170831
文藝散歩 

モンテーニュ−著 荒木昭太郎訳 「エセー」
中公クラシック T・U・V (2003年3月)

16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ−の人間学

montaigne.jpg(62897 byte)                  ese.jpg(4520 byte)
モンテーニュ−(1533-92)         中公クラシック モンテーニュ−「エセー」

随筆といえば日本にも1330年ごろ(室町時代)書かれた、卜部(吉田)兼好作 西尾実校注「徒然草」岩波文庫がある。モンテーニュ−の「エセー」の刊行が1580年-1595年であるので、「徒然草」はそれより250年も前に先行する。徒然草の序に「徒然なるままに、日くらし、硯にむかいて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とある。これは反語であって決して「することもない生活の無聊を紛らわすために書いた取るに足らない文章」という意味ではない。そこには積極的な題材の選択があり思索的論証と自分の文章を確立しようとする強い意欲があった。ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ( 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者でモラリスト、懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えたとされる。人間のあらゆる営為を断続的な文章で省察することによりモンテーニュは人間そのものを率直に記述しようとし、モラリスト文学の伝統を開いた。フランス語のessaiは「試み」や「企て」という意味である。モンテーニュは読者の興味をそそり、巻き込むように意図された巧妙なレトリックを用いて書いており、ある時には話題から話題へと意識の流れに沿って動くように見え、またある時には作品のより教育的な性質を強調する構造的な文体を用いてもいる。古代ギリシア、ラテン文学、イタリア文学からの引用がしばしば補強として用いられる。エセーに入る前に、モンテーニュ−の略歴をまとめておこう。フランスペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城でユダヤ系フランス人として生まれた。実家は商業を営み富裕であった。父は政治にも熱心でボルドーの市長を務めたことがある。母方はセファルディムユダヤ人の家系であった。ミシェルは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語を用いて育てられた。ラテン語は当時の学問に必須の知識であったとはいえ、このような父の教育法は特異であった。モンテーニュ−はトゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等法院に務めていたときに、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエシと親しくなった。エティエンヌは1563年に死去したため、無二の親友を失ったモンテーニュは深い悲しみに沈んだといわれる。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのはたった1人である。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続し、1570年37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。法官辞任後、カトリックのシャルル9世、アンリ3世から侍従に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリ(アンリ4世)の侍従にも任ぜられた。フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。主著『エセー』(随想録)を1580年に刊行した(初版、2巻本)。なおエセーの語源の意味は<試み>である。1580年から1581年にかけてモンテーニュはフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅し、さまざまなエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記した(モンテーニュの死後に原稿が見つかり、1774年に『旅日記Journal de voyage』 という題名で出版された)。1581年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して1585年まで(2期)務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。任期の終わり頃から、ボルドーではペストが流行し、モンテーニュもペストを避けて2年間他所に逃れた(1586-1587年)。モンテーニュは、アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。

モンテーニュ−の城館はフランス西南部のペリゴール地方のブドウ畑の丘の上にある。城壁の高さは7ー8mの石垣に囲まれた館の南の角に、直径10m、高さ12mの円筒形の塔がある。1階はシャペル、2階は寝室、3階は「読書室」となり、さわやかな風が吹き抜ける構造となっている。ここに、モンテーニュ−は1571年2月28日に、17年間にわたる裁判官の生活から退き、引退生活を送ることになった。その部屋の壁面に「残っている日々を安息と平安のうちに過ごすことができるようにと、博学な女神の胸に引きこもることにした」という文を刻んだ。そして死ぬまでここで日常生活の雑用から可能な限り離れて自分一人の自由な空間を設定し、読書と思索の日々を送った。モンテーニュ−の生きた16世紀中頃から末期のフランスは、1959年のカトー・カンブレジスの和約によってスペインとの講和が成立し、半世紀も続いたイタリア戦争に終止符を打ったが、国内ではカトリックとプロテスタント両派の対立が激化し、内戦時代となっていた。モンテーニュ−の立場は穏健中道のカトリック王党派で、ボルドー市の商業市民階層がそれを支持した。1568年に父が死去し、家督相続、領地経営のために、これまで勤めていたボルドー最高法院評定者の職を辞しその位を去った。この進路転換によってモンテーニュ−は政治と社会の表面から退避し、自己の一層の教化に向かうわけであるが、1572年8月の恐るべき「サン・バルテルミー虐殺事件」から身を離すというきわどい幸運につながった。こうしてモンテーニュ−は自己の内面のの探求と人間性一般の省察に向かった。書斎に腰を据えた彼は、些細な事をも主題として古今東西のの様々な書物に接して記し留めることを始めた。とりわけプルタルコスの「対比列伝」、「論理論集」を愛読したという。哲学書、歴史書、回想録から、戦争、儀礼、習俗、臆病、悲しみ、恐れなどの主題を取り上げた。そして読後感想文のような「エセー」を書き始めた。数多くの事例を列挙し、相対的な視点に立って対比しながら考察する彼の独特の思考方式が確立されてゆく。1563年の親友ラ・ボエシーとの死別はモンテーニュ−に強い衝撃を与えた。それを契機に彼はルクレチウスの「事物の本質」についてを精読し、個人の生死から人間全般の自然における位置について徹底した施策を展開した。そして1571年以降「哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶことだ」という心構えで死に立ち向かうモンテーニュ−のエセーの変わらぬ姿勢が出来上がった。このころセネカの「書簡」を熱心に読み、セネカ、小カトー、ラ・ボエシーの死に対する思考と行動を模範とした。読む本から考察の材料を得、また内心深く考える課題の糸口を書物に求める仕事を倦むことなく追求した。1576年、モンテーニュ−は「私は判断を中断する」という文字とテンビンの図柄を刻んだ銅のメダルを作った。このころ彼はセクスツゥス・エンペイリコスの「ピュロン主義概説」を読み込んでおり、懐疑主義思想に強く染められた。彼の場合、これは独断を排し、現実に対して慎重に対処する思考方式であった。彼は最初から神の意志を云々することを「思い上がり」と見て、人間の理性による納得を根本とする考えを否定しており、人間を自然界の一員として広大な自然の力の中でとらえる思想を持っていた。それは長大な「レーモン・スポン弁護」(第2巻12章)に結実した。「私は何を知っているのか ク・セ・ジュ」という有名な句がある。認識論において人間の優越意識を攻撃し、様々な論証を展開している。柔軟な思考の回転、自在な問題の処理ができるのは、彼の判断力が活発に働くからである。自分の判断力の試し、それが「エセー」の本質である。モンテーニュ−はラテン語教育を受けルネッサンスの人文主義的知識と先進イタリア文明にに強い影響を受けた。人間社会の基本構造は伝達の方式、言語体系によって成り立っているとの認識から、「我々は述べる言葉によって初めて人間であるのであり、お互い同士結びついているわけである」という。この認識が成立のと並行して、内容や材料の面で自己と他者の連関の問題が現れて来る。1580年エセー初版本の序文に「読者に」を書いて、ここで自分自身のことを材料にすると宣言し、私的個人的な利用を考えた刊行物であるという自負心を示した。自信にあふれた自己描写は、フランスの「モラリスト文学」すなわち「行動し生活する人間を観察し、個と普遍を連結する展望のなかに省察を加え、独自の表現に具体化した文学」の出発点となった。この1578年から1580年にかけての時期には、キケロ、カエサル、ウェルギリウス、ホラチウスらの著作を読んでさらに厚みを増した思考が「エセー」群に加わった。この時期のモンテーニュ−は、克己と節制を含んだ快楽の充足を、慎重さと謙虚さの上に立つ思考の活動を、そして拘束を排した人間の資質、能力の発揮を主張している。こうして1580年に「エセー]初版本2巻94章をボルドーの書店から刊行した。

1578年腎臓結石の発作を起こし、療養を兼ねてイタリアの温泉巡りをした。さらにエセー刊行後1580年夏から翌年秋にかけて1年余イタリアへ長途の旅に出た。16世紀後半南仏各地でプロテスタント派の城塞都市が威勢を伸ばした。これに対してカトリック急進派の神聖同盟がパリを抑え、ボルドー市は国王に忠誠を誓うカトリック中道派が主流であり、フランスは三つ巴の勢力争いとなった。商業市民階層の力を背景に市長となったモンテーニュ−は穏健的対応を取り戦禍を避けた。1585年市長職を辞したモンテーニュ−は1588年の間にさらに読書を進め、プラトン、キケロ、ホラチウス、ルクレチウスを読みこなした。それらの成果は13章からなるエセー第3巻となり、さらに初めの2巻を加筆訂正を行って、3巻計107章の増補版「エセー」が1588年にパリの書店から刊行された。1580年の「エセー」初版は、外界の個々の思弁的な追求と彼個人を対象とする記述の過程であるとするならば、1588年の増補版は彼自身が普遍的な人間性を担う存在であるという確信を表現する人間性全般の問題の探求である。「各々の人間は、人間のありようの完全な形を備えている」ということである。病気、健康などが論じられ、それを通して人間の生活、生存が考察される。1598年ナヴァール王アンリが王位を継承し、プロテスタント陣営を統率しながらカトリックに改宗してパリに入市し、「ナントの勅令」によって半世紀の宗教対立抗争に終止符を打って、フランス絶対王政の基礎を固めた。アンリ王はモンテーニュと知己であり、信仰の対立抗争による流血の否定、人間性の尊重、忍耐強い生活維持の願いがかなったようである。ボルドー市長時代の困難な経験から、思索生活に入った彼は個人の生活と社会での行動はどのように連結されるかという課題を掲げた。性急な改革の否定はいわば「保守」の生活態度であり、人間の多様なありようを認識し、自然に適合した生き方を最上とするモンテーニュ−の根本的な考えに立った。「中庸」の位置から人間の尊重を辛抱強く説き続けることは、人間の真の実質の擁護につながる。そして1592年の死に至るまで、自宅の読書室において、さらに古典の哲学書、歴史書、伝記など多数の書物に触れて、1588年版「エセー」の補加訂正作業を続け「ボルドー本の名で保存されている。作家の個性に担われた受容と表現の結合体「エセー」は、モンテーニュのいう通り、規範を退け、自分自身のとらえ方、表し方に拠って理解するが必要である。共通普遍の人間の価値なるものは彼は示したわけではないが、それを考えるのが読書する我々の責務なのかもしれない。モンテーニュの「エセー」からすでに400年が経過した今、現代文明の網の目のなかで、人間として生きるとは何かを問い直さなければならない。モンテーニュ−の「エセー」は、全3巻合計107章の著作である。そして時系列でいうと@1580年版(巻1+巻2)と、A1588年増補改訂版版(巻1+巻2+巻3)、B1588年増補改訂版に加筆した「ボルドー本」と称する3つの版が後世の基準となった。本書の中公クラシック本「エセー」荒木昭太郎訳版は、第1巻から24章を、第2巻より18章を、第3巻より10章を取り出して三巻の日本語選集に仕立て上げられている。これは原著の分量の6割程度である。巻・章の配列を原著の順に従わず、訳者の独自の考えから主題、内容、論旨などから次のような包括的な傾向で再編成したという。
Tの巻 「人間とは何か」 @人間のありよう、A様々な様相、B生きてゆく自己
Uの巻 「思考と表現」  @想いを見つめて、A学識の位置づけ、B活動する知
Vの巻 「社会と世界」  @社会の組み立て。A他者とかかわる、B広がる時空
Tの巻「人間とは何か」についていうと、第1グループ「人間のありよう」は総括篇、第2グループ「様々な様相」は事例集対比篇、第3グループ「生きてゆく自己」は実践編であり、各々のグループ内では主題に沿った原著の各章が2−10章ほど集められている。


Tの巻 「人間とは何か」


第1グループ 「人間のありよう」

@ さまざまな手段で人は似たような結果に行き着く  (第1巻 第1章)

圧倒的な力を持つ復讐の敵に出会った時、その心を和らげる普通の方法は、相手の同情と憐憫に訴えることである。しかし思い切り勇敢な態度、毅然とした振る舞いはこれと全く反対の手段ではあるが、同じ許しの結果を招来することがある。そのような歴史上の事例を3例引いて、モンテーニュ−は自身が慈悲や寛容に弱いことを白状する。ストア派は憐憫は気の弱い心から出るよくない感情だとする。不屈の魂から出る行為を称賛するのである。テーバイの市民の抵抗精神が征服者の心をくじいた事例を引用して、人間というものは驚くほど空虚で、多様で、変動する存在である。これに一貫した判断は難しいという決断を下した。アレクサンドロス大王は敵将の勇猛さに感心はしたが、結局大王の心は動かすことはできず、車による八つ裂きの刑に処せられたという。結論として心がどう動くかは全く予測は不能ということであろう。

A 本当の目標がない時、どれほど魂は偽りの目標に向かってその情念を吐きだすか  (第1巻 第4章)

揺り動かされた魂も、何かにつかまりどころを与えないと、自分の中で空を切り、前後もなく霧散してしまうものである。魂にはいつも目標にして向かって行く対象を与えてやらなければならない。我々のところにやってくる不幸について、突いてかかる攻撃目標を設定するのである。愚劣さよりは倨傲の要素が強い。神に向かってさえカエサルは挑戦的な態度をとり、狂気の沙汰の行為を執るものである。古代の詩人は「起きて来ることに憤慨してはいけない。我々の怒りなんぞは、向こうに取ってどうでもいい事なのだ」と言っている。我々の精神の度外れは始末が悪い。

B 我々の幸福について死後でなければ判断してはいけない  (第1巻 第19章)

人間最後の日は常に待ち受けていなければならない。ギリシャの王クロイソスが敗れ処刑される前に、ソロンの忠告を思い出したという。「人間は死ぬときどのようにして過ごすかによって、幸福だったかどうか決まる。それほど人の運命は変遷極まりないのである」と。東洋のことわざにも「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。どんな権勢栄華を誇った時代があったとしても、戦国の時代にはどのような死に方をするか予測がつかない。モンテーニュは人の幸福を次のように定義する。「我々の一生の幸福そのものは、立派に生まれついた一つの精神が平静に又満足しているかどうか、一つの魂がしっかりと態度を決め確信をもって生きたかどうかにかかっている」。死を前にして我々にとって取り繕うものは何もない。その死に方が生涯全体にたいして良い評判となるか悪い評判となるかを決める。有終の美を飾るか、晩節を穢してはいけない。

C 真実と虚偽の区別を我々の能力に任せるのは愚かしい  (第1巻 第27章)

魂が空白で反対の理性の錘がない時には、魂も耳から入る「事実」に導かれやすい。特に女性、子ども、病人、一般大衆である。しかしあることを決然と偽りだとかあり得ないとか断定してしまうのは、自分の頭の中に境界や限界を仕立てることになる。これは人の最大の愚かしい仕業である。物事の違和感を取り除くのは、理性ではなく慣れである。「目の慣れによって魂も慣れ、いつも見ている物事の理由さえ問わなくなる」とキケロは言う。この習慣という自然の力について、心から尊敬の念をもって我々の無知と弱さについてはっきりとした認識をもって判断を下さなければならない。もしわれわれがどうしても府に落ちないというなら、それらのことは未決定のままにしておくべきである。聖蹟(奇蹟)の教えは、「教会はいかなる理由をも持っていないが、彼らの権威そのものをもって私を承服させる」とキケロはいう。神をバカにしたり、我々が思い描くことができないものを軽蔑するのは、危険で重大な結果を導きかねない。

D 神の命令について判断するのは慎重にしなければならない  (第1巻 第32章)

真実の領域と主題はさまざまな未知の事柄である。見慣れていることが人に信用を与えるからである。プラトンは「そういう理由で、神々の話は人間の話より容易に相手を納得させられる。聴衆が無知でどのような筋でも完全な自由が提供されるからだ」という。教会牧師や神学者らは我々に空虚な物語を確信を持って語る存在である。キリスト教徒としては、あらゆる事柄が神から由来していると信じ、感謝しながらいい方向で取るようにしていることで十分なのだから。神の教えに不利な状況を塗口するより、大衆には真実の本当の基礎を語ってやる方がいいのではないか。旧約聖書に「人間のうちの誰かが神の意図を知ることができるのか。又だれが、神が何を望んでおられるのかを想像できようか」と言っている。 

E 残酷さについて  (第2巻 第11章) 

徳はさまざまな善よりは高潔なものである。ある人が受けた侮辱にたいして軽く受け流すことは善であろうが、狂おしいほど怒って復讐の欲望を理性で抑え付けたことは徳と言える。徳という名は困難さと対立を乗り超えた境地を前提とする。ストア派とエピクロス派の徳に関する論争はあるが「安定した状態で見事に規制され、適合した魂を持つだけでなく、試練に耐えうる存在である」。セネカは「徳は痛めつけられた時に非常に大きくなる」という。メテルスは「悪を行うのは堕弱なこと、危険がないときに善を行うのは容易な事、危険がある場合に善を行うのは徳のある人間の義務だ」という。小カトーの死を、キケロは「死ぬ理由を与えられたことを喜び、世を去ってゆく」、ホラティウスは「死を決意したために一層誇り高く」ともいう。このへんはまるで「武士道は死ぬことと見つけたり」の論調である。小カトーの死を悲劇的というなら、ソクラテスの死は何だろう。従容と死につくといえる。彼らの魂の力と堅固さは情念が動揺を起こし始めた時にすぐ、それを抑え込んでしまう。モンテーニュ−は自分の徳について、偶発的で邪気の無さにあり、いくつもの不徳と隣り合わせにある。モンテーニュ−は徹底した非暴力派で、あらゆる不徳のなかで残虐さを最も極端なものとして憎んだ。悦楽のことは人が憎むほどには考えないで容易にコントロールできるものと考えた。カエサルは単なる死を与えること以上の残虐な死刑はしなかった。裁判であっても体を殺すだけで死者の魂を正常な状態で送り届けることを心がけるべきである。セネカは「人間が人間を、怒りや恐れにかられてでなく、見て楽しもうとして殺すことがあってはならない」という。ローマでは動物を虐殺する見世物になれてしまい、剣闘士の虐殺をショー化して楽しむようになった。プルタルコスは「エジプト人たちが崇拝したのは、獣たちの中に神に属する様々な能力を見て崇拝したのだ」という。人はそこに「自由」という姿を描いた。 

F 他の人の死に判断を下すことについて  (第2巻 第13章)

人間の生において最も注目すべき事態である死に臨むとき、人はなかなか自分の死を納得できない。それは自分たちをあまりにもたいそうに思っているからである。我々はあくまで自己中心的な存在を引きずっている。自分はほんの一個の存在でしかないのだ。死を前にした人たちを考えると、彼らに確固たる態度をとらすのは運命であり、彼らの意図ではない。死を前にして強がるのは容易なことである。自殺は女々しい。カエサルもプリニウスも「時間の短い死は人生の最上の幸福である」という。死をじっくり考えること耐えられないことである。ソクラテスはたっぷり30日間自分の死を考えた。その時間全体をかけて死を消化しきったということは立派な行為だという。病気の場合、断食による自死という、衰弱の状態のなかにある一種の甘美さがある。大切なのは品格を保ち、賢明に、確固として死ぬということであり、「世の中から逃げ去るのではなく、そこから立ち去ることである」とマルケリヌスはいう。

G 我々は純粋なものはなにも味わうことがない  (第2巻 第20章)

人間のありようの力弱さによって、物事は純粋な状態ではとらえられない。我々の所有する快楽や善のうち、悪と不快が何らかの仕方で混じりあっている。悦楽と苦痛は背中合わせで、同じ材質で出来上がっていることの証明である。至福・安楽はそれ自体を抑制できないと人を圧迫する。憂鬱さの中で自分を支えて生きているのは、意図の満足と甘えの態度があると考えられる。泣くこともある種の快楽である。自分がこまごまと自分に向かって告白するとき、私の持っている善の性質も悪徳の色に染まっているのを見出す。プラトンは「法律の不適当な点を取り除こうとすると、法全体を殺すことになる」という。そして哲学上の様々な意見は実際の行動には不適当なのである。中庸の才能は役に立っているのである。

H すべてのものごとにはその時期がある  (第2巻 第28章)

高齢になってから勉強することは、あまり褒めたものではない。若い人は準備をしなければならないが、年とった者は自分の実りを楽しむものである。片足を墓穴に入れてもなお、我々には数々の欲望や企ては跡を絶たない。断捨離精神ですべての場所に二度と来ないと考えて別れを告げ、持っているものを毎日捨ててゆくことが必要である。ウエルギリウスのように「私は生きた。そして運命が与えた行程を歩ききった」と言いたい。小カトーは「老衰の時期に勉学をするのは、強くすぐれた人間となってより安らかにこの世から立ち去るためである」と答えて、死にゆく前日も本を読んで過ごした。

I 徳について  (第2巻 第29章)

魂が突き上げられて起こした行為と、確定した一貫して変わらない状態との間には、ずいぶん大きな差がある。人間の判断力の弱さはひどいものであり、一生を通じて一貫して死をあらかじめ考えておくことは奇蹟である。運命に翻弄され、人が偶然的と呼ぶ原因も、神が許した自由裁量のようなものである。

第2グループ 「さまざまな様相」

@ 友情について  (第1巻 第28章)

モンテーニュ−の無二の親友であるラ・ポエシーとの、高度に充実した精神の高揚を称揚し、友人を愛惜し又弁護する追悼文のような1章である。男性との友情を考察するために、親子愛から、兄弟愛、異性愛、そして結婚までを考察、さらにギリシャ時代のソクラテスの少年愛も論じている。ラ・ポエシーの作品「自発的隷従論」は圧政者に対する自由を擁護するための試論であった。ラ・ポエシー(1530−63年)はフランスの法官で、ユマニスト(人文主義者 ルネッサンス・ヒューマニスト)。ボルドー最高法院評定官で、モンテーニュの同僚である。モンテーニュ−は彼の学識人格に強い影響を受け親交を結んだが、ラ・ポエシーは若くして亡くなった。我々が友人と呼び友情と呼んでいるものは、我々の魂がつながる何らかの偶然によってむすばれた交際、親近関係のことである。我々の関係は二つの魂が混合しあい、その境目も消えた関係である。そこには説明のできない運命的な力がある。キロンは「いつかはその人を憎まなければならないようにその人を愛したまえ」といった関係である。二つの肉体に分割された一つの魂に他ならない。どのような行為も思考も、その時に私が彼の不在を嘆かないでいるようなものは無かった。一卵性双生児のような同一性があったという。

A いろいろな匂いについて  (第1巻 第55章)

匂いについての好みを述べた短編である。女性の匂いは何も匂わないことがいい匂いだ、匂いがするということは臭いことだという個人的な好みを述べたに過ぎない。ソクラテスは匂いは自分を変え、その性質によって自分に働きかけるという。教会で薫香を焚くことは好ましい。都会の匂いは私を幻滅させる。

B 年齢について  (第1巻 第57章)

人間の一生の間の働きのある時期をどのように決めるかについて考察する。人生の長さによってさまざまだが、昔の人は非常に短く考えていた。人生の長さは自然本来に従属するので、事故によってその期間が中断することもありうる。人生を短くする要因は、自殺、事故、戦争、自然、老衰である。アウグストゥスは法務につく年齢を45歳とした。任務の上限はできる限り長くていいわけであるが、早く任務に就かせるのは誤っていると考えた。人間の数々の立派な行為は30歳以前に行われている。知識・経験は生活を送るにつれて増大するが、活力は自然の固有の要因で決まってくる。

C 修練について  (第2巻 第6章)

理論と経験は、精神をそこに合致させるため実地の経験がなければ物の役に立たない。しかし死は1回切りなので修練は我々を助けてくれない。死に直面することは誰にとっても初経験なのだ。しかも死の結果はもはや伝達のしようもない。後世に経験を遺すことはできないのである。(臨死体験 あの世から帰ってくることは不可能だから) 我々の苦痛は時間を必要とする。死の場合の時間は非常に短い。健康な体は病気の苦痛を考えることこともできない。モンテーニューは第3回宗教戦争(1569−70)のとき馬の蹴られる事故に遭遇し、2時間以上意識が戻らなかった。意識がない時は自分の生命についての感覚さえなかった。そして激しい痛みのなかに意識を取り戻した。

D 怒りについて  (第2巻 第31章)

古代の逸話や、体験談を交えて怒りの非人間的側面を否定する論旨を展開するが、後半は怒りを率直適切に表すことによる人間的生き方の提案を行う。ある一つの国家においてすべては子どもの教育と養成にかかっているが、子どもたちの指導と監督をその父親の無分別な考え方に任せたままになっているのは大変愚かしいことだ。怒りに任せた体罰や怒鳴りつけは子どもの魂を傷つけている。これでは矯正ではなく復讐に近い。怒っているとき、命令を下すのは情念である。怒りは自分で満足し、いい気になる情念である。怒っている時に相手に手を出せば危険である。強情な女の激昴を体験する人は多い。軍人には怒りがなくてはすまされない部分があり、怒りを抑える忍耐強差が求められる。怒りを鎮めるには自分を厳しく抑制しなければならないが、それを隠そうとすると体内に入って自分の気持ちを痛めつける。そんな情念を抱えているよりは、それらを表に出す方がいい。情念は表の風に吹かれると弱まるものである。怒りを大切に使い、あたりにかまわずまき散らすのはよくない。怒るときは口だけにしなさい。怒りにかられると碌なことは無い。

E 顔つきについて  (第3巻 第12章)

このテキストはモンテーニュ−が、ボルドー市長を辞してから、宗教戦争やペストの流行で社会が悲惨な時期に書かれた。彼の身に差し迫った危険な事態も語られ、この章の主題は「死」の問題である。さらにそれに立ち向かう人間の生き方の問題である。範例としてソクラテスの刑死と魂を取り上げる。顔貌の問題はよりはソクラテスの言行のよりどころとして提出されている。モンテーニュ−自身の困難な時代の中に立つ生の存在証明となっている。この章は70頁とかなり長文である。我々の知識、意見のほとんどは権威を通じて、他人の信用によって獲得されたものである。プラトンが遺してくれた数々の議論を、世間一般が承認しているからこそ承認するのである。そういう意味では「自然さ」とは愚かしさに近い性格を持たされている。ソクラテスは彼の魂をごく普通の動かし方でものをいう。学問知識は自然さを平凡なものとして取り上げず、派手な誇張されたものにしか豊かさを見ない。ソクラテスの目的は人生に対してより適切に役立つ事柄と教訓のいろいろを私たちにもたらすことだった。小カトーの生き方は普通の生き方を遥かに越えた緊張した生き方で、彼の生き方・死に方はたくましい馬にまたがった姿であった。それに対しソクラテスは大地の上を歩く姿であった。彼の姿はもっとも洞察力の優れた人間たちによって照明を当てられた。「ソクラテスの弁明」を見ても、彼の意見は学問や技芸から出たものは何ひとつない。彼は人間の本性に対して、それ自身でどれだけのことが成し遂げられるかを示した。知識というものは人間のほかの財産と同じように、本来虚しさと弱さを含んでいる。あえて無知の誓いや貧困の誓いを立て欲望を弱める人もいる。楽に生きていくうえで学問をあまり必要としない。学問知識というものは、混乱した不安定な道具である我々の精神が生み出す熱っぽい過剰なのである。セネカは「知性でなく魂の働きが問題となる場合、人を楽しませるものすべてが栄養にはならない」という。セネカが死に立ち向かってあれほど頑張るとは意外であるとモンテーニュ−は考えた。偉大な魂は動揺せず平静を保つべきである。貧困を苦にせず、死を願い苦悩も警戒心もなく乗り越えてゆく人もいる。モンテーニュ−は1585年の宗教戦争と国家の腐敗、そしてペストの流行を現実に眼の前にして、避けられない死にたいする堅固な態度を学んだようである。学問は役に立たない。それは自然固有の一貫した顔つきを喪失した。人間の本性についてあらゆる不幸をあらかじめ想定しておくこと何の役に立つのか。たいていの場合、死に対する準備は死にさいしての苦痛よりも多くの苦悩をもたらす。思考よりも体の消耗の方が、我々の感覚に与える影響は少ない。突然にくる明白な災いを耐え忍ぶことは苦労が少ないが、人の恐れるものを長い間気に病んで過ごすことはよりつらいのである。キケロは「哲学はすべて死についての考察である」という。生の当然の努力は、自分を整え導きそして耐えることである。この生き方を心得るという義務と同時に、死に方を心得ることも必要である。死とその予測からくる二重のアリストテレスの苦悩より、死について思いめぐらすことの少なかったカエサルの死がもっとも恵まれた位置にある。死を想像するのは哲学者に任せよう、今後は愚鈍を奉じる学派を打ち立てよう。ソクラテスの死に対する態度については、プラトン著「パイドン―魂の不死について」に詳しいので省略する。

第3グループ 「生きてゆく自己」

@ 哲学すること、それはどのようにして死ぬかを学ぶこと  (第1巻 第20章)

この章は死の問題を凝視し、確固とした態度を自らに要求し、自然と人間の理法について納得することを考察する。キケロは、哲学することは死の用意をすることであるといっています。哲学を熟考することは魂を引き出し、肉体とは別に働かせることで、これは死を学ぶことでもある。哲学の目的は「徳」を得ることであり、様々な論議を超越して哲学の最終目的は「悦楽」を得ることだとしよう。死を軽く見ることは徳のもたらす恵みのうちの一つで、人生に安らぎと平静を送り込み、我々に純粋で好ましい味わいを与える手段となる。いくら長生きをしたとしても、死そのものについては避けようはない。一般の人間の対処法はそれを考えないことである。キリストさせ33歳でその一生を終えた。死はいつも我々の不意をつくのだ。死をあらかじめ思いみることは、自由をあらかじめ思いみることだ。人生の楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうものであり、後から呼び戻すことはできない。いつか先で起こりうることは、今日にでも起こりうるのだ。オクタヴィアヌスは「私が死ぬときは、活動の最中に死ぬようになればいい」と希望を述べている。人間の身体の様々な変化(病気)と衰弱(老化)の中に、いかに自然が我々の消失と退化にたいする我々の感覚を無視してきたかを知る。青春時代の死こそ老年の死より厳しい一つの死である。死はあらゆる苦しみからの解放された状態への移行であるのに、なぜ心を悩ませるのか、なんという愚かな事か。長く生きることも短い時間を生きることも死によって全く一つのことである。両者に差はない。我々の死は宇宙の秩序の断片に一つである。我々が生を得た時からすでに生の消滅が用意されている。もしあなたが生を得たなら、満足して立ち去りなさい。一日生きたなら、それはすべてを見たことになります。我々は同じ輪廻の輪をめぐり、常にそこに留まっていていいものか。他の人に自分が占めていた場所を譲りなさい、ほかの人がそうしてきたように。ルクレティウスは「我々の生まれる前に過ぎ去った無限の時間が、どれほど我々にとって無であるかを思いかえしてみなさい」という。あなたが十分に生きたと思うのは、時間ではなくあなたの意志にかかっているのです。タレスは「生きることと死ぬことはどちらでもいいんことだ」といいます。

A 経験について  (第3巻 第13章)

エセー全巻の最後の章である。130頁の長大な章で、モンテーニュ−は経験のありようの分析を起点として、事実の受け取り方の不確実さを考察し、社会から世界へ目を向ける。自身の生活の内容を他者と比較し、人間の生活と生存の条件を吟味検討する。そこに調和した生き方こそ人間の最も優れた生き方と考える。論点の自在な展開、はつらつとした思考の活動を示す名文だという評判がある章だ。ものを知りたいという欲望ほど人間の本性に根差した欲望はない。理性が欠けるときは経験がものを言う。いろいろな物事全体の姿の中に、相違と多様ということが普遍的な性質である。同じものは無いという性質は、どのような方法でも類似に到達することはできない。さまざまの法律で事例を拘束しようとしたが、我々の行動は永久に変化し、定まった不動の法律群と関連することは少ない。フェルナンド王はインド諸島に植民をおくるとき、訴訟と分裂が増えることを恐れて法律の学徒は連れてゆかなかったという。精神のすることには限界がなく形式もない。注釈者はひしめくほど多いが、数々の意見は互いにつながっており、頭一つ出っ張っているに過ぎない。すべてのものごとは何かの類似でつながっている。だが多数の個人を支配する規則は一層確立することは難しい。裁判の本体の中、実質のなかに含まれる病的な部分、不正な部分がある。裁判の形式のために犠牲にされる個々の事例には、犯罪よりももっと罪の深い断罪を見ることができる。法律が信用されるのは、それが正しいかどうかではなく、法律という権威の根拠である。法律の支配は非常に混乱して一貫性がないため、それを運用し、遵守する際に現れる悪習をもともと許容している。したがって自分を導くのは法ではなく、経験である。こうしてモンテーニュ−は自分自身を研究することが形而上学であり、自然学なのだという結論に達した。私は世界に関する一般的な法則に動かされるままになっているが、私が持っている経験のなかから、私を賢くする材料を見つけ出したいという。それが「エセー」を書く動因であった。私は一人の愚か者でしかないことを学ばなければならないが、この方が充実した重要な教訓である。判断力は自分自身のほかの部分の変革はなし遂げないまでも、変質も腐敗も受けず、一人別のところでその働きをしている。判断力は中心的な働きをなし、「自分自身を知れ」という一人一人に対する教訓は重大な効力を持つ。自分がものを知らないことに気が付くには、ある程度の知性がなければならない。ソクラテスはソフィストの「無知」を主張し、謙虚に考えるを説いた。そのため讒言により処刑された。智恵は確固とした完全な建築物で、各々の断片が自分の正しい位置を知り、自分の特徴を持っている。プラトンは「ゴルギアデス」で「他人の魂を吟味しようとする者は、知識、親切さ、大胆さの3つの要素を持たなければならない」といった。真実さえ、あらゆるときに、あらゆる仕方で用いられてよいという特権は持っていない。真実にはやはり限界がある。プラトンは医学もまたいつも経験を自分の任務としていると述べているが、我々の肉体を健康に、精神を健康に保つと約束する学術(医学)の実際の約束はあてにならない。私の生活の形式は病気の時も健康のときと全く同じである。したがって私の健康とは、日ごろ慣れた私の生活を乱さず維持することである。快適でやりたいことを行うことがそれが一番害の無いことであったからだ。医学的知識は第2に考えた。各々の国には、別の国にとって未知なことか、びっくりするような習慣や慣用がある。古代の哲学者も各地の習慣を数多く報告している。最良の生活様式は慣習によってさまざまであるが、我々の肉体の特質は柔軟に順応性に富み、硬直していないことである。ある特定の生き方に縛られないこと、多様さに慣れ、不規則さに慣れることである。病気に対しては頑固にまた軽率に抵抗してもいけないし、だらしなく屈服してもいけない。病気の在り方や自分の在り方に応じて自然に譲歩することである。健康がいつまでも続く、つまり若返ることを神様にお願いするのは愚の骨頂である。避けることができないものは耐え忍ばなければならない。モンテーニュ−は持病として結石があり痛みに苦しんだ。「苦痛は快楽と安楽に役立つように、我々に与えられた」と考え、それともどこかで折り合いを付けた。「君は病気だから死ぬではない、生きているから死ぬのだ。老年になると治って生きてゆくという理由はもうないのだ」という。苦しむことを恐れる人は、恐れていることで苦しんでいる。病気はほとんど独自に行動していて、精神に打撃を与えることは無い。精神は肉体の病気とは別問題である。病んだ精神は肉体を滅ぼさない。我々人間の生活は結局運動以外の何物でもない。セネカは「生き生きと生きることは戦うことだ」という。モンテーニュ−は50歳を生涯の妥当な終末と考えた。織田信長も「人生50年、流転のうちに・・」と謡った。そこでモンテーニュ−は生活の具体的な形として、睡眠、夢、料理、食事回数と消化、酒ワイン、空気、暑さ、眼、足どり、噛み方、会話、宴席のことを取り上げて吟味し、ある種の悟りの境地に達した。自分の死を考えてみて、それが自然の死に属するなラ不正な事でもなく神に特別の恩恵を期待することではない。いくら長生きしても、死を小刻みに延期するだけのことである。長生きすると生活環境はだんだん劣悪になってゆくし、苦痛が増すのだ。自然にやってくるのはすべて善、死はいたるところで我々の生と混じりあっている。食事は何を食べるかではなく、誰と一緒に食べるかを重点とすべきである。私の健康の最高の実りは、快楽である。快楽はアリストテレスのように嫌う人もいるが、調和のとり方はソクラテスが理想であるという。カエサルやアレキサンドロスも理想的な仕事と快楽のバランスをとっていた。見事に自然に人間として行動すること以上に正当なことは無く、自然にこの一生を生きる仕方を知ることは結構難しい。不節性は快楽を滅ぼす要因である。要はバランスである。時の楽しみ方は世間では賢明な連中の習慣である。愚か者の人生は、不愉快で落ち着きがなく、未来に流されてしまう。又人生は楽しみを深く味わう精神が必要で、生きている時間が短いほど、より深くより充実して生きなければならない。自然に則ったものは、すべて尊重される価値がある。ソクラテスは精神的快楽のほうを良質な人間の特徴と考えた。快楽と必要の結合は非常に似つかわしい。「好きこそものの上手なれ」は理にかなっている。 


Uの巻 「思考と表現」


第1グループ 「想いを見つめて」

@ 暇な状態について  (第1巻 第8章)

引退直後に書かれ、エセー執筆の動機、想像力が語られる短文である。原野はいろいろな植物を実らせるが、これをある目的に使用するには、計画と想像力が必要である。人間の精神についても同様で、ある事項に集中させられなければ、野放図のまま、想像性の実りを享受することはできない。私の精神を十分暇な状態におけば手のつけようのない幻想を生み出してしまう。そのバカらしさを記録してみようと思った。モンテーニュ−は「エセー」執筆の目的を反語的に、自嘲的に書いた。

A 嘘をつく人たちについて  (第1巻 第9章)

記憶力が嘘の条件であるという趣旨。モンテーニュ−は記憶力には全く自信がないようだ。プラトンは記憶力を「偉大で強力な女神」と呼んだ。分別がない人間とは記憶力がない人間のことらしい。しかしこの見解は記憶力と理解力の区別ができてないことからくる。私は記憶力が弱いことに対応して、ほかのいくつかの能力(判断力)を強くしていった。しかし利点もある。記憶力がしっかりしていない人間は嘘をつく立場にならないのだ。嘘をつくとは間違ったことをいうこと、自分の意に反したことに進むということである。我々人間は言葉で初めて人間となり、お互い同士結びついている。真実が一つならまだ分かりやすいのだが、真実の裏には無数の顔、確定できない事柄が広がっている。

B 速い話し方と遅い話し方について  (第1巻 第10章)

話し方の問題、表現論について述べる。あらゆる魅力能力がすべての人に与えられることはない。弁論の才について、遅い話し方の得意な人は説教家・宗教家に、早い話し方が得意な人は弁護士に向いている。前者は準備をしっかりとり、話の流れを中断なしに展開できる。後者は臨機応変に相手方との闘争で言い合わなければならない。したがって弁護士の任務は説教家よりもっと難しい。機知が必要である。説教家には心の動きの判断力が求められる。モンテーニュ−は生き生きとした機知の動きを得意とし、じっくり念を入れてストーリーを練ることは不得意だと白状している。つまり自分自身をしっかり所有し支配していないので、偶然が彼を支配しているそうだ。偶然の光が事柄の意味をはっきり照らし出すこともある。

C デモクリトスとヘラクレイトスについて  (第1巻 第50章)

判断、思考の性質、機能を分析し、後半紀元前6-4世紀のギリシャの哲学者で原子論のデモクリトスとヘラクレイトスの対比を行う。判断力はあらゆる事柄に適用できる強力な思考のツールである。私には全体を見通す力はない。できるだけ深く追求するだけである。疑問と不確実の状態に、そして無知という根本的な形にくさびを打つのである。魂の働きは高い場所にある時は情念が支配している。死というものはキケロにとって恐ろしいものであったが、カトーはそれを願ったし、ソクラテスにとって死はどうでもいいものであった。魂にはいろいろな衣裳を装う。魂の全神経が緊張する際にどのような仕事をするかをカエサルに見られる。人間の小部分にも他のどれとも同じように、人間を表すのである。デモクリトスは人間のありようを空虚なものと考え、あざけるような顔つきで公衆の前に出た。ヘラクレスは我々のありように憐れみと同情を抱き、悲しそうな顔つきで出たという。我々は自分が空虚とか愚かしいと思っていない。低俗であるほど悲惨さがないのである。ディオゲネスはアレキサンドロス大王を鼻であしらい侮蔑の眼で見た。彼は非常に正しい判定者であった。我々人間の特別なありかたは、滑稽であり、おかしくもある。

D 言葉のむなしさについて  (第1巻 第51章)

修辞・雄弁に対する反論の章である。修辞学は種々のこまごまとした事柄を大きく思わせる術であり、白を黒と言いくるめる術であり、負けを勝ちと思わせる術である。修辞をこととする連中は、我々の判断を欺き、物事の本性を変質させ腐敗させることを重要とみなしている。アリストンは修辞学を「民衆を納得させる学問」と定義した。ソクラテス・プラトンはこれを「人騙し」の技術という。これは規律を失った群集、人民をあやつり動かすために考えだされた道具である。今の日本政府の「安心と安全」というスローガンがそれである。ローマでは国務が最悪の状態にあったとき、雄弁が最も見事な活躍をした。換喩、隠喩、寓喩は小間使いのおしゃべりの別名である。

E 我々の行動の不安定さについて  (第2巻 第1章)

セネカからの引用・表現から出発して、徳を軸とした確固とした人間のありようよりも、むしろ人間は変転をその本質とするとみるほかないという論を展開している。最初は消極的主張で始まり次第に肯定的になる。人の行動は本来矛盾しあっており、一筋縄では捉えきれないものである。決着がつかない不安定さが我々の行動の本質であるからだ。歴史上のひとりの人しっかりした確実な運びの上に一生を終えた人物を探し出すのは容易ではない。意欲が正しければなおさら一定不変ということには結び付かない。人生を支配するのは要するに動揺と不定でしかない。自分自身を深く研究するものは、自分のなかに、その判断そのものの中にさえ、この変わりやすさと調和のなさを見出す。我々の行動を外側で見て簡単に割り切って判断する方が、しっかりした理解力とも思えない。まだまだ検討を要する課題である。

F どれほど我々の精神は自分で自分の行動を妨げるものか  (第2巻 第14章)

懐疑主義的な傾向から知的課題を見出そうとする試論の短文である。一つの精神が二つの欲望の天秤バランスに位置しているイメージで、片方を決めると価値の不均衡をもたらすので、精神は決して決着をつけないだろう。ストア派は結局どちらかの価値を選択するのは偶初的なその場限りの衝動によるものだというが、モンテーニュ−は価値の差異が軽微なものであれ、選ぶという行為には我々をひきつける何らかのプラスを認めるという。しかしプリウスは「何も確実でないことだけが確実であり、また人間以上に悲惨な思いあがったものはない」ともいう。

G 嘘を言うことについて  (第2巻 第18章)

言語による意思伝達こそ人間社会成立の根本要因であり、不可欠の条件である。エセーの中に自己を描き切ることを明瞭に意識し、強調している。嘘の問題は最後に述べられている。「自分を書くための主題に使う」ことは歴史上の有名人に許されるだけのことではない。カエサル、クセノフォン、アレクサンドロス、アウグスツゥス、カトー、などの人々が自分の業績について書いた書物(自伝)がほしいところである。私は町に像を立てるほどの偉人ではなく、自分の小さなことを語り合いたいだけである。また将来自分の書いた本を誰も読まないとしても、私は本を書くために少しも勉強はしなかったが、本を書いたことによって少しは勉強した。私には嘘をつく必要は何もない。嘘をつくことは下劣な不徳である。言葉は我々の意思伝達や思考を通じさせるための道具である。

H 後悔について  (第3巻 第2章)

主題は「後悔」であるが、それが不徳との関係においてどのような働きをするのか、個人の倫理的意識と行動への決断を動因として起きることを記述している。それは社会との関係や年齢によってさまざまな様相をとるのである。そして人間本姓とのかかわりあいや運命ととら得るとき後悔は成立しないという結論となる。私は人間(自分)を物語る。私は存在を描かない。推移を描く。魂は常に試験、試みの中にある。私は真実をいう。そして私は後悔することが稀である。私は人に学識を教えるのではなく、私を語るのである。不徳は人を傷つけ、その判断力のなさが糾弾される。不徳は魂の中に後悔を残し、魂は傷つき血を流す。徳に満ちた種々の行為を他の人間の承認の上に据えることが非常に困難である。現代のような腐敗した無知な時代では特にそうである。キケロは「徳と不徳についての意識こそ非常に重要なものだ。それがなければすべてのものは崩壊する」という。しかし長い間強い力のある意志の中に根を張った不徳は容易には除去できない。後悔は我々の意志を否定すること、我々の考え方に対抗するのである。アリストテレスは「私人のほうが官職にある人よりもっと高度な仕方で徳に奉仕している」という。ソクラテス「人間としての生活を、その本来のありようと合致させる仕方で送ることだ」という。魂の偉大さは高い地位の人には働かない、それはごく普通の身分の中で働く。もし「後悔」がずっしりと天秤の皿の上にあるならば、後悔は「罪」を運び去るかもしれない。あらゆる意図が実際に力を発揮できるかどうかは、時如何にかかっている。数々の偶発的な状況に拠るからだ。だから結果は自分のせいにはしない。これは後悔ではない。私はまして老齢からくる偶発的な後悔は好まない。老齢は欲望を枯渇させ、深い飽満の感情が支配するので、このようなところには良心は働かない。自分の健康の状態を病気のせいにするのはみじめな療法である。理性は好調な状態で生き生きと働く。老衰がもたらす悲惨と非運は幸せに死ぬことを妨げるのである。ソクラテスの英知は、70歳になってその精神の充実した運びが衰退することを体験していたことであえて刑死を選んだともいえる。

I 片足の不自由な人々について  (第3巻 第11章)

人間の理性の性質、限界を見ながら、なお迷信、奇蹟を信じる無批判な人がいる。懐疑主義を軸にしながら確実な運びで真実を探り当てる実証的な方法が語られる。原因あさりばかりするおかしな理性主義は、物事を動かす立場の人がやることで、物事を受け入れてゆく普通の人間のやることではない。人々は数々の事実の上を通り過ぎてゆく。「現にそういうことが起こるのか」、「全然そういうことはない」というのが我々の立場である。キケロは「それほど虚偽は真実と背中合わせなものだから、賢者はそのような足下の危ないところに踏み込んではならない」という。噂話、誇張は人間の本性である欲望のひとつである。愚か者の数の方が賢者の数よりもずっと多いので、真実は人の数で決まるという事態は何とも不幸なことだ。人間一般の愚かさの罰である。無知はその到達点である。人間は彼らの理解できないことに対して一層大きい信用をかける。そこでモンテーニュは証明が難しく、信じるのが危ない物事については、確信するより疑う方へ傾く方がいいと考える。キケロは「私は自分が知らないことことを知らないと認めることを、恥とは思わない」という。我々の付ける理由のかずかずは事実よりも先に出ることが多い。そしてその範囲は無限に広く、虚無、非存在に対しても判断をし働きかける。本章の題名「片足の不自由な人々について」は、身体障害者に関する下劣な噂話なので省略する。

第2グループ 「学識の位置づけ」

@ 小カトーについて  (第1巻 第37章)

小カトー(前95−46年)は、司直官大カトーの孫。ウチカのカトーといわれ、元老院側に立ってカエサルと対立し、アフリカに逃れたがカエサル軍の到来を前にして自殺した。清廉・剛直の人と言われる。小カトーの評価がさまざまに分かれることを判断の多様性で説明し、後半は小カトーを賛美する5人のラテン詩人の文芸批評を行う。私は自分の尺度で、あるほかの人を判断することはしない。たくさんの違った生き方があると思っているからだ。人は自分とは違うと考える方を選ぶ。今の時代は恐ろしく程度の低い時代で、徳を思い描くこと自体が欠けている。徳に満ちた行為はもうどこにも見られない。人は自分のできないことは褒めない場合が多い。だから我々の判断力は病んでいて、退廃した習俗に流されていることも知らない。小カトーが栄誉を狙っていたとか、悪意を持った意見があるが、小カトーは気高く正しい行為をしたのだとモンテーニュ−は評価する。ここで小カトーを賛美するラテン詩人の詩句に比較検討を行った。マルティアリス、マニリウス、ルカヌス、ホラティウス、ウェルギリウスの賛歌は力強い。

A キケロについての考察  (第2巻 第40章)

この章は古代の作家たちの論評から始まり、表現、文体、書簡について考察してゆく。まず最初はキケロと小プリニウスの作家を取り上げる。二人は度をはずれた野心満々な性質が限りなくみられる。後世に名を残そうという意図が露骨である。心情の低劣さ、友人に宛てた私信から栄誉を引き出そうとする魂胆である。活動の偉業さに並ぶものがないカエサルやクセノフォンに賞賛の弁舌を尽くしても彼らの偉業に変りは無かった。一人の人間をその身分や役割にふさわしくない性質によって評価するは、一種軽蔑するようなものである。執政官を音楽の才で褒めても何にもならない。戦闘指揮官を美貌でほめても意味がない。知識ということに関しては哲学があるのみで、行為に関しては徳があるのみである。私のこの「エセー」を本質的でない事項の引用や羅列で何倍かの分量に増加させても、権威付けや装飾の役には立つが、私はそれ以上の表現はしたくないと思っている。第2にセネカとエピクロスの二人の哲学者の書簡について考察する。キケロの雄弁はすでに最高の完成状態であるので、それ自体に実体がなければならない。書簡の前には私を高めてくれるようなあるしっかりとした交際が必要であった。私にはもともと打ち解けた文体を持っているので、美辞麗句で実質のない手紙を飾る必要はなかった。ましてお世辞は言えなかった。(イタリア人は手紙を印刷し出版することが好きな国民である。)                                                                               

B 用事は明日だ  (第2巻 第4章)

モンテーニュはプルタルコスの「対比列伝」、「倫理論集」を愛読し、考え方の材料としていたという。この章はそのことを述べる。ジャック・アミコはこの難解な書物を見事なフランス語に翻訳し、プルタルコスの魂の全体の姿を自分の魂の中に生き生きと移し終えた。プルタルコスがローマで講演をしたとき、その講演会に参加したルスティクスは皇帝からの手紙を受け取ったが、講演が終わるまで開封しなかったという。プルタルコスはその彼の落ち着いた態度を称賛した。プルタルコスは好奇心について情報を求める欲望の情念について講演していたのである。又プルタルコスは事の優先順序という点で彼の思慮の深さについては疑問をつけている。好奇心の反対の不徳は「無頓着」である。危険が忍び寄ってくることに配慮しないと身を亡ぼすことになる。「用事は明日だ」では遅すぎるのである。自分1個の楽しみのために、緊急の事態を回避しないのは公共の任務を負っている人間としては失格である。

C いろいろな本について  (第2巻 第10章)

この章は自由に述べた読書論、書評であり、楽しい本、詩、思想的著作。歴史の順に思いつくままに語ったものである。彼の尊重する本とは、彼の自己を通じて人間全般の倫理や、人間の真実を含む実質のある思考、表現のことである。ここに書かれていることは人に知ってもらおうとするものではなく、私自身を知ってもらいために書くのである。私は多くの本を読書したが、全然記憶していない人間である。引用で飾るつもりはなく、私の地の文と混ざりあっているのであえて作者の名前は出さない。無知を思い知ることは判断力の最も立派で確かな証拠である。私が数々の本の中に求めることは、まともな時間の使い方をしていくらかの楽しみを自分に与えようとすることだけである。突っ込んで勉強する場合も、自分自身をはっきり知るためや立派に死に生きることを教えてくれるような学識だけを求めている。本のなかで難しいことにぶつかり停滞することがあるが。そこに固執していると全体の展開がつかめなくなる。しばらく放り出せばいい。又面白くない本のときは別の本を取り上げればいい。あらゆる本について自由にものを言う。たとえばプラトンの「アクシオコス」もつまらないと思えばそう書く。それも私の判断力なのである。外見だけで読んではいけないものがある。アイソポスの「寓話」には意味や理解を含んでいるように思われるからである。詩の分野ではウェルギウス、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスは群を抜いてよかった。またルカヌス、テレンチゥスもよかった。ローマの雄弁の父キケロはテレンチゥスを高く評価した。喜劇作家ではテレンチゥス、プラウトゥス、マルティアリスが面白い。私の役に立っている作家はプルタルコスとセネカである。プルタルコスは事実に満ち、プラトン風の穏当な、市民生活に適合した意見を持っている。セネカはストア的エピクロス風の市民生活からは離れているが、確実な意見が多い。キケロは特に倫理に関する哲学では随分私の役に立った。アリストテレス的な論の進め方は持って回って時間が惜しい。キケロは問題のまわりをぐるぐる回っているだけである。キケロは書物だけから判断すべきで、生き方や彼自身から判断してはいけない。なんと嫌味たっぷりの人間だから。歴史家たちの本はすらすら読めて楽しい。伝記ものが一番好きだ。プルタルコスが一番おあつらえ向きだ。ラエルティヌスをもっと知るべきだ。カエサルこそ歴史と人物を知るために必須の偉人である。

D うのぼれについて  (第2巻 第17章)

自分のことを述べるのはうぬぼれであるが、彼自身は程度の低い人間であることを言い訳にして実行している。自身の身体、健康、気質、諸能力、意見を率直に述べている。その上で言葉、表現、真実について考察する。「うぬぼれ」という虚栄は自分をかわいがる歪んだ情熱のことである。この虚栄には二つの要素があり、自分をあまりに高く評価すること、他人を十分に評価しないことである。哲学は我々のうぬぼれと虚栄を叩く時、またその判断力の無さ、力の弱さ、無知を率直に認めるとき優れた働きをしないように思われる。 自惚れを警戒するあまり自分を過度に卑下することはない。正常な判断力はあらゆる場面で権利を主張すべきである。カエサルなら許されるであろう儀式のもろもろの掟に我々は縛られている。一般大衆のことは誰も語ってくれないので、知りたいと思う人に対して自分を思いっきり語ってよい。ルキリウスは紙面の上で自分の行動と思想を自分で感じられる姿として自分を描いた。モンテーニュは自分を普通の人間だと考え、欠点をたくさん持っていることは否定しない。しかし自分の価値を知っている事だけを自分の価値だと思っている。私(モンテーニュ)は人の気に入ることも、人を喜ばすこともできない。私の文章には滑らかなところがなく、ごつごつしているところが好きだ。書くことより話すほうが向いているし、運動や行動は言葉を勇気づける。私のフランス語は出身地(ボルドー)の品格の無さによって変質している。ラテン語の能力も失われている。美しい言葉、美しい肉体は人間たちの交際に取って重要な要素である。しかし問題は人間全体の活動で評価される。逍遙学派は精神と肉体のバランスを配慮した。マリウスは体格の立派な兵士しか採用しなかった。アリストテレスも偉大な態度に偉大な魂が宿るといっている。プラトンも節制と心の堅固さとともに美しさを求めた。年齢は少しづつ壮年の力と強さを衰退させる。だから毎日私自身から私が逃げてゆくのだ。身のこなし方に敏捷さは無い。精神も肉体と同じで、溌溂としたところは何もない。私は極端に無為で極端に自由だ。それ以上の能力を望まない。心構えとして、運命にすべてを任せて、すべての事柄を一番悪区考えるようにする。この一番悪い状態、穏かに辛抱強く耐え忍ぶのである。危機に陥った時、そこから逃げ出す方策はそれほどいいことではないので、私自身を調節する。運の転び方が決まったら身を落ち着けることが一番である。悪あがきは動揺するだけで実りは少ない。セネカは「疑わしい不幸の方がもっと人を苦しめる」という。第一に自分の持ち分が危険にさらされない限り、高い地位を望むことはしない。ハイリスク策は絶対取らないということである。自分の力は大したことはできないと健全にも判断した。確かに力や暴力(武力)は何かをすることができるが、すべてをすることができるわけではない。流行の見せかけや取り繕いとか新しい徳は、私は根本から憎む。アポロニオスは「嘘は奴隷たちのすること、真実をいうのは自由な市民たちのすること」という。言うことは考えた通りのことでなければならない。もろもろの涜神、殺人、反乱、裏切りなどの行為は、ある種の利益のために企てられる。そういった世界の力学から(ハイリスク・ハイリターン)身を離すことが、保身の根本である。記憶力は素晴らしく役に立つ道具で、これがなくては判断力は大変苦労する。私はその記憶力に弱いのである。私は記憶力と同じ欠陥を持っている。才知の働きが遅いのである。魂が俊敏でないのだが、立派な魂とは、普遍的で開放的で、すべてのことに用意ができている魂のことだと思う。我々人間の判断力の弱さを考えると、疑わしいことへの選択決定は運命と偶然に任せる習慣に染まりやすい。人間の理性はもろ刃の剣である。様々な政治上の問題では、意見を議論しぶつけ合うことが必要である。実際の経験以外に根拠を持たず、人間に関係して起こる事柄の多様性は無数の例証を提供するからである。いろいろな悪い運営(政策)も一貫していれば、変化や革新よりはまだ始末がいい。破壊してしまった状態に代えてさらに良い状態を作ることは、ほとんど無駄働きになる。分別の欠けた判断は矛盾である。自分の用向きに役立つ十分な判断力を持っていると誰しも考えている。私は他の人の権威と、私の判断が一致している古代の偉人の健全な理論によって確立し強化してきた。一番軽蔑できない人間の階層は、単純素朴さによって最低の段階を占めている人々である。彼らがもっとも規律正しい人間関係を我々と結んでいるようだ。

E 三つの交際について  (第3巻 第3章)

三つの交際とは、男性たちとの交際、女性たちとの交際、本との交際である。個人と社会生活の調整問題を軸に自分の探求、自主的な生活、交際、友情、会話、恋愛、読書について考察が述べられる。自分の気質や性格に余り拘泥してはいけない。人間の根本能力は、様々な実地の行動に、自分を適応させることができるということである。立派な魂とは多様さと柔軟さに富む魂なのだ。大カトーはどのような状況でも、そのために生まれついてきたかのようであったという。人生とは不均等な、不規則なさまざまな運動なのである。何もしないではいられない。読書は私の精神を他に向けさせるが、私の魂にものを入れるより、それを鍛え上げる方が好きだ、キケロは「生きることは考えることなのだ」という。活力のない努力のこもらない会話は私の好みではない。我々が人との交際を厄介と思ったり、低俗な人と交わることを軽蔑するなら、自分一人の仕事にも人々の協力は得られない。ソクラテスが言うように、自分の欲望をうまく調整し、智恵の働きによって自分の力に従って仕事は自然のままのに運ばれる。交際のまずさは人々の好意を失う。ときには調子を下げて人に合わせるkとも必要である。女性の学識は、愛され、尊敬されて生きる以外を超えてはいけない。女性は詩や歴史が好きで知恵を養ってきた。私は孤独な場所にいるが、交際と友愛に適した人間である。宮廷のざわめきが全く嫌いな人間ではない。私が自分から求めて交際したいと思う人は、立派な有能な人々である。高雅な魅力と適切な問題のとらえ方がある。学芸とはこうした魂のかずかずを検証した者に他ならない。美しい貞淑な女性との交際も楽しいものだ。しかし恋愛となると主に視覚と触覚に関係するもので、肉体の魅力がないと如何とも仕方がない。本との交際はもっと確実で、最も私に向いている。老年と孤独の私を慰めてくれる。私の読書室は城の塔の三階にある。いつもそこへ足を向ける。私は一日一日を生きている。他の遊びの目的はバカらしいが、そこで私は自分だけのために生きている。自分を賢くするために、自分の気をまぎらわすために勉強している。読書のため肉体への配慮がなおざりにならないよう、散歩・運動には気を付けている。

第3グループ 「活動する知」

@ 教師ぶることについて  (第1巻 第25章)

学校の先生はあまり立派な意味合いで呼ばれていないことに、小さいころから不満を持っていたが、最も思慮のある人たちこそ、先生を最も軽蔑していることを知り、弁護のしようもなかった。ローマ時代から学徒・学校の先生は非難・軽蔑の別称であった。魂は満たさればそれだけ賢くなるものなのに、なぜ先生は軽蔑されるのか。それは一般大衆は哲学者を根本的な、あらゆる人間にとって共通な物事を知らない人間として、うぬぼれた人間として嘲笑の的にしているのだ。昔は彼らは上から目線で公の活動を軽蔑し、仕事をしない連中として羨んだ。今では彼らは仕事に当たる能力は無く、一般大衆の後ろで低級な卑しい生活をしている弁護士のように見ている。昔の哲学者は学識において偉大であり、すべての行動において偉大であった。アルキメデス学派の哲学者がそうであった。政治を指導する人たちが全く無能であることを見て、哲学者はそこから身を引いた。学者になるかどうは別にして、一層賢い人間になるかどうかが問題である。キケロは「彼らは他の人々のところで話すことを学び、自分を相手に話すことを学ばなかった」と指摘する。語ることより舵を取ることが重要なのに、書庫の中の能力に納まっている連中に過ぎないと見られたからだ。きけろは「知恵を手に入れるだけでは十分ではない。これを活用しなければ」とキケロは述べている。「何も知らないくせに、知ったかのように話す」とソクラテスはソフィストを軽蔑した。先生というと判断をしない人の代名詞である。我々の教育は我々を損なわないだけでは十分ではない。我々を導かなくてはいけない。学識と判断力の二つの能力は両方とも必要である。判断力のない学問がなんの役に立つのだろう。学識は魂の飾りではない。セネカは「学者が世に現れてから、よい人間はもはや見られない」という。素晴らしい教育はスパルタの徳育に見られた。そこでは学問知識は問題とされず、徳以外は教えられなかった。勇気と思慮と正義の教育をプラトンの「法律」は推奨している。正義の判断力を最も重視した。アゲシラオスがクセノホンにその子供を武勇の国スパルタで教育するよう勧めたのは、修辞学や弁証法を勉強させるのではなく、服従し指導する学問を学ばせるためである。ソクラテスはスパルタの政治体制が優れていることを教えた。モンテーニュは軍事国家が最も効率的で腐敗の少ない体制であることを言っているようだ。さてどうだろう、民主国家の腐敗はともかくも、軍事国家の非人間的で滑稽さは今の北朝鮮を見れば、勧められない。

A 子どもたちの教育について  (第1巻 第26章)

この章は、ギュルソン伯爵夫人の新しく生まれて来る子供のために書かれた。ある貴族の子弟をいかに教育するかという具体的な目的のほかに、モンテーニュは彼の理想とする人間をいかに養成するかという一般論に置き換えた。人間の能力、資質の均衡ある開発が眼目にあって、道徳心の陶冶、身体の鍛錬を説き、さらに精神活動の根本の能力としての判断力の重視、経験を通じて練磨し、活力と自主性のある実践的な人間を造ろうとした。教育基本法のような試みである。70頁の長文の章である。私はフランス風に、どれも少しづつは知っていても、完全には何も知らない人間です。たとえばアリストテレスを深く研究したこともないし、堅い書物はプルタルコスとセネカくらいしか読んだことはない。歴史は一番好きな分野ですが、生来持っている能力を試してみようとするのがこの書「エセー」の目的です。文章には全く対照的な二つの考えがあります。哲学者のクリュシポスは自分の書物を他の著者の一部ではなく全部を引用しています。他人の手になる部分を削ると、何も残りません。エピクロスはたった一つの他からの引用もありません。前者は自分のものは何もないため、他からの価値で埋めていますがこれは不正で卑怯です。かつ愚かです。前の章「教師ぶることについて(第1巻 第25章)」を読んだ人がもっと論を展開すべきだというので、モンテーニュは生まれてくるお子様に贈る文章を書くことにしたといういきさつを述べた。人間の学問の最も大きな困難と重大性は子供の養育、教育にあります。プラトンの「国家」でも子供の教育を重要視しています。確かに学問は偉大な装飾であり、素晴らしく役に立つ道具です。戦争を指導し、民衆を指揮し、外国と友好関係を結ぶ手段を誇りとしている。次に教師となるべき人の資質について述べています。キケロは「教える人たちの権威が、学ぼうとする人たちの妨げになることがよくある」と言います。プラトン教育法は対話です、我々の魂は。他人を信じてでないと動きません。教師の考えに縛られては、活力と自由は消えてしまいます。教師は権威と信用によってはいけません。知ること以上に疑うことを学ばせる必要があります。生徒が作り出したものを探していくことです。本意頼った見識は基礎にはなりません。プラトンは確信、信念、誠意が本当の哲学だといいます。人々との交際・会話が非常に適当で、親元で育て上げるのは正しくないというのは常識です。子供の精神を堅固にするだけでなく、その筋肉もじょうぶにしなければなりません。労働に耐える習慣、苦痛に耐える習慣は心の強さであり、筋肉の強さです。沈黙と謙遜は適当な資質です。子供じみた野心、競争心は有害です。論争に値する相手を見つけた時だけ議論に参加させ、真実の前には謙虚に認め降伏することを学ばせることです。道理だけを道案内人にするようにさせたい。多くの人と同席している場合、あらゆる人に目を向けるべきです。歴史の本を手段として、優れた時代のもっとも偉大な魂と交際するようにさせましょう。プルタルコスの「対比列伝」を勧めます。歴史は生き生きとした人物、事柄、魂を学ぶ最も有効な学問です。子供を教育する重要な思想は、その品性と分別をきちんと育てる思想、自分自身をしること、立派に生き立派に死ぬことことを心がける思想でなければなりません。不要な有用性がない学問まで勉学を広げる必要はありません。基礎ができたら論理学、幾何学、修辞学を学べばいいが、その逆であってはならない。徳を目的とした哲学はしかめ面をして学ぶものではなく、楽しくなる気分だけを学べばいいのです。本当の徳の価値とは、それを実行することがやさしく、楽しいことにあります。子どもたちは父親の能力ではなく、その子の能力に応じて正しい地位に付けるべきだとプラトンは言います。子供を孤独を好むようにしてはいけません。社会生活に適し優れた職務に就けるように導くべきです。フランス風の知識とは、早くから形を表すが、あまり長く続かない例えになっていました。仕込むのは知識精神でも肉体でもなく、一人の人間なのです。子弟の教育は厳しさのこもったやさしさによって進めなければなりません。青春を虜にする牢屋、頭ごなしに権威を振りかざす仕方は危険です。プラトンはアカデミアにおいて都市の青年たちの快活さと娯楽について配慮しました。酒も社交の一つです。「すべての技術のうちで、もっとも重要なことは立派に生きるという技術を実行する」とキケロは言います。言葉の表現技術も重要ですが、世の中はおしゃべりが多すぎます。事柄が把握されれば、言葉は自然についてくるものです。雄弁術や弁証法は「ひにくれた小さな詭弁」とキケロは言いました。「人の心を打つ表現こそ、正しい表現だ」とルカヌスは言います。              

B 意見を交わす技術について  (第3巻 第8章)

自他を超えた立場で客観的に人間の真実を追求する形の対話を述べる。これは会話、社交術の洗練を促すと同時に、真実探求の態度にもつながる。そして形式に走り本質を理解しない愚劣な精神の否定、運命、高い地位の人物の批判、読書論へと展開する。刑罰を下すとか断罪することは、すべて他の人々への警告が目的である。犯した罪は取り消しはきかないし、死刑囚を矯正できるとは思えない。私がエセーを残す理由の一つは、自分を褒めことより自分をとがめることが目的である。読む人に同じ過ちをしないように参考にしてもらうためである。反面教師によって追従より回避によって学ぶのである。大カトーは「愚かな人が偉い人人から学ぶより、偉い人々が愚かな人々から学ぶことの方が多い」といった。われわれの精神の最も実り多い訓練の仕方は、ローマ人が最も得意とした意見を交わすことである。読書より手ごわい相手と意見を交わす方が魂は興奮する。意見は合致していては討論にならない、対抗心、名誉心、競争心から有益な結論に達する場合が多い。決定を下す権利は保留して柔軟な態度で様々な意見を聞くのである。だから聞く力を強くしなければならない。キケロは「反論のない議論はあり得ない」という。私は真実をだれの手の中に見つけてもそれを称賛する。そして自分を矯正するのである。しかし権威を傘にしたひどく尊大な相手とは付き合ってはならない。声の大きさではなく、どれほど弱い主張をも受け入れ尊重するような秩序がなければならない。論理学は何の役にも立たない学問である。学識を尊敬するが、学問は財布の中身を少しは良くするが、魂をよくすることはない。会話は訓練しようとする人々の精神を啓発し、真実を手に入れることが目的である。そのため会話の主題よりも話し方に重点を置く。賢明に順序正しく立派なことをいう人間は少ししかいない。自分とは違った形を許すことができない寛容のない精神は自分の無能を傷つける。自分の武器で自分を殺すようなものである。我々の人間関係の中で儀式ばったこと、うわべだけを取り繕うことが、国家社会の実際面で横行している。偉そうな人は自分の経験からくる権威によってあなたを打倒しに来る。私はあらゆる種類の横暴が嫌いだ。我々の判断力を歪ませる種々の状況に進んで反発する。高い身分や職務はどうしても、才能によってではなく幸運によって与えられる場合が多い。国家の首長は結果ではなく意図によって判断されなくてはならない。結果善ければすべて許されるでは高い精神は得られない、そこにあるのは僥倖(運命)だけである。結果というものは非常に愚かな運びをも権威づける。道理よりは慣行と先例を考慮して後は運任せである。人間の知恵はこの運命の役割を果たすことはできない。「誰でも運命を利用すれば人の上に立つことができる。その人間を頭がいいと言いはやす」とプラウトップは言う。王制は判断力のない、実に多くの崇拝者という愚かな人間で支えられている。議論や意見交換において、すぐに役立つ言葉を取り入れてはならないことだ。他人の言説がなぜ説得力を持つのかはっきりしない場合が多い。目先を変える目くらましに使われているかもしれない。愚かしい、頭のおかしさは注意して治るものではない。頑固と軽率さは表裏一体になって、その人を自信満々な態度に出させる。意見のしつこさと激しさは、愚かしいさの最も確実な証拠である。


Vの巻 「社会と世界」


第1グループ 「社会の組み立て」

@ 我々の情念は我々よりも先へ超えてゆく  (第1巻 第3章)

死後への遺志を主題として、生死を超えて一貫する人間の倫理的態度、人間社会のありようが話題となる。人間はいつも未来のことばかり追い求め、現に目の前のことを大事にしないという批判があるが、恐れ、欲求、期待は我々を前に投げ出し、現在のことを視界から奪うものだ。セネカは「未来のことを気遣う精神は不幸である」といい、プラトンは「自分のなすべきことをし、自分自身を知れ」という。キケロは「愚かしさは求めていたものを手に入れても満たされないが、知恵はいつも目の前のことで満足する」という。君主の死後への遺志には従属と服従を要求するが、王の欠点をよく知りそして仕えた栄誉を人々から剥ぎ取るものではない。皇帝ネロへの反逆者は、皇帝の価値は知りながら愚かな行為を決然と憎んだのである。どのような人間も決して幸福とはいえない。なぜなら死んだ後でないと幸福かどうかわからないからだ。ギリシャでは埋葬するために敵に対して遺骸の引き渡しをも求めると勝利を放棄したとみなされる。勇敢な王の骨は戦いの守り神となって戦場へ引き出される。自分の死後の墓や葬儀について、事細かく指示するのは虚栄である。習慣に任せればいいのだ。モンテーニュはアテネの民主主義の非人間的腐敗から民主制に対して憎悪を抱いている。戦場で勝利した後、味方の遺骸を収容すべきか、敵の敗残兵を一掃することを優先すべきかで、将軍は苦慮したという。

A 一方の利益は他方の損だ  (第1巻 第22章)

アテネのデマデスは埋葬品販売商の儲け方を罪に問うた。しかしそれは正しいとは言えない。何故なら他の者の損の上に経済行為が則っているから、これを禁じたらすべての商いはできなくなる。はたして詐欺まがいの利と損だけが経済行為ではないので、是非モンテーニュにアダム・スミスの「国富論」を読ませたい。

B 習慣について また受け入れられている法は簡単に変えない方がいいこと  (第1巻 第23章)

習慣の力の強さを語り、国家の法の変更は好ましいものでないと説くが、加筆においては習慣と変革の相対性を示して現状の再認識をを説き、やみくもに改革論ありきの有害無益を結論とした。子どもの教育や思考の働きまで論が及ぶ。「習慣はすべてのものごとについて最も有効な教えを垂れる教師である」とプリニウスはいう。我々の最も大きな不満は、柔軟な幼年時代にその癖がつくからなおさらである。習慣でものを言っているのは第1にその本性であり、第2にその行為そのものである。子供の遊びはただの遊びでは済まない。特に賭博行為である。悪徳が身に染みるからだ。世界にはいろいろの発展段階の民族の習俗がある。そのさまざまな形態にはただ驚くばかりである。ようするに習慣が行うことができないことは何もない。良心の法則は自然から生まれると言っているが、ほとんどは習慣に素がある。政体も同じように、王制になれた人民は君主制による支配を非合理とは考えないのだ。人肉を食べる習慣がインドにあった。恋愛や貞潔の美徳も習慣から説明することができる。商取引も習慣による。法体系・裁判も一人一人が自分の占めている場所の規則を守ること法全般の規則である。慣例の追認はイギリスの法の特徴である。モンテーニュは改新という言葉が大嫌いだ。そこに由来する有害性を見てきたからだという。国家に動乱を与えた人々はまず最初に崩壊の渦に巻き込まれ、動乱の果実は彼らの手に落ちないで誰かが漁夫の利を占めるものである。改新の言い訳はどれ程優れたものであっても非常に危険である。だから古いもののどのような改新も賞賛されたものではない。キリスト教は最高度の正統性と有用性のすべてを備えている。自国の政体と法律っを変更するするものは、判断する権限を奪い取り、廃止するものの欠点と新しく導入するものの長所を見比べる力を自分に持たなければならない。公のこれまで運用されてきた制度や規則を、特定の個人・グループの思考に委ねることは、非常に不正なことだ。

C 古代の人々の節約について  (第1巻 第52章)

プルタルコスら古代の作家の作品をそのまま引き写した短編です。ローマ軍のアフリカにおける大将レグルスは、カルタゴと闘って数々の勝利を得たが、ローマに残した土地の管理と妻のことを心配し、国家にその保護を求めた。確かな管理者に財産を管理させ、妻と子供は公費で養われるようになったという。大カトーは執政官としてスペインから帰国する時、馬を売って海路の代金を賄った。公務を行う役人を連れて徒歩で行くという節約家であった。政府高官の節約ぶりを淡々と拾っている。不正でなければ私腹を肥やすという非難にはならない。サラリーマン節約物語である。

D 良心について  (第2巻 第5章)

主題の「良心」は「意識」と訳するも可である。1560年代の宗教戦争でフランスは三つ巴の混乱した勢力の闘争となっていた。貴族らは自分の本心を見抜かれないよう非常に苦労し、見かけは立派な紳士として付き合っていたが、内心は戦々恐々であったという。動揺を隠しおおせない人々は、意識の働く力は我々に心のうちを暴露させ、我々自身を告発した。旗色を隠していても顔色でそれとなくわかるのである。ヘシオドスは罰は罪の犯される直後に生まれるという。良くない考えは、それを考える人間に最もよくない結果を与える。「精神が自分のありようについて意識している度合いによって、それは人の胸の中に、自分の行動に対応して希望または恐怖を生み出す」とオウディウスはいう。誇り高い人は疑惑が生まれると、自分の無実を弁護する低劣さまで身を落とすことに耐えられない。拷問の発明は危険な発明で、苦痛は無実の人々にも嘘をつくように強いる。無実の罪で拷問を加えたまま殺害する。それは人間性の弱さが発明した最も下劣な悪である。

E 我々の欲望は困難によって大きくなること  (第2巻 第15章)

1576年頃の懐疑主義的思想によって書かれた。恋愛から自宅の防備の問題に及ぶ。「どのような理由もそれと反対の理由を持たないものはない。」とビュロンはいう。セネカは「物事を失ったのと、それを失う恐れを抱くのは同じ程度に苦しい」という。どんな幸せも確実でないように見え、なくなりはしないかと心配するだけ、いっそうそれを大事にするのである。我々の意思も反対の要因によって掻き立てられる。セネカは「快楽は我々を遠ざけるものがあれば大きくなり」という。何かを禁じられる時欲望が起きるのである。それは恋愛、性愛に共通した特徴である。飽満は鈍い、ぼけた、疲れた感覚をうむ眠り込んだ情念である。許されたことには魅力は無い。許されない恋は燃え上がるのである。盗人もこれに似て、錠のかかっていない家には見向きもしない。防御は攻勢を呼び、挑発は攻撃を呼ぶ。今の安全保障で「抑止力は攻撃を呼ぶ」と言い換えることができる。防御は戦争への備えではなく、戦争への挑発である。

F スブリナについての物語  (第2巻 第33章)

紀元前1世紀のエトルリアの青年スプリナの神話を介して、カエサルの性質、行動についての評価が行われる。理性と野望が主題である。哲学が理性にたいして我々人間の魂を制する最高の力を与え、我々の様々な欲望を押させる権威を持たせる。欲望の中では恋愛ほど強烈なものはない。体と理性の両方に働きかける。体を痛めつけることで欲望を抑える習慣があった。釈迦さえ煩悩を断つことに苦労している。カエサルは欲望に入念な配慮をしたという。カエサルは4回妻を取り換えた。エジプトの女王クレオパトラ、マウレタニアの女王エウノエ、ローマでは人妻ポストゥミア、ロリア、テルトゥオ、ムティアと恋愛関係を持った。ブルートゥスはカエサルを父として生まれたようだ。漁色家で軍人であったことは明白であろう。英雄色を好むという喩もある。カエサルの快楽を求める行為は、野心という機会ができた時は一瞬の遅滞なく最高の力をふるって、すべての情念を抑えた。彼は食事については子の身をうるさく言わなかった。カエサルに抵抗した者たちに対する彼の温厚さと寛容さは例を挙げればきりがない。しかしこの見事な性質はあの野心の前には押伏せられた。トスカナの美貌の青年スプリナは人に混乱を与える自分の身体を苛み傷をつけたという。

G もっと優れた男性たちについて  (第2巻 第36章)

詩人、君主、武人といった3つジャンルにおいてモンテーニュが敬愛する人間を選んで論考した。詩人にはホメロス、国王にはアレクサンドロス大王、武人にはエパメイノンダスを選んだ。詩人のホメロスはウエルギリウスの案内役であり、先生だった。ウエルギリウスの「アイネイス」はホメロスの「イリアス」から材料と形を継承している。盲目であり貧乏であった彼が学問知識が規則正しく構成される前の社会にあって、学識を豊に身につけ、のちの人に完全な師範となっている。ホメロスは詩人として最初の人であり最後の人と呼んでもいい。アレクサンドロ大王はホメロスから軍事行動の規範を受け継いだという。トロイア、ヘレネの戦いを知らない人はいない。ホメロスの生誕地として7つのギリシャの都市がが名乗りを上げている。次に大王としてはアレクサンドリア大王を選んだ。大王は33歳という若さでペルシャからインドまで広大な帝国を築いた。何か人間を超えた武勇と幸運が想像される。死後は世界を4分して将軍に分けて長く帝国が持続した。彼の品行には非難を加えることはできない。なるほどあれだけに偉業を正義の規則だけでは説明できない。そういう意味であのカエサルよりアレクサンドロス大王を上げた理由が分かるだろう。カエサルには自分自身要素がおおきく、アレクサンドロスには運命の要素が大きい。あるいくつかの点ではカエサルの方が偉大だったと思われる。カエサルの野心は彼の帝国が破滅したため割り引かなければならない。第3の武人ではギリシャのテーバイの将軍エパメイノンダスを挙げる。彼の武勇の徳はアレクサンドロス、カエサルに匹敵する。ギリシャの第一人者として、彼の学識、知力が優っていた。彼はピタゴラス学派び属する人間である。彼の品行と良心は政治に携わった人の中では群を抜いている。スキピオも取り上げたい武人である。

H 高い身分の具合の悪さについて  (第3巻 第7章)

王侯の身分にあるものはその特殊性によって通常の社会関係の外にあり、本当の人間関係を築くことはできない。モンテーニュは「中位の人間」として位置づけ、そこで人間の実質を深めたいという。今でいえば中間層の生活が理想ということだろうか。王侯貴族はその高い身分から容易には下層に転落することは無い。従ってさまざまな困難を伴うが運命が振り当てた中程度の段階に満足し、高い身分から遠ざかった状態に甘んじることはさほど困難な事ではない。私は欲望を押さえ忍耐の方向へ向かいたい。大きな規模の野望は無いが、それ相応の開けた心、その弱みを思い切って公表するつもりである。私は能動的な場合も受動的な場合も、支配という言葉が嫌いだ。世の中で最も難しい仕事は、王としての務めを立派に果たすことである(ノーブルオブリージ)。これほどに度外れた大きい権力の場合、節度を保つのは難しいことだ。名誉や人間的価値を争うことは、高い身分の人には全然できないと考えられる。誰しも彼のために服従し、席を譲るからである。したがって本当の人間的な誉め言葉というものをほとんど知ることは無い。王位にある者はそういう世界しか知らない。それだけでなくあらゆる不徳・不品行も信用を受ける事態がみられる。(寓話 裸の王様)

第2グループ 「他者とかかわる」

@ 孤独について  (第1巻 第39章)

モンテーニュがボルドー最高裁判所判事の官職を辞した直後に書かれた章である。古代ローマの主題から個人生活の場を守ること、とくに社会関係から離れて精神の自由を確保することを説き、モンテーニュの立ち位置を決めた論考である。ピアスの「一番悪い部分が一番大きな部分である」というように、一番多い邪悪な人の真似をするか、彼らを憎むかどちらも危険なのである。賢い人はどこでも満足して生きて行ける。孤独の目的は悪い人に交わることを避けるためである。それによっていっそう悠々と楽な気持で生きてゆくことだ。様々な心配事を運び去ってくれるのは理性と知恵である。場所を変えたとしても我々は自分と一緒に鎖を引きずっている。悪い魂の自分を引きずっているだけのことである。欲望からおこる激しい心労が不安な人間を引き裂くのだ。我々は他人に結び付けているすべてのつながりから引き離し、好きなように生きることができるようになろうではないか。良識ある人間は自分自身を保っていれば何も失ったことにはならない。日常的な我々の行為のうち、本当に自分に関係するものは一つもない。世の中で一番大切なことは、自分自身の良心に従うことである。人は老年になるほど無用な重苦しい存在に変わるものだが、自分の理性と良心を尊重し恥ずかしくない生活をすればいいのだ。いまある偶然の好条件がいかに基礎の無い話であるかよく心得て、願望を少なくして生きることだ。ホラティウスは「自分が事物に従うのではなく、自分が事物の主であること」をいう。物にとらわれたり縛られたりしない生き方である。キケロは「公の仕事をやめ、一人になって自分の書き物によって永久の生命を得る」といった。しかし死んでからも名声を期待するのは矛盾である。幸福に満ちた来世を求めるという信仰の強さが、孤独の中で悦楽と至福に満ちた生活を送ることができる。その時健康こそが根本である。本の悦楽のあまり不健康になっては本も子もない。最後は医学に身を委ね、しっかりした生活の規則を踏み外してはいけない。名声・名誉は手放すべきで、付き合う人も少なくてもいい。少しの人でも十分だ、一人でも十分だ、仲間は少なくても楽しい世界が広がるものだ、

A 子どもに対する父親たちの愛情について  (第2巻 第8章)

主題は親と子の関係であり、それが愛情、相続・譲渡、教育の問題として具体的に論じられ、最後に作品を遺す行為を語る。モンテーニュがエセーを書くいきさつを、孤独が引き起こす憂鬱な気分を払しょくするため何かものを書くことに手を染めてみたが、私は他の材料が空っぽでに私自身を書くことにしたといいます。この章はフランスの貴婦人に宛てた書簡の体裁をとっています。未亡人とご子息の愛情を主題にした。アリストテレスは愛情は獲得するより与える方が難しいといいます。我々の存在は我々の生命を犠牲にすることによって存在し生きることしかできない。子供たちには我々の家庭の仲間として、家庭の仕事を管理し、財産を共同で管理するようにしなければなりません。一つの魂を教育するに当たってはあらゆる暴力(鞭のような)を退けます。拘束と厳しさには抵抗があります。その魂を高潔さと自由闊達さで満たしてやりたいものです。モンテーニュの時代男性の結婚適齢期は30歳以上と考えられていました。子どもが大きくなったなら、若者に席を譲らなければなりません。親として自分の家の栄誉と秩序を後継者の手に置く努力を進め、彼を未来に向けて導くことです。彼の傍らで、我が家の一画で、最高に気分よく生きることです。老年には欠陥も出来ないことも多いのですが、身内からの愛情を受けることが最高の贈り物です。憂鬱と疑心暗鬼は老人がややもすると自分ではまり込むものです。そして高貴な家の主人は使用人に非常に騙されやすい存在であることが分かります。法律に則って家の管理をの責任を行使する年齢に達していない間は、母親がその管理を引き受けることは理にかなっています。とはいえ子どもたちの裁量に全く任せるというのは、自然に反すると思われます。死去の場合法律の規則によって財産の分配になります。共通一般の法(民法)から大きく離れることはできませんが、男性優位の相続に傾きすぎています。あなた方の財産は家族に属しています。個人利益は全体の利益に譲る必要があります。財産を遺すという意味で、作品に対する愛情について述べます。昔ローマにラビエヌスという将軍がいました。ポンペイウス派に組してカエサルに敗れて死刑になりましたが、彼の書き物までが焚書の刑になりました。こういうことが慣例になりました。しかしエピクロスは後世に残す学説の正しさを信じてなくなりました。私はエセーを子供に残します。誇りをもって自らの書物を子供に残すことも一つの遺産です。

B 有用さと公正さについて  (第3巻 第1章)

宗教戦争に揺れるフランス 社会において個人の行動の在り方、倫理と政治のかかわりを事例を挙げて検討し、実利のみを目指す行動は欺瞞、虚偽とし、人間性の根本に根ざす誠実公正な慎重な仕方をベストとした。人間は公でも個人でも不完全さに満ちている。ローマのティベリウス帝はゲルマニアのアルミニウスの毒殺許可伺いにノーといった。効用だけを考えれば戦争ではどのような手段も許されると考えられるが、公明正大な方法を表明している限り隠密な手段は許可しなかった。公の利益は、裏切り、嘘、虐殺、支配を要求するものだが、それは弱い人間に適用されるものらしい。以下倫理と政治のかかわりを数多くの事例を挙げて検討している。要するに卑怯な手を用いても「勝てば官軍」でいいのかという問いである。個人の徳はなんの歯止めにもなっていないのが歴史だといわんばかり。マキャベリの政治力学の片方の側面だけを見たものである。

C 自分の意志を大事に使うことについて  (第3巻 第10章)

ボルドー市長職の体験に基づき、個人の生活と社会における職務遂行との関係について論じた。自身の誠意から発する判断と行動、納得と安心、普遍的見地からする人間理解、制度と党派を超えた発想などを軸に説明する。50頁の長文からなる章である。世間一般の人に比べると、私の心に触れる事柄は多くない。事柄に深くのめりこまないように努力しているからだ。人は苦痛と快楽の中間で身を保たなければならない。私は仕事を嫌い、暇のなかにいるように生まれついている。私の精神は動揺しやすく。他の人のような緊張や警戒心に耐えられないからである。どれほどの義務を自分自身について果たさなければならないかよく心得ている人々は、充実した少しも楽でない任務に委ねることをはっきり知っている。彼らは仕事をするために仕事をしている。それは能力と身分の高さのしるしになる。私はそれとはまったく反対の気質である。ボルドー市評議会の人は私を市長に選出した。市長を2期4年務めたが、このような高貴な人々の仲間に加えられたことは私の誇りとなった。こに名誉はは父の気質を引き継いだものである。他の人々のそして世間の経験を自分に対して適用すべきであること、そのためには義務任務を公の社会に対して果たす必要があると心得ていた。欲望や精神の緊張に振り回されることなく、私は自分を少しも捨てないで公の任務を遂行できたと思う。衝動はあらゆる物事に良くない結果をもたらすが、自分の判断力しか用いない人はその害が少ない。いらだちや急ぐことは、遅れの原因である。市長時代から大きな変化があり、私にはもはや新しい慣れていないことに飛び込んでゆく状態には無い。世から去ってゆく私という人間は世間の人々に交わる智恵として私が学んだことを次の人に譲りたい。精神が下落するには力はいらない。(人生下り坂が最高)時間は私を置き去りにするので、私には何もいらない。運命が習慣となり、自分の本性にもなった。私の場合、市長の任務とモンテーニュ個人とは非常に明確な区別があって、いつも二つに切り離されている。私は市長時代は無党派性を貫き、もろもろの勢力の調整に努力し混乱を避けてきた。自分の怒りと興味を用務の範囲を超えて適用する人がいるが、怒り憎しみが個人的なところからきていることに気が付くべきだ。一般の人民が節度なくやすやすといいように引き回され彼らの指導者の気に入った目標に向かって引っ張られてゆく驚くべき様相を見てきた。我々の情念や利害の後を追ってあまりに突き進んではいけない。ひとかどの教養人は疑わしい点の多い用務や係争の中には頭を突っ込んではいけない。入り込んではいけないのに、どうしてその進行を止めることができるのか。一度理性から外れると、情念が自分で自分を駆り立てるのだ。動乱は滑稽な撮るに足らない動機から生まれるが、情念は状況に応じて抑制されることは無い。様々な情念は鎮めるのには困難である程度に、避けるのには容易である。すべてのものごとの始まりは、力に乏しくかすかである。事の起こりにおいて私の反応は鈍く、気は入っていないが、無能力とは違う。過敏に反応してことを大きく煽らないためである。野心が義務の上に混ぜられた義務の遂行は極力避けてきた。この野心という病癖は強力で充実した魂の中にある時はそれなりの理由が立つが、有象無象のちっぽけな魂には有害以外の何物でもない。

第3グループ 「ひろがる時空」

@ 人食い人種について  (第1巻 第31章)

技芸、文明の発達していない世界に生きている野蛮人(新大陸 中南米諸国)たちに自然本来の人間性が保たれているという野蛮人擁護論であり、ヨーロッパ文明への痛烈な批判である。「人食い人種」cannbalesは「勇敢な種族」という意味を持つ。この新大陸の住民たちには、各々が自分の習慣にないものを「野蛮」と呼ぶというのでなければ、野蛮で未開なところは何一つない。その地にも宗教はあり、完全な政治体制があり、すべての事柄に完成された習慣がある。自然の生み出したものを野生というなら、かれらは野生」である。人工の文明を「野蛮」と呼んで当然である。自然のままで洗練されていないその国の果実は我々のものより素晴らしいように思われる。プラトンは「すべてのものは自然か人工かによって作られ、最も素晴らしいものは二つのどちらかによって、最悪のものは後者によって作られる」という。彼らは神々の手から今出てきたばかりの人々なのだ。かれらの倫理の知識体系には、戦いの際の固い決意と妻への愛情の二つしか含んでいない。彼らの戦い方は、裸で立ち会い、武器は尖らせた木の剣以外にない。最後は殺戮と流血で終わり、戦勝のしるしに自分が殺した敵の首を入り口に飾る。捕虜は丁寧に扱い、殺した後は肉をあぶり焼いて食べる。ポルトガル人の残虐さには彼らが驚いた。ストア派のゼノンは、包囲によって孤立し食べるものをなくした部族内で死肉を用いても食べてもいいといった。彼らは新しい土地を征服するために戦うのではない。自然に恵まれた彼らは食べ物に飢えてはいなかった。土地や財産は共有であった。戦いで得られるものは、勇敢さと徳だけであった。彼らは西洋人によって撃ち殺されたが、負けたのではない。

A むなしさについて  (第3巻 第9章)

個々の問題について十分に検討された「想念の群体」であって、思考の論理体系を探ることも個々の思想の価値を抉り出すことも適当とは思えない、エセーの中でも典型的な総合的なエセーである。120頁の長大な章をなし、この章だけで1冊の本である。この章の題名は旧約聖書「コヘレトの言葉」である「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」からきている。これはモンテーニュは「エセー」を書くという行為の自嘲かもしれない。運命は私を非常に低い位置に置いた。何一つ誇るべきものは無い。このエセーは年老いた男の精神の排泄物かもしれない。私の無為、愚劣、空虚は時代の腐敗した情況の結果であろうか。今フランスは内乱の時期にあって、その時だからこそ私はたくさんものを書いた。強い連中はその力によって裏切り、弱い人は不正、暴政、貪欲、残虐、不徳のの餌食となる。弱い人間は自暴自棄になって堕落してゆく。人々は他のものに目が移り、変動と変化を好むようになる。貴族の領分の経営はくるしくなり、私は拡大も浪費もしなくなった。ずっと家にいるので家系の助けになっている。もともと動き回ることが好きではないので、旅行の出費もない。私は一般の人より多くの知識を持ってるし、忍耐力もある。それで自分の材料となる題材を次々と引き寄せ積み重ねていって自分を太らせている。現在住んでいる家は父が建てたものだが、私はそれ以上に完成させなかった。特に博学を志すわけではなく、様々な思考は有用で愉快であればそれで十分に真実で健全であると思う。父はいろいろな欲求を自分の身分の身分に合わせ、持っているもので満足するという幸福な人だった。私は立派な職業は、公衆に奉仕し大勢に人にとって有用な人間であることだ思う。しかし私は能力に限界がありプラトンと同じように公衆に奉仕する仕事は手控えている。私の子どもで育ったのはたった一人の娘だけであった。老年の私の面倒を見てもらえる婿さんを探している。家の召使には、私が家政について何も知らないので、ある程度不明確であってもかまわない。落ち穂拾いの取り分だと思っている。守銭奴の気づかいと苦労ほど高くつく者はない。呑気にこだわらずに時を過ごす事しか求めていない。しかし人に養われる奴隷根性は嫌いで、苦痛と同じように貧乏は嫌いだ。人間社会は互いにつながり縫い合わされたものだ。秩序もなく袋に投げ込まれた不揃いの物体が、互いにつながり合い、いい位置を占め合う仕方を自分たちが探すのである。宗教にしろ、国の政体はその下で今まで保たれてきた政体である。その政体の形と本質的な使い勝っては慣習に依存している。改新ほど一つの国家をおしつぶすものはない。変化は国家を揺り動かし混乱させ、不正と暴政の温床になる。改新によって全体の状態がよくなる保障はなにもない。プラトンもいうように、一つの国家の体制は、強力で崩壊しにくいものだ。致命的な内部の不正や悪法にも、圧政にも、役人の腐敗や無知や民衆の勝手気ままさにも耐えて続いて行く。ソロンは「今ある不幸を全部あつめて各自に分配するより、今の自分の不幸の方がましだと言うような人は一人もいない」という。新しい不幸を背負うだけなのに。ローマ帝国は一番病んでいたころが一番繁栄していた。皇帝制の最初のころは、秩序なく領土を広げ、不正な征服によって、政治体制といえるものは認められなかった。それはしっかりした基礎を持っているというより、自分自身の重みによって安定していたのである。私は自分に対してする断罪は裁判官のそれよりもっと激しく厳しい。私の良心の締め付けはもっと厳格なのだ。情愛によってしていたことを正義の名で行うとずいぶん気が楽になる。私のあり方以上に自由で負債を負っていない人間はない。私が負っているものは世間一般の自然本来の義務である。私は誰からも恩恵を受けないように願い求めている。死ぬまで自主独立精神が続いてほしい。他の人に従属するということは、哀れな危ないことである。与えることが野心を抱く性質なら、受け取るということは従属の性質である。自分を鍛え、私がすべてから見放されるようなとき、自分を満足させるものを見つけようとする。軽重を問わず人の好意にすがることになる前に、自分の力でやってみることである。他人に善を施すことは少なかったが、それは実りの無い行為であった。私は頭を下げたまま死を考えることもなくただ茫然と死の中に飛び込んでゆこう。生は長ければそれでいいということではなく、死は長くなければ一番いいのだ。死ぬことに信頼を寄せたい。老年の力と身の程を超えて、モンテーニュは、旅行、家事、家政、家庭、夫婦、愛情について回想を行う。私はベットの上より家の外で死にたい。兎のようにこっそり隠れて死にたい。落ち着いた、まったく自分のものだけの個人的な私の生活に似つかわしい死に方なら満足する。私の死は周りの人の嘆き悲しみの対象ではない。健康が崩れ落ちるようであっても、生きてゆくうえで様々な考えを退ける必要もない。死ぬ前日まで世間話をしていたい。生命の長い時間をだらだらと力なくたどる羽目になっても、世話を要求して家族を困らせたくはない。いやな我慢のならない存在になりたくはない。老衰は孤独を求める資質である。世間の目に触れないところに引っ込み、自分の殻の中で思いを巡らすのが最後の務めである。公証人や後見人は医者以上に必要ない。私はこのエセーをほんの少しの人のために、ほんの少しの年数だけ持たせばいいと持っている。他の重荷は無くとも、たぶんそのことだけで十分と思われる死を待ち受けている。あらゆる不快さから脱却した死はあるのだろうか。アントニウスとクレオパトラの「楽しく共に死ぬ会」では、宴会遊戯会話の中で死んでいった。キケロは「人生を支配するのは運命であり智恵ではない」といった。死んでゆくとことは誰を愉快にするわけでもなく不快にするわけでもない。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system