2009年11月13日

文藝散歩 

堀田善衛著 「方丈記私記」 
筑摩書房(1971年7月)


鴨長明「方丈記」を堀田氏の目で見ると、平安貴族文化の没落の歴史がありありと

堀田善衛著「方丈記私記」

私はこの堀田善衛著 「方丈記私記」筑摩書房(1971年7月)をなんと1971年9月に読んでいた。今から数えると38年前の若かりし頃の話である。最近堀田前衛氏の作品である「ゴヤ」、「定家明月記私抄」を読んで以来、すっかり堀田氏の著作を気に入ってしまった。語り口が分りやすいこともあって、どれも大部な著作をじっくり味わうことが出来た。そして昔この「方丈記私記」を読んだことを思い出して、押入れの本棚を探しかび臭い本を取り出した。あまりのかび臭いので1日日向に虫干し、それでもカビ臭が取れないので、香を焚きしめた。上に地獄絵を表装にした本書のカバー写真を示しておく。これだけでも鑑賞の価値はある。38年ぶりに本書を再読すると、本書は比較的短く、苦労せず流し読みできるのがうれしい。そして出だしから3章までは堀田氏の1945年3月の「東京大空襲」の経験と地獄絵のイメージをダブらせてある。堀田善衛氏の「方丈記私記」に入る前に、岩波文庫の「方丈記」を読んでおこう。



岩波文庫  市古貞次校注 「方丈記」  (1989年5月初版)


方丈記の著者である鴨長明(1155?-1216 62歳で没)は、平安時代の末期から鎌倉時代初期を生きた世捨て人であった。名前からして下賀茂神社の神職の家に生まれ、幼名を「菊太夫」といわれ、父長継は賀茂下社の正禰宜であった。7歳の時従五位下に叙せられたが、長明が17歳の時父は早世し、恐らく母も早くなくなったのであろう、「みなしご」になったと長明の歌学書「無明抄」に書いている。早く孤児になったということは、生きていく上で有力な後ろ盾を失ったということであり、長明の性格に強情でひにくれた閉鎖的傾向を与えたらしい。源家長日記にも「長明みなしごになりて、やしろのまじわりもせずこもりいて侍りが」とという偏屈な社交的でない性格であったようだ。かれは音楽・和歌の道にすぐれていた。琵琶を楽所預の中原有安に学んで将来を嘱望されたが、調子に乗って演奏してはならない秘曲尽くしの会を催し、藤原孝道から強硬な抗議を受けて都を離れたと伝えられている。和歌は俊恵に学び、1181年、27歳の頃自選の「鴨長明集」を出した。伊勢や西行の旧跡を尋ねたりして「伊勢記」という紀行文を著わしたといわれる(ただし散逸)。1187年「千載和歌集」が勅撰され、長明の歌が1首採録された。長明は「いみじき面目なり」といって大変喜んだという。こうして地下歌人(殿上を許されない歌人、従五位以下)として認められた長明は1191年の後鳥羽院の「若宮歌合せ」に参加した。院の北面につかえ、1201年和歌所が設けられ、寄人となった。歌人として長明は1203年藤原俊成卿九十賀に出詠したのを最後に歌壇から彼の名は消えた。1204年後鳥羽院の推薦で糺社の禰宜任命のトラブルに巻き込まれ親族にその地位を奪われ、やがてこれを契機に隠棲する気になった。そして50歳の頃意を決して出家した。1205年定家らが選者となった「新古今和歌集」が完成し長明の和歌が10首入った。出家した長明の法名は蓮胤と称し、大原に閑居した。4年後1208年長明54歳のころ宇治の日野に居を移し、方丈の庵を結んだ。1211年には飛鳥井雅経の推薦で鎌倉に出向き三代将軍実朝に面会したという。この頃歌学書「無明抄」を執筆し、1212年「方丈記」を記述した。晩年は説話集「発心集」を作ったりしたが、方丈記の記述と逢い通わすところが多い。そして1216年6月9日に没した。62歳であった。出家した文学者としては、長明の前に西行がいたが、西行のようにもとめて各地を旅する漂泊の歌人に徹するわけでもなく、都周辺に閑居した敗残者の印象が強い。

方丈記は岩波文庫本は京都丹波の「大福寺所蔵」をとっており、「鴨長明自筆」と書いてあり漢字カタカナ文である。自筆かどうかには賛否両論があるが、最古の写本であり、長明の原作に最も近いものであるとされている。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」にはじまる名文句で起筆されている。あらゆるものは流転してやまない無常であるとして、無常は人と住まいにも及ぶという論旨を展開する。古典、論語、文選を下敷きに、わが国の古歌も取り入れて、漢詩文の対句手法を重ねて格調の高い行文を構成している。長明の文章家としての面目躍如たるものがある。文庫本にして約30ページの短い文章で、8500字ほどで四百字詰め原稿用紙20枚分くらいの短編随筆である。これを朗読して読むと30分くらいで読みきれる。「方丈記」の構成は、
第1段が名文の「序」で2ページ足らず
第2段は自分が体験した大火、辻風、福原遷都、飢餓、疫病、地震などを年代順にルポライターのように14ページにわたって記述する。現実観察者の目は鋭い。
第3段は自分の生活と大原での閑居、日野山での方丈の庵の生活と歌枕を7ページほどに書き
第4段では日野での孤独な、自己のみの生活を愛し、閑居の喜びを5ページほどで語る。
第5段は終章で、草庵を愛するのも執着ではないか、仏道も中途半端と自問自答しながら要領を得ない人生を振り返って終わりとなる。
時に長明58歳であった。いわば不完全燃焼の人生である。でも虫けらのように死んでゆく(殺されてゆく)庶民の人生に較べればこれでも人生だ。



筑摩書房  堀田善衛著 「方丈記私記」  (1971年7月初版)



1.その中の人、現し心あらむや

1945年3月10日の米軍機による東京大空襲と1177年(安元三年)4月8日の都の大火という、768年の時空を越えた炎のイメージが交差する。その時の筆者の空襲経験がまず語られる。1945年春東京大空襲の時筆者は病気除隊で目黒洗足の友人の家に居候していた。在席していた部隊はサイパン島へ派遣の途中、運搬船が攻撃を受けて全滅した。3月9日午後10時半警戒警報発令、10日午前0時15分空襲警報発令、それから2時間半ほど空襲が続いたという。本所、深川、江戸川あたりの被害が最もひどく、死者7万人あまりに及び、午前5時ごろ鎮火した。著者は「人の存在は、他の人の不幸に対して何の責任も取れない存在である」と痛感した。方丈記が記す安元3年の大火は都の東南から火が出て西北へ火が広がって、都の1/3が燃えた。死者数十人であった。鴨長明は時に23歳であり、方丈記が書かれたのは58歳であるから、ほぼ35年前の事件のことを書いている。大火の様子が新聞記事のように簡潔明瞭に描かれている。この4月28日前後の世の動きをいうと、4月6日に二条東洞院で火事があり大臣師長らの屋敷が焼失した。13日に延暦寺衆徒神輿を担いで師高追放を要求する。15日師高を流罪に処し衆徒の怒りを解く。16日賀茂の祭り、22日安徳天皇即位、28日京の大火、5月13日延暦寺天台座主明雲流罪、衆徒騒乱す。6月清盛鹿ケ谷の変を鎮圧、俊寛ら3人を流罪に処する。というように京の町は騒乱状態にあった。この鴨長明という人は、何かが起きるとその現場に出かけて確かめるという実証精神の豊富な人で、物好き・好奇心の旺盛な性格であったようだ。

2.世の乱るる瑞相とか

大空襲の様子は内田百聞「東京焼尽」、早乙女勝元「東京大空襲」などに詳しい。著者は3月10日朝目黒から新橋汐留まで歩いて友人の店舗だけがぽつんと焼失を免れていたのも見て妙な気分に襲われたと書いている。そして「戦争の最高責任者としての天皇をはじめ機関が全部焼けて、天皇を含めて全部が難民になれば、それで終わりで、そして始まり」と爽快な気分となった。この章は昭和の天皇制と、安元3年の天皇宮廷制の全的崩壊を述べるものである。平安末期の貴族藤原兼実の「玉葉日記」、藤原定家「明月記」に貴族の目を通じて安徳天皇即位について書かれている。もちろん長明は安徳天皇即位については何も記していない。治承4年4月に起きた「辻風」については「玉葉日記」、「明月記」の記述はあるが、実にあっさり書いて、貴族の屋敷の損傷だけを記しているに過ぎない。長明はこの辻風が収まってから京の町の様子を見に行ったように具体的な壊れ方を細かに観察している。この人は何かがあると自分の目で見ないとすまない性格である。家がぺちゃんこになり、屋根が飛んで柱だけが残り、門も垣根も飛んで平たくなったと書いている。災害や戦乱で、人間の建造物が壊れて、焼失して風景が平たくなるということを繰り返して人々は生きてきたが、平安末期から室町にいたるまで打ち続いて、精根尽き果てたつまりが応仁の乱である。強い者が「自由狼藉世界」に生きる様は、まさの現在のアメリカのネオリベラリズムの破壊ビジネスにも共通するものがある。平安後期から始まった院政(白河法皇、鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇)ほど訳のわからない政体はない。二重、三重の宮廷政権に武家(平家、源氏)の実質政権がからんで、まさに魑魅魍魎の跋扈する世界であった。支配階級は時代を問わず馬鹿馬鹿しいほど性格は変わっていない。国民への目線がまったく存在せず、国民は自分達支配階級をどう見ているかという疑心暗鬼が支配している。その典型は、日中戦争を遂行した近衛文麿首相(藤原摂関家の末裔)の天皇への上奏文が、自分達貴族と天皇家と資本家以外は皆敵だというセンスで書かれていることに唖然とする。国体というのも要するに天皇家と摂関家のことに他ならないと思われる。

3.羽なければ、空をも飛ぶべからず

1945年3月18日朝早く、著者は目黒を出て深川を目指して歩いた。永代橋から見る門前仲町や須崎から木場のあたりは何にもなくて平べったくて一切が焼け落ちていた。川に飛び込んだ人は合流火炎に焼かれて死んだ。すると午前9時高級外車が数台現れて、ピカピカの長革靴軍服姿の天皇が降り立ったのを著者は遭遇した。焼け跡には平伏して泣いている被爆者がいた。著者は身の凍るような思いがしたという。「こういう惨状になった責任をこいつらはどう取るのだ、責任が焼かれた人の側にあるのか、そんな法外なことがあってたまるか」と考えたという。翌日の新聞には「御徒歩にて焦土を臠はせ給う」と記事があった。(臠はせは「みそなはせ」と読む。国字で誤字。臠はレンと読み魚の切り身の意味である。もとはバンとよみ見ることである。以上は「角川新字源」より) 政治には結果責任というものがあり、歴代の実質責任者は徳川家にいたるまで全て亡んだ。ところが「責任」という字はこいつらにの辞書にはないらしい。こいつらを裁ききれない歴史に政治の無力感が漂う。

4.古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず

第1章から第3章まで、安元3年の都の大火と1945年の大空襲の惨状を重ねて、著者は天皇制の変わらざる無責任を糾弾した。著者は方丈記を読んで「戦禍に遭遇してわれわれ日本人の身の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資するものがここにある」という。この章からは鴨長明「方丈記」の世界に入ることになる。清盛による福原遷都は都に甚大な混乱を引き起こした。平家政権にとって古い都は旧来勢力に取り囲まれ、攻め込まれた時に守り難いために遷都したのであろうが、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず、古都はすかれて畑になりぬ。」であった。結局その年の冬には旧都にもどることになる。これは政治的人災であろうが、無駄な財産を費やしたものである。これにより貴族階級の窮乏はさらに加速した。続けて1181年養和の大飢饉が来る。「京のならい、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに」というため食糧を断たれた都の惨状は筆舌に及びがたしということである。都では路上で餓死する者数えられないほどで、仁和寺の隆暁法印なる和尚が東の京だけを5ヶ月掛けて死者の数を数えると4万2300人であったという。凄まじい和尚の執念である。この養和の大飢饉のあと地震がくる。最初の火事の時長明は25歳、辻風の時28歳、遷都の時28歳、大飢饉の時29歳、大地震の時33歳であった。これらのすべては「世の乱るる瑞相とか」、平安王朝の一つの時代が根底から揺り動かされ、音を立て砂煙をたてて崩壊してゆくことの象徴と理解される。この大地震のころ、木曾義仲が都に攻め込み、義経によって平家は滅亡した。宮廷では宣旨が朝令暮改で平家を討て、義仲を打て、頼朝を討て、義経を討てという有様であった。文治3年こんな中で「千載和歌集」が完成した。この和歌集のどこに、戦乱、群島、天変地異の影があるのだろうか。藤原定家は「世上乱逆追討、耳に満つといえども之を注せず、紅旗征伐吾事に非ず」とかっこよく世の動きに背を向けているが、その実自分の荘園からの収入や、荘園の訴訟には気をもんで、鎌倉政権に近づいて仲裁を頼んでいる。朝廷貴族の身過ぎ世過ぎということだが、嫌なことは見たくないというエゴイズムそのものである。千載和歌集や新古今和歌集などの美は実はこのエゴイズムに寄りかかったものであった。

5.風のけしきについにまけぬる

千載和歌集や新古今和歌集などの美は現実無視の「夢の浮橋」、洗練の極致をゆく観念と形而上の世界を現出したものである。それはそれでフランスの象徴詩の上を行く最高の人工美であったことは世界に誇りえるものだ。そういう現実の一切の捨象を可能にしたものは、やはり朝廷貴族のありようと無関係ではありえない。政局になんらの力も発揮できない(政局外に疎外された)彼らは、不変(?)の伝統を守る公家の権威という意識だけは強かった。それも宮廷貴族が少なくなった荘園をもっている過渡期だけのことで、室町時代からはその荘園も完全に失われると、天皇家摂関家の一握りの一族が武家と幕府によって養われる時代になるころには、この宮廷文学の伝統も完全に消滅してしまうのである。朝廷貴族とは何のかかわりももてなかった長明のような遊民は世捨て人になるしかなかった。「方丈記」は長明が鎌倉の実朝に面会した翌年にさっと書き下されたものである。そこには自己に内在する歴史意識や歴史感覚をあっさり投げ捨てたところから、「知らず、生まれ死ぬ人、いずかたより来りて、いずかたへ去る」という感慨が生まれたのであろう。

6.あはれ無益の事かな

歌人としての長明について述べられている。所詮2流の歌人に過ぎなかった長明が、歌の回想録というか歌論というのか、日野山に入ってから「無名抄」を残している。当時に歌は宮廷の文化が全体として最高の水準になるものを標準とする類型の歌であった。定家は長明のことを「その身凡卑にして」と「人非人」扱いである。詰るところ位が違うので相手にならないと考えていたようだ。みなしご長明が頼りにしていた人は、琵琶の先生である筑州中原有安と和歌の先生である俊恵法師であった。次第に長明の歌は宮廷風、定家風な「幽玄」体に移ってゆく。長明が46歳で和歌所の寄人になった時、源家長日記「玉葉」には「よるひる奉公怠らず」と書いているが,これはほめ言葉ではなく煙たがられているだけで、宮廷歌人からは次第に疎外されてゆくのである。宮廷歌人が詠む歌は、すべて諸々の家集や草子、文物、文学によるもので、現実世界とは何のかかわりもなかった。古典知識を必要とする共同幻想世界である、つまりは「本歌取り」に巧みでなければならない。有識の知識を見せびらかすところも多い。しかし嫌味になってもまずい。長明の歌は千載和歌集では1首であったが、新古今和歌集では10首も採録された。長明48歳にして和歌所の歌会で、良経、慈円、定家、家隆、寂蓮と長明あわせて6人の歌会に参するという名誉を得たのが最高のことであった。しかし長明は「あはれ無益の事かな」と自ら全否定を行い、和歌の道からドロップアウトをしてしまう。

7.世にしたがえば、身くるし

よく言われるのであるが、方丈記は最初から終りまで、人と住み家についてのエッセイで、一種の住居論である。「世に従えば身苦し、従わねば狂せるに似たり・・・・しばしもこの身をやどし、たまゆら心を休ませるべき」は、夏目漱石がまねをして「智に働けば角が立つ 情に棹させば流される  とかくこの世は住みにくい」という、方丈記の対句に満ちた名セリフである。鴨の河合社の禰宜職を長明と争った親戚の祐頼は禰宜になった後、鎌倉時代初期後鳥羽上皇が起こした承久の乱に連座して殺されるという歴史の流れを見る。定家の「明月記」を見ると、官位競望、猟官運動が凄まじかったことが書かれている。ごく少なくなった宮廷の官位をめぐって賄賂が横行し、まともには生きて行けなかった時代である。その中で法然、親鸞らは民衆に法を説く宗教革命を起こした。まさに鎌倉幕府の成立と同様な意義を持つ社会の大革命時代でもあった。貴族文化と社会の一切を根底から否定したは親鸞という革命者であった。

8.世中にある人と栖と

方丈記は大火、遷都、地震、辻風などすべてが「家がどうした」という住居に関して語られる。長明は住居について異様なほどに興味のある人であった。無名抄では歌よりも、紀貫之、在原業平、周防内侍、喜撰の家の跡に興味を持っていた。「世中にある人と栖と、またかくのごとし」というふうに、人と住居が同格に語られる。長明の「発心集」にも「貧男差図を好む事」とは自分の事だろうか。「定住者の文学」が「漂浪者の文学」に対応するなら、さしずめ前者の代表が長明で、後者の代表は西行と芭蕉であろうか。長明が日野山につくった庵は荷車で持ち運べる組み立て式住居、つまりいまの「ユニットハウス」か「プレハブ式住居」であったろう。長明は自分の庵を差図(設計)したのであろう。そして日野の地は日野一族であった親鸞が生まれたところであり、足利義政の室で悪妻で有名な日野富子や南北朝の日野資朝を生んだ日野一族の発祥の地であった。人は衣食住なくしては生きてゆけない。長明は高尚なことをいうより生活者の視点で物をいう現実主義者(多少皮肉れた世捨て人)であった。

9.それ、三界はただ心ひとつなり 10.阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ

方丈記の終段である。どうも鴨長明は愚痴が多い人で、仏道にも素直ではない。修行をサボるのもよし、徹底しないことに意味を見出していた俗人で、理想的な世捨て人や出家でないところに、かえって真実な姿が垣間見られて好感が持てるのだ。うらみつらみ、居直り、開き直り、ふてくされ、嫌味、トゲを恥かしげもなく書いているが、といって居丈高に主張するわけではない。僧侶の世界も世間である。世間を棄てたらばこそ、仏道をサボり文句をいうことも出来る。伝統の価値観を抜けているところが面白いし、時代なのである。「一身をやどすに不足なし」と住むところがあればそれでよし。貴族社会からはじき出された「地下人」として、自分の興味に従って走り回った。西行は漂浪詩人といっても、有力な荘園を持つ貴族である。貴族社会の連絡役として活躍した。貴族社会の芸術は、本歌取り思想、文化に必然的に伴ってくる閉鎖的権威主義は、批評を拒否するものである。当然新しい創造も拒否するものなのである。神道の世界も天皇制も本歌取りの閉鎖社会である。後鳥羽上皇と藤原定家を機軸とした新古今集団は当時の言葉を拒否し、数百年前の言葉を使って本歌取りを理論とした。鎌倉幕府が平家討伐を理由に警察権から地頭制度を作って、貴族・大寺院の荘園を侵食したことは、貴族社会の経済的基盤を最終的に切り崩すものであった。危機意識と無力感が貴族社会を支配し、閉鎖的な集団でしか通用しない決まりごとに逃避して、先例と故実に最大の価値観をおく文学、それが新古今であった。後鳥羽上皇の絶望的なまでの自暴自棄の造営、遊行の数々は、本人が一番良く自覚していた権力喪失と宮廷文化の没落の裏返しであった。後鳥羽院の御乱行については、堀田善衛著 「定家明月記私抄」に詳しいので、あわせて参照してください。「権力は妥協を重ねながらも、自己保存をはかることを自己目的化する。日本の業は深い」と著者はため息をついている。日中戦争や太平洋戦争を始めたのは、天皇・摂関家とその取り巻きである事はもう十分に明白である。長明は無常な社会を否定し、仏道もどうでもいいように感じ、天皇家のやらかすことや、災難にあえぐ庶民とが等価に見えてくる。そこに「方丈記」があった。すなわち長明自身が歴史に化したのだ。この時代の革命者は、北条鎌倉執権家と庶民宗教を興した親鸞であった。


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