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南川高志著 「新・ローマ帝国衰亡史」
岩波新書 (2013年5月 ) 

栄えていた国が滅びるということ 4世紀のローマ帝国

私はローマ帝国の滅亡史については、モンテスキュー著 「ローマ人盛衰原因論」、E.ギボン著 中野好夫訳 「ローマ帝国衰亡史」(ちくま学芸文庫全3冊 1996年)を読んだ。モンテスキューの「ローマ人盛衰原因論」(1734年)は厳密な意味で歴史を書こうとしたのではない。「人は決してローマ人から離れることは出来ない」とモンテスキューは「法の精神」に書いている。モンテスキューの問題意識はフランス王朝時代に対する啓蒙思想の課題と堅く結びついている。「ヨーロッパにおける普遍的王国についての省察」においてモンテスキューが問題としたのは、同時代のヨーロッパにおける帝国形成の不可能性である。モンテスキューは、ローマが都市的共和制から軍事的拡大により版図を広げて帝国的支配を確立してゆくにつれ、政治的自由を失い専制と隷属に陥ってゆく過程をあぶりだそうとするのである。そして「権力欲を増し、一切を欲する」人間精神一般のありかたが考察の対象となる。ローマの帝政において皇帝を直接に決定する力を持っていたのは軍団であった。共和制以来絶えざる戦争によって拡大してきたローマはまさに軍人政治であった。帝国は4世紀に分裂して、西ローマ帝国は4百年、東ローマ帝国は1千年以上も続いた。帝国は膨張し、数多くの異民族を取り込み、東から、北からの異民族と対決しなければならなくなったことによって帝国は遠心力によって拡散消滅したようである。本書においてモンテスキューは18世紀当時ヨーロッパの帝国形成の危険性をプロイセンに見ている。しかしヨーロッパにおける商業と地球的航海圏の拡大により、諸国家間に平和的な関係構築の機運も期待している。ローマは本質的に商業国家ではなく、戦争と征服の精神に溢れた軍人国家である。それはモンテスキューの後にでたナポレオン的軍事的簒奪と征服国家である。モンテスキューが期待するところは、戦争と征服から商業的国家への移行のうちに新しい世界秩序の可能性を見たいというのが、フランス啓蒙思想の一側面であった。イギリス人のギボンの「ローマ帝国滅亡史」は本格的な名著といっていい。1776年ー1788年にわたって書かれた。モンテスキューの書を下敷きにしたかどうかは分からないが、同時期の作品である。ヨーロッパ近代化の幕開けの同時代に、モンテスキューの「ローマ人盛衰原因論」、マキャベリーの「ローマ史論」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が書かれている。マキャベリーの「ローマ史論」を貫いている基本思想は、政治における「自由」の概念である。政治の究極の目的は、国民に自由を保障することにある、そういう意味ではモンテスキューとマキャヴェリは似ている。 モンテスキューは普段の闘争を通じて自由を獲得してきた共和制から、お任せの皇帝に政治を期待したがために、自由が制限され隷従の秩序と平和の時代が訪れたとして、帝政こそがローマ帝国衰亡の原因だという。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は五賢帝時代(96年より180年)における古代ローマ帝国の最盛期から始まり、民族大移動と軍人皇帝時代(3世紀)と、分割支配(テトラルキア 3世紀末)、ローマ帝国の東西分裂〈4世紀末)までを描いているが、実質は4世紀中ごろの背教者ユリアヌス帝までの記述で終わっている。南川高志著 「新・ローマ帝国衰亡史」は4世紀のローマ帝国分割支配から東西分裂、西ローマ帝国への異民族侵入、476年の西ローマ帝国の滅亡までを記述対象としている。記述対象は4世紀が中心である。ギボンはローマ帝国滅亡の原因を「ゲルマン人」とキリスト教に求めた。西ローマ帝国の滅亡が古代の終焉であるという見解は間違いないと思われる。これより時代は中世に入る。(日本では古代豪族時代からヤマト統一王権の成立時期に入る)

歴史記述は常に現在の反映である。なぜ古代帝国であるローマ帝国が衰亡し、諸部族割拠の中世になったのか、偉大な都市型普遍性(グローバルテーゼ)が消え去ったのかについては、過去の学説は無数にあるという。そしてそれはいつも時代の見方を裏返しにしたものであったという。だからこそ21世紀における「ローマ帝国衰亡史」は、アメリカのグローバル支配(ドルと英語と核による)の崩壊という現代的意味で問われることになる。アメリカンドリームに表現されている、あこがれとしてのローマ社会を周辺部族が理想として受容したかどうか、その支配の中に夢を見て生活が成り立つなら、それはローマの支配を合理化し補強し、進んでローマ市民たるを享受しようとする。それが世界帝国の形成と繁栄の基礎である。しかしローマが周辺部族の負担になり利益を提供しないなら、ローマによる支配は成立しなくなる。すると強権と軍事力だけが頼りの支配となって、帝国は不安定化するのである。紀元前3世紀の終わりごろにローマ人の国家はイタリア半島を統一し、紀元前後にはカエサルの働きにより、地中海周辺の諸地域を支配下に入れた。紀元後2世紀前半の最盛期(五賢帝の時代)には北はイギリスブリテン島、西はイベリア半島、南はエジプトから北アフリカ沿岸諸地方、東はドナウ川以西を帝国の境界とし、東南はメソポタミアのイラクまでを支配しササン朝ペルシャを外部とした。領土内には皇帝が率いる中央政府の統治と都市自治が行き渡り、水道・施設・軍用・商用道路などのインフラ、公用語、度量衡が整備された。遠距離貿易も盛んに行われ、文化面でも例を見ない帝国が成立した。政治制度は紀元前が共和政で、紀元以降は帝政に移行した。これが教科書的なローマ帝国の陽の部分である。ところがその帝国も3世紀に入ると、全般的な危機に見舞われる。皇帝政治制度の混乱、経済活動の衰退、帝国外部の諸部族の侵入と領土内での分裂がローマ帝国を苦しめた。3世紀末の混乱を収拾した軍人皇帝独裁政治では次第に支配が強権化し硬直化した。この時期からローマ文化であるギリシャローマ的宗教(多神教・犠牲祭)が廃れて、より普遍的なキリスト教が帝国の国教の地位を得た。4世紀後半ごろから「蛮族」の侵入に悩まされ、混乱の中395年にローマ帝国は東西に分裂した。それまでの分割支配から独立した皇帝が立つ分裂国家となり、統一ローマ帝国ではなくなった。東の帝国はビザンチン帝国として15世紀まで続いたが、西の帝国は周辺部族の攻撃に耐えられず476年に消滅した。著者によると、1990年ごろより歴史学界はローマ帝国の滅亡というロマンチックな捉え方から、4世紀から8世紀までをローマ古代国家の変容という文化を重視して「古代末期」と捉えるようになったという。帝国と蛮族の対立構図というよりは多文化主義の「順応」の問題と考えるのである。ローマ帝国の滅亡問題も時代の子なのである。異民族(辺境部族)のフロンティアでの出入りは古代より日常茶飯事に起きていた。ローマ帝国の盛期にはそれら辺境部族を取り込み、「ローマという政治舞台」が成立していたはずである。ローマという政治的枠組みが次第に変質してゆき、辺境部族を排除する動きが出て、帝政という果断性と裏腹の独裁制や偏狭性や皇統性から内部崩壊していたとみられる。外部を内部化できなくなったこと、外部と内部の二律背反の構図これが帝国衰亡の原因である。本書は経済や宗教や文化という面を取り上げるものではない。ローマ帝国という政治的枠組みの意味を追求する。またローマ史をイタリアとかローマという中心部の枠組みを中心に取り上げるものではなく、地中海帝国の辺境から考察するのである。辺境から見たローマ帝国全体の構成を理解する。本書は時代的には3世紀の混乱を収拾したコンスタンチヌス大帝の時代(306年)から始める。4世紀のローマ帝国を取り上げ、5世紀の初めの東のアルカディウス帝の死去(408年)と西のホノリウス帝の死去(423年)あたりで筆をおく。およそ4世紀の100年間のローマ史である。これなら岩波新書という入れ物に入るはずである。異民族の侵入で西ローマ帝国が滅んだのではなく、その前からローマ帝国という政治的枠組みが崩壊していたと読むべきである。古代帝国末期にはローマのグローバル的価値が分散したのである。これは現在のEU統合とアメリカのグローバル化、弱体化した日本と東日本大震災と東電福島第1原発事故という現象を読み解くヒントになるかもしれないという期待をこめて本書を読んでゆこう。

1) 最盛期のローマ帝国ー両アントニウス帝(五賢帝時代)

最盛期のローマ帝国とは、2世紀の5賢帝時代なかでもマルクス・アウレニウス帝の時代のことを指す。マルクス・アウレニウス自身の皇帝としてストイックな志はマルクス・アウレーリウス著 「自省録」に述べられている。ギボンは、アウレニウス帝の没後不肖の息子コンモドゥス帝(在位180−192年)の暴政より帝国の衰退が始まるとしている。ローマの隆盛はカエサルより始まる。カエサルのガリア(フランス)征服の戦いは、カエサル著 「ガリア戦記」 に詳しい。まさにもぐらたたきゲームのような戦いであったようだ。これによりライン川が外部(敵)とした諸部族との境界線となった。カエサルはブリテン島(イギリス)にも遠征したが確固たる成果は挙げていない。カエサルの暗殺後、オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を得て共和政を尊重しながら絶大なる独裁権を獲得した。まさに皇帝といっていい存在となった。オクタウィアヌス・アウグストゥス初代皇帝はアグリッパを用いてイベリア半島を征服し、地中海帝国としてのローマ帝国を完成した。またドルスス、ティべリウスを派遣して、ライン以東の諸部族を服従させ、ティべリウス2代皇帝のときにはドナウ川との三角地帯「アグリ・デクマテス」に防衛施設リメスが置かれた。またケルンをコロニア(植民市)とした。3代皇帝カリグラとクラウディウス帝の時にブリテン島をローマ属州とし、ハドリアヌスの長城を作って防壁とした。こうした征討の結果広大な地域がローマ帝国に加わった。次に帝国支配のありようをみてゆこう。ローマ市やイタリアの風景とは異なった、森林と河川沼地が中心で寒冷な土地をローマ人はどうローマの都市文明を伝えたのか。部族集落の生活集団、組織・部族国家などを統治の基本単位として、有力者にはローマ市民権を与え、徴税や兵の補充を行わせた。行政の単位を「キウイタス」と呼ぶ。部族の生活共同体キウイタスはローマの都市に変わっていった。ローマ征服軍が要塞を構えると周囲に住民の村落ができ「カナバエ」と呼ばれた。正規軍が駐屯するカナバエは恒久化して町になり都市となった。ローマに名を持つ都市名が欧州の各地に残っている。ケルン(コロン:植民市に由来)はその代表である。都市の法的な特権的地位としては、ムニキビウム(自治市)、次にコロニア(植民市)という格が与えられた。主要都市は数万人がすむアクィンクムと呼ばれた。ローマ最盛期にはローマ人はどこへでも広がるという「限りない帝国」、「国境線なき帝国」が信じられていた。ローマ人と蛮族を分かつ明確な軍事国境線は存在しなかったという。212年アントニウス勅令によって、帝国内の自由人にはローマ市民権が与えられ、出身部族を問わない普遍的なローマ人の帝国が成立した。ローマ人であるという自己意識を持つことがローマ帝国の内部であった。帝政前期の最盛期のローマ社会の最上層階層には「元老院議員」身分があり、皇帝もこの階層から選ばれた。約600人がいたという。次の階層は「騎士」身分があり(約2,3万人)、第3身分としては「都市参事会員」身分(約10万人)があった。さらにその下層には解放奴隷、奴隷がいた。この身分区分は固定的ではなく、社会階層の流動性的・上昇的傾向は帝政後期には顕著となった。ローマ帝国の国家には常備軍隊が存在し騎士身分が指導した。行政を担う中央官僚は約300人ほどで元老院議員や騎士身分が占めた。行政の実際を担当したのは都市機能であった。都市参事会を構成する地方の有力者が行政を担ったのである。属州の有力者がローマ帝国に参加するメリットを感じて、「ローマ人」たらんと努力することが「ローマ化」ということである。ローマ人であるというアイデンティティに多様な人を統合する魅力と機能を備えていた。筆者はローマ人と蛮族ゲルマン人という対立図式で帝国衰退過程を説明することに異議を唱えるのである。小さな部族はあったが「ゲルマン民族」という敵対勢力は存在しなかったという。東からフン族に追われた周辺部族がライン川以西に流れ込んだことが帝政後期の現象であった。

2) 混乱と衰退の影ーコンスタンティヌス大帝の改革

マルクス・アウレニウス帝の五賢帝時代が終わると、その子コンモドゥス帝から皇帝制の混乱が始まった。「3世紀の危機」とは軍人皇帝が覇を争う時代である。帝国の国家としての統一性が失われ、ガリア帝国など分離帝国として分裂が始まった。それを統一したのが3世紀末のディオクレティァヌス帝(在位284−305)であった。ディオクレテァヌス帝は農民出身で、身分制は崩れて軍人の実力で皇帝になる時代であった。元老院の反乱もあったが、下層の軍人が次々と皇帝になった。ディオクレティァヌス帝は元老院を排除して騎士身分を直属勢力として皇帝独裁制が成立した。ディオクレティァヌス帝は帝国を軍事的に4分割し4人で帝国を支配するテトラルキアとなった。305年テトラルキアは平和裏に帝位が交代したが、(帝位の乱れは皇統の軋轢からくるのだが、ばかばかしいのと煩雑なので皇統は省略する)コンスタンティヌスら4人も正帝が生まれた。そして軍人皇帝の雌雄を決する戦いが、312年ローマのミルウィルス橋の戦い、324年アドリアノーブルの決戦となった。この戦いを制したのがコンスタンティヌス大帝で、同時にミラノ勅令によってキリスト教を公認した。これによりローマ帝国の重点が東に移りビザンティノポリスを首都とした。そしてキリスト教が精神界を支配する西欧文化の伝統の重要な契機となった。東の帝国では元老院議員の力はなく、直属の官僚による中央皇帝政治を確立することができた。コンスタンティヌス大帝はフランク族、ゴート族などの遠征を行い、諸部族の能力ある人々を徴用した。外部との境界ゾーンに駐屯兵力を倍化し、野戦と歩兵の機動軍をおく軍政改革を行った。野戦機動軍を帝国の統治区分であるオリエント道、イリュリクム道、イタリア・アフリカ道、ガリア道に配備し、総司令官が重要な位置となった。当時の真の外部とはササン朝ペルシャであった。260年皇帝がペルシャの捕虜となって殺されることがあったが、ディオクレティァヌス帝時代に東への勢力を回復し、337年コンスタンティヌス大帝はペルシャに向けて東征した。その途上でコンスタンティヌス大帝は病死した。

3) 帝国分裂と後継者争いーコンスタンティウス2世

337年コンスタンティヌス大帝没後、帝の家族が虐殺される皇統の争いがあったが、帝国は3子正帝で分割され、コンスタンティウス2世が東半分を単独で継いだ。おそらく惨劇の首謀者は帝位継承者を整理するコンスタンティウス2世であったろうと思われる。長兄がガリア・ブリテン・スペインを、末弟コンスタンスは中央イタリアとアフリカを分割した。340年にコンスタンティウス2世は長兄を亡ぼし、結局帝国は西をコンスタンスが、東をコンスタンティウス2世が統治した。350年西の帝国で反乱がおきコンスタンスは殺害され、更に皇帝が二人も立った。皇統はコンスタンティウス2世ただ一人となって、激戦の末351年単独皇帝となり、イタリアのミラノで統治した。コンスタンティウス2世はパウルスという官僚を使って政敵の粛清を行い、レブスという官僚を用いて警察国家による帝国各地の統治を行った。コンスタンティウス2世はスターリンのような冷徹で非情な政治家であったようだ。宗教面ではキリスト教を保護しアウレリウス派を支持した皇帝は三位一体説に肩入れをし、ギリシャローマ伝来の神殿の封鎖や儀式を廃止した。ローマ社会は精神面での寛大さを次第になくしていた。コンスタンティウス2世の腹心の道長官を殺害した東方の副帝ガルスを意に沿わないとみると354年これを処刑した。ガルスを処刑したため残された親族はユリアヌス一人となった。また355年ケルンでシルウァヌス将軍が反乱を起こし皇位を僭称したが、殺害されたので大事に至らなかった。コンスタンティウス2世は政治面では元老院を復興させ発展させて帝国統治の仕組みが一層精緻なものとなった。皇帝政治は官僚や宦官が牛耳る「皇帝顧問会議」という側近独裁政治で行われた。それが後日、幼帝が即位すると政治の実権が有力元老院議員と官僚・宦官の結託した勢力が動かすようになる。コンスタンティウス2世の評判は後世、残虐で疑り深い皇帝となり、アリウス派に肩入れしたためキリスト教正統派からは厳しく非難された。

4) ガリアで生まれた皇帝ー背教者ユリアヌス帝

355年親族がいなくなったコンスタンティウス2世はユリアヌスが副帝に命じられ、ガリアに赴任した。361年にコンスタンティウス2世が死去してユリアヌス帝は単独皇帝になったが、363年ペルシャ戦役で戦死するまで1年8か月の在位期間に過ぎなかったが皇帝としての事蹟には素晴らしいものがある。ユリアヌス帝には形容詞「背教者」が付くが、これは帝がギリシャ・ローマ宗教を復興させようとしたことに対して、キリスト教会側が揶揄したもので意に介することはない。ユリアヌスは少年時ぢは小アジア(今のトルコ)で育ち、宦官のマルドニオスや司教のエウセビオスに教育を受け、348年コンスタンティウス2世によってコンスタンチノープルに呼び戻され、新プラトン哲学や修辞学を習った。354年副帝ガルスが処刑されると、ユリアヌスはミラノに召喚された。ここでコンスタンティウス2世による監視生活を送ったが、皇后の庇護でアテネに遊学し哲学を勉強した。355年シルウァヌスの反乱後、24歳のユリアヌスはアテネから呼び戻され、副帝としてガリアに向かった。ガリアに赴任したユリアヌスは軍を指揮するためではなく、コンスタンティウス2世帝の命により二人の将軍に監視されていた。356年ユリアヌスはコンスタンティウス2世とともにコンスルに就任した。ユリアヌスを片腕として期待していたわけではなく、皇帝の権威をつけてガリア征討の役に立てるというのがコンスタンティウス2世のねらいであった。ところがユリアヌスが軍司令官として力をつけてきた357年には、アラマン二族を破り、次いでフランク族、サイリ・カマウィ族を打ち破ってガリアに安寧をもたらした。ユリアヌスは民生面でもガリアの改革を行った。98あった属州の総督は文官となり、軍隊の指揮権は軍司令官にあった。属州はさらに大きく12の管区にまとめられ、それぞれに管区長官が統括した。ガリアでは12の属州がガリア管区とウエネンシス管区の二つからなり、この二つの管区とブリテン島管区、イベリア管区を合わせて「ガリア道」という行政単位(道州制)が設置された。「道」には機動軍が設置され、地区総司令官が指揮を執った。ユリアヌスは調査を行って徴税の減税を行った。お飾りに過ぎなかった副帝が道長官を差し置いて、ガリア統治を直接的に行ったのである。ユリアヌスが登用した軍人や官僚は周辺部族民からなる「第3の新しいローマ人」といわれた。彼らが新しい時代の新興エリートとなった。359年ササン朝ペルシャと交渉していたコンスタンティウス2世はユリアヌスに援軍派遣を要請した。360年ユリアヌス軍はパリで反旗を翻しユリアヌスを正帝と宣言しクーデターを起こした。337年のコンスタンティヌス大帝の一族惨殺事件の首謀者がコンスタンティウス2世であることを知っていたユリアヌス帝は皇帝に反逆することを決意し、361年軍を率いてドナウ川を渡り東へ怒涛の勢いで攻め込んだ。ギリシャでは市民と評議会にコンスタンティウス2世を非難する宣言文「アテナイの人々への手紙」を送り、両面に敵を受けたコンスタンティウス2世が憤死死したのち、ユリアヌス帝は歓呼の中コンスタンチノーブルに入城した。コンスタンチノーブルで帝位についたユリアヌス帝は財務や税制の改革をおこない、とくに宮廷の無駄を削減したという。またスパイといわれる警察官僚を政府から除き、キリスト教会への援助をやめ、宗教的寛容を求めた。背教者という非難はキリスト教会側の言葉であって、ユリアヌスはローマギリシャ時代の宗教的寛容を求めたのである。362年シリアの都市に入り犠牲式を執り行った。ユリアヌス帝は道長官の諌止も聞かずペルシャへ攻めこみ、ティグリス川のマランガの戦いにおいて戦死した。364年、弱冠32歳であった。

5) ローマ帝国の変質ーウァレンティ二アヌス皇統の混乱

ユリアヌス帝の戦死後、364年ヨウィアヌスが皇位についたが1か月後に死亡し、代って43歳のワァレンティニアヌスが皇帝となった。ワァレンティニアヌスは属州パンノキア(今のクロアチア)の農民の生まれで、軍人となった。3世紀の軍人皇帝のやり方は4世紀後半でも生きていた。ウァレンティ二アヌス帝は弟ワァレンスと帝国を2分し、宮廷から財政まで2分割した。これを帝国の東西分裂と意義付ける人もいるが、396年のテオドシス帝の死後を東西分裂とするのが通説である。西のミラノにいるウァレンティ二アヌス帝と東のコンスタンチノーブルにいる弟との連絡はできており、帝国としての連動性はあったとみるべきであろうか。365年ウァレンス帝がペルシャに向けてコンスタンチノーブルを出発すると、プロコビウスが反乱を起こしてコンスタンチノーブルに入り皇帝を僭称した。ウァレンス帝はこれを撃って反乱は終息した。また西の諸部族はユリアヌス帝の死後不安定化していたが、ウァレンティ二アヌス帝は10年間フロンティア諸部族の反乱に忙殺される。367年ブリテン島でスコッティ族の反乱がおき、テオドシス(後の息子であるテオドシス帝と区別して、父テオドシスと呼ぶ)を指揮官とする機動軍を派遣して秩序を回復した。368年ウァレンス帝は息子グラティアヌスを正帝に就任させ、息子とともにアラマン族の平定に出発した。戦いは有利に進んだが、ドナウ川の諸部族の動きが不穏であったので、369年アラマン族と講和を結んだ。375年いまのブタペスト付近にクァディ族が侵入したので制圧に出かけたが途中ウァレンス帝は病死した。ここでウァレンティ二アヌス皇統の混乱が起きた。メロバウデス将軍がウァレンティ二アヌス2世を担いで皇帝とした。「第3の新しいローマ人」といわれるフランク族出身のメロバウデスは宮廷の実権を握り自身もコンスル職(元老)に就任した。ローマ軍はコンスタンティヌス大帝のころから外部部族を組織的にローマ軍に編成し、同盟部隊という独立した指揮系統をもつ軍となった。こうしてローマ軍の中に私的な部隊が増えてきた。機動軍は総司令官のもと、歩兵長官と騎兵長官が指揮したが、ウァレンティ二アヌス朝の4世紀後半より帝国内に生じた重大な変化の一つは、この総司令官職をはじめとして軍の要職に「第3の新しいローマ人」が就任したことである。皇統の乱れや支配の脆弱に乗じて、フロンティアを巡って諸部族とローマ帝国の争いが目立つようになり不安定要素が増えてきた。これらが5世紀以降に始まるゴート族の「民族大移動」の諸民族国家形成の基礎となる。410年スペインに侵入して西ゴート王国を建て、イタリアに侵入して東ゴート王国を建てた。ローマ帝国東半では皇帝勢力と官僚・宦官を活用した東洋的統治体制ができていったのに対して、帝国西半では諸部族のローマ化による実力を背景に秩序が安定せず、皇帝権力は軍事指導力に頼る傾向が強まりフロンティア支配は次第に揺らいできた。370年代にゴート族を東の黒海あたりのフン族が圧迫した。376年ゴート族のテルウィンギを率いるアラウィウスはシリアにいたウァレンス帝に使者を送り、兵士の提供と交換に属州トラキアへの移動の許可をもとめた。ウァレンス帝はこれを認めた。これが「ゲルマン人族の大移動の始まり」であった。378年ゴート族とトラキア地区の軍司令官の間で衝突が起き軍司令官側が敗北し、ウァレンス帝はローマ軍を率いてアドリアノープルでゴート軍に大敗し戦死した。帝国東半は皇帝を失いウァレンティ二アヌス2世は幼少だったので、テオドシス1世が即位した。379年テオドシスはドナウ川中流域の拠点都市シルミウムで東ローマ帝国の皇帝となった。

6) 崩壊する帝国ーアルカディウス帝とホノリウス帝

軍体制を立て直したテオドシス1世帝はゴート族を圧迫して381年ゴート族の王アタナリックを迎え、382年条約を結んだ。ゴート族を取り込んで軍事力を強化するかわり、ゴート族のドナウ川沿岸の属州に居住を許した。そのころ西帝国ではグラティアヌス帝はミラノに根拠地を置き、キリスト教司教アンブロシウスの強い影響下に入った。383年グラティアヌス帝はガリアの部族征討に出かけたとき、ブリテン島の軍隊がマクシムスを皇帝に担ぎ、かつ重臣メロバウデスが寝返ったためグラティアヌス帝は窮地に追い込まれた。387年マクシムスがイタリアに侵入したので、グラティアヌス帝はこれを撃って帝国西半の支配権を取り戻した。まだ若い17歳のウァレンティ二アヌス2世帝を補佐したのは、「第3の新しいローマ人」のフランク族のパウトとアルボガストである。アルボガストは総司令官となって実権を握ったがウァレンティ二アヌス2世と不仲となり、ウァレンティ二アヌス2世帝を殺害した。テオドシス1世帝は394年アルボガスト軍を破ってローマ帝国唯一の統治者となった。395年テオドシス1世帝は病死し、帝国は2子に分割され、東のコンスタンティノーブルをアルカディオ(17歳)に、西のミラノをホノリウス(10歳)が皇帝に立った。マケドニアとダキアの帰属問題を巡って各々の皇帝を補佐する重臣である東のルフィウスと西のスティリコが鋭く対立した。皇帝の統治ではなく補佐役の独裁となった東西帝国の対立に、ゴート族の侵入の対処に対する指導権争いとなり、スティリコはルフィウスを暗殺した。替わった東の補佐役エウトロピウスの策略でゴート族の指導者を「イリュリクム総司令官」に任じ、東西は抜き差しならぬ対立関係となり実質分裂状態となった。東の帝国の指導権は次いでゴート族のガイナス将軍に手に移った。東ではこれを機にゴート人の排斥運動が持ち上がり、西でもスティリコの失脚処刑という「ゲルマン人アレルギー」が起きている。「ゲルマン人」という民族の考えに由来する、偏狭なナショナリズム的思考は本来ローマ帝国には無縁であった。4世紀にはフランク族、アラマン二族、ゴート族、ヴァンダル族といった外部部族出身者が皇帝に認められて重用される「第3の新しいローマ人」がコンスルまで出世する時代であった。ひとえに皇帝の採用であって、皇帝の権威や指導力が弱まれば(幼少の皇帝)彼らに対する反感が噴き出すことになった。この排他的な姿勢は、同じ時期のキリスト教の国教化にも共通することであった。政治家司教アンブロシウスは他の宗派の排斥を行い、著しく不寛容な宗教体制が完成し、文化的には中世に変化してゆくのである。ローマ帝国は外部諸部族や同盟部族の協力なしには人材を含めてやって行けないはずなのに、「排他的ローマ主義」という偏狭な保守的思潮がローマ人上層階層から生まれたことは自滅作用であった。401年アラリック率いるゴート族軍が北イタリアに入りミラノを包囲した。スティリコは一時アラリックを撃退したが、405年フン族に圧迫されたゴート人がフィレンツェを包囲した。406年には諸部族がライン川を渡って(今のマインツあたりに)侵入した。これが5世紀後半まで続く西帝国への「蛮族の大侵入」の幕開けであった。「蛮族の大侵入」の実態は、民族大連合の軍隊が侵入してきたというイメージではなく、小規模な部族の移住であるが、都市の破壊や略奪があったことは事実である。ガリアのフロンティア地域から軍隊を撤退し、帝国の統制は廃止された。これ以降西ローマ帝国は諸部族をライン川以東へ押し戻すことはできなくなった。407年ブリテン島でも、サクソン族の襲撃が起こりローマ属州の命は届かなくなった。この時点でローマ帝国としての意義はなくなったと著者は解釈する。408年東の皇帝アルカディウス帝が亡くなり、テオドシウス2世が即位した。410年アラリック率いるゴート族軍がローマ市内に侵入した。イタリア半島を蹂躙したアラリックは西に転じイベリア半島からガリアに定住地を得た。形の上はアラリック軍はローマ軍の同盟軍として、ガリアに土地を割り当てられたことになっているが、事実上は独立勢力で西ローマ帝国の指揮系統には入らなかった。429年にはゴート族はイベリア半島から北アフリカを支配地にいれ、423年ホノリウス帝の死後、西ローマ帝国はイタリアの地方勢力に落ち込んでいた。476年最後の皇帝が傭兵隊長に暗殺されて西ローマ帝国は滅亡した。


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