2012年2月27日

文藝散歩 

マルクス・アウレーリウス著 「自省録」 
神谷美恵子訳 岩波文庫 (1956年)

ローマの哲人皇帝 ストア哲学の教えに導かれる思索と実践の日々


プラトーンは哲学者の手に政治を委ねる事をもって理想としたが、この理想が歴史上一度だけ実現した例が、紀元2世紀のローマ時代のマルクス・アウレーリウス皇帝であった。第ローマ帝国の皇帝という地位にあって多忙な公務・遠征を果たしながら、マルクスの心は常に内に向かって自省し、哲学的思索を求めていた。しかし哲学といっても机に坐って読書をしたり著作をするという時間的余裕は無く、ひたすら為政者の徳という倫理的実践に励んだ人生であった。彼の著作「自省録」という本は後世16世紀においてまとめられた書物であるが、マルクス・アウレ-リウスがこの書物をある一定の意図で、ある時期執筆したというより、残存した日々の思索断片メモを集めてある意味ではランダムにならべたに過ぎない。日記なら時系列に並ぶがこの「自省録」はメモした日さえ分からないのである。原題は「自分自身に」というように、人に読ませるつもりで書いたものではない。したがって構成も文章もまとまりを持たない。訳者によると原義不明とか判読不能とか難解といわれる箇所も多いらしい。保存状態も悪くテキストの不明箇所も多いという。しかしながら本書を読んだJ・Sミルは「古代精神の最も高い倫理的産物」と評した。マルクスは本書をローマの共通語であったラテン語で書いたのではなくギリシャ語で記したところが、彼が受けた教養の高さを示している。

マルクス・アウレーリウスはAD121年4月に生まれた。マルクス・アウレーリウスは第16代ローマ皇帝。ネルウァ=アントニヌス朝では4人目の皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌスとトラヤヌスの傍系血族でもある。外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノルと結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは妻の長女ルキッラを嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが死んだ事で単独の皇帝となった。マルクス・アウレーリウスの祖父はローマ総督、執政官、元老院の重職についた人物で、8歳のときマルクスの父が死んでからはこの祖父に養われ教育された。時の皇帝ハードリアーヌスは少年マルクスに非常な関心を持ち、「最も真実な者」と称して英才教育を施したという。マルクス・アウレリウスは神学校で熱心に学び、優れた聖職者としての素養を得た。文学・音楽・歌・舞踏・絵画などを学ばされたが、やがて哲学に最も心を惹かれ、これに専念するようになった。ハドリアヌス帝はアウレリウスを特例で18歳で財務官に就任させた。ハドリアヌスの死後叔父アントニヌス・ピウスが即位し、マルクス・アウレリウスの宮殿における地位を大幅に引き上げ、140年にアウレリウスはアントニヌスの同僚執政官に叙任され、続いて騎士総長、皇帝の後継者としての副帝の称号も受けた。マルクス・アウレリウスは当代一流の教師から学んだ。ストア哲学をセクストゥスから学び、ルスティクスからエピクテート弁論術を学び、 修辞学者フロントより弁論術と修辞学を学びもっとも親密な間柄であった。アウレリウスとフロントの往復書簡は大部分が現存している。161年皇帝アントニヌス・ピウスが亡くなると、マルクス・アントニウスとルキウス・ウェルスの二人が皇帝に任じられた。義弟ルキウス・ウェルスは凡庸な人物だったようであるが、皇帝としての責務はマルクス1人にかかった。平和であった大ローマ帝国の紀元2世紀中頃から多事多難のところにさしかかった。カエサルの「ガリア戦記」にも北のゲルマン人の侵入を撃退することが描かれているが、ゲルマン民族のマルコマーニ人が北イタリアを犯した。またパルティ人がシリアに侵入した。166年のマルコマンニ戦争、175年カッシウスのシリアでの謀反、178年パンノニア戦争などに奔走させられた。その最中180年3月アウレリウスは滞在中のウィンドボナで病没した。享年58歳であった。マルクス・アウレリウスはもとより平和愛好者であったが、ローマの権益が侵されたときにはやむを得ず勇敢に戦ったという。

マルクス・アウレリウスの思想と生き方を見る前に、彼の信条であり本書の中心を占めるストア哲学を考えると、本書の主題をまとめることにもなる。ストア派(:Stoicism)は、ヘレニズム時代に成立した哲学である。この派にちなむストイックという言葉が示すように、禁欲的な思想と態度によって知られる。ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においてはアカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。とくに古代ローマの共和制末期からキリスト教を認める前までの帝政期における影響は非常に大きく、皇帝すらそれに帰依した。ストア派とは、紀元前4世紀アテナイでゼノンによって開かれたギリシア哲学の一派であり、徳と平静さを重んじることを良しとした。その思想の特徴は
@徳の実践を第一 : 自分達が善い生き方であると考えた生き方について実践することを要求する。堕落した生活は魂までをも堕落させると考える。ソクラテスのただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。
A理性主義: あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。
B命への非執着 : 自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重している。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。善悪無記(アディアフォラ)の思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの」でしかない。
C運命の肯定と自由意志の肯定 : これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。
D善悪の超越 : 善悪無記(アディアフォラ)の観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。
ストア派の哲学者には、前期 にゼノン、クレアンテス、クリュシッポス、中期 にパナイティオス、ポセイドニオス、後期 に小カトー、セネカ、奴隷エピクテトス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスがいる。本「自省録」の著者マルクスは最後のストア派哲人皇帝であった。

以上のストア哲学に関する基礎知識を持った上で、本書「自省録」の思想的内容を吟味してゆこう。マルクスは早くからストア哲学に傾倒した。奴隷エピクテトスの書物によったらしい。そして一度この考えを身につけるや一生変えることなく忠実に守り通した。哲学者というよりは道徳実践者というべきであろう。ストア哲学はギリシャの哲学であったがローマに入ると男性的気質にあったらしく大いに栄えた。初期の自由な精神の活動から、後期には道徳的感情的渇望を癒すものへと変化した。ストア哲学は3部分に分かれている。いわゆる物理学(宇宙自然)、倫理学(道徳)、論理学(哲学形而上学)である。ストア哲学の基調は「自然にかなった生活」であるが、自然とは宇宙を支配する理性である。倫理学が最高の位置を占め、物理学、論理学は道徳的な生き方を導き出す道具であった。倫理学が生活を律する指導方針であって、一神教の神を除いた生活指針といってもいい。ストア哲学の倫理は上に述べた特徴(ドグマ、信条)に従えば、宇宙はひとつで即ち神(汎神論)も物質もひとつである。宇宙の創生は物質的であるが、その形成を指導する神的な力はゼウスと呼ばれる。マルクスはけっして形而上学的思考(抽象的議論)は得意としなかった。人間は肉体、霊魂、叡智(指導理性)からなり、叡智が人の心を支配するダイモーンである。人間には叡智があるから人間たる由縁であるとされる。ここから人間の義務観念が引き出される。すなわち神に対する敬虔、人に対する社会性、自己に対する自律自足である。理性を持つものは同胞であるから、我々は1人残らず宇宙市民であり協力すべくできている。ここでストア哲学はその実践倫理に特有な思想として、我々の自由になることとならぬことの区別を強調する。自由になる事は徳、悪徳であり、自由にならないのは肉体・物質である。人間の幸福と精神の平安は徳によってもたらされる。「人生即主観」ということになる。宇宙の自然に服従し喜んで運命を受け入れることで「不動心」に到達することが人生の目標となる。禅の悟りみたいなものだろうか。死も喜んで受け入れよという。生まれること自体が虚無からきたものであれば死ぬことも虚無かもしれないし、他所に移ることかもしれないと、死後の世界については明確な像は持たない。まとめてみると「自省録」の思想内容は別に独創性があるわけではない。また「自省録」には論理的構成らしい構成もない。全体を12章に分かつが、章にわけて論じる主題もないし、何の脈絡もない。日々の感想メモに過ぎない。心が休まり、心に留まる名言を拾って記したい。

第1章

私が人生の師から学んだこと
*祖父から清廉と温和を学んだ。父からつつましさと雄雄しさを、労働を愛する心と根気強さを、公共的精神を、真の哲学者を尊敬することを、特別の才能を持つ人には席を譲ること、統治者の生活のしかたを学んだ。
*母から神を畏れることを、悪事をせぬこと、簡素な生活をすることを学んだ。
*曽祖父から良い教師につくことを学んだ。
*ディオグネートからは魔術を信用せぬこと、ギリシャ式鍛錬法を学んだ。
*ルクティウスよりは理論的な論文を書かぬこと、修辞学や詩や美辞麗句を避けること、自分に無礼な人に対しては寛大にすることを学んだ。
*アポローニウスからは独立心を持つこと、理性以外の何物にも頼らないこと、家族の不幸にも平常心で居る事を学んだ。
*セクストゥスからは親切である事、自然にしたがって生きるということ、人生に必要な信条、愛情に満ちた人間であって、無知な人間や道理をわきまえない人間にたする忍耐を学んだ。
*フロントからは暴君の嫉妬と虚偽を学んだ。
*カトゥルスからは友人の抗議に対して平生の友好関係に戻るよう試みることを学んだ。
*セウェールスからは「万民をひとつの法律の下に置き、権利の平等と言論の自由を基礎として、臣民の自由を何より尊重する主権を備えた政体の概念」を学んだ。
*マクスシムスからは克己の精神と確固たる目的を持つこと、目前の義務を苦労としないことを学んだ。

第2章

私の信条とは
*人は叡智と神性を共有しているのだから、私たち同胞は協力するために生まれついている。人は肉体と、息(霊魂)と内なる指導理性から成り立つ。
*私達は宇宙の一部であり、宇宙の自然は善をもたらす。神の技は摂理に満ちて、運命は自然を離れて存在しない。この信条を持って足れりとせよ。
*ローマ人として自分が引き受けていることを独立と正義を以って果たそうと決心せよ。自分を大事にするときなど存在しない。
*自分自身の魂の動きを注意深く見守っていないと(自省)必ず不幸になる。宇宙の自然と自分の内なる自然の関係は全体と部分である。両者は同じくならなければならない。そこを注意して見守っているかどうか。
*いますぐ死ぬことは少しも恐ろしいことではない。それは自然の技で善意に満ちているからだ。宇宙の中ですべてのものは速やかに消えうせるか、変化する。3千年生きるも3年生きるも同じことである。万物は周期性を反復している。失うものは現在だけなのだ。(諸行無常)
*自分の心の中にある神的なものであるダイモーンに、真実から仕え、自己のダイモーンを純粋に守ることである。
*すべては主観である。犬儒学派は「すべては空しい」ともいう。
*人間の魂が自己を最も損なうのは、相手を傷つけること、快楽、苦痛に負けること、不誠実、でたらめに行動することである。理性的動物である人間の目的は理性の法にしたがって生きることである。

第3章

*人生は毎日費やされ、刻々死に近づいて、訓練された事柄を処理する能力(洞察力や注意力)が真っ先に消滅してゆく。しかし老いたる男女の中にもある力強さと成熟の美を見出しうるであろう。医者でさえ人を看取って自分も看取られるものだ。それは自然である。公益事業に関するものでないかぎり、他人に関する思いで余生を消耗していけない。自分の内なる指導理性を注意深く見守ることが大切なのである。
*正義、真理、節制、雄雄しさなど心の中にいるダイモーンの善を追い続けよ。自ら自己を戒めた人間の精神の中には汚れは無い。
*意見を作る能力を畏敬しなさい。間違いが自分のうちに起る事を正しくしてくれる。そのために念頭に浮かぶ対象についてかならず定義または表現を行なって観察することである。それは理性なる神から来たものであるかどうかチェックしなさい。そして真実を持って語ることに満足するなら、幸福な人生を送ることが出来る。
*いたずらにさ迷い歩くな。(宮沢賢治のように)「・・・そういう人に自分はなりたい」という信条を持てばいい。

第4章

*我々の内なる主が自然にしたがって際には、許される限り適応しうるような態度を取るものである。簡潔であり本質的な信条を持ち続けるかぎり、自分自身の魂の中にある平和な閑寂な隠れ家を見出すことができる。
*「宇宙即変化 人生即主観」
*自分は損害を受けたという被害者意識を取り除くとよい。そうすればその損害というものも消滅するから。
*次の2つの理念を常に手元に用意しておくべきである。ひとつは王としての立法者としての理性が自分を人間の利益のためになせと命じる。2つは独りよがりな考えを変えろという人がいるなら、それが公共の利益になり正義に基づくなら自分の考えを変えること。
*生きているうちに許されるうちに善き人たれ。死後の名声は考えないことだ。
*必要なことのみをせよ。また社会生活を営むべく生まれついた者の理性が要求するものをすべて要求するままになせ。
*市民的理性から遠ざかる者はさすらい人である。叡智の眼を閉じている者は盲人である。
*昔大いに謳われた名前も今は廃れた。永遠の記憶などというものは全く空しい。(諸行無常)
*君の不幸は他人の指導理性の中にあるのではなく、判断を下す君の能力の中にある。
*悲しい出来事が起きても、次の信条を忘れるな。「これは不運ではない、これを気高く耐え忍ぶことは幸運である」

第5章

*朝起きづらいときは次の思いを念頭におけ。「人間としての勤めを果たすために私は起きるのだ」
*誠実、謹厳、忍苦、寡欲、親切、自由、単純、まじめ、高邁な精神といった徳は能力の問題ではない。
*他人に善事を施して恩を返してもらうわけではない。自分が社会公共に利するような行動をとっている事を自覚する。
*信条どおり正しく行動できなくとも落胆するな。失敗したなら戻ってゆけばいい。理性(哲学)のもとへ戻って安らぐであろう。
*私は形相因と物質から成り立っている。これらは消滅して無になることはない。変化して再配分されるだけなのだから。その形相因も千変万化し、常なるものは殆どない。
*理性と論理の術はそれ自体においてそしてその働きにおいて、自足した能力(自律的に働く)である。真っ直ぐな道を行くことができる、信頼せよ。
*物事自体は我々の魂にいささかも触れることはない。その動きを変えることもない。魂のみが自分自身の向きを変え、判断に従って外側から起る物事を処理するのである。
*宇宙の普遍的物質を記憶せよ、その中のごく小さな一部分が君なのだ。
*自分のしたいことは理性的社会的動物の自然である。宇宙の叡智とは社会的な協力である。
*技術と知識のある魂とは、それは始まりと終わりを知る魂、すべての存在を浸透し一定の周期の下に全体を永遠に支配する理性を知る魂である。

第6章

*死ぬということも人生の行為のひとつである。現在やっていることを善くやることで足りよ。
*支配者の理性とは、自分を知り、為すべきを知り、いかなる素材をもってこれを為すかを知ることである。
*混乱、錯綜、分散から逃れ、統一、秩序、摂理のなかに生きたい。統べ給うものを信頼して。
*度を失ったときは、大急ぎで自分の内にたちもどり、絶えず調和に戻ることによって、一層これを支配することが出来る。
*物事があまりに尤もらしく見えるとき、それを赤裸々の姿にしてその取るに足らない事を見極め、自負を戒めなければならない。
*大衆の尊ぶものの大部分は理性的普遍的社会的な魂である。何を尊ぶべきか、私は自己の人格構成に従って活動し、或いは活動を控えることである。やることやらぬことを区別する能力である。技術の目標はすべて作られたものが、その作られた目的である仕事に適応することにある。
*自分に抗議するものに対しては、好意を持ちつつ彼を避けることである。
*カエサル的(専横皇帝的)にならぬよう注意せよ。地上生活の唯一の収穫は、啓虔な態度と社会を益する行動である。
*現在のときは悉く永遠の中の一点。万物は因果関係に従って起るので、あらゆるものの源泉を考えよ。あらゆる者は原因であり結果である。
*我々は皆ひとつの目的の遂行に向かって協力している。関係ない人はひとりもいない。
*私の本性は理性的であり社会的である。私の属する都市と国家はローマであり、人間としては世界である。
*あなたに割り当てられた物質の量だけで満足しているように、時についても同じく満足せよ。

第7章

*悪徳とはどこにでも見られるもので、一つとして新しいものはない。
*信条(ドグマ)というものは死ぬことはない。私は物事について自分の持つべき意見を持つことが出来る。人間各々の価値は、その人が熱心に追い求める対象の価値に等しい。
*私の知能は十分か否か、もし十分でないならもっとよく出来る人に場所を譲らなければいけない。人に助けて貰う事を恥じてはいけない。
*未来の事で心を悩ますな。必要なときに現在働いている理性でもって未来の事に立ち向かうだろう。
*指導原理は自分自身を悩まさない。幸福とは善きダイモーン、または善き指導理性のことである。
*遠かラ図君はあらゆる物を忘れ、遠からずあらゆる者は君を忘れるだろう。
*つまづく人をも愛するのが人間の特権である。彼らは同胞であり、彼らのために自分の指導理性は悪化しなかったからだ。(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)
*自分の中に集中せよ、想像力を抹殺せよ、誠実とつつしみを持て、苦痛は耐えられるものは指導理性を損なわない。耐えられなければ死ね。
*何人も自分の運命は避けることは出来ないと考え、もっと善く生きる事を考慮すべきである。
*プラトンの言葉「すべての魂はその意思に反して真理を奪われている」事を常に念頭に置けば、君は全ての人にたいしてもっと優しくなれる。
*完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのように過ごすことである。

第8章

*君の余生が長かろうと短かろうと、これを自然の欲するがままに生きることが出来たらそれで満足せよ。自然が欲するところを熟慮し、自然の求めるところをなすことにある。
*何よりもまずいらいらするな、すべては宇宙の自然に従っているのだから。
*読書は君に許されていない。しかし快楽や苦痛をや、つまらない名誉欲を超越することは出来る。
*つねに自分の信念に物理学、倫理学、論理学の原理を適用してみること。
* 万物はそれぞれある目的のために存在する。それは人間の喜びである。「自分はある仕事を果たすために生まれた(天職)」
*3つの関係、自分という器、万人を指導する精神について、生活を共にする人々について。
*非社会的な行動をする者は、それと同じように自分に対してもするわけである。
*君の重荷となるのは過去でもなく未来でもない。常に現在である。それも小さなことである。
* 現在の時を自分への贈り物として与えるように考えると良い。私にとって喜ばしいことは自分の指導理性を健全に保つことである。
*君を悩ますのはそのこと自体ではなく、それに関する君の判断なのだ。その判断は君の考えひとつでたちまち抹殺してしまうことが出来る。自分自身の心の持ちようの中にあるならば自分で解決できるのだ。
*我々の指導理性が確固たるのは、自己の欲しないことはおこなわずに満足している状態である。いやなことは避けるがいい。それで十分だ。
*行動において杜撰になるな。会話において混乱するな。思想において迷うな。人生において余裕を失うな。
*人間はお互い同士のために創造された。ゆえに彼らを教えるか、さもなければ耐え忍べ。

第9章

*不正は不敬虔である。自然の意思にそむく者は、明らかに最も尊ぶべき神にたいして不敬虔なのだ。 嘘つき、快楽、堕落
*死を軽蔑するな、自然の働きのひとつとしてこれを待つことである。
*人は高等動物のなかでも理性動物である。統一した何かを共有している同胞である。
*働け、社会的理性の命ずるままに行動し、行動せぬこと。理性的市民的動物の悪と善は行動の中にある。
*君は社会組織を補って完全なものとする部分の一部であるが、すべての行動を社会生活を補いこれを完全なものにする部分たらしめよ。
*宇宙の原因は流れること(変化する)である。プラトンの理想国家を望むな。小さなことの進行に満足せよ。哲学の技は単純で謙虚なものである。
*外的な原因によって生じることに対しては動じないこと。自分の中からくる原因によって行なわれることは正しい。
*君にとって悪いこと、害になることは絶対君の精神においてのみ存在する。
*なにか親切をしたときや、その他公益のために人と協力した場合、彼の目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

第10章

*いつの日か君は、神々や人々とともに同じ社会に住みにふさわしくなり、責めもせず責められもせぬような存在になるのであろう。
*ただ自然のみに支配されている者として、内なる自然が何を要求しているかを考察せよ、次にそれを行なえ。理性的とはとりもなおさず市民的ということである。
*同胞である他の人々と密接な関係にあるかぎり、私は何ら非社会的な行為をなさず、自分の全活動を社会公共の利益へ向かわしめる。
*善い人、慎み深い人、真実な人、思慮深い人、素直な人、心の大きい人という名を貰ったら、これに反することに注意し名を逃さぬようにせよ。そしてがんばることが出来なくなったら、勇気を出してどこか片隅へ行くか、またはきれいさっぱり人生から去ってゆくがいい。(出処進退をわきまえる)
*人生喜劇、戦争、恐怖、麻痺状態、奴隷状態が君の精神を破滅させないように、目前の任務を果たしながら同時に思索の能力を働かせよ。
*万物がいかにして互いにに変化するか、これを観察し自分のものにして修練を積むことは、実はこれほど精神を偉大にするものはない。即ち現在の行動を正しく果たし、現在自分に分け与えられているものを愛することである。
*現存するものは悉く以前にも存在した事を考えよ。ただ役者が違うに過ぎない。人間に関するものはすべて煙か無であるとみなすようになる。君の短い人生をまともに送ることで満足できないのか。
*提供される素材(人材)や技術を用いて、人間の構成要素にかなった行動を取ることが何より大切である。

第11章

*理性的な魂の特徴とは、自己を眺め、自己を分析し、意のままに自己を形成し、自己の結実を自ら収穫し、人生の終止符がいずこにおかれようとも自己固有の目的を達成することである。
*理性的な魂の特徴には、隣人を愛すること、真実、つつしみ、思慮と品位、何よりも自己を尊ぶことがある。
*悲劇とは人生途上の出来事を人に思いださせるために演じられ、喜劇は教育的に意義のある言論の自由を持ち、慢心をいましめる有益なものであった。
*人間は隣人を憎しみ嫌うことによって、自分をその隣人から引き離すのだ。しかもそうすることによって共同社会から自分を削除した事を知らない。人間は同じ社会で成長せよ、意見は異なるとも。何事にも怒を抱かず、苦情を言わぬ心ばえの持主として。
*最も高貴な人生を生きる力は魂の中に備わっている。どうでもいい事柄に対して無関心である事が条件である。
*我々はお互いのために生まれた。私は羊の先頭に立つ牡牛の如く、人々の上に立つべく生まれた。(王道論)
*つねに同一の人生目的を持たない者は一生を通じて同一人物ではありえない。人生目的とは公共的市民福祉としなければならない。(政治家論)

第12章

*君の願いとは、全過去を打ち捨て未来を摂理にゆだね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向へ向けることである。
*君の知性は運命に左右されものから解放されて純粋となり、何物にも縛られることなく独立独行し、正義を行い、身に起る事柄をすべて受け入れ真理を語ることが出来る。
*事柄とはそれ自体いかなるものか。その素材、原因、目的に分析してみるべきである。人生に起る事柄に驚き怪しむ者は愚かである。宿命的必然か、動かすべからざる秩序か、慈悲深き摂理か、それとも混沌か。自分の中に指導理性を持っている事を喜ぶべきである。何事もでたらめにやってはいけない、公益以外を行動の目的としてはいけない。
*我々のあらゆる行為の総計である人生は、それがしかるべき時期に終るならば、終ったことで何の害も蒙らない。それは自然であるから、我々に自由意志の外にある。
*各人に与えられた時はなんと小さな部分にすぎないことか。世界を眺めている時間が長かろうが短かろうがどちらでもかまわないと思う人、こういう人にとって死も恐るべきものではない。(壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届け、海へ身を投げ自害した平知盛の最後の言葉「見るべきほどのものは見つ」) 


随筆・雑感・書評に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system