランス系植民地であったこと、黒人比率が2/3を占め、クレオール化(イギリス系住民以外の混交)が進んでおり、カトリック教徒が多いためか、ワスプ(アングロサクソン系の白人プロテスタント)にたいする反感は実に根深いものがあった。「われわれはアメリカではないのか」とブッシュの非常事態宣言地域から漏れた恨みは想像を絶する。2001年の同時多発テロ以降、世界に向けて希望や楽観主義ではなく、恐怖や怒りをばら撒くアメリカ外交は、自由を謳いあげるアメリカの主張に鑑みて、それらはあまりに逆説的な現実である。カトリーナが投げかけたのは、貧困と人種差別といった次元のみならず、アメリカの民主主義の根源にかかわる問いかけであった。本書は、@政治不信、Aセキュリティ、B多様性のあり方、Cアメリカの理想の再考を述べているので、それに従ってまとめる。

1) 政治不信の根源

アル・ゴア元副大統領(クリントンの時の8年間)はその著「理性の奪還」において、2003年のイラク戦争開始の少し前、上院においていイラク戦争の是非を議論することがなく沈黙していた理由を解析してこういった。「上院議員は議会にいるより政治資金集めのイヴェントに忙しかった。その目的はテレビコマーシャル枠を買う資金が欲しかったのである。イラク戦争を議論する発言は関心を引かないと考えたからだ」 かくも議員の政治資金は膨大になっている。2008年大統領選でオバマが集めた資金はアメリカ大統領選史上最高の約600億円である。政治資金で大統領の座を得たと一義的にはいわないが、政治資金がなければ闘えないことも確かである。オバマは特定業界と癒着している印象を避けるため業界の政治活動委員会PACからの献金を受けず、また公的政治資金助成には上限額が定められているのでこれも辞退して、純粋に個人献金だけで資金を集めた(オバマの選挙資金全体の88%を占める)といわれる。政治資金制度はいくらよく作られていても結局は歪なものになってしまう。選挙活動の主流が高価なテレビ広告を買うことであるかぎり、金がアメリカの政治を支配するのである。選挙戦が巨大ビジネス化している現状はオバマ政権でも何ら変わっていない。なぜ個人献金が活発なのかというと、政党の縛りそのものが弱く、個人候補者の資金力や組織力、イメージ戦略がものをいうからである。これにはアメリカ社会の政治風土(自治と独立を重んじる)によるところがおおきい。裕福者の献金なくしては選挙は戦えず、裕福者は税金に取られるくらいなら税金を安くしてくれる候補者を勝たせて政治に影響力を持つ事を選ぶのである。個人献金は諸刃の剣である。

アメリカでは、政治への圧力団体として優秀なブレーンを集めたロビイストの存在が著名である。オバマ大統領はロビイストの影響力を排除することを変革のひとつに挙げている。それはアメリカの金権政治の根深さの証左である。異なる利害関係を持つ人々(ステーキホルダー)が団結して政治に影響力を及ぼすことは民主主義の基本である。結社こそアメリカ政治の行動力を保証すると見られている。ロビイスト登録をして活動している人は2009年で1万4000人、活動資金は3000億円ほどである。ロビイストの雇用者は富裕層である。富裕層からすると、アメリカ人の10%を占める富裕層が連邦税金の55%を負担しているが、連邦予算の60%の受益者は殆どが貧困層と中間層であるので、富裕層の利益を代表するロビイストの活動は公正な行為であると云う。銃規制に反対する全米ライフル協会の活動や、オバマの公的健康保険制度に反対する保険業界のロビイストの活動は有名である。1990年以降の新自由主義(市場主義)では、政府による規制よりも市場による調整に期待する発想が強まり、政府事業の民営化が進んだ。これに対して、自由市場主義経済への強い信奉がある一方で、それに伴うリスクを懸念が表明されるのもアメリカの伝統である。ライシュは法人資本主義を批判して、「人間に帰属している義務と権利が企業にも付与されている点こそが、民主的な意思決定プロセスを歪めている」という。こういう発言は法人資本主義天国の日本では滅多に聞けない意見である。奥村宏著「法人資本主義ー会社本位の体系」(朝日文庫1991)で、法人制度は日本資本主義の強さの秘密であるといっている。岩井克人著「21世紀の資本主義」(ちくま学芸文庫2006)では、アメリカ人は法人資本主義をウス気味悪いものと感じているという。岩井氏は「法人は資本家に対してはモノであるが、資産に対してはヒトとして振舞うという両義性を持つ鵺的存在である。米国資本主義はこの法人に対して拒否反応をする。ある意味では法人は最も進んだ形の資本主義形態かもしれない」というのである。

1970年代まで続いた「ニューディール・コンセンサス」においては、共和党と民主党の違いは殆ど無く、「コーラかペプシか」の程度であった。しかし1980年代より出現したレーガニズム(新保守主義・新自由主義)は、共和党のアイデンティティを「文化面」からことさら強調して確立した。保守派=共和党、リベラル派=民主党というラベル化が顕著になり、小さな政府、規制緩和、民営化、自己責任をキーワードとする新自由主義が潮流となった。1990年代のクリントン民主党政権は中道路線(右転回)を余儀なくされた。増税は政治的タブーとなり、個人所有に占める税金の割合は9.2%と過去最低となった。共和党は文化政策をますます先鋭化させ、人工妊娠中絶、積極的差別是正措置、銃規制、死刑、同性愛、ES細胞研究、インテリジェント・デザイン、安楽死などが政治化された。これは妥協を許さない一種のリトマス試験紙となった。そして共和党は「民主党は内政では社会主義的で外交は弱腰、文化面では信仰や価値を軽んじるエリート主義の政党」という批難を強めた。オバマ政権になっても共和党の攻撃は手を緩めない。医療保険改革に反対する保守系議員の選挙区ほど無保険者が多いという逆説(ジレンマ)が多く見られた。「医療保険は政府の規模と権力を拡げ、財政赤字を拡大し増税を招く」というロビイストの宣伝が浸透し、改革を骨抜きにした。これがアメリカ人の政治感覚なのだ。アメリカ人の政府への信頼度は共和党政権では低下し、民主党政権では上昇するというパターンを繰り返している。選挙に膨大な金が必要なことと小選挙区制と総取り方式のため、共和・民主以外の第3政党が進出することは極めて困難な状況であり、これが閉塞感をもたらしている。共和党のアイデンティティ戦略である妥協を許さない文化価値論(宗教原理主義)は対立を先鋭化し、身近な領域に政治空間が侵入し閉塞感とシオニズムの温床となった。二大政党最大のメリットである「民意に基づく政権交代」の意義が薄まりつつある。

集票戦術はマーケティング理論(世論調査と個人情報収集)が支配して、「民主主義といわれるものの実態に、ある程度は被統治者の同意、すなわち国民の意見はCMの最高落札者によって購入される商品になりつつある」とゴアをして憂慮せしめる状況である。この超資本主義(市場経済主義)に第4の権力といわれるメディアが包摂されつつある。1987年より企業によるメディア買占めが可能になり、放送局や新聞社は巨大資本に吸収統合されている。そこでは記者、報道内容、予算、調査取材が減って、編集局と経営の境界がなくなりつつあり、政府筋の情報、CMばかりが増加した。こうして権力監視の機能が低下し、ブッシュ政権の戦争に対して批判どころか愛国主義で塗りつぶされた。民意を把握する手段としてのサンプル数の少ない安上がりの世論調査が横行し、そうした日々の世論調査が逆に世論を構成し、政治を動かすことになった。日本でも執拗な首相支持率調査が首相退陣を促し、政党支持率世論調査が出来たばかりの政権交代を促している。世論とはメデイアの世論誘導に素直に従がう羊の群にすぎない。

2) セキュリティのパラノイア

ロスアンゲルス南方のオレンジ郡(ジョンウエイン空港で有名)に「コト・デ・カザ」という広大な面積を城壁で囲われた住宅地がある。私もオレンジ郡アーバインにあるUCI(カルフォニア大学アーバイン校)によく出向いたことがあり、モールへの買い物やゴルフへ行く途中で、この城壁の町を垣間見たことがある。門はゲートで閉じられ、守衛が見張りをし、広い道路が町を貫いていた。住民は1万4000人、住民の85%は白人、平均年収も高いという。いわば超裕福層のお屋敷街であるが、見かけは中世の要塞都市である。これを「ゲーテッド・コミュニティ」と呼ぶ。全米で5万箇所、人口は2000万人以上でアメリカ人口の約1/10になろうとしている。アメリカでは原則、行政指導ではなく、住民の自発的意思で街づくりが行なわれる。公的サービスに期待しないのである。学校から公園、道路にいたるまで私的な管理組織(マンションの所有者組合のように)が共有財産に関するルールを決める、いわば「半自治体」といって過言ではない。危険な外部から閉ざされた空間や関係のなかでセキュリティを希求している点は、「メガチャーチ」といわれる。スモールタウン化した巨大教会には学校、託児所、美容室、住居、ホテル、レストラン、映画館、スポーツ施設を備えたモールがある。マーケティングの手法が聖なる空間まで浸透し、宗教活動の場を構成するに至った。「ゲーテッド・コミュニティ」や「メガチャーチ」は新しい中世であり、新自由主義によってもたらされた公共性の貧困を補うかのように作られたセキュリティ空間であると同時に、その運営は新自由主義手法が負うというきわめて逆説的なコミュニティである。

アメリカはもともと格差社会であったが、ニューディール時代から格差縮小に向かい1950年ごろにはかなり平等な社会が達成されていた。レーガン、ブッシュ政権では税制の累進性が減り金融のグローバル化によってほんの一握りの富裕層への富の集中が顕著になった。ピュリッツアー賞受賞のシプラー著「ワーキングプアー」がこの状況を見事に描き出している。アメリカの上位0.01%と下位90%の所得格差は第2次世界大戦後から1980年まで200倍で安定していたが、1980年代から急速に格差が拡大し、いまや1000倍になっている。2009年の貧困率は14%、健康保険を持っていない人の割合は17%であった。アメリカンドリームは一握りの人間を除いて完全に破壊された。ブッシュ政権下のアメリカは南北戦争後の「金ピカ時代」の格差レベルに戻ったといわれる。アメリカの貧困からの脱出が容易でない理由は、経済的次元のみでは説明がつかないほど複雑で、「自己責任論」か「市場の失敗」かの2者択一論ではかたがつかない。黒人系アメリカ人のオバマ大統領が出現したことはかってないほどの大事件であるが、オバマが黒人である事を出来るだけ表に出さず「ひとつのアメリカ」を主張したこと自体にカラーラインに重さを感じる。大統領選で人種やジェンダーは克服されたのではなく、単に回避されただけかもしれない。アメリカ社会の分断は労働組合に及び労働条件の改善と既得権の保守傾向は、新移民が低賃金への引き潮になる事を畏れている。アメリカの製造業は190年代に急速に衰退し、いまや10%にすぎない。そして国内に残存する労働市場に新移民や不法移民が侵入したので、激しい競争が起きるのは当然である。アメリカ社会のカラーラインは白人が75%、黒人が12%、ヒスパニックが14.5%、ユダヤ系が2%、アジア系が4.3%、原住アメリカ人系が0.8%(2005年)である。もちろんマイノリティといっても一括理に論じることは出来ない。黒人の富裕層は17%、中流層は37%、貧困層は46%である。「積極的差別是正措置」を拒否する黒人も多いらしい。たしかにいまだにギャング、麻薬、酒に溺れる黒人も多いことは事実である。

新自由主義(レーガニズム)が興った1980年代から監獄に収監される犯罪者の数が急増し、いまや全米で250万人を越えている。まさに「収監者列島」となった。貧困化と麻薬厳罰主義の結果である。収監者の7割は非白人で、黒人が半分を占めている。皮肉な話で過疎化した地方にとって、誘致すべき産業が監獄である。監獄だけでなく警備、矯正に関するセキュリティサービス産業はアメリカの三大民間雇用企業(マクドナルド、USP、ウオルマート)の総従業員数を上回った。地域における精神的つながりの断絶、行政に対する信頼の低下、監視社会化、正義の商品化、暴力、銃社会などは「恐怖の文化」に他ならない。自己責任という美名のもと、アメリカ社会におけるもうひとつのマイナスの公共文化は、不安、セキュティ欠如に追い詰められた精神の変調という病いに襲われている。そこには、鬱病にはじまり、小児の躁鬱病、弾性脱毛症、性機能障害、ADHDなど身体や精神に関して新たな病いが見られる。「未病」という病気もあるそうだ。新しい定義によるとアメリカ人の1/4は精神疾患を患って居る事になる。これらの文化現象は製薬会社の市場操作も加わっているようだ。病は健康の反対語ではなく、病が常態であり私達は症状や発症をいかに制御するかという製薬業界の構図にはめ込まれているのではないだろうか。アメリカ人のサプリメント好き、薬好きは有名である。自己責任を強調する新自由主義の理念そのものが、まさに新自由主義市場に操られているという逆説であろうか。自分が所属する社会の解体という近代化そのものに伴うジレンマも数多く存在する。個人の権利を保護維持するために、法律的手続きに個人が埋め尽くされるという「官僚的個人主義」とか「訴訟社会」という法律ビジネスの隆盛もそれを象徴している。アメリカ社会において個人主義の窮状は正に逆説である。

3) 多様性の行き着く先

生き方の多様性という意味では、個人は決して外部環境が100%規定するものではなく、能動的に加わることで新しいタイプの社会関係を構築することが出来る。著者は「ボストンのバラモン」といわれる「ワスプ中のワスプ」という家族のフィールド調査を行い、伝統的・支配的な秩序を自身の手で破壊する者もおれば、自らの属する階級の独自性や卓越性を維持再生すべ象徴資本に投資するモデルもあったという。そこでは個人が家族に従属するのではなく、家族が個人の自己構築のためのリソースナなりつつある姿を見たのである。アメリカの政治風土や精神風土によって、個人が自らの信条と良心にしたがって行動することで、その結果社会全体の多様性が促されることが理想である。もちろんアメリカが多民族国家である事は論を待たない。毎年100万人以上の合法的移民が入国し、50万人の不法移民が流入し、その総数は2009年で1080万人であるという。決してひとつの考え方に収斂していかない多様性こそがアメリカ社会の特徴であり、強靭さの源泉であろう。

その反動として1980年代より社会保守派の政治的スローガン「家族の価値」が強調された。その家族の価値とは1950年代のジェンダー倫理を前提とするノスタルジアであった。新自由主義はさまざまな社会の紐帯を裁断するなかで、社会的なノスタルジアを喚起せざるを得ないとはこれも逆説であろう。宗教保守派は総人口の20-30%を占めるといわれるが、近年貧困やエイズ・気候変動・核拡散・反戦・反人種差別というテーマに関心を寄せる新宗教左派も生まれた。宗教の多様性という点では、アメリカにあっては政教分離とは信仰の自由を認めるものであり、宗教活動を排除するものではない。アメリカ人が最も信用しないのは無宗教であるという。ブッシュ政権下でキリスト教原理主義が誇張されて宣伝された。アメリカの保守主義はこうした原理主義的な強硬派と現実主義的な穏健派に二極化され、特に21世紀は強硬派に乗っ取られてしまった感がある。「愛国者運動」という人種主義「メタレイシズム」に傾く人もいる。多様性を歪めうるもうひとつの力は市場主義である。グローバリゼーションや市場原理主義をどこかで抑制する制度や規範が失われると、アメリカ社会の多様性を脅かしそして蝕んでゆく。

4) アメリカニズム再考

アメリカの繁栄を支えた様々な思想はどこまで普遍性があるのだろうかという事を検証するのが本章の目的である。アメリカの国内の多様性を脅かす原理主義と市場主義はグローバル化に乗って国外にも投影されてきた。「文化戦争」、「人権外交」、「反イスラム文明との闘い」などである。保守派の原理主義のみならずリベラル派の「多文化主義」にも一定の検討が必要である。公共的な道徳観にどこまで普遍性を持ちうるかということである。あめりかには自国の多様性と世界の多様性を同一視する傾向がある。事故を世界の縮図とみなして、自己の経験を他に及ぼそうとする。アメリカだけは例外であると云う「アメリカニズム」は抜き難い基盤をなしてきた。アメリカは建国以来、自由、平等、人権、法の支配という啓蒙思想に基づく普遍性の高い理念に根ざしていることが特徴である。その根底には強烈な自意識がある事は疑いない。トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」は1930年代はファッシズム批判として、1950年代はマッカーシズム批判としてリベラル派じゃら広い支持を得てきた。近年では市民社会の再建という論点で再評価が進んでいる。逆に保守派からは左翼として批難されてきた。今やネオコン批判としてトクヴィルをみる人も多い。アメリカが世界で自らが掲げる理念に叛く行動を展開してきたという批判は、アメリカ例外主義やアメリカニズムは正義と普遍性を装った偽善や過信に矮小化され、説得力を失ったという。中南米での独裁政権?覆や秘密作戦はは冷戦期の「自由の帝国」の逆説であった。

モンテスキュー著 「ローマ人盛衰論」(岩波文庫)で議論されたように、共和国から古典的帝国への親和性がローマを滅ぼしたという。自らの思想や理想の優位性を他者へ及ぼそうとする誘惑(動的原理)はアメリカについてもいえる。植民地的帝国こそ取らなかったとはいえ、冷戦以後の「新世界秩序」を求めるアメリカの覇権は急速にグローバル化した。「テロとの戦い」、「文明の戦い」というレトリックは国内の厳罰主義を連動して国際政治を動かす「金科玉条」のお題目となったが、イギリスは戦友として引きづられ、日本は莫大な戦費を負担させられ、アフガニスタン・イラクは廃土と化した。ミードはアメリカの外交政策には4つの特徴があるという。
@ 国益と通商の実利を巧みに追求するハミルトン主義
A 国益追及には威嚇的手段も辞さないジャクソン主義
B 普遍的理想で世界を先導しようとするウイルソン主義
C 世界の範たることを目指すジェファーソン主義
いずれにせよ神学者ニーバーが懸念するように「長所も頼りにしすぎると 、皮肉なことに短所に変わる傾向がある」という逆説(陥穽)にはまるのである。アメリカの思想でことに面白いのは、反米という思想はかならずアメリカ内で生まれることである。他国のひとがアメリカを批難する時、きっとアメリカ人が書いたものを参照せざるを得ないのである。さほどアメリカ人は思想的に多岐にわたり、かつ先進的である。反米主義もアメリカ内のひとつの原理主義かもしれない。反米で思考停止しているとアメリカ人に笑われるほど、アメリカ人は既にその先を議論しているのである。アメリカが海外から借金をして消費を続け、世界経済を成長させる役割、いわゆる「世界の最終消費市場」としての役割が維持困難となったときこそ、世界経済の破綻である。そのときには中国も日本もあったものではない。アメリカは世界130カ国に700以上の基地を持つ世界警察国家である。日本や周辺諸国は米軍のプレゼンス維持を不可欠とみなしている。

最後にもうひとつの逆説は、アメリカの影響力がグローバル化する一方、アメリカもまたグローバル化の影響を受けているのである。思想家アントニオ・ネグリらは「帝国とはグローバル資本主義による新たな支配のあり方であり、領土や境界を持たない国家を包摂する新たなグローバルな権力またはネットワーク」だと定義する。つまりグローバル資本主義にとってアメリカも一地方に過ぎないのである。トクヴィルはアメリカ人の特徴を自ら矯正できる能力であると云う。オバマ大統領の出現はやはり市民的な統合原理の健在とアメリカ民主主義における自己修正力の健在を示すのではないかと著者は思うのである。


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