2010年3月6日

文藝散歩 

永井荷風著 「断腸亭日乗」

永井荷風42年間の日記 個人主義・自由主義者の孤独な生

私はこの永井荷風の日記である「断腸亭日乗」を10年以上前に読んで、好色老人のたわ言かと思った。今では永井荷風という小説家がいたことは教科書でしか知らないだろうし、その小説を読む人もめっきり少なくなった。なにせ「売春禁止法」ができ、赤線地帯が消えてすでに50年以上たつので、花柳界なぞ知らない人の方が多くなったからだ。江戸時代の三大花町として、江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山があり、遊郭に商人、文人墨客、庶民が集まり、管弦・遊楽の地であると同時に遊里文藝が栄えたという。花魁といえ教養がなければ武士・豪商・文人の遊興の相手が出来ないのであった。文人とは遊里文化人を指す。この江戸情緒は明治時代まで色濃く東京の下町に残っており、吉原、浅草、深川、向島、亀井戸、柳橋など神社のあるところ必ず花町があって、庶民の行楽の楽しみのひとつは「悪所」を散歩することであった。その江戸情緒の名残りも関東大震災で江戸が完全に破壊されたと同時に消滅した。永井荷風(1879−1959年)は明治11年文京区小石川に生まれ、父は文部省の高級官僚であった。したがって教育レベルも高く、明治の文豪達(生涯、森鴎外を師と仰いだ)の薫陶を受け、江戸文人文化の伝統をその精神としたのである。唯美主義としては谷崎潤一郎と共感するところがあり、無頼派としては太宰治と性格が似ている。好色文学・花柳文学としては江戸戯作文藝の正統的継承者ではないだろうか。

永井荷風の作品には、時代順にいうと以下のものがある。今も殆ど岩波文庫から出版されて読むことが出来る。
『地獄の花』、金港堂(1902)
『夢の女』、新声社(1903)
『あめりか物語』、博文館(1908)
『狐』、中学世界(雑誌)(1909)
『ふらんす物語』、博文館(1909)(発禁)
『冷笑』、佐久良書房(1910)
『すみた川』、籾山書店(1911)
『新橋夜話』、籾山書店(1912)
『珊瑚集』(訳詩集)、籾山書店(1913)
『日和下駄』、籾山書店(1915)
『腕くらべ』、十里香館(1918)
『江戸藝術論』、春陽堂(1920)
『おかめ笹』、春陽堂(1920)
『雨』、春陽堂(1922)
『下谷叢話』、春陽堂(1926)
『つゆのあとさき』、中央公論社(1931)
『ひかげの花』、中央公論社(1934)
『墨東綺譚』、岩波書店(1937)
『問はずがたり』、扶桑書房(1946)
『来訪者』、筑摩書房(1946)
『勲章』、扶桑書房(1947)
『浮沈』、中央公論社(1947)
『踊子』、井原文庫(1948)
『葛飾土産』、中央公論社(1950)
そして永井荷風の死後、『断腸亭日乗』全7冊、岩波書店(1980 )/ 磯田光一編:『摘録断腸亭日乗 上下』、岩波文庫(1987)が出版された。断腸亭日乗を除いていずれも短編で、小説的構成力のない、小説というより叙述的色街レポートというべき作品群である。この捕らえがたい老人永井荷風については、佐藤春夫『小説永井荷風傳』、中村光夫『評論永井荷風』(筑摩書房)、磯田光一『永井荷風』(講談社文芸文庫)というあたりが有名である。松岡正剛氏は「千夜千冊」において永井荷風のことを「ひとまずは遊民坐食、狷介孤高、老成書生、散策居士などがおもいつく」といっている。今のことばで言えば、無為駄食、頑固・好色爺、永遠の文学青年、色街散歩愛好者というところか。ところがこの「断腸亭日常」にみる荷風は、そういう一面だけでなく、自由主義者・個人主義者として権力・軍部に衣を着せない言説を吐いている。そしてその女性観は今では通用しないだろうが、弱い者に対する同情に満ちている。

私にもう一度「断腸亭日乗」を読んでみる気にさせたものは、映画監督で故音羽信子の夫である新藤兼人氏の「断腸亭日乗を読む」岩波現代文庫(2009年)を読んだからである。新藤氏は荷風の「墨東奇譚」の映画化にあたり、「断腸亭日乗」を何回も読んだそうだ。そして「老人の性」、「荷風の性と創作意欲」という観点で上記の本を著わした。「断腸亭日乗」の荷風には3つの面があると思う。第1は江戸趣味的性のルポライター(無頼派、自己破滅型)、第2は戦災ルポライター(鴨長明「方丈記」に似た)、第3は軍専制権力への批判者(西欧思想の自由主義者)という捉え方ができるのではないか。そこで永井荷風の文学と人生を知るために、「墨東奇譚」、新藤兼人著「断腸亭日乗を読む」、永井荷風著・磯田光一編「摘録 断腸亭日乗」を辿ってゆこう。その前に永井荷風の人となりを紹介する。永井荷風の遠い先祖は鎌倉時代から続く武家の家柄で、徳川家康の武将永井伝八郎直勝は7万2000石の大名であった。その嫡子は家を継がず尾張の豪農となった。荷風の父永井久一郎は尾張藩の儒者鷲津毅堂に学び、その娘を娶った。荷風に儒の思想があるのは、外祖父と父の影響である。明治11年、荷風は洋行帰りの内務省官吏久一郎の長男として生まれた。名は 壯吉。小石川の伝通院や護国寺が遊び場だったそうだが、中学時代から文学に興味をもち、美術学校への入学を希望したが父の反対にあい、父が官吏を辞め日本郵船の上海支店に行っていた間は、外国語学校に入学したが殆ど学業はサボり、広津柳浪門下となって小説の勉強をした。明治33年父が日本郵船横浜支店長として帰国してからも歌舞伎座狂言作家や新聞記者になるなど父の意思に反して放埓な生活を送っていた。フランス文学に傾倒して「地獄の花」、「夢の女」などの短編を発表した。父久一郎は息子に実学を勉強させるため1902年アメリカに留学させた。アメリカでも素行は改まらず、父は荷風を日本郵船ニューヨーク支店に就職させた。アメリカ生活4年でさらに念願のフランスリヨン支店に転勤になった。合計5年間の米仏生活の有様は「西遊日誌抄」(「摘録断腸亭日乗」岩波文庫上巻に収録)に書かれているが、殆どが読書と娼婦との交歓を綴ったものである。荷風は全身でフランス文学の感化を受け、孤独な文学をわが国の文学の伝統に調和させようとした最初の人であった。1907年明治41年に帰国した30過ぎの荷風は定職にもつかず、「あめりか物語」、「ふらんす物語」(発禁)、「狐」、「深川の唄」、「放蕩」、「歓楽」、「すみだ川」など耽美的浪漫的作品を一挙に公表した。当時の自然主義文学時代にあって、荷風は耽美派作家として文壇に華々しくデビューした。この活躍は森鴎外に認められ、1910年慶応大学文学部主任教授となり、自然主義文学の「早稲田文学」に対抗するように「三田文学」を創刊した。荷風はその作品の殆どを「三田文学」に発表した。慶応大学教授時代の6年間、幾多の浮名を流し、2度の結婚と失敗、父の死と弟との不和から除籍され、「新橋夜話」、「日和下駄」などの花柳江戸趣味傾向は荷風の私生活の反映であった。1916年大正5年荷風は慶応大学を辞め、「花月」の主筆となって、「腕くらべ」、「おかめ笹」といった、教授時代には書くことが出来なかった花柳界の作品を発表した。1917年から「断腸亭日乗」という日記を書き始め死ぬまでの40年間1日も欠かさず記録した。荷風もいうように「自分が文化勲章をもらえる仕事とは断腸亭日乗を書いたからだ」という畢竟彼の文学的業績である「断腸亭日乗」の開始となった。大正9年(1920年)小石川の父譲りの邸宅(赤い断腸花が庭に咲くことから、荷風は号を断腸亭主人とし、日記を断腸亭日乗と命名した因縁のある家)を売却し、麻布市兵衛に外国人の安住宅を購入しペンキを塗りもじって「偏奇館」と呼んだ。そして親戚縁者、文壇人、新聞記者、雑誌社との交渉を断った。しかしながら芸妓、私娼の出入りは自由で妾も囲って、荷風の奇人説が出たのはこのころからである。大正11年(1922年)に森鴎外が没して、鴎外の儒医「聊斎志異」を耽読し、自身も鷲津毅堂、大沼沈山伝の著作に熱中した。1926年「下谷叢話」を著わして、儒家詩家など漢文学の世界に浸り、ますます文壇とも没交渉になった。この時期(大正末期から昭和初期)は荷風の沈滞期といわれるが、毎夜銀座のカフェに通って、限られた友人との交渉はあった。昭和6年(1932年)荷風は久しぶりに「紫陽花」、「つゆのあとさき」を発表し、女給物語の評判作となった。銀座カフェ通いの成果であった。ところが時代は軍部の台頭著しく上海事変、血盟団事件、5・15事件勃発に伴い、「ひかげの花」を最後に荷風は創作意欲を失い、文壇から忘れられた存在になった。昭和11年(1936年)ごろから荷風は墨東玉の井の私娼窟(吉原の銘酒屋が移転した)に出入りし始め、1ヶ月ほどで「墨東奇譚」を書き上げた。「墨東奇譚」は昭和12年4月15日より朝日新聞夕刊に連載され35回で終了した。立ち売り新聞が売り切れになるほど好評を博した。時局柄発表禁止となる直前の作品であったという。樋口一葉の吉原遊郭の小説「たけくらべ」の雰囲気を踏襲し、迷宮玉の井の夏から秋への季節の移り変わりと人の移り行く様を哀愁を以って描いた名作である。小説的構成は少なく随筆的小説であろうか。この作品を最後にして戦前の荷風は文筆業を廃業する。戦前の荷風は憲兵からにらまれ、もはや作品発表は不可能となったのである。以降荷風は浅草6区のオペラ座に入り浸って、「踊り子」、「勲章」、「とわずがたり」など発表のあてのない小説を書いていたという。荷風の軍部嫌いは徹底して、反抗というよりは傍観者、無関心を貫いたのである。戦後一時荷風ブームが起きたが、浅草ロック座などに入り浸って踊り子と戯れるだけで、もはや創作意欲はなくなっており生彩をなくして、詩魂の衰えは蔽うべくも無かった。そして断腸亭日乗の記載も簡潔を極めた。1959年(昭和34年)4月30日夜、胃潰瘍で血を吐いて死亡しているのを、翌日家政婦が見つけた。いまでいう老人の孤独死である。



永井荷風著 「墨東奇譚」 新潮文庫(1951年)

「墨東奇譚」は文庫本で80ページほどの短編であるが、面白いことに巻末に小説の解題ではない別途の随筆「作後贅言」という付録がついている。作者の思いのようなものが伝わってくる小編なので紹介したい。「墨」の字には三水扁がついているが、漢字変換には無い漢字なので「墨」と表記する。三水扁つきの墨東は林述斎が濫に作った字で、江戸幕末期に向島須崎に移り住んだ成島柳北が使用してから文人墨客に用いられたようだが、柳北の死後用いる人もいなくなった字である。向島寺島町にあった「玉の井」という遊里の見聞録を書く時、荷風はこの三水扁つきの墨東という字を再び使ったという。この「墨東奇譚」という小説の命名がこれでよかったかどうかは、荷風の相談相手であった井上唖亜子や神代帚葉翁に聞きたかったと荷風は回想している。「墨東奇譚」という小説を神代帚葉翁に捧げ手その死を悼むつもりで「作後贅言」が書かれ「あとがき」にかえたようだ。この「墨東奇譚」を書いた昭和11年より5年間に、荷風は神代帚葉翁とは毎晩のように銀座尾張町三越前の街角で出会い、喫茶店やカフェに腰掛けて、夜12時ごろまで通行人の数や風俗をメモしていたのである。お互い風俗研究家であった。そして花売り、辻占い、門付けなどと無駄話をして時間をすごしたらしい。この「作後贅言」は神代帚葉翁の思い出話である。荷風と神代帚葉翁の二人は趣味も性向も似た閑人のすね者であった。二人は風俗観察に飽きると、裏通りを散歩して、女給などから噂話を聞いては情報交換するのである。それも文人や新聞記者や知り合いに会わないようにしていた。荷風はもとより党を作ったり、群れることが大きらいで、文藝人との付き合いを極力避けた。そして二人は毎晩雨夜の品定めをして遊び、服部時計店の時計台が12時を打ってから帰る毎日であったという。帚葉翁とは「老愁は葉の如く掃えども尽きず・・」という舘柳湾の句から来ているようである。

短編小説をあらすじで追うほど、味のないことはない。文章を味わうことに主眼を置かなければならない。主人公は「私」という荷風のような小説書きと玉の井の私娼「お雪」である。今でいう「掃溜めの鶴」のような「お雪はあの土地の女には似合わからぬ容色と才智とを持っていた。鶏群の一鶴であった」といったお決まりの文句で小説は終るが、小説の狙いはセンチメンタルな遊女物語ではなく、あくまで荷風の風俗観察の妙にある。家風の悪い癖であるが、いつもひとつのところに入り浸りになる。玉の井という狭い入り組んだ迷路に迷い込んだ荷風は、まず玉の井の地図上の観察を日記「断腸亭日乗」に詳細にメモしている。そして夕立という設定で「わたし」はお雪という女と知り合いになる。次はお雪の家の中の観察を行い日記に家の中の間取りがメモしてあり、それに基づいて木村荘八氏が新聞連載小説の挿絵を描いた。玉の井には女は800人くらいはいたようで、島田や丸髷に結っているのは1割くらいで、あとはダンサーか女給まがいの洋装である。「わたし」は小説の中で「失踪」という小説の構想を練っているが、その筋立てが入り組んでややこしいだけで、なくてもがなと思われる。荷風はこの島田の古風な女お雪に昔の消え去った幻影を髣髴とさせるのでいたく興味を持ったようだが、毎日のように逢瀬を重ねて金払いもよいので、当然女はこの男に依って自分の境遇を変えたいという心を持ち始める。すると男のほうは女から離れて行かなくなるのである。娼婦と男の当たり前のような関係であるが、そう露骨でドライに書けば味も蓋もないところを荷風の筆は、陰影礼賛のように隠微に描くのである。季節は夏に出会って秋に別れるという展開で、紅楼夢の中にある詩「秋花惨淡秋草黄 ・・」に収めてゆく。



新藤兼人著 「断腸亭日乗を読む」 岩波現代文庫(2009年5月)

本書は「老いと性」の観点から見た荷風論である。そして「断腸亭日乗」を、戦災日記、荷風の女遍歴、社会を見る目の3つの観点から切り取った。新藤 兼人(しんどう かねと、1912年4月22日 生まれ 98歳 )は日本の映画監督、脚本家である。溝口健二監督を師とした。日本のインディペンデント映画の先駆者である。おもな監督映画に『愛妻物語』、『原爆の子』、『どぶ』 、『第五福竜丸』 、『裸の島』 、『人間』、『鬼婆』 、『裸の十九才』 、『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』 、『竹山ひとり旅』 、『絞殺』 、『墨東綺譚』、『午後の遺言状』、『生きたい』、最新作に2008年『石内尋常高等小学校 花は散れども』などがある。近代映画協会会長。現在も現役で活躍、70年以上の映画人生で、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られる。また池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子ら多くの門下生を出した。尚、近代映画協会は1960年代に100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続、映画作品を送り出している。長年の映画製作に対して1996年に第14回川喜多賞、1997年に文化功労者、2002年に文化勲章を授与された。3度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年に谷本清平和賞を受賞した。

新藤兼人氏は1992年80歳で映画「墨東奇譚」を製作して、NHKテレビ「新藤兼人が読む 荷風断腸亭日乗の大正・昭和史」の脚本・演出を行った。映画の荷風は津川雅彦、テレビの荷風は佐藤慶であった。本書の「断腸亭日乗を読む」は1992年2月から4回行われた「岩波市民セミナー」の講義禄である。1993年12月の著作集第六巻「新藤兼人の足跡・老い」に収録された。この岩波現代文庫版は2009年5月刊行である。1992年の映画「墨東奇譚」が新藤の老人総論となった。この映画製作のため「墨東奇譚」を50回ほど読み、あわせて「断腸亭日乗」を徹底して参考にしたという。新藤も荷風も反戦・反権威を貫いたところが交錯するのである。新藤兼人は師溝口監督と荷風を性の探訪者として重ねる。荷風は芸者や私娼を次々と妾にして契約を結び、金で買った女を1人の人格として大事にしたが、長く続いても3,4年で関係は崩れた。荷風は子孫を作り育てるために関係を持つのではなく、生涯を性のために生きた。性の泉から小説を書き続けたので、老いれば荷風の性は薄れて文学も薄れ、性がなくなれば文学もなくなったのである。いま老いの問題や痴呆症の問題から、老人はいつまでも異性への関心を失ってはダメだという論調が聞こえるが、性への欲望が生への欲望になるのである。それを失ったら枯れて朽ちるだけの老人になってしまう。なんせ新藤氏は2010年で98歳になるスーパー老人である。この本を書いた80歳の時点で、当然氏にも凄まじいまでの老いが襲っていた。目が弱り、殆ど耳も聞こえない、毎日規則正しい散歩と生活習慣だけが氏の生存の証であったという。

永井荷風は自らを「放蕩児」をもって任じるくらいで、その女性遍歴はいつも商売女を対象とし次々と替えていくのである。自分の気持ちに忠実に生きたとしても、日記においても性欲の衰えをしきりに訴えているが、墨東奇譚を書いたのは58歳、戦争が終った時67歳であった。「断腸亭日乗」の大きな山は墨東奇譚執筆のあたりと東京大空襲の日記のあたりであった。戦後はほとんど抜けの殻のような余生を送った。惰性とは恐ろしいもので、精神も体力も疲れていたが、歩いてきた人生をそのまま歩いてゆこうとする。荷風は遊び場所も、飲食店も同じ場所を容易に変えることはない。これは執着ではなく、生活の惰性(リズム)となっている。戦後は京成八幡近くの小さな家を買って住んだ。そしてそこから京成と東武電車を乗り継いで、浅草公園と自宅の往復の独居生活の毎日を過して、1959年胃潰瘍による吐血でなくなった。自ら好んで陋巷に窮死したのは荷風だけであった。それだけの覚悟をしていたのだろう。新藤氏がこの荷風の最晩年の生活を、80歳の老人となった自分と重ねて、その精神の恐ろしくもあり哀れさに共感を覚えて、映画を作り本書を著わしたのであろう。

1) 荷風の戦災日記

新藤氏は終戦時は宝塚予科練航空隊をサポートする定員分隊という部署にいた。その時34歳で当然特攻隊に出てゆく年でもなかったので、無事除隊を迎え、暫くは広島で英気を養い、翌年3月に東京に戻った。豊島の昔のアパートは焼失しており食べるものもなく、そのような時に荷風の「罹災日録」に出会ったという。映像を見るような荷風の記述に大いに興味をそそられたのだ。当時荷風が住んでいた家は麻布市兵衛6番地(六本木)にあり、東京大空襲まで26年間住んでいた「偏奇館」というよ洋風の建物である。この安っぽい洋風建築は当時の日本文化みたいなもので、そこに隠れて滅び行く江戸情緒に郷愁を見出すというアイロニカルな生活であった。偏奇館は土地99坪、建物37坪の2階建てで外国人が住んでいた家を改装したそうだ。真白なペンキを塗りいかにも洋館らしくつくった。荷風は日記を書くのに、普通の小型手帳に毛筆で細かくメモし、後日特製の原稿用紙に浄書したという。「断腸亭日乗」は荷風の自伝でもあるわけで、42年間(1917年38歳より1959年80歳まで)の行動記録となっており、最も脂の乗っていた時期は昭和の初めから終戦までの頃であった。墨東奇譚執筆のための玉の井の私娼窟探索記と、東京大空襲の戦災記録が最も迫力があるといわれる。新藤氏の本書の記述の殆どは「断腸亭日乗」からの引用でなりたっており、それをここで繰り返すと文章がやたら長くなるので割愛する。エッセンスだけを伝えようと思う。東京大空襲の3月9日「夜半空襲あり。翌暁わが偏奇館焼失す」と書き始め、逃げ惑う中スペイン大使館の空き地に休んで、「下弦の繊月凄然として愛宕山のほうに昇るを見る」と書く荷風の文人趣味はこころにくいばかりである。よくよく練った文章であろう。荷風は日記を何回も読み直し、削除や書き直しをしている。自分の見た範囲で、見たものでなければ書かない態度が貫かれており、ルポライターとしてもあるべき姿ではないだろうか。書きかけの原稿用紙と日記を入れた風呂敷を抱えて焼け出された荷風は菅原氏のすすめで東中野のアパートに移った。5月の空襲で中野近辺も焼かれ、菅原氏の実家のある兵庫県明石に移った。6月2日渋谷駅から電車に乗るが、「都会を去るの悲しみさらに深きを覚ゆ」というほど、荷風は都会でしか住めない遊蕩児だった。あかしでは西林寺に厄介になるが、その明石も空襲に遭い、直ぐに岡山に逃げる。東京を出る時「断腸亭日乗」29巻は従兄弟の大島五叟に預け、さらに御殿場の友人の別荘に保管されたので、断腸亭日乗は戦後まで生き抜いたのである。その間荷風は津山市勝山に疎開していた谷崎潤一郎氏と再会し、すき焼きをご馳走になり、こんなご時勢でも「地獄の沙汰も金次第」ということを実感したが、さりとて谷崎潤一郎氏の厄介になるのは忍びないとまた岡山に帰る。このような時に谷崎潤一郎は戦後を予期するかのような優雅な「細雪」を執筆中であった。谷崎は生涯荷風を師と仰ぎ礼を尽くした。荷風は金は十分に持っているはずなのだが、谷崎のような生き方が出来ない融通のきかない人生に共感を覚える人も多いのではないだろうか。6月28日に岡山も大空襲を受けたので、再度明石に戻った。ただ空襲に逃げ惑う荷風老人の哀れな姿が彷彿として来る。荷風は金で闇物資を買って安全地帯へ逃げこむような芸当ができずおろおろと飢餓線上をさ迷っていた。このような境遇に追い詰めた軍部や役人に対して、日記のなかで激しい憎悪を募らせていた。こうしているうちに終戦の8月15日を迎えた。

2) 荷風の女たちと「墨東奇譚」

「断腸亭日乗」昭和11年1月30日に下女政江が突然失踪した話が記載されている。2ヶ月ほど下女兼妾で偏奇館にいた女だが、なんか自堕落な女で手切れ金も催促せずに去った女はこの政江一人だったと荷風もあきれているのだ。そしてその後に、欧州から帰朝して以来のなじみを重ねた女の氏名と概略の記憶を記している。削除されたような空欄もあるが、合計16名と欄外にさらに3名の女が記されている。新藤氏はこの記述を「荷風の女性銘々伝」と称して、忠実に繰り返して解説している。女の話はこの記述だけでなく、「断腸亭日乗」のあちこちに散在しているので、新藤氏はそれをまとめて各女性の像を再構成しようとしているが、記述がそれほど多くはないので、一人の女性の人生物語というほどの内容はない。その中で関根歌という女性がもっとも荷風と因縁が深かった。一番最初の記述は昭和2年荷風49歳のときであった。麹町の妓女であった阿歌を妓籍から身受けし、500円の借金を払ってやって西久保八幡町に一家を借りて住まわせた(菓子屋壺屋の裏にあったので壺中庵となずけた)。21歳のお歌も良く出来た女で、偏奇館に出かけて部屋の掃除をしたり毎日惣菜を作って届けるのであった。掃除、針仕事に精を出す下町風の世帯もち女のようだったと荷風は評した。昭和3年2月荷風が病床についた時もお歌は毎日惣菜を作ってまめまめしく介護した。そしてお歌は神楽坂3番町の待合「蔦の家」を譲り受けて待合営業をしたいという。荷風に待合を出させて自分は女将におさまるのだ。このお歌とは4年ほど続いていたのだが、昭和5年2月お歌は待合をやめて芸妓に戻りたいと言い出した。荷風はその時まだ52歳であったのだが、日記にも情欲が消滅したと嘆くほどで、お歌のあいだに肉体関係が稀薄になっていたのだろう。とはいうものの荷風はその時には別の芸者園華といい仲になっていたので、お歌の嫉妬から来たものであるが、荷風には弁解の筋がないので引き止めて形だけは続いた。しかし昭和6年お歌が病気になり、医者はヒステリー症から発狂するだろうといい加減な診断を信じた荷風は神楽坂の待合を売り払い、お歌を実家に引き取らせて、二人の関係は消滅する。お歌は病気が癒えたのち柳橋の芸者になって、荷風に昔を懐かしむ手紙を送ったり、昭和19年に荷風を訪ねてきている。お歌はその後流れ流れて石川県の和倉温泉の芸妓になり、昭和30年に荷風に新年の賀状を送り、突然荷風宅を訪問した。昭和32年にも一度会っている。よほど荷風とお歌の二人は縁があったのだろうが、荷風の女性観と老齢のためいかにもあっさりした再会であった。

墨東奇譚は昭和12年4月16日から6月14日までの35回「朝日新聞」夕刊に掲載された。満州事変後日本軍の大陸侵攻は激しさと混迷を深めてゆき、社会は重苦しい軍部専制に押しつぶされそうであった。そのなかで朝日新聞がこの軟弱な小説を連載した決断は特筆に価する。荷風は腕によりを掛けて美しい文章を綴り、木村荘八の挿絵がまた絶妙に昭和時代を描ききりました。「断腸亭日乗」の昭和11年5月より「玉の井見物の記」が記載され始めた。9月までは小説の構想を練るための玉の井観察を毎日のように行い、9月20日から小説「墨東奇譚」の執筆を始め、10月25日には脱稿したという。一気呵成の仕事であったのだろうか、気力・体力が充実していた。墨東奇譚の文章は簡潔で、背景描写が少ないので大変読みやすくなっている。玉の井の町の構造、私娼宿の経営者と娼婦の関係、娼婦の日常生活などを調べあげた上に創作にかかったので流れるように筆が進んだのであろう。「断腸亭日乗」の昭和11年2月24日に自分の老いの生活を省みて「老懶」といい、「肉欲老年に及びて薄弱となるに従い芸術の欲もまたさめゆく・・・色欲消磨し尽くせば人の最後は遠からざるなり」といって、遺書七箇条を書いている。老人問題は廃棄物処理問題ではなく、老人から性がなくなったら屍だという観点で生の問題として考えさせられる。9月7日荷風老人は玉の井で「お雪」に会うのだが、お雪は泥水のなかの蓮の花みたいな荷風独特の女性観にフィットしたようだ。娼婦は当時は貧しさから来る底辺の人々である。彼らには権力者と違ってウソがない。ここから新藤氏は「断腸亭日乗」の昭和11年の記述を殆ど記述しているが、本文を読んで頂くとして割愛する。昭和11年は荷風にとって最後の命の線香花火が散った年ではないだろうか。それ以降「断腸亭日乗」から女性の記述はなくなるのである。昭和12年6月22日荷風は三ノ輪浄閑寺を訪れ、娼婦の無縁墓に詣でた。浄閑寺は娼婦の投げ込み寺といわれ「生きては苦界、死しては浄閑寺」と謳われた。戦後の「断腸亭日乗」は別人のように精彩がなくなる。「断腸亭日乗」は昭和20年で終ったという人もいる位であるが、あとの14年の日記は荷風の屍を見ているのだろうか。

3) 社会を見た荷風の眼

荷風の文学は好色文学、花柳文学、色里文学といわれているが、荷風の背景には西欧の自由思想が頑固に存在している。作中の人物と作者の目線は同一線上にあって、荷風はいつも弱者側にいるのである。結構小説が売れて金は持っているはずなのだが、戦争中は谷崎潤一郎ように闇物質を買って豊かな生活をすることはせずに、いつも投下爆弾の間の飢餓線上をさ迷っているのは、将に荷風がそういう立場の弱者の位置から出ることを潔しとしないからである。維新の元老の欺瞞的な生活を幼少より見てきた荷風は、「大逆事件の囚人を運ぶ車を見て、疑獄事件に良心の呵責に耐えられず、以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した」と述べている。ここから荷風の反権力・反軍部の姿勢が貫かれたのだ。それは社会的に発言するのではなく(そうすれば間違いなく刑務所行き)、徹底した権力無視、傍観者的な態度をとらしめた。その目線は、ロシア皇太子傷害事件の難波大助巡査や治安維持法で逮捕された共産党員にも及ぶ。難波大助の行動は反ロシアの社会的風潮に乗ったまでの行動であり、共産党員も人であるという考えから来ている。昭和の初めより軍部のクーデターの風説が流れ、政党政治打倒のいわゆる昭和維新が叫ばれた時代で、次第に軍部専制のファッシズムが逼り来る中で軍靴の響きが聞こえてくる。昭和6年11月10日若槻首相を脅迫するクーデター事件、昭和7年3月5日三井財閥団琢磨殺害事件、昭和11年2.26事件と相継ぐなかで、庶民の目線で事件を見る荷風の日記は貴重な資料である。昭和14年6月30日の日記には金銀貴金属を買い上げる(没収に近い)町会のお達しに反抗して、荷風が残っていたキセル・煙草入れなどを役人の手に渡るよりはましと川に投げ入れる行為は痛快である。そして浅草のオペラ座にも特高の影が見え始めるのである。最早文筆業は存在を許されない時勢に追い込まれ圧殺されてゆく。そして飲食店にも「贅沢は敵だ」という触書が廻り、料理の材料がドンドンなくなっていった。荷風は外食が主ですから、人生の楽しみが奪われてゆくのに苛立ってくる様子が手に取るように分る。これは1人の庶民の戦争に対する悲鳴を聞くという思いがする。ところが、待合では警視庁の役人、大政翼賛会のお偉方、軍人将校らが出入りして、新体制の腐敗も帝都の裏側にまで及んでいる。当然徴兵回避のためその筋への賄賂も横行していたようだ。特高の影が荷風の周りにちらつき始めたため、荷風は追及を逃れるあまりに、一時期日記の不穏な箇所を削除するといういわゆる自己検閲を行っていた。「断腸亭日乗」の昭和16年6月16日の北村均庭の雑録の「筆をとりては聊かも世間に憚りて実事を失う多し」というところから、荷風は猛然と「今日以後余の思うところ寸毫も憚り恐るる事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし」と悟るのである。そして満州事変以降の軍部専横を激しく非難している。「街の噂」とか称して多少のカムフラージュをしているが、見聞きしたことを毎日の日記に衣を着せず書き綴る頃の荷風の筆の強さは圧巻である。菊池寛らの文学報告会や徳富蘇峰らの軍部迎合主義者を口穢く罵倒している。昭和19年3月には浅草オペラ館は取り払いとなり「浅草興業の中真に浅草らしい遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地」を惜しんでいる。そして都内の建築物の強制疎開という取り壊しは「役人の机上プラン」に過ぎないと避難しているが、その言い草は今日でも官僚の施策に当てはまる。官僚の本性は変っていないことに唖然とする。昭和20年5月5日の日記には「我らは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」と抵抗姿勢を示す。こうして帝都はB29の爆弾の餌食となって、広島長崎の原爆で止めを刺されたのである。



永井荷風著 磯田光一編 摘録「断腸亭日乗」 岩波文庫(上下二冊)(1987年8月)

「断腸亭日乗」とは荷風が38歳の時から死の前日(1959年4月29日)まで書き綴った日記である。断腸亭は荷風の雅号、日乗は日記の事である。この岩波文庫本は、岩波版全集でおよそ3000ページにのぼる全文から磯田光一氏が摘録して約4分の1に縮小したものである。当の磯田光一氏は本書が刊行される前に急逝された。したがって3000ページを800ページほどに縮小するためどういう観点で取捨選択したのか分らない。磯田光一氏(1931年1月18日 - 1987年2月5日)のプロフィールを紹介する。横浜市生まれで、東京大学文学部英文学科を卒業後、1960年『三島由紀夫論』で群像新人文学賞の佳作に入り、文芸評論家としてデビュー。第一評論集『殉教の美学』以来、日本浪曼派などに興味を示し三島由紀夫、永井荷風などの文学に鋭い考察を加えた。1984年から東京工業大学教授。三島文学を日本の土着性の中でとらえ直そうとした『殉教の美学』、英文学と高見順や島木健作を対比させて転向の問題を論じた『比較転向論序説』、小林秀雄などを論じた『パトスの神話』、『吉本隆明論』など西欧化と日本の伝統の両面から広く時代背景をとらえた文芸評論を発表し続けた。1979年には『永井荷風』で第1回サントリー学芸賞、1984年には『鹿鳴館の系譜』で読売文学賞を受賞。戦後文学の軌跡についても『戦後史の空間』(1983年)、『左翼がサヨクになるとき』(1986年)などの著作がある。

「断腸亭日乗」は1年を1卷として、和紙に墨書して綴じたらしいが1947年以降はノートへのペン書きとなったという。荷風は外遊時代にも日記をつけていたが、明治40年代は日本の文壇に迎えられて忙しくなったのだろうか日記をやめている。大正時代になり慶応大学教授を辞め、三田文学編集をやめてから、文壇を含め現代社会に対して隠遁的態度を取り始めた。大正5年雑誌「文明」を創刊して、荷風は花柳小説「腕くらべ」を発表して、文語調の文体意識が顕著になるにつれて荷風は日記への関心が強くなったといわれる。外遊時の日記を編集しなおして「西遊日誌抄」を「文明」にだしたのもこの現れである。日記の再開は1917年(大正6年9月16日)からである。弟との決別(荷風が妾を家に入れたことから)より、隠遁生活を決意したことと日記の再開が一致している。荷風は突如大久保の邸宅から出て、築地の陋屋へ移った。その時代は大正の米騒動が起って、不安な世の中へ移りつつあり、荷風のいらいらと不安げな様子が伺え、次第に世の中の動きに冷淡な隠遁生活にのめりこんでいった。1920年(大正9年)に麻布偏奇館へ転居する時代は、原敬首相襲撃事件、関東大震災へと動いてゆく。この関東大震災で社会の風俗の変化が著しくなり、荷風の日記は世相風俗を映し出す風俗史資料である。昭和の時代となり芥川龍之介の自殺にいささかの反応も示さなかった荷風の筆は、満州事変とともに軍国主義へ傾斜してゆく社会情勢には、事実を記録し批評を加える目は確かである。一時期当局の目を恐れて、日記を切り取り削除する箇所が見られたが、北村均庭の雑録に励まされて、記録者としての覚悟を決め、日記の復元をはかった。このような抹消、切り取り、さらに復元という行為は、日記を書くことが荷風にとっていかに真実で妥協のない営みであったかを物語っている。1937年の母の死においても、家族関係の克服はならなかったようで、ますます独居凄涼の自由と孤独不自由さを味わう生活にのめりこんでいった。荷風が見出した唯一の安息場のひとつに浅草公園6区があった。オペラ座の舞台と楽屋は荷風の心のオアシスになり、オペラ脚本「葛飾情話」などを書いて入り浸っていたが、1939年にはオペラ座も閉鎖されて行く場所を失った。日米開戦後の荷風は庶民と同じく空襲に追われて転転と逃げ惑う生活となった。それでも書き上げた「断腸亭日乗」は知人の手で安全な場所に隠し、毎日の日記原稿用紙を持っての逃避行であったという。ではこれ以降は「断腸亭日乗」の概要に入る。多少長くなるが、荷風先生の迷宮にご案内しよう。


「西遊日誌抄」(1903年ー1908年、明治36年ー明治41年)
荷風の序によると、「米国と仏国に在りしときの日記を、読み返してみると感慨忽ち禁ぜず、なかなか焼きも捨てられねば、他人の迷惑になる記事を抹消し書庫に収めた」とあり、大正6年早春と記されているので、「断腸亭日乗」を書き始めた年と同じ年である。新らたに日記を書き始めると同時に古い日記を編集して清書したものである。内容的には日記の体裁を取っているが創作小説というべきではないか。

1903年(明治36年)
9月22日郵船汽船信濃丸にて横浜港を出発し 
10月5日カナダのヴィクトリア港に着いて、タコマ市に居住する。 
10月24日シアトルに遊び、平原での牧畜の風景に感じ入る。

1904年(明治37年)
ゴーチェ、アランポーなどの詩を読んで伝奇小説を書きたいと思うようであったが、一方平家物語など古文も捨てがたく、思想混乱状態であったという。 
2月9日日露戦争開始。 
4月8日自転車でサウスタコマに遊び、広い牧場に感動する。日本からの便りで斉藤緑雨の不遇の死を知り、江戸狭斜の情趣が死んだと惜しんだ。 
9月トルストイの自叙伝を読む。 
10月8日セントルイス万国博覧会に行こうと、電車に乗った。ロッキー山脈を越えミシシッピー川を渡った。 
11月16日カラマズの学校にはいることを決心した。何の学校なのか書いていないが、荷風は南の方が好きだといっている。
1905年(明治38年)

1月2日旅順港陥落の報あり。 
6月16日ペンシルバニアに学ぶ友人に会うため、カラマズを出てナイアガラの滝近くのキングストンに到着。そしてニューヨークに移動して、ワシントンの日本公使館が日ロ講和交渉のため多忙なために臨時雇いを募集していたのに応じた。 
7月19日公使館に居住する。ワシントンの夏は炎熱極まりなしとぼやいている。 
8月29日父は荷風のフランス行きに反対するといってきた。この頃から酒家の娼婦イデスとの遊びが始まるのである。「余は淫楽を欲して已まず。淫楽の中に一身の破滅を希うのみ」と淫楽を父への反抗のせいにしている。 
10月16日日露講和もなり、公使館の臨時雇いも今月限りとなった。 
11月24日父の手回しで正金銀行ニューヨーク支店の事務員となる手はずが整い、 
12月4日ミシガンのカラマズを去り、ニューヨークに着く。銀行での金勘定が死にほど嫌だったと荷風青年は悩んだ。とはいうものの父の実業家になる勧めに反抗しながら、生活費などの面倒を見てもらっているため、父の指示には易々と従ってゆく荷風の態度がいまいち優柔不断である。毎夜銀行を退けると、酒屋に入り浸り娼婦と戯れ、オペラを見て慰める日々であった。

1906年(明治39年)
元旦の朝までニューヨークの悪所で放蕩していたらしい。 
1月8日までメトロポリタン歌劇場で、ファウスト、トリスタン、ドン・パスクワーレ、トスカを毎夜観覧した。この頃からワシントンの娼婦イデスが毎週末にニューヨークへ会いにくる。荷風はこの頃集中的にオペラを見ている。
2月はタンホイザー、アイーダー、ローエングリーン、パルシファルなどワーグナーの劇が多い。 
3月はワルキューレ、ライン、そしてカーネギーホールでクラシック音楽を聞いている。 
4月ニューヨークを訪問したロシアの文豪ゴーリキがひどく冷遇されたいきさつが記されている。 
6月短編「春と秋」、「長髪」、「雪の宿」を脱稿した手は日本に寄稿した。 
6月20日チャイナタウンの魔窟に出入りしアヘンを吸う賎業婦の悲惨を目の前にして親密感を覚えたという。フランス語を学習するため夜学校に通い始めた。父の心子知らずのように、将来日本の実業界に役立つよう学費を惜しまず支援してきたのも関らず、「娼婦の奴婢になるも何の恥じかあらん」と荷風は放蕩三昧の生活であったようだ。 
7月にはモーパサン、フローベールの小説を読む。銀行内では次第に荷風の行状に悪評が広がり、解雇する噂も広がってきた。
8月15日ワシントンの娼婦イデスがニューヨークに移り住むようになり、荷風との逢引も頻度増したようだ。 
11月カーネギーホールにニューヨークシンフォニーの演奏を聞き、メトロポリタン歌劇場にロメオとジュリエット、タンホイザー、シーザーとクレオパトラ、リゴレット、ファウスト、カルメン、ポエーム、ラクメを見る。

1907年(明治40年)
ニューヨークで之だけ放蕩を尽くしても猶解雇されないのは不思議だと荷風は意外に思っていた。正月よりメトロポリタン歌劇場にてカルメン、ジークフリート、ロメオとジュリエット、椿姫を見る。マンハッタン歌劇場にドン・ジュワンニを聞く。 
7月2日正金銀行を首にもならず、フランスリヨン支店へ転勤を命じられる。これも父の斡旋があったためで、荷風は父の恩に感激しているが、素行は改まりようもなかった。 
7月29日パリを経てリヨンに入る。
11月「アメリカ物語」を脱稿して日本に送った。
1907年(明治41年)

父の策したリヨン支店務めも、 2月には破局が訪れ辞表を提出した。
3月5日解雇の命を受ける。 
3月20日父より帰国命令が来た。荷風は「余は判断することかなわず」といって、そのままフランスで自活する道を選ばず唯々諾々と父の命に従って帰国した。意志薄弱といわれても仕方ないお坊ちゃまで、荷風28歳のことであった。


「断腸亭日乗」(1917年ー1958年、大正6年ー昭和33年)
1917年(大正6年 荷風39歳)
9月16日から起筆され、最初から胃腸の疾病で苦しむ様子が記されている。大久保の大石医師の来診を待つために木挽町に一屋を借りて往診を願っていた。当時荷風は故父の旧宅を永の住み家として住んでいたが、それとは別に書斎とベットのために一軒の陋屋を借りていた。「無用庵」と呼び、そこで「おかめ笹」を執筆した。父の旧宅は「断腸亭」と呼ぶ。
10月13日「文明」創刊にことで相談あった。
12月4日「腕くらべ」校正終了、翌5日脱稿なった「おかめ笹」を中央公論社に渡す。

1918年(大正7年 荷風40歳)
荷風は正月には必ず雑司谷の父の墓に参ることを習慣にしていた。毎年寒くなると、庭に一羽の山鳩が来る。群れないで孤立した山鳩を見ては自分の偏屈な生涯に似ていると嘆息する荷風であった。 
1月20日堀口大学が来訪し、書の序を請われた。 
4月唖々氏と雑誌「花月」の発行を企てる。 
5月3日築地に清元の稽古がえり麹町にて台湾人一行を引き連れる警官を見て、「今の世の中に人食うものより恐ろしき人種あり」と日本人の植民地人を蔑む様を罵倒している。 
8月8日土蔵の床下に父の遺愛の壺を発見して、母が自分から隠したのだと絶望感に襲われもはや父の旧宅から出てゆく決意をしたようだ。 
8月9日このころ付き合っていた新橋巴家の芸妓八重次入院すの記事あり。 8月15日米暴動が起きる。政府は暴動の記事を禁止したという。 11月12日断腸亭の買い手がついたので、12月中旬に手渡しと決定。 
11月21日日比谷公園で労働者のデモを見て、下層社会が窮迫していることを知る。 
12月22日築地の陋屋を買い引っ越す。なお大久保の父の旧宅は26216円で売れた。

1919年(大正8年 荷風41歳)
元旦風が強いので雑司谷の墓参りは中止、夜桜木の待合に食事をとる。 
1月16日の日記に芸妓八重福を養女にしようと考えたが、これが又とんでもない女である事が分り取りやめたとあるが、絶縁した弟に荷風の死後財産が委譲されることを忌むためのことである。 
3月10日朝鮮独立運動起る。
3月28日芸妓と墨堤を散歩、百花園にゆく。荷風は散歩大好き人間で、旅行は滅多にしないが生涯都内の同じ場所を繰り返し散歩している。「兵馬騒乱の際といえど、平然として泰平の世にある如く戯作を試みる」というように、荷風も「須らく江戸戯作者の顰に倣うべし」を理想とした。この頃芸妓八郎と散歩や食事をする記事が多い。 
5月12日帝国劇場で梅蘭芳の「酔楊妃」をみて大陸の芸術的品位に感動し、ふりかえってわが国の演劇界を嫌悪する。 
5月25日中国人の排日運動を報じる新聞記事を読んで「わが薩長武断政治の致すところなり。国家主義の弊害かえって国威を失墜させ国家を危くするにいたる」と憤慨した。 
5月30日20年間荷風の身の回りの世話をしてきた老下女しん病死の悲報に接し憐れみの情止み難し。 
7月20日の記事に築地の露地裏のむさくるしさ不潔さをみて「市民の生活は醜陋なるに過ぎず個人の覚醒せざることは封建時代の昔と変わることなし」と嘆じて、はやこの穢い場所に嫌気がさして移住のことを考え始めた。あちこちの宅地を探して11月麻布市兵衛の地所を買うことを決意した。年末の記事には菖蒲河岸、石原番場など大川周辺を散歩している。

1920年(大正9年 荷風42歳)
正月3日麻布の新居にいれるベットなど家具を買いつけた。 
3月明石町、愛宕山を散歩。 
5月23日麻布の新築の家ペンキを塗って新居に移転し、「偏奇館」と名づけた。この頃痔を患い、俳句の木曜会にも行けず。 
6月虎ノ門でバラの木を買って庭に植える。 
8月20日新聞記者の来訪を避けるため、新聞社に訪問や写真撮影には金をいただくという通知を出すような、変人ぶりを発揮。 
9月23日偏奇館に西日の差し込みがひどいので庭にプラタンを植える。 
12月小説「雨蕭蕭」を執筆し脱稿。チューリップや福寿草を植えるなど庭の整備に精を出している。

1921年(大正10年 荷風43歳)
荷風の正月はたいてい年賀の客はない。 
4月9日偏奇館の前の御用邸の桜が満開となり、近隣の悪童が枝を折るのを見て、「獰悪山猿の如し」と憎む。荷風は終世子供が好きになれなかったようだ。芝山内を散歩、 
5月25日早稲田を散歩。鶴屋南北、為永春水を読む。今なお深川のむかしを小説にしたいと地理風俗をメモしている。この頃初期の糖尿病に悩み、病院に通う。
7月4日アンドレ・ジイドの「パリュ−ド」を読み感嘆措くあたわずという。 
9月10日与謝野寛氏「明星」の再刊を企て、石井伯亭、高村光太郎、森鴎外らと協議する。 
11月5日原首相東京駅で刺されるというが、荷風は「余政治に興味無きを以って一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず」と言い切った。 
11月6日吉原に往き、酉の市で猿之助宅へ寄って酒肴のもてなしを受ける。 
12月12日水道管破裂によって断水し、東京市の鉄幹汚職事件のせいだ怒る。 
12月18日女と連れ立って、銀座で食事をし上野観音堂に参る。

1922年(大正11年 荷風44歳)
正月2日雑司ヶ谷の父の墓に詣でる。 
2月8日小説「雪解け」を「明星」に寄送する。 
2月9日市川段四郎の葬儀に参列し、帰りは浅草公園から永大橋へ墨田川の両岸を散策する。
2月23日パリへ遊びたく思い郵船会社に渡欧費を相談するが、「むしろこのまま陋巷に老い朽つるにしかず」と断念する。 
4月1日フローベルの小説「マダム・ボワイリ」を読み終える。 
7月9日森鴎外死去、通夜、葬儀に参列。向島弘福寺に葬られる。 
9月15日深川心行寺に鶴屋南北の墓を掃う。 9月17日雑司ヶ谷に小泉八雲の墓を掃う。 
11月9日上野精養軒にて七草会例会にて、森先生の全集刊行が発起される。

1923年(大正12年 荷風45歳)
1月は帝国劇場でトスカ、トラウィヤタ、フォーストを聞き、モーリス・ラベルの評伝を読むなど音楽に浸る。 
5月3日庭の若葉較べを楽しみ、郁子の蔓の植え替えなどごく普通の庭好きの側面が見られた。 
5月17日森鴎外の「渋江抽斎伝」を読み、言文一致と古文体の文致高達の味を賞賛。 
5月19日中川に遊び、銀座で食事をして帰る。 6月8日深川より行徳に行き船に乗って中川放水路に遊ぶ。 
6月18日素人女紹介家に行き10円で遊ぶ。 
7月6日市川に遊ぶ。  
7月11日唖々氏逝去の報を受け東大久保に行き焼香をして帰る。 
8月5日鷲津先生の考証せんとして、「春濤詩抄」、「東京才人絶句」を読む。 
8月19日谷中瑞輪時に大沼枕山の墓を展する。 
9月1日関東大震災起きる。愛宕山に登り市中の火を展望する。河原崎長十郎一家が偏奇館に避難した。 
9月3日放火するものありという噂が流れ人心恟恟として警備にでたという(大杉栄や朝鮮人虐殺の記事はない)。 
10月3日日比谷公園を通ると仮小屋が建ち糞尿の悪臭が堪えられないほどで、愛宕山に登ってみると一望渺渺たる焦土にして、房総半島までよく見えたという。そして「つらつら明治大正現代の帝都を見ると、いわゆる山師の玄関に異ならず、愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりとしとしてさして惜しむに及ばず」といって、強がっていた。 
10月16日池之端にて神代氏に会う。 
11月3日鷲津・大沼枕山二家の伝を起草し「下谷のはなし」と命名した。この年の女はお房、秀梅、お栄などの名が見える。

1924年(大正13年 荷風46歳)
元旦山形ホテルで河原崎長十郎ら歌舞伎役者らと災後の新春を祝う。 1月2日お栄とともに雑司ヶ谷に父の墓参りをした。 2月16日浅草伝法院、河東白髯神社、弘福寺の鴎外先生の墓に参る。 3月20日より病気で臥す 。4月7日日暮里谷中墓地の経王寺に森春濤の墓を掃う。 4月20日白山蓮久寺にゆき唖々氏の墓を掃い、原町本念寺に太田南畝の墓を掃う。 4月22日小日向日輪寺に老婆しんの墓を弔う。目白の関口、椿山荘から神楽坂に遊んで帰る。 12月13日母を訪問したが、弟伊三郎は子供二人を母に預け、朝鮮に勤めていた。荷風はその子供に「早く帰れ」と罵られて「野猿のごとき悪児」と日記に記す。
1925年(大正14年 荷風47歳)

元旦雑司ヶ谷墓地に父の墓参り。 
1月15日三菱銀行の預金1万円を超えたので利殖のために、兜町に行き東京電燈会社の株を買う。 
6月16日三一氏に誘われて足が遠のいていた歌舞伎座へ行く。「下谷叢話」などを刊行する。 
8月31日曝書、薄暮行水。 
10月8日タクシ−の運転手の話として、霊岸島の隠売女の斡旋の話を記す。又淫蕩の血が騒いでいたようだ。 
10月24日出版社の文人に対する態度は商品を注文するが如きで、最も憎むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なりと攻撃する。 
12月3日荷風の誕生日で、47歳となったと記されている。 
12月5日押入れに突っ込んであった寄贈雑誌の類を売り払ったという。元来荷風は雑誌は読まない主義で、「史記」、「通鑑」などまとまった著書のみを読む。雑誌は時間の浪費だという。終日独炉辺に閑座し心のままに好める書を読むことを得るは、人生無上の幸福にあらずや。この年淫業ますます盛んで、赤坂の野中女、新橋の松菊、氷川町のお浪、桜川町の女の名が見えるが、悪所での一夜の女数知れず。
1926年(大正15年・昭和元年 荷風48歳)

元旦雑司ヶ谷に父の墓参り。 
1月2日の記述には父のなくなった時のことが記されている。父は大正元年12月30日夕方脳溢血で死亡、この時荷風は芸妓八重次と箱根に遊んでいて不在だった。翌日電話で知らされて駆けつけるも遅かった。翌年5日にキリスト教会で葬儀が行われた。父はキリスト教徒ではなかったが、激しく仏僧を憎みていたためであるという。母がキリスト教徒であった。 
1月5日春陽堂より印税4000円を得る。自分の小説が売れることは「けだし世をあげて浮華淫靡に走りし証拠なり。之亡国の兆しに非やずして何ぞや」と矛盾したことをいう。 
1月12日桜川の女お富、新富町のお澄、八重次、白鳩銀子、お栄などの女の美人較べをして「我ながらいくつになり手も色欲は断ちがたきものと、つくづく我ながら呆れ果てたり」という。何をかいわんやである。また「蓄妾の楽しみもまた容易に廃すべからず、放蕩もまた更に愉快なり」といって独り身の醍醐味を満喫しているが、老後の覚悟もしなければ人生帳尻が合いません。 
2月20日遊び友達黒田湖山氏病死の報をうけ、昔須崎に遊郭に連れ立って遊んだことを回想している。 
5月16日小山内薫門下の田中総一郎氏が来訪して、頼まれて「劇と評論」に雑文を寄稿することを約束した。 
7月5日九段灯明坂の工事を見る。 
7月9日鴎外先生と成島柳北先生の忌日なので、神代氏と向島弘福寺に墓参する。帰途言問い橋から船に乗り上野に行く。 
7月12日秋葉原駅の名は「アキハバラ」ではなく「秋葉ヶ原」なのだと地名の抹殺に怒る。 8月11日日暮れ銀座「タイガー」に行き、女給が新橋の芸妓だったので風俗の変化に唖然とした。 
9月26日数年前に偏奇館に植えておいた秋海棠の花が咲いたので、大久保の旧宅の秋海棠の多かったことから自分の雅号を「断腸亭」としたことなどを回想した。 
10月2日駒場農科大学の園林を散歩する。駒場農科大学は旧幕府の薬園があった(小石川もおなじ)ことを思い出した。 
10月10日帝国劇場にて高田一座の舞踏を見る。演劇界の風潮は昔は西洋翻訳劇であったものが、いまや舞踏が主流となり殆ど裸体である。 
10月20日成島柳北の日記「硯北日録」を読み、写す。 
11月20日わが国のカフェー隆盛の状況を見て「あたかも社会全般の事西洋文明を模倣せんとして到底よくすること能わざる」といい、日本のカフェーは給料をもらえない私娼の稼ぎ場所に過ぎないと看破した。 
11月27日吉原の大鷲神社の酉の市に遊び仲間と芸者・女給をつれて遊興に出かける。 
12月20日銀座タイガーに出かけ、尾張町の火事を見る。その時警備の巡査の横暴なる振る舞いに怒る。避難民の通行を制約しかえって惨事を招く有様である。いわゆる災害ではなく人災であるという。(之は現代でも言えることである)
12月25日大正天皇諒闇。大正が終ったことで、荷風は4,5ページの簡単な「自伝」を書いている。すでにあらかた紹介したことなので省略する。

1927年(昭和2年 荷風49歳)
元旦朝9時に目覚め、ショコラを温めて飲み朝食の代わりにすることはこの10年来の習慣となった。元旦夜タイガーにゆく。 
1月6日柳北先生の「硯北日録」を写し終えた。日暮銀座に行こうと家を出ると、近所の児童が一斉に荷風を指差して嘲る。不愉快極まりなし。 1月17日七草会の新年の宴に浜町にゆく。震災復興工事が進捗し街路の光景一変した。 
1月22日正月以来病床に臥し、林述斎の「蕉窓永言」を読み倦むことなしという。 
1月29日偏奇館のある市兵衛町の赤レンガ塀の家が東久邇宮邸である事を初めて知ったという。往時は和宮邸で、江戸時代は八戸南部の上家敷だったそうだ。この頃毎晩銀座のタイガーで飲む。 
2月9日「詩経」を読む。4月まで続く。 
5月15日秋海棠の芽がでたそうだ。秋海棠は別名「断腸花」という。大久保の旧宅に多く咲いていたことから断腸亭の雅号と本書日記の書名の由縁である。 
5月12日タイガーの女給と深川不動尊、州崎の遊郭を散歩。 
6月21日改造社と荷風全集本の出版契約をなす。契約金15000円。 
7月9日向島弘福寺に森先生の墓を掃う。墓前に与謝野寛の献花があり肩書きつきの名刺がさしてあったので、売名の心に嫌な気がしたという。 
7月14日芥川龍之介自殺の記事を見る。付き合いがなかったので特別な感情は起きなかったが、36歳だったということからよくも自分は無事生きてきたことが不思議だという。 
9月4日お歌のこと初めて出る。病気見舞いに来た。お歌については何回も紹介したので省略する。 
9月22日夏目漱石の未亡人の談話で漱石の病気が精神病であったことや失恋のことなどを明らかにしているので、荷風は故人の名誉に関することは書かでもがなと不快に思った。 
9月30日博文館から「アメリカ物語」の版権の事で抗議を受ける。10月に荷風の詫び状と5000円を支払うことで落着した。 
10月8日タイガーの女給お久から金をゆすられ130円をあたえる。 
10月21日お歌を囲っていた「壺中庵記」を書く。といっても俳句1句の歌枕程度の寸文だが。 
11月25日帝国ホテル食堂に鴎外先生全集出版記念会に出かける。この年に名の出た女は麹坊の妓お歌、タイガーの女給阿久操子、お久。

1928年(昭和3年 荷風50歳)
1月2日壺中庵に立ち寄りお歌を伴って雑司ヶ谷の先考(故父)の墓と柳北の墓を掃う。 
1月20日関氏より人形町の舞踏場の警察の手入れの話を聞く。閉場後は客の誘いでどこでへでも行くようで、娼婦の一夜の値段は30円から100円とのこと。 
1月25日春陽堂より全集本の印税5万円受け取る。 
2月3日お歌、芝玉木屋の味噌醤油を買ってきたる。玉木屋は江戸以来の老舗で味の変わらないことに驚く。そして当世批判「初めのうちは勉強して精を出すが、少し繁盛すると見れば忽ち品質を悪くし不正の利を貪る。商人のみならず日本人一般の通弊なり」  
2月5日荷風は毎夜惣菜をこしらえて来るお歌のことを「正直にて深切なり、かくの如き可憐なる女に出会いたることは誠に老後の幸福というべし」と誉めている。 
2月15日愛宕山の放送局焼失。
3月24日神楽坂の待合「蔦の屋」を買い、お歌は待合「幾代」を開くつもり。壺中庵を引き払い三番町に移る。
5月6日夜は毎晩3番町へゆく。 
5月30日森先生全集の「ゲーテ伝」を読む。 
7月25日在留シナ人、南京新政府樹立祝の行列練り歩く。 
8月25日永代橋のたもとから春本浄瑠璃脚本4冊を投げ込む。人に見られることを恥じるためである。 
11月27日終日病床に臥し「論語」を読む。 
12月2日飛行機の飛ぶを見て児童喜ぶ。之は日本人の発明にあらず「日本人の得意とするところは他国の人が苦心惨憺の余発明せし物を窃取して恥じないことである。開国以来60年一物の創造発明する所なきもまた一驚に値す」と文明批評の目は厳しい。 
12月28日築地劇場にて小山内薫氏の葬儀があるが行かず。 
12月31日除夜の繰言。「白髪も1,2本はあるが、されど淫欲の失せたること驚くばかり。わが身に定まりたる妻のなかりしも幸いのひとつなり。予は平生文壇の士を目して人間の屑なりとせり。文壇の輩のとやかく言うが如きは蚊の鳴くに異ならず」

1929年(昭和4年 荷風51歳)
元旦「列子」を読む。1月2日雑司ヶ谷に先考の墓を掃う。 
1月3日短編「片おもい」を脱稿する。 
2月11日中州病院にて脚気および梅毒の注射をなす。この日は紀元節なので忠君愛国など襷掛けで皇居を拝礼するものありしが、「外見は国家主義旺盛なりしと思はるるなれどかえって邦家の基礎日に日に危くなれることを示すものなるべし」  
3月27日文藝春秋誌に荷風の個人攻撃の文があったので、翌日「菊池寛に与うるの書」を書く。 
4月5日タイガーにおいて女給美人投票の催しがあって、菊池寛某女に150票(ビール券)を買う。これ田舎者の本性なりと菊池寛を馬鹿にする。「予久しく文壇の人と交遊せざるをもってかくまでに文士の堕落せりとは心つかず。独り菊池寛と山本有三らのみを下等なる者と思いしが・・」  
6月15日山王権現祭礼の日。
8月23日「敬宇文集」の「編年日本外史」の序に洋学者も漢文を学ばざるべからず、若い時洋書を読破した力は中年以降漢文を読まんとする時洋楽の力おおいに益ありという。 
10月18日官吏会社員の給料減俸になり、酒肆舞踏場の取り締まり厳しくなり銀座の灯が消えたよう。「官権万能にして人民の従順なる事驚くに堪えたり」と。 
10月27日郁子(むべ)の実を花瓶にさす。
1930年(昭和5年 荷風52歳)

1月4日銀行の取り付け騒ぎの風聞があったので、第百銀行預金を三菱銀行に移し変えた。 
1月8日飴売りの朝鮮の老婆を近所の子供らが鬼婆と棒を持って追い立てる騒ぎがあり、50銭銀貨を与えたという。悪童の暴虐を憎む。 
2月8日鶯の声を聴いて三句掲載。初めて荷風の俳句が現れた。 
2月14日お歌突然待合をやめ芸妓に戻りたいと言い出した。荷風は一生付き合って死に水を取ってほしいと念願していただけに、必死に翻意を促し元の鞘に収まった。
5月28日薄暮お歌と招魂社を散歩すると、池の辺りの新聞縦覧所に学生と芸者が屯している様子、お歌のいうには以前よりこの新聞縦覧所は法政大学の学生と芸者または女学生の出会いの場になっているとのこと。 
8月20日谷崎潤一郎・千代・佐藤春夫の連名で協議離婚の手紙がくる。あまりにおかしければと全文を示す。 
12月31日世の中不景気になり余の収入も半分となれりと言い、「52歳の老年に及びて情痴なお青年の如し。笑うべく悲しむべく、また大いに賀すべきなり」と荷風にとって性とは生なのである。
1931年(昭和6年 荷風53歳)

元旦三番町のお歌の待合に行き屠蘇を飲む。 
1月4日文人画工の賀状、自己の抱負を語る宣伝になっており厭うべし。「いま少し垢抜けてて茶気をおび諧謔の妙味を感ぜしむもの敬服に値す。文辞は洗練が第一なり」という。 
2月7日絵に揮毫三句。 
2月12日神楽坂中河亭に飲む。昔のなじみの女園香に会うも感興起らず。この女に逢って「悪夢」、「紫陽花」の短編をものにしたのも昔の事なり。荷風は気になる女にあって小説の創作意欲が出るという動機がいつも必要なのである。 
4月20日鉄砲洲、明石町、月島を散歩する。夜銀座花月に行く。 
6月24日三番町からお歌を乗せてタクシーでの帰途、お歌卒倒し医者を呼んでみてもらうが原因不明。 26日に中州病院に入院させる。毎日病院に行き看護する。大石先生の診断では行く行くは発狂するにいたるという。 
7月7日お歌の親戚と相談する。暫くは入院することになる。 
7月14日中州病院にお歌の見舞いに行き、帰り永代橋の川筋に物寂しい一種の情趣ありて俳句6句を得る。 
8月18日お歌の母に会い待合幾代閉店売り払いに決す。 
8月21日お歌は上野桜木町の実家が引き取り養生することになる。幾代は4年で店じまいとなる。 
8月24日小説家徳田秋声老後貧困甚だしく、里見敦ら寄付金募集をなすという。銀座尾張町の酒亭ライオン閉店し、女給らタイガーに引き取られる。
8月31日お歌の両親と協議し、お歌との関係をひとまず清算することに決す。 
9月25日満州戦乱の号外が出て、満州戦争始まる。 
10月21日谷崎潤一郎氏「改造」誌に小説「つゆのあとさき」について批評を書いたことを聞いて、谷崎氏への返書をしたためる。 
11月10日タイガーにて、陸軍将校が若槻首相を脅かしてクーデターを起こして未遂という話を聞く。「今日政党政治の腐敗を一掃し武断政治を敷くほかに道はなしというが、武断政治は永続しがたし」と書く。
11月20日中州病院の帰りに、新大橋から錦糸堀にいたる。面目変容著しいに驚く。 
12月24日お歌の病状全快したことはめでたし限りなし。

1932年(昭和7年 荷風54歳)
元旦雑司ヶ谷墓地に先考、小泉八雲、成島柳北の墓を掃う。帰途鬼子母神に詣り、明法寺を散歩する。神楽坂上田原屋で夕餉、雪が降り出したので直に帰る。 
1月15日千住大橋から荒川放水路の長橋を歩く。バスで南千住三の輪を経て浅草公園に出る。銀座オリンピアで夕餉、タイガーに憩う。千住晩歩即興という6句を得る。 
1月18日堀切から金町、北千住にいたり夕暮れになる。電車に盲目の三線引きが12,3歳の少女に引かれる様を見て「乞食になりても手を引くものあれば余が身の行く末さまで心配するに及ばず」と妙に感心する。 
1月22日バスに乗り、吉原から小塚原の石地蔵を見て、千住から堀切にいたる。放水路を散歩すること今年3回目の散歩となる。黄昏時昭和道玉の井の売笑婦の住めるところを散歩する。玉の井の盛り場は第1区から第5区まであり、祝儀は1,2円なりという。夜銀座オリンピア洋食店に入り偶然お歌に会う。食事後タイガーに憩う。
2月10日大蔵大臣井上準暗殺される。世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯びること益々甚だしくなれり。陸軍は朝日新聞の満蒙事件報道を憎み圧力を加えしが、朝日新聞は陸軍要人に斡旋を依頼し、謝罪と金10万円を寄付することで妥協が成立し、翌日より記事を一変し軍閥謳歌をなすにいたりしという。 
2月21日の欄に自画像のスケッチあり。3月5日お歌は家主にかたり取られた家賃500円の半分を取り返したとして持参する。荷風はそのままお歌に与える。三井の団琢磨暗殺される。犯人は先に井上大蔵大臣を殺したの水戸の人であるという。桜田門外事変を義挙として誉めるからこういう水戸人の殺気だった行為がやまないのだと憤慨する。 
3月11日満州国政府成立の記事あり。
3月24日清洲橋からバスで砂町を通って葛西橋へ行く。船堀川を散策する。 
3月27日正宗白鳥氏「永井荷風論」を発表、早速それに答える文を草す。 
4月9日銀座の玩具屋軍人の人形を売るを見て「日清戦争以来大抵10年ごとに戦争あり。武力を張りてドイツ帝国の轍を踏まなければ幸いなりべし」と日本の軍国主義隆盛になるを危ぶむ。 
4月25日中州病院の帰り、小名木川を散策す。 
5月1日銀座風月堂で夕餉、銀座のカフェーも最近俗悪醜陋となり銘酒屋に変わらなくなったと風俗の変化を見る。 
5月15日5.15事変おきる。将校ら犬養首相を暗殺すという。之はイタリアのファッシズムの模倣であって、暗殺は日本古来の特技だとして些かも怪しむに足らずという。 
9月11日毎夜銀座での食事後は神代氏に誘われ喫茶店「万茶亭」で雑談するという。夜眠るれなないので、涼みがてら毎夜12時まで服部時計店の鐘12時を報じるを聞いて席を立つという。「毎夜宵の口より夜半をすぐるまで銀座街頭の光景を目にすれば、現代の世相人情の如何もまた日頃にまして一層詳しく細微に渡りてこれを究め得たるが如き心地もせらるる」という。万茶亭は風俗観察と友人達との情報交換の場であった。 
10月3日満州問題の新聞記事を読んで、英国が日本の満州占領を喜ばないのも奇怪だという。英国自身が世界中に植民地を持ち、なおかつ日本を非難するは当たらないと論理である。「国家は国家として悪をなさざれば立つこと難しく、1個人は個人として罪悪をなさざれば生存すること能わざる。之を思えば人生悲しむべきものなり」
10月11日銀座ラインゴルドという外国人経営のカフェーに行き、女給の風俗スケッチの絵を日記に載せる。 
11月11日斉藤茂吉の病院に行き梅毒検査結果陰性であったことを検査証を添えて記載する。中州病院の大石氏は検査もせずに梅毒注射を行ったのは間違いだった。お歌の診断も外れており、荷風が1長年かかってきたこの大石先生は藪医者だったようだ。 
11月31日お歌夜具布団を新調して自動車に乗せて運び入れる。「真情感謝すべし」 暫く途絶えていたお歌との交情も3月の家賃問題以来復活したようである。お歌が縫いたる布団に包まれて様々なことが思い出されて寝ること能わず、暁にいたりぬ。
1933年(昭和8年 荷風55歳)

元旦雑司谷墓地に先考、岩瀬鴎所、柳北先生の墓を掃い、伝通院大黒さんに詣でる。それから多福院の小日向を散歩し、諏訪神社、牛天神から飯田橋に出た。
1月26日日比谷公園で将軍凱旋歓迎会開かれるという広告を見て、「古来征戦幾人回とはむかしのことなり今は征人悉く肥満豚のごとくなりて還る。笑うべきなり」とは痛快な皮肉をいう。 
9月13日銀座キュペル喫茶店にて谷崎氏が待っていたが一足先に帰られた様子。この頃食事は銀座風月堂、飲むのは芝の口「佃茂」、喫茶は「キュぺル」の記載が多い。 
10月6日二重橋に警官の警備著し、5.15事変の裁判がひらかるる為なり。 
10月22日早慶戦の学生が銀座に繰り出して暴れる。 
10月25日最近流行した唄のリストをあげる。風俗観察者らしい。 
12月3日銀座富士アイスで食す、築地明石町を散策してキュペルで憩い、汁粉屋柳家にはいり一茶して帰る。「知十句集鶯日」という名歌を書いている。 
12月17日終日「鴎外遺珠」を読む。鴎外の「臨終口授」を付記する。「余は石見の人森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎の外一字もほるべからず云々」

1934年(昭和9年 荷風56歳)
元旦雑司ヶ谷墓地に先考の墓を掃う。 
1月19日浅草を散歩。松竹座の前に自転車預かり所できる。夜になると音楽沸き起こりて騒がしき夜の世界となれり。 
2月3日平価切下げに恐れて預金全額を株に替えんと兜町に赴く。帰り千住大橋より富士山を見る。北斎が画に在りし風景なり。浅草雷門の松喜牛肉店で食事、銀座キュペルに憩う。柳屋で汁粉を食す。千住のスケッチが記事にある。 
2月18日黄昏時道源寺坂で木魚の音静かなるを聞いて2句記す。 
3月16日庭に沈丁花開く。新聞夕刊に文士賭博の検挙に記事あり。広津和郎の名みえたり。 
4月20日どうだんつつじのわかめ出る。終日「折焚柴」を読む。霊南坂下のアメリカ屋で食事する。 
5月14日突然鶯の鳴くを聞く。 
5月31日午後大石病院に行き、八丁堀筋を歩む。箱崎を過ぎ茅場町薬師堂にもうでて銀座で食事をする。 
6月1日偏奇館の火災保険契約を大幅にダウンして更新。 
6月26日黄昏銀座で夕食、バスに乗り鉄砲洲でおり、物揚げ波止場より月を見る。 
7月30日特高の刑事3人来たりて「日本の神話なる小冊子の基層を受けているかどうを訪ねるので、寄贈誌はそのまま竹かごに投げ込むので部屋に案内して探させた。刑事はその冊子を見つけて持ち帰った。 
7月26日銀座松喜食堂で食す。このごろ銀座で流行る女性のファッションをスケッチした画が添えられる。 
8月24日軍部の命令で銀座通燈火を消し商店を閉じる。「満月の光皎皎として街路を照らす」  
9月16日電車従業員同盟罷業今日かぎり一時中止となる。 
10月17日外套を新調170円。 
10月18日銀座食堂でに飯し、三十間堀出世地蔵の縁日を見て帰る。 
11月6日増税問題起こりて人心戦々恐々。銀座に学生が奥羽飢饉救助義捐金の募集をしていた。
11月21日亀戸天神を散歩する。裏門から芸者町を経て私娼窟にいたる。帰り銀座竹葉亭にて食す。 
11月26日三越洋書部に行き買おうとした洋書が陸軍のお達しで輸入禁止となったという。思想上の鎖国が愈愈実行されるに至った。 
12月28日水天宮から電車に乗り金杉三嶋神社につき、吉原近辺を調査する。長国寺、鷲神社、龍泉寺近くの地図を確認するためである。三の輪より電車に乗り小塚ッ原の地蔵尊に賽す。

1935年(昭和10年 荷風57歳)
元旦雑司ヶ谷墓地に先考の墓を掃う。電車に乗り三の輪で下りる。日本堤から吉原へ、大音寺の子安地蔵尊と安政震災遊女供養の碑をみる。 
1月2日暖か夕刻銀座富士アイスで夕餉を食し、真砂屋に憩う。五句出来る。 
1月14日セネシャルの「現代仏文学史」を読む。美濃部達吉博士糾弾排斥のビラ多く貼らるる。 
3月15日キュペルにて元帥の娘家出をなし浅草の女給となるという風聞を聞く。その筋により厳重に口止め、新聞社の記事も差し押さえたというが、人の口に蓋はできない。 
3月30日神代掃葉氏心臓麻痺で死去。53歳。 
6月16日アーネストサトウの「維新外交史」は日本人の維新史に多い道徳的判断少なくて公平で全体の流れが手に取るように分る名著であるという。 
7月25日ラジオで森鴎外の「山椒大夫」を浪花節に変えた放送を聞く。鴎外先生は浪花節は不愉快だとして好まれず、今日浪花節は国粋芸術とか称して軍人に好まれしが、本来浪花節は最下等大道芸に過ぎずと荷風先生は見下しておられる。 
8月8日酒場へ刑事が入り込み手入れをなす。これがため裏通利の怪しげなる酒場は閉店する者が出る。表通りにも街娼の影少なくなりたり。 
9月10日銀座タイガー閉店、森永菓子店が買い取ったという。 
10月8日山茶花咲き始める。尾張町竹葉亭に食事をし、キュペルに憩う。 
10月25日浅草公園を散歩。待乳山に登る。猿若庁の様子もすっかり変わってしまった。堀は暗渠となって埋め立てられ、新築の橋多しという。 
10月28日歌舞伎座に坪内博士の銅像が建てられたいうが、歌舞伎座の本当の功労者は福地桜痴ではないかと憤慨。 
12月14日「岩倉全権大使米欧回覧記」を読む。「時々人をして失笑噴飯せしむるものあり」僅か3年前までは鎖国攘夷を唱えて、通商条約に反対し、外国使節に切りつけたり火を放ったに人間が舌の根が乾かぬ間に文明開化を唱える。堀田や井伊掃部頭の方がづっと先見の明があったというべき。戦後軍国主義者が急遽民主主義者に変身した如く、日本人の最もいやしむべき性格である。

1936年(昭和11年 荷風58歳)
元旦雑司ヶ谷の墓地に先考、小泉八雲、成嶋柳北、岩瀬鴎所の墓を掃い漫歩、目白の坂より音羽に出、久世山の今宮神社、江戸川橋からバスに乗り新橋で降りて、酒肆金兵衛にて食事。帰ってオールコック「江戸滞在記」を読む。 
1月30日下女(兼妾)政江失踪す。手切れ金も取らずいなくなったのはこの政江のみだという。「つれづれ余が帰朝以来馴染を重ねた女を列挙する」として16人の名と概略を記している。2月14日「肉欲老年に及びて薄弱と成るに従い芸術の欲もまた醒め行くは当然のことならむ」と再度7条の遺言書をしたためる。 
2月26日朝こまかい雪ふり見る見る積もる。軍人警視庁、朝日新聞を襲撃。新聞号外にて、岡田斉藤暗殺され高橋是清重症、鈴木侍従長重傷、2.26事件勃発。
2月27日溜め池から虎ノ門へ野次馬群を成す。海軍省、裁判所、警視庁に兵卒守備。夜銀座の人出いよいよ賑やかなり。金比羅の縁日の如し。
2月28日霞ヶ関虎ノ門日比谷通行止め。反乱軍議事堂に立て籠もる。「春寒なお料峭たり」  
2月29日反乱軍帰順。3月10日フランス人ベルナーレの「日本日夜の記」を読む。日本人から微笑みの習慣を失うと、その顔貌は野蛮粗暴実に厭うべきものになるという。 
4月10日新聞社会面には血腥い事件が報じられている。「日本人は自分の気に入らぬことがあれば、直に凶器を持って人を殺しおのれも死することを名誉となせるが如し」という。 
5月16日「玉の井見物の記」が略図の地図をつけて記されている。荷風は玉の井の風俗、地図、私娼宿経営などについて調べていたようである。いずれ小説をものにせんがためなり。
7月3日浅草公園を散歩。 
7月11日流行歌「忘れちゃいやよ」のレコード販売禁止となる。この唄を歌う時巡査が注意するらしい。 
7月12日2.26事件反乱軍士官代々木原で死刑執行のほ報あり。 
8月15日ベルリンオリンピックの放送があるので銀座通のカフェー、喫茶店このため客多し。 
9月7日夜墨田公園を歩く。若い男裸で横たわる者多く見受けられる。バスで玉の井に行く。ここで荷風は「墨東奇譚」の主人公お雪という女に逢う。年は24,5、上州なまり(常州下館の芸妓らしき)があり丸顔で器量よし。こんなところで稼がずともと思われる。女は小窓に寄りかかり客を呼び入れる。「窓の女」の家の内部略図をスケッチしている。 
9月19日向島から徒歩で玉の井にゆく。長火鉢囲みて身の上話を聞いて帰る。何回も玉の井に通う。この日墨東奇譚起稿す。 
9月23日朝日新聞の記者より小説起稿を求めあられるが、文壇に敵が多い身の上で、いつ潰されるか分らないので曖昧な返事をしておく。 
10月1日玉の井のいつもの家に行く。 
10月4日玉の井の家に行く。 
10月7日終日執筆、題名「墨東奇譚」となす。 
10月20日玉の井のいつもの家に行く。 
10月25日「墨東奇譚」脱稿。 
10月28日「墨東奇譚」を朝日新聞夕刊に掲載することとなす。 
12月10日浅草観音堂の後方噴水の前に蜀山人の碑あり、噴水の後方に桜痴居士福地先生の碑あり。 
12月30日写真機を持って小名木川にゆき中川大橋の風景を映す。「このあたり銀座と異なりて物哀れに情味深し」という。

1937年(昭和12年 荷風59歳)
元旦雑司ヶ谷墓地に先考の墓を掃い、柳北先生の墓に香花を供ぐ。鬼子母神に詣で、電車で玉の井に至る。路地を散歩し地下鉄で新橋に降り芝口の金兵衛に夕餉を食し帰る。 
1月16日写真機を下げて浅草から堀切の堤防を歩む。夕刻綾瀬川の夕陽をながめ、銀座に来てさくらやに憩う。富士アイスで食事をし帰宅。 
1月28日向島の百花園を散歩、浅草雷門のちん屋で食事をする。 
2月21日笄町長谷寺の墓地を歩む。光林寺に入り米国人ヒュースケンの墓を掃う。 
3月18日大久保の母重病の報ありしが、弟威三郎がいるため見舞いに行かぬことと決心する。 
4月15日今日より朝日新聞で「墨東奇譚」の連載始まる。 4月20日浅草から四ッ木放水路の堤を歩く。 
4月30日母上の病状進む様子が知らされるが、威三郎の敷居をまたぐことを願わなければ駆けつけず。「余と威三郎との関係」と称する8項目のいきさつを整理している。
6月10日吉原に遊び朝起きて浅草に行く。夜また江戸一の彦太に宿す。北里の小説の腹案やや見え始める。 
6月18日吉原より朝帰りで大門を出て山谷堀を今戸橋へ歩く。偏奇館に帰り寝る。夜州崎遊郭に往き藤春屋に登る。 
6月21日岩波書店がきて木村荘八氏描く挿絵を示す。よる吉原にはしり江戸二山木屋に登る。 
6月22日朝楼を出て浄閑寺に入り、遊女の墓、新比翼塚、角海老若柴の墓碑を見る。「六月以来毎夜吉原にとまり、後朝の別れも惜しまず、帰り道にこのあたりの町を見歩くことを怠らりしが、今日浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなし。願わくば余の墓はこの浄閑寺の娼妓の墓倒れたる間を選びて、一片の石をたて名は荷風散人墓の五字を以って足れりとす」という。 
8月2日岩波書店より「墨東奇譚」出版す。 
8月3日吉原浪花屋に上る。 
9月9日母上逝去、葬式には行かないという。母堂は鷲津氏名は恒、文久元年御徒町に生まれる。儒毅堂先生の二女なり、父永井久一郎に嫁す。享寿76歳。 
10月27日銀座に行くが上海戦勝記念提灯行列で喧騒甚だしきにより地下鉄で玉の井「九州亭」に行く。 
11月16日小説「冬扇記」進まず中断する。銀座不二家地下食道堂に食し、浅草公園オペラ館の演技を見る。 
11月18日毎夜浅草公園興行を見る。 
11月21日も浅草国際劇場に入りレビューを見る。芝口佃茂で食事して帰る。 
11月23日浅草万成座の演技を見る。夜銀座不二地下で食して帰る。 
12月1日浅草常磐座の演芸を見る。

1938年(昭和13年 荷風60歳)
1月2日鴎外先生の「帝室博物館蔵書解題」を読む、黄昏時銀座不二地下で食し、玉の井に遊ぶ。福島出の女の面白き話を載せる。 
1月4日雑司ヶ谷に墓参り。 
1月14日浅草雑踏平常の如し、オペラ座楽屋に入る。夜銀座不二地下で食す。丸善より洋書5冊届く。 
1月25日新宿ムーラン・ルージュの一座の演技を見る。帰り追分芸者町を散策す、昔園香という芸妓の居たところなりし。 
3月5日浅草オペラ館にゆき、楽屋と舞台を撮影す、俳優らとカフェ・ジャポンで飲み、牡蠣料理まるやで食す。玉の井を漫策して帰る。 
3月13日浅草オペラ館楽屋で野次屋大谷と会い、弁天山小料理店丸留でその経歴を聞く。ハトヤ喫茶店で小憩して帰る。このごろ「葛飾情話」のオペラ化の準備のため、浅草オペラ館に通い詰め。 
4月12日岩波出版に小説随筆集「おもかげ」の原稿を渡す。 
5月17日オペラ館にて歌劇「葛飾情話」初演。 
6月22日日記に「船の上」、「涙」という詩を記す。 
6月終旬は風邪で寝込む。 
7月15日の日記に浅草六区オペラ館付近の地図を記す。 
8月8日水天宮の待合叶屋を訪う。女将のいうには軍部の依頼にて北京に将校用の遊び場を作るため1万円は補助するので、売春婦3,40名ほど募集せよといわれたが辞退したという。「世の中は不思議なり。軍人政府は内地全部の舞踏場を廃止すべしといいながら、戦地には盛んに娼婦を送り出さんとす。軍人輩のなすことは勝手次第なるはなし」  
10月8日中秋なればカメラを手に向島百花園に遊ぶ。帰り浅草オペラ館楽屋で休む。 
10月20日文壇の荷風攻撃盛んなるも見て「筆禍の来るのも遠きに非らざるべし。種彦春水の覆轍を踏むこといまさら悲しとも思わざる」と、世の風潮を考慮すれば筆を折る日も近いことを察す。

1939年(昭和14年 荷風61歳)
元旦除夜の鐘を悪友平井・猪場と千束の酒屋で聞き、玉の井にしけこむ。馴染の家にて正午まで眠り、家に帰ってまた眠る。 
2月15日カメラをさげて越前堀から土洲橋に往き浅草に到る。 
3月22日午後カメラを携えて三河島の陋巷を歩む。雨が降り出したので浅草オペラ館に入る。踊り子らと森永で食して帰る。 
6月29日雨が晴れたので大川橋より乗合汽船にのりて吾妻橋に到る。「雨後の河水著しく悪臭を放つ。墨水の流れも文字通り黒くなりて墨の如し」という。 
7月1日純金強制買い上げのため係りの役人が浅草あたりで戸別訪問している様子、煙草入れ金具をくるんで晩に吾妻橋から浅草川に投げ込む。「むざむざ役人の手に渡って些少の銭を得るよりはむしろ捨去るに若かず」 
7月2日浅草オペラ館来週から戦争物を演ずるため憲兵隊より稽古検分に来る。 
7月9日鬼灯市(ほをずきいち)  
8月13日国木田独歩の小説販売禁止、「ハムレット」上演禁止。 
9月15日欄外に「独露両軍ポ−ランド分割」と朱記されている。 
12月1日今日より白米禁止になる。ロシア軍フィンランドに侵攻と朱記。

1940年(昭和15年 荷風62歳)
元旦より舶来物高騰して手に入らなくなり、煙草屋にマッチがないと物資の窮乏を嘆く文がおおい。 
1月13日旅順要塞指令部より占領30周年祭につき詩歌をつくるべしという書状来る。「いよいよ筆を焚くべき時はきたれり」  
2月10日電力不足のため何処の百貨店、劇場も灯数を減じ、夜10時を過ぎると六区の往来暗淡として人影なし。 
2月20日土洲病院で検査すると尿中蛋白多いということ。「されど今日の如き兵乱の世にありては長寿を保つほど悲惨なるはなし」と自嘲気味。 
3月12日オペラ館で「すみだ川」を見る。富松という芸者と深仲になり腕に「命」と彫ったことなどが懐かしく思い出されるという。 3月13日欄外にドイツ軍デンマーク、ノルウェー占領と朱記。 5月1日「禁欲日」とかやらで、市中の女郎屋一斉休業。女は市外へ移動するもの多しという。 
5月18日号外に独軍大勝パリ陥落の日近しという。「余はフランスの勝利を祈願して止まず」という。 
6月21日企画院・大蔵省その他官庁落雷のため焼亡すという。「天罰痛快々々」  
7月6日奢侈品製造売買禁止令でる。贅沢は敵という愛国婦人連のビラ配り。 
8月24日料理店の値段決まる。これにより八百膳などにて出したる会席料理は中絶す。 
8月29日帝国劇場閉場。 9月5日燈火禁止令、ネオンサインも街灯も俄に数を減じたり。 
9月28日日独伊三国同盟をなす。「腰を低くして侵略不尽の国と盟約をなす。国家の恥辱これより大なるはなし」  
10月5日洋服和服の売価制限される。そのため目下投売り状態。 10月15日「鳴くやこおろぎ」という叙情詩をつくる。
10月21日「昨日の雨」という叙情詩を作る。 
11月16日炭配給制になる。 
11月25日西園寺老公薨去。町の噂として、2・26事件の犯人釈放となり熱海のホテルで豪遊をなせりという。「八紘一宇などという言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶を沸かすはなしなり」と愛国排斥運動をこきおろす。 
11月28日中央公論社と荷風全集刊行の契約をなせり。 
12月16日新体詩集「偏奇館吟草」を編む。12月22日噂によると、日本俳家協会をつくり反社会的傾向を有する発句を禁止するらしいという。「発句の根本は反社会的なものなり、隠遁といい閑適というはさびなり、これなくしては発句の妙味はなし」という。「花下一杯の酒に陶然として駄句のひとつも吟ずる余裕あらばこれ人間の世の至楽なるべし」
1941年(昭和16年 荷風63歳)
元旦昼におき餅を焼き、夕はパンとリンゴとによりて飢えをしのぐ。4畳半の女中部屋に寝起きして自炊の生活もはや4年の歳月を過す。「哀愁の美感に酔うこと、かくの如き心の自由空想の自由のみはいかに凶悪な政府の権力とても之を束縛すること能はず」  
1月10日3回目の遺言書を書く。従兄弟の大島五叟の子孫を相続人とするものである。 
1月26日3月より白米も切符配給制になるらしい。 
2月4日浅草オペラ館にて朝鮮人舞踏団の歌を聞く。公開の場で朝鮮語を用いることを禁ぜられた民族の哀れさを痛感す。 
3月3日蠣殻町の待合の女の話には、客筋に警察や翼賛会の大物あれば手入れは決してないとのこと。「新体制の腐敗早くも帝都の裏面まで瀰漫せり」  
3月13日三田の済海寺を尋ねる。久松松平家の墓あり。 3月21日稲荷町の誓願寺に北斎の墓を訪ねる。 
3月29日町の噂では新内節師匠の看板を掛けることは禁止という。もはや江戸時代の音曲は絶滅するもので、余の小説もおなじ運命なりと嘆く。 
4月22日人に頼まれ画賛二句を書す。 
4月29日銀座フロリダ茶店で憩う。町の噂に、出征軍人の妻や戦死軍人に未亡人に関する醜聞記事は禁止ということで、之をよいことに私娼や淫業を行う者多しという。 
5月6日煙草屋に煙草なし、日本酒は一家族月に一合の割り当てなり。 
5月10日芸能文化連盟より芸能翼賛会の案内来る。滑稽なることこの上なし。 
5月11日銀座で食事。町の風聞は、相撲取りはひいき客から精米豊富なり、九段招魂社(靖国神社)での遺族会の宴会は将に酒池肉林で、宴会については一切報道を禁止する軍部のお達しあり、築地辺の待合料亭は引き続き軍人のお客にて繁盛、尾上菊五郎の倅徴兵検査不合格になるようその筋に依頼ありという。 
5月27日風邪長引き四句なる。 
6月7日池之端で食事す、豆腐料理品切れ。 
6月15日喜多村均庭の「翁草」について語るところを読み、大いに愧じるところあり。「余は万が一を畏れて、一夜起きて日記の不平憤惻の文字を切去りたり。今翁草をよみて慙愧すること甚だし。今日以降余の思うところは寸毫も憚り恐るることなくこれを筆にして後世歴史家の資料に供すべし」  
6月18日汪兆銘南京政府に俸給年5億円なりという。町の噂として、中国で市民の母娘を強姦殺害せし兵士が除隊で国に帰ってみると、自分の妻・母が強姦されたことを聞き精神に異常をきたし陸軍精神病院に収容された。「余はかくの如き傲慢無礼な民族が武力を持って隣国を侵することを痛嘆して措かざるなり。米国よ速やかに起ってこの凶暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」  
6月22日独ソ開戦の号外あり。7月15日税金暴騰す。 
7月25日日本軍はフランス領インドとオランダ領インドを侵す。「日本軍のなすところ欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異ならず」という。 
9月1日写真フィルム品切れ。鉄銅器を召し上げる噂あり。
  9月6日内閣総辞職。「今日わが国の革命は、定職なき暴漢(右翼)と不平兵士(軍部)が、利権獲得にて富をつくりし財界・政党との闘争に勝利したものである。ここに喧嘩のそば杖を受けて迷惑するは良民なり」という。 
10月19日小石川の故郷を散歩する。牛天神、伝通院をへて大塚仲町善心寺に栗本鋤雲の墓を訪う。 
12月7日ガス暖炉使用禁止となり、あんか、火鉢、置炬燵を取り出す。 
12月9日日米開戦の号外出づ。 
12月11日浅草の様子を見に出る。六区の人出平常通り、オペラ館の踊り子平安無事のごとく。


1942年(昭和17年 荷風64歳)
1月6日 土洲病院に往き、房州館山の海岸で「禊」をしたという人あり。禊なる言葉は軍人執政になりて流行り始めた。むかしは「寒参り」といっていたものを、「滑稽なること、人の顎を解かしむ」という。 
1月19日 玉の井・亀戸の銘酒屋で芸者の揚げ代の1円の遊興税(少額債券)を付加する。「窮状憫むべし」  
1月22日 白木屋前で軽焼煎餅を売る。市中の呉服屋洋品屋一軒残らず戸を閉めたりと。 
1月23日 塵紙、石鹸、歯磨き配給切符制になる。このごろ金兵衛にて食事が殆ど粗末になるが、主人が甘い物をくれるのでありがたい。 
2月3日 節分なるも豆がないので鬼は外へ逃げまじ。 
2月4日 飲食店の検挙おこなわるとの噂があるので、金兵衛では馴染の客以外には酒料理を売ることは控えているという。町の噂では、左翼作家中条百合子、土方与志留置さる。真珠湾攻撃の海軍士官熱海での保養休暇をとる。乱暴狼藉甚だしいという。 
4月18日 始めて空爆を受ける。早稲田、三河島、浅草、下目黒なりという。 
4月26日 町の噂として、2.26事件の反乱軍兵士は戦地にても優遇され、いまは皆家に帰っているとのこと。 
6月16日 「其角七部集」を読む。 
8月26日 鴎外全集再読。久しぶりに銀座を歩む。 
12月5日 町の噂で、日本橋高島屋にて奢侈品になる呉服を作るものを刑事らが内偵したところ東条英機首相の娘である事が分り、刑事らは手を引いたということ。

1943年(昭和18年 荷風65歳)
元旦 正午ごろ起きて焜炉に割り箸などで火を起こし、米1合をたく。惣菜は大根蕪の類のみ。室内を掃除し顔を洗うと3時ごろになる。ただ生きているだけのこと。 
正月3日 金兵衛は休みなので配給の餅を焼いて夕飯の代わりとなせり。町の噂、銀座尾張町の老舗店を閉ざせり、足袋屋と大黒屋という塩物屋の2軒である。浅草公園のエノケン・緑波という道化役者の芝居は不真面目なので芸風を変えろというその筋のお達しありという。 
1月4日 浅草を見る。群衆の雑踏するありさま歩めずほど盛況なり。「犬の声」という新詩記載あり。 
1月19日 米軍はアフリカ戦線より地中海からイタリアを圧迫せりという噂あり。「この噂真実ならんことを」  
2月10日 町の噂に、山梨県警察部長が東京に転勤なるにあわせ精米を運ぶ自動車が交通事故を起こして露顕す。精米を食べることは禁止のはず、事件のことは一切秘密に葬り去られたという。 
2月19日 町の噂に、良家の子女を集め、米軍落下傘部隊迎撃演習として竹槍で突く稽古をなしたりという。「滑稽至極」   
3月18日 自画賛の句四句記載あり。 
6月1日 電車代7銭を10銭に値上げ。町の噂、山本五十六大将戦死、「一将軍の死するはその人の自暴自棄に基づくもので一個人の満足に外ならず。自己の名誉のため多数なる無辜の兵士を犠牲にするは利己主義の甚だしきもの」(一将なりて万骨枯るをもじった文)  
6月3日 この頃毎夜寝につくも眠ること能わず読書未明ニ至りて睡るを常とする。舶来品全く底をつき、鎖国攘夷の悪習何時まで続くにや。 
6月25日 土洲病院で脚気の注射をなし、浅草オペラ館にゆく。新舞踊「土橋の雨」上演禁止となる。「近年軍人政府のなす所を見るに、ことの大小を問わず愚劣野卑にして国家的品位を保つもの殆どなし」  
8月3日 町会より庭に穴を掘れという。雨が溜まり崩れやすく、どうしろというのか。 
8月29日 女子のパーマネント縮髪禁止になるという。 
9月6日 アポリネールの詩を読む。毎月8日は婦女子はもんぺを着用すべきお触れあり。 
9月9日 上野動物園の猛獣は毒殺せられたり。夕刊にイタリア政府英米に降伏せりことを載すなり。  
9月26日 「こうろぎ」の詩記載あり。10月12日精神上の慰安のためフランス語の聖書を読み始める。 
10月25日 民家のガス風呂禁止の令あり。 
10月26日 町の噂に、徴用令の犠牲となりし人の話聞くに堪えざるものあり。「この度の戦争は奴隷制を復活せしむるにいたる」  
10月27日 鴎外先生の墓が震災後向島より三鷹禅林寺に移されたのであるが、遠方でゆけなかったので今日吉祥寺行きの電車で行く。あまり大きくはない黄壁風の禅寺にて先生の墓を掃う。 
11月14日 「雨蛙」と「武器」の新詩を記載する。
1944年(昭和19年 荷風66歳)
元旦 この3年の窮乏生活で食べ物を頂いたりお世話になった忘れがたき人七名の名を記す。 
1月2日 賀状とともに時勢を痛論する手紙次々と到る。「現政府の命脈長きに非ざるべし」  
1月18日 幾代という待合を出させしお歌久しぶりに訪ねて来たれり。今は柳橋の芸妓になりというが昔話は尽きない。「今日の会合が最後の会合ならんもまた知るべからず。心のさびしさと果敢なさ、これ人生の真味なるべし」  
1月25日 町の噂に、現代日本の軍国主義は秦の始皇帝の焚書坑儒の政治に比すべきという人もいる。 
3月18日 浅草観音でおみくじを引く。町の角に疎開勧告の触書出ず。 
3月27日 玉の井にゆく道で蕗多く生じたれば、惣菜になさんとこれを摘む。食物なき時節柄とはいえ浅ましくあわれなり。 
3月31日 浅草オペラ館取り払いとなる。昭和12年より7年間遊びし、放蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地なれば余も思わず貰い泣きする。「浅草オペラ館楽屋の人々はあるいは無智朴訥あるいは淫蕩無頼にして世に無用の輩なれど、現代社会の表に立てる人の如く狡猾強欲傲慢ならず。深く交じれば真に愛すべきところあり」という。 
4月10日 市中いたるところ疎開空襲必至の貼札を見る。 5月27日猫が少なくなり鼠の暴れることはなはだし。浅草の鳩も少なくなった。 6月16日米軍九州を空襲す。
7月1日 雑誌「改造」、「中央公論」廃刊  
8月4日 「日本人の過去を見るに、日本の文化は海外思想の感化を受けたる時のみ発展せり。海外思想の感化衰える時は日本国内は兵乱の地となる」という文化論を展開す、一理あり。 
9月20日 岩波書店「腕くらべ」の重版の承諾を得に来る。政府は今春歌舞伎と花柳界の営業を禁止しながら、花柳小説の荷風作品を出征軍の兵士に配るという。なんという滑稽ぞや。  
9月21日 小石川牛天神付近の地図を知るため、散策する。略図を記載する。 
10月22日 「掃庭」という五句を記載する。 
11月21日 柳北の「航薇日誌」3巻を写し終える。全文哀愁みなぎり人の心を動かすものなり。 
11月29日 丸の内爆撃される。
1945年(昭和20年 荷風67歳)
元旦 この日空襲なし
1月2日 銭湯に行く
1月12日 午後森銑三来話、山谷の混堂に行く。二句できる。
1月14日 今年の冬ほど心のどけく読書に興を得たることいまだかってなし。
1月16日 巷の噂ではマニラの陥落も遠きにはあらざるべく、戦争も本年8月までには終局となるべしという。
1月24日 山谷の混堂へ行く道に、役人が人家の番号札を貼りゆくを見たり。霊南坂、雁木坂下の人家を取り払うつもりなり。「東京住民の被害は米国の空襲によるよりもむしろ日本軍人政府の悪政に基づくこと大なり」
2月12日 夜8時警報あり、草稿をいれた鞄をさげて庭に出る。俳句四句できる。
2月17日 早朝よりサイレン砲声響き渡ること昨日と同じ。昨日は横浜の市街空襲に遭いしという。
2月25日 砲声起きガラス戸ゆするが、雪の為戸外の孔に入ることできず。今日ばかりは世の終わりまた身の終りの逼り来ることを感ずるのみ。
2月27日 1昨日の空襲は神田駅より、小伝馬町、浅草橋、蔵前、雷門、馬道、菊屋橋、御徒町、上野駅、数寄屋町、上野広小路、青山1丁目も焼けしという。
3月6日 木戸氏より2月25日の空襲の浅草界隈の被害を聞く。誌集「夏うぐいす」、「冬の夜ものがたり」の草稿を渡す。
3月7日 午後3時町の湯のあくを遅しと行列をして待つ間、初めて吉原に居続けの朝、京町裏の黒助湯に行きしを思いかえしたという。
3月9日 明方4時偏奇館焼ける。隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き、日誌草稿を入れた鞄を提げて庭に出る。火は周辺に及びもはや禍を逃れるべくもあらずと思い、煙のなかを木戸氏の邸のある三田方面へ逃げようとせしも交番に聞くと無理だというので、老人と女の子を溜池に逃がして、自分は霊南坂のスペイン大使館の庭に避難す。偏奇館の最後を見んと再び戻ってみると、火焔更に一段と烈しく空に上がる。これは偏奇館の2階の蔵書が燃えるためと知った。消防ポンプ車が来たのは3時間ほどを経てからであるが、水切れで水も出ず。
3月10日 余の偏奇館に親しみしこと数えれば26年の久しきに及べる。杵屋五叟氏の話では昨夜の空襲で猛火は殆ど東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町におよべり。浅草、吉原、芝増上寺、深川、亀井戸天神、向島、玉の井の色里凡て灰塵になせり。
3月22日 罹災者見舞金1世帯100円なり。
4月13日 夜10時空襲あり。代々木、明治神宮、新宿大久保角筈の辺一帯火の海となれり。
4月15日 東中野の菅原氏のアパートに移る。夜目黒大森に空襲あり。
5月3日 新聞ヒットラー、ムッソリーニ死亡を伝えたり。
5月8日 巷噂では川崎や深川で罹災者が焼け跡に小屋を建てたところ、憲兵隊がこれを取り払わんとしたため、衝突し憲兵隊数名が怪我をしたという。戦争の前途を口にする者憲兵隊がに拉致されたという。戦争は6月ごろに終るという流言あり。
5月10日 高田馬場より見渡す限り焼け野原なり。歩いて目白台、小石川関口の芭蕉庵を見る。
5月25日 空襲ありて東中野の菅原氏のアパート被災する。豪徳寺の小堀氏宅に避難する。
6月2日 菅原氏夫婦とともに氏の明石の実家へ向かう。明石の西林寺に厄介になる。
6月11日 岡山に移る。岡山ホテルに泊まる。
6月28日 岡山市空襲を受ける。
8月10日 広島市焼かれたりと岡山の人戦々恐々たり。
8月14日 津山に疎開している谷崎潤一郎に面会する。すき焼きをご馳走になり岡山に帰る。 8月15日 正牛のラジオで日米戦争を中止せり由放送あり。近所の人酒を持ってきて休戦の祝宴をはり皆酔う。
9月6日 いとこの五叟が借りている家のある熱海に移動する。
9月28日 天皇陛下モーニングを着て赤坂霊南坂の米軍本営に往きマッカーサーに会見すという。「思えば幕府滅亡の際、将軍慶喜の態度のほうははるかに名誉あるものであった。幕府瓦解の時勝海舟ありしが、いまは彼のような智勇兼備の良臣なかりしがためなり」という。
10月11日 魚闇相場の値段表あり。
12月13日 亡国見聞録として、戦死せしものと遺骨まで送られし者帰ってきて、逆縁の兄弟大騒ぎとなりごたごたの最中という。
12月26日 新生社のために「罹災日記」を浄写す。
1946年(昭和21年 荷風68歳)
元旦 噂によると株配当金はゼロとなり、個人試算にも2割の税金がかかるということなれば、今日までの生計は配当金で安全なりしが、今年よりは売文によりて糊口の道を求めざるべからず。
1月16日 五叟らと市川に移動する。荷物が届いたが、米炭など盗まれたもの多しという。
2月26日 銀行預金封鎖のため生活費の都合により中央公論社顧問嘱託となる。
3月2日 旧紙幣通用本日限り。
3月24日 東京ではいよいよ米の配給なくなり、粗悪なパンにて人命をつなぐ。人に請われて四句なる。
4月28日 配給の煙草粗悪となり今では喫するに堪えず。醤油も臭くて堪らず。「日本社会は根底より堕落腐敗しはじめしなり。その理由は何ぞ。日本文化は古今を通じて、外国の借り物なるがためなり」という。
5月10日 つつじ、ばら、藤、牡丹の花咲き乱れ、流寓の身にとりてはこれまた意想外に幸福ならずやと五句なる。
8月13日 市川の五叟の家の隣室のラジオ喧騒を極める。それから遁れるために外出が多くなる。
1947年(昭和22年 荷風69歳)
元旦 腹痛下痢止まず4日ほど苦しむ。
1月8日 小西氏宅に移る。電気は一日おきにしか使用できず。
1月15日 「罹災日録」扶桑社より製本なる。財産税11万154円なり。
2月9日 凌霜氏と葛飾の地を歩む。妙見神社、浅間神社、梅を見て帰る。この頃から海神で食事が多い。
2月27日 小岩の私娼窟を訪う。女工と娼婦と女学生の生活を混淆したるが如し。
5月3日 米人の作りし日本国新憲法今日より実施の由。
8月2日 幸田露伴先生告別式に出かける。今年の日記の記載が極めて簡略になっり、かつ内容も少ない。
12月15日 偏奇館の土地を26万円で売る。税金4万5000円。
1948年(昭和23年 荷風70歳)
元旦 「七十になりしあしたのさびしさを誰にや告げむ松風の声」
1月3日 野菜物価高騰。春本「濡ズロ草紙」を草す。また老後の一興なり。
1月9日 浅草公園に入る。罹災後三年にして初めて東京の地を踏むなり。木馬館は昔のままなり。ロック座はレビューと劇をみせるものらしい。
1月10日 バスで浅草雷門に行く。言問橋を渡り白髯神社、蓮華寺共に焼けず。外祖父毅堂先生の碑残れり。向島も焼け残りたるところ多し。何事も実地見聞が必要なりという。
2月4日 午後銀座を歩む。キュペル10年前と同じように営業せり。尾張町の不二屋に小憩して帰る。
2月22日 浅草公園から吉原に入る。娼家は皆バラックで、向島とおなじく喫茶店の札を掲げており、娼婦三,四人路傍に立ちて客を呼ぶ。新橋でシナ料理を食す。
6月1日 浅草公園を歩く。常磐座、ロック座、大都座みな裸体舞踊(ストリップ)で盛況なり。
12月13日 市川菅野に家を買う契約をなす。平屋18坪32万円なり。
12月25日 本所深川を歩く。富が岡八幡宮、不動尊仮普請なり。今年より日記の記載がすこぶる簡潔になり、天気だけの場合が多くなる。これを創作意欲の衰退というのか?
1949年(昭和24年 荷風71歳)
1月20日 浅草へ行く。ロック座にて荷風の小説「踊子」を脚色上演するが為なり。
3月25日 午後浅草へ行く。大都劇場で荷風の小説「停電の夜」公演初日。大入り満員なり。
6月4日 午前10時大都劇場に入る。小説「鳩の町」初日。通行人として出演す。このごろ毎日大都劇場に入り浸りなり。「不幸なる女の身の上を探聞し小説の種にして稿料を貪らん我が心底こそ売春の行為よりもかえって浅ましき限りというべし」
8月2日 「葛飾土産」草稿を渡す。
10月11日 霊南坂の偏奇館旧宅あたりを散策す。麻布市兵衛には米軍将校の屋敷になれり。崖下の焼け跡は野菜畑になれり。歩みて新橋に至れば暮靄蒼然たり。
10月13日市役所から市民税9000円の通知書きたり。悪税驚くべし。
1950年(昭和25年 荷風72歳)
1月9日 浅草、サーカスを見る。浅草に遊び銀座で食事がこの頃の行動である。
4月1日 浅草向きの脚本「渡鳥いつかえる」を脱稿。ロック座で公演予定
6月26日 朝鮮南北両国開戦の報あり。
6月29日 フランス映画「田園交響曲」を見る。この頃の記載は天気と浅草の2文字のみ。
1951年(昭和26年 荷風73歳)
1月より記事は天気と浅草のみ。食事は浅草飯田屋とつるや、ボンソワールである。
1952年(昭和27年 荷風74歳)
元旦 浅草公園に女剣劇流行する。花月劇場、ロック座、公園劇場、松竹演芸館
1月から4月までは浅草で食事、アリゾナ、ボンソワール、天竹、つるやなど。
4月26日 銀座有楽座でフランス映画「巴里の空の下で」を見る。銀座での食事と頃は不二アイス 
6月より8月まで毎日交代で銀座と浅草で遊ぶ。
10月21日 文化勲章拝受者決定 荷風の名があり、新聞記者来りて写真を撮る。
11月23日 文化勲章受彰で皇居に入る。同時受賞者は、物理学の朝永博士、医学の熊谷博士、親鸞聖人研究の辻博士、絵画の安井氏である。荷風は日頃の権力嫌いにもかかわらずこの日だけは嬉しそうであったという。
12月16日 文部省より文化勲章年金証書をもらう。年額50万円なり。
1953年(昭和28年 荷風75歳)
1月17日 日比谷でフランス映画「快楽」を見る。この頃の記事は、天気と浅草か銀座、食事ところの3つだけで終る。浅草では天竹、アリゾナ、銀座は不二アイスである。
4月21日 有楽町で中国映画「清宮秘史」を見る。
5月29日 赤坂八百善にて荷風全集24巻刊行記念祝宴会を催す。この頃の記事は銀座から有楽町に変わって食事ところは浅草合羽橋飯田屋、有楽町不二アイス
1954年(昭和29年 荷風76歳)
この頃の行動は、浅草か有楽町 食事ところは有楽町不二アイス、浅草飯田屋、天竹、アリゾナ
3月6日 錦糸町で映画「アンリエットの巴里祭」をみる。
12月27日 有楽町で映画「赤と黒」を見る。
1955年(昭和30年 荷風77歳)
1月4日 三番町の待合を開かせた芸妓お歌という女、賀状をよこして今は石川県七尾で女中をしているという。「往時を思うて帳然たり。終日門を出ず」
2月10日 中央公論社島中氏八百善に招待さる。
4月4日 文部省芸術院会員手当て受領 この頃の食事は浅草飯田屋か有楽町不二アイス
5月31日 東宝映画「鳩の町」を銀座ヤマハホールで試写会
6月4日 銀座大栄会館でフランス映画「女優ナナ」試写会
6月21日 浅草東宝劇場で「渡鳥いつかえる」を見る。
7月29日 銀座プレイガイドでフランス映画「フレンチカンカン」を見る。
9月25日 浅草松竹座でフランス映画「悪魔のような女」を見る
11月8日 浅草大勝館でイギリス映画「プロジガル」を見る。 この1,2年はよく外国映画を見ている事が分る。
1956年(昭和31年 荷風78歳)
1月2日 浅草アリゾナ、フジキチンで食事が定まった行動となる。
1月17日 浅草常磐座で映画「椿姫」を見る。
3月8日 毎日新聞記者の車に乗せてもらって、葛飾あたりの写真を撮影する。これは「戦後日誌」を毎日新聞に掲載するための風景写真にするためである。
11月28日 「つゆのあとさき」の映画を浅草松竹映画館にみる。
1957年(昭和32年 荷風79歳)
この頃の記事は午後浅草アリゾナで食事がほとんどで見るべき記事がない。
2月12日 浅草電気館で映画「踊子」を見る。
3月6日 お歌来訪する
5月16日 ロキシイでアメリカ映画「悪い種」を見る。この頃は食事ところも書かないで、天気と正午浅草の記事しかない。
9月23日 鴎外先生の作品や鴎外日記を読む。
  1958年(昭和33年 荷風80歳)
1月元日 晴れ、正午浅草、飯田屋またはアリゾナにすというワンパターンの記事となる。
1959年(昭和34年 荷風81歳)
1月から3月1日までは、天気と正午浅草のみ
3月2日 病臥 10日まで家を出ず。
3月11日 もう浅草にも行かず、正午大黒屋(市川八幡駅前)食事の記事のみとなる。そして4月29日で日記は止む。


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