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砂田一郎著 「オバマは何を変えるか」

  岩波新書(2009年10月)

オバマ大統領「チェンジ」の成果、就任後半年間の初期評価



オバマ大統領(2009.11.11ホワイトハウスより)

2009年10月8日、オバマ大統領の「ノーベル平和賞」受賞ニュースの意外性に驚かされた。何を成し遂げたわけでもなく、オバマ大統領への応援歌としてのノーベル平和賞なんてありかという感じであった。近未来的なスパンで核兵器廃絶という目標は誰も出来るとは思ってはいないだろう。それをアメリカ大統領が言い出すことで、人類に核廃絶への希望が生まれたことへのオバマ大統領へのエールであったそうだ。それなら戦後65年間、広島・長崎の核兵器禁止運動は何もメッセージを世界に与えなかったのかということになる。別にノーベル賞が目標ではなかったのだが、日本の原水爆禁止運動には一顧だにしなかったノーベル賞委員会の欧米人的特有の身勝手さには唖然とさせられた。戦争当事者の停戦だけで両者にノーベル平和賞を贈るのだから(すぐその後戦争を再開している)、何をかいわんやである。核兵器廃絶運動はオバマ大統領から始まったのではない。被爆者(死者も含めて)50万人の声から始まったのである。そしてそれは65年の日本原水爆禁止運動の歴史を持つのである。オバマ大統領はなんだかんだといってもまだ広島や長崎の慰霊訪問をしようとしない。最初から厭味な発言になったが、オバマ大統領に対する苦言ではなく、ノーベル平和賞委員会への疑問を述べたまでである。

さてオバマ大統領が昨年2008年11月4日夜シカゴで勝利演説をしてから、はや1年が経過した。「チェンジ」とは、何かを変え自分も変わるという意味をもつという。オバマ大統領とその政権がどのようにアメリカを変革し、アメリカ国民の価値観がどう変わるのであろうか。オバマの当面の課題は景気対策と金融安定化という経済問題であるが、内政問題として医療保険改革や環境問題とグリーンニュディール政策、アフガニスタン問題と外交問題、「ワシントン政治」という政党政治と利益集団問題の4つの大きなくくりで、オバマ大統領が就任した2009年1月20日から第111議会の終了した8月7日までの約200日間の活動を検証し、「初期評価」をするのが本書の目的である。その前にオバマ氏が大統領になるまでの活動を振り返ってみよう。オバマは国民に何の変革を訴えて大統領になったのであろうか。アメリカ版「マニフェスト」を見る作業である。

1月20日ワシントンの連邦議会前の広場には、180万人の人々がリンカーン記念堂まで埋め尽くして、アメリカ大統領就任式を祝賀した。就任式直前の世論調査ではオバマ大統領の支持率は80%を超えたといわれる。オバマ大統領がアメリカ国民の本当の「統合者」になることを期待していたかのようであった。寒い中での約20分間の就任演説(わたしも英文でこれを読んだ)は、今日のアメリカ社会の政治社会に対する彼の批判的な現状認識と、その理想とする歴史に根ざしたアメリカ像とを国民に示し、人々に価値観や生き方の変換を求めた。大統領は建国の理念と対比して、今日のアメリカ社会に見られた好ましくない状況を「経済のひどい弱体化は一部の者の強欲と無責任の結果である」と非難した。オバマの現状批判の焦点は前ブッシュ政権の市場原理主義の新保守主義経済政策に向けられ、「我々が今日問うべき問題は政府が小さいか大きいかではなく、政府が機能しているかどうかだ」、「富者だけを優遇していたら、国は長くは繁栄でない」という富の再配分を説いた。ブッシュ政治からのアメリカの再生を宣言して、国民には社会的責任を自覚するように求める倫理的なメッセージを、さらに世界に向かってアメリカは単独行動主義とは異なる国際協調主義的な外交を採ると宣言した。
就任翌日からオバマ大統領は精力的に活動を開始した。法の成立を待たずに実行できる行政権限による政策変更を次々に行った。
@「行政府高官の倫理に関する行政命令」で、政府高官が退官後ロビイストになることを禁止した。
A大統領・副大統領の記録の公開規制を緩和し5年後に原則公開とした。
B外交では世界各国首脳への電話会談を開始した。
Cイラクから16ヶ月以内に撤兵計画の作成を命じた。
Dキューバのグアンタナモ米軍基地内のテロ容疑者収容所の閉鎖と、拷問の禁止を命じた。
E中東和平担当特使、アフガニスタン・パキスタン担当特別代表を発表した。
Fキリスト原理主義者のブッシュ元大統領が定めた「人工妊娠中絶」規制を緩和して、中絶支援団体への資金援助をきめた。
G環境政策では、ブッシュが認めなかったカルフォニア州独自の排気ガス規制を認める方向で検討するように環境保護局長に指示した。
H自動車の燃費を2020年までに向上させる指針の作成を命じた。
就任後1週間でオバマ大統領はこれらの施策を命じたのであった。日本の民主党の組閣後臨時国会開催までの1ヶ月間に、矢継ぎ早に「官僚の答弁禁止」命令などを発したのも、オバマ大統領を見習ったのであろうか。

オバマ大統領のホワイトハウスへの道をかいつまんで紹介する。オバマは1961年、ハワイ留学中のケニア人の父と同大学の白人の母の間に生まれた。オバマが2歳の時両親は離婚し、母親がインドネシア人と再婚したので、インドネシアに渡り幼年時代を送った。その後母親の勧めでハワイに戻り祖父母のもとから、中学・高校時代をハワイで過ごした。1979年オバマはカルフォニアのカレッジに進んで、ニューヨークのコロンビア大学に転学した。1983年大学を卒業したオバマは地域社会でのまとめ役を目指して1985年シカゴに移り黒人コミュニティの仕事を3年ほど行い、ロースクールへの進学を希望して名門ハーバード大学に入学した。ロースクールを卒業後オバマはシカゴに移り市民運動の弁護士として活動を始めた。1996年イリノイ州議会に当選して政治家への道に踏み出した。2004年連邦上院議員選挙に当選し全米の注目をえた。2004年ブッシュ政権の中間選挙で民主党のケリー候補から頼まれて民主党全国大会の基調演説を行い、国民的統一の訴えは党内外の高い評価を得た。これがオバマの知名度と地位を大きく押し上げた。オバマ氏の顔が2006年タイムス誌の表紙を飾り、カリスマ性を持つ大統領候補と報道された。そのころからオバマの周りには支持者があつまり今日の側近集団が形成された。2007年2月オバマは大統領に立候補すると宣言し、インターネットを中心とする選挙キャンペーンが始まった。その新しい運動は選挙資金調達に威力を発揮し、クリントン夫人のそれを上回った。雄弁家の彼は「チェンジ」を訴え熱狂的に支持を広げた。クリントンは早くから民主党の2008年選挙の最有力候補と目され、経験の豊富さを売りにして最初は有利に指名争いを展開した。オバマは獲得代議員数を次第に広げ、有力な民主党政治家の支持も取り付け、6月3日予備選挙でクリントンに勝利した。当時ブッシュ大統領の人気は戦争と景気の後退で支持率は低下しているとはいえ、マケイン共和党候補とオバマの支持率はほぼ互角であった。9月からはじまった金融危機がこの大統領選の結果を左右する大きな転機となった。共和党の市場原理主義に国民がノーといい始めたのだ。11月3日の選挙結果はオバマは得票率で53%:46%、獲得代議員数で365:173と圧勝した。

オバマ陣営は11月4日の大統領選当選後から直ちに政権移行作業に取り掛かった。25名からなる政権移行プロジェクトチームを立ち上げた。政権移行チームの第1の任務は3500ある政府官職の政治的任用ポストの人材登録である。そして経済諮問委員会を発足させ金融と経済危機に対する緊急措置を協議した。省庁毎に政策課題検証チームが130人で発足し、政策課題(マニュアル)作りを開始した。11月24日には財務長官にガイトナー氏、行政管理予算局長にオルザク氏、国家経済会議議長にサマーズ氏、経済諮問委員長にロマー氏、経済回復諮問委員会長にボルカー氏、12月1日からは閣僚ポストを任命し、クリントン氏を国務長官に、ゲーツ氏を国防長官に、司法長官にホルダー氏(黒人)を、国土安全保障長官にナポリターノ氏、国連大使にライス氏、商務長官にリチャードソン氏(ヒスパニック系)、内務長官にサラザール氏、労働長官にソリス氏、退役軍人長官にシンセキ氏(日系三世)、エネルギー長官にチュー氏(中国系)、運輸長官にラフッド氏(アラブ系)、教育長官にダンカン氏、農務長官にヴィルザック氏、厚生長官にダッシェル氏(3月にセベリウス氏に代わる)、環境保護局長にジャックソン氏という風に12月中旬にはすべての閣僚が決まった。

経済危機緊急対策から変革へ

大規模な財政出動を伴う景気刺激対策の実行が第一優先課題としつつ、変革を目指す諸政策にも着手するとオバマ大統領は宣言した。2009年1月27日オバマ大統領は景気対策法案の早期成立を促すため、異例の議会訪問を行った。総額8195億ドルに上る大型景気対策法案「アメリカ経済回復再投資法」がまず1月29日下院で可決されたが、民主党は減税よりもケインズ的な財政出動の方が景気浮揚させる効率が高いと主張したのに対して、小さな政府を主張する共和党は全員が反対票を投じた。総額8195億ドルのうち1820億ドルが減税にあてられた。その他には低所得者向け医療保険制度メディケイドの適用拡大に130億ドル、再生可能エネルギーの開発「グリーンニュディール政策」に45億ドル、教育への支出は全体で1460億ドルなど、改革の頭金に相当する支出が含まれる。上院では民主党は議事妨害演説「フィリバスタ」を封じる打ち切り動議を出す60議席に足りないため、共和党に妥協し減税分を2120億ドルに上乗せし総額7870億ドルの景気対策法案が上下議院で成立したのは2月13日であった。就任後3週間で大型景気対策法案が成立したのは大統領の立法業績である。(大統領には立法権はなく、議会に立法を働きかけるだけであるが) ともかく大型景気対策法案が通過したことは、ここ20年以来続いていた「小さな政府」の政府姿勢が変わったということを印象付ける契機になった。2009年度の財政赤字は1兆7500億ドルにまで膨張すると予測されている。2月24日にオバマ大統領は両院議員を前に議会演説を行い、直ちに取り組むべき課題は環境エネルギー、医療保険、教育であると演説した。2月26日には2010会計年度の予算教書を発表した。3兆6000億ドルの歳出と2兆4000億ドルの税収入見込みからなっていた。代替エネルギー開発に今後10年間で150億ドル、医療保険改革には6330億ドルの基金を設け、金融安定化にさらに2500億ドルの追加資金を、温暖化効果ガスの排出権取引制度による収入も見込んでいる。

オバマ大統領の選挙運動の支持体であったリベラル派は、オバマ政権を構成する経済チームの主体が元クリントン大統領時代の中道穏健派や市場主義派からなることに懸念を抱いている。政権移行経済諮問委員会のメンバー18人はサマーズやガイトナーに代表される「市場志向の経済チーム」と評価される。しかしオバマ大統領はバイデン副大統領を長とする「中産階級・勤労家族タスクフォース」という組織を作った。閣内にもバイデン、バーンズ、ソリス労働長官はリベラル派と目される人はいる。オバマ大統領がリベラルであるとするなら、彼はプラグマティックリベラルであろうか。金融危機対策は市場派に任せ、内政はリベラル派という使い分けで成果を出そうとしている。金融危機の最大の要因は住宅ローンの不良債権問題から始まった。それに証券化というリスク分散法が被害を大きくした。シティグループに公的資金を導入して株式の国有化をおこない、AIG保険会社にも公的資金を導入した。にもかかわらず破綻金融会社の役員は高額なボーナスを受け取っていることが社会問題化し、オバマは「報酬監督官」を任命すると発表し、彼らのボーナスを1/3以下に抑えることを求めた。3月23日銀行の不良資産買い取り計画に公的資金と連邦預金保険公社による投資基金を募った。金融機関に対する規制強化は「ゲームの法制化」を目指している。大手金融機関を統一的に監視する機能をFRBにもたせる、財務長官を議長とする「金融サービス規制協議会」を設立するなどの計画にはまだ反対の声も高い。

オバマ大統領にとって経済安定化策の前に二つの難問があった。それは住宅ローンの救済と自動車産業の救済であった。住宅ローンの救済策は政府系金融機関を通じて750億ドルを支出して900万人の低所得者のローン返済を助けるもので、4月より実行に移され効果が出始めているという。自動車会社のビッグ3のうちGMとクライスラーに倒産の危機が迫っていた。公的資金が導入されるためには経営の刷新とリストラを行い、労組の特権を抑制するなどの条件を会社に求めた。2009年4月30日クライスラーは経営破綻で破産法の適用を申請した。6月に経営計画が整って新クライスラーが誕生した。BMは6月1日に経営破綻したため、GMを国有化して7月1日に新GMが発足した。このようにオバマ大統領はクライスラーとGMの経営破綻処理を世論の反発を受けながら何とか短期間でめどをつけたことは大きな業績といえる。オバマ大統領は4月14日ジョージタウン大学で注目すべき演説を行った。「経済全体を脅かす少数の者たちの向こう見ずな行為を許すような20世紀のルールと規則では、21世紀の金融システムは持続することは出来ない。金融資産運用で40%以上の利益を生み出すビジネスは持続不可能です。1%の最高層の収入が急上昇する一方で、勤労者世帯の収入が2000ドルも減少する社会は持続不可能です。」と金融市場主義を非難し、「借り入れて支出する時代から貯蓄する時代へ」と演説し、金融規制と、労働力の質を高める教育と人への投資、再生可能エネルギー開発投資、負債返済のための連邦予算節約を訴えた。これはアメリカ式生活様式の終焉を意味する。オバマは国民の経済生活を消費中心から貯蓄中心へ変えてゆくことに本気で取り組むようである。

世界協調外交へ

オバマ大統領は外交の面でもブッシュ前大統領の残した難題に取り組まなければならなかった。個別の緊急課題は二つの戦争の解決、つまりイラクからの撤兵とアフガニスタン問題の処理である。まずオバマ大統領は就任演説で外交方針をこう説明した。
@これまでの国家安全保障最優先の外交を改める。
A単独行動主義をやめ諸外国と協調して世界を主導する。
B世界の民主化を求めるのではなく、世界の平和を求める。
というものであった。オバマ大統領は4月1日から世界歴訪の旅に出た。まずロンドンで開かれたG20 金融サミット出席であった。G20共同声明にも「世界は協調して2010年末までに5兆ドルの財政出動を行う」という。ついで4月3−4日にNATO首脳会談に出席した。アメリカはアフガニスタン援助を要請したがNATOの支援は渋りがちであった。そのためアメリカ軍は5000名の増派となりNATO軍は縮小した。4月5日オバマ大統領はチェコのプラハ市内で数万の市民の前で演説を行い、「核兵器のない平和で安全な社会を追及する」といった。ただ核廃絶が長い道のりである事はいうまでもないが、包括的核実験禁止条約CTBTの批准を誓い、核拡散条約NPTの強化を謳った。ちょうどこの日北朝鮮はあざ笑うが如く長距離ミサイルの発射事件を強行した。オバマ大統領は4月6日トルコ、6月4日エジプトを訪問し、相互不信を取り除こうとイスラム世界へメッセージを伝えた。イスラエル・パレスチナ問題では二国家共存を、イランに対しては核問題への平和的アプローチを示した。オバマ外交の特徴は他国の内政には干渉しないこと、謙虚な多国間協調主義をとることである。

5月20日両院はグアンタナモ基地捕虜収容所の閉鎖と移送にかかる費用8000万ドルの支出を否決した。これで収容所に残っているテロ容疑者240人の国内移転計画は頓挫した。自由・人権というアメリカ的価値の擁護とテロからの安全の確保をいかに両立させるかがオバマの課題となった。米国民は容疑者の米国内移送を拒否しており、それでもオバマは6月前半の10名の収容者を移送した。容疑の薄い100名近い収容者を国外に移送する交渉を開始しているが、200名以上の残った収容者をアメリカで受け入れる環境づくりがオバマ大統領の課題である。

オバマ大統領の外交方針はブッシュの戦争政策から外交の復権である。外交チームの首脳はバイデン副大統領、クリントン国務長官、アフガニスタン担当ホルブルック代表、中東担当ミッチェル特使である。クリントンの最重要外課題は中国との2国間外交である。1月下旬から3月にかけてこの四人は世界各国に飛びオバマ外交の布石を打って回った。オバマ大統領は3月27日にアフガニスタン新戦略を発表した。破綻国家と化したアフガニスタンにおける軍事力による攻勢と民生の安定化を組み合わせたところに特徴がある。アフガニスタン問題と切っても切り離せないのが、かってアメリカが侵攻基地としたパキスタン内のテロ勢力問題である。パキスタンはテロ養成所と化している。アメリカとパキスタンの謀略組織も絡んで複雑な状況で一筋縄では解決しない。NATOはパキスタンから手を抜きたがっているので、オバマ大統領は「ベトナム戦争」化を恐れている。8月20日のアフガニスタン大統領選挙不正疑惑でいまだに大統領は決まらず不安定要因は拡大しており、アメリカ国内の世論は半数が「価値のない戦争」と見ている。2010年10月までに撤兵するとしたイラク駐留米軍15万人のうち、5万人は治安維持のために2011年末まで残留すると発表した。イラクの現状は必ずしも良くなっていない。5月25日、核無力化検証法を巡って休会中の六者会議を横目に北朝鮮は第2回目の核実験を行った。原子力施設の凍結は一体なんだったのか。6月16日韓国をアメリカの核の傘の下にいれるということになり、オバマの「核なき世界」演説の逆に歯車が動いた。7月6日オバマ大統領はロシアを訪問し、核軍縮交渉は進展した。7月8日イタリアで開かれたG8に出席したオバマ大統領は2010年3月アメリカで核安全保障サミットを開催すると発表した。そして9月17日ブッシュ元大統領が推進した東欧諸国へのミサイル防衛システム計画を中止すると発表した。

アメリカ社会を変える二つの政策

アメリカ社会を変革するオバマ大統領の二つの課題は、医療保険改革と環境エネルギー政策(グリーン・ニューディール)である。まずオバマ大統領が選挙期間中から打ち出していた医療保険改革案は、既存の民間医療保険と公的な保険制度にさらに新たな制度を加えた折衷的なものであるが、ねらいは人口の15%を占める4600万人の無保険者をなくすること、急増する医療費支出を抑制することである。大統領は包括的な医療保険改革を1年以内に成立させると宣言した。アメリカは日本と違って基本的に民間の医療保険が主流である。しかし社会的不公平を是正するため、1960年代ジョンソン大統領は経済成長を背景に65歳以上の高齢者を対象とする「メディケア」と低所得者のための「メディケイド」を導入した。これにより国民の6割は雇用主の企業が提供する民間医療保険に加入し、国民の25%は公的な「メディケア」と「メディケイド」の適用を受けるようになった。約15%が無保険者として残った。1993年クリントン大統領は政府が民間医療保険を概括的に管理するという「管理された競争」モデルを法案としたが、医療保険業界のロビー活動に阻まれて民主党内でも反対が出て不成立となったいきさつがある。それ以来アメリカの医療費は2007年に2兆3000億ドル、GDP比12%と膨張を続けた。さらに近年民間医療保険は「マネージド・ケア」と呼ばれる商品で、これを多くの企業が安く付くということで採用したため、登録された医療機関でしか診療を受けられないので利用者の苦情が出ている。公的保険の「メディケア」の赤字の慢性化が深刻になった。クリントン大統領の失敗に学んだオバマ大統領は、医療保険改革法案を緊急性のある法案として民主党にまとめるよう指示し、反対を表明している民間保険会社と中小企業経営者への説得活動を開始した。

2月に公的制度「州児童医療保険計画」拡大法案が議会を通過した。4月より両院で各種委員会が医療保険改革立法の審議を開始された。個人主義の強いアメリカで、医療保険を政府が併合することに保険会社は権益を奪われると、猛烈なロビー活動を議員にたいして行っている。国民皆保険を達成するために企業経営者に保険加入を強制することは、雇用者に対して従業員への医療保険の提供を義務つけるため中小企業経営者の反対が強い。個人に対しては保険料の支払いが不可能な低所得者に補助金を出すことには異論は出ないのだが、受給資格の年収65000ドルから88000ドルを巡って論争が続いている。保険料補助などに10年間で1兆ドル以上かかると予算局は見ている。したがって財源確保のため課税措置がセットにならざるを得ないだろう。6月9日上院の教育、労働、年金委員会が民主党の医療保険改革案を可決した。7月には下院の教育、労働、年金委員会が改革案を可決したが、両院とも財政委員会での審議が終結しなかったので足踏み状態となった。課税方式や公的プランを巡って共和党と民主党の協議が続き8月の議会休会までには審議が終らなかった。大統領は法案の成立のために精力的に世論の盛り上げに動いたが、7月30日の妥協案は下院はまとまる可能性があったが、上院が出来なかった。改革反対派は(保険業界のロビー活動)民間医療保険加入者の条件が悪くなるなどというデマを振りまいて抵抗し、その間にオバマ大統領の医療保険改革への支持率も57%から49%に低下した。議会は9月第2週から再開されるだろうが、両院議会での法案の一本化は容易には進まないだろう。そこでオバマ大統領がどのような折衷案を出すかによっている。保険業界が新しい体制に沿った業界の対応姿勢をとるか、あるいはどうしてもオバマ改革案を潰すつもりなのかまだ不透明である。オバマは医師会や高齢退職者団体を取り込んで利益集団の力関係をうまく調整できるか手腕が問われている。なお2009年11月7日 アメリカ下院はヘルスケアー改革法案を賛成220対反対215で辛うじて賛成多数で可決した。オバマ大統領は支援団体に向けてメールを送り「この法案可決の成果はあなた方の声によるものです」と市民の力を讃えたという。現在上院での審議に関心が移っているが、先行きは不透明である。

オバマ大統領は選挙期間中からクリーン・エネルギー開発投資計画や地球温暖化防止炭酸ガス排出削減の義務化を主張した。景気対策緊急法のなかに、クリーン・エネルギー開発予算を計600億ドルを盛り込んだ。送電網の合理化、ビル省エネ対策、グリーンジョブ職業訓練、断熱住宅材、次世代バッテリー開発などである。炭酸ガス排出権取引制度「キャップアンドトレード」により2050年までに50%の削減を目標とした。議会の環境エネルギー法案にたいするロビー活動に参加するため、1月から4月の間に880団体が登録した。いかに利害団体が多いかが分る。5月中旬に下院では「クリーンエネルギー安全法」草案が発表された。炭酸ガス排出権をいかに配分するかについては、その85%が無償で関係業界に割り当てられ、オバマ大統領の排出権取引から税を得ようとする目論見は骨抜きにされていた。共和党と民主党の一部が反対するなかで、下院本会議は6月27日に小差で改革案を可決した。内容は不十分ながら、オバマ大統領にとってひとつの小さな政治的勝利といえる。民主党内部の分裂は、環境保護団体と協力して改革を進めるリベラル派と、産業の利益に理解をもつ中道派、穏健派の間に対立があった。上院での立法化の見通しは明るくない。むしろ医療保険改革法より環境エネルギー法の年内成立の可能性は低いといえる。環境エネルギー対策と経済刺激対策をミックスッした「中古車買い替え助成制度」に、8月に運輸省が10億ドルの予算をつけたことが注目される。オバマ大統領のヒット政策ではないか。

民主主義の再生と政治制度改革

社会主義国では共産党が政策を統制してきたが、自由主義国アメリカでは「政府は小さい方がいい」という信条で、政策を転がしてきたのは伝統的に利益集団(ステーキホルダー)であった。オバマ大統領はそうした政治の現状を、特殊な利益を追求する有力な集団の影響力を使って議会や大統領府の決定を左右し、組織されていない人々の利益をないがしろにしてきたと見ている。オバマはこのような政治的運営の仕組みをアメリカの民主主義の危機と認識したようである。医療保険改革や環境エネルギー法案の審議で見てきたように強力な利益集団が立法を阻んだり、骨抜きにしようとしている。そしてアメリカの政治制度では大統領は正式に党の代表ではないので、大統領が直接党を動かすことには限界がある(英国や日本の政党内閣制では想像がつかないが)。したがって利益の一致しない法案では民主党内のグループが対立することもあるのだ(日本のように党議拘束なんてありえないので)。ただ大統領には意に反する法案には伝家の宝刀「大統領拒否権」があるが、民主党に法案をまとめるよう指示してもまとまらなければどうしょうもない。ロビーイストの影響力を排除するよう声明をだしても、族議員の暗躍は避けようもない。

共和党とのイデオロギー的党派対立はいまだに和解の気配はない。支持基盤がイデオロギー的統合が弱い民主党に対して、共和党の方がイデオロギー的結合力は強い。オバマの最大の障害は議会の共和党である。それは、小さな政府、減税、市場原理主義の新自由主義経済、人種的多元性に許容力を持たない文化的保守主義、強いアメリカ志向の軍事的愛国主義者が結びついたものである。厄介なのは文化的保守主義者は宗教右派(キリスト教原理主義)と呼ばれる人々である。同性愛、妊娠中絶には強い拒絶反応を示す。オバマは連邦最高裁判所の判事にマイノリティのリベラル派であるヒスパニック系のソニア・マイヨールを指名した。これはオバマ人事の勝利といわれているが、保守派の優位が続く連邦最高裁の体質を変えるのは容易ではない。オバマは人種問題には極めて慎重に行動している。白人マジョリティの反感を買うとアメリカでは一切行動できないからだ。人種問題は融和優先である。オバマ大統領は行政権の拡大(裁量の範囲)を極力抑制し、法の支配を再構築しようと務めている。まずカルフォニア州の排ガス規制を有効として認め、連邦規則を州法に優先させる政策は行わないと表明した。アメリカ大統領の権限については砂田一郎著 「アメリカ大統領の権力」に詳しいので参考にして欲しい。立法府を動かす力が大統領のリーダーシップであるとするならば、オバマ大統領の統治は大統領主導型といえる。オバマは議員を説得したり利害を調整するジョンソン大統領のようなリーダーシップではなく、ケネディ大統領のような国民に訴えてある目標へ動員するリーダーシップ(ポピュリズム大衆迎合・煽動主義でもない)である。オバマ大統領の支持率は7月に入って60%を切ったが、国民的人気が衰えたわけではない。大統領を支える組織はホワイトハウス大統領行政府、そして各省庁からなる行政府組織である。オバマは課題解決型組織タスクフォースを問題別に立ち上げた。これらはいわば問題別閣僚会議でもある。大統領府でオバマのメディア露出を演出しているのがホワイトハウスのメディアスタッフである。大統領演説原稿を書くのが若干28歳のファブローである。7月1日医療保険改革をテーマにして、オンライン対話集会がユーチューブのビデオを使った質問を受け付け、ワシントンの大学で行われた。これは新しい試みである。国民への直接的な対話である。

議会は9月7日から再開した。それから年内一杯の3ヶ月がオバマ変革の今後にとって正念場となるであろう。もしもオバマが医療保険改革に失敗し、同時にアフガニスタン戦争が泥沼化するなら、オバマ改革は手痛い打撃を受けることになる。逆に言えば、アフガニスタン戦争は容易に決着する見込みがないとするならば、オバマにとって医療保険改革が最優先課題になるだろう。大統領は「医療保険プランの交換市場で競争と選択肢が保障されるならば、公的オプションの導入には必ずしもこだわらない」といった。オバマの改革はさらに中道よりの市場派への妥協となっている。アメリカの政治史は共和党と民主党の政策のやじろうベー(振り子人形)である。アメリカ国民は基本的に統制的政府(日本の官僚内閣)は望んでいないが、今は共和党の市場原理主義・金持ち優遇策から民主党の再配分政策に傾いている。


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