120703

マックス・ウエーバー著/脇 圭平訳 「職業としての政治」

  岩波文庫 (1980年3月 ) 

ドイツの若者に、権力の行為者である政治家の職業倫理を説く

先にマックス・ウエーバー著/尾高邦雄訳 「職業としての学問」(岩波文庫)を読んだ。本書「職業としての政治」も同じ1919年1月にミュンヘンにおいて学生を相手に書店で行なった講演会の一つである。前者の講演会「職業としての学問」が1月16日に行われ、後者の講演会「職業としての政治」は1月28日に行われた。聴講者はドイツ革命の気分に興奮している学生約150人程度であったという。マックス・ウエーバーはここでも学生に厳しい現実を突きつけている。「あせるな、目の前の仕事を遂行せよ」と説教を垂れている。「職業としての学問」の方が学生相手の講演会としての適当な内容であるが、本書の「職業としての政治」は一転してよく準備された政治史の論文の構造をもつ充実した内容である。しかし政治家と倫理という油と水の関係にある複雑な構成を講演会形式で果たして理解できるのかという疑問が湧くのは私だけだろうか。文章形式としてじっくり読まないと本当の理解レベルに達しないような内容である。まさに2つの講演会の出来には雲泥の差がある。マックス・ウエーバーの講演会の狙いは本書にあって、「職業としての学問」は前座程度にやったのではないだろうか。

1919年1月といえば、第1次世界大戦がドイツの敗北で終り、カイザー制が倒れドイツ全土が騒然たる革命の只中にあった時期である。ウエーバーは政治的には熱烈な国家主義者・ナショナリストで、共産主義革命運動に反対もしくは侮蔑していた。ウエーバーにとって祖国の敗北はショックであったろうが、それ以上に残念だったのは臥薪嘗胆を忘れ、反動的に「血腥い謝肉祭」の革命騒ぎに陶酔している1部の学生や知識人の姿である。ここミュンヘンは「知識人革命」の色彩の濃い「レーテ運動」の中心であった。さてウエーバーは、政治の本質的属性は「権力」であると理解している。「政治とは国家相互の関係であれ国家内部においてであれ,権力に参加し、権力の配分関係に影響を与えようとする努力の事である」という。政治を行う人は、権力のためであれ他の目的の手段であれ、権力を追及せざるを得ない。政治はどこまでも政治であって倫理ではない。政治一般に対する倫理的批判は意味を持たない。「政治が権力という暴力機構を備えた手段を用いる限り、政治の実践者に対して特殊な倫理的要求を課するのである」とはけだし名言であるが、哲人ローマ皇帝マルクスによるストイックな政治道徳精神にも通じる政治家の倫理を説く書である。マルクス・アウレーリウス著 「自省録」(岩波文庫)は、皇帝の政治倫理や生活信条をまとめたものであり、これを読んだJ・Sミルは「古代精神の最も高い倫理的産物」と評した。政治は倫理と無縁であるとまで言い切ったウエーバーは,次のような政治家の覚悟を求めるのである。「予測した上で予測できないことも含めて一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、"それにもかかわらず"と言い切る自信のある人間だけが,政治への天職をもつ」と結んでいる。ドイツ人はニーチェに見るように出来るかどうか別にして「超人」志向の強い人が多い。愚暗な民主政治に安閑としているより、ストイックな英雄崇拝につながる危険な思想である。ストイックにかっこいい姿勢であるが、偽善につながりやすい姿勢ではないか。説くその人の政治的立場を明らかにしないでいえば嘘になる。親鸞の言葉(歎異抄)に「悪人なおもて往生を遂ぐ、いわんや善人おや」という反語に満ちたものの言い方に過ぎないのではないかと心配する。悪を自覚して悪を行なうなら倫理的に許されるのだろうか。

本書の初めの2/3ほどは中世から20世紀の現代に至るヨーロッパの政治体制・政治組織・政党と政治家の歴史を述べたものである。特に政治先進国であるイギリス・フランス、徹底した民主政治のアメリカ、そして一番遅れて20世紀に民主化したドイツの政治史はそれとして興味深いが割愛し、本書の本題である「政治と倫理」については、最後の1/3(本書岩波文庫でいえば77ページから106ページ)に述べられているので、この部分だけを味わってゆこう。政治的支配には3つの正当化があるという。@王権などの伝統的支配、A民主制に特有なデマゴーグによるカリスマ支配、B合法制による支配の3種であるという。現在はBを前面において、実質Aの政治指導者個人の資質にたよった支配が行なわれているようだ。政治組織(政党)は政治マシーン(集金・集票をおこなう)を伴う指導者民主制か、カリスマ性をもたない「職業政治家」の指導者無き民主制に分かれる。現在の複雑な技術社会でははもはや個人的能力は期待し得ない(景気回復で政治家の能力を期待するひとはいない)ので、後者の指導者なき民主制つまり「派閥政治」(多数派の数がすべて)であろうか。首相が毎年替わる日本では特にそうである。職業政治家の内的な動機付けの第1は権力感情である。権力とは「他人にいう事を聞かせる」ことに快感を覚える人々の集まりである。権力に周りには無数の服従者が必要であり、マスメディアがその有力な手法を提供している。政治家の資質には@情熱、A責任感、B判断力が必要だとウエーバーはいう。情熱とは「事柄」(仕事)への情熱的献身をいう。「情熱はそれが仕事への奉仕として責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となったとき、はじめて政治家が出来る。判断力とは精神を集中して冷静さを失わず、現実を距離を置いて見ることが必要である」とまとめている。政治家が気をつけなければ成らないのが「虚栄心」である。「権力」が自己目的化して「権力政治家」を生む心理的基盤である。

仕事としての政治のエートス(倫理)は厄介な問題である。目的は別にしても支配には権力手段を用いるために、共産主義政権も軍国主義独裁者や秘密警察国家となるのであるとウエーバーは冷静に評価している。ここにキリスト教の絶対倫理との相克が比喩的に述べられている。キリスト教の屈辱的倫理、絶対服従を強いる支配倫理、人間の原罪を問う義務の倫理などである。キリスト教の倫理と生活の整合性は西欧人が永久に問い返す問題であるが、日本人の我々にはその煩悶はなかなか分からない。政治家の本質は悪であるが、志は聖人でならなければならないと矛盾したことをウエーバーはいうが、これは「心情倫理」と「責任倫理」の相克となる。善い目的を達成するには大抵道徳的にいかがわしい手段をとる。政治にとって決定的な手段は暴力である。倫理的に見て手段と目的の間には緊張関係を孕んでいる。目的による手段の正当化に至っては心情倫理は破綻を免れない。地上のどの宗教も言っていることと真実は逆である。救いようのない非合理な世界を作った神の欠陥は疑うべくもない。だからこそ宗教が存在するといえる。この矛盾した倫理の前には、マキャベリーの「君主論」はかわいいものである。プロテスタントは最初から暴力装置を持つ権威主義国家を神の作った国家として無条件に正当化した。イスラム教は最初から戦争は必須であった。すると政治が正当な暴力行使という手段を持つのは特殊な倫理問題である。トルストイの人類愛は政治を必要とはしない。政治はそもそも「魂の救済」を問題とはしないのだ。こうした絶対矛盾にたって、ウエーバーは次のように居直るのである。「結果に対する責任を痛切に感じ責任倫理に従って行動する成熟した人間が、私はこうするよりほかは無いというとき政治家が生まれる。現実の世の中がどんなに愚鈍であり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、それにもかかわらずと言い切る自信野アル人間。そういう人間だけが政治への天職を持つ。」


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