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河合康三著 「白楽天」

  岩波新書(2010年1月)

中唐の流行詩人 生きることの喜びを歌う

正直に言って、私は白楽天の詩集は手にしたことはない。松枝茂夫 「中国名詩選」上・中・下 岩波文庫 や前野直彬 「唐詩選」上・中・下 岩波文庫 に出ている白楽天の詩を読んだにすぎない。しかし平安時代の文学は「白氏文集」なしに考えることが出来ないくらい、平安時代の貴族の間には親しまれたようだ。一番有名な「長恨歌」は源氏物語に強い影響を与えているように、平安時代には白楽天の詩は同時代的に読まれたようである。一世を風靡した中唐(安禄山の乱後)の流行詩人で、政治の中枢にも上り詰めた高級官僚であった白楽天は、愛の詩人にして身近な言葉で日常の喜びを謳う閑適の詩人であった。当時の多難な人生の中で、悲観よりは楽観を選んだその詩は、中国の文学に新しい面を開いた。詩人は悲劇を歌うのが文学の本質であるという世の中の常識に反して、白楽天は「卑の元、俗の白」といわれるように分かりやすい言葉で「幸福を詠う詩人」であった。宮刑にあって「史記」を著わした司馬遷、屈原は国を追われて「離騒」を謳い、孫子は足を斬られて「兵法」を書いた。唐時代の有名な詩人陳子昴や杜甫は薄官のまま死に、李白や孟浩然は官にもなれずに一生窮迫のまま終った。なのに白楽天だけは高級官僚に上りつめ、身の処し方がうまく一生安楽に生活に困ることもなく、ノー天気な歌を歌い続けた稀有な詩人である。悠々自適の晩年を楽しんで長寿を全うして75歳でなくなった。死後も晩唐、五代、宋初期までは唐代随一の詩人と称えられた、まことに幸せな人である。しかし当時の政界で政治的立場を全うできた人などはいない。白楽天の渡世の秘密は、権力に深入りせず局外に身を置いたことではないか。それでもとばっちりを喰らう場合もあるので、白楽天は幸運としか言いようがない。

白楽天のよろこびとは、特別な快楽ではなく、のんびり朝寝を楽しむ、季節を楽しむ、友人と酒を飲んで談笑する、広い邸宅の池の遊びに身を任せる程度の二以上的な安息であった。それを言葉に写し取ったのが白楽天の文学である。日常の和みに心地よくくるまれた文学、それが白楽天の創出した「足るを知る」境地であろう。論語のいう「中庸」という倫理基準ではなく、白楽天は自分の覚える快楽の尺度である。六朝時代の「竹林の七賢」や陶淵明の系譜にもつながるが、白楽天は貧窮した世捨て人の厳しさはない。白楽天の「閑適」とは生へのたくましい意欲、人間を肯定する強い精神が根底にあるのではないだろうか。日本の文学が無常観のもとに、恋と季節を決め細やかに詠むのとは異質の文学がそこにある。
参考までに、漢詩の約束事については、本書を読むにはとくに必要はないが、漢詩の詩形探韻についての最低限度の知識はあった方がいいと思う。
著者河合康三氏のプロフィールを紹介する。1948年静岡県浜松市生まれ。1971年に京大中国文学科卒、大学院博士課程を中退して、京大助手から東北大学文学部専任講師、助教授となった。1987年母校に戻り、京大文学部助教授、1995年教授となる。京都大学文学部は中国文学のメッカとしての伝統がある。1991年蘆北賞受賞。2000年『中国自伝文学研究』により京大文学博士。中唐の詩を専門とし、恋愛詩を論じた『中国のアルバ』のような著書もある。

高級官僚への道

白居易(772−846年)、字は楽天、盛唐の玄宗皇帝を退位させた安禄山の乱が起きたのが775年で、乱が終息して10年あまりの頃に生まれた。時の唐の皇帝は代宗になっていた。しかし唐の朝廷は盛時の力を失っており、節度使(藩鎮)は各地で独立した動きを見せ、これに対する朝廷内部においても藩鎮を力で抑えようとするか、懐柔しようとするかで方針が定まらず、これに宦官勢力も絡んで、官僚・宦官・藩鎮の三つ巴の権力闘争にあけくれ、白楽天の死後50年ごろ最大の藩鎮勢力の朱全忠が906年に唐王朝を滅ぼした。したがって白楽天は中唐から晩唐にかけて唐の朝廷にいたことになる。白楽天の父白季庚は鄭州の地方官で、祖父も父も科挙を通ったが名門の生まれでなかったため一生しがない地方官で終った。親族を見ても白楽天以上の官位に上がったものはいない。唐代はふつう初唐、盛唐、中唐、晩唐の4つの時期に分けられる。この区分は盛唐をピークとするという文学的価値観からきているが、歴史や文化もこの区分に従うようである。安禄山の乱後8世紀半ばから始まる中唐という時代はすでに次の宋につながる新しい事態がおき始めていた。貴族勢力が安禄山の乱で衰退し、名門貴族の占有していた高級官僚への道は、科挙を通ることによって官界の最高位にまで上がる道に代わったのである。韓愈、白楽天、劉兎錫、柳宋元、元槙らは名門の出ではなくても宰相レベルに上がることが出来る時代となった。そして政治家が同時に文学者であることも中唐という時代の特徴であった。知識人階級が同時に文人政治家であったということだ。

白楽天が科挙に合格したのは800年のことである。試験官は高郢のもとで進士科に進んだ。科挙の試験はそのときの試験官による選抜であるため、その試験官は師であり政治的庇護者でもある。それで一生が決まることもある。そして803年には吏部が主催する試験「書判抜萃科」に合格した。科挙に合格しても幾つかの部が主催する各種試験に合格しないと文人官僚には採用されない。この時の合格者8人のなかに生涯の盟友である元槙がいた。そして二人は秘書省校書郎の任についた。当時の朝廷では王叔文らが主導する改革が宦官の利害に触れて挫折し、8人の官僚は政治犯の汚名である「司馬」の官名を与えられ流刑にあうという「八司馬の貶」と呼ばれた政変があった。八司馬のなかには劉兎錫、柳宋元がいた。二人は一足先に官僚の道を歩み始めたことが、この政変に巻き込まれることになった。白楽天らは秘書省校書郎という末席の官に居たおかげで無事であった。このように権力闘争に伴う左遷は官界の日常茶飯事である。彼らには敗者復活の道は開かれなかったという。806年時の皇帝憲宋は特別の任用試験「制科」を実施し、白楽天と元槙は合格し、元槙はいきなり左拾遺という顕職に、白楽天は県尉を命じられ、颯爽と官界にデビューした。時に白楽天は30歳であった。

官僚としてのスタートと文学者としてのスタートを同じくすることは白楽天にとって、不遇を嘆く文学が乏しいという一大特徴を与えてしまった。「発奮著書」とか「賢人失志」という文学のテーマがないのである。挫折を知らない人には人の悲しみは分らないということだ。白楽天の文学は最初から「諷諭」と「閑適」を2本の柱とした。比較的早い時期に書かれた「常楽里閑居」という32句の詩は、身を政争から引いて自分を無用者の系譜において、そして満たされた暮らしぶりを謳歌するのである。結構金銭には敏く数字に強い性格である。 友人との楽しみは白楽天の文学の主要なテーマであった。 中唐の新しい文学「伝奇」が生まれていた。 「伝奇」とは短編小説にちかい、人間のドラマを書き記す文学である。白楽天の周りで作られた伝奇はもっぱら恋愛小説で、これが日本の源氏物語に与えた影響は大きいといわれる。 白楽天の最初の任地は楊貴妃が処刑された馬嵬に近かったので、806年この地で「長恨歌」が生まれた。 儒教を重んじる士大夫階級文化である伝来の中国の文学には恋愛の要素は少ないといわれる。しかし「長恨歌」は男女の愛とその悲劇を正面から謳ったものである。 「長恨歌」は120句からなる綿々たる情愛と恋慕の長歌である。詳細はあまりに有名なので省略する。            

流行詩人としての成功

白楽天こそ中国の歴史の中で最初の流行詩人といえる。白楽天の詩は士大夫階級を超えて庶民、女性にいたる幅広い層に口づさまれた。3度の科挙の試験に合格し高級官僚の道に乗って世間の注目を浴びた白楽天は、同時に大衆文学のスターとして華々しい成功を収めたのである。白楽天の詩を書き写して市で売買されるほど流行し、朝鮮、日本にも大量に流出したという。流行したのは「秦中吟」、「長恨歌」、「菊花」などであり、主として通俗的な作品や艶詩がもてはやされた。「洛陽の紙価を高からしめた」という故事で有名な西晋の左思もびっくりするほどの人気が白楽天に集まった。その流行の一因は、広範な人に親しまれる分りやすさにあったようだ。文学を難解なものからあらゆる面で規範を排したのは同時代の韓愈と白楽天である。従って「元は軽、白は俗」、「浅切」というそしりが生まれた。これをいい出したのは北宋の蘇軾である。文壇でも軽視された。しかし五代の「旧唐書」では元白を唐代文学の代表と見なしている。1060年北宋時代の欧陽修が完成した「新唐書」では、古文を重んじることから、唐代文学の代表は韓愈ということになっている。宋の初めには、白楽天風の文学は「白体」といい、賈島・孟郊らの「九僧詩派」、難解な李承隠を代表とする「西昆派」という流れがあった。一般のレベルでは白楽天、特殊な読者層には賈島、最も高い難解なレベルには李承隠の詩がもてはやされたが、それらを一掃して宋代の新しい文学を創造したのが欧陽修、蘇軾であった。正統的な儒家の文学観から晩唐の杜牧は「元は軽、白は俗」と避難している。

文人としての名声が広がってゆくのが通俗性にあっては、官僚としての立場としてはまずい。そこで白楽天は文人として軌道修正を行うのである。白楽天は正統的な文学すなわち諷愈詩の分野に取り組んだ。諷愈詩のなかでも代表的なのは、「新楽府」50首である。民間で謳われている恋を歌う叙情歌を採取するのが楽府の仕事であった。詩と曲が集められ、曲の名が「楽府題」であって、曲には替え歌のように新たな歌詞が作られた。これに対して809年白楽天は新たな題「新楽府」を作って、内容も政治・社会への意見を籠める楽府本来の趣旨を取り戻そうとした。これは社会への憤りを含む杜甫の流れにつながる。政治に対する賞賛と批判を目的とする詩経以来の「美刺」の伝統の再興である。なかでも後宮の美女が色あせてゆく悲しみをうたう「上陽白髪の人」に、後宮制への批判をこめ、「新豊折臂の翁」に反戦を籠めた。「秦中吟」10首も諷愈詩であるが、裕福なものや風俗への批判である。白楽天の諷愈詩には火を噴くような激しい怒りがあるわけでもなく、風俗画のように描いて終わりである。平易な表現、叙事的な語り口、具体的な日常を髣髴とさせる表現力という点に白楽天の特徴が現れている。

諷論と閑適

ここで初めて白楽天にも不幸が訪れる。811年母がなくなり、さらに娘もなくして3年間喪に服した。その間は無給であり生活は苦しかったようだ。814年朝廷に戻った白楽天は皇太子のお守役という閑職についた。翌年815年宰相武元衡が暗殺されるという事件が発生した。これは藩鎮討伐をめぐる主戦派と妥協派の争いで、よせばいいのに局外者白楽天は徹底捜査を主張し、政変後権力についた妥協派からにらまれて、江州司馬として(つまり罪人として)左遷された。江州への旅の詩「舟中雨夜」は暗澹たる白楽天の心象が表現されているが、「舟行」にはのんきな旅を楽しむ詩がある。これも「白氏文集」の「閑適」の部類に入れてある。この「舟行」は左遷という同じ事態を喜ばしい面から捉えなおす、詩の感情表現に「閑適」という新しい形を付け加えたのである。「琵琶引」という詩は左遷行の見である自分の心境を、数奇な運命を辿った女性の心情に重ねて哀切深く、情緒豊かに謳うのである。女性の人生を語る「物語詩」つまりストーリーテーラーである。民間の歌謡文芸を詩にまで高め、文学に取り込んだものである。

江州司馬という役職は政治犯に付けられたもので実質的な仕事は何もない。食べて寝るだけのまことに気楽な生活である、俸給も都での半分くらいは出る。たっぷり時間と閑を使って、白楽天は文学について、自分の作品の編集についてまとめるのである。そこで白楽天は盟友元槙に文学論の手紙「元九に与うる書」を送った。「詩経」の後文学は衰退に向かい、詩経の持つ諷愈性つまり社会的効用が失われたという。恨みを述べる「楚辞」、陶淵明は田園のみ、蘇武は悲しみだけ、謝霊運は山水だけ、唐代の詩人李白は詩経には及ばない、杜甫は詩の道に合うのは10に1しかないという有様だ。そういう思いのなかで、白楽天は文集を編集する。815年44歳までの詩800首を4つに分け、「諷愈」、「閑適」、「感傷」、「雑律」である。白楽天は閑適の意義つけのため、儒家の説く「兼済」、「独善」を詩のジャンルである「諷愈」と「閑適」に結びつけた。孟子の「独善」とは世に用いられない境遇にあったら自分ひとりの修行に務めるという意味で、白楽天の「閑適」とは自分ひとりの生活をエンジョイすることである。いわばこじつけに等しいが白楽天はそれで納得したのだろう。後漢以来「隠逸」の文学の系譜は「竹林七賢」阮籍ら7人、六朝の陶淵明などであるが、隠逸の文学に鮮烈に現れる政治、体制との対峙の姿勢が白楽天の「閑適」には見られない。喜びを謳う文学を自覚的、意識的に作り出したのが白楽天の存在意義である。 盟友元槙は白楽天の生涯の友人であった。文人間の交情は魏・晋の文人から始まる。中国には「管鮑の交わり」という友情を大事にする国である。元槙へ贈った詩には「微之に寄す」二百句、「元九に与うる書」などがあるが、なかでも「三五夜中新月色」は有名で、和漢朗詠集に載せられ、源氏物語にも引かれた最も友愛に満ちた詩である。白楽天と同じく左遷されていた元九と白楽天は左遷先での移動中に、峡州でばったり再会するという運命のいたずらに恵まれ三日間を共にしてして詩の交換をした。運がよければ又合おうという楽天性に満ちた詩である。与えられた苦境に対して、悲観に沈むよりも、現実をしなやかに受け止めながら、希望に向かうのが白楽天の真骨頂であった。

悠々自適の晩年

820年白楽天49歳の時、憲宗がなくなり穆宗が即位して、白楽天は召還された。新たな職は司門員外郎から知制誥になり、皇帝の任命書の起草に当たる職である。そして同年中書舎人と云う中央の枢要な地位を得た。元九も許されて長安に戻り、今度は宦官に接近したため、朝臣との間に不和が生じた。時の宰相裴度と争って両者とも罷免され、元九は同州刺史として都落ちすることになった。この政変止むことなき宮仕えに、白楽天はもはや諦念を通り越して、無気力な歌「曲江秋に感ず」を作った。ここで白楽天は長安にいる限り何らかの政変の影響は避けがたいので、選択して自ら都落ちを志願した。「外任」(中央での出世をあきらめ地方勤務)としてまず、杭州刺史として4年の任期をすごし、824年洛陽に名誉職を求めて移り、ここに自宅を買い求めた。825年蘇州刺史となり、翌年秘書監となって長安に戻った。828年閑職を求めて洛陽に移った。それ以来洛陽を離れることは無かった。830年洛陽の長官に任じられたが、832年62歳で再び閑職を願った。もはや洛陽の隠居を決め込んだようだ。白楽天が歩いた任地を振り返ると、長安からまず江州、忠州、そして長安に戻り、杭州、洛陽、蘇州、そして洛陽と長安を行ったり来たりして、最終的には洛陽に落ち着いた。いわば日本でいうと西行以来の「歌枕」という景勝地巡りがあるが、白楽天は任地に関係する文人の詩や歴史を学んで、それぞれの系譜に連なっている。「東坡」の言葉で阮籍→陶淵明→王績→白楽天→蘇軾と連なる系譜が出来る。829年の洛陽に戻ってから75歳で詩にまでの17年間は履道里の邸宅で悠々自適の生活を楽しんだ。ここで白楽天は「中隠」という詩を作って自分の世界を守った。喧騒の町に住むのではなく、林の中に住むのでもなく、「官と隠の間」にある事をいう。閑適詩の意義は心の中の自然に生じた感情を謳うことであり、かつ平和な世を謳歌することである。835年朝廷では牛李の闘争が激化し、宦官との武闘となって「甘露の変」が起きた。このように白楽天の周りは不穏な動きに翻弄される様相であるので、白楽天のいう平和な世があるはずもなかった。白楽天の愉楽の文学は実際の生活や現実を映し出したものではなく、白楽天によって創造された虚構の世界かもしれない。現実が幸福に満たされているのではなく、現実のなかから幸福を掬い取ったのである。下に玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌った「長恨歌」を漢文で示します。数箇所、ソフトによっては漢字変換不能の箇所があり、当て字に変えてあります。

長 恨 歌

漢皇重色思傾国   御宇多年求不得   楊家有女初長成   養在深閨人未識
天生麗質難自棄   一朝選在君主側   回眸一笑百媚生   六宮粉黛無顔色
春寒賜浴華清池   温泉水滑洗凝脂   侍児扶起嬌無力   始是新承恩沢時
雲鬢花顔金歩揺   芙蓉帳暖度春宵   春宵苦短日高起   従此君主不早朝
承歓侍宴無間暇   春従春遊夜専夜   後宮佳麗三千人   三千寵愛在一身
金屋粧成嬌侍夜   玉楼宴罷酔和春   姉妹弟兄皆列王   可憐光彩生門戸
遂令天下父母心   不重生男重生女   驪宮高処入青雲   仙楽風飄処処聞
緩歌慢舞凝糸竹   尽日君主看不足   漁陽太鼓動地来   驚破霓裳羽衣曲
九重城闕煙塵生   千乗万騎西南行   翠華揺揺行復止   西出都門百余里
六軍不発無奈何   宛転蛾眉馬前死   花鈿委地無人収   翠翅金雀玉掻頭
君主掩面救不得   回看血涙相和流   黄埃散漫風蕭索   雲桟紊紆登剣閣
蛾眉山下少人行   旌旗無光日色薄   蜀江水碧蜀山青   聖王朝朝暮暮情
行宮見月傷心色   夜雨聞鈴腸断声   天旋地転廻竜馭   到此躊躇不能去
馬嵬坡下泥土中   不見玉顔空死処   君臣相顧尽沾衣   東望都門信馬帰
帰来池苑皆依旧   太液芙蓉未央柳   芙蓉如面柳如眉   対此如何不涙垂
春風桃李花開夜   秋雨梧桐葉落時   西宮南内多秋草   洛陽満階紅不掃
梨園弟子白髪新   椒房阿監青蛾老   夕殿蛍飛思悄然   孤灯挑尽未成眠
遅遅鐘鼓初長夜   耿耿星河欲曙天   鴛鴦瓦冷霜華重   翡翠衾寒誰与共
悠悠生死別経年   魂魄不曾来入夢   臨邨道士鴻都客   能以精誠致魂魄
為感君王展転思   遂教方士慇懃覓   排空馭気奔如竜   昇天入地求之遍
上窮碧落下黄泉   両処茫茫皆不見   忽聞海上有仙山   山在虚無縹渺間
楼閣玲瓏五雲起   其中綽約多仙士   中有一人字大真   雪膚花貌参差是
金闕西廂叩玉扉   転教小玉報双成   聞道漢家天子使   九華帳裏夢魂驚
攬衣推枕起徘徊   珠箔銀屏麗離開   雲鬢半偏新睡覚   花冠不整下堂来
風吹仙袂飄揺挙   猶似霓裳羽衣舞   玉容寂漠涙蘭干   梨花一枝春帯雨
含情凝睇謝君王   一別音容両渺茫   昭陽殿裏恩愛絶   蓬莱宮中日月長
回頭下望人環処   不見長安見塵霧   唯将旧物表深情   鈿合金釵寄将去
釵留一股合一扇   釵擘黄金合分細   但令心似金細堅   天上人間会相見
臨別慇懃重寄詞   詞中有誓両心知   七月七日長生殿   夜半無人私語時
在天願作比翼鳥   在地願為連理枝   天長地久有時尽   此恨綿綿無尽期


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