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マックス・ウエーバー著/尾高邦雄訳 「職業としての学問」

  岩波文庫 (1980年11月 改訳) 

ドイツの若者に学問の意義、大学人の職業倫理を説く

マックス・ウエーバー(1864-1920年)が1919年1月ミュンヘンで学生を相手に行なった講演から、「職業としての学問」として出版された。もうひとつは「職業としての政治」である。「科学論論集」(1922年)に収められた。マックス・ウエーバーの著書では有名なマックス・ヴェーバー著 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 (岩波文庫 1989年改訳)を参照されたい。そこにマックウエーバーの業績などを記した。本書の生まれた背景は1918年のドイツ革命なしには語れない。ドイツ革命は、第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起をいう。その帰結としてカイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。ウエーバーは1904年から「社会科学と社会政策のアルフィーフ」という雑誌に拠って論を張り学界を指導していた。ことに1918年の革命前後には民主主義的立場に立つ政治家として華々しい活躍をした。そのウエーバーが1919年よりミュンヘン大学に招聘され再び学者生活に戻って、浮き足だった学生の気分を一喝した講演が本書となった。時代の風潮は当時の社会経済体制に対する否定に傾いていた。マルクス主義の革命理論が論を張り、他方ニーチェの超人的文明批評や預言的詩人ゲオルグらの新文化建設運動が高揚を迎えていた。この左右の両極の主張はいずれも現社会制度に否定的であった。人々の心が第1次大戦後の動揺と既存秩序に対する疑惑に満ちていた当時、感受性に富む青年・学生達の心もこうした時代の風潮に染まっていたのは当然であった。学問の世界においても学生たちは日々の研究を怠り先走りした。彼らは現実の代わりに理想を、事実の代わりに世界観を、認識の代わりに体験と行動を、専門家の代わりに全人性を、教師の代わりに指導者を求めた。このような青年に向かって、ウエーバーは「日々の仕事にもどれ」と叱咤した。訓戒的・禁欲的・禁止的な論調で語られた。

この講演においてウエーバーは3つの事を言おうとしている。第一は学者・研究者人生の生計の問題である。ドイツの学者生活の道とアメリカのそれを比較し、ドイツでは「私講師」は最初は無給で職業としては不安定で昇進は運によるが研究時間が豊富にあることをいい、アメリカの「助手」は有給だが忙しすぎる難点を挙げている。第二に職業としての学問に対して研究者の取るべき心構えについてである。学問は絶えず進化しつづけ常に乗越えられる宿命を持つことを先ず定義し、学問の専門分化の趨勢は避けられないとする。したがって専門と仕事への専心が必要である。第三には、学問の職分或いは職業倫理が求められる事を説く。まず学問の限界が論じられ、学問は政策にあらずその材料を提供するものであるとする。したがって教師の範を越えてはいけないこととして、教師個人の思想や主観を述べてはいけないし、指導者として学生に政治判断や価値判断を強いてはいけないという。明確さと責任感を与えることそれが教師の本分であるという。合理化の進んだ現代の宿命として、このような自己抑制が時代の宿命である。個々の職業において平凡な日常の要求に従って与えられた仕事の専念せよという教訓で終る。この第二、第三の論点はウエーバーの自論である「価値判断排除」の思想である。自己を限定し経験科学としての社会科学の研究が客観的な学問であるためには、政治的論理的な価値判断から自由でなければならないという彼の主張が貫徹される。本書は文庫本で65ページの小冊子に過ぎないが、3つの論点の配分は、第一の論点に12ページ、第二の論点に14ページ、第三の論点に39ページとなっている。上の纏めで十分なのであるが、表現法を味わうために少し蛇足になるが個別にまとめておこう。

1) 学者・研究者生活

日本でも1970年ごろ無給医師のインターン制度をめぐって大学紛争が起きた。近年オーバードクターの就職難が問題となっているのは、学問を志す人々の人生設計が極めてリスクの高い選択であることを物語る。20世紀前後のドイツにおけるウエーバーの大学卒業後の経験を介して語られている。ウエーバーはベルリン大学を卒業後1892年に同大学の「私講師」となり、ローマ法を講じた。翌93年に同大学員外教授となり、94年には30歳の若さでフライブルグ大学の経済学正教授となった。96年ハイデルベルグ大学の正教授に招かれたが、病気を得て休学し1903年教授職を辞退して名誉教授となり大学を離れた。1904年以降は雑誌「社会科学と社会政策のアルフィーフ」の編集者として論陣を張って学界を指導したという。ウエーバーの輝かしい研究者生活のスタートに比べると、職業として学問に専念する人の経歴は無給の「私講師」から始まる。そして教授会の推薦・選考をえて大学に就職するが、無給であるが学生からの受講料を受けるだけである。アメリカでは最初から有給の「助手」に任命される。ずっと後で講師として正式に任命される。従って財力のない学生が大学で教職につくのは非常な冒険である。正式の講師から教授に任命される機会は少なく僥倖に近い。ドイツのような国家資本主義の国では大学制度は膨大な予算に裏付けられたすくないポストを巡っての人生の競争である。幹部へ昇進できるのは気まぐれなそのときの状況次第の運しかない。職業として学問に進む者は教育者と研究者の2つの面に対応しなければならない。聴講生の数に気を配りながら、学問の修練としてアリストクラティックな仕事に堪えなければならない。

2) 学者・研究者の心構え

学問を職業とする者の心構えを説く上で、先ず学問がかなり専門化の過程になっており、自己の専門に閉じこもる事を覚悟しなければならない。専門分野において後に残るような仕事を達成したという喜びに満足することである。いろいろな体験を重視する人は学問には縁のない人である。専念する情熱の中でこそ学問上のインスピレーションを得ることが出来る。弛まぬ作業と情熱が新たな発見を生むのである。「個性」と「体験」は偶像に過ぎない。学問の世界で「個性」を持つとは、その結果である仕事のことである。滅私専念する人こそかえって仕事の価値を高める。学問上はいずれは打ち破られ、時代遅れになる業績を達成することである。学問に裏付けられた技術による主知的合理化とは魔法からの世界解放を目指してきた。それでもトルストイの「人間はいかに生きるべきか」いう問いには答えられないのである。それは人間生活一般に対する学問の職分(限界)を意味し、その価値はどこにあるのかという問題である。

3) 学問の職分

プラトンの「国家篇」の影の比喩は、学問認識一般に通用する「概念」の発見を意味した。ソクラテスはその意義を最初に自覚した人であった。ギリシャ時代からルネッサンスに至って学問研究の飛躍的進歩は「合理的実験」で成し遂げられた。こうして精密な自然科学が成立した。これはべつに「神の道」への過程ではなくそれとは無関係である。学問の意義は学問の職分と密接に絡んでいる。学問は「知るに価する何かがある」という前提から始まる。学問を自分の天職とする人は「学問それ自体」知るに価すると考えるだろう。近代医学の前提は生きるに価するかどうかではなく、死を避けるにはどうするかに徹する。自然科学は前提を考えやすいが、社会科学という学問は問題が多い。教室では先ず政策を取り上げてはいけない。事実の認定、論理的な関係、及び内部構造のいかんという学問方向と、文化的価値、共同体や政治団体のなかでどう行動すべきかに答えることは全然異質の事である。預言者やアジテータは教室の演壇に立つべきではない。黙って聞く立場の学生に政治的見解を押し付けてはいけない。それは批判が可能な世間に出てやるべきことである。今日世界に存在する価値秩序はたがいに解きがたい対立のなかにあり、個々の立場を学問上支持することは無意味なことである。多神教か唯一神教かを争うようなものである。学問はおよそいかなる人生問題においても指導者たるべきことは許されていない。学問の職分は明確さと、専門的であるべき職業として事実関係の自覚と認識を役目とすべきである。


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