司馬遷 「史記」7    思想の命運

西野広祥・藤本幸三訳   徳間文庫(2006年4月15日初版)

春秋の時代孔子は徳治主義をとなえ、人間の倫理的向上によって社会に混乱を救おうとした。彼は広く弟子を集め教育して思想の普及に努めた。ここに儒家と言う中国最初の思想的学派がうまれた。戦国時代には儒家の批判者として墨子が現れ墨家をつくった。こうして戦国時代にはさまざまな学派が形成され「諸子百家」と総称された。百家争鳴の時代とも言われる。戦国の四公子として有名な斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君はそれぞれ多くの思想家学者を抱えていた。斉の国都臨?には「稷下の学」と言う学問所が設けられた。王候が彼ら思想家を養ったのは学問のためではあるまい。戦国の世に生き抜くべく有能な人材を確保するためである。戦国の時代に活躍した主な思想家を次に列記する。

孔子は氏族社会の解体によって周王朝の封建社会の基礎が崩れてゆく激動の時代に時代錯誤的な周王朝の徳治主義の復権を夢見たわけである。従って殆どの王候は彼を相手にしなかった。それがどうして漢の武帝の時に国の教えに変容したのか。秦の時代には焚書坑儒が起きた。これに恐怖した儒者たちは自分のほうから体制側へ擦り寄って行くのである。儒教の思想内容に根本的な変化が現れたのは、荀子によって名分論が注入されたことで、儒教は支配体制擁護の思想に変容した。そこを武帝が君臣関係、親子関係、社会関係の階層的服従を固定化するために利用した。国を治めるのは基本的に法治主義であるが、倫理主義のもつ統治効果に注目して、むき出しの法治主義を粉飾しもっともらしい理屈を付けてくれるのが儒家であった。思想の皮肉さは、孔子の惨めな理想主義の失敗に関係なく、後世の儒家が体制擁護理論に変容したお陰で、孔子は聖賢にもなり儒教が繁栄したことである。

儒家:孟子、荀子
墨家:墨子
名家:恵施、公孫龍
道家:荘子
法家:商鞅、申不害、韓非
縦横家:蘇秦、張儀
兵法家:呉子、孫子
T喪家の狗    孔子一門

春秋時代の紀元前6世紀から5世紀にかけて活躍した思想家が魯の孔子である。はたして孔子は聖人なのであろうか。司馬遷は孔子を野心満々ながらなかなか成功できない人間として捉えた。しかし司馬遷は「孔子世家」を設けて王候貴族なみに別格扱いしている。魯の政治秩序が崩れ始めた頃、孔子は35歳であった。魯を出て斉の景公に仕えようとしたが宰相晏嬰が「儒家は楽礼がどうとかこうとかうるさいばかりで無用の長物だ」と反対して沙汰止みとなった。魯に帰国して十数年は弟子の教育と詩書礼楽の研究にうちこんでいたが、孔子50歳の時魯の反乱軍公山不狃から誘いがかかったが子路の抗議で取りやめ、定公から宰に任命された。実績が上ってさらに大司冠(司法長官)に抜擢された。斉から狭谷の会盟に誘い出されたときには定公をよく守った。そして宰相も代行するようになったが、斉の色仕掛けに定公が乗ってしまったため孔子は絶望して魯を離れ衛に入った。こうして孔子と弟子の十数年にわたる諸国放浪が始まる。衛で職を得たが讒言するものがいて身の危険を感じた孔子は10ヶ月で衛を離れ宋に向かった。宋では盗賊に間違えられ拘束されたが何とか脱出した。再び衛に舞い戻り衛の霊公からお声がかかったが、この霊公の女好きに見切りをつけて、曹から宋へ入った。宋では武官桓?に殺されかかったので鄭都へ逃げた。そこで宿無し犬「喪家の狗」とさげすまれた。陳に3年ほど住みついたが、陳に晋と楚がせめこんで物騒になってきたので衛に入ろうとした。ここでも拘束されてかろうじて脱出し衛に入ったが、衛の霊公は政治を怠りがちだったので蔡に入った。蔡では三年間いたが、呉に攻められた陳を救援するため楚が陳に赴いた。楚の王は孔子を招聘しようとしたが、陳と蔡の大夫は孔子の採用に恐怖して孔子を殺害しようと包囲した。楚の救助で助かった孔子一行は楚に入ったが、宰相子西の猛反対で実現しなかった。孔子は楚を去って衛に戻った。既に63歳になっていた。孔子の弟子で勇猛で知られる子路は衛の大夫の代官になっていたが、荘公の反乱に巻き込まれあえなく殺害された。魯に戻った孔子は自説を用いるものが居ないことにすっかり絶望して「ああ、私は天から見放された」、「ああ、私はもうこれまでだ。誰にも理解されずに世を終えるのか」とつぶやいたと言う。何かを残さねばならないと孔子は春秋の執筆に取り掛かった。「春秋」は魯国の史書ではあるが夏、殷、周三代の事跡を論断したものである。そして孔子は73歳で病を得て世を去った。

孔門十哲とは顔回、閔子騫、冉伯牛、仲弓、冉有、子路、宰我、子游、子夏である。なかでも孔子の愛弟子は顔回と子路であった。顔回は貧乏であったが、師の教えを最もよく理解し、高遠な道を説く孔子に受け入れられないけれど何処までも理想の道を歩むことを薦めた。僅か三十三歳でなくなった。子路は粗野で勇猛の士で何回も師の危機を救った。衛に仕官したため内紛に巻き込まれ剛直な性格から惨殺された。浮世離れした孔子一門のなかで、最も現実的な政治家、実業家が子貢である。孔子の経済を支えたのも利殖の才がある子貢である。子貢は弁舌が巧みで外交官、論客として呉、晋、越、斉を行き来してうまく相互を戦わせて魯を救った。司馬遷はこの子貢に大いに活躍させている。こんな現実的な策謀家がなぜ孔子一門に居たのか理解に苦しむ。利殖の才がある点は越の宰相だった范れいと共通する異色の逸材であった。

U宿命を帯びて

戦国時代に諸国に活躍した諸子百家の代表の生き様を簡単にまとめる。

1)老子
道家の祖が老子である。無為、心を無我の境地におく主義は、いまも東洋思想の根幹として生きている。ただ老子の言や実在したかどうかはきわめて曖昧である。孔子を批判して「真の君子は徳を外に出すことなく愚者のような顔をしているもの。あなたは欲望、気取り、邪心が見えすぎる」と言ったという。世の老子を学ぶ者は儒学を排斥し、儒学の徒も老子を排斥する。「道同じからざれば、ともに謀らず」という。

2)荘子
道家の流れを代表し、比喩や寓話を用いて儒家や墨家を論難した「荘子」は名文だ。考えが茫洋として王候は使いようがなく、彼も決して仕えようとはしなかった。自由人が理想の境地であった。

3)孟子
「孔孟の教え」といわれるように儒家では孔子についで重要な人物である。著書「孟子」は「論語」、「大学」、「中庸」とともに儒教の四書のひとつである。孟子は所謂性善説で王道の政治を説く。彼が生きた時代は合従連衡に奔走した論客が重視され、孟子の説を聴く人はいなかった。

4)荀子
戦国時代の儒家であったが、孟子と違い性悪説にたって善導を説いた。斉の蔡酒(大学長)になった。彼の弟子には李斯がいるが、秦の宰相として法治主義の代表である。

5)すう衍
実に奇抜な屁理屈で大宇宙から人間関係のありようを説いた。所謂陰陽師である。煙に巻かれる人も多かった。

6)孫子
「孫子の兵法」を書いたのが呉の孫武である。呉の将軍になって、楚、斉、晋を脅かしたのはひとえに孫武の力による。

7)孫びん
孫武の死後百年しれ孫びんが出た。魏の将軍ほう涓の謀略により足切りの刑を受けたが、斉の将軍田忌の軍師になった。魏は趙と結んで韓を攻めたが、斉は救援に向かった。山侠に誘い込んで魏軍を待ち伏せしてついにほう涓将軍率いる魏軍を殲滅した。いわゆる個人的な報復戦になったが、これで孫びんの名は天下に知れ渡った。

8)屈原
司馬遷は並々ならぬ情熱をこめて屈原の死にいたる過程を記述している。これは自分の運命と屈原を重ね合わせることで自分を書いたといっても過言ではない。さほどこの「屈原買生列伝」「任安に報ずるの書」とあわせて司馬遷著述の白眉である。古典文学の傑作といわれる「離騒」の作者屈原は楚の清廉潔白な政治家であった。同僚の妬みから讒言に会い左遷された。楚の懐王は秦の昭王の策略にはめられ秦で憤死した。いつまでたっても聖君の政治が実現できないのは、君子が賢者でなく、忠臣が実は忠臣でないからである。楚では頃襄王が即位し子蘭が執政になった。子蘭は屈原を目の仇にして江南に追放した。屈原は「懐沙の賦」を作って汨羅に身を投げて自殺した。

V状況に生きる

思想家として名を残すことがなくとも、それぞれ独自の思想を持って特異な生き方をした人々がいる。論客の魯仲連、儀典学者の叔孫通、孟子説の革命論儒者の轅固生、方士(占い師)の李少君と文成、詩人政治家の司馬相如、無為の東方朔、易者の司馬季主、名医の扁鵲をとりあげた。 

1)論客の魯仲連
奇策を縦横にめぐらす切れ者であったが、報酬は一切受け取らなかったことで有名である。秦が長平の戦い(BC260)で40万の趙軍が殲滅され、邯鄲が包囲された時、諸侯からの援軍は形だけで秦と戦おうとするものはなかった。魏王は趙に使節を送って秦が帝を称することを承認すれば秦は兵を解くはずと趙王と平原君に進言した。魯仲連は魏の使者を説き伏せ、魏の信陵君の進撃により秦は撤退した。平原君は魯仲連の千金を差し出したが、魯仲連は受け取らなかった。またその二十年後燕が斉の聊城を攻め落として占領した。斉は田単将軍が奪還を計ったが一年経っても攻め落とせなかった。そのとき魯仲連は燕の将軍に手紙して、燕に疑われた将軍の胸のうちを読んで進むも地獄退くも地獄と悟らせ自殺に追い込んだ。田単は魯仲連に爵位を贈ろうとしたが彼は姿を消して現れなかった。

2)儀典学者の叔孫通
叔孫通の学者官僚としての生き方の一例を示そう。ひたすら追従で出世し、漢の儀礼を制定し漢文化の基礎を築いたといわれる。かって仲間の学者からあきれられるほどの追従で秦二世皇帝のご機嫌をとった。叔孫通はさらに項梁・項羽に仕え、漢の高祖に仕えた。漢の天下統一がなると叔孫通は高祖に朝廷の儀礼を制定することを提案し、訓練をつんで高祖を感激させ「今日始めて私は皇帝の偉大さを味わった」と言わしめた。この功で儀典長官に任じられた。そして太子の教育係りになったが、高祖が太子を廃嫡して、寵妃戚夫人の子如意を跡継ぎにしようとしたが叔孫通はこれを諫言して翻意させた。

3)孟子説の革命論儒者の轅固生
轅固生と黄生が漢の景帝の前で論争した。博士轅固生は孟子の革命説に立ち、道家の学者黄生は名分論から死覇者の絶対的権威を認めて既成秩序の維持を主張した。政権交代の必然性を肯定するか、それを反逆と見るかは、現実問題として漢が秦に取って替わった事績の評価になり、皇帝の前では議論できないことだった。学者宰相の公孫弘にむかって轅固生は「曲学阿世の徒」となるなと皮肉ったことは有名である。

4)方士(占い師)の李少君と文成
方士というのは不老長寿という人間の欲望に付けこんだインチキ商売であったが、医薬、天文、占いなどの技術者でもあった。秦の始皇帝や漢の武帝は晩年これに取り付かれたが、結局徒労に終わり文成はインチキがばれて処刑された。

5)詩人政治家の司馬相如
司馬相如は漢代の詩文の第一人者と称せられるが、異民族平定にも功があった政治家で侍従長に出世した。中国の政治家・官僚像としては詩文の教養は必須と見なされる。ここまでに出世するために司馬相如は大変苦労したようだ。買官制度で恵帝の侍従武官を買った司馬相如は「子虚の賦」を作るなど勉学に励んだ。国に帰って富豪の娘に手をつけ、女の家から莫大な財産を貰った。武帝に対して詩の作成に励み、「子虚の賦」を書き改め、「大人の賦」を作った。司馬遷は司馬相如の詩の内容を、きらびやかな字句を駆使し誇張した表現が多いが、つまるところ天子の行為を風刺して無為の哲学に帰するという評価をした。

6)無為の東方朔
博識多弁で機知を働かせて相手をやり込める。風刺を用いて道理を諭せば喧嘩にならないし、人から嫌われることなく安楽に人生を過ごすことが出来る。戦乱のよには賢臣・乱臣現れるが、漢の天下統一なって安定し平和な世の中では聖人も現れない。とはいうもののつねのに修養に努めていれば何時かは出世するというものだ。これままさに現代のサラリーマン社会を風刺しているようである。山に隠遁するより、朝廷に隠遁して何もせず気楽に世の中を見てすごし、時流に超然として禍を避けよという人生訓なのかも。

7)易者の司馬季主
司馬季主という易者を登場させて、官僚の生態を風刺した一章である。役人は凶器をもたない盗賊である。

8)名医の扁鵲
古代の医者は全て官医であった。民間医が現れたのは春秋の末である。扁鵲は医聖と称せられた。書いてある内容は仙術に近く、荒唐無稽で現在では信じられない。

W生き恥をさらして 司馬遷自伝

司馬遷の自伝に関しては史記「太史公自序」と6世紀の「文選」に書かれた「任安に報ずるの書」が、唯一無二のものである。「任安に報ずるの書」については武田泰淳 「司馬遷ー史記の世界」において既に記したので繰り返さない。史記「太史公自序」から司馬一族と司馬遷の自伝を述べたい。太古天文と地理をつかさどる家柄として重と黎があったが、周のBC九世紀に黎家はこの世襲の職掌をすて軍人の大司馬となり、以降司馬を名乗るようになった。秦に移住した司馬一族は鉄の生産をつかさどる官となった。無沢、喜、談と続いて司馬遷の父談は太史公になった。太史公談の哲学は陰陽家・儒家・墨家・名家・法家・道家の長なるところを折衷して。どちらかというと道家に近い見解を持った。「人の生命の根源は精神であり、その精神を宿すものが肉体である。精神と肉体が分離すれば死が訪れる。だから聖人は精神と肉体をともに重視するのである。」

父司馬談が無念の憤死をするきっかけとなった漢武帝の封禅の典礼は悉く儒者は退けられ、現代的・神仙的・通俗化した。たかが封禅の儀式に過ぎないようだが、父談は実は漢文化の堕落として徹底的に批判したかったのであろう。そして父は子司馬遷に「憤りを持って書け」と遺言した。大史令となった司馬遷は宮廷の資料室に入り万卷の書を読み出した。孔子が「春秋」を書いたのは、自分の言が用いられず、自分の道が行われないことに絶望して、王事宣明を目的として過去240年間の事跡を批判したのである。それゆえ司馬遷が「春秋」の意図を自己の意思にする以上、漢代を乱世として批判しなければならない。乱世を治めて正しきに返すことが歴史家の眼目である。李陵の禍が司馬遷をして烈しい憤りをもって史記を書かせた。

司馬遷が史記を書くにあたって、孔子の「春秋」を基点にして、これとは違う物を書きたいと願った。「春秋」は礼と義の根幹を教えるもので、乱世を治めて正道に帰すには春秋ほど適切なものはない。しかし司馬遷は春秋を作ることではない。漢の天子という名君を戴いている今の世で必要なものは、聖天子の威徳を明らかにして功臣・世家・賢大夫の功績を記録することが使命である。これは創作ではなく、事跡・故事を整理するだけだと司馬遷は述べた。李陵将軍の事件で罪を得た司馬遷が「史記」の執筆を続けるために生き恥をさらしても苦とはしなかった。古今の名著は心に鬱積した感情のはけ口を見出せない時、往時を語って期待を未来を託することで成立したのだ。

 
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