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柄谷行人著 「トランスクリティーク カントとマルクス」
岩波現代文庫(2010年1月) 

「資本―国家―共同体」の関係の本質を解く、カントーマルクスから読み解く

本書を読んでまず感じたことは、なぜへーゲルとマルクスではなかったのかという疑問がふつふつと出てきたことである。ヘーゲルとマルクスは政治経済学でほぼ連続している。カントから書き起こすと「批判哲学」になる。本書はカントの「超越論的批判」によってマルクスの「資本論」を読み解こうとする柄谷氏の意志が明白である。カントとマルクスの共通する「批判」の意味を問うことである。生きた時代はカントは1724-1804年、ヘーゲルは1770-1832年、マルクスは1818-1883年であった。つまりドイツ哲学の系譜にある3人は18世紀後半、19世紀前半、19世紀後半に活躍した人である。本書の主眼は言うまでもなくマルクス「資本論」にある。本書「トランスクリティーク カントとマルクス」は500頁からなる分厚い本で2つの部分からなり、カントとマルクスに別れる。第1部「カント」は150頁、第2部「マルクス」は250頁という頁配分であることからして、カントはマルクスを読む前座の役割、あるいはマルクスの視点を照らすスポットライトの役割といえる。カントは「観念論」、マルクスは「唯物論」といった対極に置くことが一般的であるが、それはエンゲルスが作った「マルクス主義」の投影に過ぎない。マルクスが書いた「資本論」は第1部のみで、第2部、第3部はエンゲルスが書いたものである。マルクスの「資本論」の副題は「国民経済学批判」すなわち古典経済学批判であった。カントは「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」の三批判書を書き、批判哲学を提唱して、認識論におけるいわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。カントの道徳的=実践的とは、善悪の倫理ではなく、自由の問題であった。「自分および他者の人格における人間性を、手段としてではなく目的として行為せよ」という。カントの道徳は漸進的に実践せよという意味で、抽象的であるとはいえアソシエーション(連帯)の実践を要求するのである。だからカントは「ドイツ社会主義の真の創設者」と言われる。他者を手段としてのみ扱う資本制経済において、カントのいう「自由の王国」とはまさにコミュニズムを意味するとされる。共産主義、ユートピア社会主義やアナーキストの主張の先駆をなすが、このような思想は資本制経済の発展の前に消されてしまった。著者柄谷氏は自身をアナーキストと呼び、「社会主義国家」に共感を持ったことは一度もなかったと告白する。にもかかわらずマルクスに敬意をいだいていたという。柄谷氏はマルクス「資本論」は単に経済学の書であるだけでなく、さらには資本の欲動と限界を明らかにし、根底にある人間の交換コミュニケーションに付きまとう困難性を発見する批判の書であるという。資本論には資本制から抜け出す道やユートピア社会コミュニズムは説かれてはいない。それは実践的な課題としなければならないとすると、カントの「純粋理性批判」という書が対極にあるという。柄谷氏は1989年に東欧とソ連が崩壊した時以来、未来について語らなければならないと感じ、カントを考え始めたという。カントは形而上学に対するヒュームの懐疑論を批判した。柄谷氏は嘲笑されてきた共産主義(コミュニズム)という形而上学を取り戻すため、カントの超越論的主体を想定した「純粋理性批判」に着目した。著者は20世紀末から日本でアソシェーショニストの運動NAMを始めた。グローバル資本制の資本ー国家ー国民という三位一体の現状を揚棄する現実の運動が世界で起こっている。果たして本書が21世紀の「共産党宣言」になるかどうかを検証してゆこう。本書は2001年に生産協同組合「批評空間社」から出版されたが失敗し、幻の出版となった。2003年米国MITプレスより英語版として出版された。筆者はこれを「定本」とすると宣言している。そして翌年2004年岩波書店より「定本柄谷行人集」第3巻に収録され、2010年1月岩波現代文庫として刊行された。なお本書「トランスクリティーク カントとマルクス」を一般人にも分かりやすくコンパクトにまとめた形として、またアソシェーションを深めるために、柄谷行人著 「世界共和国へー資本=ネーション=国家を超えて」(岩波新書 2006年4月)という本ができている。私としてはまとめを先に読んでしまったようで、これからもまとめとして引用してゆく。

本書「トランスクリティーク カントとマルクス」の狙いは、「マルクスをカントから読み、カントをマルクスから読む」ことである。カントとマルクスの間には歴然とヘーゲルが存在する。だからヘーゲルを前後の思想家から読むということにもつながっている。1989年の東欧革命は西側ではアメリカの究極的勝利と手放しで喜んだが、新自由主義経済はたちまち破たんをきたし金融恐慌が世界を襲った。その結果社会民主主義的修正がおこなわれ、市場経済を繕った。このような体制を「資本=ネーション=国家」と呼ぶが、ヘーゲルは「法の哲学」において相互連関的な体系において捉えていた。ヘーゲルはイギリスをモデルとして近代国家を考えた。自由・平等・博愛のフランス革命の精神をも統合する感性・悟性・理性的段階の発展の結果、この三位一体的な体制ができ歴史は終了するとヘーゲルは考えたらしい。この「資本=ネーション=国家」体制は中国をも巻き込み、一見未来永劫続くようなグローバル体制となったようだが、果たして歴史は終焉したのだろうか。筆者柄谷氏は歴史は終わっていないことを示すには、「資本=ネーション=国家」を超える社会を示さなければならないと考えている。それにはまずヘーゲル批判から始めるという。本書の隠れた目的は「ヘーゲル批判」である。2003年イラク戦争を遂行するにあたって、米国ネオコンは国連を無視し単独行動をとった。ヘーゲルはカントの言う「国家連合」を否定し、違反する国に対して軍事的に制裁を加える実力を持った国家がなければ夢想であると述べた。カントの「永遠平和」は国家を揚棄する「世界同時革命論」である。柄谷氏は「資本=ネーション=国家」を超える視点を模索してきた。それはまだ萌芽に過ぎず、嘲笑され相手にされないかもしれないが、本書及び「世界史の構造」(岩波書店 2010年)を参考して考えてくれといっているようだ。さてカントに戻ろう。カントの哲学は超越論と呼ばれる。超越的ということは、意識しないような経験に先立つ形式を明るみに出すことであるとされている。カント以前では「仮象」は感覚に基づくものであり誤りを避けることはできず、それを正すのが「理性」であると考えられていた。カントが問題としたのは、理性自身の欲動によって生じ、反省によっては取り除けないような仮象、「超越論的仮象」である。仮象は感覚だけでなく理性にも発生するという。それに打ち勝つには「他人の視線」(強い視差)が必要である。内省に始まり内省の持つ誤謬性を批判したカントの「純粋理性批判」は、客観的あるいは他人性の視点を導入した。マルクスは「ドイツ・イデオロギー」において、先進国イギリスにおいて実現されていることを観念的にドイツで実現しようとする後進国の視差を説いた。そしてマルクス「資本論」の契機は、古典経済学では把握できなかった市場の失敗すなわち「経済恐慌」が資本制の宿命であるという強い視差から出発している。カントがみた「強い視差」はヘーゲルによって「観念論」として退けられ、マルクスの視差はエンゲルスによって消されてしまった。カントやマルクスはたえず「移動」(視点の移動)を繰り返している。見方を変えることが新たな理論への原動力となっている。このトランスポジショナルな批判を著者は「トランスクリティーク」と呼んだ。エンゲルスは「ドイツ・イデオロギー」におけるマルクスの転回を「史的唯物論の確立」といったが、マルクスは国家・資本を「宗教批判」として扱ったのである。資本主義は経済下部構造と言ったものではなく、それは人間の意思を超えて人間を規制する、または人々を分離し結合する力であり、むしろ宗教的な影響力を持つものとしてマルクスはそのメカニズムを解明しようとした。マルクスの「資本論」における大きな転回は「価値形態論」の導入であった。リカードの「労働価値説」に対するベイリーの懐疑から始まった。労働価値説とは「商品には交換価値が存在し、貨幣はそれを表現するものだ」という古典経済学のリカードの考えであった。ベイリーの「労働価値説批判」は、デカルトのコギト(我 自己)は存在しない、ただ多数の自己があるだけというヒュームの批判に相当する。カントは自己は仮象であるが、超越論的統覚であると考えた。著者は経済学の論争をいつも形而上学における論争に例えて、それらの論争の構造を説明するというやり方をとる。

さてここからマルクスの「価値形態論」の転回をみてゆこう。マルクスはリカードとベイリーを貨幣を軽視していると批判した。相対的価値体系にある商品(使用価値)が、唯一つの排他的な商品で示すとき「一般等価価値」すなわち貨幣が出現するのである。価値形式には相対的価値形態と等価価値形態があり、一般的等価形態におかれた物(貨幣)は他の何とでも交換できる権利を持つ。等価形態への人間のあくなき願望(欲動)をマルクスは「守銭奴」と呼び、守銭奴は物を欲しがらず、等価形態というポジションに立とうとする、神学的・形而上学的な超越的仮象をはらんでいる。マルクスは資本制の本質を生産物から利潤を得る産業資本主義からではなく、流通過程で剰余価値を得る商業(重商)資本主義から説くのである。イギリスでは産業革命と産業資本を育成したのは、農村や都市のマニュファクチャではなく、貿易から資本を蓄積した重商資本であったという。資本制の原動力は人々の商品への欲動ではなく、むしろ逆に資本の欲動は貨幣という権利(ポジション)を獲得するために、人々の欲望を喚起し創出するだけなのだという。古典経済学では商品は使用価値と交換価値の綜合であると考えるが、商品は売れなければ(命がけの飛躍ができなければ)ただのゴミにすぎない。売れるということは「信用」という問題につながり、「決済」という最後の審判が待っている。古典経済学(アダムスミス「国富論」に見られるように)は生産過程の重視するあまり、重金主義・重商主義・商業資本・金融資本を否定した。重商主義は植民地政策とあいまって不等価交換によるもので、産業資本主義は公正な等価交換により分業と協業の成果として利潤を得るものであるとした。しかしマルクスは貨幣ー商品ー貨幣G-W-G'という「一般的範式」を根本的に産業資本ではなく商人資本として見た。最初のGを用意したのはそれがイギリスでは商人資本であったという歴史的経緯なのである。商人資本は空間的な差異から剰余価値を得るとしたら、産業資本は技術革新によって異なる価値体系を時間的に創出することで剰余価値を得るのである。それは産業資本が流通過程から剰余価値を得ることを否定するわけではない。要するに資本は空間的、時間的価値体系の差異からそれ自体は等価交換の形を取って(強奪ではなく)剰余価値をえるのである。従って剰余価値は利潤と違って不可視(計算できない)である。いわばブラックボックス中にある。ところがかってのマルクス主義者は供与価値を生産過程における「搾取」に見出す関係に囚われていた。産業資本構造の範疇内でしか考えていなかった。これはリカード派社会主義者の考えであった。マルクスは資本論の中で流通過程を重視している。産業資本の剰余価値は、技術革新の結果売れるという流通過程における価値体系の差異からもたらされる。今後商品化が一層徹底化されたとき、それが資本制経済の破たんにつながる心配は無用で、恐慌のメカニズムが働いてリセットされるのである。国家という経済のプレーヤーを重視したケインズの総需要論により、規制と喚起によるコントロールが可能であることが示された。国家という宗教的共同幻想は信用とか貨幣にある程度の影響力を持つようだ。マルクスは商品交換の発生を共同体と共同体の間に見た。交換形態には次の4つの形態を指摘される。@贈与という互酬制、A強奪性(国家の課税と再分配)、B共同体間の商品交換、C倫理的ー経済的な交換関係(アソシエーション)である。国家は本来収奪(新自由主義者は課税という国家の収奪を忌み嫌う)と再配分の原理に基づく。封建的体制を支えた農村共同体は、資本主義による市場経済の浸透によって貴族制領主とともに衰えていった。政治的には絶対主義王権と商人資本は結託し、ブルジョワジーとして成長したのである。こうして国家と資本が結ばれた。農村共同体はネーション(民族、国民共同体)の中で回復した。こうして近代国家は資本―ネーションー国家という形態で固定した。資本制の危機の過程で必ずと言っていいほど、国家主義(ファッシズム、スターリン主義)が現れる。資本がどうしても市場化できない分野が家族、共同体という非資本制生産分野がある。労働力再生産の源である家族と共同体を最初から前提としている。国家の基盤もそこにある。資本は共同体を均質な一人の個人に分解したが、なお家族に依拠しなければ労働力の再生ができないのである。

資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって各国の経済が圧迫されると、欧州のように国家による再分配・保護の方向へ向かう。資本=ネーション=国家は三位一体であるがゆえに強力であり、社会民主主義・コーポラティズム・福祉国家も結局資本の環の補完体に過ぎない。資本を揚棄することではない。株式会社制は共同組合組織よりはるかに強力であるが、それも資本を揚棄するわけではなく、むしろ日本における法人株式会社(米国では法人株式会社を嫌う)の隆盛に見るように、資本制を強化するものであった。マルクスには単に資本や国家を否定するだけでは不十分であることが分かっていた。マルクスは資本と国家への対抗運動の鍵を「価値形態論」に求めた。商品は相対的価値形態に置かれるもので、貨幣とは等価価値に置かれるものである。資本家や労働者、個人はどこの価値体系に位置するかは複雑である。年金基金は機関投資家によって運用されるが、労働者の年金はそれ自体資本である。個人の株投資、国債、貯金、生命保険なども資本として活動し、個人の金融資産は企業活動に融資され、労働者の生活を圧迫するかもしれない。資本家と労働者の階級関係は錯綜しており、実体的な階級関係という考え方では整理できない。しかし商品と貨幣という非対称な関係は少しも消えていない。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的批判をしなかった。マルクスの倫理学では、資本家も労働者も主体ではなく、置かれた場によって規定される。資本そのものは自己増殖の運動の主体であるがゆえに、資本家は能動的である。つまり貨幣で労働力を買う立場は能動的で、買われる立場の労働者は受動的である。この非対称性は消えることはないので、買われる条件を巡る契約という経済闘争(労働条件)しか残されていない。生産過程において資本家と労働者の関係は「主人と奴隷」である。しかし資本はこの過程で一度は売る立場(相対的価値形態)に立たざるを得ない。ここに労働者(個人)が唯一主体として現れる場ポジションがある。つまり消費者としてである。消費は剰余価値が最終的に実現される場であり、消費者が主体として決定できる場である。生産と消費は貨幣経済において分離しているが、実は労働運動と消費者運動が結びつく場である。それは「市民運動」と呼ばれたり、環境運動となったり、局地的な生産単位、生産体系における労働運動に限定されることなく、普遍的な運動になりうるのである。労働力の再生産としての消費過程は、育児、医療、教育、娯楽文化、地域活動を含めて広範囲に波及する。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党書記長)が文化的ヘゲモニーを主唱したように、労働力の再生産過程を流通過程として、そこに労働者が主体的であるような場が存在する。資本の生産過程における「主人と奴隷」という階級関係は、封建時代の領主と農奴の関係の変形である。農奴は資本によって解放されたが、労働者は商品経済によって物象化されているために彼らを救う手立てはない。資本制経済が根本的に流通過程から発生したことを思い起こそう。労働者が生産したものを、労働者が市場で買うということは、総体として資本が払った労働賃金より高い値段で、労働者に売りつけ回収できるどころか剰余価値を生むということである。流通過程で資本は労働者と二度出会う機会がある。資本が労働力を買う労働市場においてであり、労働者直生産品を売る商品市場においてである。するとそこから出てくる対抗運動の命題は、労働力を売るな、資本生産品を買うなということであろう。しかしそれでは労働者の生活が成り立たない。この命題は「二律背反」で尋常な実践では解消しない。流通過程における対抗運動は完全に合法的であって非暴力的である。ここを攻めることで解決の糸口はないかと著者は夢想するのである。どんな現実的な方法があるというのであろうか。本文をよく吟味してゆこう。


第1部 カント

1) カント的転回

柄谷行人著 「世界共和国へー資本=ネーション=国家を超えて」(岩波新書 2006年4月)はアソシエ―ションに重点を置いて書かれた書であるため、マルクス経済学のまとめにはなるが、カントや哲学についてはほとんど言及していない。私は哲学の抽象論議は苦手なので、理解できないことが多い。理解できる範囲でカントの批判哲学を見てゆこう。カントは「純粋理性批判」において「コペルニクス的転回」を企てたという。意欲的な視点の移動とは、それまでの形而上学(現象を超越しその背後にある物事の本質。存在の根本原理。純粋思惟、直感によって探究する学問。広辞苑第6版)が、主観が外的な対象を模写すると考えるのに対して、主観が外界に投げ入れた形式によって対象を構成するという逆転的形而上学をいうのである。主観(人間)中心主義への転回で、「ドイツ観念論哲学」の祖と言われる由縁である。感覚から出発する「経験論」ではなく、思惟から出発する「合理論」でもなく、先験的対象(経験に先立って存在する)といういわば超越論的な構造である。柄谷氏は無意識について精神分析学のフロイト、ユング、ラカンらの言葉を引用するが、ここでは省略しカントのことばだけを追いかける。人間の主観的能力の限界を超えるという意味で「超越論的」で、主観性の哲学ではなく、モノ自体への転回で、他者を中心とする思考への転回であった。カントの3批判書は、それぞれ科学認識(純粋理性批判)、道徳(実践理性批判)、芸術(判断力批判)を対象とした。どこにおいてもカントは普遍性を要求する。カントが一般性と普遍性を区別したことは近代科学の証明問題に発する。科学認識における実証性の困難はヒュームの懐疑論では、経験の一つから全称命題(普遍性)は導けないとして、法則は慣習的でしかないという。地上にいる限りコペルニクスの地動説は証明できない。仮説として名大を設定した時、より正確に天体運動が記述できるとしても地球が動くことを証明したことにはならない。ギリシャ時代に地球が動くと主張した人がいたが、それはセントラルドグマにはならなかった。ベーコンは実証から帰納して普遍法則が得られるとした。命題の反証可能性を乗り越えたものが真理なのかもしれないが、カントはある命題が普遍的であるのは、アプリオリに先験的に与えられたからではなく、それを反証しようとする他者(批判者)を想定するからであるという。他の主観が賛同する、合意するという共同主観性(共通感覚)が多いから普遍性を持つのではない。カントの時代には形而上学は嘲笑の的であった。形而上学は何ら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように取り扱っていたからだ。それでもカントは「純粋理性批判」において、理性の本性が理性に要求する「超越論的批判」に立ち向かった。他人の視線から考察すると強い視差(矛盾、二律背反)を感じる。反省とは他人の視線で自分を見ることであろう。科学における異論も実践的であるほかはない。それは自然が解明できるはずだという「整統的理念」つまり「理論的信」がなければならないという。自然は自分を語らない以上、科学的仮説(現象)を反証するのは、モノではなく未来の他者が語るのである。その他者を先取りすることを「思弁的」と名付けた。それは仮象であってもなくてはならない仮象「超越論的仮象」と考えた。西洋に自然科学が誕生したのはこのような「理論的信」があったがためである。カントは理論もまた仮象であれ、「理論的信」という信仰がなければ成り立たないとしたのである。

2) 綜合的判断の問題

カントが理科系(物理)出身者だったことはあまり知られていない。そのせいかどうかカントは数学基礎論から科学哲学に詳しい。分析的であるがために確実だとみなされていた数学をアプリオリな綜合的判断とみなした点でカントの特徴が出ている。数学の歴史については「ブルバキ数学史」(ちくま学芸文庫 2006年)に、現代構造主義数学の立場からかなり難しい解説がなされている。ライプニッツは「自同的真理に還元できる」分析的判断のみが真理であると考えた。つまり矛盾律d家で証明できる判断である。カントはヒュームの懐疑論を批判して、「彼は純粋数学は分析的命題だけを含むが、形而上学はアプリオリな綜合的命題を含むという過ちを犯した。数学は形而上学と全く同じに総合的認識とみなさざるを得ない」といった。ユークリッドの「原理」以来、数学は定理が一定の公理から矛盾なく導き出されることにあった。これでは多様な数学の展開は期待できない。カントが数学を総合的判断とみなそうとすることは、プラトン以来の形而上学を批判することであった。例えばユークリッド幾何学の第5公準である「平行線公理」から、3角形の内角の和が180度より大きくてもいいとすることからリーマン幾何学(球体では経度をなす平行線は極地で交わる)が組み立てられ、180度より小さいということからロバチェフスキー幾何学ができたのである。カントは公理への考察から、数学を論理学に還元することに反対した。今日ラッセルの「形式論理学」数学はすでに破たんした。20世紀の数学は論理主義、形式主義、直感主義に別れるという。直感主義は有限的立場で無限判断を拒否する。無限に関しては排中律(AであるかAでないかの二つのどちらかしかない)は証明できない。反証可能性が永久に残るからである。形式主義は20世紀初頭のヒルベルト「幾何学原理」に始まる。ヒルベルト著 中村幸四郎訳「幾何学基礎論」(ちくま学芸文庫 2005年)、およびゲーゲル著 八杉満利子訳「不完全性定理」(岩波文庫 2006年)の論争が興味深い。ヒルベルトは3つの判定基準として、完全性、独立性、無矛盾性から判断する。有限の立場を取りながらかつ数学を直感的自明性ではなく、理論の無矛盾性によって基礎づける考えである。ところがゲーデルは形式主義を前提とする限り矛盾に陥ることを証明したと称する。それも形式主義の論理で内側から破ったのである。形式的な公理系で数学を基礎づけることは、分析的判断で形而上学を組み立てるようなものである。カントが否定しようとした最大の論点である。ゲーデルが公理主義の体系を「決定不能性」を証明することで内側から自壊させたのに対して、言語学者ウィトゲンシュタインはヒルベルトとゲーゲルの論争が証明という手段に依っていることを根本的に疑った。数学を多数の証明体系の束とみて、その間の翻訳規則の関係を構造論的(群論)に見ることが現代数学の基礎論である。ウィトゲンシュタインはラッセルの集合論によって数学を基礎づける論理学に反対した。数学の多数体系は相互に翻訳可能であるが、共通項を一つも持たないだけである。類似した関係をウィトゲンシュタインは「家族的類似性」または「言語」と呼ぶ。ベクトル(幾何)と行列(代数)の関係がそうである。ウィトゲンシュタインは形式主義を批判するが、それは証明という規則に従っていることに疑いを入れているのである。プラトン(ソクラテス)の「対話」もルールを共有している点を暴露した。規則が同じであれば必然的にそうなることを暗黙の了解としているからである。そうすればそれは対話ではなく、自己対話(内なるもう一人の自分との対話)に変形されるからだ。ウィトゲンシュタインはこれを「独我論」という。ソクラテスの理性とは「対話」を経たものであって他者が存在しない。カントは綜合的判断が普遍的であるのは、同一の規則を共有する他者ではなく、違った規則を持つ他者の反証を予期しなければならないとした。共通の規則を持たない他者とのコミュニケーションとは「教える―学ぶ」関係となる。外国語学習がそれである。ウィトゲンシュタインが他者を導入したのは、「教えるー学ぶ」という非対称な関係を導入したということである。経済学でいう「売る立場」と「買う立場」に非対称性にあたる。言葉を理解しない外国人は「恐るべき懐疑論者」として現れる。言語体系の本質は、その素材(音声、文字)と無関係なことである。言語はルールという言語ゲームである。文法はルール(規則性)であるが、ネイティブはそのルールを全く意識しないで言葉を操る。文法は外国人が学ぶときに便利なだけであるという。そういう意味でウィトゲンシュタインはカント的である。純粋理性批判において、カントは超越論的主観(統覚)のもとに認識(綜合的判断)が成立すると論じている。主観(統覚)は他者の存在を前提としている。見方によって世界が異なることは自然科学の常識となった。特に現代素粒子論の混乱は、中間子論が出たころは牧歌的に楽天的だったが、その後の核物理学が進むにつれて次々と新粒子の予言発見があらわれ、ヒッグス重力粒子もでてきて統一像ができないくらいである。


第2部 マルクス

柄谷氏の本論であるマルクスに入る前に、柄谷行人著 「世界共和国へー資本=ネーション=国家を超えて」(岩波新書 2006年4月)より、マルクス経済学のまとめをしておこう。第1部 「交換様式」において、 マルクスは「経済学批判序説」で、個人と個人の商品交換から経済を説き始めたアダムスミスに対して、近代社会でのあり方を原始段階に投影するようだと批判し、「生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっている。物質的生活の生産様式は,社会的、政治的、精神的生活過程一般を制約する」という有名な唯物論を展開した。マルクスの誤謬は、国家が経済を下部構造とする上部構造にあるとした点である。経済的構造と政治的構造は実は別ちがたく結びついている事を見逃している。国家も「生産様式」のあり方の一つといってもよい。マルクスは人間が自然に働きかけて財を生産する事を重視した。柄谷氏は「本来、生産様式とは、生産が交換や分配の形態でなされる事を意味する」といい、マルクスの「生産様式」が交換や分配を生産のあとの活動とみているという。柄谷氏の見解は、マルクスの「生産様式」は「交換様式」と読み替えるべきだとする。交換様式には、A:互酬(贈与返礼)原始共同体、家族、B:再分配(略取と再分配)貢物制国家、世界帝国、C:商品交換(貨幣と商品)資本制の3つの様式がある。岩井克人氏も贈与から貨幣への飛躍に注目した。マルクスは広い意味の「交換」を「交通」と呼んだ。マルクスの「交通」とはモーゼス・ヘスの言葉である。人間の自然への働きかけの視点から「生産」を捉えたマルクスは、資本家は労働者を搾取するだけでなく、いわば自然を搾取(開発)するという考えに立つ。 マルクスが「資本論」で展開した「資本制に先行する生産様式」として5つの歴史的段階(経済的社会構成体)を、先の3つの交換様式との関連を見よう。下表は社会構成体と交換様式を示す。1、氏族的社会構成体は未開社会とは違って、互酬を基本とするが略取・再分配や商品交換も含み、国家への発展を秘めた段階である。2、アジア的世界帝国とは、いわゆる古代文明として,エジプト、メソポタミア、インダス、黄河流域に展開した灌漑農法の「貢納制生産様式」である。自然と人を支配する技術をもって、都市国家が整えられた。支配の代わりにライフラインの整備と安全を保障する交換(契約)の上になりたつといえる。3.古典古代的奴隷制とはアジア的世界帝国の亜周辺において成立した都市国家である。ギリシャ・ローマ共和国では部族的互酬も保持して、徹底的な民主制をとった。奴隷制と交易経済が発展した。4.ゲルマン的封建制とは、都市国家と同じようにアジア的亜周辺において発生した。西ヨーロッパや日本がそうである。世界帝国のような中央集権制官僚国家をつくらず、分割された領主国家で土地の私有と商品交換が進んだが、略取・再分配が支配的であった。5.資本主義的な社会構成とは、商品交換が支配的である社会のことだ。絶対君主のもとで中央集権制官僚と軍隊を備えた。絶対王政が破棄された市民革命後の国民国家のあとも国家(軍隊と官僚)は存在し、略取・再分配は続くし、福祉国家のなかに互酬関係は生きている。ウヲーラーステインは資本制以前の世界を「世界帝国」と呼び、資本制以降の世界を「世界経済」と呼んでいる。本書はその区分けに従う。15.6世紀に成立した世界市場のもとで、多数の切り離されていた世界帝国が相互につながれ、またその内部で多数の主権国家が生まれる過程を追うことになる。著者は本書は歴史ではなく、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することが自分の関心事であると宣言する。現代数学における関数論と同じスタンスである。興味は関係の様式であって、個々の事象ではないということだ。

第2部 「世界帝国」 において、原始的段階を考える人類学研究は多くの未開社会を研究対象としてきたが、「文明に取り残された未開社会」という概念は、即原始的社会を意味するものではない。未開社会は国家への発展を拒むもので、共同体の恒常性(定常均衡)を維持するために十分な条件を備えていたがためにあえて文明(国家)への選択を拒否した共同体である。つまり外の国家から孤立して存在し、互酬の原理を持ち平和的で豊かな狩猟採集が可能な自然条件が備わっていたのであるとされている。従って人類学的研究成果を原始社会に当てはめるわけには行かない。原始社会は否応なく他の国との関係で変容し、互酬以外の交換様式を持っていったと思われるが、理論的な想像力で原始社会段階を推定するしか方法は無い。商品交換は共同体と共同体の間で始まった。略奪ではなく商品交換が成り立つのは自由な合意による交換である限り、国家の保証なしには行えなかった。国家が商品交換の原理を取り込み共同体が解体されるのは、近代国家と市場経済が確立する15.6世紀の事である。国家(政治)と商品経済(経済)は相補的(並行的)に進行した。マルクスはリカードやスミスら古典経済学の労働価値説を引き継ぎそこから剰余価値説を引き出した。マルクスは商品交換の起源を,それが共同体との間で起こったと強調した。生産物交換が共同体間で起きたように、国家も共同体の間から発生したと考えられる。国家は共同体が「成長して」来たものではない。ひとつの共同体が他の共同体を支配し,それ以外の暴力を禁じることで国家と法の支配が始まった。暴力は略取の手段であるが、暴力があるところでは交換は成り立たない。暴力を制する力が支配国家であった。内的には支配する側と収奪される側の関係が持続的であるためには、略取ー再分配があたかも互酬であるかのような擬制が必要である。これも交換様式である。国家は他国(仮想敵国)を想定することなしには存在し得ない。これを国家の自律原理という。 アジア的世界帝国という術語で呼ばれる「東洋的専制国家」は中国の秦や漢王朝を考えると分りやすい。専制的な皇帝と官僚機構・常備軍の存在によって、支配者側の共同体は消え、中央集権化が推進された。ところが被支配者側の共同体は賦役・貢納の義務を払えばそのまま残った。マルクスはこれを「全般的隷従制」と呼んだ。賦役・貢納と保護・文明との交換によって多くの周辺国家を支配し帝国になった。専制を支えたのは皇帝の賢政というよりも官僚機構の専制支配であった。アテネの民主主義は農民・戦士共同体の互酬原理であった。そこには部族共同体の平等主義が貫かれており、モンテスキューは「くじ引きこそ民主主義」という。ヨーロッパの封建制はローマ帝国の亜周辺であるゲルマンの部族社会において発生した。主君と家臣の関係は双務的であり、互酬的であった。主君の絶対的権力を許さない多中心的な分散した国家が形成された。そして絶えず戦争状態にあった。日本の戦国時代がその極である。封建制は土地を持つ自由な農奴による農業共同体であった。封建的共同体を解消させるような強力な絶対主義的王権国家が成立するまで続いた。西ヨーロッパにおいて自由都市(フィレンチェなど)を可能としたのは封建制つまり帝国の弱さから来ている。自由都市を拠点として宗教改革や市民革命がおきたのも封建性権力の弱さのおかげであった。ロシアや中国のような皇帝専制権力の圧倒的に強いところでは市民は育たなかった。日本において明治維新の革命が起きたのも封建権力(徳川幕府)の脆弱性があったためである。日本の地理的位置も微妙に影響があった。朝鮮のような中国王朝の周辺国家では王朝の支配が強力で中国と運命をともにしたが、日本は中国の亜周辺にあったために帝国の文明を選択的に受け入れ、それに従属しないということは日本民族の特徴ではなく,亜周辺国家の特典なのである。東欧が常にロシア帝国の支配を受けソ連の衛星国家たらざるをえなかったのは、韓国とおなじ周辺国家であったからだ。

第3部 「世界経済 」において、ウォーラーステインがいうところの、資本制以降の世界である「世界経済」について、国家・資本・共同体(国民)を統合的に扱うことになる。「世界帝国」では互酬・略取と再分配・商品交換という交換様式が接合されて存在していた。世界商業と世界市場が16世紀に近代的資本主義を生んだ。離れていた数多くの「世界帝国」の経済圏が結合され、1国だけでは近代国家や資本主義は考えることは出来なくなった。国家に関していえば西ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権国家)は世界中の主権国家を生み出した。この主権国家と資本主義市場経済をウォーラーステインは「近代的世界システム」と呼んだ。オスマントルコに滅ぼされるまで東ローマ帝国は依然「世界帝国」であったが、西ヨーロッパに始まる絶対主義王制国家が近代的武力を独占し、商品交換を求めて世界市場に向けて侵攻し始めた(大航海時代)。絶対主義国家は「世界帝国」と同様な官僚制中央集権制と常備軍を形成した。それにより内部の封建諸侯を解消し均質な共同体国家を作った。国家が略取ー再分配という交換様式を独占したことから、国家の自律性が高まり、政府や国民の意思とは別の意志を持つようになった。市民革命後は国王は姿を消したので、国家と国民の関係は、経営者と株主との関係に似ている。ホッブスの「社会契約説」は国内だけを見たもので、国家と政府を混同するものである。国家の根底には「暴力」があり、「服従と保護」の互酬という交換関係がある。市民が主権者になるとその辺が曖昧になっている。国家の自律性とは他の国家に対して存在する位相において見出されるもので、軍と官僚機構が国家の実体である。シヴィリアンコントロールとは市民が国家権力を握ったときに官僚を制御することである。官僚の動きは政府の動きとイコールではない、議会制民主主義が官僚によってコントロールされているのが現状の政党政治である(官僚内閣制)。政治筋とは官僚のことで、政府高官ではない。日本は定めし「官僚のための福祉国家」といえよう。絶対主義王権の時代に「重商主義」という交易が盛んになった。これは商人資本が世界各地の価値体系の差異から剰余価値を見出したが、世界市場が形成されるとこのような差異はもはや利潤を生まない。そこでマニファクチャーにおける分業が機械化を生み、近代科学を利用した産業革命の時代へ突入し、産業資本が国家の育成の下で成長した(日本の国営産業と払い下げがその典型)。ところが手っ取り早い略奪という「植民地主義」やアメリカの「奴隷制」、「農奴制」も近代世界システム」の中の一部をなした。初期資本の蓄積過程ではなりふり構わない生産様式があったのだ。21世紀の新自由主義でも資本は安い労働力を求めて、「派遣労働者」という現在の奴隷制が存在する。マルクスは労働に剰余価値を見出したが、すると労働者は安い商品でいいのかといえば、じつは労働者は生産物を買う消費者である点が重要なのである。この点が産業資本が商人資本と決定的に違う点である。産業資本は国内市場を作ったのである。剰余価値の本質は実はこの点にある。労働の再生産は「殺さぬよう、生かさぬよう」では、あこぎな一企業の生き残り戦術に過ぎない。剰余価値の創造とはその生産物が流通過程で売れることである。これをマルクスは「相対的剰余価値」と呼んだ。産業資本の剰余価値とは、労働者が労働力を売りその生産物を消費者として買うことが広い意味での「流通過程」である。「自己再生的」システムを形成したことによって、商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹した。労働者が豊かにならないと産業資本は困るのである。根本的には、資本制経済は技術革新ー労働生産性の向上という差異化なしに存続することはできない。産業資本を生産点における「搾取」と見たのでは産業資本の本質は理解できない。信用失墜は資本のリスク管理であり、「流通過程」における労働者の反抗とは「ボイコット」不買運動である。これが資本にとって一番こたえるのである。

1) 移動と批判

マルクスは膨大な著書を残したが、それらは基本的に断片であって哲学・経済学・社会主義という風にまとまった内容ではない。マルクスの遺作を体系化しようとしたのがエンゲルスであった。弁証法的唯物論(論理学)、自然弁証法(自然哲学)、史的唯物論(歴史哲学)、経済学と国家論(法哲学)、文学・芸術論(美学)として完成させようとした。マルクス主義それ自体がマルクスのものかどうか怪しいのである。マルクスが書いたのは「批判」だけであって、体系的にまとまった構想はもともとなかった。資本論の副題が「国民経済学批判」であった。従ってマルクスは根本的に「批判」というテキストとして読むことが重要なのである。マルクスは徹底的に主体を疑い、それを関係構造の産物を見てきた。マルクスの視点は「批判的場所」(地理的な場所ではない)において移動する。決してケーニヒベルグから動かなかったカントとは対照的である。資本論はロンドンにおいて書かれた。マルクスの資本主義研究はロンドンの図書館で生まれ、イギリスの産業革命と議会制を抜きには語れないのである。ましてレーニンのロシア革命とマルクスは無縁であった。マルクスは1843年パリに亡命し「経済学・哲学草稿」を書いた。それは青年ヘーゲル派のフォイエルバッハの宗教における自己疎外論に影響され、貨幣・国家に転化した考えであった。亡命地ブリュッセルではエンゲルスとともに「ドイツ・イデオロギー」を書いた。カントの「コペルニクス的転回」とは、主観が対象を受動的に受け取るという考え方から、対象が主観の形式によって能動的に構成されるという考え方に転換したという意味であった。そしてカントは何度もコペルニクス的転回を図り、批判は絶え間ない移動を孕んだ。決して安定しなかった。これを柄谷氏は「トランスクリティーク」と呼んだ。これが本書の趣旨である。マルクスの転回についても同じことが言えるので、第2部ではこれを丁寧にみてゆきたい。本書の特特色かもしれないが、マルクスのテーゼが何十回と繰り返し現れる。理解の為であろうが、くどい。このレフレインを省いたら、本書は半分で済んだろう。最初の転回は青年ヘーゲル派フォイエルバッハ批判である「聖家族」、「ヘーゲル法哲学批判序説」、「ドイツイデオロギー」に見られる。宗教という神聖な自己疎外という仮面がはがれて、地上の人間の自己疎外の仮面をはぐことが哲学の課題となった。宗教のことは「法批判」に、神学の批判は政治の批判に代った。「ドイツイデオロギー」の著者はエンゲルスでマルクスは加筆しただけという考証がある。エンゲルスは「史的唯物論」の構想をマルクスの功績にしようとしているが、これはマルクスの死後「マルクス主義」なるものを作り上げるためであったとされる。マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、宗教革命のような上部構造が産業資本主義の形成に力があったといったが、マルクスはけっして「史的唯物論」とは言わなかったものの経済的下部構造が上部構造を規定するという見解を堅持していた。エンゲルスが獲得した史的唯物論は産業資本主義の確立と共に出てきた歴史の見方である。しかし史的唯物論が資本主義を解明することはできない。資本制商品経済ははそれ自体で世界を構成する力を持っており、それはある意味で観念的な力であるので、決して下部構造ではない。そういう見方をしてきたのはヘーゲルであった。マルクスが1850年「経済学批判」に着手すると、ヘーゲルに立ち戻った。エンゲルスが史的唯物論の構想を得た時、マルクスは宗教批判に固執していた。資本論はその延長で書かれ、国家や貨幣は特別な宗教であると考えていたようだ。マルクスの批判は考えていること(悟性)と現にあること(感性)のギャップ意識において現れる。ドイツを外から見て「ドイツイデオロギー」を書き、フランスを外から見て「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を書いた。たえざる移動の視点である。

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」はある意味で「フランス・イデオロギー」といえる。ドイツ・イデオロギーはすべてヘーゲル的思弁の意匠で語られるが、フランスでは政治的党派という実践で語られる。1848年の革命は1789年のローマ的意匠のもじりに過ぎなかった。そしてまたナポレオンが登場してしまったのである。歴史は繰り返すというが、絶対王政ー革命ー独裁制(皇帝)の芝居が暗示にかかったように演じられた。ブリュメールは過去の亡霊であり観念が支配したのであった。「悪魔のように生ける者の頭脳を押さえつけた」といえる。しかしマルクが注目したのはこうした過程が議会制(代表制)の中で生じたことである。普通選挙に基づく議会では、代表は「擬制」に過ぎない。無記名式投票なので代表する者と選挙民との間に必然的な関係はない。その関係は本来的1対1の関係ではなく、不定と言ってもよく恣意的ともいえる。つまり代表は選挙民と関係なく大幅な自由裁量権が与えられている。選挙民は自らを代表することはできず、誰かによって代表されなければならない。代表者は選ばれたのちは無制限の統治権力として立ち現れる。議会制選挙は一体何を選んだというのだろう。ヒットラー政権も代表民主主義の中から選挙によってえらばれている。我々は従順な公僕を選んだのだろうか、はたまた専制独裁者を選んだのだろうか。選挙における顔(マニフェスト)と選挙後の顔(政策)は別の顔であってもいいらしい。議会(立法)と大統領(行政)の2重性権力は、つねに国民投票に訴える。人気を博したものの勝ちに終わる。そして専制政治となった。この問題はすでにルソーがイギリスの議会制度を批判していた。ルソーはギリシャの直接民主制(国民投票)を範とした。それは一般意思を議会とは違った行政権力(官僚)に見出すヘーゲル主義か、国民投票にもとめて議会の代表制を否定することになる。資本は国家と一体化し、ブルジョワ経済が行き詰まると、国家機構は「皇帝」のような指導者の下に介入するのである。ブルジョワは議会を通じて支配するわけではなく、個人を分解し平等な均質な個人に還元する。階級関係や支配関係を隠ぺいするのである。資本制企業に民主制はありえない。人々が自由なのは選挙の時だけで、選挙は実際は国家機構(軍・官僚)がすでに決定したことに、公共的合意を与える手の込んだ儀式(ガス抜き)にすぎない。マルクスはドイツのイデオローグに対しては経験論的な視点、フランスのイデオローグに対しては経済的な視点をもってきた。いずれもイギリスに支配的な視点である。古典経済学者もヘーゲル左派の社会主義者も社会と歴史を経済的にみていた。マルクスがイギリスで出会ったのは革命ではなく、恐慌であった。古典経済学は労働価値説によって重商主義の貨幣への執着を否定した。貨幣は交換の媒介に過ぎないとみなしていた(リカード「経済学及び課税の原理」)。マルクスは資本論第1巻で「貨幣恐慌の発生するところでは、商品の使用価値はゼロとなる。貨幣こそが商品になる。世界市場の心は唯一の富である貨幣をもとめ叫ぶ」と、古典経済学の考察には貨幣が欠けていることを批判した。資本とは自己増殖する貨幣である。G-W-G'(貨幣―商品ー貨幣)という商人資本とともに、G-G'といった金融資本が可能になる。分業と交換の拡大が資本(貨幣)の自己増殖の運動となることをリカードは見落としていた。モノが売れるというW-G'には「命がけの飛躍」と「信用」というシステムが必要である。恐慌は信用の過熱の結果として、金がなくなって決済ができなくなったことである。そこでリセットするために徳政令儀式(恐慌)が必要となったのである。マルクスは利子生み資本G-G'(金融業)について、運動を規定する自己目的が使用価値ではなく、交換価値であることに着目して、「資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしに金儲けをしようとする誘惑、周期的に襲われる」(資本論第2巻)と述べる。恐慌は資本制経済に固有のやまいであるが、それが解決策でもあり、それによって経済体制が崩壊することはない。資本はヘーゲルの精神に類似する。貨幣を蓄積しようとする資本の欲動を暴露した資本論とはヘーゲル法哲学批判であるわけだから。カントのことばでいえばその限界を超えて自己拡張しようとする資本=理性へに批判である。資本論を、資本=理性に対する超越論的批判として読むべきだと柄谷氏は強調する。

マルクス資本論は実に多くのものを古典経済学から継承している。だから古典経済学から見ると資本論はリカードの変種を見るのが常である。しかし資本論冒頭の「価値形態論」はリカードの労働価値説に対する新古典派の祖ベイリーの批判を深刻に受け止めることから始まっている。資本論がマルクスの以前の仕事と決定的に異なるのは、価値形態論の導入である。マルクスは「人はすべてを行為する諸個人の意思から説明しようとするが、諸関係の客観的本性によって必然的に生じることを見逃している。」という、いわゆる経済関係の下部構造主導を強調する。観念論に対しては歴史的必然性を、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的運動を強調することがマルクスの批判のやり方である。マルクは常に移動している。強調するポイントがいつも移動する点では、福沢諭吉にも共通する。論点が移動する問題では、マルクスのアナーキストに対する態度がそうである。バクーニンらのアナーキストにはマルクスは国家主義者・権威主義者に映るようである。マルクスは「ゴータ綱領批判」において、生産協同組合運動を否定したとみなされているからだ。ブルードン主義者の私有財産の廃棄=国有化という図式は間違っている、国家の廃棄でなければならないとマルクスはいうのだ。スミスの古典派経済学がいう労働価値を正当な利潤の源泉としたのに対して、プルードンはそれを「盗み」と言った。リカード左派はそれを「剰余価値」の搾取と呼んだ。19世紀において労働運動と共同組合運動はイギリスに始まった。1830年代のフランスには産業資本も産業労働者もいなかった。サン・シモン主義は国家が産業を興し労働者に富を分配するコーポラティズム、ラサールは国家社会主義を提唱したが、いずれも力はなかった。ドイツにはさらに産業資本も社会主義運動も不発であった。ヘーゲル左派とはフランス社会主義の影響下で生じた哲学者の運動に過ぎない。ヘーゲル左派の主導者がフォイエルバッハであった。プルードン、シュティルナー、バクーニンらのアナキストの主張は異なるが、いずれも産業資本主義の発展の中で消え去った。おもしろいことに株式会社制度を私有財産の否定と見るような稚拙な見方も存在した。フランスにおいては小生産者しかおらず、大規模産業資本も経験していないような状況で私有財産の否定や共同生産組合といっても、現実味のない想像上の戯れに過ぎなかった。1850年代にイギリスのロバート・オーウェンによって生産協同組合が構想された。マルクスはこれには賛同し資本的生産を揚棄するものとして評価した。共産主義を国有化による計画経済と思い込んでいたエンゲルスらのマルクス主義者は、生産協同組合を否定し、マルクスのアソシェーションの考えを無視した。ブランキの前衛党構想や、バクーニンの秘密結社風の地下集権組織については1850年以降マルクスは次第に離れていった。コミュニズム=国家集権主義という考えは、根本的にエンゲルスのものであり、マルクスは一度も革命を叫んだことはない。小生産組合的運動は大規模資本の前には消滅する運命にあった。つかの間の夢であった。

2) 綜合の危機

資本論はマルクスの仕事の最高の到達点である。資本論は経済学の書であるためか、マルクス主義者はあまり資本論に関心を寄せない。マルクスの政治学や哲学を求めてきたといえる。しかしマルクスの哲学や国家論はむしろ資本論にこそ真髄が見いだされるのである。経済学は人間と人間の交換行為を解き明かすものである。古典派経済学は産業資本主義の市場経済というイデオロギーを流布したが、利子資本(金融)においては、資本の自己再生産的性格、自己増殖する価値、剰余価値の生産が如実にみられる。アメリカは1980年来製造産業を見切って、金融産業に特化した。目的は貨幣であるから、モノ作りか投資の利子稼ぎかは手段に過ぎないとみている。資本主義的生産の推進的動機は流通過程での金儲けにある。生産過程は商品を流通過程に送り出す不可避で面倒な手段だという考えにある。マルクスは若いころから経済的世界こそ宗教的世界に他ならないと見抜いていた。単なる商品に魔性(神学と形而上学)が潜んでいる。アダム・スミスは、商品とは使用価値と交換価値であるという。彼は交換価値とは購買力のことで、つまりは貨幣のことである。そしてその交換価値は生産に要した労働時間によって決定される(労働価値説)。マルクスは商品の使用価値と交換価値を否定するものではなく、それらの綜合として考えるのである。マルクスは商品が売れる前を考えた。売れる前には、この綜合が達成される保証はない。達成されなければ商品はただのゴミである。カントは「判断力批判」において、「規定的判断力」と「反省的判断力」を区別している。この場合綜合的判断の困難は後者の方にある。カントにとって総合的判断でしかありえないことを分析的判断によって証明するのが形而上学といい、事後的にしかないものを事前に投影してしまう思考法である。ヘーゲル主義は「絶対精神」という事後的な綜合により、ものは精神の自己実現としての目的論的に捉えた。これに反対したのがマルクスとキルケゴールである。キルケゴールは同時代的に、いまここにいるみすぼらしい人間イエスを神と見ることには大変な困難(命がけの飛躍)が必要だという。これを「質的弁証法」と呼んだ。マルクスは商品を使用価値と交換価値の綜合で見た場合、商品が使用価値を生むにはまず商品が交換されなければならない。これをマルクスは「W→G 命がけの飛躍」と表現した。マルクスは古典派経済学の価値の実態が労働時間であるにしても、それは社会的な労働時間であるという。つまり商品経済が形成する社会的分業は共同体あるいは工場における分業とおなじであるという。生産物商品は交換において価値として等置させることで、貨幣という社会的な形象文字に化けるのである。つまりマルクスは労働価値説を否定はしない、それは事後的に成り立つことであるとする。世界経済における競争は労働生産性を巡る戦いであるが、そこに資本、貨幣を巡る競争を見なければならない。貨幣は商品を買うことができるが、太古の昔でない今日では物々交換はない、すなわち商品で他の商品を買うことはできない。資本論は貨幣の購買力を労働価値説と関係なく取り扱う。貨幣を「価値をまさに交換価値とする価値形態」とするのである。従って価値形態ー相対的価値形態と等価価値形態ーに分ける。貨幣は一般的な等価形態の位置を占め、他の商品は相対的価値形態に置かれる。商品には内在的な価値があるって貨幣はそれを数量的に表現したとする古典派経済学(スミス、リカード)とは逆の立場にたった。ベイリーはリカード批判において「価値は、何かしら絶対的内在的なものを指示するのではなく、二つの対象が交換されうる商品として相互に立つ関係に過ぎない」という。例えば千円の靴と1000円の肉の間に等価な内在的価値の関係性を見つけることはできない。マルクスはベイリーの発見に震撼されて、商品間の価値関係はなく、すべての商品が相互に関係しあうのは貨幣を媒介することによってのみであることを発見した。新古典派のワラルスは、貨幣は価値尺度または交換手段でしかないという貨幣の中立性のもとで市場が成り立つという一般均衡理論を提出した。ヴィクセルは貨幣の中立性を疑い、利子率の乖離という貨幣経済の不均衡性を主張した。マネタリストのハイエクは、市場は一般均衡理論では片付かない分散的で競争的な場であると指摘した。

マルクスの価値形態論は、アダム・スミスが「国富論」において貨幣の起源を物々交換に求めているのに対して、超越論的に考察したものである。スミスは貨幣の起源から交換関係の対称性が自然であるかのように述べている。しかしそこには貨幣を介して非対称的な価値形態(相対と等価)が存在する。産業資本主義的経済における階級関係とは、売りと買い、商品と貨幣の非対称性関係によって形成されるのである。マルクスは商品交換が決して対称的でないことを、経験的ではなく超越論的に発見した。交換過程が発生する場は、共同体と共同体の境界である。共同体内(国家内)では家族的な「贈与の互酬性と再配分」が行われているが、境界では貨幣や信用による交換が原則である。この世界はもはや経済的というより宗教的な構造である。交換過程のは3つの交換形態がある。@贈与の互酬性、A国家による収奪と再配分、B貨幣による商品交換である。資本主義的生産には、非資本主義的生産を根本的に含んでいる。市場経済がいかにグローバルになっても解消できない労働の再生産であり、それは人間的でかつ購買力・消費の源である。商品交換の非対称性から階級が分離する。新古典派経済学は階級関係(カテゴリーの主体)を見ないで、市場の利害関係者として単に消費者と企業を経済主体とする。古典経済学が貨幣を重視しなかったのは、当時の重商主義が貿易による貨幣の蓄積を目標としていたからである。貨幣蓄積を目的とする重金主義の錯覚は、貨幣をひとつの社会的生産関係を表示するものとはみなさないで、一つの属性を持つ自然物のような形態とみたからである。マルクスは資本とはG-W-G'(G+ΔG)という自己増殖運動とみた。産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って「市場経済」という言葉を使う。それは市場の取引が同時に資本の蓄積過程であることを隠ぺいするためである。資本主義の貨幣蓄蔵フェティズムは、平素の禁欲主義の福音と相まってもう宗教であるという。マックスウエーバーのピューリタンの禁欲主義とは「合理的な守銭奴」である。産業資本主義が優位に立った時代の古典経済学者において見失われたものは、商品経済が持つ神学的性格である。宗教は民衆の現実的不幸から実践的に「幻想的幸福」をもたらすものであるとすれば、貨幣はまさに神の位置を占める。マルクスは「経済学・哲学草稿」において、貨幣は共同体を解体し個々人を非対称的に結びつける神秘性をもつという。これはマルクスがフォイエルバッハの「キリスト教の本質」の論理を貨幣に適用したといわれている。筆者はむしろカントの「サブライム論」すなわち「崇高」という感情からきているとするのである。しかし経済学に関してはカントはスミスの「労働価値説」に立っていた。つまり手段としての貨幣にとどまっていた。カントは道徳の本質を「自分自身と他者の人格における人間性を手段としてではない、同時に目的として行為せよ」という。他者を手段と見る考えは分業と交換において成立する社会的な生活である。スミスも「道徳感情論」において個人のエゴイズムを肯定したうえで、同情あるいは他人の目で見る観点を導入した。自分も幸せになると同時に他人も幸せにできるのが経済学の目的であるという崇高な考えに至った。ということで共産主義は資本主義の運動に付随し、資本主義それ自体が生み出す対抗的運動として存在するのである。カントは事後的なものを事前に投影する形而上学を退けた。だが同時に将来に目的論な想定をすることが不可欠であることを認め、それを「超越論的仮象」と呼んだ。資本主義経済を支えるのはこうした超越論的仮象としての「信用」である。信用制度は資本の運動の回転速度を上げかつ永続化する。決済を待たずして次の投資でさらに資本を増やすことができる。それが信用貨幣である(中央銀行券、紙幣)。銀行は預金口座にょって信用を創造する。信用を継続させようと各国が努力している間は、不換紙幣である基軸通貨(ドル)は流通するのである。資本の自己増殖運動を促進し、売りの危うさを減殺する「信用」が資本お運動を無限に強制する。そして次にやってくる恐慌は信用の崩壊である。恐慌は資本主義的な解決法、景気循環の過程の一部に過ぎない。恐慌の後の不況は、資本と労働の暴力的な再編成なのである。経済を動かしているのは理念ではなく、現実的な必要性や欲求ではなく、交換そのものに胚胎する信用という形而上学であり神学なのだということがマルクスのテーゼである。

3) 価値形態と剰余価値

イギリスで資本制生産が始まった時、すでに信用体系は出来上がっていた。株式会社も存在していた。初期の産業資本は問屋制工業を始めた商人であった。初期資本の蓄積は貿易から上がった利益をもとに形成され、商人は莫大な利益を上げる製品の国内生産を開始した。これが産業資本の始まりであり産業革命の開始となった。自営農のマニュファクチャ生産を待ってからではなかった。産業資本家と学者は自分の起源を忘れたのである。マルクスが流通過程を重視するのは、資本の本性が商人資本の図式GーW-G'にあるからであり、そしてそれから形成される世界市場なしには資本制生産はありえない。マルクスは資本論で「古典派経済学が言うような等価の交換なら剰余価値は生まれないし、不等価交換でも剰余価値はうまれない。流通または商品交換は何ら価値を創造しない」という。マルクスは生産過程においてだけでは剰余価値は実現されないという。売れなければダメなのである。共同体と共同体の間でなされる交換の社会的性格は、むしろ外国との貿易において現れる。そこでは貨幣は世界貨幣・普遍的商品貨幣として現れる。近経学者は貨幣を単に価値尺度・流通手段とみなすが、それは一つの共同体内(国家)だけで考えるからである。複数の共同体が存在し国際的な交易では世界貨幣(基軸通貨)が不可欠で、貨幣が資本に転化するのは異なる価値体系の間の交易があるからである。新古典派経済学では古典経済学の労働価値説を離れ、効用(使用価値)から価値を考えた。「限界効用理論」は需要と供給の均衡点を見出した。しかしこれも一つの共同体内での出来事である。異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのである。時間的、空間的に違った体系におかれると、その均衡点(価格)が異なるのである。資本家とは異なる価値体系に立つ者であり、異なる価値体系における差異から剰余価値を得る。産業資本家は利潤を生産過程に求める。産業資本は「労働力商品」を買い、その生産物を労働者に売ることから剰余価値を得る。従って剰余価値は個別資本においてではなく、社会的総資本において発生することになる。マルクスは資本論草稿集でこのことを「資本家は自分の工場の労働者の賃金は低くおさえたいが、他の工場の労働者を消費者・貨幣支出者と見ている」といっている。だから剰余価値を個別資本の運動だけからは考えられない。個別資本が利潤を上げようとすれば総体として富強が悪化する。1930年代のケインズ主義、フォーディズムは大量生産と高賃金で不況脱出を図った。社会的総資本で総需要を喚起するいわゆる「消費社会」が出現した。マルクスは剰余価値を@絶対的剰余価値(労働強化、低賃金)、A相対的剰余価値(技術革新・労働生産性向上により相対的に労働価値を下げる)に分けた。産業資本に固有の剰余価値は相対的剰余価値の追求にある。それは絶えざる技術革新による商品の差別化という命題を永久に課せられている。労働者が売った時点での価値体系と、商品を買う時点での価値体系の差異があるときにのみ剰余価値が生まれる。従って資本側は短間的に技術革新を成し遂げなければならないという「せこい」関係にある。これをシュペンターは「起業家精神」と呼ぶ。技術が飽和してくると差異はなくなり、儲けは少なくなりその商品市場と企業は衰退する。商人資本が主として空間的価値体系の差異を追求するのに対して、産業資本は労働生産性をげることで時間的に異なる価値体系を作り出すことである。つまり資本は常に差額から剰余価値を得ることによって自己増殖するのである。金融資本が実体経済を離れた投機を行うのを虚業と非難するわけにはゆかない。経済自身が虚によって動かされているからだ。

マルクスは資本論第1巻で資本一般を考察し、第3巻で個々の資本を論じ、生産価格や利潤を述べた。「全体として見た資本の運動過程からでてくる具体的な諸形態を見てゆこう」と言っている。産業資本家は日常的に「剰余価値」などという考えは持っていない。彼らの頭の中には利潤しかない。利潤とは生産価格から費用価格を引いたものである。利潤を再投資に向ける。労働力商品と不変資本(生産手段など)という区別もない。固定資本と流動資本という区別があるだけである。個々の利潤はさまざまな産業部門を纏めると平均利潤率に落ち着く。利潤率の高い部門には資本が集中し、利潤率の低い部門からは資本が撤退する。従って部門ごとには生産性を上げ、商品の差別化を図る熾烈な競争に曝されている。それが起業家の毎日である。採算が合わなくなれば、生産コストを下げるために海外に移転するのである。従って古典派経済学からは、価値や剰余価値と言った概念は形而上学だと非難された。剰余価値と利潤の関係について、古典派経済学の労働価値説では平衡論から決まる自然価値と労働価値が一致しない矛盾に突き当たった。リカードは価値は投下労働だけでは決まらないとした。ネオリカード派は剰余価値と利潤は対応するという。マルクスは逆に価値体系が社会的労働時間を規定すると考えた。労働価値も剰余価値も目に見えない「超越論的」な概念であるとした。利潤率は剰余価値を可変資本(労働力)と不変資本(原料、生産手段)の総和から見た割合であり、剰余価値率とは可変資本から見た割合である。リカードは労働価値が生産価格通りになるのは、標準的な有機的構成(オートメーション化が進んで資本集約的な分野)の資本のみであると考えた。マルクスはこれは総資本の「総剰余価値」が、それぞれの部門で利潤率が均等になるように、個別企業の生産価格に配分されているからだといった。剰余価値は個別企業では不透明であること、総体として労働者が消費者となって買うからであることは前に述べた。個別資本が得る利潤の中に、他の部門の労働者、小生産者から得た剰余価値が、また1国の総資本が得る剰余価値には、海外労働者の剰余価値配分されている。平均的利潤率による均衡体系は産業部門の暴力的な淘汰や再編成の過程が考慮されていない。産業資本の本質は絶え間ない創造的破壊である。資本制経済における景気循環は個別の資本では避けることはできない。それは総資本の相剰余価値に関係するからである。短期間景気循環(ジュグラー波)においては資本は設備投資を通じて資本集約型を高める。労働強化(絶対的剰余価値)で生産性を上げようとすることは好景気には固有の現象である。労働時間は長い歴史の中で絶えず短縮されている。したがって絶対的剰余価値は資本制生産の拡大に本質的には関係がないと言える。一方相対的剰余価値は技術革新により新たな価値体系を作り出すことで得られる。不況期には利子率が下がるので、設備投資をして資本集約性を高める(労働価値依存率を下げる)絶好の機会である。景気循環は貸付金融資本と産業資本の対立と相関による、すなわち利子率と利潤率の関係である。信用が膨張する状況において、直ちに利潤率は低下しない(フィードバックが弱いと)ので過剰生産となる。数十年の周期の景気循環(コンドラチェフの波)は、一般的利潤率の低下と大きな根本的な技術革新(金融技術も含めて)の問題に関係しているのであろう。世界恐慌がそれである。これによって経済・社会の仕組みがよりグローバルになってゆくのである。

マルクスは産業資本が他の種類の資本を圧倒し、産業資本の一部として再編成するという。産業資本の優位性は、剰余価値または剰余生産物の取得を資本の機能とするだけでなく、技術革新によって新たな価値の創造を機能とするのである。だから産業資本とともに生産は資本集約的性格を帯びるざるを得ない(手工業、個人経営資本の駆遂)。今日金融資本も大規模化をすすめ、新たな金融商品の開発に努めているが、リスクの分散と回避が破たんすると世界的な金融恐慌ヲ引き起こす。貨幣による経済の結びつきは影響が伝播しやすい。マルクスは近代資本主義の前提を世界市場の成立に見出している。資本論に「商品流通が資本の出発点である。商品生産と商品流通が資本の成立の前提となる。世界商業と世界市場が16世紀に出来上がり、近代資本制社会が始まった。」 この時資本主義は「世界資本主義」として成立する。その前に商人資本による国際信用体系ができていなければならないのである。資本制生産が世界中を覆い尽くすかといえばそうでもなく、旧来の生産を全面的に解体するわけではない。一握りの大規模産業資本の周りには膨大な数の中小零細企業が2重構造の中に現存し、ある「擬制」によって資本制経済に取り込まれている。例えば大規模企業で組織された労働者は全労働者のなかのでは2,3割に過ぎない。労働組合さえもたない中小企業の労働者、派遣、パート、アルバイトの未組織労働者の方が圧倒的である。高度な資本制生産が進んでいる国で、なぜ前近代的な生産や生産関係が保存されているのか。これは戦前から「日本資本主義論争」以来の問題であった。戦前は「講座派」、「労農派」の論争として知られ、戦後は上部構造を重視する丸山真男、吉本隆明らは天皇制ファッシズムを指摘した。宇野弘造は先進国・後進国の経済体制の発展史と見た。国内、国際間で格差のある産業部門が均衡状態で存立するとき、先端的な部門が他から剰余資本を奪っている。リカードはこれを「比較生産費の法則」と呼んだ。交際分業という事態が進行する。イギリスによるインド支配がその顕著な例である。植民地政策によってインドで発展していた産業を衰退させ、原材料輸出国に変身させたことである。サミール・アミンは、比較的優位と国際分業という考えを批判し、後進国が後進国に止まる理由を、「不等価交換」と「従属」に求めた。後進国の未開発性はもともとあった者ではなく、産業資本主義以降に作り出されたものであるという。ウオーラーステインはさらに「従属理論」を展開し、マルクスは資本の高度化による一般利潤率の低下傾向は海外貿易によって止めることができるという。つまり後進国を外部化してさらに生産を拡大できるからである。マルクスは一つの体系(国の中では利潤率の低下が避けられないので、後進国があれば先進国は帝国主義化せざるを得ない。外国貿易なしには経済は成り立たないことを示す。ウオーラーステインは「中核」と「周辺」が資本制における剰余価値取得システムの核心的部分であるという。差異のある「不均衡発展」に利益の発生を見ている。


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