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福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」

  ちくま新書 (2012年8月 ) 

原発というモンスターと闘った官邸の風景 

本書を読んでいる日(2012年9月6日)、朝日新聞の特別報道部著「プロメテウスの罠」(学研パブリッシング)が新聞協会賞を受賞というニュースが掲載された。SPEEDIというプルーム拡散シュミレーションシステムがなぜ稼働しなかったかを追跡した報道であるという。2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故の検証作業は2012年3月に民間事故調の報告書、そして7月には国会事故調の報告書と政府事故調の報告書が出た。これらの事故報告書が出揃うのを待って、官邸からの証言という形で本書が発刊された。著者福山哲郎氏はいうまでもなく、菅内閣の官房副長官であった。権力の番人を持って自負するメディアとしては、何をやっても政府への批判はつきものである。的を得た批判は甘んじて受け反省すべきなのであるが、事実と違う批判には答えなければならない。「菅首相の現地視察が東京電力の事故対応を遅らせた」、「官邸が現場の注水作業を止めた」、「政府はアメリカからの冷却材(?)提供を断った」などは事実無根であると云うところから本書は始まる。福山氏が事故発生直後から大学ノートに書きつけた備忘録は2011年6月迄で4冊になった。首相官邸において首相、官房長官についで第3番目の危機管理担当であった官房副長官が、自ら残したノートをもとに、官邸から見た原発危機の状況を復元し、「意思決定には理由がある」(事実に基づいた意思決定)を立証するべく、恩師の言葉に従って記録を公表した。

本書は事故の全体像を明らかにすることではなく、官邸からの視点(官邸から見た風景)に絞って、事故の真実を記す事であるという。当時官邸と国民のコミュニケーションとしては菅首相と枝野官房長官による記者会見のみであった。官邸とメディアとの情報共有の不足から「イラ菅に怒鳴られて、官僚はやる気が失せた」などのデマが流された。噂の源は経産官僚あたりからだと思うが、そんなお坊ちゃま官僚がいたらそれこそ国民はえらい迷惑である。官邸といえどすべての情報が集まり合理的で正しい判断が出来る状況ではなかった。とくに「原子力村」の面々が何を考えていたか知る由もなかったという。官邸は官邸が有する情報、人的リソース、法的権限でもってしか意思決定できない。まして神ではない官邸が全体像を把握していたわけではないという。しかし「意思決定には理由がある」のである。それを明らかにしたいと福山氏は強調する。官邸という意思決定者側から見た原発事故の記録も1面の真実である。官邸だけが意思決定者かというとそうでもない様な気がし、日本(東洋)伝統の本当の意思決定者の無責任体制まで考察しなければならないが、それは本書の範囲では無い。本書は3章構成になっているが、第1章「官邸の5日間」が半分を占めている。ファクト(事実)はすべてそこにあった。第2章は「政策決定の舞台裏」、第3章は福山氏の信念である「脱原発への提言」である。福山哲郎氏は1962年東京都生まれ。京都府立嵯峨野高等学校、同志社大学法学部卒業。1986年に大和証券に入社し、1990年退社。同年、松下政経塾に入塾(第11期生)。1995年、京都大学大学院法学研究科修士課程修了。1998年、第18回参議院議員通常選挙に京都府選挙区から無所属で当選した。内閣官房副長官(菅内閣)、外務副大臣(鳩山由紀夫内閣)、参議院環境委員長、参議院外交防衛委員長、参議院民主党政策審議会長等を歴任した。気候変動問題とグリーン経済の実現をライフワークとする。著書に「民主主義が一度もなかった国・日本」(幻冬舎新書 2009年)などがある。なお本書評において主語は、断りがなければ福山官房副長官だと見てください。

1) 福山ノートが語る官邸の5日間

2011年3月11日

2011年3月11日午後2時46分、官邸5階の官房副長官室で用務を処理していた福山氏は、大きな長い揺れにこれはまずいと感じ、隣の秘書室に飛び込み伊藤危機管理監に連絡して、「緊急参集チーム」を危機管理センターに集めるように指示した。政府の緊急時危機管理は、内閣官房が担当する。危機管理監は阪神淡路大震災を教訓に設けられた官邸専門の指揮官である。伊藤危機管理監伊藤氏はもと警視総監である。危機管理センターは平時から24時間体制で様々な情報の収集にあたるオペラ−ションセンタールームで、テロや災害、安全保障などの緊急事態の発生時には対策本部の拠点となる。危機管理センターは100名以上のスタッフと緊急参集チームもすでに集まっていた。広範囲に通信が途絶し、官邸にも情報は断片的にしか上がってこなかった。午後3時14分緊急災害対策本部を設置、「災害時応急対策に関する基本方針」を確認した。危機管理センターで中心的な役割を果したのが原田保夫政策統括官で、2012年7月現在でも統括官を務め防災マニュアルの改訂、災害基本法の改定などに力を注いだ。午後3時40分頃保安院のマイクより、「福島第1原発全興隆電源喪失、冷却機能停止」というアナウンスが響いた。緊張が走った。午後4時36分、福島第1原発事故に関する「官邸対策室」が設置され、震災全体に対しては枝野官房長官、原発対策については福山官房副長官が対応することになった。総理は午後4時54分、原発の自動停止と放射性物質の影響は確認されていないと短い会見を行なった。午後5時過ぎ総理執務室で菅総理が細野補佐官、寺田補佐官と協議している最中、海江田経産大臣が飛び込んで、原災法15条に基づく「原子力緊急事態宣言」の上申書を抱えてきた。ここから福山官房副長官は大変な事態になるかも知れないのメモを取っておこうと考え「福山ノート」が作られ始めたという。ここにいう原災法15条通報とは「非常用炉心冷却装置注入不能の発生」を意味した。原災法15条に基づく「原子力緊急事態宣言」は誰もが経験したことのない非常事態である。

午後6時野党党首との党首会談(事態説明)を5分で終えた菅総理は保安院の寺坂院長の要領を得ない説明を聞いているよりは事態のより正確な把握に努めたい様子であった。午後7時3分、閣僚がそろった第1回原子力災害対策本部で「原子力緊急事態宣言」が発令された。この時点で総理は、電気系統が動かない状態で電池で動く冷却系(IC,RCIC)で冷やしているが8時間しかもたない。8時間後には炉心温度は上昇し10時間後にはメルトダウンを起こす事を認識していた。燃料棒のメルトダウンとはシビアアクシデント(過酷事故)をさす。空路・陸路で電源車を送る手立てを最優先しているが、想定される最悪の事態がどの程度の確率で起きるかは官邸の情報では誰にも分からない。想定される最悪の事態を国民に公表すべきかどうかは議論の多いところである。範囲も方向もわからずパニックになった国民が自動車で逃げ惑う姿は、右往左往する自動車を津波がのみ込んでゆく映像を見るたびに背筋が寒くなる。政府がパニックを煽るのは関東大震災を最後にごめん蒙りたい。午後7時41分総理執務室に参集して、東電から派遣された武黒フェロー、保安院の寺坂院長の話を聞いた。最悪の事態を避けたい東電は電源車が欲しいという。電源車の手配まで国家でやる必要があるのかという疑問がもたれるが、それが国家にとっても最優先課題であった。保安院はこの事態に及んでも自ら積極的に動く姿勢は見られなかった。福山副長官は3月11日の日付けが変わる頃まで電源車の手配に奔走した。ディーゼル車30数台を手配した。福島第1原発への搬送時間が勝負である。この事態に地蔵のように動かない技術系官僚の有様に、「国としてどうなるかぞっとした」と下村内閣審議官はツイッターで述べている。3月12日の夜明けの頃(事実は3月11日午後9時に1台の電源車が到着していた)、電源車がようやく福島に到着して、東電から「接続のスペックがあわない、電源が繋がらない」との報告があった。自衛隊まで動員して届けたのに、接続プラグという技術的問題で使い物にならないとはどういうわけか。その間にあらゆる技術トラブルを検討して備えるのが東電技術者の役目ではないか。東電が本当に民間企業であれば意思決定の遅れ、対応のまずさは企業の致命傷となるはずだが、「東電は官僚以上に官僚的」といわれる姿を見たように思われる。

11日午後8時30分、菅総理は危機管理センターには入り連絡を蜜に確実にやるように指示して、危機管理センターの中2階室にはいった。騒然としている危機管理センターから執務を中2階室へ移し、菅総理、海江田大臣、枝野官房長官、保安院の寺坂院長、原子力委員会の斑目委員長、東電の武黒フェロー、そして福山官房副長官が詰めた。菅総理は基本的に原発事故に専念し、細野補佐官も原発対応、枝野官房長官は全体のオペレーションの把握と記者会見、被災地現場は松本国土交通省大臣に任せる、寺田補佐官は電源車の手配と帰宅困難者対応の任務に就いた。被災地の状況は午後8時以降から断続的に上がってきた。保安院から24時間後には放射能漏れがありうるので半径1-2Kmの住民の避難をさせなければという問題提起があった。午後11時30分にはIC冷却が限界となり危機的状況を迎える可能性がある。斑目原子力委員会委員長は「ベント(圧力逃がし弁)の開放」による炉心爆発回避が必要という問題提起があった。そのときに放射性物質の大気漏れが起きるから住民の批難が必要だという。11日午後9時23分、福島第1原発半径3km圏内の避難と、3―10km圏内の屋内避難の指示を出した。枝野官房長官は記者会見を行なった。(当時官房は知らなかったのだが、福島県は午後8時55分半径2km圏内の住民避難の指示をだしていた。) 11日午後10時44分保安院が「福島第1原発2号機の今後」と題するぺーパーを危機管理センターに報告した。10時50分炉心露出、23時50分燃料棒被覆管破損、24時50分燃料溶融、27時20分(12日午前3時20分)原子炉格納容器圧力最高ーベント開放放射性物質放出ー放出量は解析中という骨子であった。

2011年3月12日

12日午前0時15分からオバマ大統領との電話会談を終えた菅総理は中2階の小部屋に移り、ベントの議論を枝野官房長官、海江田大臣、細野補佐官、斑目委員長、武黒東電フェロー、福山官房副長官で行なった。午前1時近くに東電から「原子炉格納容器圧力異状上昇」の報が入り、ベント開放を実施したい旨の連絡があった。総理は危機管理センターに入り、まだ水位は1m上にあり2時間くらいをめどにベント開放に入る事を確認した。午前1時半総理はベントの実施を了承して執務室に戻った。福山副長官は政府政務三役による第1次政府調査団派遣準備に当たった。宮城県には東防災副大臣、岩手には平野内閣府副大臣、福島県には吉田財務政務官に依頼した。12日午前3時6分に始まった海江田経産大臣の記者会見に応じる形で3時12分より枝野官房長官のベント実施の記者会見を行なった。福山副長官は最初の1週間は官房長官の記者会見にはすべて陪席したという。12日午前3時59分、長野と新潟の県境で震度6強の地震が発生した。新潟県の東電刈羽原発には7基の原子炉があり、連鎖反応で日本中で地震が発生したらどうなるのだという危機感を覚え、最も恐るべき戦慄が走ったという。ほぼ1時間後人的災害はなく連絡も取れる状況にあって被害はそれほど大きくないことが危機管理センターの共通認識となった。午前4時半頃福山副長官はベント実施のことを東電の武黒フローに確認したところ、まだ実施できていない事を知り愕然としたという。線量の高い場所で手動で動かさざるを得なくて手間取っているらしい。ベントが遅れればそれだけ原子炉爆発の危険性が高まるのである。チェルノブイリ級の3倍規模の原子炉6基の爆発という人類が経験したことのない惨事につながるのである。午前5時過ぎに総理が危機管理センターに来て、ベント実施がまだ行なわれていない事を知った。ベント実施を了承してからすでに4時間が経過した。

ベントが実施されない、爆発するかも知れないので広い範囲で一刻も早く避難指示を出すべきだと総理と話し合い、午前5時44分第1原発の半径10km圏内の避難指示を出した。避難地域を広げると面積は半径の2乗という原理で、避難者の数は累乗的に増えてゆく。それだけオペラーションの困難度も増してゆく。海江田経産大臣は業を煮やしたように、午前6時50分1号機と2号機のベント措置命令を出した。そして東電より福島第2原発の第1号機、第2号機、第4号機の圧力抑制機能が失なわれたという異常事態を告げる通報があり、第2原発でも半径3kmの圏内の避難、3-10kmの屋内避難を指示した。何時までも実施されないベントの事で、不安と焦燥が募り、東電と保安院、原子力委員会に対する不信感が大きくなってきた。東電の現場情報は本社と武黒フェローを介して官邸に伝えられる。要領を得ないのは当然かもしれない、そこに経営的配慮というフィルターがかかってくるのだから。そこで総理は直接第1原発に赴いて吉田所長と連絡を取りたいと判断した。総理は福島第1原発視察の準備を午前5時まで続けた。午前7時に市ヶ谷の防衛省をヘリで立ち、午前9時頃に到着し、9時30分に第1原発を出発したら11時ごろには東京に戻れると計画した。寺田補佐官と福山副長官が打ち合わせた。これを「総理の現場への直接介入」と批判するむきがあるが、官邸の危機管理決定者は異議を言ったことは無い。11時前に現地視察から帰った総理から「吉田所長は信頼できる。これで現場と繋がった」という第1声を聴いた。「総理の現地視察にためにベントが遅れた」という批難は全く事実無根である。東電に繋がる経産官僚が流したデマであろうか。東電の広報担当者も「ケーブルの仮設などで手間取ったからで、総理の来訪は関係ない」(3月28日東京新聞)と語った。福島第2原発は午前7時45分に原子力緊急事態宣言を発令した。

12日午前9時15分、総理不在で第2回原子力対策本部を開催した。午前9時30分1号機のベントを手動で開放したという連絡が入った。決定から8時間、ベント官房長官会見から6時間、海江田大臣の命令から2時間半後のことであった。午後2時半に1号機の圧力低下が確認され同時に線量増加も認められた。午後4時過ぎ党首会談から戻ってきた総理執務室に寺田補佐官が「総理、原発が爆発しました」と血相を変えて飛び込んできた。斑目委員長も映像を見て茫然自失の態であった。東電や保安院に問い合わせても「白煙発生で調査中」という答えしかなく、2時間を経過しても報告はなかった。1号機で爆発が起きたのは12日午後3時36分であった。結論的には爆発は格納容器ではなく、水素ガス充満による原子炉建屋の爆発であった(このときすでに1号機はメルトダウンしていた)。午後5時45分から枝野長官の記者会見が予定されていたが、東電から「白煙発生」の資料が出たのが10分前で、枝野長官は「爆発的事象」が発生したと公表した。保安院.、原子力委員会、東電といった原子力村の人々と官邸の間には情報の共有はおろか信頼関係も構築されていなかった。(タラレバの私見だが、これは民主党内閣だから起きたことで、情報の私物化で官邸の孤立をはかり、原子力村の権益を守ろうとする勢力が働いていた様に思われる。もし事故が自民党内閣だったらどう処理したかといえば、東電と経産省の原子力村のいいように任せて、自分はタッチしないで国民の悲劇を拡大することになったのではないかと思う。)

12日の午後から官邸で関係者によって1号機の炉心に水を注入する必要性が論じられた。斑目委員長は早くから注水の必要性を主張していたが、東電の武黒フェローは準備に2―3時間はかかるという。総理は斑目委員長に海水を入れても大丈夫か、再臨界はしないかを確認した。斑目委員長の回答は「再臨界の可能性はゼロではない」であったが、後日このゼロではないという言葉が、可能性があるというのか、ないというのかで細野補佐官と対立した。(そのとき1号機はすでにメルトダウンと、圧力容器のそこが融けるというメルトスルーを起こしていた) 12日午後7時40分総理執務室で細野補佐官が放射線量モニター数値を示した。これにより圧力容器は爆発していないことが分かり、ポンプと管も生きていることが確認されたので制御棒を全挿入し、12日午後8時前、総理から海江田大臣に海水注入を指示した。このとき東電の武黒フェローが総理の了解が取れていないと解釈し現場に中断を求める事件があり、これが後日「総理による海水中断の指示」と責任転嫁が行なわれたようだ。官僚はいつも後になってつじつま合わせのように事実とは違うストーリーをアリバイ的に発表するのである(海水注入は廃炉に繋がるので、東電としては経営的に出来る限り避けたかったと見られる)。ベント実施と水素爆発を受けて、午後5時44分に避難区域を第1原発の半径3kmから10kmに拡大した。午後5時39分には第2原発の避難区域を半径10km圏内に広げ、さらに午後6時25分第1原発の避難指示を半径10kmからさらに20kmに拡大した。避難区域の対象者は3km圏内で5862人、10km圏内では5万1200人、20kmッ圏内では17万7500人となった。

2011年3月13日

13日午前5時10分東電は福島第1原発3号機に原災法15条(冷却機能喪失)が発生したと官邸に通報してきた。3号機は燃料がウランではなく、プルトニウムを混ぜたMOX燃料であった。炉心爆発を防ぐため海水注入を停止しバッテリー(2時間分)を接続し午前11時にベントを開くと圧力は低下した。この間の6時間に炉心はメルトダウンし大量の水素が発生したと見られる。12日午前11時1分3号機は水素爆発を起こした。3号機の水素爆発は2号機にも影響しベント弁が閉まり、午後には冷却機能が停止した。さらに4号機の使用済み核燃料プールの水温が上昇し続け14日未明には84度に達した。福島第1原発がこのように危機的状況になっている13日の夜から14日の未明にかけて、福山ノートには原発に関するメモが少ない。なぜなら福山副長官はそのとき枝野長官と「計画停電」への対応にかかっていたからである。前代未聞の計画停電は東電から13日午後に発表されたが、詳細については官房長官は知らなかったし官邸との事前協議はなかった。東電は14日朝6時20分から関東地方での計画停電の実施を予定していた。午後9時20分電力需給緊急対策会議で片山総務大臣から「計画停電は、人工呼吸器を使って自宅療養している患者への配慮をお願いする」との発言があり、厚労省としては訪問看護ステーションを通じて徹底するつもりであったが、日曜日なので全員への通知は不可能ということである。いきなり計画停電を発表した東電への憤りがこみ上げてきたという。

2011年3月14日

そこで14日午前1時、枝野長官は東電の電力需給担当の副社長を呼び出し、厚労省が午前10時までの猶予があれば準備できるというので、東電に計画停電の実施を遅らせるよう求めた。東電は計画停電しなければさらに大規模停電になるかもしれないと脅しをかけてきたが、別に根拠となるデータを持ってきたわけでもないので、午前3時に検討しなおして再度来るように依頼した。その結果14日の午前中は計画停電は回避でき、実質夕方まで計画停電は行なわれなかった。厚労省より昼ごろに全世帯への連絡がつきバッテリーも届けたという連絡が入った。競争のない電力供給者としてのおごりによる東電の言いなりに計画停電が実施されなかったのは官邸のオペレーションがあったからである。14日夕方になって第1原発の各原子炉の操作に不安定さが増してきた。原発メーカの東芝と日立の社長も官邸に呼び出された。資源エネルギー庁の安井部長の原子炉の状況に関する明快な説明に対して、「こんなアクバットな操作は持続可能なのですか」と尋ねたという。そして14日夜には経産省松永事務次官が官邸を訪れ、官邸周辺は不穏な雰囲気に包まれた。相前後して東電の清水社長より「現場を撤退したい」という趣旨の電話が官邸に入った。枝野長官と海江田大臣には二度電話があったという。

2011年3月15日

午前0時よりにわかに緊迫し、総理会議室に枝野長官、海江田大臣、斑目原子力委員長、安井資源エネルギー庁部長、伊藤危機管理監、細野・寺田補佐官、保安院、原子力安全委員会スタッフがそろい撤退について議論が始まった。半径20km圏内の住民はすでに避難している、炉心爆発の危険があるとしたら東電と下請けの作業員の命を守らなければならない。午前3時ごろ「作業員の命を考えれば撤退もやむなし」という雰囲気ができ始めたころ、松本防災大臣、藤井官房副長官、瀧野官房副長官にも来てもらい仮眠中の総理を呼んだ。執務室に総理、海江田大臣、枝野官房長官、細野補佐官、寺田補佐官、伊藤危機管理監、福山副長官が集まった(彼らが官邸の意思決定者であった)。総理は「撤退なんてありえないだろう」と意を決したように言った。こうして官邸のコンセンサスが出来上がり、応接室にいる関係スタッフの会議に臨んだ。総理は1―4号機の状況を聞き終えて、「撤退などありえない」と明言して、政府と東電の情報を一体化するため連絡室を東電内に設け、細野補佐官を常駐させるといった。これが「福島原発事故対策統合本部」の設置である。総理は東電の清水社長を呼んでいる間、官邸の政治家を執務室に来てもらい「原発をこのまま放置すれば、外国(私見:恐らくアメリカ)が原発を処理するだろう。そうしたら日本の統治権はなくなる(私見:アメリカが処理能力をなくした日本を委託統治する)。なんとしても撤退などありえない」といったという。15日午前4時清水社長が官邸に入った。総理は清水社長に「結論から申上げます。撤退などありませんから」というと、清水社長は「はい、わかりました」と頭を下げた。そして東電内に政府連絡室を作るので1時間後に総理が東電に行く事を告げた。15日午前5時半、菅総理、海江田大臣、細野補佐官、寺田補佐官、福山副長官は東電本社に到着した。

東電本社2階には大オペレーションルームがあり大勢の社員が詰めていた。現地との連絡はテレビ会議で行える体制が出来ていたのに、これまでの要領を得ない東電の対応は、東電内の経営判断が情報を加工して官邸にあげていたものと思われる。東電内で総理はマイクを取って挨拶した。「今回の重大事故は、政府と東電がリアルタイムで対策を行なうことにした。菅が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長である。2号機だけでなく6基の原子炉全部を放棄したら大量の放射性物質は東日本を覆い、日本という国が成立しなくなる。皆さんは当事者である。撤退はありえない。会長・社長も覚悟を決めてくれ。東電が撤退したら東電は潰れる、日本も潰れる。」(総理秘書のメモより) 朝日新聞特別報道部著「プロメテウスの罠」には、東電は「撤退とは作業員を引き上げることで、第1号機から第6号機まで全部いずれ撤退する」と答えている。だから後日東電社長がいう「一部撤退」というストーリーとは分けが違う。まして「本部機能移転」ではない。東電が原発をントロールする意思を失ったということである。民間事故調はこの総理の決断を日本を救った危機対応のターニングポイントであったと位置づけた。東電にいた午前6時ごろ、2号機の圧力抑制室サプレッションチャンバーが破損し、高濃度放射性物質が外部へ放出された。さらに4号機の建屋が爆発し、壁が大きく崩れ火災が発生した。6時53分東電は「本部機能移転について」という文書を持ってきた。現場で作業にあたる約70人を残してあとの600人を福島第2原発に退避させるという。午前7時8分東電は「かなりマズイ状況なので退避させたい」といい総理は「注水は続けて」と指示した。官邸は午前11時に半径20―30km圏内の住民に自主避難と屋内避難の指示を出した。官邸では30km圏内の避難という意見も出たが、原子炉爆発の被爆リスクと、放射性物質の被曝リスクである。「逃げられる人は逃げて」と半径20−30km地域での放射性濃度被曝リスクとの兼ね合いで苦渋の表現となった。3月15日午前、2号機の圧力制御室サプレッションチャンバーで大きな衝撃音が発生し、4号機で火災が起きた。4号機は翌日16日午前にも火災が確認された。16日水素爆発を起こした3号機において、格納容器損傷は起きていないとして注水作業が再開された。17日以降は自衛隊や米軍、警察、消防によるヘリや放水車、消防車を使った放水作業が懸命に続けられた。25日には1−3号機への注水が海水から淡水に切り替えられた。

2) 闘いの舞台裏

15日の東電撤退問題以降、官邸は対外関係や避難指示を巡る問題に忙殺された。中には事実と異なる批判もあったので、次の3点、「日米関係」、「SPEEDI]、「計画的避難区域」にしぼって官邸の舞台裏を記すという。

日米協議

事故直後から防衛省と在日米軍(海軍)の協力がはじまった。米軍の支援活動は「トモダチ作戦」として知られ、12日午前0時15分からの菅総理・オバマ大統領の電話会議が行われ、支援をお願いした。13日には「空母ロナルド・レーガンを宮城沖に派遣した」との連絡があり、13日昼過ぎには青森三沢基地に米軍のレスキュー隊が到着し、空母と艦船7隻と飛行隊が支援物質を提供した。そのとき12日朝のテレビで「日本政府は米国からの原子炉冷却材の提供を断った」という報道がなされた。原子炉冷却材とは水以外には考えられないので、なんという笑止千番の間違ったデマが流されたのだろうか。枝野長官は18日の会見で「政府が米国の援助を断ったということ報道は事実に反する」とデマを否定した。(私見:恐らくこのデマは自民党筋から流されたものだろう) 13日夜、河相官房副長官と外務省、保安院が米国エネルギー省DOE、米原子力規制委員会NRCの専門家に説明した。14日夜には、福山副長官室で斑目原子力安全委員長、保安院の根井審議官がアメリカの専門家に1-4号機の状況を説明した。15日ルース駐日大使から枝野官房長官にアメリカの専門家を官邸に派遣したいという申し出があったので、総理、枝野長官、福山副長官はこの問題を話し合い、米国専門家と官邸連絡室で情報交換するとの結論になった。アメリカの専門家は16日午後から官邸連絡室で、保安院、資源エネルギー庁、東電と情報共有することとなった。17日午前中に自衛隊の大型輸送機による3号機の30トンの海水投下作戦が決行され、北沢防衛大臣の決断により10万人の自衛隊派遣が決定された。アメリカ政府は17日、日本滞在のアメリカ国民の出国を支援するとともに、福島第1原発の半径80km圏内からの退避を勧告した。アメリカは最悪のシナリオに基づいて行動していた。縦割り行政を懸念したルース駐日大使の要請により、細野補佐官らは日米間で総合的な協議体を作る準備をし、22日「日米連絡調整会議」の発足となった。アメリカはNRCのカトリー氏をリーダーに、日本側は福山氏を座長に細野氏が中心となり、伊藤危機管理監が事務局長となった。日米連絡調整会議では、1-4号機の状況に対する知見をぶつけ、最悪の事態を回避する方策を探り、アメリカへの要請事項を確認することである。26日放射線医療に関する日米タスクフォースを立ち上げ、計画的避難区域の設定に関して、被曝線量基準に関するアメリカの意見を拝聴した。

SPEEDI

原発はら放射性物質が放散されたときそれが気象条件などでどうのように拡散するかを予測するのが、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)だった。文部科学省の委託で原子力安全技術センターが運用し、原子力安全委員会の指針で緊急時避難などを判断する際に活用されることが目的であった。しかしSPEEDIのデータが始めて公表されたのは3月23日であった。もっと早く公表すれば避けることの出来た被曝があったのではないかと政府は激しく批難された。しかし停電によって東電事業所内の8箇所のモニターポストも同時に動かなくなっており、情報通信は途絶した。私事であるが、地震翌日に福島県原子力センターのサイトを見たが11日から空白となっていたので、茨城県東海の原子力センターの発表する線量モニター結果を参考にせざるを得なかった。(2012年9月9日のデーターでは双葉町で25μシーベルトであった) しかし停電とSPEEDIの稼働は関係ない。私はSPRRDIの詳細は存じていないが、私事であるが日本化学工業協会のPRTR関連化学物質のリスク評価を担当していたときに、このSPEEDIに似たプルーム解析システムを用いて化学物質の拡散影響を検討した経験がある。基本的に同じような解析プログラムだと思うが、これにはまず物質の放出量(原発でいえば放射能物質の放出量)を入力しなければならない。それから統計的な気象条件(原発でいえばその日の気象条件)を入力し、評価する地形の条件(山、谷、建物など気流障害物)を入力してコンピューターシュミレーションを行なう。事故であるので物質の放出量を正確に求めることは不可能かもしれないが、放射性物質の放出量を想定できなければこのSPEEDIシステムは計算のしようがない。いろいろな事故想定モデルにおける放出量を仮定して、数種のモデルについて事前にモデル計算は当然なされているはずである。

汚染の方向と地域はそのときの風向きが支配し、汚染濃度は放射性物質の放出量が一義的に支配する。爆発当時風向きは海側から北西方向に吹いていた。従って今日計画的避難地域の飯館村方向の濃度が最も高かったことは自明である。又ここで注意しなければならないことは、SPEEDIとモニターシステムとは無関係であることだ。両者の結果を照合する必要は有るが、SPEEDIは環境モニターシステムのデータと連動するのではなく、放出量さえ入力すれば拡散の予測はできる。SPEEDIデーターが遅れた理由と事故時の停電とは全く無関係である。SPEEDIは施設ではなく拡散予測プログラムである。パソコンでも出来る操作に過ぎない。私見では有るが、あまりの恐ろしい結果が予測されるので、公表を躊躇ったに過ぎないと思われるがいかがであろうか。この程度の指摘を官邸に行なわなかった科学者・技術者の無責任・無作為は厳しく問われなければならない。政治家は同心円で汚染を考えざるを得ないが、緊急時の汚染は風向きで支配されるのでその方向への避難を避けるなどの配慮が必要となる。私見であるが、今回のSPEEDI騒ぎにはどこか腑に落ちないというか、間違った事を議論しているように思える。枝野長官も福山副長官もこの時点ではSPEEDIの存在に気がついていなかったという。当然であろう政治家が一つのコンピュータープログラム(ソフト)の事を知らなかったとしても何ら不思議は無い。福山副長官がSPEEDIの存在を明確に意識したのは、東大の小佐古教授の指摘により18日ごろであったという。SPEEDIは文部省が所管し、原子力安全委員会と保安院の緊急時対応センターが評価することになっていた。官僚機構の隙間にこのSPEEDIが落ち込んだことが、誰も気がつかなかったことの一因かもしれない。

計画的避難地域

3月25日頃から福島第1原発は注水を続けることでようやく一定のコントロールの下に置くことが出来、爆発やベントによる放射性物質の大量放散のリスクが下がった。SPEEDIの飛散推測や放射線モニター結果から30km圏外でも放射能汚染が広がっていることがわかってきた。枝野長官は3月29日に立ち上がった「原子力被災者生活支援チーム」に避難指示を見直すよう求めた。「原子力被災者生活支援チーム」は平野内閣府副大臣、松下経産副大臣、細野補佐官、伊藤危機管理監、保安院から深野特別対策監、文部省から森口審議官ららであった。放射線医療の専門家チームもセカンドオピニオンとして加わった。その結果、4月11日枝野長官は、20km圏内は立ち入り禁止の「警戒区域」、20-30km圏内は「緊急避難準備区域」、20km圏外で積算放射線量が20ミリシーベルト/年に達する恐れがある「計画的避難区域」という区分けを公表した。4月10日福山副長官、細野補佐官、松下経産副大臣と福島県に入り、知事、飯館村、南相馬市、川俣町に「計画的避難区域」の考えを述べ、飯館村には全村避難(6000人)を要請した。4月16日福山副長官は飯館村と川俣町での住民説明会に出向いた。積算放射線量が20ミリシーベルト/年が恣意的な線引きだとする非難があったが、国際放射線防護委員会ICRPの勧告では、避難は年間50ミリシーベルト、屋内避難は年間10ミリシーベルト、事故継続緊急時は年間20-100ミリシーベルト(基準はこの最低値からとられた)、事故収束後は年間1-20ミリシーベルト、平常時は年間1ミリシーベルトである。指定市町村は1ヵ月後には避難を完全にやり遂げた。

3) 脱原発への提言

原子力防災体制

今回の原発事故に対して政府の取った原子力防災体制の概要を記す。3月11日の震災発生後、「緊急時災害対策本部」と「原子力災害対策本部」の二つが立ち上がった。3月17日「緊急時災害対策本部」の下に「被災者生活史得チーム」が出来た。責任者は松本防災担当大臣、代理に片山総務大臣と仙谷内閣官房副長官、事務局長に平野内閣府副大臣となった。3月29日「原子力災害対策本部」の下に「原子力被災者生活支援チーム」が設置され、責任者は海江田経産大臣、代理に平野内閣府副大臣と福山官房副長官、事務局長に松下経産副大臣である。総理と枝野官房長官と福山副長官は原発事故対応にあたり、さらに枝野長官は全体の指揮に当たるという任務分担が出来た。「原子力被災者生活支援チーム」の下に3月15日「震災ボランティア連携室」を設置し、総理補佐官として辻本清美議員が担当した。緊急災害対策本部や原子力災害対策本部は全閣僚が出席して開催される。「議事録がなかった」ということで政府公文書管理がクローズアップされ批難されたは、3月末に切れた「旧公文書法」では議事録作成は義務付けられていないのと、経験したことがなかった大災害と国家緊急のときで議事録を作る精神状態になかったことは確かである。議事録は反省とともに今後の課題である。今回の原発事故において「原子力災害対策マニュアル」によれば、オフサイトセンターに災害対策本部を設けて緊急対応にあたることになっていたが、センターが停電で使用できず、現場に近すぎて被曝の恐れがあり、マニュアルは機能しなかった。現場災害対策本部は設置されないままであった。これを「官邸の現場介入」といって批難する向きがあるが、事故では常に臨機応変に対応が求められるので、機能しないマニュアルのほうに問題があったというべきであろうか。メルトダウン、水素爆発、ベント開放のリスクを目の前にしてオフ祭とセンターで指揮に当たることは不可能であった。民間事故調は「原子力行政の推進と規制の区分があいまいで安全規制の無責任体制が生まれた」と指摘する。この反省として政府は2012年1月原子力規制庁設置法案を提出した。三党協議を経て6月に「原子力規制委員会設置法」が成立した。この法案で保安院は廃止となった。新たに環境省の外局に「原子力規制委員会」が設置される。

リスクコミュニケーション

今回の原発事故対応で、科学者・技術者・専門家が合意形成をすることがいかに難しいかが分かった。又被曝リスクにかんする科学的根拠も非常に薄弱である事がわかった。放射線障害に閾値があるのかないのかはいまだに科学の謎である。(私見であるが、基準合意や線引きは科学者に任せておくと緊急時には一歩も前に進まない。何せ反論の可能性が科学の本質であるからだ。) リスクコミュニケーションとは、政府や専門家、企業、国民との間でリスクに関して正確な情報を交換し、共有し、理解を深め、合意形成を図ることである。枝野官房長官の会見とテレビの専門家の意見との狭間で、情報をどう解釈するか国民は迷ったということが実情である。「直ちに人体に影響をおよぼす数値ではない」と官房長官が言っても、それは原爆で焼け死ぬか、放射能で血球が破壊されるということではなく、長期にわたって白血病などのガン化リスクが5%程度上昇するかどうかということである。枝野長官が「安全宣言」をしたわけではない。アスベスト被害と同じく、アスベストを吸って呼吸困難で直ちに死ぬことではなく、20数年後に肺ガン化するかもしれないというセンスである。そういう点で政府は国民とのリスクコミュニケーションに失敗した。又科学者といっても原子力村で養われている学者と原子力村を批難して排除された学者では言い分や解釈に天地の差がある。福島県に入った学者の講演会や指導にとまどう方も多かったに違いない。「大丈夫だ」、「危険だ」の間で揺れ動かされた。今回の事故のメディア情報を見て学者の無力さをまざまざと見せられたり、権威に拠った学者(御用学者)の見解が政治家レベルである事も知った。決して学者だからといって信用してはならない。彼らも金で縛られておりその範囲での発言に過ぎないからだ。

未来の選択ー脱原発依存の道

菅総理は原子力行政やエネルギー政策において従来の自民党総理とは明らかに異質な総理である事を示す発言が多かった。2011年5月6日浜岡原発運転停止要請を発表し実行した。5月10日化石燃料と原子力発電に加え、再生可能エネルギーの利用と省エネルギーによって電力構成を見直すと宣言した会見。7月13日「原発に依存しない社会を目指すべきと考える」と脱原発依存社会を宣言した会見である。この素案は菅総理と総理秘書官が作成した。内容については枝野官房長官と福山副長官、寺田補佐官を中心にミーティングを行なったという。浜岡原発運転停止と他の原発の運転再開をバーターにした経産省のシナリオを蹴って、菅総理は「他の原発は動かす」とは決して言わなかった。これには国民の反応は「よくやった」と賛意が多かった。電力構成の見直しについては、玄場国家戦略担当大臣を中心に「エネルギー・環境会議」を内閣官房国家戦略室に設置し、経産省資源エネルギー庁の独占権限であったエネルギー政策決定過程を破壊した。以降「エネルギー・環境会議」がエネルギーパダダイムシフトに向けて大きな役割を果す。6月より「エネルギー・環境会議」はエネルギー基本計画の見直しに着手し、総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会の構成を原発賛成派と反対派を同数として、枝野官房長官は経産大臣として臨んだ。2012年7月までに総合資源エネルギー調査会は29回に及んだ。議論は航海されている。原発推進派は「日本人はすぐ事故を忘れるだろう」、「電力需給が逼迫し計画停電で脅かせば、原発は再開できるだろう」、「電気代値上げで新エネを粉砕する」という論理である。2012年「エネルギー・環境会議」は国民に次の3つの選択肢を提示しパグリックコメント(2012年8月の纏めでは90%が原発ゼロ)や討論型世論調査を実施した。3つの選択肢とは@原発ゼロ A40年廃炉により原発依存度を2030年に15%程度とする。B原発を維持し2030年に原発依存度は20-30%とする。いずれの選択肢も、再生可能エネルギー比率を30%にする、電力使用料を2030年までに30%削減する事を見込んでいる。2011年通常国会匂において菅総理は「固定価格買取制度法案」の成立を条件に退陣となった。


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