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中野晃一著 「右傾化する日本政治」
岩波新書(2015年7月)

安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える

本書を読んで、安倍第2次内閣の急速な右傾化政策は彼個人の信念によるものか、それとも時代の流れによるものか、時代の流れによるとすれば右傾化を推進する原動力はなにかについて、初めて正面向った議論を聞いた気がする。右傾化は1980年代に始まる新自由主義の世界的潮流の特徴であり、1990年ごろの東欧とソ連邦の崩壊による冷戦構造の消滅によって一層加速されたとされる。それは「資本主義の勝利」という歴史的ターニングポイントを経て、グローバル(全世界的)資本主義の時代に超独占資本の寡占支配が確立すると、政治と経済(労働と生活)の全面で右傾化が進行した。日本では中曽根、小沢、小泉、安倍が右傾化の代表選手といわれるが、中曽根の時代は保守本流に縛られて口ほどには右傾化は進まなかったが、バブル崩壊後のデフレの中で保守本流の55体制が弱体化し、湾岸戦争、9.11アフガン戦争・イラク戦争をへて小泉時代から破壊的に右傾化が進行した。その流れを受けて安倍政権が右傾化を促進したということになる。では安倍という個性の問題かというと、ヒトラーが政権を奪取してナチスというファッシズムを作ったことをヒトラーという個性の問題に閉じ込めて反省しないのと同じ過ちを犯すことになる。ドイツを取り巻く第1次世界大戦後の世界情勢とドイツ経済の要請がヒトラーを生んだと言わなければならない。連合軍の勝利もヒトラーの殺害で終わるのではなく(中東の戦乱がラディンやフセインの殺害で終わらなかったように)、そのまえにドイツ社会経済そして軍部と産業の徹底破壊によって得られた勝利である。安倍が怪物か名門お坊ちゃん政治家かどうかは知らないが、安倍がいなくても誰かがやったに違いない。名門三世政治家はパワーエリートを自任する寡占エリート(少数の支配的指導者と官僚機構)に取り囲まれているに過ぎない。しかもそのエリートたちは経団連の言いなりであるとするならば(まだ日本では軍部エリートが重要なアクターでないことは不幸中の幸いであるが)、結局右傾化推進の原動力は財界(超独占企業家)ということになる。そもそも昔も今も企業内に民主主義がるわけではない。企業を支配しているのは激烈な才能競争(市場原理)とパワーハラスメントの忠誠のみである。社会生活で自由と民主主義を謳歌しても、「企業に入ったら民主主義もへったくれもない」といわれる。その同じ原理を社会に要求するとすれば効率のいい社会となるという理念は、必然的にファッシズム支配が最高に効率のいいシステムにつながる(アテネの民主制よりスパルタの軍事独裁制が強力であったように)。だが寡占エリート独裁制になったらすぐに腐敗し、民衆の支持はなくなる。社会構成員(人民)から常にコントロールを受けない体制(西欧的王侯貴族性、東洋的皇帝・天皇制、ドイツ的ファッシズム・軍部独裁制)の腐敗・転落は早い。しかしどうしたら右傾化を阻止できるかについては本書は答えていない。これらの問題はロック、ルソー、トクヴィルらの政治学の永遠の課題である。詰るところ人民の支持にもとずく政治を目指すことになるが、選挙制度、議会民主主義、3権分立などの諸問題に解答をしなければならない。以上のことが本書を読んだ読後感のまとめであるが、今しばらく本書に則って著者中野晃一氏の論拠をたどってゆこう。2012年12月安倍晋三が第2次内閣を組んで以来、その復古主義的な政治理念から、日本の軍国主義化を懸念する声が上がっている。その歴史修正主義的な政治家が今や自民党の主流をなし、公明党、維新の会、民主党の一部にも見られることはこれまでみられなかった事態である。本書は日本政治が大きく右傾化しつつあるという立場をとる。その右傾化プロセスは過去30年ほどの長いスパンで進行しつつあったと見ている。その結果が安倍内閣の集団的自衛権容認閣議決定と安保法制国会審議という政局となった。その特徴は国民の声を聴かずに右傾化が政治主導(政治エリート主導)で進められていることである。右傾化は今回が初めてではなく、30年来の繰り返し的な政治的運動の結果である。そしてこうした右傾化の本質は「新右派転換」という自民党主流派の変質であることだ。一部の突出した政治家の暴言ではなく、自民党政策の主流として現れていることが大きな特徴である。

右派の質的転換とは、政策面のみならず格差社会、市場原理、個人の権利や自由の制限、日米安保条約の米側の要求の対応、近隣外交と歴史修正主義への変化を改革と標榜することに現れる。右派とは「不平等や改装間格差の是認」、「国家による秩序管理の強化」、「軍事力による抑止重視(積極的平和主義)」、「歴史修正主義(大東亜共栄圏の正当化)」とみて、左派とは「平等志向・個人の自由尊重・反戦平和・植民地の反省と謝罪」という価値感で位置づけた政治座標で捉えてきた。この考えは国際的にも受け入れられている。中曽根から始まる右傾化はその流れにあることは事実である。それでも日本政治はまだまだ左にあるので「改革」の必要があると叫ぶ人もいるわけである。現在は十分右に傾いていると思うなら、安倍政権の復古主義は「極右」となる。新右派転換によって政治座標が右にシフトする傾向は、日本のみならず過去30年ほどの世界的な潮流にあると言える。そもそも「新右派(ニューライト)」という言葉はマーガレット・サッチャーが1979年イギリス首相に就任し、ロナルド・レーガンが1981年アメリカ大統領に就任してから1980年代冷泉末期の保守政治家を指して使われ始めた。むろん日本の中曽根首相も3本の指に入る。伝統的な勝ち規範や社会秩序の復権を声高に提唱し、規制緩和や企業減税で企業の経済活動を自由にする経済政策の文脈では「新自由主義」とも呼ばれた。又軍事力増強で共産圏に勝つことではタカ派的な安全保障政策を追求した。サッチャー首相は戦後イギリスの「コンセンサス政治」(合意政治)が自立心を奪い国力の衰退を招いたと攻撃した。フォークランド紛争や炭鉱須知来期には軍事力や警察力を動員して対処に当たり、国営企業の民営化、ビックバンなど証券規制緩和、人頭税の導入を行い、階級間妥協のの必要性を説く「国民統合派」を弱虫と軽蔑し、政敵を駆遂した。サッチャーの後を継いだメージャーを含めて17年間(1997年まで)保守党政権が続いた。トニー・ブレア―労働党政権で左方向の修正が行われたが、右派の「改革路線」を継承したものであった。アメリカにおいてもレーガンの後を継いだブッシュ(父)が1993年まで共和党政権を維持した。ビル・クリントン民主党政権が中道に部分的に揺り戻したが、新右派を覆すというのではなく、経済的には新自由主義政策の下で国民の期待を一部代弁したに過ぎない。このように新右派転換は世界的に展開しているが、選挙制度としては小選挙区制を用いる英米によってグローバルな新右派転換は推進されてきた。さて日本における新右派転換は大きく捉えると「新自由主義(ネオリベラル)」と「国家主義(ナショナリズム)」によって形成されている。新自由主義については、服部茂幸著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2913年5月)に述べられている。新自由主義とは政治面を別にすればミクロ経済学のことである。需要と供給の一致するところで、価格と労働が決まるとする市場主義のことである。労働市場では賃金を下げれば失業はないとする。金融面では、政府は効率的な金融市場には介入してはならないということになる。フリードマンは投機は市場を安定化させると述べたことは有名である。金融緩和をすれば総需要は増加し、インフレが起き生産量は増加する(好況とインフレが共存する本来の関係になる)という。レーガノミクス、アベノミクスとはまさにフリードマンの新自由主義経済学派の忠実な追従者である。政府による需要管理に必要性を論じるケインズ経済学に基づくマクロ経済学(著者の立場)と、市場メカニズムによる需要供給均衡論からなるミクロ経済学で戦後資本主義は動いてきた。しかしマクロ経済学とミクロ経済学には本来整合性はない。市場での選択という自由と、福祉における社会権の自由は違う概念であるのに、新自由主義者は後者の価値を無視し、前者の自由を唯一の自由の定義とした。極論すると新自由主義者の言う自由とは、政府の課税は個人の財産権を略奪する行為であり個人の自由を奪うとまで言う。だから減税を主張するのである。福祉国家は個人の財産を奪うので小さな政府を主張する。福祉国家を否定し、貧困者は国家が救うのではなく、個人の憐れみである慈善事業で救うということがアメリカの文化だという。新自由主義は戦後資本主義を批判して、次の4つの政策を主張する。
@供給サイドの重視:戦後資本主義の総需要管理政策を批判して、供給サイドの改善を主張する。しかし産業政策ではなく、市場の規制を緩和し減税をすることである。労働の非正規化や低賃金化をもたらした。
A金融の自由化:戦後資本主義の金融システム規制政策を批判して、金融市場の自由化を主張する。バブルと投機資本による金融危機を招いた。
B富の創出(トリクル・ダウン):戦後資本主義の福祉国家政策を批判して、富の分配よりは富のトリクルダウンを期待した。スーパーリッチへの富の集中となった。
C市場の自由:戦後資本主義の福祉国家による経済活動への介入政策を批判して、市場の自由を主張した。小泉政権の構造改革は民営化路線と格差拡大であった。
  新自由主義の政治面では、小さい政府に象徴される福祉の削減、個人責任への移譲だけでなく、「内閣機能の強化」が極めて重要になってくる。強い国家を目指すために。議会民主制の尊重よりは「決断の政治」に傾きやすくなる。統治の効率化のために中央集権がますます強くなる。既得権や合意形成型の政策決定(55レジーム)から、抵抗勢力の排除と中央独断専行の政治(エリート支配層の寡占支配)へと移行してきた。政治改革の名の下に導入された小選挙区制は政権交代可能な2大政党形成へと動いた。これが新自由主義的な民主統治の理想として掲げられた。

自由経済を標榜する新自由主義と対になって新右派連合を形成したのは、その政治面では「強い国家」を思考する国家主義であった。市民社会でも国際社会でも、国家の権威を高めようとする保守反動勢力の失地回復運動が合流したことである。国家主義と言っても、国民の統合、主権よりも国家の権威や権力の強化を目指す動きである。国民意識や感情を煽る政治手法が用いられる。北朝鮮拉致問題、中国・韓国・ロシアとの領土問題(尖閣諸島・竹島・北方4島)で被害者ナショナリズムの宣伝である。軍事面では明らかに大きな政府主義であった。明治維新以来の国家の価値秩序を優先させる国家保守主義が徐々に復権を遂げてきた。戦後の55体制は日本帝国の敗北から出発する「戦後レジーム」からの脱却が至上命題に掲げられた。「自主憲法」の制定や9条憲法改憲論、国連平和維持活動PKO参加、非尖塔地域への自衛隊海外派遣、集団的自衛権の行使容認(これまでの政府見解は、権利は認めるが行使は憲法上できないとしてきた)を進め、有事法制、治安立法の整備が行われてきた。次には歴史認識や道徳教育に関する問題である。教育基本法の改正、君が代と日の丸法制化、戦前のすべての戦争を自存自衛の平和のための戦争と正当化する「靖国史観」という歴史修正主義が図られてきた。教科書問題、靖国問題、慰安婦問題は国内のみならずアジア隣国との国際問題へと発展してゆく。こうした明治以来の「日本近代化」の正当化への情念が新右派連合に合流して、復古色の濃い国家主義が特徴となった。日本の新右派連合は、新自由主義(経済的自由主義)と国家主義(政治的反自由主義)の2本の柱で成り立っている。これらは合理的に結び付いたというよりは、野合に近い矛盾だらけの論理を超えた不合理なカミュ的怪物である。とするとこの二つを陰で支えているのは理念・信念などではなく、自己利益と自己保全を追求するアクターの取引において、誰が利益を受けるか、誰が支配するかという「リアリズム」以外には考えられない。マキャベリスト達が政治寡占エリートととして首相官邸を占拠している姿が見えてくる。つまり強者の理屈がまかり通る世界である。市場や社会における富裕層や権力者にフリーハンドを与えて鼓舞するシステムである。そのためのレトリックやパフォーマンスがメディアを通じて国民の前で繰り広げらている魑魅魍魎の世界(政財官エリート)である。その利害を共有するグループとは誰だろうか。新自由主義的経済的な利益の受益者はグローバル企業エリートであり、国家主義アジェンダにより権力の掌握を強固にするのは保守統治エリートである。その構図はアメリカのパワーエリート特に共和党エリートに顕著である(1%の富裕層が富を独占する)。新自由主義が欲望を刺激する消費文化を煽れば、国家主義がナショナリズムを煽って階層間矛盾から目をそらすマッチポンプ的な相互補完作用である。ここで自由主義の由来は、ジョン・ロック、アダム・スミス、ミルらを祖とする西欧の合理的な思想潮流であった。ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」(岩浪文庫)や、J・S・ミル著 塩尻公明・木村健康訳 「自由論」(岩波文庫)アダム・スミス著/大河内一男監訳 「国富論」(中公文庫)などが、古典的自由主義と呼ばれている。そしてケインズからハイエクの自由主義に移った。広い意味での自由主義の政治経済的意味はこれらの書物によるとし、ハイエクの古典的自由主義が、今日新自由主義と呼ばれること自体が、自由主義の変質を示している。日本の新右派連合の変容も、新自由主義が先行したがどこかで国家主義が紛れ込んできたときに始まる。中曽根や小沢の国家主義もまだ復古主義的傾向は抑制されており、未来志向的の国際協調主義的な面が強かった。しかし利益協同体のコンセンサスを重視する自民党戦後体制(55体制)は1990年代半ばに瓦解すると、旧勢力の破壊のために権力の集約化が始まり官邸機能の強化体制に替わった。それが歴史修正主義に導かれる復古主義的な国家主義に変質したのである。それ時を同じくして自由市場や自由貿易を看板にしている新自由主義が、ひたすらグローバル企業の自由の最大化すなわち寡頭支配の強化に変質した。こうして政治の自由化として始まった新右派転換がいつしか「反自由の政治」に変質を遂げたのである。これを富を独占した者の腐敗堕落のプロセス、社会崩壊へのシグナルと解することができる。さらに右傾化は、アメリカとの関係でいうと、さらなる米国隷属(植民地)化に向けての国内社会の地ならしと理解できないだろうか。米国が戦前のような軍部独裁になった日本の反米独立活動を見逃すわけがない。アメリカに対して牙をむく日本は絶対に許さない、それが日本の降伏(ポツダム宣言)の条件であった。とすれば、その範囲内で安倍がアメリカの犬として権力をふるうのは見逃すだろう。アメリカに協力する体制すなわち右傾化を推進したのはアメリカの支配層であったと言えるかもしれない。この辺はさらに詳細な検討が必要である。右傾化運動が反米であった試しはないということが隠せぬ証拠になる思うのだが、結論は先にペンディングしておこう。

1) 55体制―旧右派連合の政治

サンフランシスコ講和条約後の世界はアメリカとソ連の対立の構図となり、それを反映する形で国内においても保守と革新の対立の構図が形ずくられた。1955年日本社会党が再統一を果たすと、保守合同が実現し自由民主党が誕生した。大枠においては1993年まで続いたこの政治システムは、55体制と称され自民党が一貫して単独d政権を掌握してきた。そのなかで社会党は次第に政権交代の実現可能性を見失うが、政策面では保守政権の歯止め役を果たしてきた。この38年間という自民党の長期政権は際立って長いが、国際的には例がないわけではない。イタリアのキリスト教民主主義の中道右派政権、フランス第5共和国のドゴール政権の優越が長く続いた。この保守政権に対する政治システムのバランス役はイタリアでは共産党、フランスでは社会党であった。こうした穏健な保守政治のありようはイギリスや西ドイツにも見られた。イギリスでは保守党と労働党の「コンセンサス政治」はサッチャー政権が誕生する1979年まで続いた。ドイツではキリスト教民主同盟のエアハルトが提唱した「社会的市場経済」を社会民主党も受け入れ階級闘争は放棄された。アメリカでもリベラル派がエスタブリッシュメントの主流を占め続け、1980年にレーガン大統領が誕生するまで影響力を持っていた。このような冷戦を背景とした、階級間妥協に基づく保守政治が世界史的に展開されていたのである。日本において55体制下の政権を担当した政治勢力を「旧右派連合」となずけておこう。旧民主党系の鳩山一郎、石橋湛山、岸信介と続いた保守政権は、60年安保闘争を経て岸信介が退陣し、旧自由党系の池田内閣から佐藤英作政権の成立によって経済第一政策に転換してから安定的な軌道に乗り、1970年田中角栄政権から大平正芳政権まで絶頂期を迎えた。60年安保で戦後最大の危機を招いた岸らの旧民主党系は保守の傍流になった。吉田首相から池田、佐藤、田中、大平らの政権を「保守本流」と呼ぶ。外交問題、安保問題、憲法問題の棚上げ、国家社会主義的経済計画と福祉国家などに最大の特徴がある。官僚派の政治家や経済官庁が中心的な役割を果たした「開発主義」と、党人脈が強みを発揮した中間団体のくみ上げ方式「恩恵主義 クライエンタリズム」の結合が旧右派連合であった。「発展指向型国家(開発国家)」とは政府介入計画経済型の今でいう発展途上国の特徴である。開発を果たした国家はアメリカのような「規制指向型国家」と呼ばれた。政官業エリートの連携を支えたのは経済ナショナリズムであった。銀行・政府系金融機関は大蔵省主導の護衛船団方式で運営された。官主導の経済開発をもって日本型経済モデルとする考え方が一般に受け入れられている。年功序列や終身雇用などを通じて雇用の安定が図られた時代であった。これらの経済政策を可能にしたのが、保守長期政権による制jの安定であった。安保外交や政治的争点を棚上げし、経済成長第一主義の成果であるパイの再配分を重視することこそ、旧右派連合の「恩恵主義」政策であった。経済の二重構造の利点を享受しながら優秀な企業に育ったメーカーが経済成長をけん引する一方、中小企業、農業、土建業、流通業へは手厚い補助金や公共事業を供給し、その見返りに自民党への投票を獲得する政策を「パトロン−クライアント関係」つまり利益誘導型政治体制が出来上がった。農林、建設、商工の御三家の族議員が自民党政務調査会に集結し、組織票と政治献金で既得権益を守る業界を厚遇してきた。この自民党派閥のピラミッド組織を「恩恵主義」と呼ぶ。

開発主義と恩恵主義を唱える旧右派連合は、ある意味ではかなり左がかった「国民政党」であると言えるが、階級間対立の解消を目指したわけではなく、その本質は戦前からの紛れもなく保守支配の一形態である国家保守主義にあった。外に対しては「経済ナショナリズム」、国内では再分配により「一億総中流化」社会を目指していた。経済が右上がりを続ける限り、開発主義と恩恵主義は好循環を維持できた。旧右派連合の自民党の支持母体は経団連と農協、土建業会であった。この間革新勢力は社会党、民社党、公明党の野党多党化の流れの中で、1958年以降社会党の相対的ウエイトは低下し続けたが、三分の一を超える野党勢力は保守への牽制力となり、保守の暴走を未然に防ぐ大きな構図は維持されてきた。階級的対立にこだわる社会党左派は右派の江田書記長のビジョンに反対し、1964年「日本における社会主義への道」綱領を採択し、西ドイツの社民党の国民政党への転換を謳った「ゴールドベルグ綱領」とは反対の道を選択した。1960年代は民主主義と平和は地方からとばかりに、あいついで「革新自治体」が誕生した。1963年飛鳥田一雄氏は横浜市長に当選し、1967年には美濃部都知事が誕生した。1973年には9つの政令指定都市のうち6市が革新市長となった。都道府県レベルでは1975年には9の革新自治体が存在した。国政においても1970年代半ばは「保革伯仲」時代となり、タカ派の福田首相も安全運転を強いられた。しかし革新自治体は1970年代末に終わりとなり、野党の民社党と公明党が反共で一致し中道路線から離れた。国政レベルでは自民党は「自公民」路線から公明党と社民党に働きかけ、新自由クラブの保守中道路線を形成した。社会党も1980年代より中道諸政党との連携に踏み出した。反共で中道路線はずっと右へ変質した。旧右派連合は高度経済成長により大きな成功を収め、1964年にはOECDに加盟し、東京オリンピックを開催し、1968年には国民総生産GNPは世界第2位に躍り出た。開発主義の成功は日米貿易摩擦を引き起こし。1960-1990年までは常に日米の懸案課題であった。1990年代にはアメリカから安全保障の国際貢献を求められ、規制緩和要求から市場開放を強く迫られるようになった。日本型開発主義が攻撃対象となり、その解体を迫られた。旧右派連合は経済成長の成果によって保守支配の国民統合が担保されていた以上、旧右派連合のコスト負担(財政負担)に国民意識が賛意を示さなくなると、システムとしては破たんする。1975年から本格的な赤字国債の発行が始まる。アメリカも双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)に苦しんでいたが、日本も財政赤字時代に突入した。公共支出の増大、税制改革への対処が持病となって旧右派連合を苦しめた。恩恵主義は国会運営にまでおよび、野党の抱き込みに金が動くという野党の腐敗により、選択肢としての野党の存在可能性が貶められた。日本では政権交代の可能性を有した競争的な政党システムをついに形成できなかった点で、55体制は自由度が低い政治システムと言わざるを得なかった。

2) 冷戦の終わりー新右派転換へ

本書は前章を55体制の旧右派連合の短いまとめとすれば、第2章及び第3章が新右派連合に関する本論となる。第4章は短い終章で先の民主党政権の反省と選択肢を考察したものである。冷戦構造の中で西側諸国において、中道右派と中道左派の政治勢力が一定のコンセンサスに基づいた政治を展開することで、階級対立の緩和を通じて国民統合を優先する政治は、社会に安定をもたらし、貧富の差の拡大を食い止める傾向があった。しかしどちらの政党が政権を取っても政策選択の幅が狭く変わり映えがしないという批判や、公共セクターの拡大によって民業が圧迫されるという批判が強かった。私的利益や物欲(消費行動拡大)是認の新自由主義の風潮を歓迎する勢力があった。こうした自由化の流れはソ連においても1985年ゴルバチョフのペレストロイカやグラスノチの進展となった。また中国においても1978年よりケ小平の改革開放路線で市場経済への移行が始まった。経済的自由への希求が全世界的な流れを作った頃、日本の旧右派連合は貿易摩擦を通じて米国から規制緩和要求や財政赤字対策への対応を迫られた。1979年大平首相は自由主義的な国際協調(対米協調)への同意を明確に打ち出した。大平首相は安全保障分野を基盤とした対米協調と、非軍事分野での国際協調を区別した。国内的には「政治不信の解消」を重要課題として捉え、赤字国債解消には「小さな政府」路線への転換を明示した最初の政権であった。大平の新自由主義の理念は次の鈴木・中曽根首相に受け継がれた。新右派転換を日本に導入したのは中曽根康弘であった。大平は「人間的連帯の回復」という文化の重視を主張したが、中曽根個人の国家主義は多分に復古調の反動的なモノが入っていた。しかし個人としての復古調はかなり抑制された。臨教審も常識的なモノで教育基本法には踏み込まない了解であった。日本が国際社会で大きな役割を果たすには過去の反省に基づき、近隣諸国への配慮をしなければならないという国際協調の大前提が中曽根を包み込んだ。第一次中曽根内閣の実働部隊は田中派で占められ、ブレーンは大平派で固められていたので、保守本流からはみ出ることは到底できなかった。政治手法という点で中曽根は大平のブレーン政治ではなく「大統領型」の直接政治を目指した。臨調は国鉄民営化において、族議員や派閥の領袖の先手を打ち、マスコミを操作して世論を味方にし、既得権益を支配する旧右派連合を切り崩すという構図を演出する新右翼転換の魁を作った。その手法は21世紀になって小泉がそっくりマネをした。しかももっと派手に劇場型で行ったのである。中曽根は「内閣機能の強化」に乗り出した。国鉄分割・民営化は激しい労働組合の抵抗を招いた。国労は、自治労、日教組と並んで総評の主要な労組であって、官公労は社会党左派に結び付いていた。国鉄民営化で国労の組合院数は激減、力を落とした総評は1989年に同盟を母体に連合に合流する事態となった。こうしていわゆる労使協調が貫徹し、総評が消失し社会党の支持基盤は大きく揺らいだ。労働市場は使用者側の優位が決定づけられた。1986年社会党の綱領は棚上げとなり、「日本社会党の新宣言」では自衛隊を「違憲合法論」で処理し、階級政党から国民政党へ、西欧型の社会民主主義への遅ればせの変身が図られた。1986年衆参ダブル選挙で中曽根自民党は「日本型多元主義政党」として完勝した。こうして日本の新右派連合の第1段階は中曽根によって引き起こされたが、次の竹下登首相は、旧右派連合を結集した「総主流派体制」で野党を巻き込んだ国対政治をおこない、消費税導入を成し遂げた。竹下首相は最大派閥を率いて旧右派連合の政治を復活させた。旧右派連合を率いる竹下政権をリクルート事件が急襲した。自民党の主要政治家ほとんどが未公開株を譲渡されているlことが分かり、政治とカネの問題が暴かれた。こうして中曽根が種をまいた新右派転換は、政治改革、地方分権改革、行政改革、規制改革、6大改革、構造改革、郵政民営化改革と「永久改革の時代」を開いた。1889年の参議院選挙では宇野首相のスキャンダルも重なって自民党は歴史的な敗北を喫した。それは旧右派連合による一党優位制の終わりを告げるものであった。おりしも1889年という年は、昭和の終わりであり、北京で天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊するという、自由化な流れが世界を席捲する歴史的な冷戦の終焉を迎えた。実にこの時以来今日に至る25年間自民党は単独j過半数を確保できないままとなった。宇野の後、海部俊樹の首相はバトンタッチされたが、辣腕をふるったのは竹下派の番頭小沢一郎幹事長であった。旧右派連合に亀裂が走り、新右派転換とともに浮動票化する無党派層(都市住民)がその時その時の政局を動かすことが今日まで続いている。1990年湾岸危機が勃発し、冷戦の軍拡競争で疲弊したアメリカからは、金だけでなく人も出せと迫られ、総額130億ドル(1兆3000億円相当)もの資金を出したにもかかわらず、軍事的な参加はできなかったため、自由主義陣営の意志決定や戦後の利益配分から外され、日本政府は「湾岸戦争のトラウマ」となったようである。1992年宮沢内閣で「PKO協力法」が成立したが、首相官邸に権力を集中させる新自由主義的統治システムの実現が政府の強い願望となった。

冷戦終了後の日本では、海部、宮沢首相を経て1993年に自民党は下野し、流動的な連立内閣である細川護熙、羽田孜と首相は移った舞台裏では小沢が政局の実権を掌握していた。小沢は自らの出身基盤であった旧右派連合を破壊しつつ新右派転換をさらに推進した。小沢の新右派転換ビジョンをまとめた「日本改造計画」は、ブレーンの北岡伸一、竹中平蔵、飯尾潤らの学者であり、この流れが新右派転換を規定した。過剰なコンセンサスを求めて何も決められない旧来の旧右派連合的手法は「日本型民主主義」だとして、欠陥ばかりが目立つシステムであると排斥した。小沢は従来の「専守防衛戦略」から「平和創出戦略」へと転換することを提唱し、国連を中心とした「積極的・能動的平和主義」を唱えた。これは国連を中心とする集団安全保障をアメリカに置き換えれば、今の安倍首相の「積極平和主義」と同じ主張である。それは能書きを書いているストーリーテイラー(北岡氏は安倍首相の集団的自衛権容認のブレーンである)が同じだからである。国際協調主義を共通概念治する多様な自由主義的議論が1990年代前半に全盛期を迎えた。その中で小沢は最右翼の位置を占めた。小沢にとってその位置が「普通の国」になる事であった。流動的な連立政治の中で、1994年「小選挙区比例代表制」など政治改革四法が与野党で合意され成立した。小沢の「首相官邸主導」とは違った政治主導を、田中秀征や菅直人らは志向していた次第に新右派アジェンダに吸収されていった。1994年55体制からは夢想もできなかった社会党、さきがけ、自民党政権である村山内閣が誕生した。反小沢の1点で結集した「野合政権」で、新右派転換からの揺り戻し運動であった。社会党がこれまでの主張を捨て現実を正当化したことは社会党のアイデンティティの喪失そして社会党消滅の引き金となった。村山政権は行革審の答申を受け、宮内義彦を長とする規制緩和委員会を設置し、日本政府に対するアメリカ政府の要望書に従った枠組みができた。日本政府の政策過程にアメリカが直接干渉した例である。そこへ1995年1月17日の阪神淡路大震災が起き、3月には地下鉄サリン事件で世情は騒然とした。16年後民主党内閣のもとで2011年3月東日本大震災と東電福島第一原発事故がおき、民主党内閣がじり貧となった経過によく似ている。自然災害も内閣の考慮しなければならないリスクの一つである。その時の最高責任者でなかった自民党の運の良さには驚かされる。ただ村山内閣は戦後50年という節目に、先の戦争を侵略戦争と規定し謝罪した「村山談話」を出したことは国際協調主義の最期の輝きとして永久に記憶されるだろう。1996年村山から自民党の橋本龍三郎に政権が移譲された。しかし橋本の靖国神社参拝が起きると、さきがけや社民党は連立政権から離れ、自民党単独政権と言っていい状態となった。橋本内閣はバブル後の不良債権問題が最大の課題となっていた。薬害エイズ問題に菅厚生大臣が一躍人気を集め、鳩山由紀夫らによる民主党結成に合流した。そして新右派的改革が自民党の旧右派連合の保守本流の政策課題の中心になった。橋本は官邸・内閣機能強化、中央官庁の統合再編、独立行政法人、効率的透明な行政の実現など行政改革に乗り出した。こうして中曽根、小沢、橋本へと新右派転換のリレーが行われた。こうした行政機構改革が実施されたのは2001年以降のことで、行革は橋本から小泉にバトンタッチされた。財政構造改革、「日本型ビックバン」と喧噪された金融システム改革や、経済財政諮問会議新設、持ち株会社の解禁などと併せて「六大改革」と言われた。国連と米国単独行動主義の板挟みから「国連協調主義」は絵に描いた餅となり、日米同盟強化がアメリカより強く求められるようになった。1997年「新ガイドライン」、1999年「周辺事態法」の制定となった。2000年アーミテージ報告によって「成熟した日米関係」によって、日本に対等な負担を求める米国の要請が提出された。本来経済文化交流などを重視した国際協調主義が、軍事と経済の両面で対米追随という方向へすり替えられてゆく転換点が21世紀初めの特徴となった。新右派連合で国家主義に歴史修正主義的な性格が強まった。1995年の村山談話とアジア女性基金の設立、197年従軍慰安婦問題記述教科書に対するバックラッシュが始まったのである。「新しい教科書を作る会」や「日本会議」といった組織的歴史修正主義には、文芸春秋やフジ産経グループンらがメディアプラットフォームを提供し、保守系論壇誌「正論」、「諸君」に「反日」排撃運動が展開された。55体制では復古的な国家主義議員は自民党などの一部に偏っていたが、90年代後半から20世紀初めにはかなり広い範囲の議員が同調する流れとなった。政治エリート主導で復古主義主義的国家主義が組織化され、政治システム内での主流化が進行した。もはや「国士的政治家の妄言・暴言」では済まなくなった。石原慎太郎の暴走老人だけでなく若手政治エリートも公然と口にするようになった。つまり右翼が発言権を得たのである。小渕政権の下で「国旗・国歌法」が成立し右派が胸を張って歩けるようなり、「労働者派遣法の改正」で使用者絶対優位が定着し、労働者の貧困化・奴隷化が進行した。若い人のニューライト化とヘイト発言の背景には、貧困化と何ともできない鬱積した現状打破の気持ちがある。この社会情勢が戦前のファッシズムの培養器となったのである。人を右傾化させるには貧困にするか奴隷化させて締め上げることが近道だという鉄則を政府が悟ったようだ。これは危険極まりない事態である。

3) 自由と民主の危機ー新右派連合の勝利

この章が本書の中核的部分です。第1章55体制のの終焉、第2章冷戦の終わりと新右派連合の台頭は、この章のまえがきに過ぎません。この章では小泉首相と安倍首相の政治の新自由主義化と国家主義化という本題に入ります。政治経済行政改革は新自由主義化を骨として進められ、普く社会の様相を一変させました。新自由主義(市場原理)は全世界的な潮流を形成しました。しかし社会的・政治的な変化は国によってまちまちで、その国の発展段階、歴史的伝統によって変わってきます。日本では右派連合の特徴は「歴史修正主義」の様相を濃くしています。第2次世界大戦を勝ったアメリカ、イギリス、中国には歴史修正主義は有りません。彼らは自国の歴史に誇りを持って来ました。日本、ドイツは敗戦国として、戦勝国側から戦争推進勢力の一掃を強く求められ、かつ憲法にも明記されています。だから戦争推進勢力だった支配層の末裔は自国の歴史に誇りを持てないどころか、日本では自国の歴史を直視しません。ドイツは自国の歴史に深い反省を行ってきましたが、日本の支配層は恥ずべき自国の歴史はなかったことにしたい(南京事件、従軍慰安婦、戦争責任論)どころかさらに正当化する動き(大東亜共栄圏肯定論)も出てくるのが日本の特徴です。不人気であった森首相の退陣を受けて、改革の旗手として小泉氏がメディアを惹きつけて旋風を巻き起こし、一挙に支持率が80%に上昇した。劇場型を望むメディアと無党派層の態度の急変である。森を首相に選出した不透明な過程と、加藤の乱の失敗で行き場を失った民意がそうさせたのであろう。ロゴスよりパトスに訴えるパフォーマーとしての小泉の天性も与って功があった。マスコミが小泉の改革派イメージを盛り上げ派閥力学(コンセンサス)を悪として排斥する風潮が出来上がった。小選挙区制度では自民党の候補は一人に絞られるので、派閥の力は削がれ党中央の総裁と幹事長が政治資金の巨大な裁量権を掌握した。首相は集権的な権力を手にして強力なリーダーシップを発揮する背景が出来上がっていたのである。小泉に取り立てられた政治家、官僚のほとんどが歴史修正主義者を多く含む国家主義的傾向の強い連中であったと子は言うまでもない。そして橋本首相時代に成し遂げた首相官邸の強化策が、ブレーンに事欠かない政策通で占められた。小泉首相の6年間の成果と功罪をまとめた書として、内山融著 「小泉政権」(中公新書 2007年)がある。詳細は省くが小泉首相の行ったことを簡単にまとめる。小泉首相は旧右派連合の総本山ともいえる橋本派を郵政3事業の民営化で攻撃を開始した。外務省の旧右派連合族議員であった鈴木宗男を陥れた疑獄事件もその一環である。小泉改革で、格差社会が後戻りできないまでに拡大した。また地方行政は、補助金と地方交付税の削減が地方財政に打撃を与え、j自治体の破綻や中央との格差を広げ、都道府県知事は中央からの派遣任命知事かと疑うほど、官僚の天下り知事の比率が大きくなった。こうして三位一体化改革とは東京をのぞく地方の破壊となった。派遣労働の規制を一層緩和し製造業の解禁を行った結果、派遣など非正規雇用比率は33%に上昇した。金融再生プログラムで自己資金比率を高め、公的資金の注入を行って、メガ銀行再編成が行われた。道路関係4公団と郵政3次号の民営化は財政投融資特別会計の入り口と出口対策となると宣伝された。その究極の舞台が2005年「郵政解散」劇であった。小泉派は衆議院を解散した郵政選挙で圧勝した。自公併せて49%の票で75%(2/3)の議席を獲得できたのは、少数支配装置としての小選挙区制の効果が絶大であった。小泉首相の単独行動なのか、戦略なのかはっきりしないが、靖国参拝で煽られた国家主義や対中・対韓感情の悪化がある。国際協調主義を壊すことは、保守本流の勢力を排撃し、代わって保守傍流に多い復古主義的国家主義者を元気づけることになった。小泉政権内で安倍官房長官の歴史修正主義が全面開花し、小泉政権期には国際協調主義は影も形もなくなった。小泉政権の日中・日韓外交軽視と、対米協調・対米追随路線の転換は日本外交の基本路線となった。ブッシュ政権が9.11後アフガンに侵攻し、2003年国連を無視した単独行動主義によるイラク戦争に発展した。それに引きずられるように、異様な興奮の中で「テロ特別措置法」、「イラク特措法」、「武力攻撃事態法」、「国民保護法」など軍事法制整備が矢継ぎ早に成立した。この時期の民主党は二大政党制化傾向に乗って統制を拡大したが、それは自民党というより野党陣営とりわけ社共両党から議席を奪う形で進行し、まさに政党システム全体の新右派転換がさらに進捗することになった。

小泉政権の官房長官をつとめ、小泉から事実上の後継指名を受けた安倍晋三は、「昭和の妖怪」と言われた岸信介の孫になり、1993年冷戦後に初当選した戦後生まれの首相となった。そのまえに中曽根政権の下で外相秘書官を務めたことが安倍の新右派的正確に密接につながっている。安倍は1997年より歴史修正主義バックラッシュの若手騎手の一人である。安倍の急速な台頭には北朝鮮拉致問題の展開で被害者的「反北朝鮮ナショナリズム」を体現したことであった。それが靖国史観と完全に一致をみた。岸信介の国家主義には北一輝の国家社会主義の残影が色濃く影響してると言われ、それに安倍は新自由主義を付け加えたのであるといわれる。官僚的「国家改造論」と新自由主義経済(境界なき市場経済)とどうつながるのは不明であるが、とにかく奇妙な合体というか「いいとこ取り」折衷思想であろう。55体制を戦後レジームとしてそれからの脱却を急いだ安倍は、教育基本法を改定、防衛庁の省への昇格、国民投票法の制定し、集団的自衛権行使容認に向けた検討を開始した。安倍の新右派アジェンダに経団連の御手洗会長が呼応したことは、安全保障が守りとする対象が国民ではなく、グローバル企業に変わっていることである。その意図を覆い隠すためにナショナリズムンの煽動が意識的に行われるようになった。2007年アメリカ下院は日本政府に対して「従軍慰安婦」に対する謝罪を求めたが、これに軍事面での対米追随とのバータ取引を図った。しかし失われた年金記録問題や格差社会問題、郵政造反議員の復党問題で安倍派は急速に支持を失い、2007年参議院選挙で民主党が第1党となり「ねじれ国家」の再来となった。こうして第1次安倍内閣は失意のうちに辞任した。後は福田康夫の「スーパー世襲議員」が首相を引き継いだ。民主党の小沢代表との「大連立構想」で失敗した福田は1年を待たず辞任した。そしてこれまたスーパー世襲議員である麻生が首相を引き継いだ。2008年リーマンショックは世界金融危機を引き起こした。麻生のしj支持率は低迷し2009年総選挙となった。2005年の総選挙のオセロゲームのように民主党は2/3の議席を獲得して政権交代を成し遂げた。ところが民主党は松下政経塾系の中堅若手を中心に対米追随路線の新右派世代を多く含んでおり、小沢という稀代の右派政客を擁しており、新右派路線から自由ではなかったのである。鳩山内閣は沖縄基地移転問題であえなく失脚し、鳩山と小沢のトロイカ体制で成立した管政権は新右派傾向の強い(岡田、前原、野田)「七奉行」と財務省へシフトするなかで、消費税増税問題、TPP交渉に臨んだが、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第1原発事故の対処のまずさで支持を失い、「自民党野田派」と言われるほど自民党寄りの政策をおこなう野田にバトンタッチした。野田首相は消費税増税、尖閣諸島国有化、集団的自衛権行使容認、PKO武器使用基準緩和など、一連の新右派アジェンダを推進した。そして2012年12月再びオセロゲームのように総選挙で自民党が2/3の圧勝となった。そして安倍は谷垣を降ろし、石破を議員選で破って総裁に帰り咲いたのである。第1次政権時代失意の中で辞任した安倍にどのようなマジックが秘められていたのだろうか、著者は2つの要因を挙げる。一つは新右派転換が関鉄したと言え鵜自民党が野党時代にさらに右傾化していたという現実である。政策政党を離れてしまった自民党のアイデンティティは右以外に存在しなかった。それも極端な形の右(極右政党)である。その代表が中川の「保守製作研究会」や安倍の「創生日本」である。彼らはショックドクトリンそのままに、震災・原発事故の責任をすべて民主党になすりつけ、茫然自失の国民心理に乗じて「戦後レジーム」からの脱却をぶち上げるチャンス到来とした。もう一つの要因とは、「政治の自由化」すなわち政権選択が可能となる政党システムが、民主党政権の挫折とともに崩壊したことである。2012年の総選挙は有権者の民主党と政治への失望感から投票率は低下し59%の史上最低となった。2013年参議院選挙で自民党は大勝しねじれを解消した。また2014年安倍は突如解散総選挙を行い、戦後最低記録を更新して投票率52.7%の中で自公連立で2/3を維持する圧勝を得た。比例区での自民党得票率はこの3年間の選挙で16%−17.7%でほとんど変わらない。つまり自民党は政党としての支持率は16,7%で、有効な対抗馬のいない小選挙区で圧勝したのである。右傾化した安倍政権を支持したのではなかった。当所安倍内閣の支持率は高かったが、集団的自衛権行使閣議決定を行い安保法制審議を経て次第に低下し、2015年7月での安倍内閣支持率は40%を切り、不支持率の方が高くなった。

民主党の失敗をあげつらうことで、官僚と閣僚や政官財の癒着が大手を振って復権してきた。目を覆うばかりの腐敗が2014年総選挙圧勝後の自民党の現状である。新自由主義は単なる企業主義政策へ変質し、政財界の保守エリートによる寡占支配の実現による復古的国家主義の暴走、そして憲法、法制の安定を軽んじる、立憲主義下の競争的議会主義という戦後レジームが破壊された。選挙で勝てば少数のエリートは何でもできるという風潮が支配し、恐ろしい寡頭支配が確立されたかのようである。第2次安倍内閣のメディア戦略の指揮をとるのは、世耕弘成内閣官房副長官、飯島勲内閣官房参与、菅義偉内閣官房長官である。そしてフジサンケイグループ、読売新聞グループなどもメディアは政権応援団もしくは広報部に成り上っている。反対にNHKと朝日新聞を標的とする恫喝めいた圧力を加え続けた。そしてNHK会長に籾井勝人、経営委員に百田尚樹や長谷川三千子の右翼人事を行った。日銀に対して独立性を撤回させ、政府と連携してインフレ目標を2%に設定する黒田総裁をして、大規模量的金融緩和に乗り出し、円安・株高を仕掛けた。こうして株価の「官制相場」を演出した。この操作によりインフレ目標は未達成に終わったが、超独占企業と財界は実質賃金が低下する中、アベノミクスで潤った。残業代ゼロ法など「世界で一番企業が活躍しやすい国」に向けた法制整備が行われている。アベノミクスによって本当に経済は良くなったのかについては、服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」(岩波新書 2014年)で検証された。2012年4月自民党が谷垣総裁の野党時代に「日本国憲法規制草案」なるものを発表している。野党の気楽さによるものか、これまでの憲法論議をポンと飛び越え、基本的人権の規定を削除し、緊急事態法条項を挿入している。立憲主義そのものをないがしろにした憲法改正のアプローチは実は極めて新自由主義の実体を赤裸々にしている。2013年国家安全保障会議の設置と特定機密保護法の制定に着手した。そして政府は維新の党とみんなの党との修正協議を行い強行採決で可決された。この法案の情報保全諮問会議の座長に読売新聞の渡邊氏が就任し、報道機関御代表が秘密情報保護法にお墨付きを与える恥ずべき役割を果たした。2014年7月1日安倍内閣は、世論を無視して集団的自衛権行使容認を憲法論議をすり抜けて閣議の仲良しチームで決定した。集団的自衛権行使容認の問題については、豊下楢彦・古関彰一著 「集団的自衛権と安全保障」(岩波新書 2014年)に詳しいので詳細は省略する。自立性を重んじる内閣法制局の慣例を破って外務?ン量の小松一郎氏を長官として送り込み、閣議決定に文句が出ない人事を先に行っていたのである。安保法制懇談会での議論は容認派だけを集めて極秘裏に進め5月中旬に報告書が提出された。対外的には集団的自衛権行使を含む、「積極的平和主義」(積極的に戦争をする平和主義という言語矛盾)を日本の新しい旗として掲げた。2015年春から始まった安保法制案国会審議には、憲法審査会の与党推薦を含めた参考人の3人の憲法学者全員が法案を違憲とした。国家安全保障会議、特定秘密法案、集団的自衛権のいずれにも共通する政治手法は、対米従属路線を徹底させ、国内では立憲主義の制約を外しても、首相とそのスタッフを中心とするごく少数の統治エリートだけで国家の安全保障にかかわる重大な意思決定を行うことである。党内討論さえ行っていない情報管制下で、国民の意見に全く耳を貸さない独善的なやり方である。「小さく産んで大きく育てる」曽木に、拡大解釈がいくらでも可能な曖昧な要件認定は秘密に包まれて重大時局に至る旧陸軍の独断専行路線(既成事実化)にそっくりである。アメリカのオバマ政権は歴史修正主義傾向が余りに強い安倍の動向に警告を発してきた。2013年12月靖国参拝では、中国・韓国の非難声明と同時にアメリカ大使館が「失望」を表明した。国内与党内では安倍の復古主義的暴走を止めることは困難であった。外務省らは、「慰安婦」を「性奴隷」と日本を非難した国連クマラスワミ報告書の修正を目指したロビー活動を行ってきた。アメリカ歴史学会は連名で「いかなる政府も歴史を検閲する権利はない」と書簡を公開した。オバマ大統領が2014年4月韓国を訪問し、慰安婦問題を「ひどく甚大な人権侵害」と日本政府に警告を発した。アメリカ議会調査局の年次報告は、TPPと安全保障で安倍を評価しつつ、安倍の「強い国家主義」に警戒を示した。21014年の安倍改造内閣で「女性活躍」を掲げた矢先に、安倍に近い高市早苗、山谷えり子、稲田朋美がネオナチや在特会系の幹部と記念写真を取った。これら極右活動家との親密な関係が疑われることを報道したのは東京新聞のみであった。閣僚の3/4以上が日本会議国会吟懇談会のメンバーという、歴史修正主義が主流化している事態に危機感を持たなければならない。安倍周辺では2016年アメリカ大統領選挙で共和党が政権奪取すれば、日本の歴史修正主義と国家主義は非難されなくなると見込んでいるようだ。

民主党が再浮上できるか、かっての群立政党にように霧散するかは予断を許さないが、民主党やメディアを抑え込むことに成功した安倍は、少数支持でも多数派支配を作り国民を威圧する「選挙独裁」を建て、立憲主義が課す国家権力の制約さえ切り崩しつつある。新自由主義は経済至上主義のイデオロギーとして、グローバル企業の自由の最大化つまり寡占支配の強化を推進する企業主義に劣化しつつある。冷戦の終わりにより対共産主義の勝利に酔いしれた自由主義が、ライバル(牽制要因、鼓舞要因)を失い独善に走り、瞬く間に劣化していった。グローバル資本主義のメッカアメリカにおいて、自由主義経済の実態がグローバル資本による寡占支配と大多数大衆の貧困化にすぎないとみた大衆が2011年「ウオール街占拠運動」を巻き起こした。冷戦終了で自由・民主が勝利したのではなく、寡頭支配が勝利したのであった。2014年トマ・ピケティの格差資本主義批判が世界的ブームとなったのは記憶に新しい。しかし一方白人極右運動といえる「ティ−パーティ運動」が共和党に利用されることも懸念されている。日本の政治の右傾化も、@不平等や階層格差の拡大の是認、A個人尾自由の制限と国家による秩序管理強化、B軍事力による抑止力重視(積極的平和主義)、C歴史修正主義や排外主義の主流化(戦前への復古趣味) の特徴を持っている。なかでも貧困化、法人税率の軽減(25.5%)、所得税率軽減(40%)、労働組合組織率の低下(17.5%)、中間層の破壊と格差拡大、派遣労働の拡大と低賃金化はすさまじい勢いで社会を破壊した。集団的自衛権行使容認は日米安全保障の特別措置方式からの転換がはかられ、「国際平和支援法」の制定によって恒久法ベースで戦闘中の他国の後方支援のために自衛隊の海外派遣が可能となる事、また憲法が禁じていることを政府見解で裁量でできることになったことである。朝日新聞の従軍慰安婦証言取り消し問題以降、歴史修正主義キャンペーンは、あたかも従軍慰安婦問題は存在していなかったかのごとき論説の流布を行ったので、2014年10月日本の歴史学研究会はこれに抗議して「安倍首相を始め政府関係者からそうした宣伝がされていることは、憂慮に堪えない」という抗議声明を出した。また2015年5月歴史学関係16団体は「政治家やメディアに対し、過去の加害の事実及び新被害者と真摯に向かい合うことを求める」声明を公表した。加害の事実を認めることは「被虐的歴史観」と言ってこれを排撃し、何もなかったように昔と同じ過ちを繰り返そうとする態度が政府首脳に満ちている。こうした靖国史観が海外の賛同を得られる可能性は皆無である。オルタナティヴとして育った民主党の崩壊は、政治バランスを失い、首相官邸に集中した巨大な権力だけが抑制のきかない形で新右派統治エリートの手に残り、今それが憲法の保障する個人の自由や権利を平気で蝕む反自由の政治に転化している。その度はずれな歴史修正主義で日本の国際的孤立化を招いている。オルタナティヴとしての民主党の失敗については、山口二郎著 「政権交代とは何だったのか」 (岩波新書 2012年1月)に民主党のブレーンであった山口氏の反省の辞が述べられている。本書でも中野晃一氏は民主党の抵抗勢力として@官僚機構、A検察権力、Bマスコミ、C財界、Dアメリカを挙げている。それなりに説得力がある。


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