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モンテスキュー著 「ローマ人盛衰原因論」

  田中治男・栗田伸子訳  岩波文庫(1989年7月)

ローマはなぜ滅びたか、共和制から帝政への移行が滅亡の原因

シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(1689年 - 1755年)は、啓蒙期のフランスの哲学者・政治思想家である。「法の精神」を著わした人といっても、もう普通の人には馴染が薄いほど古典に属する啓蒙思想家である。簡単にモンテスキューのことを振りかえっておこう。母の遺産を継いでラ・ブレード男爵となる。25歳でボルドーの高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継ぐ。しかし実務面には関心がなく、1726年、37歳で辞職。1721年には『ペルシア人の手紙』、1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し政治権力を分割し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。法とは「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたといわれる著作『法の精神』で、権力を立法・行政・司法に分割する三権分立論を唱えた。「社会学の父 」 といわれる。1734年に刊行された「ローマ人盛衰原因論」は、これと同時期に書かれた「ヨーロッパにおける普遍的王国についての省察」、「スペインの富についての省察」などとともに、「法の精神」の準備期の作品と位置づけられている。1716年の「ローマ人の宗教政策」や、「キケロ論」、「スラとエウクラテスとの対話」などローマ世界への深い関心に基づいている。「人は決してローマ人から離れることは出来ない」とモンテスキューは「法の精神」に書いている。モンテスキューおよびヨーロッパの啓蒙思想は古代ギリシャ・ローマに源をおくことはいうまでもない。

本書は厳密な意味で歴史を書こうとしたのではない。モンテスキューの問題意識はフランス王朝時代に対する啓蒙思想の課題と堅く結びついている。「ヨーロッパにおける普遍的王国についての省察」においてモンテスキューが問題としたのは、同時代のヨーロッパにおける帝国形成の不可能性である。モンテスキューは、ローマが都市的共和制から軍事的拡大により版図を広げて帝国的支配を確立してゆくにつれ、政治的自由を失い専制と隷属に陥ってゆく過程をあぶりだそうとするのである。そして「権力欲を増し、一切を欲する」人間精神一般のありかたが考察の対象となる。ローマの帝政において皇帝を直接に決定する力を持っていたのは軍団であった。共和制以来絶えざる戦争によって拡大してきたローマはまさに軍人政治であった。帝国は4世紀に分裂して、西ローマ帝国は4百年、東ローマ帝国は1千年以上も続いた。帝国は膨張し、数多くの異民族を取り込み、東から、北からの異民族と対決しなければならなくなったことによって帝国は遠心力によって拡散消滅したようである。本書においてモンテスキューは18世紀当時ヨーロッパの帝国形成の危険性をプロイセンに見ている。しかしヨーロッパにおける商業と地球的航海圏の拡大により、諸国家間に平和的な関係構築の機運も期待している。ローマは本質的に商業国家ではなく、戦争と征服の精神に溢れた軍人国家である。それはモンテスキューの後にでたナポレオン的軍事的簒奪と征服国家である。モンテスキューが期待するところは、戦争と征服から商業的国家への移行のうちに新しい世界秩序の可能性を見たいというのが、フランス啓蒙思想の一側面であった。本書におけるキリスト教にたいするモンテスキューの取り扱いはいかにもおざなりで、ローマにとって周辺的事柄として軽く扱われている。ヨーロッパの中世の暗黒はキリスト教による俗世界の支配からきており、ここからの脱出が欧州近代化の中心的事項であったはずなのでちょっと不満が残るところである。

ヨーロッパ近代化の幕開けの同時代に、マキャベリーの「ローマ史論」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が書かれている。マキャベリーの「ローマ史論」を貫いている基本思想は、政治における「自由」の概念である。政治の究極の目的は、国民に自由を保障することにある、そういう意味ではモンテスキューとマキャヴェリは似ている。モンテスキューは「ローマ人盛衰原因論」において、伝説の王の時代から東ローマ帝国の滅亡までの全歴史を概説し、史料からは超越した政治的意図をもってローマ史から教訓を引き出そうとした。2000年以上のローマ史を唯一の論点から見てゆくこと自体、歴史主義の行き過ぎではなかろうか。ひとつの民族の歴史が弁証法的に展開してきているわけではない。そういう意味で「盛衰原因論」としてはやや尻切れ蜻蛉である。本書はローマ史として即物的軍事史的である。軍国ローマの戦争技術と普段の訓練、土地の均等分配だけで共和国ローマの興隆を見る。異民族支配の方法が「分割して統治せよ」の原則として描かれる。共和国ローマの内政は貴族と平民の不断の闘争として、人民、元老院、護民官、戸口総監など諸権限のバランスによって各権限のチェックと分権が維持された様子が描かれている。こうして共和制ローマの興隆の原因は、「自由な、常に活発な政府は、その固有の法律を通じて、自ら矯正してゆく能力をもっている事にあった」という結論である。そのような共和制もポエニ戦争以降、内乱と帝政への道を歩む。各勢力のバランスが一方的に崩れたのではなく、植民地を多く抱えたローマ市民が自己の要求を手っ取り早く叶えさせるために、護民官を通じてではなくイタリアの外を支配している軍隊や将軍たちと直接取引を行ったため、権力内部が空洞化し自己バランスのメカニズムが崩れた。こうして軍人政治家が権力の前面にでて他方を圧倒した状態が生まれたことがローマ共和制の滅亡の原因である。帝政においては軍隊の人気投票で皇帝が選ばれる習慣となり、暗愚な皇帝はすぐに首を挿げ替え、そして広大な領地を支配するため複数の皇帝が立つようになってローマ帝国が分裂した。普段の闘争を通じて自由を獲得してきた共和制から、お任せの皇帝に政治を期待したがために、自由が制限され隷従の秩序と平和の時代が訪れた。モンテスキューは歴史の一般的展開について、一種の必然性のようなものを感じていたようだ。共和制や帝政といった政体は、偶然や個人の主観的決断によって決定されるのではなく、社会と自然に依って規定される範囲でしか動かないという歴史発展の法則性が意識されていたようである。そのことをモンテスキューは「ただ一度の戦闘で国家が破滅しなければならない一般的原因があったといえる。ようするに主要な傾向があらゆる個別的な出来事を引き起こすのである」と述べている。モンテスキューの史観には「土地の均等分配」以外には、社会経済的要因が検討されていないのが残念である。それもモンテスキューが生きた時代はまだ重商主義と経済概念が出現していなかったため、そういう見方が出来なかったのは時代の子である以上しかたが無い。本書は伝説王時代から共和制の終りまでの前半(第1章ー第12章)と、アウグストゥスの帝政開始から東ローマ帝国滅亡までの後半(第13章ー第23章)からなる。大体紀元前(共和制)と紀元後(帝政)の年代に分割される。歴史的に面白いのは共和制であると思うのは私一人ではあるまい。共和制の歴史と皇帝時代の歴史にわけてまとめよう。

前半 伝説時代から共和制ローマの興隆

1) 伝承時代のローマの歴史は、紀元前BC573年ロムルスのローマ建国に始まり、BC8-6世紀は王の時代であった。ロムルスとその後継者のローマ王は、近隣諸国と絶えず戦争をしていた。いつの時代も略奪と征服は最も手っ取り早く財を蓄積する方法であったからだ。都市は農作物や家畜の群を入れる倉庫であったし、周辺部族への戦争は凱旋式という名誉を獲得する手段でもあった。ローマはサルビニ人との同盟でによってその勢力を大きく拡大してきた。第2代王ヌマの統治(BC715-673年)は長く平和な時代であったという。ローマの繁栄の原因のひとつはその王たちがすべて偉大な人物であったという記録で埋められている。第5代王タルクイニウス(BC619−579年)から第7代王までは世襲制で、元老院や人民によって選ばれたわけではなかった。その息子セクストゥス王の暴虐により人民は革命を起こして王を追放して、BC509年よりローマは共和国となった。任期1年制の「執政官制」をとりこれよりローマはさらに隆盛を向かえることになった。任期1年で執政官となった者は名声を得ようと政務に励み野心的であった。ローマは商船による商業国家ではなく、戦争だけが富を得る手段であった。戦利品は共有とされ、誓約を守るモラルの高い民族で、人民も戦争の利益に与った。絶えざる戦争により戦争技術の深い知識を体得しており、戦勝者としてでなければ滅して講和を結ぶことはなかったという。当時の戦争は都市を完全に破壊しつくすという殲滅戦ではなく、平地で優劣を決するだけで負ければ都市に後退したので、決定的に勝つことはなかった。従って絶えず戦争を行い、いつも貧乏であったために、戦利品で堕落することもなかったという。イタリアの周辺都市の民族はそれほど好戦的ではなく、享楽的な生活を送っていたので、いつもローマの1人勝ちであった。ローマの強大化はその自由さにいかに負っていたかということは、BC450−449年の10人委員会の暴政という僅かな時期に衰退したことで分る。元老院は兵士に給料を払い、BC396年より10年間ウエイイ攻略戦が行われ、ローマの戦争戦術は一層進歩し、多くの植民地者を送り出すことになった。BC390年にはガリア人にローマを占領されたこともあり苦労も多かったし、BC343から298年にかけて3次にわたりサムニウム人から攻撃されたが、ローマは後退して反撃した。

2) ローマ人は戦争を唯一の産業技術と見なしていたので、自らの精神と思想を戦争に集中した。ひとつは兵士の体力向上と訓練である。そして軍事規律を強化し、BC340−338年のラテン同盟との戦いに勝利した。自尊心に満ち、誇り高く、命令することに自信を持ったローマ兵士は人民の仲から選抜され、建設した軍事道路(すべての道はローマに通ず)で迅速に移動し、周辺民族の肝を冷やした。ローマ人は自分より優位な兵器や戦術を取り入れることに柔軟で、ヌミディアの馬、クレタの弓、バレアレスの投石器、ロドスの船など直ちに異民族の利点を採用した。あれほどの慎重さで戦争を準備し、あれほどの大胆さでもって闘った民族はローマを置いて外にはなかった。ヨーロッパでは百万の民が1万以上の軍隊を持てば自滅することはわかっていた。古代ローマ共和国は土地を平等に分配したので、人民は強力になり、質素に耐えて兵隊を供給し続けた。共和国が堕落した時、富は少数の人間の手によって占められ、工芸品や奴隷に費やし、国家は富んだ人からの貢納で徴収して軍隊の維持に使うことになってしまった。共和国の初めローマの人口は44万人、成人公民は1/4であったという。人口が同じくらいのアテネと較べるとこの成人公民の数は5倍以上であった。ローマ人は幾度となくガリア人と戦争をした。ピュロス人はローマ人に砦や象を使う大きな戦争のやり方を教えた。アフリカのカルタゴはローマよりずっと早く栄えたが、早く堕落した。カルタゴは3度にわたるポエニ戦争(第1次:BC264−241年、第2次ハンニバル戦BC218−201年、第3次BC149−146年)を仕掛けて、ローマの強力な敵対勢力となっていた。ローマは法によって統治され、平民は元老院に指導を任せる共和制ほど強力なものはなかった。貴族と平民の力のすべてが政府の賢明さの結びついていた。カルタゴには党派の争いが強く、平民の戦闘意思は必ずしも高くはなかった。カルタゴ人は外国兵を利用したが、ローマは自国軍で戦った。そしてローマは征服した30の植民地からの兵士を組み込み70万人の軍隊となっていた。第2次ポエニ戦争はカルタゴのハンニバルが象にのってアルプス越えをしローマに肉薄し、ローマの将軍スキピオが迎え撃つという有名な戦争である。地中海沿岸のアフリカの政治は劣悪で彼らの都市は殆ど飢餓状態で闘う力は持っていなかった。アレクサンドリアの建設はカルタゴの商業を圧迫し、ギリシャとエジプトは世界の商業を独占し始めていた。カンネーの戦闘でローマ軍は破れたが、ローマは講和を求めず退却したが、ハンニバルはローマを占領しなかったことが、カルタゴの敗因であった。惜しいかなハンニバルはカルタゴの全信頼を勝ち得ていたわけではなく、征服は容易であっても維持は出来なかった。第3次ポエニ戦争において、ローマの将軍スキピオはアフリカに渡りカルタゴの後背にあたるヌミディオを味方につけて、カルタゴを攻撃した。ハンニバルはイタリアから戻ったがカルタゴは屈服し講和を結んだ。

3) カルタゴ人の屈服後はローマは殆ど小さな戦争しかせず、大きな勝利を収めた。カルタゴと同盟を結んでいたマケドニア王フィリッポス5世は第3次ポエニ戦争では動かなかった。ローマ人は局外中立を装ったマケドニアを許さなかった。当時東方世界にはギリシャ、マケドニア、シリア、エジプト王国があったが、まずギリシャの同盟を崩して、マケドニア戦争(BC215年第1次、BC200年第2次)で勝利した。第2次マケドニア戦争では王フィリッポス5世をキュノスケファライの戦闘で打ち破った。ギリシャの敗因は、誇り高いギリシャの戦闘方法を少しも変えなかったことである。シリア帝国アンティオコス三世の時高地アジアと低地アジアを保有し、広大な領地の統治は困難を極めていた。膨張しすぎたシリア帝国はマケドニアを支援したが、ローマによってアジアの深くまで侵されることになった。シリアの屈服後はエジプトを除いてアジアには小国ばかりであった。エジプトの旺盛は兄弟姉妹が継承権を持ち宮廷は複雑で不安定であった。そしてエジプト王の軍事力はギリシャの補助軍に依拠していた。従ってローマがギリシャを征服後は援軍を禁じたためエジプトの力は急速に低下した。もはやローマの敵にはなり得なかった。このようなローマの繁栄をもたらした要因は、アジアの王が怠惰、享奢、腐敗に溺れたのに対して、ローマでは厳粛な元老院が常に機能したからである。元老院は自ら法廷を引き受けすべての民族を裁判し、戦争終結後は処罰を決定した。破れた民族の土地の一部を同盟国に与えた。そして同盟国は戦いに動員された。遠隔地の戦争には敵の近くの同盟国を確保し、派遣軍と連携して闘うようにし、派遣軍は決して大きくはなかった。アエトリア人を使ってマケドニアを破り、ロドス人を使ってシリアを破った。ローマに対抗できる勢力の同盟を許さなかったし、戦争を仕掛けられる前に都合のいいときに相手と戦争をした。打ち破った相手の講和条約には必ず相手の国家の破壊、窮乏につながる条約を含ませていた。敗戦国には戦費を負担させ財政的に崩壊するように仕組んだ。人質を要求し同盟国としての資格を与えたうえで、従属的な関係を結ばせた。同盟国同志の同盟や戦争する権利は認めなかった。幾つかの都市には名目だけの自由を認め、コントロール下においた。民族同士の争いには積極的に介入し、弱いほうを助けて強いほうを打ち破った。そしてアジアの国がヨーロッパにはいることを法律で禁じた。なによりもローマ人の一貫した統治原則は分割することであった。ローマは征服したが占領はしなかった。諸侯を占領しているほどそれほど多くのローマ人はいなかったのだ。各都市には連合することなくそれ自身の自治を命令した。ある都市国家に揉め事が起きた時ローマ人は法を持って問題を裁定した。敵と結んだ条約には騙しや恣意的解釈を利用して、いつでも戦争の口実を作っておいた。同盟国の王たちの個人的犯罪についても介入して裁断した。そうして全世界の守護者として後見役を引き受けたのである。ローマは全世界の主人公として世界の財物を自分の物とした。しかしローマが征服したアジアの王のなかで、コーカサスから黒海に至る地域を支配したミトリダテス6世だけは勇気を持ってローマを窮地に追い込んだ。BC87年から64年に三次に及ぶミトリダテス戦争が起きた。戦いによって次第に強くなった王はアジア、マケドニア、ギリシャも支配下に置いた。ローマの将軍スラ、ルクッルスやポンペイウスが次第にミトリダテス王を追い詰めポンペイウスが決定的に勝利した。

4) ローマ共和国の政治体制は初期においては貴族制となった。貴族の諸家だけがあらゆる政務官職、軍人ならびに文民として顕職を占有した。平民は過度に集中した貴族権力に対して次第に平民政務官職を要求し、貴族制から平民制へと移行した。平民は権利を守るため「護民官」に拠り、貴族は元老院に拠るという権力の分裂が始まった。そしてさらに平民のなかでも名門家が生じて、名家の平民と貴族は貴紳といわれ元老院を構成し、護民官に煽動された下層平民の二大勢力に分裂した。護民官とならんでローマの政府を特徴付けた官職に「戸口総監」があり、政務官の統御できない不法行為を懲戒し元老院議員を追放したり、都市の貢租を改定することができた。平民の組織を変える事が出来るため、選挙制度にも絡み、護民官や野心家の権力濫用を監視した。こうしてローマの政治は人民、元老院、政務官の権力濫用を常に是正できるような働きを保ったといわれる。国民に絶えず注意を怠らない精神を持たせることによって、自由なそして常に活発な政府はその法律を通じて、自らを矯正してゆく能力をもって維持された。これがローマ史から学ぶ今日的意義であろう。ローマの支配がイタリア半島に限られていた時、国家は安泰であった。しかし軍団がアルプスを越え、海を渡って行動するようになると、征服地に残った軍人たちは次第に公民として精神を失った。もはや元老院に服従するだけの軍団ではなかった。兵士たちは自分らの将軍しか認めず、将軍の私兵となった。共和国の軍隊ではなくカエサルの軍隊となったのである。護民官に煽動された人民が国外の将軍に好意を寄せると元老院のあらゆる英知は無力となった。共和国の内部で勢力が分裂している時こそ共和国は発展していたが、社会全体が秩序と平和に溺れた時はもはや社会に自由がなくなったとみて間違いが無い。適切な法による支配も大きくなった共和国をささえるには桎梏となるのだ。共和国末期のローマの思想には、エピクロス派の幸福主義(快楽主義)が大いに人民を堕落させたと見られる。伝説時代の鳥占いによる宗教的感情に祖国愛が結合していたが、いまや自分の富によって堕落した。BC82-79年スラの独裁によって、元老院の権威を高め、護民官と人民の権力を制限した。アジアへの侵略においてスラは軍隊の略奪を許し、兵士たちに公民の土地を分配したことにより、兵士は貪欲になり規律は破壊された。スラはイタリアに47の軍団を配置し、共和国は必然的に滅亡すべき時期に来た。人民の権力も政務官の権力も無力になり、あらゆる重大な事項が1人あるいは僅かな人間の手に委ねられた。BC60−59年に第1回3頭政治がポンペイウス、クラッスス、カエサルとなった。カエサルは武力で持ってスラのような最高権力を得ようとし、人民投票で独裁官になろうとした。カエサルの意図を悟った元老院は共和派のポンペイウスに頼った。ガリアを征服したカエサルはその勢いでルビコン川を渡り兵をローマに入れたため、BC49-45年カエサルとポンペイウス派の内乱となった。BC44年カエサルは終身独裁官に就任したが、ブルータスとカッシウスの共和派がカエサルを暗殺した。BC43年カエサルの後釜を狙うアントニウス、オクタビアヌス、レビドゥスの間で第2回3頭政治が復活した。アントニウスはカエサルの財産を独り占めし、元老院派であるカトー、キケロはアントニウスと対決した。BC48、42、31年の3回戦い、オクタビアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスを破った。軍をローマに返したオクタビアヌスがBC27年ついに帝政を宣言した。オクタビアヌス=アウグストゥスはあきらかに君主制を目指す法律を作った。アウグストゥスはローマに総督と軍隊を置いた。そして彼は軍隊を常備的なものして、土地ではなく金銭で報酬を与えた。常備的海軍基地も設けた。公してローマは地中海全体の支配者となった。皇帝となったアウグストゥスは公務を全て秘密とし権力を一身に集中させた。共和国は亡んだ。

後半 帝政ローマから東ローマ帝国の滅亡

1) BC27-AD14 がアウグストゥス皇帝の時代であった。AD14-37年はティベリウス皇帝に時代となった。帝政の桎梏がティベリウス皇帝にいたって暴力的様相を示しだす。「不敬罪に関する法律」を楯に行使される専制政治は残酷であった。裁判を行なう元老院はもはや卑屈になっていた。皇帝アウグストゥスは人民から裁判権を奪ったが、ティベリウス皇帝は人民から政務官を選出する権利も奪った。皇帝があらゆる官職を自由に出来るようになった時、卑劣な方法で官職を求める人間に満ちた。皇帝は護民官の権力を得た。自由を奪われた人民はつぎには貧困に追いやられた。AD37年カリグラ皇帝からネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ティトス、トラヤヌスなどを経てAD138年アントニウス・ビウス皇帝までの間はまさに暴君の時代となった。この暴政はどこから来たのかといえば、ローマ人の一般的精神からきたといえる。商業や工藝を奴隷の仕事として、小麦の分配を受けて賭け事と見世物に夢中になっていた。カリグラ皇帝はティベリウス皇帝の「不敬罪」を廃止したが、いつでも裁判無しで軍隊の力で抹殺できた。皇帝の権力ほど絶対的なものはなかった。ネロ皇帝の後、植民地総督が相継いで皇帝になった。カエサル家の名望によって顕職が購われていたが、そのカエサル家もネロの時に廃絶した。絶えず打倒されていた社会的権力は軍事的権力に対抗できなくなっていた。軍団はそれぞれ皇帝を指名する習慣となっていた。兵士によって選ばれた六人の皇帝は狂気といえるほどの浪費家の暴君であった。AD98−117年のトラヤヌス帝は名君として知られ、パルティア人との戦争を勝った。ストア学派の影響でローマ帝国はアントニウス・ピウス(AD131- 161)とマルクス・アウレニウス(AD161-180)という賢帝を持つことが出来た。しかしそのあとがいけなかった。ディディウス・ユリア(AD193)は兵士から皇帝位を金で買った。普通軍隊から選ばれた皇帝たちは殆どがローマ人ではない外国人であり、時には蛮人であったという。このころ皇帝が色々な蛮族の風習を取り入れたことからキリスト教が急速に広まった。カラカラ帝(AD211-217)はその残虐行為を世界中に拡げ、兵士たちの給料を大幅に増額した。カラカラの後継者達は、分別のある皇帝は兵士たちによって殺され廃絶され、邪悪な皇帝は暗殺された。マクシミヌス・トラクス(BC235-238)は蛮族出身の最初の皇帝である。ローマの帝政はアジアの専制君主による絶対王政とは違って、軍事政権が皇帝をころころ変えているだけの一種の不正規な共和制という面も持っている。マルクス・アウレニウス帝以来、皇帝は支配地域ごとの2,3人の複数並立制となっていたが、ガリエヌス帝(AD253-268)の時には30人の帝位主張者が現れ30人潜主といわれた。AD268ー282年に、クラディウス、アウレリアヌス、タキトゥス、ブロブスという4人の傑物が現れて瀕死の帝国を再建した。

2) ディオクレティアヌス(AD284-305)は4つの軍団ごとに、二人の皇帝と二人の副皇帝を立てた。コンスタンチヌス大帝(AD293-306)とガレリウス(AD293-311)は帝国を二分して、東西ローマ帝国に分裂した。コンスタンチヌス大帝は帝都を東のコンスタンチノポリスに移し、ウオレンティアヌス帝(AD364- 375)は東ローマ帝国(AD364)を建立した。東ローマ帝国はこの後千年ほど形だけでも存立したが、ウオレンス帝(AD364-378)が建立した西ローマ帝国は蛮族に侵食されて間もなく滅亡した。フン族に圧迫されたゴート族がドナウ川付近へ侵入したためである。侵入する多民族と金で妥協を図ったローマ帝国は次第に富をなくしていった。軍隊は次第に負担路なり、蛮族と雇い兵を契約した。ローマ人は根っから軍事的規律を失った。AD434 年フン族の王アッティラが大いに帝国内に侵入し、東ローマ帝国のテオドシウス2世(AD448 -450)はフン族に貢物を納めて助けを乞うた。アッティラが死ぬとすべての蛮族は分裂したが、ローマ自体も極めて弱体化した。ノルマン人がフランスを侵し定住した。海軍力が全くなく商業の富の蓄積が無い西ローマ帝国の滅亡は早かった。東ローマ帝国ではユスティ二アヌス帝(AD527-565)はアフリカ、イタリアの再征服を企て、補助軍としてフン族軍を利用した。ゴート族はイタリア、ガリア、スペインに定住し、ヴァンダル族は北アフリカに大帝国を築いた。ペルシャ人は4度にわたる侵入で東ローマ帝国に痛手を負わせた。7世紀マホメットが開いたアラブイスラム帝国の征服事業が始まった。


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