160110


文藝散歩 

堀田善衛著 「時間」
岩波現代文庫」 2015年11月

殺、掠、姦の南京虐殺事件の中、中国人知識人の立場になって何ができるかを問うた人間存在の本質に迫る戦後文学

堀田善衛(1918年大正7年7月7日 - 1998年平成10年9月5日)という作家・評論家は、気になる作家です。私がいままで読んだ本は、堀田善衛著 「方丈記私記」(筑摩書房)堀田善衛著 「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫)堀田善衛著 「ゴヤ TーW」(朝日文芸文庫)である。本書「時間」もそうであるが、小説というより評論、文化批評に近い文体です。平易な表現の中で奥深い何ものかを探ろうとする著者の姿勢・問いかけに共感が持てた。この「時間」という南京虐殺事件で日本軍が中国南京市民を銃殺する描写には、「ゴヤ」の処刑の場面と共通するところがあると直感した。本書は中国国民政府の諜報機関の知識人が語るモノローグの日記形式で構成される。そういう意味で本書は中国近代化前の民衆を描いた魯迅著 「阿Q正伝」に似たところがあると思う。登場人物は、私こと陳英諦、妻の楊莫愁、子の英武、従妹の楊女史、召使の洪嫗、兄の政府役人英昌、伯父、日本軍桐野大尉、ダブルスパイK、刃物研ぎの青年(共産党員?)とあと2,3名に過ぎない。ロシア小説のように膨大な人の名を覚える必要はない。1937年12月12日、日本軍が南京に突入した夜の惨劇から話が始まり、1938年9月18日までの主人公「私」の生きるということの記録である。本書「時間」のあらすじに入る前に、堀田善衛氏のプロフィールと本書の位置づけについて概観しておこう。富山県高岡市の生まれ。旧制金沢二中から1936年に慶應義塾大学政治科予科に進学し、1940年に文学部仏文科に移り卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍したという。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで敗戦を迎える。1945年5月武田泰淳氏と共に南京を旅し、南京事件の見聞を得たようだ。敗戦直後、上海現地の日文新聞「改造日報」に評論「希望について」を発表。同年12月に中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用される。翌年12月まで留用生活を送る。1947年に引揚げ、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。アガサ・クリスティの『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。1948年に処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。 1951年に「中央公論」に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(「文学界」1951年9月)も受賞作の対象となっていた。1953年に国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年に「南京事件」をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。モスクワでパキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと知り合ったのは1960年代である。ジャン=ポール・サルトルとも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解したあと、1974年に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった。政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。1977年の『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。受賞作品としては、 @1952年 - 第26回芥川龍之介賞(『広場の孤独』)、A1971年 - 毎日出版文化賞(『方丈記私記』)、B1977年 - 大佛次郎賞(『ゴヤ』)、ロータス賞(『ゴヤ』)、C1994年 - 和辻哲郎文化賞(『ミシェル城館の人』全3巻)、D1995年 - 1994年度朝日賞、E1998年 - 日本芸術院賞(第二部(文芸)/評論・翻訳)がある。

本書「時間」は1955年(昭和30年)新潮社から刊行された。敗戦後10年経っており、すでに中華人民共和国の樹立を見ており、朝鮮戦争からサンフランシスコ講和条約締結、米ソ冷戦体制の開始の激動期を体験している。その中で堀田氏が南京虐殺事件を取り上げた理由と意義を考えなければならない。また本書巻末に辺見庸氏の「解説」があり、本書の意義を現在の政治状況から見ている。でなければ岩波現代文庫が最初の刊行から60年経って本書を再び世に問う理由が見当たらない。辺見氏の解説を聞く前に、辺見庸しのプロフィールを見ておこう。1944年宮城県石巻市南浜町に生まれる。宮城県石巻高等学校を経て、早稲田大学第二文学部社会専修卒業。共同通信社に入社し、外信部のエース記者として知られた。北京、ハノイ特派員などを務め、北京特派員時代の1979年には『近代化を進める中国に関する報道』により新聞協会賞を受賞。外信部次長を務めていた1991年(平成3年)、職場での経験に着想を得た小説『自動起床装置』を発表、第105回芥川賞を受賞した。また1994年(平成6年)には、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや、原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限の「生」における「食」を扱った『もの食う人びと』で、第16回講談社ノンフィクション賞を受賞。1996年に共同通信社を退社、本格的な執筆活動に入った。近年は「右傾化に対する抵抗」などをテーマに活発な論陣を張っている。戦後文芸史上で特異な存在であるこの「時間」という小説が敗戦後70年を経た今と、単行本として上刊された1955年とでは持つ意味が全く違う。違う点は、日本軍による中国戦略戦争及び南京虐殺事件に関する記憶と認識の激しい移り変わりです。虐殺事件の被害者とその親族及び日本軍関係者が死絶えてもはや肉声として証言する人もいない中で、今日の右傾化政治家たちが勝手な歴史を編集している。近年の日本には「自虐史観」批判なるものが登場し、「南京虐殺はなかった」とか「従軍慰安婦なる問題は反日勢力のでっち上げだ」とまで叫ぶ勢力の動きがとみに増加している。1990年以降「日本版歴史修正主義」とまで呼ばれるようになった。朝日新聞攻撃やNHK批判に見られるメディアの窒息現象が横行する今日では、もはや「時間」のような作品は生まれてこない。2015年10月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は中国が申請した旧日本軍による南京大虐殺に関する資料を瀬かい記憶遺産に登録したと発表した。菅官房長官は「一方的で、中立公平であるべきユネスコとして遺憾である」と記者会見で述べ、ユネスコへの基金を減額するというまさに札束で頬を打つ姑息な行為に出た。いまや人のみが為しうる歴史認識は、政治によってもみくちゃにされている。安倍首相は侵略戦争といった「過去のことは後世の歴史家に任せよ」と過去の責任を放棄し曖昧な領域に押しやろうとしている。この日本を覆っている右傾化の波については、中野晃一著 「右傾化する日本政治」岩波新書2015年7月に日本政治の右傾化の歴史が述べられている。「時間」の主人公が「今一番苦しんでいるのは、ひょっとして人間であるよりむしろ道徳というものかもしれない」と述懐しているが、今もやりたい放題の無責任が跋扈し、道徳が蹂躙されようとしているのであろう。恐らく近代日本において欠けていたのは「他者への配慮と創造力」であった。「到底筆にも口にもできないような」旧日本軍の蛮行は、相手を同じ人間と見なしていなかったことによるものである。まさにナチスのやり方と同じであった。1945年5月、堀田善衛は武田泰淳と南京に旅した時、「いつかは南京大虐殺を書かなければならないだろう」という不吉な予感がしたという。「日本軍は中国軍の敗残兵ばかりでなく、一般市民・女性。子供までを見境なく襲い、放火、掠奪、婦女暴行などを数週間も続けた。中国軍民の犠牲者は数万から43万人ともいわれている。日本以外の海外メディアは洪水のように南京大虐殺、レイプ南京を記事にしたが、日本では大虐殺については秘匿されてきた。長きに渡って日本の歴史の中でもまれに見る恥辱であった」と堀田善衛は彼の全集のあとがきに書いている。そのため南京大虐殺は未了のまま日本にぶら下がっている。安倍首相は従軍慰安婦問題と同じように終りにしたくてもまだ終わることができないのである。従軍慰安婦については韓国政府と金で解決しようとしているが、これは民衆の中では終われないのである。「外国軍も同じようなことををやっている。戦争時はそういうものだ」といった言い訳で、戦争一般にすべてを流し込むことで思考を放棄し(鵞鳥のように頭を砂の中に突っ込んで、美しい日本と自己暗示をかけるのは民衆ではなく支配者・権力者である)、責任を忘却の内に解消してしまう「日本方式」を堀田氏は強く拒否する。たとえ情報と統計不足で犠牲者の数が数十万人から数万人が妥当とされたとしても、死者の数値化による事件の過小評価を強く戒めている。まして「南京大虐殺はなかった」と公言した石原慎太郎自民党議員(元東京都知事)は厚顔破廉恥と言わざるを得ない。

1) 「時間」のあらすじ  

* この作品の主人公は、終始「わたし」という一人称代名詞で登場するのですが、陳英諦という名を持っている知識人で、中国の文化についてはもとより欧米文化にも造詣の深い人物です。いくどかヨーロッパを訪れたこともあり、ヨーロッパの諸言語にも通じています。年のころは37歳、国民党政府の「海軍部」日本流に言えば「海軍省」に文官としてつとめて8年になります。1920年の蒋介石による労働者学生の大弾圧殺戮事件のときには、学生として弾圧された側にいた、という経歴を持っています。兄の陳英昌は日本に留学したことのある司法官の役人です。陳家も富裕な階級に属していて、兄英昌が政府の幹部たちとともに南京を逃げだすにあたって南京に留まる弟英諦に厳命したのは、なんと、予想される日本軍の占領下という条件のもとでも家と財産を守れ、いや、殖やせといったことでした。この彼が住んでいた家は、3階建で19室もある洋館です。彼の妻の本名は清雪ですが、結婚前にしばしば散歩にいった莫愁湖のほとりにかつて住んでいた六朝時代の女流詩人莫愁の名を借りて莫愁と呼ぶようになっていました。彼女が、英諦にとってかえがえのない愛の対象であったことだけははっきりわかります。この彼女とのあいだに英武という幼い男の子がいます。この作品は、明確な章別編成はとっていませんが、およそ4部に分つことができます。
* 第1部は、1937年11月30日から12月11日までです。つまり、日本軍の南京攻撃を予期しての政府機関が漢口に疎開してから日本軍が城内に入ってくる寸前までの南京のようすを描いています。この先どうなるのかわからない市民たちの不安に満ちた毎日のようすです。国民政府の漢口疎開が象徴していたのは、南京を脱出できる地位と身分と金を持つひとびとと南京に置きざりにされて身動きできないでいる庶民たちとの絶対的な落差でした。とりわけ、蒋介石主席そのひとが夫人や腹心たちとともに飛行機で脱出したあと、南京防衛軍の幹部将校たちのなかでも気の利いた連中はさっさと脱出してしまいました。とりわけ、南京の「咽喉」である蘇州からいのちからがら脱出してきた従妹の楊嬢の口から語られる日本軍将兵の暴虐ぶりは迫真的です。
* 第2部は1938年5月10日から6月2日までとなっていますから、第1部の最後からほぼ半年の空白がある。このあいだに、しかし、前年12月13日つまり日本軍が南京城内に入って占領した日から約3週間にわってくりひろげられた、南京市民に対する日本軍将兵のかずかずの暴行陵辱がおこっていた。これこそ「南京大虐殺」として歴史にとどめられることになったことがら以外のなにものでもありません。そうした暴虐の実相を、陳英諦自身の体験にもとづいて記した部分が、回想として、この第2部には挿入されています。この暴虐は、作中では、「殺、掠、姦」と簡潔に表現されています。日本軍が南京を占領した初日13日の夜に、早くも、陳英諦は妻子と楊嬢ともども針金で後ろ手に縛られ数珠繋ぎにされて、近くの小学校に連行されます。ここにはすでに地域住民が収容されていて、校庭には屍が積みあげられてた。丸裸で胴体にはまったく傷がなく手足も完全なのに首だけがない、という屍体もあった。その日の朝早く四時ごろから順番に殺されたひとたちの屍体でした。額や掌に軍帽をかぶったり銃を持ったりした跡がないか見るといったいいかげんな検査法で、毎日麺棒で粉をこねるために指にたこのできている男だの鞄をかける職業のため肩に跡がついていたバスの車掌だのまでが兵隊と見なされて殺されたのだという。校外からも断末魔の叫びが聞えてきていた。午後になって殺戮が一段落すると、その屍体を校外のクリークに運び水中に投げこむ作業に、陳英諦を含む男たちは駈りだされました。翌14日の夜、いよいよ、酩酊した日本兵によるレイプがはじまった。陳たちは、あらかじめダブルスパイから手引きされていたので、鍵のかかってない門を探しあてて逃げだし、雪の降りしきるなか、野ざらしになった柩のあいだにかくれ一夜をすごしたのち、金城大学に設置されていた安全地帯にたどりついた。けれども、ほんの数時間後には、そこにもまた日本兵が「俘虜を捜索するという名目で乱入してきた」のです。陳は、最初に日本兵が家に侵入してきたとき左腕に傷を負っていたために、俘虜と認定され、他の男たちといっしょに後ろ手を数珠繋ぎにしばられて、トラックに押しあげられ、これが莫愁たちとの今生の別れになってしまいます。その後、クリークのほとりで、機関銃を掃射され、クリークに転落します。けれども、九死に一生を得て、10日間そこらの空き家にかくれ、高熱にうなされているところをだれかにたすけられて、病みあがりのからだで金城大学の方向へ歩いている途中で日本兵につかまって、軍夫にされ、荷担ぎ人足生活4ヶ月ののち、脱走して、わが家にたどりつき、そこを接収して暮していた日本軍の情報将校桐野中尉に、その家の下僕であると身分をいつわって申告し、中尉の「下僕兼門番兼料理人」として暮していくのです。ただ、この彼は、一方で知られてはならない秘密の任務を、奥地に疎開した政府から負わされてもいます。日本軍の動向その他南京で入手しうる情報を、この家の地下に秘密に設置してある無電機によって打電するという任務です。同時に、5人の諜報員を指導し統率する立場にもおかれています。そのうち、陳英諦は、刃物を研いだり売ったりする行商人「刃物屋」に出会います。この彼の正体はこの段階ではまだわかっていないのですが、陳が日本軍の軍夫にされているときいっしょにこきつかわれていた青年でともに脱走したなかまであること、彼がどうやら地下にもぐっている共産党員であるらしいことはわかります。ここではじめてではなく、じつは以前から登場してはいたのですが、陳英諦の「伯父」なる人物が、英諦の予測にたがわず、日本軍への協力者として英諦の前にあらわれます。
* 第3部は1938年6月30日から8月22日までです。この期間に、英諦は、以前この屋敷の使用人の一人であった洪嫗に出会い、彼女の口から息子英武が日本兵に殺された顛末をくわしく聴きとります。また、ついにほんとうの身分を桐野中尉に知られ、知識人にふさわしい仕事をするようにと懇切に勧められます。このような好意を辞退することは日本軍への敵意をあらわすことになりかなり危険なことではあったのですが、陳は、あえて辞退して下僕にとどまります。この桐野は、しかし、それ以来、なにかにつけ英諦ととかく知識人同士の話をしたがるようになります。会話は英語でおこなわれます。桐野はどうやら召集される以前は大学教授であったらしい。この桐野に対する陳の観察には、日本人知識人のありようについての痛烈な皮肉も感じられます。ここで、生死もわからなかった従妹楊嬢の消息が「刃物屋」からもたらされます。楊は生きていたのです。ただレイプによって黴毒にかかっていた。それだけじゃなく、レイプによって妊娠もしたが腹を強打して堕胎したようだった。それらの苦痛をやわらげるために麻薬を使ったのが原因でヘロイン中毒になっていた。この楊は、陳の家族とともに日本兵に拉致されたおり、いちはやく、日本語のできる者をさがして「接敵班」を、医者をさがして「衛生班」を、老人と幼児の世話をする「女子青年班」をといったふうに、収容されていた500名ほどの市民を組織し、無用の犠牲者を出さないようするために動きだすなどして、「新しい時代は血ぬられた枯草の下から爽かに芽生えてきている」と陳英諦をうならせたような娘です。この彼女にしても、あの時期のあの暴虐の犠牲となることをまぬかれえなかったのです。彼女は、また、英諦の妻莫愁とさいごまでともにいた人物なのですが、その彼女にしても、ついに、莫愁の最期を見届けることはできなかったという。殺されたことだけは、しかし、確実だった。この第3部の末尾近くに、ダブルスパイとなっていたKとの対決のシーンが出てきます。ここではじめて、このことがあの「上海事件」のときともにたたかった画学生であり、英諦の友人であったことがあかされます。この対決そのものが、ですから、諜報員の指揮監督者と忠誠を疑われた諜報員とのありきたりの対決のレベルを超えて、まさに生の根の部分にかかわってくる深い対決になっています。
* 第4部は1938年9月12日、13日、18日に10月3日の4日だけであり、従妹楊嬢の蘇りの苦闘を描くことだけに集中しています。希望の象徴です。諜報員だった陳英諦と桐野大尉が同居していること自体無理な話で、陳英諦も予感しているのですが、いずれ無線機を発見され、陳が諜報員だったことがばれ、拷問され殺される運命が待ち受けていることは明白なのですが、それについては書かれてはいません。
(なお「時間」のあらすじについては、サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/以上にうまくまとめることはできないと思い、再構成して一部転載させていただきました。厚くお礼申し上げます)

1) 「時間」に見る堀田善衛の思想の断片

上に書いた「時間」のあらすじが骨だとすれば、主人公陳英諦や他の人に言わせている言葉の中に、作者堀田善衛の思想が肉のようにまとわりついている。決してまとまった思想として語られてはいないが、おそらく堀田氏は登場人物を通じて言いたかったことはこのようなものだろうと思われることを、本の中の順に沿って箇条書きで書いて行く。重複があれば省略するが、言葉を変えていっていることも拾ってゆこう。
* 史前であり、史後であるこの過酷な自然の美を、我々(中国人)は城壁によって拒否し、城壁によって温かい血と柔らかい肉を持つ人間を守り、精神を守ってゆくのだ。これは中国人および西洋人の自然は征服する対象だとする文明観である。自然と一体化する日本の思想とは根本的に違う。彼らは城壁の意義を解さない。日本軍はいつかこの自然によって疎外され、中国から追い出されるであろう。日本が支配したと称する中国は誰もいない点と線だけだった。
* 我々中国の内部が、危機が迫って以来、実に様々な異物によって侵入されかき乱されている。
* 役所というものは、そして権力というものは、なんと抽象的なものだろう。政府も海軍部も漢口から重慶へ移動した。しかし敵はこの抽象的な機能をこそめがけて、これを征服しようと進撃してきたのである。敵の背後にあって、これを戦わしめるある抽象的な、幾百万人の生命をもものともしないエネルギー・・・
* 私の過去は明るくはない。裏切りの陰翳に満ちている。これと闘かわねばならない。つまりかっと眼を開いて見なければならない。精神の世界は事実の世界よりももっと血なまぐさいどろどろした領域のように思われる。
* いろいろな噂、デマ、憶測、流言は嘘であり、また一切が真実であると思う。何故なら籠城者は情報を遮断され、すでに期待のみで生きているのだから。最悪のものがやって来るという期待が、一切のものに現実性を付与しているのだ。希望は後方へ退去した。
* 支配者の交替(国民政府から日本軍への)は精神の気圧の激変を伴うものだ。異常事が生活の手段と化した時、人は裏切る。
* 命令を下すことになれてしまった人間は、おそらく判断力を失う。組織の頂点にはどんな化け物がいるのだろうか。特権の座に何の疑いもなく座り込み、そこから何千もの命令を下し、危険が迫ればさっと引き揚げる。それが権力である。首都脱出に際しても身分秩序を守ろうとする。
* 南京は中国の首都である。国民政府の所在地である。だから大都会であり、繁栄を極めたと都会であると敵は考えるのではないだろうか。実は南京の実態は、確かに歴史は古いが17万人からスタートした今では人口50万人の地方都市である。産業と言ったら緞子製造くらいしかない。田畑の方が多いのだ。日本軍はおそらく失望するであろう。そして首都を落としても戦争は止まないことを知って二重に失望するだろう。
* 悪夢に包囲された首都南京にも、世界共通の時間が存在する。しかし今はそれを気にしないことが一つの力になりうる。
* 非常に多くの人々と同じく、私も日本軍の占領くぉすでに予期し、その隷下で生きるための心の工夫をしている。奴隷の境遇にあって、いかに奴隷ならざる精神を立てて生きるか。私は愛国心を本能的に信用しない。それはほとんど悪である。その悪を利用するのが用兵学である。これがあるからこそ人間は国際紛争を戦争によって解決しようとするのだ。そして軍人と売春婦は、最古の職業の一つである。
* 現在のこの異常な状況を、極限的な、例外的な状況とみることは許されないのだ。むしろこの異常さこそが我々の時代の日常性というものかもしれない。
* 自然や動物は元に戻ることができるが、人間だけは不可逆なのだ。元の純白に戻ることはあり得ない。取り返しのつかないことをしでかすのは人間だけである。
* 今我々は、死を通して生を見ている。こういう状況に陥って初めて、美を、非常な美を認識する。戦争の圏内では、、実に様々なものがその蔽いを剥ぎ取られて生な実体を露出するのである。この絶望的な律法に従うときに美が見えてくる。この滅亡という美しくかつ絶望的な光に照らされた幸福な状態は、反面我々が陥っている病的な状態の証明でもあるのだ。
* これから死ぬのは何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異がある。
* 1937年12月13日の午後だった。城の内外とともに集団的戦闘が終止したのは。それから約3週間にわたる、殺、掠、姦・・・・・あの銃声は、場外で捕まった同胞4万人を機銃で殺した音であった。
* いまの生き方は戦争の語法、小説の技法で語ってはならぬ。鼎(3本足の入れ物)に語法で語れ。
* 日本兵の粗暴な所以は、彼らが兵としての正統な名誉心や勇気を正当に評価されず、46時中組織的に侮辱されていることからくるように思われる。小孔がもつ巧緻な兵卒侮辱述は軍事技術の中で最も基本的なものであった。
* 自然は敵にも味方にも、要するに人間に対して何の約束もいていない。人間はある約束、例えば敵とか味方とか・・・に基づいて人間を殺伐劫掠する。
* 私はあの熊にも似た黒い鼎のようにありたい。内面的には鼎に油の沸くが如きものでありたい。すべて汝の手に堪ゆることは力を尽くしてこれを為せ、其は汝の往かんととする陰府には工作も計謀も知識も智恵もあることなければなり。
* 私ー被征服者、被占領地や植民地、または被抑圧階級の人々は、どうやらほっておくと、必然的に分裂的性格を持たざるを得ないようだ。深夜地下室に降りて無電機のまえにたった一人座るとき、その時だけ私は「わたし」である。技術者として熟練工としての自分を認識する。
* 性と死と生は、なんと接近していることか。死を思うとき私は、いまはいない莫愁を激しく求める。
* 青年の堕落・腐敗を鞭打つ声が上がり始めたら、若者よ、大人たちは戦争の準備を始めているのだと思って間違いはない。
* 他国の軍事支配と暗い政治気候の下に生きることが、いかに自然と人を分裂させ堕落させるかということ。すべては人間の問題なのだから、そして人間の問題を純粋に考えるためにこそ、他国の軍事支配と暗い政治気候は打破しなければならない。
* 情熱はかくも受動的なものなのだ。情熱と相対立することの確実な、自由な思想の保持者でなければならない。情熱や愛憎や、本能的な愛国心などという不正確なものでは、長く長く敵と戦うことはできない。私は家族をすべて殺された孤独者なのだ。その孤独の底を割ろうとする自分自身の意識に対する変革者にならなければならない。皆がそうなのだから、その方が正しく思われるからといった受け身のあり方は、機械計算機の様だ。自ら必然性を創造できぬ自由は、自由ではないだろう。
* ある人、ある国の歴史が、その全面的滅亡の前に全くあたらしい価値を生まなかったなら、滅亡に何の意味があろうか。我中国の歴史は、特に近代の歴史はめつぼうのれきしである。その時々に新しい価値が生まれた。
* 中国人は南京虐殺を決して忘れないだろう。日本人が広島・長崎の被爆体験を忘れないように。
* 星、月、大気、季節、生、死。秩序はそこにある。朝目覚めるとは、もう一度この秩序を信じることである。極限で人を行動に衝きやる意欲の源泉に、幻視・幻聴的な錯乱が忍び入ったものとすれば、これは強く警戒しなければならない。
* 音のない世界と沈黙とは違う。沈黙とは一つの言葉なのだ。それは何かを意味する。黙ることは語る事なのだ。唖者は黙っているのではない。
* 事実を認めろと平和主義者は迫る。敵の戦力に頼った発言である。私も事実を認めるにはやぶさかでhない。しかし既成事実を一層固めるではなく、その事実を変えようとする意志することである。恐怖戦慄意識が市内に蔓延している。
* 思想は、意志と技術、製作力が思想自体を遥かに超えていない限り、実現されない。貧弱な思想では口実を探すためにしか歴史を学ばない。後ろ向きの姿勢で歴史を予言するだけだ。
* この南京城はひとつの堂宇である。6億の民のただ中を流れ、存在している。我らの受難をして、復讐と建設の音楽たらしめよ。
* 人間認識と社会認識の間には画然たる裂け目がある。前者は何らの信仰、神の方向へ向き、後者は組織の方向へ向く。統一された主体者たりたいと願う渇望を別とすれば、それが普通のことであり、人間の条件なのだ。
* 我々はあまりに死の近くに来て生きているので、働くこと、労働を離れるや否や、すぐに人間観が歪んでくる。私が日記に記しているのは、人間が極悪な経験にどのくらい耐えられるか、人間はどんなものかということを、痛苦のさらぬ内に確認しておきたいがためである。毎日毎分私は黒いニヒリズムと無限定な希望との間を往復している。希望はニヒリズムと同じほど、担うに重い荷物である。我々は死ぬまでこの荷物を担ってゆく義務がある。労働の日々があるだけだと信頼できなかったら、自殺する以外に方法はない。
* ある種の政府官僚というものは、どんな職業の人よりも驚くほどに無政府主義的なものである。国民政府は遠からず汚職と内部抗争のために分裂解体するだろう。
* 日本では愛国的であるという理由で、すべての腐敗(中国でのアヘン取り扱い)が許される。それは現人神(天皇)への奉仕が道徳問題のけじめを排除するらしい。天皇が道徳を崩壊させたのである。(政府権力者と軍部は天皇という便利なものを独占した)
* 日本軍による南京虐殺事件を、人間の、あるいは戦争による残虐性一般のなかに解消されてはたまったものではない。
* 楊(従妹)はレイプされ妊娠させられ、麻薬ずけになった恐ろしい経験を、無関心と言っていいほどの静けさで語る。何度も自殺しようとしたけど、体力がなくて自殺もできないの。生きるってことは、濡らす事、死ぬってことは乾くってこと、信じて。
* 自分自身と闘うことの中からしア?、敵との戦いの厳しい必然性は見いだされない。これが抵抗の原理原則である。南京で数万のの人間を虐殺した日本軍には、彼ら自身との戦いとその意志を悉く放棄した人間たちであった。軍隊の指揮者の多くは、責任を負いたがらない、無政府主義的な官僚である。
* 人生は、この時間は、生から死へ向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている。そして現在という瞬間は、いつも二つの時間が潮騒のように波立ち、鼎の油のように沸きたっているという。
* 田舎へ帰ることは、いいことだ。中国ではいかなる思想も、それが田舎においても妥当であるかどうか、農耕労働と符合するものであるかどうかで試験され、かちを決定される。都会は自立できない、思想もそうだ。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system