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富永茂樹著 「トクヴィルー現代へのまなざし」 

 岩波新書 (2006年9月)

フランス革命時の民主思想の憂鬱とは

トクヴィルという名前はどこかで聞いたことがあると思って調べてみると、この読書ノートにおいて佐々木毅著 「政治の精神」(岩波新書 2009年6月)がトクヴィルについて述べていた。その本の第3章 政治に関与する精神 において、丸山真男氏「政治的判断」(1958年)、ウオルター・リップマン「幻の公衆」(1923年)、シュンベータ−「古典的民主主義批判」、ハーシュマン「失望と参画の現象学」らと並んでトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」(1835年)が引用されていた。その論点は「トルヴィルはアメリカのデモクラシーにおいて、境遇の平等化がもたらした弊害と大衆社会を指摘した。自由は特定の社会状態を定義できるものではないが、平等は間違いなく民主的な社会と不可分の関係にある。自由がもたらす社会的混乱は明確に意識されるが、平等がもたらす災いは意外と気がつかないものだ。平等化は自らの判断のみを唯一の基準と考えるが、自らの興味とは財産と富と安逸な生活に尽きる。そこで個人主義という利己主義に埋没する。民主化は人間関係を普遍化・抽象化すると同時に希薄化させる。そして人は民主と平等の行き着く先で孤独に苛まれるのである。平等が徹底されるにつれて一人の個人は小さくなり、社会は大きくみえる。政治的に言えば、個人は弱体化し中央権力が肥大化するということになる。中央権力も平等を望み奨励するが、それは平等が画一的な支配を容易にするからである。ここに新しい専制の可能性が生まれる。小さな個人にたいして巨大な後見人(政府)が聳え、個人の意識をより小さな空間に閉じ込め、しだいに個人の行動の意欲さえ奪い取ってしまう。アメリカの民主制は個人主義を克服する手立てとして、公共事業への参加によって個人の世界から出てくる機会を与えた」というものである。民主主義は平等を徹底させて、矮小化した民衆を画一的な個人主義に埋没させ、その管理しやすい民衆を支配する政府という中央集権制官僚主義の専制を招くというもので、実に憂鬱な厄介な見方を19世紀前半に予見した。

フランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィル(1805ー1859年)は、1789年のフランス大革命の混乱期に乗じて成立したナポレオン第1帝政期に、フランス北部シェルブールの近くのマンシュ県の貴族の子として生まれ、1830年の7月王制、1848年2月革命を経て1951年のルイ・ナポレオン第二帝政期に肺結核のため亡くなった。2月革命の後1849年には短期間ではあるがバロー内閣の外務大臣を務めた政治家であり、社会思想家であった。1935年の「アメリカのデモクラシー」と1853年から書き始めた「アンシャンレジームとフランス革命」(第1巻のみで未完)の2冊の著書で社会思想家としての地位を確立した。トクヴィルはデモクラシーのもとで生じる社会と政治の変容に透徹した眼差しを向けたと著者はいう。フランス革命前の啓蒙思想の楽天主義とはちがって、革命がもたらした「境遇の平等」という大変革によるポストフランス革命の憂鬱を代表する思想家である。確かにノー天気な民主主義に行き着く先は、無力な大衆とそれを支配する政府という中央集権官僚主義による専制だという予見は、21世紀の現在において妙に真実味を持っている。言い得て妙である。本東大総長の佐々木毅氏はどちらかと言えば権力側の政治的リーダーである。議院内閣制の非効率性、矛盾(不可能性)をつく論点は鋭いが、結局は国民を善導し、権力を統治する責任ある政府をめざしており、反面議会を重要視しない論調にみえる。三権分立という考えも古い理想論だというような論調である。民主主義の歴史の浅い日本では、アメリカ占領軍の与えた議院内閣制を一歩も出ないが、アプリオリに民主主義がすべてではない。そういう意味で本書はひとつの論を提出するもので注目に値する。ところで本書の著者富永茂樹氏とは何物だろうか。巻末の著者紹介から見ると、1950年滋賀県生まれ、京都大学文学部卒業、現在は京都大学人文科学研究所教授で京都芸術センター館長だそうだ。専攻は知識社会学、著書には「都市の憂鬱」(新潮社)、「理性の使用」(みすず書房)、「ミュージアムと出会う」(淡交社)などがある。研究テーマは「フランス革命と近代的主体の成立」であり、「トクヴィルの憂鬱」の講座を担当していた。

その「トクヴィルの憂鬱」の講座の内容を富永氏はつぎのように解説している。「アレクシス・ド・トクヴィルは16歳のとき父の図書室で18世紀の啓蒙哲学の書物を読んで、それまでもっていた世界観が崩れるような衝撃を受け、「もっとも暗い憂鬱」を経験する。彼はこの憂鬱を生涯いだきつづけた。同じ憂鬱をとおして叔父である作家のシャトーブリアンに示す親近感は、トクヴィルを北米大陸へといざなうが、彼がこの地で発見したのは、叔父の描いた大自然のなかでの憂鬱に加えて、平等が進行する社会のただなかに生きる人間の憂鬱であった。『アメリカにおけるデモクラシー』のなかで「奇妙な」という形容詞を付されるこの憂鬱は、後に『自殺論』のデュルケームが『アノミー』と呼ぶ社会状態を先取りするものであった。アメリカから帰国後の七月王政から二月革命にかけてフランスもまた、人間が焦燥感に駆られ、しかし他方で進展のないまま停滞のつづく状態にあった。この停滞を前にして、トクヴィルの憂鬱はますます深まるばかりである…… こうした憂鬱に注目することで、18世紀から19世紀にかけての思想史における連続と切断、平等が支配する近代社会の特質、この社会に向けられる社会学的思考の生成など、知識社会学における多方面での主題の考察が可能になるはずである。」

ところで知識社会学というのは、私はあまり聞かない学問分野であるが、知識社会という名称をはじめて用いたのはマックス・シェーラーで、@ある特定の知識や思想を人々が信じ受け入れる社会的状況の特質とは何か、 Aある特定の知識は、人々に「正しい」知識として信じられ受け入れられることで、どのような社会的状況を形成する効果を発揮しているのか。、という事を問題とするらしい。知識とは哲学ではなく、どうも思想とか文明と言ったほうが近いようだ。1920年代からドイツのマックス・シェーラー、カール・マンハイムらによって確立され、アメリカでもロバート・キング・マートンなどによって独特の発達を遂げた。ここで言われる知識とは、意識、認識、観念、思想、世界観、知的所産などを含む広義のものである。要するに知識社会学というのは雑学のことである。京都大学人文科学研究所も雑学のサロンである事を思えば、ぴったりの学問分野かもしれない。そしてトクヴィルには憂鬱の概念が色濃く付きまとう。トクヴィルは16歳のとき精神病理学でいうメランコリー型欝病に罹ったようである。そしてトクヴィルの政治理論の手法は社会心理学かもしれない。政治的行動が「憂鬱」、「焦燥」などの個人の情念や情緒用語を用いて説明される。これは丸山真男氏の論法と同じで、丸山氏の明治維新、天皇制国家の情念論は妙に真実性を帯びているので人気があった。個人の心理から歴史を説明されると、納得する人は多いようだ。無味乾燥なイデオロギー論や唯物論よりは迫力がある。

本書の内容に立ち入る前に、トクヴィルの人と時代を概観しておこう。本書の副題となっている「現代へのまなざし」という言葉は、トクヴィルの肖像画からきている。目が澄んで遠くを見つめているようだということであるが、これを言っては身も蓋もないが「近眼のまなざし」なのである。コンタクトレンズが行き渡った今日では、近眼の女性が視力矯正をしないことはないが、この眼鏡をかけていない美しい近眼の女性のまなざしがトクヴィルのまなざしなのである。「ピント外れの見解」という悪い意味で言っているのではない。ただ遠くをみているまなざしなのである。トクヴィルの分りやすい特徴とは、近眼と鬱病である。どこか人間と社会の深い部分を見てしまったトクヴィルの悲しみに近い感情を著者はそう表現したかったのであろう。アレクシス・トクヴィルの祖先は11世紀のノルマンディ候の家臣である貴族につながる。フランス北部コタンタン半島のトクヴィル村の出身で、村には今も彼の胸像が立っているという。父のエルヴェは1774年生まれで、所領の経営を立て直し、国王の軍隊に入ってルイ16世時代の高級官僚の娘を妻にする。この経歴がフランス革命では禍の元になり、1793年ルイの処刑ののち父は反革命の容疑で監獄に収容され、姉一家が処刑された妻は精神に変調をきたした。テルミドールの政変後釈放され、1805年3男としてアレクシスが生まれた。復古王制で内務官僚となった父につきそって、パリ大学で法学を学び裁判所の判事修習生となった。1830年7月革命で、復古王制が打倒され、正統王朝派に属するトクヴィル家は、新たに誕生したフィリップスの立憲君主制に忠誠を誓った。1831年トクヴィルと友人ボーモンは「合衆国における監獄制度の調査研究」を名目に1年近くアメリカに滞在した。帰国後、「アメリカで見聞した新奇な事物のうちで、諸条件の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」と「アメリカにおけるデモクラシー」が執筆された。デモクラシーとは狭い意味での主権在民の政治形態という意味ではなく、平等はひろく社会や文化のありかた全般に影響を及ぼしているという意味である。ただこのことはアメリカで始めて発見したことではなく、10年も前から考えアメリカで確認したという。

トクヴィルに直接的な影響を及ぼしたのは、両親の体験したフランス革命とその後の歴史である。民主制デモクラシーと貴族制アリストクラシーのどちらにも適切な距離をおいてながめ、過去と未来の間で均衡をとっているのがトクヴィルの視点である。晩年の「アンシャンレジームとフランス革命」の冒頭で、フランス革命を遠くで感じることも、参加した人の情念を近くで感じることも出来るといっている。トクヴィルの革命に対する距離のとり方は「アメリカのデモクラシー」への視線と相通じるものがある。「アメリカのデモクラシー」の出版で成功したトクヴィルは1839年下院議員に当選し政治家の道を歩む。こうして政治と現実と深い関係を持ったが、1830年7月革命後の立憲君主制は必ずしも安定しなかった。工業化とブルジョワジーの支配が明確になって、1848年2月革命によって王制は打破され、トクヴィルは新憲法の制定作業に関わり、1849年には大統領ルイ・ナポレオンのもとで短期間であるが外務大臣に就任した。1851年ルイ・ナポレオンがクーデターによって第二帝政を開始すると、トクヴィルは逮捕され、釈放後は政界を離れて著述業に専念することになった。その結果1856年に「アンシャンレジームとフランス革命」が執筆された。フランスの現実は何回も革命を起こしながら,なぜいつも帝政に戻るのか。ひょっとすると民主制と帝政はどこかで通じているのだろうかという疑問が湧くのである。「民主的な専制」という主題がいつもトクヴィルの頭の中にあった。平等と民主化が進むにつれ、民衆はより専制に支配されやすくなってきたという現象を発見したのである。フランス革命が帝政につながり、デモクラシーから専制が生まれるプロセスを考察するのが、「アンシャンレジームとフランス革命」執筆の目的であった。アンシャンレジーム期の社会とはトクヴィルによると、絶対君主制のもとで中央集権化と平等化が極度に進行した社会であった。アンシャンレジームとフランス革命は断続するのではなく、連続するのである。その結果ナポレオンの登場を促す契機となった。フランスにおいて社会の平準化を進めたのはほかならぬ中央集権絶対君主であった。

1) トクヴィルがアメリカで見た平等の力学と憂鬱

トクヴィルがアメリカで見出したものは、豊かな生活を求めることが、憂鬱を生み出すという「奇妙な憂鬱」であった。世界で一番幸福な境遇にある人々が「奇妙な憂鬱」に取り籠められている。民主政治を社会学的視点で捉えようとするのがトクヴィルの特徴である。物質的安楽の追求は人々の想像力を掻きたて決して休まることがない。情念が理性を否定して説明しがたい「心の焦燥」を呼ぶというあたりは、これはもうトクヴィル自身の精神病理を表している用の思われる。トクヴィルはアメリカ滞在中に書いた手紙の中で「憂鬱で真っ暗な気分」について記している。この気分は生涯を通じて続き、1848年の2月革命後「妬みによる民主主義的な不満」が、自分にとって「居心地の悪さ」を感じて隠遁生活にはいったという。トクヴィルの終生の友人であった功利主義者J・S・ミルも1828年ごろ「憂鬱な冬の重く乾いた落胆」がもたらす「精神の危機」を感じている。このことはミルの「自伝」にも突然人生の目標を失い、「わが人生の基礎が崩れた。人生の目標が魅力を失ったのだ」と書いている。彼らがほぼ同年齢で憂鬱に出会ったことは思想史では大きな意味が無いわけではない。トクヴィルとミルは19世紀の初めに、前世紀以来の啓蒙主義的合理主義の思想の行き詰まりに直面し、憂鬱を感じるとともにそれぞれの政治哲学を深めていったようだ。

18世紀初めの不安定な精神状態が当時の青年の間に流行し、「世紀病」と呼ばれて精神医学者と社会統計学者の注目を受けた。欲望の過度の成長と無規制な状態を社会学者は「アノミー」と名づける。それは生への意欲の減退と並んで自殺の要因とし考えられた。後年社会学が「近代社会の病理」として指摘する状態をトクヴィルは半世紀も前に発見していたのだ。文明の脆弱とそれを凌駕する自然の力を感知させる廃墟の姿は18世紀の美的趣味の大きなテーマであった。「アメリカのデモクラシー」でしばしば論じられる主題のひとつは、アメリカ人の移動の激しさである。親の遺産を継いだ長男以外は西へ西へと欲望と夢を追って移動する。成功する者は稀で、挫折はさらに彼らを移動へ駆り立てる。移動し続ける人々の間には紐帯はない。バラバラになって生きる彼らにはデモクラシーは極限まで浸透し、トクヴィルをして「住民は居るが、社会はまだ存在しない」と言わしめた。「精神の焦燥、行き過ぎた物欲、極端な独立心」が合衆国では「長期にわたる平和な未来を保障している」という「奇妙な憂鬱」をトクヴィルは見た。

平等についてのトクヴィルの理解はひとひねりしている。つまり諸条件の平等から生まれる情念のなかで最大のものは、この平等へむけられる愛着であるという。一般的な平等が実現するや否や、人々は些細な差異に注目してこれにこだわる、平等という概念の虜になるという。平等のヒステリー現象なのだろうか。そしてしだいに個人は画一化されてゆく。皆がステレオタイプに成るまで平等への欲求は止まない。貴族制から民主制への普遍的な移行は何らかの運動と加速度を伴う。それでも平等への愛着は、各人の自由を損ないかねない可能性もあるとトクヴィルは指摘する。不自由は我慢できるが不平等は我慢できないという言葉はそれを現している。みんなが貧しい中での平等は我慢できるが、だれかが裕福になるのは我慢できないというのと同じ心境である。これをトクヴィルは「隷従の中での平等」と皮肉っている。デモクラシーは永久運動を秘めているのである。そのために全員に競争を可能とする平等(機会の平等)であり、結果として人の間には差異と格差つまり不平等をもたらす平等に他ならない。これは20世紀末から始まった新自由主義の理念でもある。その結果、著しい格差が生み出され、殆どの人間は貧困層へ追いやられたのである。なんとトクヴィルは150年も前に新自由主義の破綻を予言していたことになる。労働(雇用)契約もトクヴィルから見ると「主人と従僕の関係」である。労働(雇用)契約は最初から力関係がひどく相違した、経済的には圧倒的に非対称的な関係に基づいている。この想像上の契約の平等というのが、法的に認知された状態としての運動としての平等である。

デモクラシーの諸制度は平等の情念を抱かせるが、これを完全には満足させることは出来ない。パスカルがいう「永遠の遁走」を繰り返す。想像上の平等は不満の増殖を繰り返す。「すべてが平準化するとき、最少の差異の不平等に人は傷つく」のである。これを「相対的不満」という。この状態で個人は常に他者と自分を比較している。「特権に対する憎悪感情」は特権が小さくなればなるほど先鋭化するという。アンシャンレジーム末期・ルイ16世の治政下フランス社会は繁栄を続け、革命が起こるような社会的不満はなかったはずなのに、なぜ革命が起きたのか。それは貴族の特権が失われ想像上の平等が増幅されたために、人の我慢がなくなり焦燥に駆られたためであるとトクヴィルはいう。アメリカ社会は多民族社会で多様性の極致であったにもかかわらず、利益(産業の精神)が絆となったという。産業・商業は平等を前提として社会に繁栄の習俗をもたらす。モンテスキューの「法の精神」は、商業の交流が垂直な身分を解体し水平な人間関係が基礎となる社会の到来を予告している。トクヴィルが19世紀のモンテスキューと呼ばれる理由はそこにある。デモクラシーは平和で安定な社会をもたらすものと理解されていた。「社会心理学者」トクヴィルは、諸条件の平等とともに人の心には隣人に対する羨望と軽蔑の心が植え付けられ、どんな僅かな不平等も人を傷つけ奇妙な憂鬱を産み付けるという。羨望と憂鬱、猜疑の目、軽蔑、誇りと妬み(プライド&プレディヂュース)の心は、自分と他人を越えた存在である民主的な専制への服従を導き出すのである。スタンダールの言葉「人間はどうしてこんなに不幸なのか」を思い出すと著者はため息をつく。野心と羨望に満ちた人間は絶えず動き回るが、人間精神は殆ど停滞したままである。

2) アンシャンレジームとフランス革命

「アメリカのデモクラシー」で成功を収めたトクヴィルは1838年には道徳政治科学アカデミーの会員となり、1839年には下院議員に選出され、1841年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1842年このアカデミー入会演説において、「18世紀と革命は、人間の自由な体制と絶対的な権力をもたらす危険な芽を同時に含んでいた」とする演説を行なった。これは革命が、ナポレオンが革命の成果をそっくり頂いて専制政治を敷く準備となったというものである。その後トクヴィルは政治家として振る舞い、1848年の2月革命に立会い、外務大臣の職にも就いた。1851年ルイ・ナポレオンの第二帝政時にはトクヴィルは失脚し隠遁生活に入り、本来の社会思想家としてのテーマに戻った。彼は「私は歴史を物語るのではなく、判断するのである」といい、文明評論家として生きる決意を語る。世界で広まりつつあった社会的条件の平等に伴う力学とその政治的社会的帰結を考察する姿勢は、晩年の「アンシャンレジームとフランス革命」にも引き継がれた。アンシャンレジームとフランス革命は断絶するのではなく、連続するものであると云う認識から、フランス社会の平準化を最も活発に一貫して進めたのは、階層秩序の頂点にあるはずの国絶対君主であったと論を展開した。

トクヴィルの晩年は、絶対君主の問題よりもむしろ中央集権化した行政国家の発展という命題に変換された。フランスは絶対君主制から中央集権行政国家に変身したのであって、アンシャンレジームとフランス革命後は連続しているという視点を提出した。境遇の平準化(平等)はフランス革命後に達成された課題ではなく、絶対君主制の時代に達成されており、君主から行政国家に絶対的権力が移動したに過ぎない。民衆は革命によって自分が権力を掌握したのではなく、中央政府という専制の元に繋がれたままだという。そういう意味では旧体制と革命は連続しているという論点である。「接続ではなく連続である」とするトクヴィルの視点は大変画期的なものといえる。1789年の革命が打倒すべき封建制(貴族的土地所有)は絶対君主がとっくの昔に消滅させていた。革命が首を変えたのは絶対君主から中央集権政府へである。革命で国民会議が出した「封建制の廃止決議」、「人権宣言」はすでに絶対君主が実施してきたという。

フランス革命が隠蔽したアンシャンレジームは虚構であった。バスティ-ユ監獄はフランス革命の端緒・象徴とされているが、実は革命前に取り壊して広場にする計画があった。7月14日以前に囚人は僅かしか居らず、暴徒がバスティ-ユ監獄を攻撃した目的は銃器の略奪にあった。政治的囚人の解放という虚構はあとの作文であると云う。革命前にあったものの実際の姿は、革命の成功によって変形され隠蔽されたとトクヴィルは指摘した。隠蔽されたアンシャンレジームを再現させながら、歴史の中の切断と連続の微妙な絡まりを明らかにするのが、晩年の「アンシャンレジームとフランス革命」という著作の目的である。フランス革命が古い社会の残骸を取り除いてみると、以前は一群の2次的組織の権力,身分、階級、職業、家族、集団は個人の中に散逸し、すべての断片を引き寄せ一まとめに飲み込んだものは巨大な中央権力機構の存在であったことに気がつく。絶対君主と中央集権政府これこそが革命の前と後をつなぐものである。絶対君主は中世から続いた封建制を廃止し、貴族の持ついろいろな権力を奪い取ってきた。封建制とは階層構造を主とする不平等な社会であったが、絶対君主制では君主を頂点とし、他の臣民にとっては平等な社会であった。政治権力は絶対君主制の前に集中し巨大な中央権力機構を作った。中央集権化という主題はデモクラシーでも重要な問題である。アメリカの連邦制は共通部分を担当するいわゆる「政治的集権化」であり、地方行政にはタッチしない。行政の中央集権化という道をアメリカはとらなかった。トクヴィルも「行政の集権化は公共精神を減退させ、国民を無気力にする」と警告を発している。行政の中央集権化は絶対君主制のもとで始まり、財務総監が国内行政のトップとなった。

トクヴィルの晩年の視点は絶対君主ではなく、この官僚組織を通して権力は中央から津法の細部に浸透したと考える。国内的には重農主義、国外的には重商主義によって中央集権を達成した近代国家は次第に帝国の形態をとり始めるのである。それは絶対君主制であれ、民主国家であれ同じ形態である。行政はすべてのフランス人を被後見状態に置いたとトクヴィルはいう。集権化した政府の後見下におかれ、なにごとにつけ世話を受けるようになり、国民は国家への依存度を深めてゆく。官僚組織は組織の上から下まで、公的な利益を理由に,民間の事業や生活に関与してゆく。行政にとって効率重視の点からも、政策徹底からも、国民の画一化が欠かせない。国民の顔を見るのではなく、数としてみるのである。「人口」や統計学が流行するのも18世紀からであった。啓蒙哲学の基礎となった合理主義は行政の中央集権制を支え、フランス社会に画一化をもたらした。これはアンシャンレジームから革命後も連続した流れであった。トクヴィルは利己主義と個人主義を区別する。トクヴィルによると利己主義は「自分自身に対する、行過ぎた激しい愛」と定義し、自己本位に自己利益を優先する考えであるとした。個人主義とは「自分中心の小さな社会に閉じこもり、自分の事しか見えな思考様式」とした。平等がゆきわたると、各階層の人々は自分らの殻に閉じこもり「一種奇妙な自由」で満足する。第3身分よりも先に革命を起こしたのは、国王権力に反抗する貴族層であり、僧侶・平民を巻き込んだ革命へ展開した。最も革命的であったのは絶対君主から圧迫を受け権利を剥奪された貴族階層だったとは、20世紀のロシア革命でも同じことであった。

3) 消失する集団とさ迷う個人

平等になった人間の共感はどこへ向かうかを、トクヴィルは「民主的な世紀には、人が人のために身を犠牲にすることはないが、人類全体に広く思いやりを示す」という。法による正義の実現も人類普遍の社会を目指すことであるという。人間が人類になったのだ。俺お前が「人類」という抽象的概念に変わった時代の思考法は一個の人間を抽象的存在へ変える。つまり「人類の尊厳」といわれるように偉くなったわけではなく、捉えようのない埃になったのだ。アトム化(原子化)した社会が存在するばかりだ。全般的な個人主義は無関心が広がり、私的で具体性のない不確実な世界に閉じこもる、きわめて特異な個人主義である。世の中は空虚になり特定の個人に対する義務感は稀薄で、人間的絆は弛緩するのだ。トクヴィルは「民主社会では小さな自分を考えるのに忙しい。極めて個人的で明確な意識か、恐ろしく一般的で極度に漠然とした観念しか持てず、中間の領域は空っぽである」という。「アメリカのデモクラシー」はトクヴィルは小さな共和国「タウンシップ」に格別の注目をする。アメリカには政治的な中央集権はあるが、行政の中央集権政府は存在しない。2,3000人ほどのタウンでの住民集会でのすべてをきめる自治の慣習が守られ、州政府が介入する余地は無いという。このタウンがアメリカのデモクラシーの原点であり、全体と個人の間の中間領域という重要な社会的役割を果たしている事を見る。このタウンシップに加えて、中間領域には「結社の自由」がアメリカでは最高度に達しているという。アメリカの政治結社を語るトクヴィルは、欧州で貴族階級が王の権力の濫用を抑制する役割を担ってきたが、そのような防波堤が消滅したデモクラシーの社会では同様の役割が政治結社に期待されていると見るのである。孤立無援の市民がなにかの事業をなすさいに結社という拠りどころは欠かせない。

トクヴィルは1831年アメリカから戻ったあと、1833年にイギリスに出かける。アメリカと同じアングルサクソン系のこの国においても、行政の中央集権は殆ど不在であったという。地方の自治は地方にまかせ、又様々な結社が形成されている。少なくともアメリカで見たことはイギリスの政治的伝統を引き継いだものである事をトクヴィルは確認した。「アンシャンレジームとフランス革命」において、トクヴィルは社会における部分の消失、中間領域の不活発に直面する。フランスの中央行政権力はアンシャンレジーム期と革命後もあらゆる中間的な権力を破壊した。1776年の同業組合の廃止勅命により、あらゆる商人や職人の団体、親方と職人のあいだの誓約関係は廃止された。勅命の目的は、職業選択の自由、労働における個人の自由という観点からなされたものである。アンシャンレジームの高等法院は「フランス社会は無数の多様な団体が緩やかに結合することで成り立ち、団体は大きな輪となっており、最初の輪は国王の手にある」という。その輪が解体していったのである。労働者の団結も禁止された。1788年のサン・テチェンヌの「第3身分の利益について」では、「団体の精神は間違っている」といい、中間的な団体を社会から除去することが近代化だという。この議論は政治的代表制の議論とリンクして、代表制議会では中間的権力を必要としないことからきているのである。革命初期の議会では同業組合を廃止し労働者の結社を禁止し、こうした中間に対する敵意を理論的な根拠としたル・シャプリエ法が認められた。革命は「市民の集団形成に対する不信」をあらわにした。革命にとって、市民という唯一つの階級のみを構成するという考えにより、この平等で水平な社会が権力の行使を容易にした。つまり公衆が中間団体に替わって社会全体を代表することが公論の根拠とされた。デモクラシーは部分を消して画一的な世界をどこまでも拡大したのである。

4) 新しい社会と政治の姿

トクヴィルは1833年、1835年、1857年と3度イギリスへ出かけ、重大な問題に直面する。それは産業革命にともなう社会の工業化により、都市環境の悪化、労働者階級の貧困化という問題である。工業化によって農村から都市へ流れ込む人々が増え、仕事にありつけない人々は浮浪者となり、過酷な労働に従事する労働者も貧困にあえいだ。1835年トクヴィルは「貧困問題についての覚書」を書いた。「繁栄の都市に移った人々の1/6は極度に貧しく、慈善に依存せずには暮らすことは出来ないでいる。一方では裕福に暮らす者の数と慈善に依存する者の数は比例して増大する」という。ルソーも「人間不平等起源論」(1755年)にいうように、人間の不平等の歴史は人間が土地を所有するときから始まったという。煤で汚れたマンチェスターの街は「こんなに胸の悪くなるような掃溜めで人間が成長すると、文明化した人間は野蛮状態に戻る」様な状態であった。1830-1840年代はイギリスでもフランスでも工業化のもたらす貧困や犯罪などの問題に関心がもたれ調査や研究が進んでくる。この問題についてはトクヴィルは慈善事業は必ずしも有効ではないというが解決策は出てこなかった。労働者の内部に立ち入った観察はトクヴィルには出来ていないが、都市に現れた人の群、[群集」という社会現象をトクヴィルは発見する。「諸条件が平等化するにつれ、人々が他の人と同じになって、群衆の中へ姿を没し、人民全体の大きな像以外には何も見えなくなる」と表現している。つまり人は「埃のような存在」になったという。同じ時期エンゲルスは「英国における労働者階級の状態」(1845年)でロンドンの下層階級を描いている。エンゲルスも「どのような関係もなく、押し合いながら足早に通り過ぎてゆく」群集を見ている。この労働者の先頭に立つ革命家をトクヴィルは薄汚い人間像にしかみていない。群集を見るトクヴィルの目は冷ややかである。トクヴィルにとって対象は中産階級であったようだ。

「群衆」は通りすがりに見た程度であって、トクヴィルの終生の主題とは「民主的な専制」である。「この人々の上には後見的権力が聳え立ち、生活の面倒をみる任にあたり、その権力は絶対で事細かく、几帳面で用意周到そして控えめである。それは父権に似ている。権力は市民のためによく働くが、単独の裁定者たらんとする」という。まるで今の日本の官僚の事を書いているようである。18世紀のフランス社会では平等の拡大にともない行政における中央集権化が進行し全能の国家が成長した。人間の他者からの孤立にほかならない個人主義は、社会に対して無関心に止まるため専制に都合よい条件を準備した。トクヴィルは「アメリカのデモクラシー」で「多数の圧制」と「民主的な専制」を主な議題とする。多数の圧制(多数決の原理)は個人の生命や財産を奪うことは無いが、少数者は耐え難い疎外感と異邦人性を味わう。多数決の原理は少数者の精神を侵蝕するに到るという。啓蒙専制君主としてしられるプロイセン(ドイツ)の国王フリードリッヒ二世の「プロイセン一般ラント法」は立憲君主制国家の典型を示し、「民主的であるが自由主義的ではない」という。日本はこのプロイセンの立憲君主制を模範として明治の近代化を推進したため、国家権力至上主義という怪物を生み出した。

5) トクヴィルの人間性の回復

この章はトクヴィルの希望といってもいい内容で多少同意できないところも多いが、憂鬱論者のトクヴィルがどんなデモクラシーの処方箋を出すのだろうかという目で見て行こう。家族においても平等主義的家族が家父長的核家族にとって替わると考える。均等相続制と小規模財産所有が父親の権威をさらに低下させるという。家族を通じて知識と技術を身につけるという「第1次社会化」はデモクラシーの家族では不十分である。とトクヴィルは家族の絆の弛緩を嘆くが、均等相続は日本の民法では保証されているし、知識と技術を身につけるのは学校と社会であって、家族間の垂直伝達は伝統芸能の伝承以外ではありなくなっている。伝統の力は家族に止まらず、平等の支配する世界のあらゆるところで弱まりつつある。デモクラシーでは伝統=過去が軽視される傾向にあるとトクヴィルは主張する。デモクラシーでは古いものに対する憎悪が植えつけられ、人間の無限の完成可能性の観念が信奉される。それはパスカルのいう「永遠の遁走」であろうとトクヴィルはデモクラシーの性向を皮肉っている。平等が広まることで失われる伝統の価値は、回復が困難である。トクヴィルの嘆くところは失われ行くものへのノスタルジーであって、私達が生きる現在ではすべては過去のものになっており、トクヴィルの感傷を理解すること自体困難である。トクヴィルの感傷はさらに封建貴族の名誉の象徴である「家紋」という形式の愛惜につながる。トクヴィルは大真面目に「私たちが怠惰で無力になればなるほど、形式はますます必要である」という。集団という二次形式の権力機構の役割は専制を抑制することであると云う。個人主義とどう闘うかは「その利益の正しい理解」に基づかなければならない。「全体と個」の間を埋める(膠着する)役目を持つ諸集団の正しい理解を回復させよう。これは今の日本政治の圧力団体ではなくタウン・コミュニティの回復のことである。トクヴィルは個人主義や専制に対する「自由の制度」の効能を説きながら、人が他者とともに共同の仕事に取り組む中で、孤立していない自分を発見し他者に協力する必要を自覚することだという。そしてなによりもデモクラシーのもとで人間の形式の喪失を回復することが必要であり、社会の中で生きる人間の生存条件とは、団体を作ってそこで豊かな影響力のある強力な存在、すなわち貴族的な人格を構成することだ。今日的言葉でいうと、企業体、労働組合、共同組合、地方コミュニティの自治団体、NGO、NPOなどの2次的団体に参加することである。

 
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