文藝散歩 

堀田善衛著 「定家明月記私抄」 
ちくま学芸文庫


新古今和歌集の歌人で王朝文化の終焉期に生きた藤原定家
歌道確立と昇進買官と庄園経営の悪戦苦闘の人生



定家ゆかりの冷泉家(今出川通り烏丸東 同志社大学前 京都御所の北)

「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」   (西行)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」   (定家)
「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」  (寂蓮)

上の3つの和歌は新古今和歌集の有名な三人の「三夕の歌」です。これを叙景の歌という評価は当然だが、しかし三人は別にその場に立って詠んだわけではない。つまり心象風景というものである。旅の詩人と言われた西行の歌も「歌枕」の場所しか読んでいない。彼はなぜ日本中を歩いていたのだろうか。それは政治的雑事のためです。或る人は諜報活動だという。フィクサーだともいう。彼には庄園から上がる収入が豊富にあり、藤原定家のように貧乏貴族の悲しさは聞いたことがない。衣食の心配が聞こえてこないのだ。とにかく歌の世界とは観念の世界であって、正岡子規のいう「写生主義」とか「月並み」という非難は甘んじて受け、かつその歌いだす世界がどうしょうもないほど高踏的叙情世界なのです。新古今や定家のいう「本歌とり」で先人の名歌を受けて、新たな世界を作ることが主眼なのであって、日常雑事や肉親の愛情や風景や感想や印象などを詠っていたのでは、形而下の世界でさ迷っている事にすぎない。新古今集はまさに形而上学のことです。定家の世界とは一言で結論つけると、モノクロームの淡い色彩に満ちた冷え切った晩秋から冬の心象風景である。それは同時に滅び行く宮廷文化へのレクイエムといえるのではないだろうか。

定家(1162-1241年)は平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた歌人です。この時期全体の政治的状況と文学的状況は加藤周一著 「日本文学史序説」に概論があるので繰り返さないが、簡単に纏めておく。12世紀の「院政」は天皇家と藤原摂関家との権力ヘゲモニー争いであるが、保元・平治の乱をへて実質的な権力を握ったのは武士の頭領平清盛であった。つまり藤原摂関家に代わって平家が摂関家になったのだ。荘園という基盤を共通にもつ武士と貴族の権力争奪戦であった。次に武士同士の源平の乱をへて1192年に源頼朝が鎌倉幕府をつくった。守護・地頭を平家領に設置する権利を獲得して軍事・徴税・警察権を獲得した武士階級の前に、平安貴族政権の時代は終った。天皇家は鎌倉時代を通じて、武士指導者間の不和を利用して失地回復を願うという政策が一貫していた。1221年の後鳥羽上皇の起こした「承久の乱」は失敗し、後醍醐天皇は1331年元弘の乱で失敗して、貴族階級の権力奪取能力は完全になくなっていたことは明白であった。鎌倉幕府に実権を奪われた京都の貴族階級の政治的に巻き返しを図ろうとした努力は既に空しく、幕府に取り入って自身の宮廷内の昇進を図る人もいたが(藤原兼実や定家ら)、しかし依然文化の担い手は貴族階級にあった。1201年後鳥羽上皇の命で「和歌所」が作られ、藤原定家らが「新古今集」の編集にあたった。定家は父俊成の「古来風体抄」をふまえて、歌合・題詠・歌論の定式化をすすめ、文学的価値の意識化に努めた。「幽玄」、「有心」などという言葉で表現される美的価値の主張と、「本歌取り」にみる歌論の伝統主義という工夫である。1205年「新古今和歌集」が六人の選者によって編纂され1978首の和歌をあつめた。新古今の特徴は「詠み人知らず」の歌がなく収録されたのは同時代の専門家歌人の歌ばかりである。歌の制度化と専門家の時代となった。古典を踏まえて、掛け言葉を駆使して、複雑な内容を凝縮するのが新古今流であり定家流であった。現場を見ないで作るのが普通であった。

藤原定家の残した仕事には「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」などの編集、歌論書、私編集の和歌集、日記「明月記」、お経や古典の書写(源氏物語など定家によって後世に残った書物も多い)などである。 堀田善衛著「定家明月記私抄」のテーマである「明月記」という日記は定家19歳から74歳までの(定家は80歳まで生きた)の記録である。著者堀田善衛のよれば、明治44年に編纂された国書刊行会「明月記」3巻を原本として、右に今川文雄訳の「訓読明月記」を置き、左に鎌倉側の正史「吾妻鏡」をおいて戦前から40年間ポツリポツリと読みついできたという。この原本の文体は真名字(漢字)書きでしかも定家独特の書体のためきわめて判読が難しく、著者によると「誰もがその名を知りながら、少数の専門家を除いては、引用は多いが誰もが詠み通したことがないという、異様な幻の書であった」。著者も、もし今川氏の「訓読明月記」がなければ読めなかったと白状している。堀田氏の「定家明月記私抄」は2回に分けて発刊され、1986年に新潮社より前編(定家19歳-48歳)を、2年置いて1988年に新潮社より続編(定家50歳ー74歳)が発刊された。定家の約60年間に渡る日記といえども、内容的には欠落が多く、1年間に2,3日の記録しか残っていない場合や、数年間全部が欠落している期間もある。堀田善衛氏はこの日記の面白さは時代背景よりもやはり定家という個性についての面白さで、職業歌人としての衿持、2流貴族としての苦渋、生活難などがにじみ出ていて面白いという。そして定家の歌については12世紀にここまでの高みに達しえた文化の例を世界史に見ないほどだといい、反面、後に残るのは虚無ばかりで、そこには意味も思想も、そんなものは皆無なのだという。この日記の特徴は、なんとも言いようがないほど、自身の日常的行動と宮廷の動静を記するに克明でまめやかさ、丹念さ加減にある。この人の鬱屈した魂が机に向かって克明に記録してゆく姿は、彼の魂がなんとも言えずにくだくだしい日常行動の形を取って現れることの表裏関係にある。二流没落貴族の日常生活は、上司や本家筋へのご機嫌伺いや火事見舞い、加持祈祷などで一日中京都の町を駆けずり廻っているのである。そしてその時の衣裳服装からその色模様、布、乗り物までも克明に毎日あきもせず書き込んでいる。彼は記述魔である。定家の家柄は古くは藤原摂関家の一家であったろうが、12世紀も末には父藤原俊成の官位は正三位非参議で公卿の列に加わっていない。正三位参議以上を「卿」といい、太政大臣と左右大臣を「公」という。定家が公卿の列に入れたのは50歳になってからのことである。定家の時の上皇は後鳥羽院で、社会不安の中での、若さにまかせて放蕩と遊興三昧(遊山、博打、蹴鞠、競馬、鶏合わせ、賭弓、遊女あそび、白拍子歌舞あそび、東歌遊び、造園、琵琶、かくれんぼ、双六、宴会狂い)に狂っていた。これに付き合わされた定家はたまったものではない。体を壊し、財力がないので着てゆくものもない状況であった。遊女や白拍子という怪しげな遊び女が毎日後鳥羽院のサロンに出入りして乱痴気騒ぎである。後白河法皇から後鳥羽上皇までの貴族階級が下層賎民の遊芸を取り入れてうつつを抜かすということは、自身の文化創造力がなくなったということであり、社会の上層部の下降現象は宮廷の没落そのものを象徴していた。そこに咲いた最後の宮廷文化が「新古今和歌集」であった。

堀田善衛氏(1918-1998年)は富山県生まれ、引揚後、一時期新聞社に勤務したが、まもなく退社し、作家としての生活にはいる。1951年に『広場の孤独』で第26回芥川賞を受賞した。1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。欧米中心とはちがう、国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。また、「ベ平連」の発足の呼びかけ人でもあり、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった。1977年、『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活をはじめる。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。私が読んだ著書は「方丈記私記」、「ゴヤ」、そして「定家明月記私抄」である。「明月記」は史書でもなく哲学書でもない。そして定家自身が貴族の日常の克明な記述にしか興味がない人物であるので、まとまった考えが吐露されるわけでもない。端的にまとめる事は当然不可能である。ただ毎日の定家さんにお付き合いしてゆくしかない。それをつまらないというと本書を紹介する趣旨も「身も蓋もない」ことになる。ただお付き合いくださいというしかない。そして先ずは、整理のために定家の年譜を簡単に記して、見通しの助としたい。

定家略年譜
1162年 1歳 出生
1166年 5歳 従五位下に叙せられる。
1180年 19歳 従五位上に叙せられる、明月記の記事始まる、   安徳天皇即位、以仁王の挙兵 福原遷都
1181年 20歳 「初学百首」を読む、   高倉上皇没、平清盛没
1185年 21歳 六条季能の娘と結婚、   後鳥羽天皇即位
1185年 22歳 少将源雅行と殿中で喧嘩し除籍される、   壇ノ浦の合戦、平家滅亡
1186年 23歳 「二見浦百首」を読む 九条家に出仕  九条兼実摂政そして関白に
1189年 28歳 西行の「宮河歌合」を請われて判じる 左近衛権少将になる
1192年 31歳 (鎌倉幕府開府)
1194年 33歳 西園寺実宗の娘と結婚
1196年 35歳 建久の政変で鎌倉派の九条家失脚
1198年 37歳 「仁和寺宮五十首」を詠進    後鳥羽上皇院政を始める 土御門天皇即位
1199年 38歳 安芸権介に任じられる、九条兼実より下総三崎庄を貰う
1200年 39歳 「院初度百首和歌」を詠進す、 内昇殿を許される 源頼朝没
1201年 40歳 「千五百番歌合」の百首詠進、後鳥羽上皇熊野御行に同行、新古今和歌集の撰進を下命される
1202年 41歳 水無瀬歌合に出席 左近衛中将に任ぜられる 冷泉に新宅を設ける
1203年 42歳 新古今和歌集の撰歌を献ずる、父藤原俊成90歳の祝賀を賜る、    源実朝征夷大将軍となる
1204年 43歳 父俊成没、   源頼家修善寺で暗殺される
1205年 44歳 実朝に「新古今和歌集」を献呈
1206年 45歳 城南寺で連歌に参加、九条良経急死
1207年 46歳 「最勝四天王院御障子和歌」四十六首を詠進、九条兼実没、   法然が土佐に、親鸞が越後に配流される
1209年 49歳 源実朝に「詠歌口伝」を贈る
1211年 50歳 従三位侍従に叙せられる、   順徳天皇即位、 土御門院上皇となる 
1213年 52歳 実朝に「万葉集」を贈る
1214年 53歳 参議に叙せられる
1215年 54歳 伊予権守に任じられる、 「内大臣道家百首」を詠進   執権北条時政没
1216年 55歳 治部卿に任じられる、「拾遺愚草」なる
1218年 57歳 民部卿に任じられる、「道助法親王家五十首」詠進
1219年 58歳 「毎月抄」なる、     実朝鶴岡八幡宮で暗殺される、公堯暗殺される
1220年 59歳 内裏歌会に詠進した歌二首によって後鳥羽上皇の勅勘をうけ、出入り禁止
1221年 60歳 「後撰集」、「伊勢物語」を書き写す、   後堀川天皇即位 承久の乱おこる 後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、土御門院は阿波へ配流される
1222年 61歳 参議を辞し 従二位に叙せられる、
1224年 63歳 「古今集」、「後撰集」、「源氏物語」を書き写す    執権北条義時没
1225年 64歳 「基家家30首」を詠進    北条政子没、 慈円没
1226年 65歳 息子為家参議となる、京極に新邸完成 
1227年 66歳 民部卿を辞し 正二位に叙せられる
1231年 70歳 春日神社参詣 「伊勢物語」、「大和物語」書き写す
1232年 71歳 権中納言に任じられる、勅撰集撰進を下命される、序文、目録を奏覧
1233年 72歳 出家 法名は明静
1235年 74歳 「新勅撰和歌集」を清書 明月記の記事はここまで
1237年 76歳 「順徳院御百首」を判じ佐渡に送る
1239年 78歳 後鳥羽院隠岐で没
1241年 80歳 定家没

治承年記(1180―1181年)
定家の日記は1180年2月から開始される。明月記という日記は定家70歳ごろにこれを書き直している形跡がある。これについて「定家」研究者は浩瀚詳細な日記を所持しこれに通暁することは経世の才にとって必要なことであり、日記の借り貸しも行われたという。つまり日記は宮中儀式、行事、服装、慣習などについての典故(文献)であり貴族の必須知識であったからだ。逆にいうと宮廷儀式などのやり方も忘れられつつあったいうことである。この時期は源頼政が以仁王を奉じて平家追悼のために立ち上がり、平清盛は福原へ遷都するなど世の中が騒然とするころであった。定家はメモのような形で白氏文集の文句を引いて「世上乱逆追討耳に満つといえども、紅旗征戎吾が事にあらず」と書いている。文人として生きる決意を明確に示したのである。歌人藤原俊成・定家一家は福原遷都には付いて行かず、あえて世の動きから身を退いた。神主の息子で世捨て人の鴨長明と違って、定家は世渡りには敏であっても歴史意識が著しく欠けている。寂漠たる古京の荒れ果てた廃墟に傷心の情をのべる側にあった。頼朝追討に出た維盛少将が富士川の鳥の飛び立つのを聞いて逃げ帰ったことに清盛は逆上し、源氏に呼応する延暦寺園城寺、南都東大寺興福寺を焼いた。定家は高倉院の法会に参加しようとして、父俊成に止められた。政治集会の匂いに危さを感じた俊成の計らいか。
この年に高倉上皇が崩御し、平清盛も熱病で死んだ。「この月 京師餓死する者、途に満つ」という養和の大飢饉となった。この惨たる月に定家は専門歌人の最初の関門の一つである初学百歌を詠んだ。定家の歌の特徴である「色」の透明感がよく現れた歌を読んだ。マラルメは「詩は言葉で書くもので、イデーで書くものではない」というが、和歌も言葉だけの芸である。貴族階級は所詮世の虚構に生きるもので、歌人はすなわち芸術至上主義にしか存在できない。定家19歳から35歳までの16年間の日記は著しく断片的で、22歳から6年間は完全に欠けている。源平合戦の時期と鎌倉幕府初期の日記、20歳代から30歳前半の日記が全く欠けている。残念であるが仕方ない。歌人には歌が残っていればよしということである。しかし定家の主家筋に当る九条兼実の日記「玉葉」から、定家の動きを知る事が出来るという。定家は少将源雅行と殿中で喧嘩し除籍されることなどが記されている。定家一族はまさに摂政九条兼実の庇護と推挙で生きていた。そのため身を粉にして主家の雑事にこき使われた。定家の兄弟は27人、定家の子供も27人という人数でこれでは貧乏子沢山で生活が苦しいのも当たり前であろうか。

寿永元年記(1182年)
デビュー作で成功した定家は21歳の時、「堀川百首」に参加した。当時の和歌とは狭い貴族社会の和する歌つまり応答であり、対話なのである。人間関係の取り成しの用でもあった。だから言い放し、断定的といった歌には二の句が告げないのでは困るのである。当時、六条家の清輔が死んで六条家の歌壇支配にかげりを見せ、父俊成が九条兼実に召され、ようやく定家一家にも明るさが見え始めた時期であった。

文治年記(1185-1189年)
定家が歌の道に専念することに決めたのは西行にあったことが大きい。1186年西行が勧進した「二見浦百首」に定家、寂蓮、西行らが参加した。あの三夕の歌は「二見浦百首」の秋に入っていた。時に定家25歳、西行69歳であった。当時は神仏習合思想が流行し、東大寺重源一行700人が伊勢神宮に東大寺復興を祈願するほどで、西行は「・・・おもえば神も仏もなかりけり」と詠んだ。西行は武士階級、貴族階級の双方に顔の利くいわば政僧でフィクサーとしての東奔西走の人生であった。芭蕉のようなのんびりと歌枕の旅ではなかった。西行は自分の「御裳濯河歌合」を俊成に、「宮河歌合」を定家に判詞(優劣判定と講評)を依頼した。俊成はいまや歌壇の最高権威となっていた。多くの詞書を伴う西行の「実情歌」に較べると、定家の象徴歌は「新儀非拠達磨歌」と酷評されるが、詩の詩、美の美をめざす純粋詩運動(シュール・リアリズム)となる。

建久年記(1190-1198年)
1192年鎌倉幕府がなった時、「日本国第1の大天狗」と呼ばれた後白河法皇が崩御した。平安末期から鎌倉時代初期を特徴付けるのが院政である。院政は1086年白河上皇から始められ、鳥羽、後白河、後鳥羽と百年以上も続いた政体である。10世紀から11世紀まで200年間藤原摂関家が幼少の天皇を抱いて天下の政を取った。すべての役職を独り占めし非藤原家の貴族を圧迫し没落させた。これに対して上皇が台頭する武士階級を引き入れて権力を握ったのが院政である。天皇が幼少で無力であったのは摂関時代と変わらない。権力に目覚める前の青年天皇に子供を生ませると直ぐに幼少の天皇に譲位させるという繰り返しで、数人の上皇が並存することもあった。ようするに武士階級が藤原摂関家の権力独占を打破するために、上皇が政治を行う政体である。何重もの権力構造というわけの分らない宮廷政治であった。藤原摂関家に変わって政権をとったのが平家である。後白河法皇の院政は34年間も続きこの間の天皇は二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽と五代にもおよんだ。後白河法皇はすべての勢力を操縦して共倒れに追い込む宮廷政治を行い、平家に対して源氏をけしかけ、木曽殿に対して義経を、義経に対して頼朝をけしかけ共倒れを狙ったが惜しくも自分の命運には勝てなかった。後白河の流行歌狂いは有名である。彼は当時の歌を集めて「梁塵秘抄」を編集した。宮廷が流行歌のパトロンになるということは、貴族文化の終焉と文化創造力の危機をも意味した。1194年定家は母をなくし、そして六条家出身の旧妻を離縁し(歌壇に出るために時の歌壇支配者六条家から嫁を貰ったのだが)、今度は鎌倉派貴族の代表である西園寺家から新妻を迎えた。なんと出世のために権力者の娘を妻にとるのは貴族の身過ぎ世過ぎの常識であったようだ。源頼朝は平家と同じように自分の娘を後鳥羽天皇の中宮に入れようと鎌倉派の一條能保を通じて工作したらしいが失敗した。定家は当初から吉富、越部の荘を持っていたが、自分の娘らの女官生活に相当出費がかかっていつもピーピーであった。地頭の台頭によって荘園の上がりが横領され、この時期はまさに定家の経済は貧窮を極めていたようだ。建久7年(1196年)建久の政変が起こり、定家の主家である九条兼実(日記「玉葉」を著わす)が失脚した。後鳥羽天皇の中宮(兼実の娘任子)が内裏から追われ、九条兼実は関白を辞め、前の摂政政基を関白とし、藤原の氏長とした。天台座主慈円(兼実の兄、「愚管抄」を著わす)を隠居させ、承仁法親王を坐主とするという内容のクーデターであった。これは反幕府クーデターで鎌倉派貴族にとってピンチであった。定家は九条良経家の家司であったのでそれは同時に定家にとって絶望的な政変となった。この絶望的な境遇の中で、1198年仁和寺の守覚法親王から「仁和寺宮五十首」の依頼がきて定家はよほど嬉しかったに違いない。同じ年後鳥羽天皇は譲位し上皇となって、土御門天皇が即位した。これ以来後鳥羽上皇は院政を敷いて実にしたい放題の放蕩を始めるのである。この時期の定家の貧窮時代を理解するため宮廷の売官制度を説明しなければならない。宮廷の耳目・聞書(人事発令)には「院当年給」という言葉があるが、官吏に給料が支払われるということではなく(官吏は無給のボランティア、収入は自前の荘園から)、下級官僚を推薦する時に任料を取るという制度のことである。売官、買官にひとつである。この人事を牛耳っているのが昔は摂関家、今は上皇の外戚である。定家はこの時期毎年1月の耳目には縁がなかった。

正治年記(1199-1200年)
1199年の最大の政治的事件は将軍頼朝の逝去であった。後鳥羽上皇と源頼親はその死を隠して人事を断行し、周りを固めてから頼朝逝去を発表した。定家はこの春春日祭の祭使を務めたり、安芸権介(次官)に任じられている。宮廷官僚の勤務は夜勤がおおく、朝廷とは名ばかりで夜廷となっている。後鳥羽上皇の女狂いの御乱行につきあわされて深夜まで勤務して定家はすっかり体を壊してしまった。欠勤する日も多い。「・・・地下の身、進退これきわまる。衰齢38歳」と弱音を吐いている。律令制による官僚への手当ては全くなくなっていた。従って荘園からの上がりものが生活のすべてであった。定家の荘園は吉冨、越部、小阿射賀、千葉三崎、越後刈羽郷の5箇所であるが、地頭の妨害がひどく、京より遠方の荘園は上がりを期待できない名目のものに過ぎなかった。「不運の身、乱代に遭う、何をもってか余命を支えんや」と泣き事しきりである。定家の生活の貧窮の原因は時代のしからしむるところが大きいとはいえ、やはり自分の子27人と家人、家司などを入れて50人ほど一家を養い、娘らの官女としての体裁を整えるための出費はそれは大変なものであった。父俊成依頼の歌の権威として家柄を守るための体面が定家の心の重荷でありかつ支えでもあった。定家はこの虚栄心をバネにして生きてきたようなものであった。毎年正月の耳目(人事)に定家にはお呼びがかからなかった。車もなくなり、馬もない場合があって歩いて参内することもあったようだ。定家の親戚の保季という蔵人職の男が昼間武士の女房を犯して惨殺される事件が発生した。こんなことは宮廷や公家の間では全く倫理観もなく日常的なスキャンダラスな男女関係であったと思えるが、新興の武士階級の倫理観と衝突したのである。平安貴族の「色好み」文化は、武士にとって許せない「好色」、「不義」と映った。建久の政変で失脚した九条家がこの頃から復活し始め、慈円も院の修法に呼ばれるようになった。これは後鳥羽上皇が源頼親と九条良経らを自由に使い始めたことにより、後鳥羽独裁への道ともいえる。定家の妻の弟西園寺公経より、後鳥羽上皇が「院初年百首詠進」という一大行事を行う計画を知った。歌壇を支配していた六条家は定家らの御子左家一門の参加を阻んでいたが、神社に祈願するやら、父俊成は院へ直訴状を出してようやく功を奏し、定家、家隆、隆房の3人がはいった。定家39歳になって、父俊成87歳から賄賂の贈り方まで指示されているのである。ここではじめて定家は九条家の歌人という域から出て、藤原定家としての名を得て、いわば後鳥羽院直属の歌人となるである。ここから後鳥羽院はパトロンとしてライバルとして定家の前に現れたのである。

建仁年記(1201-1203年)
この年の1月、「式子内親王定家伝説」で有名で謡曲「定家」のロマンスを生んだ、式子内親王がなくなった。源氏物語に象徴される平安貴族文化の終焉を見る。この年の後鳥羽上皇は水無瀬離宮で遊女や白拍子を引き入れての遊蕩三昧から急に和歌に熱中し始め、定家をして「金玉の声、今度凡そ言語道断なり・・・」と感激させるほどできばえであった。この上皇は何にでも熱中するルネッサンス人的幅を持つ怪人であった。そしてついには政治に興味を持って承久の乱を起こすのであるが。上皇は千五百歌合なる一大ゲームを開催し、7月には「和歌所」をつくった。寄人は11人、良経、通親、俊成、通具、有家、定家、家隆、雅経、具親、寂蓮であり、家長を「和歌所の年預かり」にした。さらに鴨長明、秀能、隆信らが加わった。そして「新古今和歌集」撰進を下命した。選者は通具、有家、定家、家隆、雅経、寂蓮の6人である。上皇はまさに偉大なる「遊戯人間」の典型である。詩歌の本質は精神の遊戯空間でおこなわれる。鎌倉幕府の武家権力はますますまじめになってゆく世界であるが、三代将軍実朝が遊び人間になりたい風を示すと瞬時にこれを拒絶し殺し去るのである。定家はこの遊戯空間において面目を上げている間も,生活は困窮を極めた。西洋において宮廷画家の待遇が庭師と変わらなかったように、和歌も上皇にとって見れば競馬や蹴鞠など遊戯のひとつである。いっぽう 白河法皇の頃から始まった熊野信仰が、鳥羽、後白河にいたって傾斜を深め、後白河は34回、後鳥羽は31回も熊野御幸をこなった。後鳥羽院の時には遊行に近いものに堕していた。定家もこの熊野御幸に参加したが、道中はまるで物見遊山で、神社奉納、乱舞、相撲、和歌、琵琶奉納、そして遊女・白拍子が加わって例の乱痴気騒ぎというお決まりの遊びとなる。21日かけて京に戻った定家は「心中夢の如し、前後不覚」という有様であった。定家は少将から中将への昇進を願って祈願写経を子なったが音沙汰はなかった。建仁2年は定家の歌歴にとって、新古今風な歌体を完成させた画期的な年であった。「水無瀬殿恋十五首歌合」において、感覚浮遊の極点ともいうべき状況にも、金属的な冷たさを併せ持つ作風である。古歌による本歌取りが大量に出来始め、歌がある形而学的水準にまで達すると、水平線上に自動的に歌が生まれる言葉遊びの世界である。日記のほうは相変わらず例によって官職昇進の遅いことへの嘆きと愚痴に満ちている。当時の昇進人事を支配していた女傑、卿三位藤原兼子への嘆願も上手く行かず、「ただ富者のもの、官を買うのみ、悲しきかな」と嘆くことしきりである。定家の金繰りも少し良くなったと見えて、建仁2年に冷泉の地に家を新築した。冒頭の写真の家である。それは主家の九条兼実より伊賀の大内東の庄を貰って、実入りがよくなったのである。念願の中将に任じられた。この年兄の寂蓮が死んだ。作歌の上では官能と観念を交錯させ、匂い、色、光、音などが見分けがつかないほど昏迷と幻覚性とが小さな世界を作っているのであるが、定家の実生活は闇の中で多少の明かりは見えてきたものの、未だ心身とも惨憺たる状況を日記は伝える。建仁3年は新古今和歌集の撰歌をなし和歌所に提出し終えたことと、90歳となった父俊成に対して、後鳥羽院が祝賀の宴を催したことが最大の出来事であった。政治的には源実朝が征夷大将軍になったことである。鎌倉幕府は頼朝以来の御家人を北条家が粛清し、2代目将軍源頼家が修善寺で暗殺されるなど血で血を洗うシェークスピアー的悲劇の場となっていた。ところが後鳥羽院はあきれるくらい遊宴続きで遊女との性宴に耽っていたという。京都の政治は、後鳥羽院の中宮に入った高倉家の壟断するところとなり、在子は土御門天皇を生み、重子は順徳天皇を生んだ。院の乳人であった高倉家の藤原兼子が官吏の昇進移動を掌握し、兼子への賄賂なしではどうしょうもない状況であった。

元久年記(1204-1205年)
定家の日記「明月記」に、女のことはさておき、後鳥羽院の男色用の寵児を追い出したとか、宇治の離宮で水練のあと裸で馬に乗ったとかという後鳥羽院のご乱行に関する定家の嫌悪感を催す記事が多い。しかし宇治で定家は院に歌の講師をしている。新古今の時代は虚構としての悲恋の時代で、「橋姫」を歌ったものが多い。橋姫はあくまで幻影の中の文学的リアリティなのである。この年の定家は相変わらず荘園の上がりを横領されて訴訟を起こしているが埒が明かない。今年の春の耳目にも定家の名はなかった。日記に「盛経これ元、無才地下の非人なり」と昇進したものに対して罵詈讒謗を吐いている。「金商既に尽く」と経済状態も最低であった。新古今和歌集の編纂は家長を主任として5人の編集員が撰歌に従事していたが、7月に撰歌部類初めが和歌所で行われた。分類への歌の出し入れ「切継」は院の気まぐれで大いに難航し、将に歌の人事異動のごとく、入れられた人は喜び出された人は悲しむことの永遠の繰り返しが続いていた。元久2年3月には新古今和歌集の部類分けは終わって、院の饗宴が催された。ところがこの宴が終わっても清書は行われず、切り継ぎにつぐ切り継ぎがおこなわれ、この時より12年間も延々と続いたのである。後鳥羽院のこの持続する精神(気まぐれ)も異常であるが、日本文化の編集者として情熱と資格を持った天皇は後鳥羽院で終わりである。そして後世からみても、これだけの突き詰めた抽象美を形成した詞華集は世界文学のなかでも唯一無二であろう。定家はまだ切り継ぎ中で清書も披露もすんでいない「新古今和歌集暫定版」を三代将軍実朝に密かに進呈した。鎌倉権力に将軍を通じて好を結んでおく定家の戦略は基本的には時代を見極めたものであった。

建永元年記(1206年)
3月、定家の主家筋の摂政九条良経が38歳で突然死をした。良経は京極の屋敷に庭園を設け「曲水の宴」をはじめた人である。盃が流れてくる間に歌を詠むという文人遊戯としては最高の遊びであった。女傑藤原兼子の前ではぺこぺこする良経に定家は歯がゆい思いをしたが、良経は和歌所の筆頭であり、新古今の仮名序も良経の筆になる。保護者を失って定家の影も心なしか元気がない。いずれにせよすべては後鳥羽院にかかっている。その院は相変わらず蹴鞠、琵琶、双六、カクレンボにうつつを抜かしているのだ。この頃は歌会以上に連歌の会が催された。この連歌の会では、地下の狂連歌が和歌所の伝統的歌人を笑い飛ばそうという企みなのである。これは後白河院の今様狂いと同じく、生命力に満ちた狂歌が宮廷和歌を笑うという、自分で自分を笑うショータイムを院がやってのけるのである。定家は焦った。早く歌学を完成させなければ、連歌や次いで俳諧が迫っているのである。

承元年記(1206-1209年)
既に出家していた、主家の九条兼実が死んだ。定家の世渡りは新幕府派の九条家と、上皇派の近衛家との抗争の間にあった。国家宗教であった比叡山に対して、民衆の信仰をとく鎌倉仏教の宗教改革に対する貴族側の反発は、ついに浄土宗の法然,親鸞の法難となって現れた。後鳥羽院は遵西、住蓮を斬首、法然を土佐流刑、親鸞を越後流刑とした。後鳥羽院は政権にいた23年間に御所離宮の建設は18回にも及んでいる。今回は白河新御堂の近くに「最勝四天王院御堂」を造営した。定家はこの御堂の障子に書く和歌46首を詠んだ。院は「ただ、ことばすがたの艶にやさしきを本躰とする」と評した。明月記の特徴の一つは、なんといっても有職故実すなわち朝廷における礼式や典故、官職などに関するあまりに熱心なメモである。うんざりするくらい服装の記述が詳細である。この頃から院は蹴鞠に夢中になってゆく。それを定家は苦虫を噛み潰すように「風流過差、言語の及ぶところにあらず」と眺めるのである。定家は蔵人頭を望んで買官運動に忙しくなる。宮廷は婚姻と陰謀で明け暮れる。京都守護であった一條能保は頼朝の妹を嫁にし、能保の子尊長法印は最勝四天王院の執事で政僧として後鳥羽院の懐刀のような役を務めていた。その尊長の二人の妹はそれぞれ西園寺公経と九条良経の妻であった。この婚姻はいわば西園寺・九条家連合の成立を意味し、政治的には鎌倉幕府との関係強化を意味した。西園寺公経は公式の関東連絡にあたる関東申次を勤め、京都宮廷の鎌倉担当に当り、京都守護は鎌倉幕府の司政官であった。鎌倉幕府の実権は政子と北条義時に移っていた。鎌倉執権と後鳥羽院との軋轢はしだいに熱を帯びてくる。一方院側にも長巌、増円、信定などの国家宗教の政僧が寵臣となって存在する。政界は公、武、法という三代勢力のにらみ合いといえる。承元2年9月、天皇・上皇の鳩狂いのために朱雀門が焼け、定家は「末代の滅亡、慟哭して余りあり」と嘆いた。明月記は承元3、4年と建暦元年の2年6ヶ月間記事を欠く。この頃の定家の歌は年に二首、十首ともう歌人として廃業したかのようである。定家は家学として歌学を確立したためであろうか、縄張り芸術集団の成立であり、存続だけが目的の天皇性と同じ歌共同体として家が出来た。華道、茶道、能狂言から歌舞伎にいたる嫡子伝承の家伝書を伝えるという日本伝来の芸能集団は将に定家の創出によるのである。

建暦年記(1211-1212年)
建暦元年の政治的事件は、院はまだ十六歳の土御門天皇に譲位を強いて、2歳弟の順徳天皇を即位させたことである。3種の神器のうち神剣を欠いて即位した後鳥羽院は、独断で伊勢神宮の神剣を順徳天皇の即位に使用した。はたして神剣なしで即位したという院のコンプレックスは解消できたのだろうか。又この年の定家にとって最大に喜びは従三位に序せられたことであった。つまり定家は長年の念願であった剣を帯して昇殿できる公卿になれたのである。長年卿二位藤原兼子に賄賂を贈り続けた結果であった。実はこれには定家の姉九条尼の献身的な働きがあったようだ。藤原兼子に細河と讃良の荘園を献上する約束をしたのが功を奏したようだ。これらの運動の成果もあって、それ以降の定家の昇進は極めて順調に進み、建保2年参議に、建保3年伊予守、建保4年治部卿、正三位、建保4年民部卿とまるで別人のように昇進するのである。そしてようやく定家の家の格も上がり、「政所」を置いて家令、家司を置くようになった。主家の右大臣九条良輔から越前小森保荘を賜った。しかし歌人としての定家のお呼びはなくこの年の作歌数はたったの四首で、後鳥羽院は有職故事に興味があり定家を用いた。院が儀礼すなわち政治に興味が移ったことを意味する。公式行事の復活は宮廷の権威の復活であった。院は放蕩三昧の無害な存在から、政治に関心を持ったばかりに自身の墓穴を掘るという皮肉な結果になったのは、やはりどうしようもなく朝廷の力が無くなっていたことの証明で、もはや武家権力に抗うことの不可能を知らされたということである。建暦2年、定家は51歳になった。体力は衰え体のあちこちが悲鳴を上げだした。そして姉の九条尼が亡くなるという身内の不幸が定家を襲った。妻の父西園寺実宗も亡くなった。順徳天皇のお召しで10首の歌を詠進し、後鳥羽院には20首の歌を詠進したが、「近年、このこと沙汰なし、殆ど廃忘する」という有様で、この年の歌数は36首であった。定家の荘園吉冨で家司の使用人が傀儡(クグツ)と喧嘩するという事件があった。うやむやに処理されているのは、どうも後鳥羽院がクグツを保護している様子が伺える。クグツ師とは芸能民集団で、諸国を自由に往来し、交易や農業に従事できた、かつ訴訟権も持っていたのは、宮廷が傀儡、遊女、白拍子などの遊芸者集団を保護していたのであろう。宮廷、院への出入りも自由であった。院は政治としての宮廷儀礼と遊興と武芸に関わるという危ない橋を渡り始めた。

建保年記(1213-1218年)
この年定家の後鳥羽院離れを加速する事件が起きた。検非違使の長官が定家の屋敷に来て、庭の梅木2本を引き抜いて後鳥羽院の御所高陽院へ移した。「近代の偽、草木猶此の如し」と定家は院の横暴に憤慨した。新古今和歌集の切り継ぎを院の気まぐれで何年も延々とやらされたことへの怒りも鬱積していたようだ。定家の怒りを誘発する事件は相次いだ。禅宗の栄西法印に「大師号」を贈るべきか否かについて定家は「生前に大師号をおくったためしはない」と非難し、印と天皇が皇居内で蹴鞠を行ったことは「未だ和漢の例を聞かざる者か」と怒った。そして怒りはついに神剣におよび、「神剣海に没して、ここに30年。事の理りしかるべし」と嘆いている。息子の為家が順徳天皇について蹴鞠に興じているのを見ては。蹴鞠は飛鳥井家のもの、御子左の家業は和歌の道であると親不孝を嘆いた。
5月鎌倉で和田義盛が北条執権家に対して反乱を起こし、惨殺されるという事件が発生した。鎌倉の歴史書「吾妻鏡」によると、1200年梶原景時一族滅亡に始まり、1203年阿野全成誅殺、比企一族の全滅、1204年前将軍頼家暗殺、1205年畠山重保殺害、1213年千葉成胤、安念法師、泉義直の陰謀発覚、和田合戦というふうに、北条家の覇権確立の過程で頼朝いらいの御家人が次々と粛清された。これだけ血腥い政府は日本史でも稀であった。将軍実朝は月1回の頻度で幕府歌会を開いている。そして御学問所を開設した。このやさしい無力な将軍が歌に逃げ、官位を求めて京都の朝廷に靡こうとすると、執権北条義時や政子は実朝排除やむなしという結論に達するのは時間の問題である。むき出しの武力の執権にたいして将軍は何をやっていたかというと、日常の殆どは妖しげな祭祀だけである。いかにも中世的な幽暗空間に閉じ込められていた。夢か現かの見分けも定かではない渡宋計画と大船建設とその失敗、右大臣の官位から人臣の最高位を目指した。将軍とって源氏の家名をあげる以外に具体的な望みはなかったが、宮廷に絡め取られることを畏れた幕府は大江広元に諫言をさせた。その時北条政子は熊野詣の後京に入り卿二位藤原兼子と密談し、次期鎌倉将軍に親王を頂く約束をしている。恐るべきか権女政治!
定家のほうは相変わらず荘園の横領問題でトラブルにあって、将軍実朝に和歌文書や秘蔵の万葉集を贈って、調停を頼んだ。京では群盗が跋扈し、公家の家僕が強盗を働くという状態で、高利貸し業を兼業していた僧侶、下級法師、神人などの暴力団化も著しかった。かって定家はトラブルを院に訴えるとヤクザまがいの力者を紹介されるということがあった。ヤクザにはヤクザをもってあたるというわけで、朝廷にも訴訟処理能力は全くなかった。明月記はこの建保2年以降6年までの4年間は全く断片化して欠落だらけである。建保2年、定家は参議に序せられ、息子為家も従四位下に序せられた。4年には定家は治部卿に、6年には民部卿に任ぜられた。この頃定家の歌数は低迷していたが、建保3年19歳になった順徳天皇が歌策に興味を持ち始め、しきりに内裏歌会を催したので定家の歌数も激増した。歌人として記念すべき事柄は、自選全歌集というべき「拾遺愚草」の完成であった。(なお拾遺とは侍従の唐名である) 

承久元・二年記(1219-1220年)
正月27日将軍実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に行く時、勅使と共に公暁に暗殺された。こうして実朝は鎌倉幕府から排除されたのである。その公暁も三浦義村により暗殺された。暗殺者をけしかけて成功すれば暗殺者も消してしまうのが権力である。こうして、名実ともに頼朝由来の源氏を滅ぼして、北条政子の下に北条氏が実権を握った。北条は平家であったのだ。再度権力は平家の別派に戻った。そして政子の密約通り、後鳥羽院の皇子頼仁親王を鎌倉将軍に願い出た。しかし後鳥羽院は鎌倉に皇子を送ると権力が二分されることを畏れてなかなか認可をしなかった。幕府は伊賀光季と大江親広を京都守護に送って院に圧力を加えた。こうして院と幕府の間に陰湿な抗争が始まり、危機が迫まる。その時定家は順徳天皇の歌指導に当っている。順徳天皇は穏かな人であり、歌に目覚めて歌論書「八雲御抄」、有職故実の書「禁秘抄」、日記「順徳御記」を残した。院は実朝の薨去を弔うと同時に、寵愛していた元白拍子「伊賀の局」の荘園から地頭を廃するように要求をした。これに対し幕府は地頭の廃止を拒否し、北条時房に千人の兵をつけて京に拒否回答を突きつけた。一挙に緊張は高まり、宮廷は将軍に皇族は出さないが、摂関家の子を差し出した。この道家の子丑寅丸(九条頼経)は院より将軍宣下を受けておらず、将軍位、正五位下の宣旨を受けたのは実に後堀川天皇の時である。定家は鎌倉派公卿九条家の家司であり、その子為家に関東御家人宇都宮頼綱の娘を嫁に取った。宇都宮頼綱の妻は執権北条時政の娘であり、定家はこれでますます鎌倉との縁を強めたことになった。承久2年2月順徳天皇の歌会に定家は母の忌日にあたるとして、二首の歌を提出して欠席した。その内の1首「道野辺の野原の柳したもえぬ嘆きの煙くらべに」という歌を後鳥羽院が見て、激怒を買い「勅勘」閉門の処置を受けるという事件が起きた。歌において叙景は叙心を導くきっかけみたいなもので、歌には多重性が付き物で、いわば気心の知れ人々との間では暗号みたいなものである。歌に和すも歌にチクリとくるのもコミュニケーションしだいである。第三者にはさっぱり訳が分らない。長い間の鬱積が爆発したのだろうとしか言いようがない。後鳥羽院は定家との長い確執はいわば宿阿のように続き、院は配流先の隠岐島までその因縁を持ち込んで「御鳥羽院御口伝」にながながと弁明を書くのである。定家の歌は他人が和するための条件を欠く、雰囲気のない社交性のない、いわば独立した自由な歌に変わっていたのである。定家の中で宮廷文化の本質をなす和歌の精神が既に終焉していた。帝にとって和歌は臣下の思想調査であり、自分との距離を測る重要な手段であった。この頃謹慎中の定家は、近代秀歌、二十四代集、毎月抄などの歌学書や歌集を編んでいる。定家は和歌を家芸として独占的に伝える家元制の先駆者であった。歌道=家道の形成の意図を愈愈明らかにしてゆくのである。

承久三年記・承久の乱(1221年)
後鳥羽院が詠んだ歌「奥山のおどろが下もふみ分けて道ある世ぞと人にしらせむ」は史書「増鏡」の冒頭に引用され、いわば後鳥羽院の親政宣言といわれてきた。院はどのような道を行っているのかは特定はしていないが、院の暴走を諫言した慈円の史書「愚管抄」は「道理論」で時代の理性的判断を求める。妄想は論理を超えて行動に走りやすい、それをいましめたのである。承久の乱の原因を求めるとすれば、前年、院が寵愛していた元白拍子の「伊賀の局」の荘園から地頭を廃する要求に対し、幕府は地頭の廃止を拒否し北条時房に千人の兵をつけて京に拒否回答を突きつけたことが直接的な理由であろう。院がやった事は「北条義時追討の宣旨」をだし、義時調伏の修法(祈祷)だけである。妄想の割には軍事的指揮系統など何もありはしなかった。隠岐に配流された後にも院は弁解、申し開きをしていない。調伏に関った東寺、延暦寺、仁和寺など国家宗教の寺院だけが行動らしい行動であった。承久3年4月順徳天皇が譲位し、4歳の仲恭天皇が即位して左大臣道家は摂政となる。そして5月14日院は義時追討の宣旨を出し、兵を募った。鳥羽離宮に集まった兵は1700余騎、京都守護の伊賀光季を押し込めたが(光季は自殺)、すでに西園寺公経は鎌倉に急使をおくった。5月19日、北条泰時、時房は数万の兵で大挙して京を攻め上った。6月8日敗軍の官軍は京へ逃げかえり、三上皇は叡山に隠れた。6月10日叡山は戦いを拒否したので、院らはやむなく京の高陽院に戻り、「何の思し召しもなく、武士どもは是より何方へも落ち行け」と解軍を命じた。真に無責任な話である。6月15日東軍は京に入った。院は追討の宣旨を取り消し、義時の官職を服したというが、それが何の意味があったのか。幕府軍は7月1日首謀の公卿の断罪を行う。斬罪もしくは流刑であった。幕府軍は7月6日院を鳥羽離宮に閉じ込め。8日院は剃髪して出家した。9日仲恭天皇は譲位し、後堀川天皇10歳が即位した。13日電光石火の如く東軍は後鳥羽院を隠岐島に移し、順徳院を佐渡に、土御門院を土佐へ配流という処置をとった。一天皇と三上皇が一瞬のうちに影を消したのである。この一代革命の時、定家は60歳で、5月21日(変後7日目)に後撰集、歌論書等を書き写しているのである。「紅旗征伐吾ことにあらず」として何事もなかったように奥付きを書き終えているのである。古代天皇制というものが、武家の台頭によって終焉を告げると同時に、文化も武力も宮廷を去った。かくして文も武も財も持たなくなった天皇制は、存続の理由をどこに求めてさ迷うのであろうか。少なくとも江戸時代末期まで天皇制は無きも同然の存在であった。42歳の後鳥羽には帝王にして終身刑徒というアイロニーは悲痛なものと滑稽なものが同居している。後鳥羽院は1239年隠岐氏まで死没。60歳であった。余談ながら後鳥羽院と順徳院の親子は仲良く大原三千院近くの御陵に祭られている。後鳥羽院らの反乱側の所領は三千箇所に及び、これらの荘園を没収した鎌倉幕府の力は西国に伸長し、その支配は揺るがぬものになった。六波羅探題という情報機関が京都の公家を監視支配した。7月には摂政九条道家が辞して、近衛家実が替わった。10月西園寺公経は内臣に叙せられ関東申次を兼務した。こうして京都の宮廷は西園寺公経と九条道家の世になったといっても過言ではない。

貞応・元仁・嘉禄・安貞年記(1222-1227年)
承久の乱後の京の町の衰退と無秩序ぶりをしばらく見て行くことになる。たとえ人が死んでも、争乱があっても「かくしてもあるべきにはあらねば、帰られにけり」(こうしてもいられないので)人々は生活に戻らなければならない。貞応2年は定家62歳。この年も古今和歌集や後撰集の書き写しで日々をすごし、「詠歌之大概」という歌論を書いている。京の町では公卿の家が次々と焼けた。明月記は承久元年に数日の記載があっただけで、貞応・元仁と爾後6年間が欠損している。嘉禄元年(1225年)に日記の記録が見える。そこで明らかになってくるのは京都の没落と惨憺たる頽廃である。日記には「盗賊横行するか」、「朝廷のこと、如法窮まり尽きるの時か、悲しみてあまり有り」と書いている。法勝寺の九重塔が崩壊したのは、盗賊が金物を剥ぎ取ったためである。1224年北条義時が没し、1225年北条政子も没した。是で日本の尼天狗の時代は終わりを告げた。そして定家の兄慈円も71歳で没した。60人の群盗が御所、仁和寺に押し込み将に無政府状態に陥った。六波羅探題は諜報機関で警察ではなかったようだ。嘉禄2年2月、一家総出で書き写していた「源氏物語五十四帖」が完成した。西園寺公経の北山の別荘は豪壮を極め、日宋貿易の利が栄華を裏付けていたが、しかし京の道路には疫病で死んだ人の骸が散乱し腐敗して目も当てられない惨憺たる景をなしていた。百鬼横行の京を見て定家は「年号毎日改むとも、乱世を改めざれば、何の益かあらん」という。最勝光院も燃えた。嘉禄2年、28歳の息子為家が参議侍従に叙せられ公卿に上った。出世がおそく苦労した定家にとって夢のような昇進で此の年は先ずはめでたい話で始まった。定家は京極に新邸を築造し、木々を植え、庭の造作をおこなった。関白家実より新車を貰ったり、ようやく定家は裕福な貴族に成り上がった。しかし人間の世としての京都は乱世末世そのものであった。公卿の家に群盗が入り、火付け強盗を行い、寺院の金属類はあらかた盗まれる状態である。群盗の跳梁跋扈のまえに宮廷も六波羅も治安維持能力は皆無である。定家のほうは九条家と西園寺家の想像を絶する隆盛振りと、為家の妻方の宇都宮頼綱の後ろ盾を得てますます安定した。安貞元年(1227年)定家は正二位に上った。「人臣の極位なり、乱世に逢わざればいささか之に叙せられんや」と自分の昇進を乱世のお陰という。天皇の乳母である従二位藤原成子に買官運動をして手に入れた信濃国の国司は大金を払わされたにもかかわらず、関東の地頭が支配して実質的な見入りは何も期待できないということがわかって丸損となった。藤原成子に詐欺にあったようなものである。買官斡旋は天皇の乳母の副業であった。明月記には定家の世の中の出来事に対する興味が延々と書き連ねられている。今昔物語のような挿話に満ちた世事のゴシップ記事(週刊誌)に満ちて、定家の老耄防止の効果になっていたようだ。安貞3年は明月記全欠。

寛喜年記(1229-1231年)
寛喜元年定家は68歳。「病力またもって加増す、悲しみて余り有り」 この頃体の具合は散々な状態で出てくるのは弱音ばかり。定家を慰めるのは月と草樹である。金回りのよくなった定家は庭に色々な草木を植えて楽しんでいたようだ。そして定家のお決まりは清冷な月である。この年数回の歌会を自邸で開いているが、連歌会と併催されどちらが主か分らなくなっている。歌会も遊び中心になり「事既に遊びに似たり、愁人の身上に叶わず」といって歌会を打ち切った。そのかわり「天台止観」という写経をやっている。定家の宗教感はどうも国家宗教(天台、真言密教)どまりであったようだ。後鳥羽院追放後の京都では西園寺家と九条家の両家が宮廷と宗教界を独占した。鎌倉将軍頼経は九条道家の子であり、西園寺公経は関東申次と鎌倉幕府とのパイプも太い。その流で定家の妻は西園寺公経の姉で、息子為家は公経の養子になっていた。こうして血縁の糸はくもの巣のようにはりめぐらされ、摂関家の栄華が再来したかのようであった。後高倉院の崩御のあとは後堀川天皇の親政のはずであるが、後堀川天皇の影は全くない。関白道家の長女が後堀川天皇の中宮に入る時、定家の長女が女房になった。定家はその時用意した女房衣裳の詳細を花嫁衣裳のように細かに書き連ねている。「金銀刺繍を着し渡る」と形容した。この年8月さしもの権女、藤原兼子も75歳で亡くなった。寛喜2年も定家の体の調子は最悪であった。世は飢荒であったが、定家の生活は安定していた。69歳にもなってまた定家は中納言に任じられんことを願って猛烈な買官運動を開始した。恐るべき官位欲である。関白道家は「女御入内御屏風和歌」百首を募集した。家長、定家、家隆が作者に加わった。そして定家は関白道家より「新勅撰和歌集」の企画を持ちかけられた。定家は選者たることを自負しているが、流刑の三上皇の歌を無視するわけには行かず、又鎌倉の感情も気になるので延期という方針とした。寛喜三年の飢荒は一層甚しかった。「京中の道路、死骸更にやまず、上洛する者なしと云々」地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙の世界が現出した。 しかし宮廷では関白道家の長女が後の四条天皇を生み、定家の娘典侍の衣替えの用意の詳細な記事が日記を埋める。また定家の日記には庭の草木の記載と、伊勢物語、大和物語の書写の進行がみえる。定家は宇治平等院を訪れたが、極楽浄土どころか荒廃した平等院を見て驚愕し「骨髄搾るが如くたおれふす」というように車に乗って逃げ帰ったようだ。この年流刑先の阿波国で土御門帝が37歳の若さで崩御された。これも惨憺たる人生であった。

貞永・天福・文暦・嘉禎年記(1232-1235年)
買官運動が実って定家は71歳で念願の権中納言に任じられた。この年影の薄い御堀川天皇は21歳で譲位させられ、2歳の四条天皇が即位した。天皇の帝位寿命は子供を生むまでという掟のようだ。明月記は貞永元年は2日しか記述はなかった。再度「新勅撰和歌集」の命が下ると、関白道家を中心に歌会が狂ったように開催された。この和歌集の選者は定家一人の独壇場である。序文も定家が書くとなれば勅撰ではなく定家独撰であった。鎌倉では御成敗式目51か条(貞永式目)という武家政権の法令が出来た。西の宮廷を抑え、関東御家人の期待に答えるという新しい武家社会の誕生を告げる画期的な革命である。姦通を常とする大宮人の倫理を罪科とする女性擁護の倫理の確立、理をもって裁判を行うこと、承久の乱後の朝廷対策では「官打ち」を警戒して、御家人は官位を望んではならないとした。この貞永式目によって、京の朝廷の統治権は殆どなくなり、名目としての天皇制になった。東西の力関係が圧倒的に東に傾いてからは公卿らは競って妻を離縁し関東から妻を迎えるというなだれ現象となった。これは定家の定式戦略であったのだが。後堀河院の中宮藻壁門院がお産の途中に急死するという事件が発生し、定家の娘典侍もこれに殉じて出家した。こうして定家自身も天福元年に72歳で出家し、名を「明静」とした。定家は出家しても、その活動は家長として、歌学の大家として、有職故実の公卿として以前と同じように続けられた。同年6月全歌数1498首からなる「新勅撰和歌集」草案が出来た時に、下命者である後堀川院が23歳で崩御してしまった。そこで関白道家は草案から流刑の三上皇の歌70首を切り棄て、新たに関東勢の詠歌を入れて編纂しなおし、定家に因果を含めて納得させ、嘉禎元年(1235年)「新勅撰和歌集」は清書して完成した。明月記は嘉禎元年12月の記をもって終る。定家74歳。


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