120801

津久井進著 「大災害と法」

  岩波新書 (2012年7月 ) 

大災害の被災対応と復旧・復興に法の課題とはなにか

著者の津久井 進の略歴をみると、 1969年兵庫県にうまれ、1993年3月 神戸大学法学部卒業 、1995年1月神戸淡路大震災に会った経験が本書の元になったそうだ。1995年4月 神戸弁護士会(現兵庫県弁護士会)入会 し、1999年4月 芦屋法律事務所へパートナーとして入所 、2002年4月 弁護士法人芦屋西宮市民法律事務所設立(芦屋事務所) した。現在は西宮事務所にいる。取り扱い分野は一般民事事件、家事事件、震災関連事件、個人破産、個人再生、負債処理などを扱っているようである。日弁連災害復興支援委員会副委員長である。私が津久井進氏の災害問題の法制度を知ったのは、内橋克人編 「大震災のなかで」(岩波新書 2011年6月)のW「復興のかたち」の中で氏が書いた「法は人を救うためにある」を読んだからである。津久井氏の災害問題への取り組みの出発点である阪神淡路大震災後に、「被災者生活再建支援法」、「マンション建替え円滑法」、「NPO活動促進法」、「耐震改修促進法」などが生まれたが、積み残された課題も多かった。それを踏まえて2011年3月11日の東日本大震災直後の被災対応と法問題を扱ったのが「大震災のなかで」である。それから1年後の今日、政府の震災関連法が矢継ぎ早に出される中で、その法が被災者のためになっているのかどうかを検証するために、本書「大災害と法」が著わされた。著者は震災津波災害後、岩手県弁護士会の巡回法律相談に参加し避難所を訪問した。被災者の方が抱えている問題の殆どが生活の法律問題ばかりであったという。生活上の悩みは多様であり、切実であり、また深刻であったという。「法は人を救うためにあるはずだ」という信念で、東日本大震災と福島第1原発事故の被災者の生活目線に立って災害法関連法を見渡す案内書になればと本書を書いたという。災害法は数が多い。主要な法律だけでも100を超える。本書は3部にわけて、第1部「法のかたち」で法の歴史と体系を概括し、第2部「災害サイクルと法」は本書の中核をなす内容である。第3部「法の課題」で今回の災害の法対応の問題点を総括し展望する。

第1部 「法のかたち」

災害対応の法制度の「そもそも論」であり、第1章で歴史的にたどり、江戸時代から東日本大震災までを総覧する。第2章「災害法制の仕組み」では法の構成、日本の防災中心主義法制、諸外国の災害法制を総覧する。まず災害法制度の歴史をみてゆこう。江戸時代以前には義援金を備蓄する「義倉」、避難・福祉施設「悲田院」などがケースごとに見られる程度で、教訓を一般的に制度化する「法の整備」には至らなかった。江戸時代に入ると、享保.・天明・天保の大飢饉のときには、幕府は米の支給をおこなう「御救米」、被災民らに仕事を与え賃金を支給する「御救普請」、仮設小屋・避難所にあたる「御救小屋」、見舞金の支給にあたる「御救金」、町会費から災害準備金を積み立てる「7分金積み立て制度」などの制度的救済措置がとられるようになった。明治政府の近代政策と富国強兵の中央集権体制が整えられる中で、災害対策も中央政府が行なう形で、1880年「備荒儲畜法」が最初の災害救助法となった。しかし1999年「罹災救助基金法」により責任主体は地方府県に移った。1923年関東大震災は死者行方不明者15万人を出す未曾有の大惨事となった。政府は国民を救助するのではなく戒厳令下治安支配を重視したため、大惨事にあわせて虐殺が官憲の手で行なわれた。戦中から戦後にかけて大規模災害があいついだ。1946年11月発布の日本国憲法にあわせて災害法も大きく変わった。まず、昭和南海地震をきっかけに1947年「災害救助法」、カスリーン台風をきっかけに1949年「水防法」、福井地震をきっかけに1950年「建築基準法」が制定された。伊勢湾台風を契機に戦後の防災対策の転換点となる、「災害対策基本法」が1961年、1962年に「激甚法」が制定された。

高度経済成長期1960年代から1970年代は大災害の少ない比較的平穏な時代であった。豪雪、火山被災にたいして、1962年「豪雪地帯対策特別措置法」、桜島噴火を契機に1973年「活動火山対策特別措置法」が制定された。新潟地震を契機に保険が見直され1966年「地震保険に関する法律」が制定された。羽越豪雨水害を契機に1973年「災害弔慰金法」が制定された。宮城沖地震を契機に建物の耐震基準の見直しがおこなわれ1981年「建築基準法」の改正が行なわれた。そして1990年代は日本中で地震や噴火などの災害が立て続きに起きた。1991年雲仙普賢岳噴火災害、1993年、奥尻島津波災害、そして1995年1月阪神・淡路大震災と続いた。阪神・淡路大震災は6400人の死者をだし、25万棟の全半倒壊延焼となった。住宅問題では借地・借家問題、住宅政策の問題、住宅再建支援の問題を主とした都市型災害であった。二重ローン問題や孤独死問題が大きく社会問題となったが解決の道はなかった。この時点では政府は、「自然災害による損害に政府の責任はなくあくまで個人の問題である」という見解に終始した。1998年「被災者生活再建支援法」が制定され救済の道が出来た。東海村JOC臨界事故を契機に1999年に「原子力災害対策特別措置法」が制定されたが、2011年3月の東日本大震災が待っていた。東日本大震災では死者行方不明者1万9000人をだし、福島第1原発では大量の放射能漏れが発生した。災害後1年間で45の法律が急遽制定された。この国の行政は人が死ななければ動かないらしい。警察は犯罪が起きなければ発動しないのと同じである。

災害関連法は主要な法律だけでも100を超えるといったが、更に法に基づいた下位の「政令」「規則」「通知」「連絡」「運用基準」がある。「政令」は総理大臣と担当大臣が署名するが、「省令」は担当大臣だけで決定する。省の事務次官、課長がだす「通知」は地方自治法に基づく技術的助言である。マニュアルやガイドラインにあたる「事務連絡」、「基準」は地方に指示を出す。法律だけでなく「前例」という慣例重視も大きな要因である。災害救助法には「生業に必要な資金、器具または資料の給与」の規定があるが、官僚は「現金支給は前例がない」と現金給付を堅く拒んでいる。災害現場では慣例が法を超えて運用が優先している。現場では予算措置がついたものから,国庫負担率の高いものから順に施策が行なわれる。優先順位は財政的裏づけの程度できまるようである。それを決めているのが「要綱」である。日本の災害法の特徴は災害救助や復旧・復興よりも防災とりわけ防災公共事業に重点を置いている。阪神・淡路大震災までは災害関連法は防災に関するものが大半を占め、復興については殆ど考えてこなかった。この矛盾が今回の東日本大震災で露呈した。このような防災中心主義は防災のための開発工事などの公共事業とともに発展し族議員を生じた。日本の災害法のもうひとつの問題点は災害救助法の権限は都道府県知事にあり、災害対策基本法の責任は市町村に分属するというねじれ問題にある。災害により市町村という司令塔の壊滅により、救助や対策が遅れ混乱したことは記憶に新しい。地震・自然災害の少ない欧州特に、ドイツ・フランスの災害法制は治安や有事法制を基本としたつくりとなっている。それに対してアメリカは「ロバート・T・スタフォード法」は災害対応を目的とした法であり、米国連邦緊急事態管理庁FEMAは災害対応庁である。今回の災害で自衛隊の活動は目を見張るものがあったが、やはり有事法制と災害法制とは峻別することが望ましい。

第2部 「災害サイクルと法」

第2部「災害サイクルと法」は災害のサイクルに順じて3つの章からなる。@災害直後の法制度、A復旧と生活再建のツールとしての法制度、B災害に備える防災と減災を図る法制度である。災害時の全過程で中央と地方政庁の官僚の施策がどんな法に基づいてどこまで行なえるかという現システムを知る上では重要である。
1) 先ず災害直後の法整備はどうなっているかを見て行こう。緊急対応の観点から「災害対策基本法」の法構成を見よう。先ほど災害救助の責任と権限のねじれ問題を述べたが、災害対策基本法の最大の特徴は,災害時における国、都道府県、市町村の立場と責任を明確にすることである。災害の応急対応の第1次責任は市町村が負うことで、都道府県は市町村の支援と調整、国は地方自治体が応急措置に専念できるよう支援するということである。これらは官僚作文で東に本題震災ではこの仕組みは全く機能しなかった。ちょうど福島第1原発事故で「原子力災害対策特別措置法」のシステムがもろくも崩壊し、「オフサイトセンター」の機能は働かなかったのと同じ状況であった。作文と現実の乖離があまりに大きかった。人の知恵の浅はかさを思い切り知らされた。災害対応の第1次責任を負う市町村が津波で流されたり、原発事故で市町村庁が移転せざるを得なくなり、中でも住民がバラバラになったことのためコミニュティが崩壊したのである。市町村が機能不全になった状況では都道府県が措置を代行し、国が緊急対策本部を置いて調整を行なうことになってしたが、県も国も被害状況さえ把握できずとても十分な対応をとったとはいえない。非常事態災害で日頃の訓練ができていなかったとぴえる。そして災害時の情報の流れが地方から国への報告を義務付ける中央集権主義に毒されており、市町村が壊滅して情報収集能力が無い状態では、逆に被害の少なかった県庁から市町村へ、国の東京から被災県への情報や的確な指示が必要であった。被災市町村の住民への情報提供は、生活に一番身近な気象情報と地震速報は「気象業務法」(1952年)によって義務付けられている。

災害対策基本法は関東大震災クラスの災害が発生したときは、国は「災害緊急事態」を布告し、国会の承認を取って3つの緊急措置が取れることになっている。生活必需物質の確保と価格の維持、そして金銭債務のモラトリアムである。ところが阪神淡路大震災でも東日本大震災でもこの「災害緊急事態」の布告は行なわれなかった。政府にそこまでの準備も覚悟もなかったといえる。被災自治体は災害対策基本法に基づいて首長を長とする「災害対策本部」を設置し、災害規模が大きいときは国は「非常災害対策本部」を置くことができる。東日本大震災では総理大臣を長とする「緊急災害対策本部」が設置された。そして原子力災害対策特別措置法に基づいて内閣府に「原子力災害対策本部」が設置された。自然災害には「消防法」(1948年)に基づいてレスキュー隊を派遣する。「警察法」(1954年)には災害時の救護の規定はない。「自衛隊法」(1954年)には県知事は派遣要請を出来る。災害対策基本法は市町村に知事への派遣要請を求める権限を与えている。「災害対策基本法」は一般法であるが、災害が発生したとき被災者を救済・保護するする役目は特別法である「災害救助法」(1947年)に定められている。

災害救助法を管轄するのは厚生労働省である。東日本大震災では法の適用の硬直性・機動性の無さが露呈し、避難民の食事の早期打ち切り、仮設住宅の不適合など深刻な問題を発生した。災害救助法の実施責任が都道府県にあって、災害対応の第1次責任が市町村にあると云うねじれ問題で弾力的運用即決即断が出来難いというジレンマが指摘された。災害救助法の下位規範として「災害救助法施行令」でj救助の方法を大臣が基準で示すことになっていた。それがあまりに実情にそぐわない(現物支給の食事代1人1日1000円以下など)状況がみられた。避難所7日以内とか、応急仮設住宅2年以内とか、仮設住宅建設費300万円以下とか、あまりにお上の無慈悲さばかりが目立った。そこで特別基準が考慮され、現場に即した特別基準の活用が重要である事がわかった。自宅の応急修理制度は生活再建の第1歩であるので、一般基準の上限52万円ではどうしょうもなく一般基準の見直しが求められている。食事代の現金給付を求める声が大きいが、政府や自治体は災害救助法に基づく現金給付を一切認めないのが現状である。災害救助法がうまく機能していない理由に「災害救助事務取扱要領」の原則が挙げられる。@平等の原則(個々の経済的理由は考慮しない)、A必要即応の原則(必要最低限)、B現物支給の原則(現金支給を認めず)、D現在地救助の原則(分属自治体以外は助けられない)、E職権救助の原則(被災者の異議申し立て不可)といった原則が、弾力的で血の通った施策を困難にしている。

2) 次に復旧時の生活再建のための法システムを見て行こう。復旧とは災害による被害を回復し元に戻すことである。復旧の実施責任は被災地の地方自治体の首長にある。自治体支援の国庫補助を定める法には、「公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法」(1951年)、「農林水産業施設災害復旧事業国庫補助の暫定措置法」(1950年)、「公立学校施設災害復旧国庫負担法」(1953年)が復旧の三法といわれる。国庫負担率は概ね半分から8割程度である。国の補助率の嵩上げを行なえる「激甚災害に対する特別財政援助法(激甚法)」(1962年)も重要である。ただし地方自治体が国の財政支援だけに期待しそれが十分でないと施策が行なえないとするのは責任転嫁に過ぎず、一刻でも早く復旧に取り掛かる計画と事業を先行させることが重要であろう。財務省は復興財政援助を原形復旧としているので、財務官が立ち会う「災害査定立会制度」(1951年)が定められた。東日本大震災で被災3県で合計5000件以上となり制度の簡素化が求められた。また「改良復旧主義」や「代替措置」は財務省の高いハードルを越えねばならず、「東日本大震災復興基本法」(2011年)では原形復旧主義を打ち破れるかが問題である。地方自治体の財政状況を見ると、租税収入は東北3県の自治体は15%程度で、自力で借金をするか、国庫から補填を受けざるを得ない。国庫補填を定めるのが「地方交付税法」(1950年)による。国庫負担割合は宮城県が41%、岩手県は47%、福島県は40%であった。これでは地方自治とか権限委譲とは名ばかりで、総務省と財務省の強い監督下にある倒産会社と同じ扱いである。

生活再建を支援する法として、「災害弔慰金法」(1973年)、「被災者生活再建支援法」(1998年)があり、そのほかにも義援金、地震保険、生活保護なども重要である。被災者個人への金銭補償を否定するl国の基本姿勢は一貫しており、生活再建よりも慰謝・見舞が法の目的であった。「災害弔慰金法」は家族を失った遺族への災害弔慰金支給、災害で重い障害を負った者に災害障害見舞金を支給すること、災害救護資金の貸し付けを行なうことから構成されている。支給金額(死亡者が生活維持者であれば500万円、それ以外で250万円)、遺族の範囲などに問題が指摘されている。2011年7月災害弔慰金法は改正され、@兄弟姉妹も遺族と考え支給対象となり、A災害弔慰金を破産時の財産差し押さえの対象としないなどの改正がなされた。災害救護資金の貸し付け限度額は150―350万円で、利子率は年3%、保証人と償還10年となっている。東日本大震災後の2011年「東日本大震災に対処する特別の財政援助及び助成に関する法律」が制定され、保証人は不要、利率を1.5%に引き下げ保証人がある場合は無利子とする、償還年を3年延長などと「災害弔慰金法」に改正が加えられた。
「被災者生活再建支援法」は阪神淡路大震災の市民の力で作られた法律であった。2004年に改正され支援金は最大300万円に増額された。2007年に二度目の改正が行なわれ、基礎支援金(最高100万円)、加算支援金(最高200万円)、「罹災証明書」を発行することからなり。罹災認定の制度確立が自治体の問題となった。

東日本大震災では義援金は過去最大の約3000億円が日本赤十字社に寄せられた。地方自治体が設置する「義援金配分委員会」で配分方法を決める。公平性から迅速性が問題となっている。厚生労働省通知によると、義援金や被災者生活支援金など災害に対処して支給される金銭は、生活保護を受ける際の資産や収入には当たらないとされる。ところが被災地市町村では義援金受給を理由に生活保護を打ち切る事例が発生し、県に不服申請が出されて、打ち切り処分は取り消された。阪神淡路大震災では「二重ローン」が問題となった。そのとき「利子補給」なる制度が出来たが、将に焼け石に水で解決はできなかった。東日本大震災では、零細農漁業者の債務を軽減するため、金融庁の研究会は「個人債務者の指摘整理に関するガイドライン」(別名 被災ローン減免制度)がとられ、債務者と債権者が協議して,債務を減免する方法が取られることになった。破産手続き、民事再生手続きを行い財務処理をして整理案を示せば債務は減免され、保有資産は99万相当は生活資金として保有し、500万程度は生活再建資金として手元に残せるという制度である。

3) 次に復興期の法制度を見て行こう。阪神淡路大震災のときもそうであったが、「復興の定義がない」、「復興の法がない」という災害基本法の大きな欠陥に直面した。復興は「災害対策基本法」の射程外であったといわざるを得ない。法学者の集まりでも「復興」の議論は進んでいない。それはあるべき社会の姿を示す価値観の問題から一義的な結論は出ないのである。町づくりを支える法制度としては、「建築基準法」、「都市計画法」(1966年)、「都市再開発法」(1969年)、「土地区画整理法」(1954年)などがある。これらは通常時の町づくりの仕組みであるが、災害時に活用される都市整備法制度として「都市再開発法」、「土地区画整理法」が利用できそうである。阪神淡路大震災後の長田地区の復興を見ると、高いビルの林立する町に変わったことが果たして是か非か議論が起きる。法制度からみるとどうしてこうなるのかは、法の誘導策が働いているからである。国からの補助率の高い制度を選択することが優先され現場と住民のニーズは置き去りにされた。事業主体の神戸市の強いリーダーシップが働く仕組みで、地域や町は政策の客体にしか過ぎない。事業のみが強調されコミュニティを形成する要素は忘れられた。「土地区画整理法」では保留地を作り出すために自分の土地の一部を提供する「減歩」があり、「照応の原則」で価値増加によるその分だけ土地が減る仕組みなっていた。被災地を立体的に利用するために「都市再開発法」は住民の持つ土地は新しいビルの一部分に置き換えられる第1種開発「権利変換方式」と第2種開発「管理処分・用地買収方式」があり、第2種の場合は住民は買収・収用後に地域から離れてゆく現実もあった。1997年「被災市街地復興特別措置法」が制定された。早期の住宅建設のために共同住宅などの建設を容易にすることが目的であった。神戸市は建築制限期間が2年と長い事を嫌って同法の適用を見送った。東日本大震災後、2011年「市街地における建築制限の特例に関する法律」が制定され、最長8ヶ月に緩和された。津波対策の住宅集団移転問題に対処するには、「防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(1972年)が活用できる。過去には新潟県中越地震で115戸、奥尻島津波災害で55戸、三宅島噴火では301戸などの実績がある。集落の自主性を重んじ強制を排するため政令で集落の単位は5戸と緩和されている。

復興法制の目玉として「東日本大震災復興特区法」(2011年)がある。法は次の3つの部分からなり、@復興推進計画では大規模な規制緩和、税制上・金融上の特別措置、A復興整備計画では国交省と農水省が所管する土地利用の認可手続きの簡素化・ワンストップ化、B復興交付金では被災地自治体の自由裁量部分が大きい交付金財源制度である。「借地借家法」(1991年)の特別法である「罹災地都市借地借家臨時処理法」(1996年)が阪神淡路大震災後に制定された。これは私人関係法であり、「優先借家権」、「優先借地権」、「借地権優先譲受権」からなるが、高額の権利金を支払う必要から阪神淡路大震災では実現した例はなかったという。むしろ借家人は権利を放棄し地主から解決金を得る形で解決した。こうして東日本大震災でも罹災法の適用は見送られた。マンションの建替えについては「マンションの建替えの円滑化などに関する法律」(2002年)があるが、2重ローン問題から合意を得るハードルが高く東日本大震災後では「解消」という形に進む例が出た。津波で被害を受けた零細事業者に対する産業支援復興法は無いに等しく非常に冷たい。政府系の金融機関による融資という仕組みしかなかった。むしろ災害で貸出債券が一気に不良債権化して地元の金融機関も深刻な打撃を受けた。そこで地元金融機関に対する資本注入の緩和のために「東日本大震災に対処して金融機関などの経営基盤の充実をはかる特別措置法」(2011年)が制定された。そして産業復興機構」、「事業者再生支援機構」による債権買取が図られ、「東日本大震災事業者再生支援機構法」(2011年)が制定された。

暮らしの復興に役立つ法制度はほぼ皆無の状態で、その穴を「復興基金」という仕組みが埋めてきた。復興基金は1991年の雲仙普賢岳噴火災害のときであった。長崎県は義援金と地方交付税などを財源とする1090億円で「雲仙普賢岳対策基金」を設立した。住宅再建から利子補給まで行き届いた施策を行なった。これを教訓として以後の災害には復興基金の仕組みが利用された。公的資金を救出すると何がしの制約を受けるが、特に地方交付税だと国の介入は強くなる。「復興基金」は法律に基づかない柔軟性と機動性が魅力である。基金の財源には、義援金、国の貸付金、地方自治体の起債と銀行融資が考えられる。基金が1000億円あれば年3%の利子で貸し付けると30億円の事業が行えるのである。東日本大震災の復興資金は国からの交付金が財源で取り崩し型となったが、使い道は未定である。再度復興の定義に戻ると、「憲法が保障する基本的人権を回復すること」も一つの定義である。自立の基礎を失った被災者に、自立できところまで公的支援を行なうことであろうか。2011年東日本大震災復興構想会議は2011年6月に「復興への提言」を取りまとめた。しかしこの提言には、被災地の復興の主体が被災者である視点が欠如していること、産業界による都市型復興の視点しかないことなど、「人間の復興」という基本理念が見られなかった。東日本大震災で崩壊したものは、防災神話と原子力安全神話であった。公共工事業界と原子力村の共同幻想がもろくも崩壊したのだ。回復すべきは人間とコミュニティの視点である。災害便乗型資本主義はもうこりごりである。なぜなら経済恐慌と同じく、同じ過ちを何回も繰り返すからである。

4) 「災害サイクルと法」の最後の章は災害に備える防災と減災を図る法制度である。日本は「防災大国」といわれる。道路行政と同じく、防災の中核を占める公共土木工事の根拠となる法律が目地押しである。「砂防法」(1955年)、「森林法」(1951年)、「地すべり防止法」(1958年)、「急傾斜地災害防止法」(1969年)、治水については「河川法」(1964年)、「水防法」、「特定都市河川浸水被害対策法」、「海岸法」(1956年)などが日本をコンクリートで固めてきた。災害別には、台風について「台風常襲地帯の『災害の防除特別措置法」(1958年)、「活動火山対策特別措置法」(1973年)、「豪雪地帯対策特別措置法」(1962年)、「東海南・南海地震に係る地震防災対策特別措置法」(2002年)などなどである。防災神話は自然災害を押さえ込むことに膨大な費用を投じて、なおその災害の度に崩壊してきた。そして防災目的より公共事業そのものが目的化したのではないかという疑念があった。海が見えない防潮堤では波の恐ろしさがわからない、三陸縦貫自動車道路よりも生活道路・高台連絡道路建設の方が重要なのではないだろうか。地震対策では「建築物の耐震改修の促進に関する法律」(1995年)が生まれたが、個人の住宅は対象になっていない。建築基準法は1978年の宮城県沖地震を受けた新耐震基準である。なお災害対策基本法で定める県、市町村の防災計画・防災訓練はなおざりで官僚作文に過ぎず、真剣な地元での具体的討議が必要である。

第3部 「法の課題」

法の課題というよりは、これまでの議論で落としてきた話題を集めたものである。避難者の支援問題、原子力災害、個人情報保護問題を論じる。終章で災害対応の当事者としてボランティア、女性、自治体の問題を取り上げる。東日本大震災では被災後1年が経過した時点で、避難者の数は34万4290人に及び、県外避難者は7万2892人であるという。原発避難者は長期間にわたって帰還が困難であると予想される。福島県では被災後1年で被災関連死は764人に及び、殆どが避難生活中のことであった。被災者の住まいは「避難所」から「仮設住宅」そして「公営住宅」をたどるが、それ以外の人々(自主避難者、県外避難者など)は法的支援の埒外に置かれる。避難者の数さえ把握していない。原発災害避難者に対して「避難住民に係る事務処理特例および住所移転者に係る措置に関する法律」(2011年)が成立した。これは行政の事務処理に過ぎず、避難者の便宜を図ったものではない。多くの自治体では入居対象者を原発避難者に限定しているが、松本市などは子ども女性の自主避難者にも門戸を広げている。自治体の対応に格差が見られるは災害救助法の運用の仕方にある。その根拠は厚生労働省が積極的な避難者の保護指針を出していないことである。第2に災害救助法の求償の仕組みがうまくいっていないためである。避難地でかかる費用の請求先が被災自治体に振り替える手続きに齟齬をきたしていることと、被災自治体が救助費の上限を抑えていることであるという。多くの避難者を受け入れている新潟市、山形市、米沢市が災害救助法の基準外になっている避難者支援費用の助成を国に要望している。また現物支給制度も大きな阻害要因である。避難者に居住移転の自由は無いのだろうか。施策の客体として選択の自由が奪われていいものだろうか。お世話になって居るのだから文句はいうなということではストレスも貯まるのである。国際基準では避難者の保護は国家の責任であり、避難者の消息を探ること、帰還や再定住を図ることも行政の責任だということが国際的合意である。

「原子力基本法」(1955年)は推進と規制の双方を担って制定されたが、2001年小泉内閣のときに推進と規制が経産省に一体化した。ブレーキの無い車といわれる由縁である。福島第1原発事故は東電が「想定外」と逃げようが、一言でいうと「政・官・財・学・報」のペンタゴンによって構成された原子力村の「非民主」、「独断」、「非公開」が引き起こした惨事である。葉止めをなくしたら暴走して惨事となるは交通事故の事ではなく、原子力基本法をないがしろにしてきた原子力村のことであり、あたかも憲法をないがしろにしてきた日本の戦後史と重なるのである。1961年に制定された「原子力損害の賠償に関する法律」は「無過失責任制」、「無限責任」、「責任の集中」の原則を採用している。それはそれで立派な原則であるが、原発事業を容易にするため,電力会社の「免責事由」を設け、1事業所あたり1200億円の保険で補えない賠償は政府が負担することになった。電力会社は損害賠償だけでなく、新発電方式の開発費、電源立地法による開発費用の一切を国がまかなうという経済外化要因で実に楽な経営を保証された。国策で原発は儲かる事業である事を補償されると、電力会社は経産省の計画のまま原発依存体制にはまっていった。このあたりの経済的からくりは大島堅一著 「原発のコスト」 (岩波新書 2011年12月)に詳しく描かれているので省略する。JOC事故を教訓にして「原子力災害対策特別措置法」が制定されたが、福島第1原発事故で法が用意した防災システムは脆くも崩壊した。常に防災システムというのは絵に書いた餅(官僚作文)である。「原発の放射性物質による環境汚染への対処に関する特別措置法」(2011年)を制定し、国が除染の第一義的な責任を負う事を明らかにした。原発事故災害補償については「原子力損害賠償支援機構法」(2011年)が制定され、原子力損害賠償支援機構が設立され、原発事業者に資金援助を行うこと、その資金確保のため原発事業者に負担金を求めかつ国債を発行するなどを決めた。ところが本法の目的のひとつである被害者に対する賠償の支援は現在全く動きは無い。2012年3月「福島県復興再生特別措置法」が成立した。

個人情報保護法制(2003年「個人情報保護法」、2003年「行政機関・独立行政法人の保有する個人情報の保護に関する法律」)は、IT化の情報社会において個人情報の適切な管理をするための、一定の理由が無い限り「目的外使用」や「外部提供」をしてはならないというもので、被災者の支援においてはこれが問題となった。救助すべき障害者を教えてもらえない、避難者同士の連絡をつけようとしても連絡先を教えてもらえないとか、一人住まいの高齢者が把握できないといった事例である。これらの法制は「個人の権利・利益を保護することが目的」であるはずだが、これによってかえって権利や利益が損なわれる危険性があるというのだ。災害時に各種福祉団体に個人情報を教えることを「外部提供」というが、原則として外部提供には本人の同意が必要である。2006年厚生省・総務省「災害時要援護者の批難支援ガイドライン」では個人情報収集の方法として、「手上げ方式」、「同意方式」、「関係機関共有方式」であった。行政機関としては持っている個人情報を共有しあう方式が一番スムーズである。行政は業務委託先できることになっているので、あらかじめ諸団体に支援業務を委託いておけばいいことになる。いずれにせよ官には個人情報が把握できるが、災害時の民間支援団体のアクセスのハードルは高い。阪神淡路大震災後、兵庫県西宮市は住民台帳から被災者検索システムを開発し罹災証明書発行に役立ったという。

阪神淡路大震災では市民ボランティアが芽生え、延べ約200万人がボランティア活動に参加したという。1995年はボランティア元年といわれ、1月17日は「防災とボランティアの日」と定められた。ところが東日本大震災では最初から官僚統制が露骨で、メディアなどはボランティアを厄介者扱いをしてきた。日本の東と西ではかくもボランティア文化が異なっている。1998年「特定非営利活動促進法(NPO活動促進法)」が制定された。災害ボランティアの本質は。「自由」、「自立」、「利他」にある。決して行政の末端ではなく、自立性を欠いた活動(創造性を欠いた活動)に成り下がってはいけない。政府の政策審議をスムーズにするための官制NGO(政府系NGO?)であってはならない。かゆいところに手が届く、官が考えられもしないはっと驚くような提案と実績を挙げるNPOでなければ意味が無い。「官統制下における手弁当持参の日雇い労務者」のようなボランティア扱いはあまりに惨めでは無いか。ただし東日本大震災ではボランティア活動を支える資金を募金する活動と労働寄付が融合した中央共同募金会の活動はボラアンティアに18億円の助成を行った。2011年6月NPO活動促進法の改正と新寄付税制が相次いで成立した。認定NPOの条件を緩和し、法人認定を国税庁から都道府県がすることになった。個人寄付の税額控除が行なえるようになった。災害対応における女性参加はあいかわらず低調で、各種委員会や会議の女性参加率は5%以下である。2005年の防災基本計画には始めて「男女双方の視点」が盛り込まれた。

今回の東日本大震災では基礎自治体が損害を受けて災害対応に限界がある事が示された。といって国のトップダウンで各地の実情を知らない中央官庁が指揮できるとはとても考えられない。被害が深刻化した原因の一つに自治体の基本能力の不足という実情があった。地方自治体の財政国庫負担割合は宮城県が41%、岩手県は47%、福島県は40%であった。これでは地方自治とか権限委譲とは名ばかりで、総務省と財務省の強い監督下にある倒産会社と同じ扱いである事は先に述べた。 市町村は県を向き、県は霞ヶ関を向いて仕事をしている。国の事業の下請けに徹した公共工事中心の市町村行政では人的・物的な自治体機能が育たなかった戦後の悪弊の結果である。中央からの仕事の仕分けと解釈と報告に追い回されてきた地方の役人に、抜本的な主体的な仕事が出来るとは思えない。地方が力をつけるのはまだかなりの時間が必要である。アメリカは独立以来地方政府(州)によって国作りが行なわれ、日本は明治以来国によって国作りが行なわれた。中央集権制で知事さえ戦前までは官僚の任命によった。(今でも知事の半分は官僚出身である。形式的には選挙を経ているが) したがって地方政府という考えも存在せず、地方は中央の下請け機関とみなされてきた。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system