2010年9月3日

文藝散歩 

永井荷風著 野口富士夫編 「荷風随筆集」 (上・下)
岩波文庫(1986年9月)

永井荷風の江戸文学趣味と淫靡な世界

永井荷風という人は世をすねた奇人というスタンスを貫いた人である。こういうポテンシャルの低い生き方は他人眼には楽なように見えて、本人の志は高く持たないと生存し得ない。一見自堕落な放蕩人とみえて、反面高踏な文藝趣味人という対比で見る眼もある。こういう生き方は「高等遊民」といわれ、明治・大正時代の文筆家の憧れのようなところがあった。しかし昭和初期の軍靴の前に圧殺された。昭和ファッシズムを前にして荷風は一層頑なに拙を守った。その辺の詳細は永井荷風の日記「断腸亭日乗」で十分に味わうことが出来る。なぜこうも文明開化を嫌ったのか、それはあまりに浅はかな外国崇拝によって、日本文化(江戸文化)の伝統のよさが踏みにじられからであろう。さらにいえば奈良平安時代以来の中国文化(漢文文化)の伝統が廃ることを恐れたためである。中国文化から西欧文化への切り替えは、日本文化を根底から破壊しかねなかった。その日本文化のよさは、荷風にとっては江戸軽文学(俳句、狂歌、漢詩文、北里文化、浄瑠璃、三味の音、長唄・・・)の伝統を守ることで、明治の官吏や軍人、産業人、学者らの伝統無視(破壊)の態度が許せなかったようだ。日本の天皇制軍国主義は太平洋大戦の敗戦によって西欧文化の一層の浸透とアメリカ軍の占領を招いた。文化面では明治以来の西欧文化の延長であることから、カビの生えたような天皇制軍人専制国家から脱して、自由主義的民主国家に脱皮できた。そこでまた中国文化の伝統を失った。ろくに漢字が読めない首相がいて、大きなルビさえ間違って読むという教養のなさを露呈している。

本書 野口富士夫編 「荷風随筆集」は、恐らく数多い荷風の雑文のなかから、編者の考えによって選ばれた随筆集である。そこで一応編者の事も知っておく方が便利と考えて、プロフィールを紹介する。野口 冨士男(1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、東京麹町に生まれ、本名は平井冨士男。慶應義塾大学文学部予科に進むが留年し、1930年に中退した。1933年、文化学院文学部卒。水兵として終戦を迎え、1950年ごろから徳田秋声の研究に専念、約10年を費やして秋声の年譜を修正し、伝記を書いた。1965年、『徳田秋声伝』で毎日芸術賞。1975年、『わが荷風』で読売文学賞、1980年、短編「なぎの葉考」で川端康成文学賞。1982年、日本芸術院賞。1986年、『感触的昭和文壇史』で菊池寛賞。1987年、芸術院会員となった。小説家というよりは文藝評論家というジャンルの仕事をしてきたようである。荷風論の仕事があり、岩波文庫から1986年本書「荷風随筆集」の編を委託された。本書は上下2冊より成り、上巻は「日和下駄」から始まる東京散策随筆集、下巻は「妾宅」で始まる文芸雑記随筆集である。かなり分野の違う内容の随筆集をうまく配分して上下二冊としている。独立した荷風随筆集と見てよいだろう。


「荷風随筆集」上

東京はいつも「都市再開発」で作り変えられている。ひとときも建築の手を止めない。最近は六本木ヒルズ、潮留などの新都市が出来上がった。この国の土建国家たるや恐るべき物があり、東京駅周辺でも旧逓信ビルの建替えにおいて、文化遺産を勝手に壊したとして2009年鳩山総務大臣が日本郵政(株)の社長を罷免しようとしたら、逆に鳩山大臣が罷免されたという。古くなれば壊して新しい建築物や都市街を作りなおすことが国是となっているのだ。ましてや明治時代や江戸時代の文化的遺物などは簡単に破壊される。ヨーロッパのように中世のままに町が保存されていることは、日本人からするとありえないことである。京都においても町屋は取り壊されマンションやビルとなり、五重の塔や三方の山なみも高層ビルによって見えなくなりつつある。古いことは悪、時代遅れは損という概念が染み付いている。それは一度たりとも自分の頭で物を作ったことが無い民族性のなすところであろう。建国以来2000年弱、すべてを模倣でやってきたので、時代が変われば新しいものが欲しくなり古いものは簡単に棄て去るのである。何がいいもので、何がよくないものか自分の頭で考えたことが無いのであろう。「進取の気風」とかもてはやされて日本人の美徳といわれてきたが実は創造性の無さに原因していた。日本の歴史で2回だけ日本国風文化の機会があった。平安時代と江戸時代である。遣唐使を廃止しして仮名文字を発明し10−11世紀の日本文学は世界に冠たるものがあった。鎖国によって江戸元禄文化が熟した。残念ながら平安時代と江戸時代の文化の中心は色恋事オンリーの文化であった。軽いといわれるのもやむをえない。幸か不幸か中国のような政治文化は生まれなかった。荷風先生もやはりこの江戸時代の軽文化の系譜にある。日本国家の都市再生の宿根は五十嵐敬喜・小川明雄著 「都市再生を問う」(岩波新書 2003年4月)に詳しいので参照して欲しい。

永井荷風は東京にこだわり続けた人である。「断腸亭日乗」に延べているように、荷風は東京小石川に生まれ、父が文部省の官吏であったのに伴い、麹町の官舎、大久保の「断腸亭」に少年期と青年期を父の庇護のもとに過ごし、父の死後に芸妓を大久保の実家に入れたことより、弟や母との折り合いが悪くなって離婚し、そして家を出て築地の河岸近くの貧民窟に暫く居た。ここで自由気ままな放蕩生活を送った後、文筆業の稼ぎがあって赤坂の大使館ちかくに洋館を買って住んだ。なずけて「偏奇館」と呼んだが、ここに昭和20年3月9日空襲で焼け出されるまで約30年ほど住んだ。そして疎開で関西を転転としたあげく終戦を迎え、戦後派一時期熱海の親族の家に転がり込んでいたが、焼け野原の東京で住めないので、千葉県市川氏に家を買った。戦後はこの市川の家から殆ど毎日銀座と浅草にでかけたが、1959年(昭和34年)81歳で病死するまで市川の家に住んだ。市川には13年ほどいたことになり、第2の長期居住地となった。荷風はその住んだ家に独特の情緒を持っていた。下町の貧民街にはそのよさがあり、山の手の小石川、赤坂には又そのよさを満喫していたようだ。東京の住居が文化論の背景をもって語られるのが本書の面目である。編者野口富士夫氏は本書上巻の頭に、「日和下駄」を持ってきたのは、東京全体を見渡せるからである。アンソロジーを形成するべく配列されている。「日和下駄」は大正3年から9回にわたって「三田文学」に連載され、副題「一名 東京散策記」をもつ。内容は名所、場所の各論ではなく、「淫祠」、「閑地」といった主題を定めて文明論の角度から随筆風に批評を加えるものだ。荷風は父が実学を学ばせるためとして明治36年23歳で私費でアメリカに留学し、途中から銀行勤務のためフランスにゆき足かけ6年間28歳まで欧米で生活をした。帰朝後明治42年「帰朝者の日記」、「アメリカ物語」、「フランス物語」(発刊禁止処分)を発表した。帰朝後東京は荷風の眼にどのように映ったのだろうか。それは日露戦争後列強の新参者として日本の、猿真似に等しい西洋模倣に対する嫌悪感、近代都市というにはあまりにお粗末な東京の蔑視以外の何物でもない。ただ本書は東京への呪詛で終始するものではなく、失われつつある江戸時代の豊かな色彩と渾然とした秩序の時代を慕う構成になっている。江戸を東京へ結びつけることによって、荷風は嫌悪感から文明批評へ展開したのである。

日和下駄のなかで荷風は「江戸名所に興味を持つにはぜひとも江戸軽文学の素養がなくてはならない」といっている。東京の場所を名所たらしめるためには、歌枕が必要である。そして場所が文学と結合するのである。旧都奈良を見るには「万葉集」を諳んじなくてはならないし、平安京都を見るには「古今和歌集と新古今和歌集」の歌を諳んじなければ興も沸かない。東京を見るには江戸時代の俳句、浄瑠璃、歌舞伎などの名場面が口から出てこなくては話にならない。江戸の名所、情緒は関東大震災で壊滅し、明治大正時代の名所や風俗は昭和20年の大空襲で灰になった。しかし建築物が灰になっても、山や坂や谷が平地になっても、場所が文章と結合しているかぎり、人の思いを掻き立てることが出来る。荷風の戯作者気質というものは、荷風が慶應義塾教授時代の明治44年におきた「大逆事件」の被疑者護送馬車を見て、何も発言しなかった自分を責めて、こう言ったという。「以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるにしくはなし」と。荷風が「江戸軽文学」というとき、太田蜀山人、寺門静軒、成島柳北らの漢詩文が基礎になっている事を見逃すことは出来ない。荷風の父、そして父の妻の家は鷲津毅堂という漢文学者の家であった。したがって永井家には漢文の素養が流れていたのである。荷風には和漢洋の教養があって、そういう教養は随筆のあちらこちらで発揮されている。電車やバスや馬車の走る表道を避けて、横路、裏道、小路に逃げ込む、さすらうという姿勢が一貫して本書を流れている。荒川放水路の探索にはいつも寂漠、荒涼とした感じが人生の最後まで荷風を特徴付けている。荒野のさすらい人が荷風である。

日和下駄(一名 東京散策記)(大正3年夏「三田文学」、大正4年4月籾山堂より出版)

岩波文庫本の随筆集の頭に永井荷風著「日和下駄」の自筆原稿の写真が掲載されている。これを見ると荷風の原稿用紙は和紙に罫線は引かれておらず、毛筆で絵入りで書かれている。これなら直接写真印刷が可能である。なんと自筆の原稿を絵入りで見られるとは豪華な本では無いか。その絵に日和下駄(歯の高い下駄で、雨降り時に履く下駄のことで、婦人用には戦後暫く愛用されていた)が見えるが、まるで天狗が履くような高下駄である。傘をもって和服姿の荷風が立っている図である。いくら東京の道が悪いのでいっても、この姿では晴れた日には異様である。荷風はこう書き出している。「人並みはずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄の蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気が多い東京の天気に全然信用を置かぬからである。」荷風は幼少時代から東京散歩が好きで、実家のあった麹町永田町の官舎から、神田錦町の英語学校へ通う道すがら、半蔵門から吹上御苑、代官町、竹橋、一ツ橋、宮内省、桜田門、九段、小石川、両国の水練場などで遊んだという。東京の散歩は永井氏にとって生まれてから今日にいたる過去の生涯に対する追憶の道を辿ることであった。今日の東京(明治の終わりごろ)を歩むことは無残にも傷ましい思いをさせるという。無論江戸の風景が残っているわけでもないし、京都の風景に及ぶべくも無いが東京は荷風の生まれた場所であり幼少の記憶は消えることはなく特別の興趣を引き起こすのだ。ここに荷風は面白い事をいう。「江戸名所に興味を持つには是非とも江戸文学の素養がなくてはならない。一歩を進むれば戯作者気質でなければならない」という。これには奈良飛鳥を散歩するには万葉集の歌が出てこなくてはならず、京都を散策するには古今集や新古今集の歌、源氏、平家物語の王朝文学のことが出てこなくてはならないのと同様に、東京を散策するには江戸の俳句、狂歌、歌舞伎、人情本の素養がなくてはならぬということである。これは当然なことで、和歌、俳句を読むにも「歌枕」や「本歌取り」が必要なことと同じである。そして荷風は散歩のお供には「江戸切絵図」を持参したという。江戸時代の地図帳である。現代の時代劇小説作家にもなくてはならない江戸地図である。銭形平次が走った八丁堀の溝割通りの風景が目に浮かばなくては時代小説はかけない。そして荷風氏の情緒とは、裏町を歩くときに耳にする三味の音に感動することである。これでは到底新時代に生きることは出来ないと荷風氏は自覚している。「表通から日の当たらない裏道へと逃げ込み、そして人に後れてよろよろと歩み行く、得意と悲哀を見ることである」という頽廃の情緒を理解できなければ本書を読む資格はない。「日和下駄」は10章からなる小冊で、場所ではなく、テーマを設定している。「淫祠」、「樹」、「地図」、「寺」、「水」、「路地」、「閑地」、「崖」、「坂」「夕陽」からなる。

「淫祠」:「淫祠」とは広辞苑によると「邪神を祀った社」ということである。裏町に捨て置かれたように小さな「淫祠」がある。もの哀れであり何となく滑稽な信仰の残滓である。しかし教育のためにたてた明治の功労者の銅像などを乱立させても、なお一部の愚昧なる民の心をう奪うことは出来なかった。お地蔵さま、庚申さま、お狐のお稲荷さん、聖天様、閻魔さまなど様々な像がひっそりと立っている。縁起と効験のあまりに荒唐無稽なることも面白い。大阪の法善寺横町の水掛地蔵、京都の油かけ地蔵などに、お祈りをする庶民は勝手な願掛けをしてどうなることやら、それが下町の風物詩である。 
「樹」:「眼に青葉山時鳥初鰹」、浮世絵江戸名所絵の良さはこの言葉に要約されている。今でこそ東京砂漠といわれるが、明治には東京は緑の多い都であった。九段坂上、神田明神、湯島天神、芝愛宕山などの高台に登って東京を見わたすと、結構な森が見えたという。荷風は東京の都会美なるものがあるとせばそれは山の手の老樹と下町の河であるという。銀杏の木で有名なのは麻布善福寺、浅草観音堂、小石川植物園、松で有名なところは市ヶ谷の高力松、高田の鶴亀松、小名木川の五本松など江戸時代から有名な松の名所を挙げてゆくが、はたして今では一箇所くらいは残っているだろうか。桜の名所として上野の秋色桜、平川天神の鬱金の桜、青山梅窓院の拾い桜など名前も美しい。柳の名所として柳橋、外桜田の堀、和田倉御門の堀などの名を挙げている。荷風の思い出の時代から1世紀たった今の東京の樹木は全く偲ぶてがかりも無いだろう。
「地図」:「蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便利なる嘉永版の江戸切図を懐中にする」を荷風は書いている。正確なる「東京地図」より不正確なる江戸絵図は風景を思い起こすのに便利であると云う。なにしろ絵図であるので、山や神社なども絵入りで書いてあるだ。荷風は成島柳北の随筆、芳幾の錦絵、清親の名所絵、東京絵図を合わせ照らして明治初年の混沌たる時代感覚に触れる事を楽しみとしているという。江戸切り絵に書かれた大名屋敷は大抵陸海軍の御用地、または皇室、公家の御用邸になった。大名の名園は軍人のクラブに変わった。いま江戸の地図を見るには、市古夏生・鈴木健一校訂 「江戸名所図会」 ちくま学芸文庫 全7巻プラス別卷「江戸切絵図集」が大変貴重な文献である。私も1997年に発行されたときに買って愛読している。
「寺」:江戸切絵図をみれば、江戸の町から大名・武家屋敷と神社仏閣をのぞいたら、残る庶民の住むところは海近くの下町しか残されていない。上野寛永寺、芝増上寺、谷中天王寺など、名高い京都・奈良の寺とは異なって東京に散在する寺には又別種の興味があるという。「どぶ臭い掘割と腐った木の橋と掘割長屋からなる陰惨な光景中に寺院の屋根を望み」と荷風は木阿弥の劇を思い出すという。寺のことを書くというよりは、東京の貧民窟と貧民の生活を書く。「彼らが江戸の専制時代から遺伝し来たったかくの如き果敢ない裏淋しい諦めの精神が漸次新時代の教育その他によって消滅し、覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ下層社会の悲惨な生活が開始され、フランス革命にいたる」と複雑な荷風の感情を述べる。開明された時にこそ庶民の悲惨な生活が始まる。では蒙昧なままの方が生活は単純で怠惰な方が幸せというのだろうか。ここが荷風の耽美主義の難点である。また寺院の構造として、建築物だけが寺院を作るものではなく、樹木、地形、そして背景との複雑な総合美術であると云う説は納得が行く。 
「水」:東京のよさは緑と水だと荷風は言った。水は交通手段として生活と情緒に深く関る。水とは、海湾、河川、細流、運河、溝渠、池、井戸のことである。海湾では品川の海、お台場、墨田河口、築地から月島永代橋、石川島辺りの風景、河川では墨田河口沿いの工場群の雑然さに江戸の名残はないと嘆くばかり。運河については、箱崎、深川、本所柳原、京橋八町掘り、霊岸橋あたり、日本橋、思案橋などが東京の最も偉大なる壮観を呈するところという。 掘割には物揚場があり、神田の鎌倉河岸、牛込揚場には露天も出て雑踏する庶民の生活風景は絵画的描写の感興を覚えるという。溝渠(どぶ川)には、愛宕下の桜川、神田鍛冶町の逢初川、真崎にでる思川、小石川の人参川、麻布の古川、王子の音無川、団子坂下の藍染川など、なぜどぶ川にこのような美しい名前がついたのか面白い。濠には代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田門、九段下の牛ヶ淵などは文字より絵画で表すべきかという。池では不忍池しか残っていない。上野の山は不忍池が無かったら腕をもぎ取られた人形に過ぎないらしい。大川口の渡し、両国富士見の渡し、向島竹屋の渡しなど橋梁は墨田川に多く作られて用済みになった渡しは多い。この「水」にかんする荷風の描いた風景はもはやどこにもない。道路に埋めたてられ、高速道路が河の上を走り、戦後殆ど姿を消しているので、荷風か書いたことは誰も見当がつかなくなっている。今探しても見つからないだろう。
「路地」:大通りではなく路地に感興を覚えるのが荷風先生である。「路地は浮世絵に見るごとく今も昔も変わりなく細民の棲息する処、日の当たった表通りから見ることの出来ない種々なる生活が隠れている。・・失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境もある。」 日本橋の木原店、吾妻橋の花川戸、八町掘の北島町、両国広小路界隈の路地、新富座裏、中橋の狩野新道など小説的世界である。格子戸、どぶ板、物干し台、木戸口、忍び返しなどという道具立ては一葉女史の「たけくらべ」になくてはならない。 
「閑地」:あきちとは固定された景観ではなく、開発途上、火事などで時々に出現する空間である。それ近所の紺屋の干し場、元結の糸繰り場などになる。いま皇居前の「三菱村」といわれるところは一時大名屋敷が取り払われて三菱ヶ原といわれた時期もあった。桜田見付の兵営跡など子供遊び場として格好の場であった。大名屋敷跡は軍隊の利用するところであったが、時折移転などで空き地になっていた。 
「崖」:坂と崖は山の手には付き物である。最も長い崖は上野から飛鳥山にかけての高地の東側面であろう。今は京浜東北線などの線路が崖下を走っている。神田お茶の水の絶壁、小石川春日町、弥生ヶ丘と千駄木の高地、根津権現から団子坂は絶景である。森鴎外先生の観潮楼のある団子坂、目白不動尊、芝高野山の裏伊皿子台などをあげる。 
「坂」:九段坂、三田聖坂、芝江戸身坂、芝伊皿子台上の汐見坂、お茶の水の昌平坂、飯田町の二合半坂、小石川伝通院前の安藤坂、牛込神楽坂、四谷暗闇坂、本郷の嬬恋坂、湯島天神裏花園町坂、麻布の雁木坂など挙げだすと切りが無いくらいである。「東京の坂、江戸の坂」という本もあった。車で通過しても東京の坂は分らない。平坦になっているのので、自分の足で歩いて見なければ坂かどうかわからないからだ。
「夕陽」:これも坂と関係するが、高まったところから夕日が見える場所は東京には多い。時期は春と秋の、夕日と東京の都会美は切り離せない。目黒夕日ヶ岡、大久保西向天神、青山白金行人坂西向き大通り、雑司ヶ谷の鬼子母神、高田馬場、目黒不動、九段坂上富士見町がそれである。葛飾北斎は「富嶽三十六景」の中で江戸より富士を望める景色を10数枚選んだ。 

伝通院(明治43年7月)

人は幼年期を送った場所の記憶を忘れることは無い。荷風先生にとってそれは12歳頃まで遊んだ小石川の伝通院であった。大江戸の徳川家の三霊山といわれるのは、芝増上寺、上野寛永寺、小石川伝通院である。明治41年荷風が欧州から帰った年に芝増上寺と小石川伝通院は焼失した。慶長7年に徳川家康公のご生母於大の方が逝去され傳通院を菩提寺とした。それ以来徳川家の外護を受け、諸堂伽藍が整えらた浄土宗の寺である。傳通院墓地の北側にある広大な一画に徳川家の墓域があり、ここに千姫を始め、徳川家由縁の方々の古い諸廟所が多く建っている。近くに水戸藩邸があり、水戸黄門がお犬様を斬ったという伝通院の門だけは残った。伝通院には縁日が出て幼い荷風先生はそこで催された芝居や講釈演芸、相撲などを懐かしく思い出す。近くに住んでいた職人のことも思い出されるようだ。

夏の町(明治43年8月)

荷風の少年時代は明治20年代で、墨田川の流れも清く夏休みの2ヶ月間は大川端の水練場に通ったという。神伝流の稽古場は本所御船蔵の岸にあった。浮洲には蘆が茂り小屋が建てられていた。大川端を汐の流れに身を任せて、上流は向島から下流は佃あたりまで泳いだという。恐らく墨田川なる自然の風景は江戸文学を離れては理解できないだろう。江戸時代は俳諧師は瓢箪を下げて江東の梅花を探って歩き、蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒を積んで河景色を楽しんだことだろう。土用半ばには早くも秋風が立ち、蚊遣りの煙にむせながら有明の燈影に三味の音を簾越しに聞く心持、東京という町の生活をもっと美しくさせるのは夏である。

霊廟(明治43年6月)

大江戸の三大霊廟のひとつ、芝山内霊廟を崇拝して止まないと荷風はいう。この年常磐松に誘われて三門前で市電を降り、7代将軍家継の霊廟から、6代将軍家宣、増上寺を隔てて東照宮に隣する2代将軍秀忠の霊廟を参拝したのだ。猶このほかに増上寺に祀られた将軍は9代家重、12代家慶、14代家茂である。「最も感動したのは部分の装飾ではなく、霊廟と名づけられた建築とそれを巡る構造ハイチの法式である」と荷風は書いている。霊廟の前に居並んだ大名の意義ある服装と、秀麗なる貴族的容貌を想像できるという。明治時代にはこの貴族的雰囲気が無く、あまりのお粗末さに絶望と怒りを覚えるということが荷風の文学的スタンスをなしている。戊辰戦争で上野寛永寺の大伽藍は灰燼に帰した。あたらしくこの都に建設された文明は、汽車と電車と工場を作った代わりに、偉大なる国民的芸術を全く滅ぼしてしまった。その方向性は戦後道路・箱物公共工事最優先の自民党政府の破壊主義行政についても言えることである。

銀座(明治44年7月)

銀座界隈には何ということなく凡ての新しいものと古いものとがある。「国の首都がその権勢と富貴とで蒐集した凡ての物が、皆ここに陳列されている」と皮肉な観察者荷風はいう。帝国ホテル、精養軒、有楽座、帝国劇場、歌舞伎座、本願寺などがあるかと思えば、浜御殿、汐留の掘割、裏町の物干し台が雑居している。銀座はいうまでも無く日本中で一番ハイカラな場所であるが、横浜のホテルと銀座の文明は歴然たる区別がある。トンカツ、カステラ、鴨南蛮、人力車、牛鍋など明治時代に西洋から輸入して作ったものでは一番成功した類である。明治の初年は西洋文明を丁寧に輸入し、きれいに模倣し正直に工夫した時代であった。同時に江戸芸術の名残も花開いた。劇においては芝翫、彦三郎、文学には黙阿弥、魯文、柳北、絵画では暁斎、芳年、落語には円朝、遊里では吉原の隆盛を見た。日本は時間の過ぎるのが極めて早い。西洋の百年は銀座の一年である。と荷風先生は風俗観察者の眼で銀座を見続けるのである。

葡萄棚(大正7年8月)

浅草の矢場の小娘の娼婦と路地奥の寺の庫裏裏にあった隠れ家に行き、帰りに空き地にあった葡萄棚から小娘が葡萄を取ったことを、哀愁豊かな小話に仕立てたものだ。浅草の風俗を描いた文としては、宙外子の「松葉かんざし」、一葉の「濁江」があり、この小文の出だしとして一茶、藤村を引いて文藝色を持たせた。娼婦を買うにしてもこれだけの文藝を身につけなければならないということで、人間のセックスは頭でするものなのである。

礫川徘徊記(大正13年4月)

荷風の趣味である「掃墓」は江戸風雅の遺習を曳いている。先人(特に文藝関係)の墓を訪れ、墓前で追憶の思いを致すのである。昔は「江戸名家墓所一覧」という本もあったそうだ。時期は「八重の桜も散りそむる春の末より牡丹の花いまだ咲かざる夏の初めこそ、老躯杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ」といい、4月末くらいが「掃墓」の絶好の季節であると云う。小石川原町の本念寺に太田南岳の墓がある。そして南岳の奇行と文学を語るのである。白山権現の先の蓮久寺に荷風の少年期からの悪友井上精一(唖々子)の墓がある。小石川植物園の病人坂に安閑寺があり、その近くに住んだ荷風幼年期のお抱え車夫虎蔵の思い出を語る。鶯谷の金剛寺坂に住んだ太田南岳の遷喬楼の跡を探し、この坂に住んでいた久斎という按摩と荷風の家政婦となった寡婦しんの思い出に耽るのである。しんの墓は小日向水道長の日輪寺にある。荷風は幼年期から少年期を過ごした小石川近辺の思い出を語りだしたら止まらない。

向嶋(昭和2年5月)

文人墨客の地と言われた川向こうの向島は、荷風の時代においてさえ、久しい昔からすでに雅遊の地ではなかった。昭和2年三鷹の禅林寺に移されるまでは森鴎外の墓は向島の弘福寺にあった。1年に1回は向島の弘福寺を訪れ、向島から浅草を歩いては江戸往昔の文化を追慕し青春の回想に浸るのである。向島に移り住んだ幸田露伴の「爛言長語」を引いて隅田堤の桜をめで、江戸時代の寺門静軒の「江戸繁昌記」、塩谷宕陰の「遊墨水記」で補うのである。儒家林述斎の詩「墨上漁謡」をひいて、花の散った若葉のころの墨堤を賞する。これは柳北の「花月新誌」と同じ意見であると云う。墨田川の葭蒹蘆荻の繁茂は江戸時代の蜀山人が作を例証に挙げる。葭蒹葉秋冬になると白葦黄茅の景を作り特に文雅の人を喜ばす。寺門静軒の絶句「江頭百詠」を引くてダメ押しとする。この辺は荷風の漢文の知識の深さを誇示するかのようである。社会学者の実証研究のように次から次へと先人の引用に暇が無い。そして最後に「墨田川の水流は既に溝涜の汚水に等しきものとなったが、それでも旧時代の芸術があるがためにいまなお一部の人には幾分の興趣を催す。今の文明は西洋文化の模倣、仮借に他ならないが、甚だしい軽薄である。咀嚼するに時間がなさ過ぎる。自己籠薬中の物にすることこそ大切であろうに」と結論する。

深川の散歩(昭和9年12月)

現在の隅田川のかかる橋を河口から挙げてゆくと、勝鬨橋、佃大橋、中央大橋、永代橋、隅田川大橋、清洲橋、新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、白髯橋、水神橋、千住大橋となる。隅田川河口までの橋といえば、勝鬨橋、佃大橋、中央大橋は東京湾の埋め立てで出来た土地にかけられた橋なので、永代橋から始めるのが常識であろうか。明治時代深川にゆく橋といえば清澄庭園へ行く清洲橋か南の門前仲町・富岡八幡にゆく永代橋の2橋があった。私もこの辺はよく歩いたので地理や名所は詳しい。地下鉄森下町で降りて、川に向かって万年橋(新大橋)の手前を南に下ると、芭蕉記念館と芭蕉愛用の蛙型の文鎮が出たといわれる小さな稲荷の祠(柾木稲荷)がある。周辺は殺風景でうるさいだけの町であるが、東森下町の長慶寺と湯灌場大久保には旗本5千石の大久保豊後守の屋敷があったそうだ。ここは荷風の友人籾山庭後氏が大久保長屋に住んでいたところだ。そのあたりの様子を氏の「深川夜鳥」の文章からとって引用している。震災前には深川座という芝居小屋があったそうだ。さらに南に下ると冬木町の弁天社、大横川の6万坪の規模を誇る木場がある。さらに東へ行くと砂町という空き地の広がった海岸線にでる。

元八まん(昭和9年12月)

砂町の南端に元八幡宮(元深川八幡)が枯れ蘆の中に佇んでいる。州崎から木場を経て十間川を渡って新開道路が走る先にあった。昔は砂村と言われ、今は空き地にお粗末な長屋がごちゃごちゃ立っている。いかにも枯れた感じの印象を書いただけのことである。こういう場所の荷風の記述はいかにもそっけない、殺伐とした文明の果てる地という印象である。

里の今昔(昭和9年12月)

吉原の情緒を書くと、荷風の筆は一気に饒舌になる。吉原の遊里は昭和12年の秋公娼廃止令の出るのを待たず、既に数年前より早くも滅亡していたようなものである。江戸の吉原の全盛は山東京伝の作品と、浮世絵に見ることが出来る。明治時代の吉原と周辺の町の情景は一葉女史の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」、泉鏡花の「註文帳」に最後の面影を偲ぶことが出来る。荷風が吉原に始めていったのは明治30年の春だそうで、当時の吉原は南の千束町を除いて三方は水田や竹やぶのままであった。これは吉原田圃(浅草田圃)といわれた。見返り柳の大門に立つと、東には小塚ッ原がみえ、日本堤を歩くと竜泉寺町の鉄漿溝にそって「たけくらべ」の風景が始まる。竜泉寺から千束稲荷の方へ抜けると、三島神社から坂上通りに出て、夜の人力車の賑やかさが伝わってくる。竜華寺、たけくらべの娘美登里のいた料理屋大黒屋などが思い起こされる。大通りの向こうには三の輪に「生きては苦界、死んでは浄閑寺」といわれた遊女の投げ込み寺浄閑寺がある。なおこの寺の墓場の中には荷風の歌碑が立っている。

鐘の音(昭和11年3月)

麻布の荷風の家「偏奇館」で、芝増上寺の鐘の音が聞こえてくることがあるという。裏窓から西北に山王神社と氷川神社の森が見え、冬の夜の木枯らしの音に紛れて、コーンという音はいかにもさびしげで、西行芭蕉もかく聞いたのではないかと思うとひとしおである。

放水路(昭和11年4月)

明治43年8月水害があって、荒川放水路が建設された。大正3年には工事のため千住大橋の先、足立村沼田の「六阿弥陀」詣での荒川の桜も見られなくなった。荒川は赤羽から隅田川となるが、荒川放水路工事により江北橋、西新井橋を経て分流路が完成した。いまでは荒川の堤防内は公園が整備され市民に開放されいるが、]恐らく荷風が歩いた昭和の初めは荒涼たる風景が広がっていたのだろう。千住新橋、堀切橋(菖蒲で有名)、四ツ木橋、平井大橋、小松川橋、葛西橋、清砂大橋を経て海に流れる。隅田川には浅草橋から浜離宮を経て日の出桟橋までの遊覧船があるが、荒川にも遊覧船があるようで一度乗ってみたいと思う。

寺しまの記(昭和11年4月)

昭和11年は「断腸亭日乗」によると、荷風は玉の井の私娼窟の路地探訪をしきりに行なっている。それは昭和12年「墨東奇譚」の朝日新聞の連載小説につながった。この小文に書かれた玉の井と女の風景は「墨東奇譚」に詳しいので省略する。京成バスに乗って白髯橋を渡って寺しまの地にはいり、玉の井車庫前で降りると、満願稲荷の祠から小路が始まって、「ぬけられます」の案内で路地に迷い込む。居酒屋、溝板を前に進むと、2階の窓から「オブだけでも上がってよ」の声に誘われて、女の家に入るという筋書きで物語は始まる。洋風の髪の多い女のなかで荷風は島田に結った女の家に入り込む。家の中の様子、路地の雰囲気など私娼窟の様子を描いた風俗小説が「墨東奇譚」となった。

葛飾土産(昭和22年12月)

荷風は戦争中の疎開から戦後の住居の事で、親戚の杵屋五叟氏に随分厄介なっている。熱海への疎開、戦後市川への転居も杵屋五叟氏の住居に転がり込んでいる。焼け野原の東京麻布の偏奇館を売り払って昭和21年(1946年)に市川菅野に引っ越した。そしてここが荷風にとって終の住み家となって1959年に自宅でなくなるまで13年間住むことになった。住めば都で市川の町の付近は向島を思い出させる良い風景が残っていたと書いている。市川の事を書くのかなと思わせるのだが、実際は向島の百花園、梅の花を見るには漢文と和歌の素養が必要だという荷風の持論が展開される。「画家文士のごとき芸術に従事する人たちが明治の末から、祖国の花鳥草木にたいして著しく無関心になってきた事を不思議となし」という。市川の町を歩いて東京下町の橋の名や埋め立てられたどぶ川の名前を備忘録的に列記する。山の手の雑司が谷、千駄木あたりの田園風景を思い出し、与謝野晶子、国木田独歩に思いを馳せるのである。なぜなら市川には文学芸術の歴史がないから、興趣が連想しないためである。話はすぐ東京のことになってしまう。最後になって、千葉街道ぞいの葛羅之井に蜀山人の筆による碑を発見して喜び、八幡不知の藪の前の真間川の流れの源流を辿る散歩となる。小さな川の源流をさぐることは荷風の無上の楽しみであったらしい。


「荷風随筆集」下

「荷風随筆集」上が地理上の場所にまつわる随筆であったとするなら、「荷風随筆集」下は荷風氏の個人的生活・文藝論に関る随筆集であろう。欧米から帰国した明治41年ごろの日本を見て、荷風の眼には西欧文明の猿真似に狂奔する当時の東京と世相がいかに唾棄すべきものと映じたことであろう。彼の江戸讃美、戯作者意識というものは、すべて浮薄な近代化に対する文明批評家の立場に基づく抵抗の現れであった。それは同時に反社会的、半道徳的態度となって彼の生活を律することになる。荷風は「浮世絵の観賞」で「政府の迫害を蒙りつつしかしよくその発達を遂げた美術であり、遠島に流され手錠の刑を受けた卑しむべき町絵師の手になった受難の芸術に、宗教の如き精神的慰籍を感じる」という。政府の保護を受けたアカデミィ画家の道を選ばず、卑しむべき町絵師、戯作者の道を荷風は選択したのである。宝井其角、北川歌麿、馬琴、北斎、京伝、十九、春水、種彦、魯文、黙阿弥の芸術家の流れに身を置く事を理想とする生活態度に徹することになる。本書はすべての荷風の作品の根底を貫いている精神と思われるT)の「妾宅」を巻頭に持ってきている。その他の17編は4つの部門に分けている。U)自伝的小編 7篇、V)芸術論 5扁、W)花柳界風俗小編 3扁、X)雑論 3扁である。

T) 「妾宅」(明治45年4月)

世間一般の趨勢に伴って生きてゆくことが出来ない性分と悟った日から、世から退ぞくことを決めたという。見過ぎ世過ぎの売文家業の為に心の休息所が妾宅である。妾宅は河岸近くの下町にあり、玄関を除けば3間の平屋であった。日の滅多の当たらない薄暗く湿った家である。朱塗りの鏡台、壁には三味線、大きな長火鉢の横に猫が寝ている。次の座敷の床の間には豊国の女絵がかかっており、友禅の布団をかけた置き火燵、その後ろには2枚折りの屏風、玄関の隣は台所で下女がいる。それだけの家であった。珍々先生が妾宅に行くと、あいにく妾は銭湯に行って留守なので、先生は置き火燵に入り肱枕にもたれて所在無げに煙草をぷかりぷかり。表では冬の空っ風がふいて障子ががたりがたり。夕方に聞こえてくる小娘の稽古の三味線の音が果敢なく消え入りそうに聞こえてくる。「この世は夢じゃ諦めしゃんせ諦めしゃんせ」と聞こえてくる。お妾の素性はもちろん仲之町の芸者上がりである。深川の湿地に生まれ吉原の溝水で育ったので色は浅黒いが、体は丈夫に出来ていた。浮きつ沈みつ不徳と淫蕩の賎業婦の病的美については道徳的、美学的に先生は賞賛する。道徳的には花柳界はあからさまに虚偽を標榜しているだけにそのなかに真実らしきものがある事を喜ぶのである。美学的には過敏な感覚に由来する耽美主義から来ている。「冬の闇夜に悪病を負う辻君が人を呼ぶ声の痛ましさは、罪障深き人類の止みがたきまことの嘆きではあるまいか」という感覚を理解できない人には無縁の世界である。

珍々先生は銭湯から帰ったお妾さんの髪直しの姿態をとくと観察する。江戸芸術によって溢るるまでにその内容の生命を豊富にされた下町の女の立ち居振る舞いに「ふぜい」を感じ、明治教育と関係ない賎業婦の淫靡なる生活によって、爛熟した過去の文明の遠いささやきを聞こうとするのである。お膳の海鼠腸の記述の露悪さは意図的である。それほど日本の文明の特殊性を言いたかっただけなのかもしれないが。珍々先生はお妾さんを囲いながら、女権主義について理解を示したり、従来の日本的因襲に無抵抗な姿勢に郷愁を感じたり、随分矛盾した御託を述べておられる。そして最後に日本文化論に行き着く。江戸時代からの因襲とは、貧乏臭くだらしなく、頼りなくて間の抜けたものであるという。諦めから頓知的な面白さに転化する軽い芸術として戯れることである。俳句、川柳、端唄、小噺の文学はフランスのエスプリとは違う日本独自の芸である。雨漏りのする天井、破れ障子、人馬同居の宿、便所などに芸術的な興味を託する例は世界に見ない。浮世絵は便所周りの風景と女の配置によって成功している。明治以降の教育は文学美術をその弊害からのみ観察して行政的監視の対象とした。国民的大芸術なんてあるのかどうかは知らないが、とにかくお妾の作ったご膳の「白魚の雲丹焼き」の香ばしい匂がしてくる。

U) 自伝的小編

十六,七のころ(昭和10年1月)

荷風は16,7歳のころ(明治28、29年)病弱でインフルエンザをこじらせて1月から3月まで中学校を休んだ。そして小田原の病院に転地療養した。この病気がなければ、父が文部官僚であった荷風先生は人並みに高校、大学を出てエリート官吏コースを歩んだかもしれないという。療養中に親しんだ読書遍歴の生活が始まったのである。7月に病は癒えたが、すぐに夏休みとなり、逗子の別荘にゆき9月に学校に戻ったとき、進級できず1年下のクラスに入り、そこから授業への興味を失った。漢詩や俳句ばかりをもてあそぶ少年になっていた。英語はかんだ錦町の英語学校に通い、漢詩は岩谷裳川先生の門に入った。その漢詩の門で悪友井上唖々氏と会い、放蕩無頼の遊びを覚えたのである。この時期の事の判断はいまだに出来ないそうだ。よかったのかまずかったのか、とにかく荷風先生は形成されてゆくのである。

十九の秋

荷風先生の父は漢文の学殖の深い人で、漢詩や漢文のには少年時代から親しんでいた。父が文部省を辞め日本郵船という運送会社に入り、上海に転勤した年明治30年9月に、19歳のとき両親とともに上海旅行に赴いた。父は上海の責任者であったのでアメリカ租界にあった宿舎は立派な洋館であった。中国人の原色主義の強烈な色彩に驚きながら、上海で遊び、母とともに帰国した。漢文化にわが身を曝した最初の時であった。

梅雨晴(大正12年7月)

森鴎外作「渋江抽斎」に出てくる抽斎の1子優善なるものが、父の蔵書を持ち出して売り払い遊興費を得るという話に、奇妙な因縁で荷風の悪友井上唖々子とダブり、森鴎外の小説の事実を先に鴎外が知っていたという自慢話のようにも聞こえる。つまり話しはこうだ。井上唖々子が島田篁村先生の次男で翰とともに篁村先生の蔵書を盗み出し売って酒色の資としていた。森鴎外の渋江抽斎の伝に、その子優善が持ち出した蔵書の一部が後年島田篁村の書庫に収められていたことが記されている。もし翰と唖々子が篁村が持つ渋江氏の本を持ち出していたら奇縁というべきであろう。唖々子が持ち出した「通鑑綱目」50巻はたった2円50銭で古本屋に売り払われたという。

雪の日(昭和21年ごろ)

電車もバスもなかったころの明治時代の昔、雪の降る日を思い出して江戸の為永春水「辰巳園」の小唄にも歌われた情景に思いを致すのである。過ぎし世の町に降る雪には必ず三味線の音が伝えるような哀愁と哀憐とが感じられる。明治41年ころ「すみだ川」を書いていたころ、唖々子と向島の百花園に休んでいると雪になり、長命寺の門前の掛け茶屋に入って、置き火燵で焼き海苔に銚子で飲む情景が回想される。雪催いの寒い日になると、大久保の家の庭にくる山鳩がくる事を思い出すという。そして常磐亭で落語の取り席をやっていた若いころの無頼生活の雪の夜の事を思い出す。回想は現実の身を夢の世界に連れてゆく。回想は歓喜と愁嘆の両面を持つ謎の女神かも。

書かでもの記(大正7年)

荷風先生の文壇交遊録であり、「文を売り酒を買う道になれしよりこの方、我が売文の由来を顧み尋ねる」小文をものにした。荷風が小説を始めて出版したのは美育社であった。当時の小説家は春陽堂から尾崎紅葉門下でなければ出版する機会に恵まれなかったので、木曜会の面々は明治34年早稲田の文士巴山人と黒田湖山が設立した美育社によって発表できるようになった。荷風は美育社の雑誌「饒舌」に、西村渚山、生田葵山、黒田湖山らと小説を発表した。その他いろいろ雑誌を創っては廃刊となる変遷を経て、金港堂の「文芸界」によって広津柳浪、泉鏡花らは新作を発表した。荷風は「地獄の花」を出版した。明治36年初夏のころ、詩人蒲原明子が神田新声社(今の新潮社)と知り合いだったので、ここより「女優ナナ」を出版した。原稿料3円であったという。明治34年のころ桜痴居士が主宰する銀座1丁目のやまと新聞に榎本破笠と入社して雑報を書いて報酬を得ていた。その三面の雑報欄を受け持っていたのは、岡本綺堂と採菊山人であった。荷風は明治36年から41年にかけて外遊しており、明治40年「アメリカ物語」をまとめて、日本の小波先生に依頼し帰国したときにはすでに出版されていた。帰国してから「フランス物語」を博文館より出版したが、忽ち出版禁止に会って、出版社からは損害賠償を請求されるというトラブルに巻き込まれた。その後易風社から出した「歓楽」という短編も発売禁止になり、この出版社とはトラブルにはならなかった。大正4年籾山書店から出した「夏すがた」も発禁となった。曲亭馬琴に「いわでもの記」というものがあるが、これは人を謗りて己を高くすることをいうが、荷風先生は本小文を「書かでもの記」にはそのようなたくらみはなく、いつもの筆癖というくらいの意味であると弁解している。明治31年広津柳浪先生に私淑していた荷風は「簾の月」を書いて広津先生の門を叩いた事を始まりとする。こうして広津先生の門下生となった荷風は矢来町の先生の家に日参する。そこであった人々には、長谷川濤涯、中村春雨、川上眉山、小栗風葉、徳田秋声らがいた。そして広津先生の名を得て「薄衣」、「夕蝉」を文藝倶楽部に掲載された。蘇山人から木曜会に誘われ参加する。文藝倶楽部は三宅青軒が主宰する雑誌である。この青軒先生の紹介で福地桜痴居士を木挽町の河岸に訪問した。荷風が欧米から帰国して暫くして森鴎外先生の知遇を得て慶応大学の文学部教授に推薦され、三田文学の中心となることは有名であるが、明治42年パリから帰ると、森先生の意を汲んだ翻訳家上田敏の世話を受けていたことのである。その前に京都第3高等学校のフランス語教師にという話もあったが、荷風は上田敏氏にこの噂を打診したが、上田敏氏は慶応大学文学刷新のため働いていたのでむしろ荷風を慶応大学に推薦した。そのいきさつを示す上田敏氏から荷風宛の手紙3通を公開した。荷風は森鴎外の知遇を大事にし、比較的まじめに慶応大学の教授を務めていたが、大正5年上田敏先生が亡くなり、森鴎外先生も相次いで亡くなると。荷風先生は糸の切れたたこのように慶応大学を辞し「大正5年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交わりを断たん事を欲し・・」として自堕落・放蕩な生活に埋没するのである。

矢筈草(大正5年)

荷風は生涯独身で、妓女や妾、下女、商売女しか相手にしなかったといわれているが、荷風が慶應大学教授であったころ、長男だった荷風は父の死後家を継ぎ、大久保の家に「八重」という妓を妻に迎えたことがある。母や弟ら家族の猛反対で僅か半年の短い期間で「八重」は追い出されるようにして大久保の家を出て、ふたたび新橋の芸者として藤間流の歌舞を教えることになったという。自分の古傷を語って物語にするのは、19世紀以来ゲーテ、紅葉らの物にするところであるが、犬も食わない話になるか、痴情売文となるかそれは小説家の腕次第ということである。矢筈草とは俗に「げんのしょうこ」という薬草で、おこりや痢病に利くと信じられ、お八重は新橋の巴屋の芸妓であったころ、いつも煎じて茶の代わりに飲んでいた。そういう思い出から本文の名となったようだ。荷風が腹痛に苦しんだときお八重は矢筈草を取り寄せ煎じて飲ませてくれたら効果があった。以来風邪には葛根湯、腹痛には矢筈草という煎薬を愛用するに至った。慶應義塾の勤めも教授会や編集会議となかなか辛く感じられたころ、向島の金子隠居の世話で30を過ぎた新橋芸者であったお八重を妻に迎える次第が整い、山谷の八百善で形ばかりの祝儀を上げた。お八重が大久保の実家に来て以来、荷風の生活は清潔で豊かなものになったという。八重は荷風を助けて家事を切り盛りするため勉強もし本も読んだ。「われ家を継ぎいくばくもなくして妓を妻とする。家名を辱しめる罪軽ろきにはあらざれど」、「八重がなぜに我が家を去れるや。われまた何が故にその後を追わざりしや」と変に分ったような反省をするところが荷風の意気地なさに通じている。「青春まことに一夢。老いの寝覚めに思い出の種一つ」

西瓜(昭和12年4月)

この小文で荷風はなぜ自分が生涯妻帯をしないのかという屁理屈をくだくだ述べる。友人が西瓜を小包郵便で送ってくれたが、その年は東京ではコレラが蔓延し、荷風先生は子供のころから西瓜や真桑瓜を下賎なものとして食べない習慣であったので、「もてあます西瓜ひとつやひとり者」という1句が出たそうだ。西瓜とひとり者の組み合わせが妙である。女好きの荷風先生が索居獨棲の道を選んだのは、きわめて小心で面倒な生活を嫌ったまでである。配偶者の趣味性向よりもむしろ配偶者の親兄弟との交際のわずらわしさに閉口している。しかし同棲した女は芸妓、下女(妾なのか女中なのか待遇不審)など数知れず、詮索好きの人は荷風の女遍歴で一文を書いている。荷風は江戸時代の学者と民衆の作った伝統的文化に安んじて一生を終りたいと願い、薩長の士族に追随するよりは幕臣だった失意の人々の思想に共鳴するところが大であった。欧米に移住することを計画したときもあったが、どうか我慢して余生を東京の下町の路地裏に送った方がましだと考えた。

V) 芸術・文藝論

浮世絵の観賞(大正2年1月)

明治以来旧都の古城門を取り払い、松等植生を切払って文明開化と称するは、日本人の歴史に対する精神の有無を疑われてしかるべきであろう。政府要路のものにとって、歴史の尊重とは唯頑迷なる保守の功利的口実の便宣に過ぎない。荷風先生はこの世は現代人のものであるから、自分には嘴を入れる権利はないとして、唯風刺的滑稽を笑うだけであると云う。過去を夢見るには過去の文学美術の力によらざるべからず。浮世絵は実に夢想の世界に誘うのである。美術品というだけでなく、精神的慰めを感じるという。狩野派らの政府保護の美術が衰退したのに対して、浮世絵は幕府の迫害を蒙りつつよく発展を遂げた。荷風先生は浮世絵の褪めたような淡い色彩の調和がいいという。行燈の火影をみるような思いはオランダフランドルの油絵にはないものである。これは日本伝統の木造の家に住んでいるもののみが味わえる感覚で、春章、写楽、豊国は江戸隆盛の演劇を髣髴たらしめ、歌麿、栄子は吉原の歓楽に人を誘い、北斎、広重は市中の風景に遊ばしめる。浮世絵には多色摺り板版画と肉筆画とがあるが、荷風先生は多色摺り板版画の方を愛する。色彩の調和と躍動がいいといい、肉筆画の色彩は乱雑であるという。「浮世絵の生命は実に日本の風土とともに永劫なるべし」と結論した。

矢立のちび筆(大正3年春)

明治41年パリから帰った荷風はフランス文学、ヨーロッパ文明に対して限りない空想を膨らませていたが、気候、風土、衣服、住まい、食品の類の悉く日本的なるものに取り囲まれて、自分が日本化してゆくと、当代の政治と社会の状況は宛然封建時代にある事を知ったという。悪いことに封建時代の美点を破壊し、悪弊をのみ保存する劣悪な「近代」とはなんぞやという疑問に襲われる。昔は興奮した欧州の思想・文物にはもはや自分を駆り立てるものはなく、徒に現代を嫌悪するのみである。江戸文藝、漢文化には無限の慰安を感じる。そこで京伝の狂句をひとつ。「世に立つはくるしかりけり腰屏風 まがりなりには折りかがめども」

小説作法(大正9年3月)

どこへ何のためにこのようなハウツー文章読本を書いたのかは知らないが、小説作法(心得)40か条をメモ的に箇条書きしている。自分はこうして書いているということであろうか。原稿紙は西洋紙はだめ、筆は万年筆はだめ、罫線のない和紙に墨筆で書くから始まる。文筆家は酒食をえる手立てである。日常身辺を書くしかない。人くちあれば語る。はたして文才があったやら。好きこそ物の上手なれ。田舎文士。文藝の道は色の道。感情の後沈思回想して書こう。読書思索観察は小説書くものになくてはならぬ心得。平常心を失わず、万感の書を読む必要有。西洋近代文学を師とする。欧州語のほか漢文の素養が必要。鷲津毅堂、森鴎外先生然り。物事は目の付け所が大事。新聞文芸欄の批評は気にしてはいけない。学歴無用。などなど・・・もうやめましょう。

正宗谷崎氏の批評に答う(昭和7年3月)

昭和7年3月正宗白鳥氏が「中央公論」4月号に「永井荷風」を掲載された。谷崎潤一郎氏はさきに、西鶴と元禄時代の文学を論じ、荷風を以って尾崎紅葉先生と趣を同じくする作家のように言われた。そこで荷風先生は大正7年に雑誌花月に連載した「かかでもの記」の後編(追記)のような自己の文学遍歴の筆を取る気になって、なったのが本小文である。荷風は尾崎紅葉先生には最も馴染が薄く、「金色夜叉」さえほとんど読んでいないという。むしろ唖々子の影響で柳浪先生の教えを乞うたのである。大正7年ごろ硯友社作家の批評のため読んだ幸田露伴、樋口一葉の諸作に深い感銘を受けたという。明治41年のさく「すみだ川」以来過去の東京を再現させようと試みたが、荷風には二葉亭四迷「浮雲」、森鴎外「雁」のような人物の心理を描く才能がないことに気がついたらしい。それから江戸趣味者という風評・虚名が確立したようだ。江戸時代の戯作者が人情本や春画のような淫猥な本を作っていたことに刺戟を受けて、「新橋夜話」、「戯作者の死」の如きもっぱら花柳小説にのめりこんだ。大正4年の慶應義塾大学を退職し、三田文学を井川氏に任せて、自由な身となった荷風先生は花柳小説「腕くらべ」(一葉女史の「たけくらべ」のもじりか)、「つゆのあとさき」を発表した。江戸時代の文学を見るに、好んで市井の風俗を描写した文学者が現れた、太田南畝、曲亭三馬、為永春水、寺門静軒、明治時代になって仮名書魯文、服部撫松、尾崎紅葉の流れに荷風が付け加えられた。「・・意外の名誉であり既にわが事は終われり、老と病は我を死の門に連れ去りたり」と締めくくった。しかし荷風先生はなかなか長命でありまして、これから20年以上も人生を楽しまれておられます。

一夕(大正5年夏)

小説家の悲哀を九条の箇条書きにしている。西洋文明の変転極まりない浮世の動きに合わせざるを得ない小説家もあわれな浮き草である。ところが客は名を取った古い極めツケ(18番)を何度も要求する。新作には振り向かない性向を持つものである。小説は創意仕掛けを命とし、技芸は熟練を主にする。歌舞伎は芸、詩歌は創である。小説家の終末は批評家である。などなど・・・・もうやめましょう。荷風先生には枕草子のような比較羅列の趣味がある。花の色は牡丹、芍薬、ざくろ、のうぜんかつら、日本の花はいかに色濃くとも何となく古めきて味わいがあり、鳥は鶯、めじろ、鶸、あおじ、鳩、瑠璃など何物にも変えがたき色なりという。西洋の色は毒々しく粗悪であると極めつける。ちょっとおかしいなと思うが、これも個人の好みですので聞いておこう。

W) 花柳界風俗小編

桑中喜語

通俗小説とは色欲淫事のことなり。しかし通俗の意味は時世変遷の然からしむるところである。江戸時代浄瑠璃は政府当局者にとって眉をひそめる響きであったが、大正の時代に下れば古雅掬すべきものとなる。日本の思想は万葉集の時代から今日まで男女の色事一本で来ている。およそ漢文学でいう政治、愛国、友情などは日本にはなじまなかった。今の歌謡曲や流行歌で男女の恋愛感情を歌ってないものは指で数えても余るくらいである。日本文化の本質は色事であると決めつけた思想家がいた。心中ものは江戸時代以来小説の格好の材料であった。年18にして家婢に戯れ、30にして家に妓を入れ、自ら旗亭を営み、女を入れたり出したり、遊ばなければ人生はつまらないとばかりに放蕩生活を送ってきた荷風先生の人生遍歴を聞くことがこの小文を読む務めである。女の買いかたは、花魁のような高いものには手を出さず、といって襤褸買いは安物買いの銭失い、2,3枚下ったところを買って気楽に遊ぶを得手としたようだ。烟花狭斜の風俗も新聞の芸評を気にするようで、実は粋も意気もなく、三味線はチンドン屋と異ならず、芸者は簡単な醜業婦にして生きた共同便所に堕した。明治43年ごろの芸者買いの揚げ代は、待合席料1円、芸者祝儀枕金2円、玉代1本25銭、女中祝儀30銭と大体4円程度であった。これが浜町の白首なら全部で2円以下である。東京の花街は無数にあるのだが、麹町富士見町、浜町不動新道の私娼窟、牡蠣殻町、本所立川相生町、柳原、芝神明、湯島天神、京橋築地、四谷津の守、京橋区役所裏、銀座2丁目、青山連隊裏、赤坂新町、下谷佐竹ヶ原、根津、入谷、芝愛宕、小石川柳町、早稲田鶴巻町、吉原小塚原、秋葉、麻布網代町、小石川白山、渋谷荒木山、亀戸天神、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野荒井などなど・・・・もうやめておこう。

猥褻独問答

人猥褻を好まばよろしく猥褻の戒むべき事を知るべし。奨励や禁圧は火に油なり。

裸体談義(昭和24年)

浅草の興業街に戦後はやりしものに裸体ダンス(ストリップ)がある。入場料は60円である。フランスのムーランルージュでは昔からやっていたこと。明治維新で突然西洋化して80年にして裸体の見世物が日本にも現れた。時代と風俗の変遷を観察するほど面白いものはない。

X) 雑論

十日の菊(大正12年11月)

大正12年9月、震災後大阪に疎開された小山内薫氏がプラトン社の主を連れて来訪された。目的は荷風に小説を書く事を勧めるためである。「十日の菊」と題したのは重陽を過ぎた日の旧友の来訪を喜ぶためである。荷風は築地にいたころ「黄昏」という小説を物にできなかった。その理由は荷風には人物(女)の心理描写が出来なかったからであるという。やはり人物を描けなくては小説にはなるまい。およそ芸術の政策には観察と同情が必要である。小説がかけないという題であるが最後には、原稿用紙は和紙でなければいけないという話になる。当時和紙の原稿を使っていたのは、荷風と生田葵山の二人きりであった。千朶山房氏は無罫の半紙に毛筆で楷書を書く書体に定評があった。荷風先生は梔子(くちなし)の実を擦って顔料とし、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を取る心は凄絶なりと自讃されている。

洋服論(大正5年8月)

日本の西洋化により、役人と軍人は洋服を着用した。荷風の父は明治4年にアメリカに留学して以来、実家での生活は須らく洋式であったという。テーブルでの西洋料理はいうに及ばず、荷風先生の幼稚園の制服は洋服であった。銀行会社の行員も洋服である。メリヤス肌着、パナマ帽子、カラーワイシャツ、ハンカチ、フロックコートなどなど・・・・もうやめにしよう。さすが風俗観察家である。

草紅葉(昭和21年10月)

昭和20年3月9日の大空襲によって下町は灰燼に帰した。同時に吉原の芸者に一目置くという江戸時代の風俗も滅んでしまったのである。戦災で多くの芸人・職人もなくなった。空襲で何もかも失った。人は落魄して窮困のうちに年を取ると、まず先に笑うことから忘れてゆくそうである。


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