文藝散歩 

スペインの怪物 ゴヤの生涯と近代絵画


堀田善衛著 「ゴヤ T−W」 朝日文芸文庫

堀田善衛著「ゴヤ」は1977年新潮社から刊行され、1994年朝日文芸文庫になった。私はこの四分冊からなる文庫本を1994年に読んだのだが、18世紀スペインの宮廷画家のゴヤの絵画よりは19世紀の近代絵画としてのゴヤの絵画にいたく興味を持った。あの版画集は風刺漫画といってよい、愚かで醜い人間像を笑うかのような版画集である。日本の中世の鳥羽僧正作高山寺「鳥獣戯画」が明るい風刺画とすれば、ゴヤの版画集は暗い風刺画である。ゴヤの生涯については、本書にしたがって記述してゆくが、最初に迷子にならないように年代順に代表的な事柄を示しておく。

1746年、スペイン北東部サラゴーサ近郊のフエンデトードスに生まれる。14歳の時から約4年間、サラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ(バイユー)に出会う。27歳の時、バエウの妹ホセーファと結婚。
1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。
1792年、不治の病に侵され聴力を失う。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。
1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略し、翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世としてスペイン王位についた。こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。
1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手している。
1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディアというドイツ系の家政婦と同棲(妻は3年前死亡)。
1820年から1823年にかけて描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである。
1824年、当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて、78歳の時にフランスに亡命。
1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
現在は、マドリード郊外にあるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂に眠る。

次に作者堀田善衛氏(1918年7月7日 - 1998年9月5日)の略歴を紹介する。富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋であり、旧制金沢二中から慶應義塾大学に進学し、文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、雑誌「批評」で活躍した。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、戦後、一時期新聞社に勤務したが、作家としての生活にはいる。
1951年に『広場の孤独』で第26回芥川賞。
1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、国際的な視野を持つ文学者である。
1971年に『方丈記私記』で毎日出版文化賞
1977年、『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活をはじめる。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。1977年に『ゴヤ』で大佛次郎賞・ロータス賞受賞。
1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを始め、これは作者の死まで続けられた。
1994年に『ミシェル城館の人』(全3巻)で和辻哲郎文化賞。 1994年に朝日賞受賞。
私は堀田善衛氏の作品は「方丈記私記」とこの「ゴヤ」を読んだ。一筋縄では行かぬゴヤの人間性に深く切り込もうとする堀田氏の努力に敬意を払って、本書を紹介する。


ゴヤ T 「スペインの光と影」

スペインの光と影

ゴヤの伝記に入る前に、スペインの歴史について1章が設けられている。その題が「スペイン・光と影」である。冒頭に「スペインは語るに難しい国である」という。ゴヤと同じように一筋縄でスペインを括るのが難しいということだが、どのような国でも、日本でさえ一口で語ることは出来ない。スペインの気候はドン・キホーテから「夏は堪え難き日光に身をさらし、冬は針よりも鋭き氷雪を冒すのじゃ」と云う寒暑の激しい国である。光と影も同じ事で、要するに両極端な国であるといいたいのであろう。地理で云う国土は、中央部は山岳地帯で囲われた不毛の砂・岩地の盆地と、地中海の海岸地帯は豊かな農産物が実る地域である。歴史は紀元より600年間はローマが支配する時代、そして800年は(15世紀まで)南部はイスラムの支配する時代である。北部に閉じ込められたキリスト教が支配を回復してフランス王朝より王が赴任し、16世紀から大航海時代を経て17世紀は世界の富を略奪して黄金時代となったが、市民革命のよる近代国家形成や産業革命には乗り遅れ、封建的土地所有を抜ける事はできずに19世紀初頭ナポレンに占領された。このようにスパインはいつも外国の影響下にあって、スペインの内在的要因で歴史が動くことは一度もなかった。人種的にもスペイン人とは一種複合的な民族である。原住ケルト族、北アフリカ系のイベロ族、フェニキア人やギリシャ人も加わり、紀元前後にローマ人が大挙して植民した。そしてドイツからロシアから蛮族が流入した。長いイスラム時代にはアラブ人、北アメリカ部族も大量に入った。社会のインフラはローマ時代とイスラム時代に築かれ、文化はギリシャ文明がアラブ文明を介してスペインに伝えられた。ルネッサンスはアラブから来たのだ。

スペインのイスラム王朝は武力で専断することはなく、施設や教会も攻撃せず、キリスト教会さえ共有した。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が共存共栄した実に寛容でバランス感覚の優れた良い時代であった。現在の西欧と中東文明の衝突と云うような捉え方はまったくなかったと云う奇跡的な時代である。人頭税さえ払えば宗教上は差別しなかった。南西部のイスラム人はローマの技術や施設を受け継いで、高度に発展させた。都市には下水道は完備し、農村には灌漑設備が発展して、人々は農地に定着した。そしてユダヤ人が流通機構を担当した。

スペインの社会的特徴は、アンダルシア地方、ガリシア地方、カタルーニア地方、レオン地方、バスク地方、エストレマドゥラ地方と云うそれぞれに違う歴史を持つものが、超えがたい高い山で隔てられ独自な文化と生活を持ち続けている。日本で云うと戦国時代から江戸時代の藩体制のような中性的要素を色濃くもっているのである。この国では宗教改革も起こらなかった。15世紀より北部のキリスト教徒が南下し、イスラム教徒を追い出しスペイン支配を復活した。1469年カスティーリア女王とアラゴン王の結婚によってスペインは統一された。1471年異教徒を取り締まるために「異端審問所」が設けられ、全国津々浦々にまで異端裁判が実施された。国の行政機構よりはるかに中央集権的な組織であった。300年間(18世紀中ごろまで)で異端審問所は5万人を死刑にした。1492年グラナダ最期のイスラムの砦であるアルハンブラ宮殿をキリスト教徒が支配した時、アルハンブラ訓令が発せられ、ユダヤ教のカソリックへの改宗が強制され、ユダヤ人はポルトガルからオランダへ逃れた。これによりスペインの商工業流通機構は破壊された。スペイン統一後に1200万人いた人口が300年で600万人に減少した。それは大航海時代からスペイン帝国の黄金時代に財宝は宮廷に山積みになったが、反対に人は植民地へ異動して本国にはいなくなったのである。黄金時代は略奪した財宝が資本蓄積で産業を起さなかったのだ。産業革命もなかった。貴族が財宝を独り占めにして国土の半分を2%の貴族・領主が占有した。それが次の時代には衰退の原因となった。貴族は肥え太ったが、大多数の国民は飢餓状態であった。衛生状態も悪く、ゴヤは40年間で20人の子供を設けたが、成人まで育ったのはたった一人であった。

スペインに歴史はない」といわれるが、1469年カスティーリア女王カスティーリァとアラゴン王フェルディナンドの結婚によってスペインは統一されたと書いたが、ところがカスティーリァはスペイン内部の再征服で主導権を握ったが、フェルディナンドはスペイン南部を押さえてからは今度は地中海へ出かけ、イタリア南部、シチリー島を手に入れて別の王国を作った。まさに同床異夢のバラバラの国体である。スペインに共和制の伝統があったことは誰も知らない。1163年アラゴン地方のサラゴーサで住民代表議会が創設された。1283年には絶対王政を認めない宣言を出している。イギリスの議会創設が1295年である事を考えれば、中世スペインで最も早く民主的な制度が生まれたのだ。16世紀末この代議制は王政によって亡んだ。日本でも室町時代から戦国時代の16世紀に山城国一揆や一向一揆などにおいて土侍と農民の共和政体の治外法権が生まれた事があったが、織田信長に攻め殺された。ゴヤの生まれたアラゴン地方の自由を重んじた気風は、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教が15世ごろまでは平和に仲良よく暮らしていたスペインとは東と西の文化の混淆体である。サラゴーサの南40kmほどのところに、1746年ゴヤが生まれたフェンデトードス村がある。どんな村かと云うと、白茶けた岩だらけの山とごろた石の緩い傾斜地の野原である。フェンデトードス村の人口は100人ほどだった。この村の領主はフェンテス伯爵で、今もこの村一の土地所有者である。アラゴン高原を含む中央高原地帯の大部分の非とは貧しい。いつも鋭い飢えた目つきで来訪者を睨みつける。スペインは端的にいうと、飽食している人間と、飢えている人間の2種類に分けられる。豊かさは海岸地方にあり、中央高原は飢えの高原であった。スペイン人の行動様式は「飢え」と云うキーワードでみればその極端さが理解できる。富んでいたのは首都マドリードの貴族だけであった。


マドリード修行時代 (1769年23歳まで)

アラゴンのサラゴーサは歴史上二度徹底した戦争の被害にあっている。1808−1812年にいたるナポレオン軍に対するスペイン人民の戦争と、1936−1939年の共和国軍とフランコ民族主義者軍との間のスペイン市民戦争であった。最初の戦争の戦禍を描いたゴヤの版画「戦争の惨禍」と、二度目の戦争ではピカソの「ゲルニカ」が相呼応する。ゴヤは1746年フェンデトードス村で、鍍金師の父とアラゴンの下級貴族の出である母との間に生まれた。決してゴヤは貧しい出自ではない。この村もスペイン高原部の不毛の石だらけの地であった。ゴヤはサラゴーサの修道会の学校に入り、領主ピニャテルリ家のお抱え画家ホセ・ルサ−ンのアトリエの弟子になった。幼少期のゴヤについて何一つ確実な事はわからない。伝説だけが頼りである。ルサーンのもとで銅版画とデッサンを習得した。このルサーン師は実は異端審問所の通報者である。異教徒への目は張り巡らされていたのだ。宗教的抑圧と禁制の激しい社会とは、表と裏の対比が強烈で、人間観察者にとっての学校でもあった。

ゴヤが生まれるまでのスペインの絵画の歴史を見て行こう。フランドルの巨匠で油絵を始めて開発したヴァン・エイクが1428−1429年にアラゴン王国の招きで来訪した。当時の肖像画は常に写真の代わりをなす、お見合い写真か記念写真であった。アラゴン王国の王女の結婚話のために肖像画を書いたといわれる。絵師とは写真師に過ぎず、旅芸人の仲間であった。16世紀後半よりトレドにはギリシャ人のエル・グレコがいた。17世紀にはいってセビーリアにフランシスコ・パチェーコと云う画家が現れ、ベラスケスの師匠となった。スペインにとって集中度の高い17世紀に来た。エル・グレコは1612年に亡くなってから、スペイン絵画の黄金期第1期が始まった。ベラスケスは1623年宮廷画家となり、同時に宮廷式部長官を命じられた。ベラスケスは宮廷の芸人として、また雑用係一式をひきうけて、あるがままのスペインリアリズム(客観主義)の伝統に則って宮廷の肖像画や行事を描いた。そこには対象の内面まで立ち入ると云う近代リアリズムはなかった。スペイン絵画には文学性や思想性が殆ど欠如している。1660年スペイン王フェリーペ四世が娘のマリア・テレーサをフランスのルイ14世の王妃にする準備に忙殺され、1660年ベラスケスは他界した。ベラスケスの死を持って17世紀スペイン絵画の黄金時代は終焉した。

17世紀はスペイン国そのものは政治的、経済的には破産状態で、オランダとポルトガルは独立し、ナポリ王国は反乱し、イギリスに海上権を奪われ、アメリカ大陸との貿易は激減し、人口も半減した。1700年ハプスブルグ家のカルロス二世がなくなると、王室はパリのブルボン家に取って代った。スペイン王継承戦争を経て、フェリーペ五世が誕生した。ここでスペイン王室の権力を見てみよう。ハプスブル家にしてもブルボン家にしても近代国家の元首というのではなく、王室の生産元というか斡旋業者みたいなものである。国をまたがって数世紀にわたって複雑な婚姻関係が作られた。現在の欧州の王室はその殆どがどこかの時点で相互に血のつながりのある関係である。日本における藤原家をグローバルにしたようなものである。1500年間天皇家に皇后を提供し、自身は外戚となって摂関家として政治の実権を握った。世が武士の社会となると室町時代の足利将軍家には藤原家の分流の日野家が夫人を供給した。ちょっと関係が固定化しているので欧州の王室とは違う。欧州では多少利害関係が時代で異なっても、王室王妃の提供がグローバルである。フェリーペ五世が継いだスペイン帝国は帝国としての誇りはあったが、国家内部はバラバラのガタガタで旧態覆うばかりであった。フェリーペ五世は開明な専制君主として改革に乗り出し、道路、下水道など首都の改造を手がけた。17歳のゴヤが1763年マドリードに出てきた時、フェリーペ五世のあとを継いだカルロス三世は首都改革に積極的であった。当時の首相はエスキラーチェ氏でイエズス会に手をつけた。異端審判所の異端者の財産没収権を奪おうとした。これがイエズス会の猛反発を招き、民衆のフランス主義反対とか民族主義運動も起きて1767年3月暴動が発生した。首相官邸を襲われたエスキラーチェ氏は亡命し、アランダ伯が首相に代わった。この伯爵はなかなかの陰謀家でイエズス会の文書を偽造して弾圧の口実とし、4月1日6000人のイエズス会士を逮捕して国外へ追放した。こうして教権のうえに王権を確立したのである。教会至上主義は打破され、スペインの中世は終焉した。織田信長が比叡山や本願寺を徹底的に破壊し天下布武を宣言したのと同じである。日本より200年ほど後れてスペインは近代化した。(日本も褒められたものではなく、織田信長によって全国中央集権制単一国家が誕生するかに見えたのだが、徳川家康によるゆり戻しがあって封建分国体制になってしまった)

1767年3月の暴動が革命か反革命かといえば、中世勢力の反動革命と言えなくはないが、王室側にも近代的啓蒙思想があったわけでもないので、どちらの動きも革命とも反革命ともいえない、極めてスペイン的であった。教皇至上主義から王権至上主義へ云うほうが正しいのかもしれない。欧州では1748年モンテスキューが「法の精神」を書き、1751年ディドロらは「百科事典」を、1762年ルソーは「民約論」を、1764年ヴォルテールは「哲学辞典」を書いて、フランス革命は目の先に迫っていた。当時ゴヤは何物でもなく、こういう政治情勢に影響を受けた形跡もない。当時のマドリードの美術界にはラファエロ・メングスという理論派絵描きが新古典主義なる物を言い出した。そしてメングスのお気に入りがゴヤの兄弟子であったフランシスコ・バイユーであった。ここからゴヤの運命が胎動し始めるのであった。ゴヤは1763年17歳でマドリードに出てきたが、1769年ローマへ向うまでの6年間について何一つ確実なことはわからない。ただ1764年と1766年にアカデミーのコンクールに応募したが落選したことは記録にある。


ローマ修行とサラゴーサのエル・ピラール教会天井画・アウラ・ディ付属教会の壁画制作 結婚 (1774年28歳まで)

1769年23歳でゴヤはローマに私費で絵画修行に出かけたと云うことであるが、このあたりの記録は何もない。伝説では闘牛や刃傷沙汰の噂ばかりである。再び故郷のサラゴーサに戻るのが1771年25歳であるから、2年間はローマにいたらしい。後日ゴヤは版画集「闘牛技」、「妄」を作成するのだが、若い頃はピカソと同じく闘牛に狂っていたようだ。闘牛はゴヤにとって何だったのか、要するに暴力または破壊の一形式であった。ゴヤの体の核心にはいつも「暴力」が存在した。それが生きるエネルギーに化していたのだ。「ローマに近づくにつれて人は邪悪になる」といわれるが、ローマ教皇庁(ローマ帝国の首都)のあるローマは腐敗堕落の極みであった。1770年ゴヤはパルマ侯国(ブルボン王領)のアカデミィーのコンクールに出品した。このパルマ侯領の美術界を支配していたのはマドリードと同じくラファエロ・メングスで、ハンニバルの歴史画を課題にした。またしてもゴヤは落選した。ゴヤは型どおりの歴史画は得意ではなかったようだ。放浪の後、エル・ピラール大聖堂の天井にフレスコ画を描くために、1771年に故郷サラゴーサに舞い戻った。

ゴヤは師ルサーン氏の手引きもあって、フレスコ画制作を破格の安値で応札して受注した。スペインバロックの手法に合わせたものの、線より面・量を重要視した描法で描いて成功した。ゴヤは死ぬまで11枚の自画像を描いたが、1773年27歳の自画像は丸顔で動物的な顔である。1773年マドリードの美術界でゴヤを指導した援護者フランシスコ・バイユーの妹ホセ-ファと結婚した。いわば政略結婚であった。40年の結婚生活でホセ-ファは20人の子を生んだが、育ったのはたった一人だった。ゴヤが妻ホセーファを描いた絵が1790年(ゴヤ44歳)と1805年(ゴヤ59歳)の2枚存在する。後者の絵が別人のようにやつれているのは子供の生みすぎである(ホセーファは1812年死亡)。エル・ピラール大聖堂の天井画で成功したゴヤは、1774年修道院アウラ・ディ付属教会の七面の壁画(油絵)の一つを担当した。半年で完成させると云うバカ力を発揮した。このような型式どおりの宗教絵画の成功は、別にゴヤの歴史的な存在意義を高めるものではない。ゴヤの画家(絵師ではなく)としての本当に独創的な成功は40歳以降の作品群である。


王立サンタ・バーバラ・タピストリー工場時代 (1779年35歳まで)

王宮の巨大な壁を飾るために、1720年スペイン・ブルボン王朝のフェリーペ5世が王立タペストリー工場を設立した。スペインには絹織物、羊毛の他には産業らしいものは存在しなかった。王宮の贅沢品はすべては輸入に頼り,代金はメキシコ植民地からの銀で支払った。タペストリー織物も欧州の生産拠点フランドル地方(オランダ)からの輸入であった。フランドル地方はスペイン領であったが、スペイン王朝衰退にともない1713年「ユトレヒト条約」によってフランドル地方が独立した。そこでフランドル地方から職人を連れてきて、王立サンタ・バーバラ・タピストリー工場が設立されたのである。王立工場はほかに、羊毛工場、鏡と切子ガラス工場、陶器工場、紙・絹・剣の製造施設が立てられたが、これらは産業ではなく王室向けの贅沢品製造工場であった。スペイン美術界を牛耳っていたラファエル・メンゲスはベラスケスと同じように1776年王室式部長官に任じられた。サンタ・バーバラ・タピストリー工場の再編成に手をつけ、腹心のフランシス・バイユーに命じて新趣向のタピストリーを宗教画や古典を止め、民衆の生活や牧歌的風景を描かせことになった。そこでゴヤに仕事が回ってきたのだ。なぜ貴族が庶民の生活に興味を持ったのか良くは分からないが、フィクションとしての庶民生活が描かれる事になった。ゴヤはその生涯の前半において30歳から46歳まで16年間に約63枚のカルトンを描いた。1774年から1779年の5年間だけで35枚のカルトンを描いた。カルトンの制約上複雑な色彩変化や精密な描写は無理なので、その殆どは生気のない形式的な絵画であるが、中でも1774年に描いた「アンダルシーアの散歩道」と云う絵がある。この本の表装の絵であり、冒頭に掲げた。密輸団か盗賊たちが派手な衣裳を纏った伊達者(男はマホ、女はマハという)の流行衣裳が風俗画の典型となった。こんな伊達者の衣裳ファッションが貴族の興味を惹いたのかもしれない。ゴヤの意に沿わぬ仕事かもしれないが、この仕事はかなりの安定した収入になったようだ。またゴヤの出世は常に義理の兄であるフランシス・バイユーの線で動いた。1779年でカルトン制作の前半が終る。1778年スペインが英仏戦争に参加したため、贅沢品への出費がかなわなくなったのである。

ゴヤはこの時期は風俗画を多作したが、1780年フランシス・バイユーの推薦でアカデミィ-会員になると、今度は急に貴族への取り入りを計って肖像画制作が多くなる。ゴヤはいつもご時勢順応主義で上昇志向であった。カルロス三世はスペインの名君である。道路交通、産業、民生教育に力を入れ、目覚しい発展があった。カルロス三世はスペインが保有する美術品を国民に開示する事を考え、銅版画複製を企画した。1777年から1978年にかけて宮廷の画家たちにスペイン秘蔵の名画の複製を委託した。ゴヤも参加して、17枚のベラスケス絵画を銅版画に模写できた。いわゆるベラスケス発見の時期である。ベラスケス絵画の模写においてゴヤは必ずしも上手いとはいえなかった。漫画的にこともあろうか自分の顔に似た人物を描いている。ゴヤの模写は下手であったが、ベラスケスから人物描写の意味を学んだ。晩年にゴヤは「自分には三人の師匠がいた。自然とベラスケスとレンブラントだ」といったという。


アカデミー会員ゴヤ サンフランシスコ・エル・グラン教会壁画制作 (1785年41歳まで)

1780年フランシス・バイユーの推薦でアカデミィ-会員に推された。その頃故郷のサラゴーサのエル・ピラール大聖堂からバイユーに呼びかけて別の天井画の依頼があった。そこで、バイユーとラモン、ゴヤの三人でサラゴーサ入りとなった。エル・ピラール大聖堂参事会の要請はバイユーの指導と監督の下に行うと云うものであったが、ゴヤはアカデミィ-会員になったばかりで独立心を発揮し、独自に描くと委員会に確認しようとして、バイユーとの間に亀裂が生じた。ゴヤは80日間で「殉教者の聖母」と云う巨大な天井画を完成させた。できばえはと評判はあまり良くなかった。そしてゴヤが別の片隅の天井画の下絵を委員会に提出すると色彩が暗いと拒否反応がでた。委員会と参事会はバイユー氏の監督下に委ねると云う決定をしたが、ゴヤは意地を曲げず自分の絵を書くといって委員会と絶縁状態になった。この事件が起きてバイユーと不和になり、参事会から締め出されたのは、ゴヤの傲慢心のなせる事であった。ところが1782年サン・フランシスコ・エル・グランデ教会の中央天井画制作の話が、教会の建築家ロドリゲス氏と総理大臣フロリダブランカ伯爵より王の勅命として伝達され、バイユー氏が中央祭壇を描き、ゴヤたち7人の画家が副祭壇を描く事になった。ゴヤにまた運が回ってきたのだ。1782-1783年にかけてゴヤは「シエナの聖ベルナルディーノの説教」を完成した。ゴヤはなんと自己顕示欲の強い男であった。絵画の右端にちゃっかり自分の自画像を描いていた。無邪気と云うべきか、付き合いにくいと云うか。

ところが、このサン・フランシスコ・エル・グランデ教会の仕事に対しての報酬を払うべき主体がはっきりしていなかった。教会なのか、王なのか不明だった。ゴヤらは1785年3月総理大臣宛に報酬支払いの嘆願書を提出して、3ヵ月後にやっと解決した。総理大臣フロリダブランカ伯爵は道路交通整備に熱心なカルロス3世を助けて、有能な宰相であった。1783年アメリカ独立のヴェルサイユ条約締結においてスペインはアメリカのフロリダを領有した功績を讃えて、フロリダブランカ伯爵と呼ばれた。1783年ゴヤはフロリダブランカ伯爵の肖像画を描いて、卑屈な自分の肖像を書き込んだ。伯爵に自分を売り込むための絵であるが、この肖像画の報酬は支払われた形跡はない。しかし伯爵はカルロス三世の弟ドン・ルイース親王へゴヤを紹介する労をとった。ゴヤの目論見は成功したようだ。1783年にゴヤの肖像画をかいている。お金を貰うためではなく何処に飾るためでもないゴヤの肖像画は、気力旺盛な堂々たる面魂を表現していた。無頼漢、傲慢、頑固、精力的など何とでも形容詞がつけられる醜悪な自分の内面を見つめた自画像だった。


ゴヤ U 「マドリード 砂漠と緑」

ルイース親王家お抱え画家時代 (1783-1786年 40歳まで)

1783年夏、ゴヤ37歳で宮廷への道が開けた。ゴヤが肖像画を描いてゴマをすった総理大臣フロリダブランカ伯爵の斡旋の労によるものであった。フェリーペ5世の子供でカルロス3世の末弟であったドン・ルイース親王一家の肖像画を描くという機会が巡ってきたのだ。ドン・ルイース親王は兄カルロス3世にとっては厄介な世捨て人であった。ルイース親王は8歳で枢機卿、トレドとセビリアの大司教に任じられたが(宮さんのお寺入りは日本でもごくありふれた身過ぎ世過ぎの手段であった)、17歳の時坊主がどうしてもいやになり還俗した。親王は中年になってから芸術・音楽にこっていたが、49歳の時アラゴンの貴族の娘と結婚した。その時カルロス3世が課した条件には、本人と家族がマドリードに住むことを禁じると云う半追放、隠遁措置であった。親王一家はマドリードから西140kmほど離れたアレーナス・デ・サン・ペトロ離宮で趣味と狩猟の平和な生活に明け暮れていた。そこにゴヤが呼ばれ親王一家の肖像画を描く事を命じられた。ゴヤは1983年夏の4週間滞在して、殿下、夫人、男の子ルイース・マリア、女の子マリア・テレーサ、一家の図、建築家ロドリゲスの肖像を描いた。

男の子ルイース・マリア(6才)は後に枢機卿、トレド大司教に任じられる運命にある。女の子マリア・テレーサ(2才9ヶ月)は総理大臣マヌエル・ゴドイと結婚してチンチョン伯爵夫人になる運命にあった。ゴヤは1783年と1784年の2回にわたって親王家を訪れ、15枚の肖像画と1枚の家族図を描いた。そして親王家に御願いをして弟のカミ-ロをチンチョン地区の主任司祭にしてもらうなど、確実なパトロンを得て宮廷への道が開けた。ゴヤは宮廷写真屋になったのだ。カルロス三世はマドリード改造に燃え、建設事業を起こし、大学改革にも手をつけ、植民地経営会社も設立したので、銀行・大学・会社・取引所などで王の肖像画の注文が多くなった。1985年よりゴヤはサン・カルロス銀行の頭取やブルジョワジーの肖像画のほかに軍人の肖像画も描いた当代一流の売れっ子画家になった。次には夫人や子供の肖像画の注文がきた。ロココ美術の典型である「ボンテーテス公爵夫人像」、「オスナー公爵夫人像」を描いた。夫人像はいわば服飾画であり、ファッション雑誌のようなものであった。ゴヤの肖像画では子供の画に傑作が多い。大人の虚飾の世界を描く絵ではやっつけ仕事が多いが、彼は子供に対しては真摯に取り組んで失敗はない。

スペインに染み付いた貴族=領主制の18世紀末の状況をみてみよう。スペインイには産業はない。植民地から略奪した金銀が貴族の支払い手段である。貴族の毎日は狩猟、馬術、趣味の生活であった。行き詰めれば腐敗堕落の地獄絵となり、18世紀末はまさに貴族階級の解体期で「革命前のマゾヒズム」、伊達者の風俗や下降志向と云う貴族の自殺行為が横行し始めた。貴族階級は殆ど革命を受け入れる様でもあったが、ところが市民階級に革命に向うエネルギーがなく、飢えた者の興味といえば闘牛に明け暮れていた。ロシアの民衆が酒に溺れていたのと同じような現象である。この民衆の生活態度が倒れ掛かった貴族階級を支えていたのだ。ゴヤはこの時期オスナー公爵家のアラメーダ離宮で7、8枚の風俗画を描いた。このような絵が貴族の壁を飾るとは信じられないがこれも貴族の下降志向であろう。そこでゴヤは人間観察、風刺画家、事件画家としての腕を磨いていた。オスナー公爵家とはイタリアのボルジア家を先祖に持ち、オスナー公爵夫人はゴヤに四代ガンディーア公の絵画制作を依頼した。1786年ゴヤはカルロス三世の肖像画を描いた。王の威厳など無視して生の醜悪な顔を描いて思わぬ傑作となってしまった。そして1987年始めて王から直接の注文があった。サンタ・アナ修道院の3枚の祭壇画を2ヶ月で描けと云うものだが、とても間に合わず断念した。

この章の命題「マドリード 砂漠と緑」ということばは、欧州の辺境としてのスペインと云う意味である。スペインを過ぎるとアフリカの砂漠である。ピレネー山脈を越えれば緑のヨーロッパ文明の中心である。そういう意味ではロシアは欧州の東の辺境であった。ロシアとスペインの後進性文化の特色が極めて類似しているのである。東と西の双生児といわれる。


後期タペストリー制作時代 (1786−1789年 43歳まで)

この頃からゴヤの後期タペストリー用カルトン画の制作がはじまる。前期は1774-79年までの39枚で仏英戦争で中断した。後期は1786-90年の間に28枚を描いた。画材はロココ調の極みの「花と娘」などから、社会的リアリスティックな「傷ついた石工」などが含まれる。カルロス三世の四男アントン親王のエル・エスコリアール離宮の寝室の壁を飾るのが目的であった。親王の社会教育のためかもしれないが、ゴヤの絵画に社会性の滲んだ画題が始めて現れたようである。宗教画などには図像学的表象(寓意)を遵守して描くことになっているが、ゴヤもこの規則を守って春夏秋冬のカルトンを作った。ゴヤが宮廷画家として絶頂の頂点に立った1787年、孤独の41歳は鬱病におちいった。ゴヤは躁鬱の周期的な変動に何回も見舞われるのだ。

1988年12月王カルロス三世が亡くなった。年明けて1789年バスティーユ監獄が襲撃されてフランス革命が開始される。この新しい近代化の動きにスペインは巻き込まれてゆく。新王カルロス四世が即位し、宮廷には王と王妃マリア・ルイーサと総理大臣マヌエル・ゴドイの異様な三位一体関係が、1808年王子フェルナンド七世の反乱でこの3人が追放されるまで維持される。当時親衛隊将校だったマヌエル・ゴドイに惚れた王妃マリア・ルイーサの爛れた関係によって、マヌエル・ゴドイは1792年に25歳の若さで総理大臣となる。カルロス三世の遺言である「総理大臣フロリダブランカ伯爵を首にしてはならない」を反故にし、バカなカルロス四世と王妃の無茶苦茶な宮廷の混乱の始まりである。カルロス三世の喪中にゴヤはお世話になった人々にお礼の肖像画5枚を描いた。抜け目のないゴヤのお世辞戦略である。そして1781-1785年の間に子供や餓鬼どもの絵を7枚連作した。肖像画では手を抜いたり、ふざけたりしているが、本当にゴヤの子供の絵は上手い。イキイキとした傑作が多い。1785-1790年の間に闘牛の絵を7枚連作した。暴力の極みの闘牛にはスペイン人を酔わせる狂妄の世界があるのだ。再度スペインの光と影を見た。


ゴヤ宮廷画家となる フランス革命とゴヤの大病 (1789-1793年 47歳まで)

馬鹿な王カルロス4世および王妃マリア・ルイーサの戴冠式は1789年1月にトレドの大聖堂で行われた。ゴヤは42歳となった。カルロス四世と王妃の肖像画を描いた。王の絵は円満な王者の貫禄を描いているが、王妃マリア・ルイーサの絵はもうサルである、鼻持ちならぬ女悪党である。頽廃が色濃く描かれていた。ルイ16世の三部会開催に端を発したフランス革命を横に見てスペインの貴族階級は価値観が崩れてただ性道徳が頽廃したのだ。スペインの時の総理大臣フロリダブランカ伯爵は徹底した印刷物の没収と異端審問所強化の情報遮断策をとった。ツンボ桟敷で戴冠式祝賀会に埋没したのだ。スペイン宮廷にとって最重事項はブルボン王朝を守る事である。1793年フランスルイ16世とマリー・アントワネットの処刑を目の前にしてブルボン王政維持の為、これまでフランス派と見られていたスペイン内の啓蒙知識人狩りが行われた。総理大臣はフロリダブランカ伯爵を追放しアランダ伯爵に替えた。スペインは貴族制度を廃止しようとする動きにはならなかった。現在でも貴族制度を維持している国は世界広しといえども、英国とスペインとエチオピアだけである。一方フランス革命は混迷を深め、恐怖時代からナポレオン時代に代わってゆく。何のために革命をしたのかわからなくなった。

1789年4月ゴヤは宮廷画家に任命された。1790年カルロス四世の実弟であるナポリ王フェルナンド四世の宮殿を飾るためカルロス四世と王妃の肖像画を画いた。フランス革命を境にしてゴヤの夫人肖像画も大きく変化した。ロココ風服飾画から、質素なスペイン女性の肖像画の典型として、「ソラ-ナ侯爵夫人像」、「ラ・ティラーナ像」(1790-92)でバラと灰色と黒のこれこそスペインの色となって、誇り高く質素で家庭的な夫人像である。ゴッホが1792年アンダルシアのカディス港で友人の肖像画を描いた帰り道セビリアで重い病に倒れた。47歳のことであった。病名は分らないが結果ゴヤは全聾となった。人生の途中で全聾となった芸術家には有名なベート-ヴェン、スウィフトがいる。ここでもしゴヤが死んでいたなら後世、ゴヤは宮廷画家で宮廷を飾る肖像画とタピストリーを遺したとしか評価されなかったであろう。ゴヤの評価が高まるのは実はこの全聾となった47歳以降である。ここからがゴヤの画家人生の正念場となったのだから、病気とは分らないものである。18世紀のバロックやロココ美術がゴヤから消えたのである。ここから19世紀の近代絵画が誕生したのだ。ゴヤは病後の苛まれる想像力のために「気ままさと創意」という普通の注文画ではとりえない見方で11枚の絵画を描いてアカデミィーに送ったとされる。「山賊 女に短刀を擬す」、「狂人収容所」など一気にロマン主義を通り抜けてリアリズムに達した。一切の虚飾を排した、残酷さと醜さが正面きって描かれた。それが近代なのである。近代とはなにか、「自分を見つめる事」である。信仰と人間の崇高と、人間愚行の深さは背中合わせになってそれらは底なしであった。これに戦争が加われば、人間大狂態オンパレードとなる。


アルバ公爵夫人像制作とサンルーカス画帳 (1795-1797年 51歳まで)

1793年ゴヤの義弟ラモン・バイユーが死に、1795年ゴヤの出世の手引きをしてくれた義兄で師匠のフランシスコ・バイユーも亡くなった。バイユーがなくなったことでアカデミィーの絵画部長の椅子はゴヤに廻ってきた。王妃マリア・ルイーサの愛人で1792年に25歳で総理大臣に上ったゴドイ「アルクーディア侯爵」は政治的にはバカではなく、ナポレオン、イギリスを相手に綱渡り外交を展開した。1801年オレンジ戦争と云うポルトガル征伐戦争に勝利した時、ゴヤはゴドイの肖像画を描いた。ただ放漫な好色そうな青年政治家であった。カルロス四世と王妃マリア・ルイーサと総理大臣マヌエル・ゴドイの異様な三角関係が腐臭をあげる中で、1793年フランスの国民会議はルイ16世とマリー・アントワネットを処刑したので、スペインとフランス国民会議派は戦争となった。脆くも戦いに負けたスペインは1795年バーゼルで平和条約を結び、フランス共和制を承認せざるを得なかった。フランスにおける革命の凄まじい進行がスペインのリベラリズムの健全な生育を押しつぶし、今日までスペインの政治状況が世界から取り残されている原因となった。

スペインの名門で貴族の筆頭であるアルバ公爵夫人と王妃マリア・ルイーサは犬猿の仲であった。アルバ侯爵夫人は外国人から見ても美しさ、人気、優雅さ、富、家系の点でスペインのシンボルであった。醜女王妃マリア・ルイーサなどはかたなしである。1795年かねてからアルバ公爵夫人から肖像画を依頼されていたゴヤは、まず夫の「アルバ公爵像」(1796年40歳で公爵は死亡)と「アルバ公爵夫人像」を描いた。アルバ公爵夫人像は2枚ある。1795年作と1797年作である。前者の絵は出来が悪い。ゴヤにしては硬直した作品である。1795年にアルバ侯爵夫人家に関する2枚の小さな絵を画いた。「女中を驚かせるアルバ侯爵夫人」と「黒人少女マリア・デラ・ルスと女中頭」であり、自由奔放な家庭内の小事が描かれている。1797年の「黒衣のアルバ公爵夫人像」は肖像画の傑作である。凛とした品のよさ、豊かな肉体、まさに最高のスペイン貴族の女性である。ゴヤとアルバ公爵夫人との関係について俗説があるがここでは深入りしない。ゴヤはこの時期からスケッチ帳を持参するようになった。ゴヤの絵はいつもぶっつけ本番で下書きの残っている絵はむしろ少ない。スケッチ帳も大作をかくためのメモ帳というのではなく、スナップ写真のように対象を切り取るための小道具であった。1796年に全部で21枚のスケッチが遺された。お尻りを見せる女中とか、髪をかき寄せる女、ベットの上の裸女などである。この画帳をサンルーカス・アルバムと呼んでいる。


マドリード画帳と版画集「気まぐれカプリッチョ」刊行 (1797-1799年 53歳まで)

1797年にマドリード画帳が描かれた。サンルーカス画帳より少し大きめの画帳に複数の人物の物語を書きこむものである。けんかをする女達、女を殴る男、井戸を見る女、魔女などの漫画化である。迷信批判、狂気批評に人間的真実を見る目の成長が見られる。漫画から風刺へはあと少しである。1797-1799年の間ゴヤはマドリードの開明派知識人の肖像画を22枚描いた。そしてオスーナ公爵家のための6枚の小さな空想画(6号くらい)を描いた。魔女特集で当時の芝居や小説に画題をとった、貴族のための「御伽草子」制作であろう。人間観察の手本みたいな絵である。オスーナ公爵夫人はゴヤの最大のスポンサーであった。

スペインの政治状況は1歩前進2歩後退を続けていたが、ホセ・バルガス・ポンセなる人物がスペインの「無い無い尽くし」のパンフレットを刊行した。酷烈にスペインの後進性を自己弾劾するものであった。このような中1979-1799年ゴヤの版画集「気まぐれ(カプリッチョ)」が出来上がった。マドリード画帳の延長線上にカプリッチョ版画集が位置付けられる。「理性に見放された想像力は妖怪を生む。理性と合体したならば想像力はあらゆる芸術の母となる」と云う詞書に著わされる夢シリーズは14枚ほどである。版画集はアクアティントとエッチング法で描いて印刷し80枚ワンセットで売り出された。今で云う新聞の政治風刺漫画である。(最近は良い作家がいなくなって淋しい。)社会の過誤、策略、奇行、狂態、愚行、偏見、欺瞞を描いているが、ゴヤ自身のことでもあった。ゴヤは宮廷のお金で生活する雇われ画家であるが、皮肉な事に自身は革命など一言も言っていないが、絵画が人間性解放へ向っているのである。この版画集は何度見ても面白いし、新たな発見がある。こちらの人間性成長に応じて見えることが違ってくる。フランスの詩人ボードレールもゴヤの絵から「悪魔的な人間性」を指摘するのである。1797年から1799年までの2年間にゴヤは、彼の友人である四人に開明派知識人の肖像画を描いた。ホベリアーヌス像、バルデース検事総長像、劇作家モラティン像、ウルキーホフ総理大臣像である。これら開明派の人物はナポレオン治世下にあっていずれも過酷な運命に遭遇するのである。


ゴヤ首席宮廷画家と近代画家の誕生 (1799-1802年 56歳まで)

1798年サン・アントニオ・デ・フロリダ小聖堂をカルロス四世が再建し、ゴヤに「パドゥアの聖アントニオの奇蹟」の天井画を描く仕事を命じた。ゴヤはこの天井画のおいて宗教画のキリスト教図像学上の約束を悉く無視し、金髪の女性、異様な服装からなるいわば風俗画を描いたのである。この教会がスペイン教会から独立しているので、異端審問所の訴追を受ける心配が無かったからだ。人物像の輪郭は不明確で線描ではなく顔も大雑把に描いている。望遠鏡でなければ良く見えないこともあるが、この絵は西欧における教会装飾画、或いは宗教画の最期となった。これ以降誰も宗教画を書かなくなったし、宗教画を発注する教会の中世的権威と財力もなくなったからである。もう近代は宗教画を必要とはしなくなった。

1799年10月ウルキーホフ総理大臣の斡旋でゴヤは首席宮廷画家に任命された。7年ぶりにカルロス4世および王妃マリア・ルイーサの肖像画を描けと云う命令が出た。王と王妃の肖像画はいずれも凡作でどうってことはない。1800年カルロス四世の家族十三人の図が出来た。巨大な絵である。18世紀の最期を飾る大作であるが、全ては空しい限りである。ダヴィッドの「ナポレオン皇帝戴冠式図」に較べると、歴史のかなたに消えるものと19世紀の近代を生きるものの差が如実に現れるのである。1797年ドン・ルィース親王の娘マリア・テレーサと総理大臣マヌエル・ゴドイとの結婚が、王妃マリア・ルイーサの策略で行われた。愛人である総理大臣マヌエル・ゴドイをブルボン王朝の一員にさせるための王妃マリア・ルイーサの策略である。マリア・テレーサにはチンチョン伯爵夫人と云う爵位が贈られた。そのチンチョン伯爵夫人像を1800年に描いた。ゴヤの哀れみと同情が溢れるように優しい夫人像である。スペインは当時戦争のさ中にあった。1798年スペイン・フランス連合艦隊はアブキール海戦でイギリス艦隊に敗北し、フランスではナポレオンのクーデターとなった。1801年英国に味方するポルトガルに対するオレンジ戦争にスペインは勝利した。ゴヤは生涯10枚の自画像を描いた。1800年の自画像は54歳の自分を見つめる像である。老人のようなめがねのずり落ちた格好が面白い。何か事務員か郵便職員のような実直そうな像である。


ゴヤ V 「巨人の影に」

「貴族と聖職者がスペインの主人なのだ」というナポレオンの言葉で本書第V卷は始まる。ナポレオンのスペイン侵攻とスペイン民衆の抵抗運動とその悲劇的な結末が本卷の主題である。

肖像画(対象への絢爛たる悪意) 着衣のマヤ・裸のマヤ (1802-1807 61歳まで)

この時期のゴヤの主な仕事はやはり宮廷画家としての肖像画の制作であろう。「ホセ・バルガス」、「ブラボー・デ・リベーロ」氏の肖像画は誠に手ひどい人物像になっている。でくの坊に描いてなにか仕返しをしているようである。「アルベルト・フォラステール」氏の肖像画はなんと飛ぶ鳥を落とす勢いの三位一体の総理大臣ゴドイの画の首から上だけを挿げ替えたに過ぎない。全くゴヤは興のならない駄作ばかりの肖像画を描いている。しかし1803年の「フェルナン・ヌーニェス」像は傑作のひとつである。この伯爵像から尻の軽い裏切りばかりのその人となりが分るのである。また「テバ伯爵」像からは陰険そうな目と薄い唇から陰謀家の面相が見えるのだ。1807年の「カバリエーロ侯爵」像には、開明派を投獄した司法大臣を悪意に満ちた醜い男とした。実業家で銅板印刷技術した「バルトロメー・スレーダ」氏像は、当時の流行のロマンティシズムの髪型で現代人のようなインテリとして描いた。ゴヤはやはり女性像に傑作が多い。1806年「イサベル・デ・ポルセール」像は堂々たる豊満な肉体でアンダルシア女性の強さを描いた。「サバール・ガルシーア」像は知的な目を持つ現在女性として、女性像としてはゴヤの傑作のひとつである。「本屋の奥さん像」は宮廷画家でありながら庶民の女性像を描いていて注目される。これらの肖像画は9割がアメリカにある。アメリカは欧州の没落貴族や旧家からガラクタを買い集めたのである。肖像画は19世紀に入って消滅した。現代美術では肖像画は忘れられた存在である。

1803-1806年ごろの作品といわれる「着衣のマヤ」・「裸のマヤ」は官能的作品として超有名である。エロチシズムの代表として後世を悩ませ話題の多い作品である。評者はこれを「行為の前と後の絵」という。またモデルについて昔からアルバ公爵夫人と云う説もある。実用的にはこの絵は閨画・艶画(日本では浮世絵)であり、貴族の寝室のある場所にどんでん返しのからくりで裏表が入れ替わって楽しむものであったらしい。当時の異端審判所の目を逃れてこれを楽しむ貴族は,最高位の貴族であったに違いない。ゴヤは誰の依頼で描いたのか。著者の見解は総理大臣ゴドイの妾宅のベットを飾り、モデルはゴドイの妾ペピータ・ツドォであるという。らしい見解である。19世紀の初めにはモデルは半分以上が貴族ではなく町の実業家(ブルジョワジー)となっていた。1805年にはゴヤにとって59歳と云う人生の転換期(最高の幸福から不幸へ没落する)である。20歳の息子「ハビエール・ゴヤ」像を描いた。虚弱な遊び人にしか見えないが、たった一人の息子に嫁をとった。ハビエールは69歳で死ぬまで本当に何もしないで、親の財産を食いつぶしただけの人間である。

ナポレオンと云う巨人の影に (1808 62歳まで)

19世紀初頭、台頭するナポレオンの影の下でスペインの宮廷は策略陰謀の巣に化していた。イベリア半島は英仏の覇権をめぐる代理戦争の場となった。1805年台頭するナポレン軍に対する第3次大同盟(イギリス、ロシア、オーストリア)が成立した。ナポレンはトラファルガー会戦で破れたが、大陸では同盟軍を圧倒した。1806年ナポレオンはベルリン勅命によってイギリスに対する大陸封鎖を宣言した。ナポレオンにとって半島国家であるポルトガルをイギリス艦隊から断ち切るためスペインを同盟国に引きずり込んだ。1807年ナポレオン軍はスペイン領を通過してポルトガルのリスボンを占領した。そこでナポレオンは悪評高いスペインの三位一体宮廷のカルロス四世と独裁者ゴドイを退け、風見鶏のフェルナンド7世を支持した。スペインに放った密偵は「スペイン王国は虫食いのおんぼろ樹木で中味はがらんどうだ。しかし革命の準備が最も遅れている国である」と云う報告をしていた。今やフランスは、大革命を経て時代遅れのブルボン王朝を退け、若返って力に満ちたナポレオン皇帝に導かれていた。ナポレオンは軍事的には源義経のような天才であるだけでなく国民軍を率いて闘い、行政・政治面でもナポレオン法典に見るように現代国家思想を体現した優れた開明政治家であった。ナポレオンとしてはブルボン王朝の末裔がいるスペイン王朝は倒すべきだと考えていた。スペインに進駐したミュラー将軍には金も軍隊も十分に与えておらず、すべてはナポレオンの胸3寸にあった。そして1808年3月17日アランホエースの反乱が起きた。謀反の参謀はテバ伯爵で、カルロス四世と王妃と独裁者ゴドイの三位一体政権を追放し、フェルナンド7世を望またる王にむかえるシナリオである。スペインの悲劇の幕開けである。4月13日ナポレオンはカルロス四世と王妃と独裁者ゴドイと皇太子フェルナンドをフランスのバイヨンヌに呼びつけ幽閉した。空位のスペイン王にナポレオンは兄のジョセフ・ボナパルトをあてるつもりであった。そしてナポレオンは本卷の冒頭に述べた「貴族と聖職者がスペインの主人なのだ。かれらの特権と存在に手をつけてはならない。スペイン人民にはエネルギーが溢れている。戦争が永続化する。間違いを避けよ。導火線に火をつけてはいならない」と云う指令をだした。爾後の展開はナポレオンの予測した恐れ通りになるのである。ナポレオンの明視明察は天才である。

ナポレオンの副官サヴァリイーとスペインのゴドイ総理大臣の間でスペイン処理問題の条件が話し合われ、王位を王に返しフェルナンド皇太子の退位、王位は自動的にナポレオンに渡す。ミュラー将軍をナポレオンの代理人とすると云う内容であった。こうしてナポレオンはスペインを合併した。1808年5月2日スペイン人のナポレオン軍に対するマドリードの暴動がおき、鎮圧されたがゲリラ化していった。1808年5月19日ナポレオン宣言が布告され、スペイン現政権の廃止、王政はナポレオンが敷き、憲法制定を宣言した。6月6日ナポリ王であったナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトをスペイン王ホセ一世とすると決定された。7月7日バイヨンヌでホセ一世の戴冠式が行われた。退位したカルロス四世と王妃とゴドイの三位一体派はコンピェーニュ離宮へ、フェルナンド皇太子らはヴァランセィにそれぞれ移動(拘束)させられた。ホセ一世はマドリードに入り制憲内閣をつくった。ウルキーホ総理大臣、カルバース大蔵大臣ら開明派が一斉に返り咲いた。出来上がった憲法の骨子は穏かな妥協案で、カトリックを国教とし異端審問所を権限縮小して再開する、スペイン人は法の下に平等である、司法権の独立、112人の議会の設置、行政組織の規制などを謳った。いくら妥協的憲法といえど、スペイン人の感じ方は基本的に王は「侵入王」で、皇太子フェルナンドは囚われの身で民衆の人気が集中した。皇太子らはヴァランセィにおいて優雅な貴族的生活を保障されていて、ナポレオンにおべっかを云う卑屈な人物であろうと、悲劇の皇太子というフィクションは強まるばかりであった。ゴヤは「巨人」と云う絵を描いた。この絵はアリアーサの詩「一人の巨人がスペインの守護神となって民衆を救う」と云う趣旨の沿って描かれた。まさに民衆を解放するナポレオンを巨人と見て、ベートーヴェンの第3番「英雄」と見る思想と同じである。この巨大な開明的な暴力機構=巨人は第5交響曲「運命」となって、スペイン人の戸を叩いたのである。

1808年5月2日のスペイン人のナポレオン軍に対する暴動は、こうしてなるべくして挑発が組まれたようだ。4月30日ナポレオンはスペイン進駐軍ミュラー将軍に、まだマドリードの残っている王の一族であるマリア・ルイス・ホセーファとパウラ・アントニオ親王をバイヨンヌに呼びつけるよう指示した。5月2日の朝8時半に宮廷前のアルメリア広場に三台の馬車と護衛隊が進むと多数の民衆が集まってきた。民衆は力ずくで親王を奪い返そうとして、騎兵隊に襲いかかって暴徒となった。ミュラー将軍は挑発に乗って発砲した。これによって火は燎原のように広がりスペイン独立をうたうゲリラ戦に突入した。1808年はスペインの年である。ナポレオンが恐れていたようにスペイン進駐軍ミュラー将軍は、アランホエースの謀反を企んだテバ伯爵の民衆煽動の挑発に乗せられてしまった。5月2日のマドリードでの暴動と虐殺が起きた。フランス軍が襲われ150人が殺され、反撃に出たフランス軍はスペイン民衆を300人虐殺した。5月3日未明には600人の逮捕者の処刑がプリンシペ・ピオの丘でおこなわれた。スペインに残ったブルボン王朝の末裔はドン・ルイース枢機卿・トレド大司教とチンチョン伯爵夫人だけとなった。

ナポレオンスペイン併合と民衆蜂起、英仏国の代理戦争 (1808−1809 63歳まで)

1808年5月2日の暴動以降のスペイン情勢を見て行こう。この戦争の惨状をゴヤがどう描いたかについては版画集「戦争の惨禍」で述べるので、暫くゴヤの絵を離れてスペイン民衆のゲリラ戦と政局を時系列に見る。スペインの混乱を深めたのは、18080年3月19日のフェルナンド皇太子謀反によりカルロス四世が退位してから7月25日にホセ一世がマドリード入りするまで約5ヶ月間、スペイン国王を空位のままにしておいた事にある。(第2次世界大戦で、アメリカは天皇制の廃止を考えていたが、日本支配層の抵抗にあって天皇を維持し支配機構のみの解体とし、支配層の協力を得たことが、進駐軍の支配を容易にしたといわれる) 5月24日にアストゥーリアス蜂起、5月26日にサンタンデル蜂起では英国が介入してフランス人を逮捕し地方長官も派遣した。これらの蜂起は英国軍と謀議したテバ伯爵の暗躍である。まさに英国とフランスがスペインを舞台しておきた代理戦争といえる。フランスのエージェントはソラーナ侯爵で、イギリスのエージェントはモルラ将軍であった。(日本での幕末では薩長を英国が指導し、幕府をフランスが指導した。直接英国軍やフランス軍が介入しなかったのは地理的に離れすぎ、欧州の動乱があって極東まで手が出せなかったことによる) 欧州大陸におけるイギリスの対ナポレオン戦争の戦費はグルーバル金融財閥のロスチャイルドが投資した。この構図は現在でも続いていると云うから欧州情勢は根が深い。ゲリラ戦はセビリア、カルタへ-ナ、マジョルカ島でも起き、全国的規模の蜂起はいずれもフェルナンドの名においておこなわれた。この戦争はスペインでは「独立戦争」といわれるが、英国から見ればイベリア半島からフランス勢力を追い出してジプラルタル海峡の航行権確保も重要な目的であった。英国としては異端審問所の復活は意図していない。結果そうなっただけのことだ。スペイン人が自由主義思想・啓蒙思想を掲げたナポレオンに反抗したのは、独立戦争と云うよりスペイン人の最悪なる王政復古根性に過ぎなかった。6月15日セビリアに向けて南下したフランス軍1万2000人はゴルドバに入った。この時2万8000人のスペイン正規軍は蜂起側についてフランス軍を包囲した。バイレーンでフランス軍は1発も打たずに降伏した。フランス軍は武装解除されてトレドへ向けて撤兵した。その時に蜂起側の残虐行為が始まった。その行為の裏には英国軍がいた。ゴヤが人間に絶望しなければならなくなる。7月25日マドリード入りしたホセイ1世ははやくも8月5日にはマドリードを出て退却した。

6月サラゴーサに入ったフランス軍はサラゴーサを包囲した。(第1次サラゴーサ包囲戦) 8月4日フランス軍は総攻撃を掛け、8月14日撤兵した。9月26日スペイン蜂起側はアランホエース離宮において、24名の評議員で中央国家評議会を設立した。彼らは中世的旧習に復古しただけであった。この中央評議会はフランス軍によって散々蹴散らされ、各地を転転としたあげくスペイン軍は壊滅し、ゲリラ戦に霧散した。11月23日サラゴーサで第2次包囲戦が行われ、フランス軍に破れたカスターニュス将軍が率いる1万3000のスペイン軍は蒸発してしまった。かくしてフランス軍は12月20日にサラゴーサを完全包囲した。この包囲戦は1809年3月まで3ヶ月間続いた。1809年2月18日6000人のフランス軍はサラゴーサ市内に突入した。1万3000人のスペイン軍は降伏しホセ1世に忠誠を誓った。今回は残虐行為はなく武装解除された。11月フランス軍はエスピノーサでイギリス軍指揮下の2万3000人のスペイン軍を下して、12月2日再度マドリードに迫った。12月3日ナポレオンはマドリードの入城して、次々に革命的布告をだし、穏健にして立憲制の君主制をしくと宣言した。占領軍による民主化革命であった。修道院の2/3を廃止する。異端裁判所は廃止する。領主の裁判権など封建的特権を廃止する。カスティ−リア評議会は廃止する。異端審判官を逮捕し財産を没収。という上からの革命が行われた。どう考えても征服者ナポレオンンの政治こそがスペインの将来にとって民主的革命で、それなしではスペインの政治経済文化は前進することは出来ない事は明白であった。(日本を占領したマッカーサーアメリカ進駐軍による民主化占領政策と同じ運命を見ることが出来る。その結果は日本の奇跡的な復興につながった。ここで旧天皇制による軍と藩閥独裁政治にこだわったなら不可能であった) スペインが絶対王政、貴族、教会の支配と云う旧制度への復帰を願う事は超反動的といわざるを得ない。こうして1809年1月末にホセ一世は再度マドリードに入城した。1809年4月イギリスのウエリントン軍がポルトガルに上陸してスペインのタラベータで英仏軍が衝突したが、英国軍は再びポルトガルに引き揚げた。ホセ1世はアンダルシアとセビリアを制圧し、中央評議会はカディスへ逃げた。ナポレオンはこの年、ローマ法王領を併合してメッテルニッヒをオーストリアの宰相に任命し、ウイーン会議でスペインのホセ1世の治世を承認させた。このあたりがナポレオンの頂点であった。

ホセ一世治世とゴヤのアトリエ (1809−1812 66歳まで)

マドリード周辺はホセ1世の威令が行われたが、地方政府に至ってはカディス中央評議会系とホセ1世系の二重支配に近い状態であった。ホセ1世は道路や公共施設の工事に取り掛かり「広場王」とも呼ばれた。都市としてのマドリードはこの王の都市計画によって改造された。パリがナポレオンによって面目を一新したように。カディス中央評議会系のいうこともホセ1世系政府の云うこととに擦り寄って大差なかったが、双方の政府とも民衆とは繋がっていなかった。この革命の時にゴヤは2枚の肖像画と1枚の寓意画を描いた。開明派で異端審問官房長官「アントニオ・リオレンテ師」の矛盾に満ちた顔つき、1808年に描いた「フェルナンド7世騎馬像」、そして1810年の「マドリード市の寓意画」(アルゴリイ画)である。これはいわば市の看板画であり、市を象徴するメダルの中の像が時代によって次々と塗り替えあられた歴史が面白い。地番最初は「ホセ1世像」であったが、1812年8月英国軍が入城すると「憲法」に書き換え、10月ホセ1世が再入城するとまた「ホセ1世」に書き換え、1813年にホセ1世が出てフェルナンド7世が復位すると「フェルナンド像」になり、1841年フェルナンドが追い出されると「憲法の本」が描かれ、1872年「5月2日」と描かれた。これが最終版である。1810−1812にゴヤは「ホセ・マヌエル・ロメーロ像」を描いた。ホセ1世時代の警察長官である。ゴヤが絢爛たる悪意をこめていやらしい顔つきに描いた傑作である。ホセ1世は修道院廃止に伴いでてきたガラクタ同然の絵画を集めて、総理大臣ウルキーホは命を受け1810年10月美術館建設のため委員会を設置し、ゴヤは委員に選ばれた。美術館は完成しなかったが、1818年皮肉な事にフェルナンド7世によって現在のプラド美術館に決定した。

この激変する為政者の交代と政治の混乱と戦乱の時代、ゴッホは何をしていたのだろうか。宮廷画家としての仕事はますます少なくなった。彼は自身に閉じこもって、自分自身のために描いていた。2枚のマハ像(遊女)がある。「マハとセレスティーナ」、「バルコンのマハたち」であるが、色彩的に黒と白系統の色だけで,晩年への方向が予告されている。市井の人物像では「研ぎ屋」、「酔っ払いたち」があって戦争から目をそらして身近な者に救いを求めているようだ。奇怪な絵「死ぬまで」はおそらく王妃マリア・テレーサの皺くちゃ婆像である。小野小町草紙と同じ趣旨である。老醜図でゴヤは鬱憤を晴らしていたのだろうか。また子供の絵では1813年の孫の「マリアーノ・ゴヤ像」は抜群に良く画けた傑作である。1811年は飢えの年であった。マドリード市内で多くの餓死者の死体が転がっていた。悲惨とはこのことであろう。これも戦争の結果である。版画集「戦争の惨禍」に餓死者を描いた数多くの版画を残した。ゴヤは革命家でも啓蒙派でもなかったが、描いた絵によって革命的技術家になった。1812年6月20日、ゴヤによって20人の子供を生んだ妻ホセーファが死んだ。

戦後の飢えが癒されぬ間に、1812年に四万の英国ウエリントン軍がポルトガルから侵入を開始した。ナポレオンはロシア戦線にあった。サラマンカの戦いで敗れたホセ1世はマドリードを逃げ出し、1812年8月12日ウエリントン軍がマドリードに入城した。ゴヤは早速「ウエリントン卿騎馬像」を描いて9月1日の王宮での展示に間に合わせた。この絵を検査すると顔だけをウエリントンに描き換えたようである。元の絵は分らない。ウエリントン卿はインド支配で名を挙げた植民地専門家で帝国主義の尖兵である。ウエリントンは戦争屋ではない、冷静な支配者である。情勢が悪くなるとさっさとポルトガルへ引き揚げ、11月2日再再度ホセイ1世はマドリードに戻った。

版画集「戦争の惨禍」 (1808-1814 68歳まで)

ゴヤの代表的版画集「戦争の惨禍」は1808年(カルロス四世退位)から1814年(フェルナンド7世即位)までの6年間に描かれた。小さな版画集に込められた情熱は憎悪かもしれない。1820年ゴヤの友人でセアン・ベルムーデスが極秘に刷って「スペインがボナパルトと戦った血みどろの戦争の宿命的結果とその他の強烈な気まぐれ」と題した85枚の版画集であった。公刊はゴヤが死んで35年もたった1863年まで待たねばならない。この集は七つの部分に分けることが出来る。
第1グループ:第1番ー第19番   フランス軍の残虐と陵辱に対するスペイン人の勇猛果敢克残虐な戦い 本書掲載画 1,2,3,4,5,9,12,13,14,15,18,19
第2グループ:第20番ー第27番  戦争の結果の悲惨さ  本書掲載画 22,26,27
第3グループ:第28番ー第30番  べラレス公爵惨殺、戦争による被害  本書掲載画 28.29,30
第4グループ:第31番ー第40番  処刑、拷問、死体陵辱、怪獣  本書掲載画 33,34,35,39,40
第5グループ:第41番ー第47番  「私がこれを見たシリーズ」 逃げ惑う民衆  本書掲載画 43,44,45
第6グループ:第48番ー第64番  飢えの年  本書掲載画 49,54,55,61,62,63,64
第7グループ:第65番ー第85番  風刺画(カプリッチョ) 本書掲載画 65,66,68,70,71,72,74,75,76,77,78,79,80,81,82,84
フランス軍に対する英軍協力の下での百姓や下層市民のゲリラ戦(ソ連軍のたいする米軍協力の下でのアフガニスタンのゲリラ戦と読み替えてもいいが、このアフガニスタンゲリラ隊には自国民の市民はいない。全て米軍に雇われパキスタンで訓練された外人部隊ゲリラ兵であったことが、アフガニスタンの悲劇である)による勝利の結果が社会革命とならずに、フェルナンド7世復帰以降のスペインの絶対王政への復古は、実に何のために人々が血を流したのか暗然とならざるを得ない。フェルナンド治下ではゲリラのリーダは一斉に検挙され迫害され殺害された。憲法は踏みにじられ、中世を象徴する異端審問所までが復活しているのである。風刺画(カプリッチョ)ではこのスペイン人の愚昧さ、人間の醜悪さをこれでもかといわんばかりにゴヤは描き続けるのである。ゴヤはヤケクソにでもなったように教会そのものを、教皇さえも槍玉に挙げて絵の中で殺そうとする。ゴヤは「人間たることの悲惨、咎は汝にあり」と狼に書かせている。嘔吐を催す人間の醜悪さ、1813年でゴヤは67歳になった。翌年1814年4月ナポレオンは退位した。

革命の挫折(フェルナンド7世再即位) 近代絵画の傑作「5月2日」と「5月3日」 (1814 68歳)

ホセイ1世がマドリードから逃げ出した1813年6月から1814年3月末までスペインには政府は存在しなかった。1808年4月にフランスのバイヨンヌに移されたフェルナンド皇太子はこの間一体フランスでどんな暮らしをしていたのだろうか。故国では「ナポレンによって鉄鎖に繋がれた皇太子」と云うフィクションが出来上がっていたが、実情はナポレオンから貰っていた年金50万フランで実に優雅な貴族生活を謳歌していた。ナポレオンの姪を嫁にくれとせがんで、パリの女優3人をあてがわれた。ダンスと音楽、宴会の生活、そしてナポレオンへの絶対忠誠を誓った。英国はこんな生活をスペイン人に知られたら、反フランス運動が水泡に帰すと見て、諜報機関はスペイン内でフェルナンド名で檄文を偽造してばら撒いた。またカルロス四世と王妃とゴドイの三位一体はフランスではバイヨンヌからコンピエーヌに落ち着くのだが、北フランスの気候は御気に召さないと見え、やがてマルセイユに移った。これには英国の影が見える。スペインの抗仏運動の象徴として、英国はフェルナンデス皇太子を担ぎ上げようとしたが、フェルナンデスにはナポレオンと戦う気はさらさらなく、そこでカルロス王をマルセイユに移して英国艦を差し向けてフランス脱出を図ったが、王にもその気はなかった。かれらにもナポレオンから15億フランの年金が送られていた。ナポレオンは気前がいい。勿論スペインから巻き上げる財産に較べれば些細な金額である。こういう金でかれらは宝石、城、別荘を買って優雅な生活を楽しんだ。ナポレオンが没落した後も、王政復古でルイ18世に優遇されフランス在住を選んだ。その後王妃はローマに、王はナポリに移り、王妃は1819年1月2日になくなり、カルロス四世は同月ナポリで死んだ。ゴドイもイタリアローマに行ったがまたパリに移り、ゴヤと同じような強い生命力で1851年に亡くなった。享年84歳であった。

1813年12月落陽のナポレオンはついにスペイン支配をあきらめ、フェルナンドをスペインに戻す事に同意した。1814年ナポレオンは敗北を認めエルバ島に流された。1814年1月6日摂政府(代理政府)がマドリードに設置され、議長は枢機卿ルイース・マリア・ブルボンであった。フェルナンドはスペインに戻ると、立憲君主制になって居る事を無視し、摂政府と逢わず摂政府を認めなかった。そして絶対王政に復古した。プラド美術館にゴヤが描いた2枚の5月蜂起の大作がある。「マドリードにおける1808年5月2日、エジプト親衛隊に対する戦い」と「マドリードにおける1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘における処刑」がそれである。この2枚を描くゴヤの視点は、いわばトルストイの「戦争と平和」(アウステルリッツ会戦)であり、スタンダールの「パルムの僧院」(ワーテルローの会戦)である。ゴヤのこの2枚の大作の背後から文学が滲み出しているのだ。そうすでに19世紀の文学の世紀に入ったのである。ここで著者は面白い事を提案する。「この2枚は国連安全保障理事会室の壁にあるのががいいのではないか」 けだし名言である。5月2日の絵はナポレオン親衛隊のエジプト隊に襲いかかる民衆の姿で、騎馬兵ではない無名の群集が歴史の舞台に乗り出してくる時代を象徴する。5月3日の絵は顔のない近代国家が、群集から個人に戻された人々を機械的に処刑する図である。アンドレマルローがゴヤ論において結論として「ここから、現代絵画の幕が切って下ろされた」といった。 すなわち欧州の人間のありようが全面的に変革された時の開始点である。ニーチェは「神は死んだ」といい、ドストエフスキーも「我は悪魔なれば、全て人間的なるもの我に無縁ではない」といった。そうか人間は悪魔になったのか。ゴヤはこの2枚によって明白に現代美術の扉を開け放った。それは絵画史上の革命であった。5月3日の処刑の図にいたるところに暗示が施されている。中央で銃殺される寸前の人の手のひらには孔が開いており、キリストを暗示させている。背後の暗闇に聖母マリアを暗示させる母子像が描かれ、丘の傾斜面はキリスト処刑の場であるゴルゴタの丘を暗示させ、遠景の教会を含めてこの絵はまがうことなく「キリスト受難の構図」である。


ゴヤ W 「運命・黒い絵」

フェルナンド7世の反動・弾圧政治 スペインの中世復活 1814−1815年(69歳)

ナポレオンから自由を得たフェルナンド7世は、摂政府や憲法草案など糞食らえといわんばかりに1814年5月4日サラゴーサで王位復帰宣言を行った。悲劇の皇太子を迎える民衆の歓喜の声をよそに、次々と絶対王政への復興政策を実施した。5月4日の宣言で封建的私領制を容認する地方政府の復活、5月23日廃止されていた全修道院が復活した。5月27日支配者の全権力を集中した「カスティーリア評議会」が復活、6月23日領主による徴税制が復活、6月24日聖職者は納税を免除され、7月21日には異端審問所が復活し、ここに絶対専制政治が世が蘇った。言論の自由も人権宣言も立憲制も何もなくなった。この超反動的な体制を回復した勢力は宮廷内の修道士と侍従たちである。フェルナンド7世は宮廷内の茶坊主しか信用できなかったのだ。欧州大陸の啓蒙思想とブルジョワジー勃興をよそに、スペインだけは中世に逆戻りしたのだ。スペインはやはり半島国家なのだ。1815年4月には新聞雑誌一切が発行禁止になった。1815年9月全欧王権同盟と云うべき神聖同盟条約に加盟した。ブルボン家とハプスブルグ家、ロマノフ家などが手を握って、新興ブルジョワー国家に対抗しようと云うのである。密告を奨励して、制憲派の自由主義者、親フランス派、反仏ゲリラ隊への弾圧・逮捕・処刑が始まった。フェルナンド7世のこれらの党派に対する怨恨の執拗さは実に異常であった。それを煽ったのがカトリック修道僧であった。この反動と恐怖政治は1820年のリエーゴの革命まで続いた。6年間にわたる恐怖と迫害であった。

国家の民衆に対する略奪戦争により、肥えたのは一部の旧貴族領主と大教会僧であった。そして官僚の腐敗と略奪によって社会は大混乱におちいり、盗賊団も跋扈した。むしろ盗賊団のほうに友愛と正義があった。この混乱期に海外植民地メキシコ、エクアドル、ベネズエラ、パラグアイ、アルゼンチン、コロンビアなどが独立し、スペインには金銀が流入しなくなり、宮廷の疲弊、財力低下も著しかった。そしてスペイン各地で毎年反乱がおき、ついにはお膝もとの外征用の軍隊も反乱した。そして1820年1月1日ラファエロ・デル・リエーゴ大佐が1500人の兵でマドリードを制圧し、3月9日フェルナンド7世に憲法を認めさせて幽閉した。あらゆる牢獄が開かれフランス革命に近い共和政権が誕生したが、その後の混乱と内戦はお決まりのスペインの運命であった。皮肉なもので王政復古の時代にゴッホの周辺は急に賑やかになり、フェルナンド7世のご真影の注文が殺到した。ゴヤは6枚の国王肖像画を描いた。対象への絢爛たる悪意を込めて実に不愉快な人物として描いた。新国王は元総理大臣ゴドイ伯爵の財産没収に手をつけた。その時押収された物品のなかでゴヤの絵に異端審問官が目をつけ、ゴヤは粛清の危機に陥った。ゴヤはいつものように王周辺の貴族の肖像画を描いて難を脱した。ゴヤは急にロココ風の18世紀に逆戻りしたような典雅で無内容な肖像画を描いては貴族のゴマをすった。したたかな男だ。

フェルナンド7世の財政は全くの無政策で、ブルジョワジーから略奪する事しか念頭になかった。王から強制貸付金を要求され、ためにマドリードの財界は恐慌状態に陥いった。1815年に描いた「王立フィリッピン会社総会」と云う絵がある。東インド会社のような植民地経営と搾取のための出資会社である。巨大な絵画であるが、大きな空間を描いたにすぎず、株主たちの精神は空虚である。これは近代的ニヒリズムを暗示させる絵画の典型といえる。スペインではブルジョワジーは実業から資本の蓄積を行うのではなく、帝国主義的植民地支配に依存して資本を略奪することに精を出した。(明治政府が政権も固まらない時期に、資本蓄積のため自国産業の興業より先に、征韓論や征台論の植民地獲得に動いたのと同じ論理である。資本主義の最初にはいつもこのような手っ取り早い資本蓄積が希求されるのだ) 

版画集「「闘牛技」 1814年ー1816年 (70歳)

ゴヤの生涯に闘牛は切り離せない。闘牛は暴力の遊戯化なら、暴力がスペインの歴史の通奏低音である。闘牛をゴヤの人生から剥離する事は不可能である。剥がすとゴヤの人格は生気を失う。1814年から1816年の不安定な時期に版画集「戦争の惨禍」を銅板に刻み、そして1816年に版画集「闘牛技」を公表した。70歳になろうとするのに、怒りと無力感、エネルギーの爆発と不規則・不連続さ加減は一向に変わっていなかった。小さい時から闘牛に親しんできたゴヤは、闘牛の歴史を著わしたモラティンの著書に基づいて33枚の版画を描いた。第1番から第8番まではモーロ人(北アフリカのイスラム教徒)やエジプト人の闘牛の歴史を時代考証もいい加減に描いた。第9番から第13番はキリスト教徒の貴族の闘牛の歴史を描いて、次に民衆が登場しもりで牛を突き殺す図を描いた。第14番から第20番は伝説的名闘牛士の技が現れる。第21番以降は闘牛のドキュメンタリーや事件を扱っている。人間が牛に刺し殺される場を描いている。牛は最期に死を覚悟して静止すると云う。この時を「真実の時」という。スペイン人は尊敬できないものと真剣勝負はしない。狩から出発した闘牛がスペイン人の哲学まで昇華したのだ。しかし全く売れなかった。しかしゴヤが生前出版した版画集は「気まぐれカプリッチョ」と、この「闘牛技」だけであった。他の膨大な版画や画帳集は内容があまりに「アブナイ」ので、地下深く死蔵されてしまった。

地下画帳 D画帳(1801−1803)、E画帳(1805−1812年)、C画帳(1803−1824年) 

近代作家としてのゴヤの業績にはデッサンがある。このデッサンはゴヤが番号をつけたもので331枚である。(存在が確認されているのは271枚) 実物を閲覧することは、通常の訪問者には不可能である。そしてゴヤはデッサンを本番のための下絵としてではなく、それ自体の価値を認めた独立のものと意識して作ったようだ。そのデッサンには、物語の連続性、テーマの追求あるいは文明批評家としての鋭い目を見ることが出来る。彼自身によって画帳として大まかに整理された8冊が存在する。それらはA,B,C,D,E,F,G,Hと名前を打たれている。Aは1796年のサンルーカス画帳(21枚)、Bは1797年のマドリード画帳(22枚)である。1801−1803年にD画帳(17枚)、1805−1812年にE画帳(38枚)、1803−1824年にC画帳(124枚)、1824−1828年にG画帳(31枚)、1826−1928年のH画帳(40枚)である。

1801−1803年に描かれたD画帳(17枚)には、空を浮遊する人間の狂気の影、囲われた狂人、子供を喰らう魔女などを描いている。これらのデッサンはインディアン・インクと称される墨で濃淡を塗りつぶすことで人間の闇を強調する手法が鮮やかである。1805−1812年に描かれたE画帳(38枚)には、扱われているテーマは対仏独立戦争の悲惨などである。老人図、戦争の結果としての不具者、無知蒙昧農民による文化破壊、農民の休息、洗濯女、盲目の靴修理屋の貧乏、怒れる農民、本を読む農民などにたいするゴヤの観察の目が行き届いている。1803−1824年に描かれたC画帳(124枚)は、その内120枚が完全な形で国立プラド美術館に保管されている。この画集の絵の数は一番多い。このC画帳は「観察から批評」への入り口に当る。ジャーナリスト・ゴヤの姿が見えてくるのだ。この画集は三つの内容に分類される。第1グループは乞食と貧乏人である。皆それぞれ貧苦によって、不具によって、性によって、悪夢によって、暴力によって、宗教的狂愚によって、全的には健康ではない十分ではない人間の悲哀が描き出されている。ネガティブな人間観察である。第2グループは1812−1820年に書かれ、宗教的狂愚の極地である異端審問所の犠牲者を描いてスペイン反動を告発する図である。第3グループは1820−1823年に書かれた革命と自由の名による告発である。宗教的狂愚と弾圧に対する抵抗としての、理性と真理を象徴する構図である。第1グループに9枚の「幻シリーズ」がある。道化、女、悪夢に迷妄をやぶる理性と文明の光をゴヤは信じているようだ。第50番あたりからゴヤの協会批判は激しさを増してくる。明暗を強調するため墨だけでなくセピアも援用して暗闇はますます増えてくる。まるでスペインの闇を内面化するように。ゴヤはデッサンに詞書をメモしているので、この時期のスペインそのものの苦悩が如実に表現されている。拷問の絵にはガリレオまで登場する。拷問に屈したガリレオと,牢獄で呻吟する不屈の人間、鉄鎖に繋がれる宗教犠牲者、残虐な拷問の図など、まさに全残虐図のオンパレードである。見るほうもうんざりするが描き続けるゴヤの精神構造はよほど強靭であったのだろう。

最期の宗教画 革命から内乱へ 1817−1820年(74歳)

この反動の暗い谷間の時代に、1817年宮廷からゴヤに注文がきた。王妃の化粧部屋に飾るのだというが、「聖女イサベルの救済図」という全くそぐわない絵をゴヤは描いた。これが宮廷の仕事として最期のものであった。同じ年に「聖女フスタとルフィナ」を描いた。歴史画としては凡作で、瀬戸物屋の娘二人を描いたに過ぎない。そうして宮廷からのお呼びはますます遠ざかるのである。制作年ははっきりしないが「熱気球」と「巨岩の上の砦に対する攻撃」と云う異様な絵がある。空を飛ぶ熱気球と、空を飛ぶ人間(落下傘部隊のような)で、ゴヤは人間世界から逃れるには飛ぶしかないと思っているのだろうか。1819年5月マドリードのサン・アントン・アバード教会付属学校から「ホセ・デ・カラサンス聖人、最期の聖餐図」の注文を受けた。彼の生涯中において常ならぬ傑作であり、かつ近代宗教画中の傑作のひとつであろう。90歳を超え死につこうとするカラサンス聖人が最期の聖餐を受ける図であり,雰囲気は人間的情緒に溢れ、聖餐の感動を伝えるには十分である。ゴヤの中には宗教心は溢れるほどにあったのだ。教会の腐敗に絶望していたのであって、宗教を捨てたわけではなかった。そしてゴヤはこの制作収入の2/3を学校に寄付をした。ゴヤは、民衆の教育に熱心であった聖学校派のカラサンス聖人に対する深い尊敬の念を抱いていたのだ。愚味と罪から逃れるには子女の教育しかないと云う信念があった。同じ年ゴヤは「最期の宗教画「オリーブ山上の祈り」と云う紙に抗議するキリスト像を描いた。腕を一杯に広げて叫ぶキリストは、ハイドン作曲「十字架上からの七つの言葉」を思いこさせる。
1:父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているか判らないのです。
2:よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に天国にいる。
3:母よ、ごらんなさい。これがあなたの子です。
4:わが神、わが神どうして私をお見捨てになるのです。
5:私はのどが渇いた。
6:すべてが終わった。
7:父よ、私の命を御手にゆだねます。
人間的苦悩の満ちたキリスト像である。

1819年ゴヤはリトグラフと云う石版画を学ぶ。73歳にして「おれはまだ学ぶぞ」という。リトグラフには刷り師の腕が必要でスペインでは得られず、本格的に制作できるのは、1824年ゴヤがフランスのボルドーへ亡命してからである。1819年マドリードのマンサナーレ川の丘の上に庭園付住宅を購入した。息子には既に遺産の半分を分けてあるのでそれはかなりの出費であった。この家は「聾者の家」といわれ、後年「黒い絵」が壁一杯に描かれる運命にあった。むしろ黒い絵を描くためにこの家を作ったのだろうと云う気もする。いずれに黒い絵の製作動機は不明なのだから。1819年秋から冬にかけてゴヤは再度重い病に陥る。医者の見立ては急性肺浮腫ということだが、不屈の体力が彼を回復させた。1820年ゴヤは闘病中の自分と医師アリエータ氏を描いている。図柄としては聖餐図である。

1820年1月1日ラファエロ・デル・リエーゴ大佐が1500人の兵でマドリードを制圧し、3月9日フェルナンド7世に憲法を認めさせて幽閉した。全牢獄を解放し、議会を召集し、イエズス会を再び追放し、言論の自由を保障し、24の修道院を閉鎖し、教会財産の国有化を宣言した。異端審問所の廃止して、囚人と被追放者からなる政府が成立した。革命である。30年遅れのマドリード版バスティーユであった。しかしこの革命政府もフランスの場合以上に未曾有の混乱におちいる。極左派は王の処刑と無制限の民主化、すなわち無政府主義の実現を求め、極右派は立憲王政と教会国家の併立を主張してテロを挑発し、内乱状態になった。7万人の僧職者が還俗し、反乱とテロの元凶になった。1822年までこの無政府状態の混乱が続いた。1822年の選挙でリエーゴは内閣府議長となったが、王制を廃止したわけではないので二つの政権が存在したことになった。1823年1月フランスのルイ18世は、神聖同盟の約束からスペインの王政を復古するため、スペインに干渉派兵をした。革命も3年で終り再びフェルナンド7世の王制が復活した。

版画集「妄=ナンセンス」 1815−1824年(80歳)

この版画集「妄=ナンセンス」(22枚)の制作年代にはわからないところが多く、最大の振幅をもって1815−1824年としておかれる。版画集「戦争の惨禍」とも重なるものを持ち、現実の戦争と飢餓を離れて見えない現実に向うところは想像力の世界である。この版画集はゴヤの作品中最も難解で、意図をあえて曖昧にしているところがある。ナンセンスとは「論理上の逆説」と理解される。直接的な論評から一ひねりした社会批判であろう。善悪・風刺・批判から抽象的な人間実在を問うものである。女のナンセンス、楽しいナンセンス、決まったナンセンス、飛ぶナンセンス、哀れなナンセンス、めちゃくちゃなナンセンス、明瞭なナンセンス、周知のナンセンス、恐怖のナンセンス、憤怒のナンセンス、動物のナンセンス、おかしなナンセンス、若い牛のナンセンス、飛翔図、誘拐する馬などの絵は、一瞥しただけではそのひねりがわからない。哲学用語というのか、モンテーニュの「随想録」、兼好法師の「徒然草」の名随筆を読むがごとくに瞑想的である。良くもこれだけ馬鹿者共の競演を見せられるものだ。画家は絵で表現するしかないのだが、もう既にこの版画集は言葉で語るロマン主義近代絵画に入っている。最期には人間も牛も空を飛ぶのである。人間存在はいかに頼りなきものか。

黒い絵 1821−1822(78歳)

ゴヤの「聾の家」に描かれた壁画、通称「黒い絵」は最も個人的な絵画である。見せるためやまして金のために描かれたものではない。1階と2階の居間にあわせて14枚のシリーズ壁画はゴヤの人生の総決算である。ゴヤの人生すべての意味をこめて、この世におさらばする為に描かれた。1820年から1822年の3年間をかけて、14枚合計33平方メートルの絵は、独創的・創造的な作品である。モネも自分の家の内壁に睡蓮を描いているが、ゴヤの絵はちょっと正視に堪えないような絵ばかりで、狂人の屋敷に迷い込んでしまった感がある。或いは哲学書が壁に張り付けてあるような恐怖と瞑想の場を提供している。空想美術館ともいえる。見せるためではないといったが、これは見られないための絵であると云うほうが正確である。「理性に見捨てられた想像力は,不可能な妖怪を生む。それが合体すればこそ、芸術の母となり、その奇蹟の源泉ともなるのである」という「レカーディア」に書き付けたゴヤの詞書にすべての解があるようだ。理性と想像力の合体こそが芸術の生みの親であるという。参考までに、この屋敷を買収した銀行家デルランジェ男爵が1874年から1878年にかけて、修復者クールベスに依頼して壁画をはがしてキャンパスに移した。数次にわたる修復で多少絵は変わってしまったが仕方ない。都市計画のためにこの地を買収した銀行家が、この訳の分らない絵を破壊しなかっただけでなく、金をかけて著名な修復家に修復させたのは幸運といえる。この銀行家に感謝しなければ罰があたるというものだ。

1階食堂の絵
1:「レオカーディア」
この絵だけは他の13枚と違って若い婦人の絵である。しかし画面の殆どはゴヤの巨岩趣味に占領されている。粗いタッチで絵の具をぶつけたような描き方はそれなりに迫力がある。婦人の顔は黒いレースに覆われているのか暗い。黒いベール、黒い衣、黒く長いスカートは図象的には憂愁、瞑想、死を表す。つまり生と死を考えようということらしい。この絵は入り口にあるので、黒い絵シリーズ全体を象徴するかのようだ。
2:「魔女の夜宴」
1.4m×4.38mの横に長大な絵である。暗闇で魔女の集団が巨大な牡山羊の説教を聞いている図である。一番右端に場違いな若い女性が、離れて椅子に腰掛けて説教を聴いている様子である。他の魔女達はてんでに勝手なわめき声を上げている。一番左端の魔女は編み物をしており、牡山羊の右前に入る魔女は遠くを見て(聞いて)驚いている。これは夜明けを告げる鶏の声を聴いて帰らなければと驚いているようだ。さらに右の魔女は死んだ赤ん坊を手にしている。次の右の太った魔女は中腰でなにやら叫んでいる。そして多くの魔女の異様な眼差しの顔顔。山羊は星占術では土星に関係するそうだ。魔女の夜宴は通常土曜日の夜に行われ、土曜日は土星の支配下にあると信じられていた。所謂グロテスクリアリズムの傑作かもしれない。魔女裁判騒ぎが比較的少なかったスペインにおいて異様な迫力の絵である。右端の紅一点の若き女性は恐らく修復者の創作の手によるものかもしれない。
3:「わが子を喰らうサトウルヌス」
真っ暗な背景にザンバラ髪の巨人がわが子を喰らうと云う凄惨な場面です。その目がいかにも悲しげに又恐怖に満ちてわが子を喰らうというものです。サトウルヌスはローマの古い農業神であったが、何時の時代からjか老年、時間、悲哀、悲惨、憂鬱、死を表象するものに変わった。これが人間だこれが人間だと叫んでいるようだ。77歳の老人が黙々とこんな恐ろしい絵を描き続ける、これはもう狂気の沙汰だ。
4:「ユーディット」
「ユーディットとホロフェルネス」という作である。旧約聖書経外書「ユーディット書」の女主人公で、アッシリア人の襲撃から市を守るため彼女は適の将軍を誘惑し寝首を掻いたといわれた伝説の女性である。英雄的女性の賛歌ではなく、この残忍な絵はどうみても女性憎悪の念、いつか女は裏切るという脅迫概念が加わっているようだ。子殺しと同じくゴヤの女性憎悪はゴヤの通奏低音である。
5:「聖イシードロの巡礼」
「魔女の夜宴」の対面にある長大な絵である。この長蛇の人間集団の列は何か無意味で、何かに向っててんでバラバラに叫んでいるようだ。人生もまた生から死への無意味な巡礼なのか。歓喜でもなく静寂でもなく恐怖に満ちた人間の行列である。異様な迫力を持った冥府への行軍である。
6:「二人の老人」
一人の杖をついた老人は聾者であるらしく、となりの修道士が大きな口を明けて耳元で怒鳴っている。そろそろあなたの(死ぬ)番ですと怒鳴っているようでもある。
7:「二人の老人スープを飲む」
「二人の老人」と対になっているのが、となりにある「二人の老人スープを飲む」の絵である。もう殆ど骸骨に近い老人が生きている限りは食をとる。右にいる骸骨老人がなにやら書類を見ている。死ぬ人の順番のリストかもしれない。やりきれないほどの老醜の図である。この7枚の絵をこうして1階の食堂の壁を左回りに一周して見てきた。これらはゴヤのあの世への黙示録を示しているようだ。誰に頼まれるでもなく、生涯の最後に至ってゴヤは自由に絵を書いた。内的な自由を得たというべきか。
2階サロンの絵
1:「運命」
1階の絵はあたかも闇と影が色彩を覆い隠すような有様であったが、2階のサロンの6枚の絵はもう少し明るく色彩も比較的豊かである。1階と同じく入り口から左回りに見て行こう。左の壁にはまず「運命」と云う奇怪な魔女3人組プラス1がまたもや空に浮遊している図である。ギリシャ神話の運命の3女神像は、モイラ神とはもともと「割り当て」を意味した。つまり一人の人間に決められた運命を割り当てる事を意味し、運命を割り当てる「配給者」、運命の糸をつむぐ「紡ぎ手」、運命の糸をきる「糸を断つ」女の3人である。絵の女神はとても女性とは思えない化け物である。生まれたばかりの赤ん坊をてにする怪物、天眼鏡でこのこの運命を占う怪物、はさみで運命を切る怪物、そして正面を向いた主人公は女であるが役割は分らない。子供を生んだ母親なのか。いかにも穢いぼろを纏った運命神、こんな貧乏神に運命を託さざるをえない、この子の将来が思いやられる悲痛な母親の心なのか。
2:「決闘」
背景には盛り上がった巨岩があり、樹木一つ無い裸山がひろがった山岳地帯風景でいかにもスペインらしい。そこに二人の男が足を砂地にうずめて身動き取れない姿勢で、棒を振り上げて殴りあいの死闘をしている。逃れようがなく相手が死ぬまで終らない殴り合いは或いは人生なのかもしれない。人類の狂気はこの世の終りまでかかるものなのだ。
3:「政治家たち」
中央の男が膝の上の紙か手紙かを拡げて、それをまわりの四人の男が覗き込んでいる。誰がこの絵を「政治家」と命名したのかは知らないが、そういわれると密談しているような陰謀を凝らしているように見える。これが神聖同盟の政治なのかもしれない。密室でぼそぼそ意見を交わすのが政治なのか。1822年の神聖同盟の会議において、メッテルニッヒは「スペイン憲法があらゆる地方において王冠の安泰と人民の眠りに抗して陰謀を企む土台になっている」と批評した。王党派の陰謀か革命派の陰謀かはわからない。
4:「二人の女と男」
これはなんという絵なのか。一人の老人がオナニーをしているのを、娼婦らしい女が二人覗き込んでいる様子である。老人の悲惨さを通りこした絶望的な心持になる絵だ。一切の飾りを廃した等身大の人間を見せつけられる。
5:「聖イシードロの泉へ」
1階の食堂にあった長大な「聖イシードロの巡礼」(4.3m)と同じ題名である。1階ほど長くは無いが2.66mと、近景から遠景まで長蛇の如き大量の人間の列である。その先頭にいるのが異端審問官である。遠景はなだらかな丘陵、中景は巨大な岩と樹木、近景はなにやら不安そうな7、8人の集団を描いている。襤褸切れを着た修道士と修道女の群れで腰の曲がった老婆もいる。これは教会批判の絵なのだろうか。謎に満ちた絵である。
6:「アスモデウス」
アスモデウスは旧約聖書経外書のトビイ書にでてくる好色な悪魔で、人々の家の屋根を剥いで私生活を曝露するとんでもない悪魔である。中央に巨大な岩石の上に砦があり、二人の男と女が空に浮遊しているお決まりの構図である。浮遊する二人には悪魔的なところはなく普通の人間が紅いマントに乗って山の上の砦を指差している。砦の下には盗賊団の一群と右端から鉄砲を構える二人の軍人がいる。この軍人の狙っているのは、盗賊か浮遊する人間かは定かではない。全く意図が分らない難解な絵である。
7:「犬」
最後の絵は最も難解な絵である。背景は何もない抽象的な背景で、手前は砂丘である。そこに犬が首だけを出している。犬が覗いているのか、砂に埋もれようとしているのか分らない。

聾者の舘に描かれた14枚の絵は作者ゴヤの74歳から77歳までの作品である。足場を登って描くのは、老齢で病気がちのゴヤにとって恐ろしいほどの労働であったろう。かれが長く苦闘してきたテーマは、彼自身の想像力が生んだすべての悪夢そのものであった。創造的な悪夢は芸術の母であり奇蹟の源泉である。ゴヤの強い心と自由な技術が、戦いかつその戦いを克服して、人間の実在そのものに内在する狂気と、獣としての欲望まで描ききった。1階の絵のテーマは「悲惨と死」、2階の絵のテーマは「運命」ということであろうか。この絵が完成してからゴヤはこの舘に住む期間は殆どなかった。1824年の再度の反動王政が再来して、ゴヤ自身が身の危険を感じて避難したり隠れたりそしてフランスへ亡命せざるを得なかった。1824年ゴヤが逃避する前の年に、聾者の家はゴヤの孫のマリアーノに贈与された。この孫は後年事業で失敗しすってんてんになって、1859年この家を手放した。それを銀行家が都市計画のために買い取ったのであった。

絶対王政の復活・反動時代  ゴヤ永眠 1823−1828年(82歳)

いよいよゴヤの最晩年から死去までの時期を扱う。1823年神聖同盟の条約によって、フランス王政復古のルイ18世がスペインの委託統治権を得て、内戦状態に干渉し10万人のフランス軍を派遣した。そしてカディスに幽閉中だったフェルナンド7世を復位させた。またしてもスペイン絶対王政復古である。1823−1833年の間、絶対王政が復古して多くの政治難民がフランスやポルトガルに避難した。フランスだけでも8万人を越える人を受け入れた。1823年11月には革命政府のロリーゴ議長は処刑され、著しい人が逮捕処刑されたといわれる。ゴアも1824年の3ヶ月間ドゥアソ師宅に避難し、1824年5月宮廷画家の休暇願いを出して合法的逃亡に成功した。1824年6月ゴアは78歳でマドリードを脱出し、6月24日フランスのボルドーからパリへ入った。パリには7月1日から8月31日まで滞在し、街をほっつき歩いてはスケッチをしたり、リトグラフの技術を学んだ。ゴヤは綺羅星のように才能が集まっていたパリのサロンには入った形跡がない。ユーゴー、ドラクロアなどにも会った形跡はない。ゴヤはパリに行っても、街のいざりをスケッチしていた。冬のパリを避けるように9月1日よりゴヤはボルドーに移り、暖かい地で療養生活になった。ブルドーには亡命スペイン人のコロニーがあり、そこで旧友と生活をともにしていたようだ。1825年晩秋ゴヤはボルドーで病に倒れたが、再再度持ち直した。80歳を越えて最期の画帳二冊をかき、象牙細密画、リトグラフの制作に励んだ。彼の口癖は「おれはまだ学ぶぞ」であった。1826年5月マドリードにもどって宮廷画家の辞職願を提出した。7月再びボルドーにもどって秋までは健康状態は続いた。1827年に最晩年の傑作を3枚描いた。遊女を描こうとした「修道女」、生命そのものを静謐裡に凝視するような「修道士」、清冽な生命に満ちた「ボルドーのミルク売り娘」である。1827年4月16日ゴヤは82歳で亡くなった。ゴヤの墓は聖アントニオ・デ・ラ。フロリダ小聖堂にある。


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