司馬遷 「史記」1    覇者の条件

市川広・杉本達夫訳   徳間文庫(2005年11月15日初版)


「史記」の真骨頂

中国には打倒した前王朝の歴史書を作ることが、新王朝の役目のようなところがあって、実に綿々と王朝史が刊行されてきた。後世の班固の「漢書」、「後漢書」などと全く異なることは、一王朝史ではなく司馬遷の「史記」は五帝以後、夏、殷、周、春秋、戦国、秦、漢にいたる通史(中華の世界史)であることだ。そして、後世の正史が時の王朝の編纂によるものであるに対して、「史記」は司馬遷一人の編集によるもので皇帝のお墨付きは貰っていない。さらに司馬選は漢の二代目皇帝恵帝を母の呂后の傀儡だとして本紀から彼をはずして呂后の「本紀」をいれた。また劉邦と覇を争った項羽には一時天下を制したと認め之を「本紀」に入れた。また秦末の反乱の口火を切った陳勝、呉広を諸侯扱いにして「世家」にいれるなど、司馬遷の実力主義(現実主義)の面目躍如たるところである。これらは漢の武帝以降儒教を国教化した形式主義がまだ司馬選を侵していなかったことが幸いしたようだ。

「史記」はBC91年に完成したが司馬遷自身はこれを「大史公書」と称した。すなわち"大史司馬遷の著書"というぐらいの意味であった。「史記」と呼ばれるようになったのは三国時代以降である。「史記」執筆の為に司馬遷が集めた史料は膨大であったとすいそくされるが、「書経」、「左伝」、「戦国策」などを材料にしていたことが分かる。従来の学説では周以降を歴史時代と見なし、それ以前を伝説時代としていたが、近年河南省安陽を中心とした殷遺跡の発掘によって、甲骨文の解読が進んだ結果、司馬遷の記した殷の系譜が殆ど一致することから殷時代は歴史時代に論じられるようになった。これは司馬遷の資料の選択が当時の合理精神を裏打ちしている。

そして「史記」の構成が、王朝の歴史である「本紀」、帝王をめぐる諸侯の家の記録である「世家」、本紀と世家で活躍した豪傑、庶民のきろくである「伝記」の3者の記録が複雑に関連しあって多角的に歴史空間を構成するという「紀伝体」という歴史の記述方式を司馬遷が考案した。この記述形式は以降の中国の歴史書の伝統スタイルとなった。

「史記」1の取り扱う時代は、黄帝につづく4人の帝王、夏王朝(BC21世紀〜BC17世紀?)、殷王朝(BC17世紀〜BC11世紀)をT聖王伝説の時代とし、周王朝の前半は西安を都とする東周時代(BC770年)と、後半は洛陽を都とする西周時代に分かれる(BC249年、秦にほろばされるまで)。周王朝が実質統治能力があったのは脂、までの東周時代である。この時代をU周の盛衰にまとめる。そして西周時代には周は名ばかりの帝王で実権は諸侯に移った。東周時代に前半を春秋時代と呼ぶ。春秋五覇といわれる大国、斉、秦、晋、楚、宗が覇王となった。また南方の呉や越の死闘も春秋時代に特長つける。それもBC403年に大国晋が韓・魏・趙の三国に分裂して戦国時代に入った。

T聖王伝説の時代

黄帝から堯、舜にいたる五帝の伝承については、司馬遷は「大史公評」にてこう述べている。孔子の書経には堯以降のことが記載されている。孔子が伝えたという「宰予門五帝徳」、「帝繁姓」については尚疑義が多いとされる。しかし「春秋」、「国語」もこの二書から多くを採用していることは明らかである。ここに諸説を比較検討し其の言葉の雅である物を択んで「五帝本紀」を記した。五帝は道教で言うところの「五行思想」すなわち「木・火・土・金・水」に五帝を当てはめたものだという説がある。司馬遷は道家の尊重する皇帝を筆頭におき、儒家の尊重する堯・舜を付け加えてあいだを血統的に繋いだものといわれている。、禹がひらいた夏王朝については「夏本紀」を置いた。夏王朝の存在は実証されていないが、龍山文化の末ごろ(紀元前20世紀ごろ)を念頭において考えてもいいという説もある。いずれにせよ黄帝は中国のアイデンティティといえる。堯・舜・禹は理想の政治家として崇められ、特に堯から舜への政権移譲は世襲によらず、徳あるものへの譲位を「禅譲」と呼ぶ。実力者への平和的政権移譲の理想である。舜の時代に天下は平定され、天下に徳が明らかになったのは舜帝に始まる。舜は禹に禅譲した。禹は粉骨砕身して先頭になって働く政治家の理想像として形象されている。夏王朝は十四代続いたが孔甲から桀に至って徳は衰え、湯が暴虐な桀帝を討伐して殷王朝をひらいた。非道の主君は既に天によって見放され資格を失っている。これを討つのは反逆ではなく正義なのである。「天命を革める」という意味で「革命の論理」の原点になった。

U周の盛衰

本書「史記」1には殷に関する記述が殆どなく、「殷本紀」からは直ちに殷の滅亡に入る。「周本紀」によると、名君文王によって国の基礎を固め衆望を集めた周はついに軍師太公望と弟の名補佐役周公旦を任命した武王によって殷の暴君帝紂を打倒した。所謂革命である。太公望を斉に、周公旦を魯に、召公を燕に、弟叔鮮を管に封じて諸侯とした。武王のあとは成王が継いだ。周王朝の功労者軍師太公望については「斉太公世家」に記されている。名補佐役周公旦については「魯周公世家」に記されているが、成王が幼い時には摂政となって国政を見た。管叔と武庚の乱を討伐して旧殷を宗と衛に二分した。そして周も十代目の脂、になると衰退の道にはいった。召公と周公は脂、を追放して、一時王のいない二人の共和制をひいたが宣王をたてた。宣王は周の中興の祖になるかと見えたが、その子幽王のとき褒?を寵愛して王子を廃嫡したため甲侯の反乱により幽王と褒?は殺されて平王が即位した。平王のとき異民族の侵攻をさけて都を洛邑に移した(BC770年)。それ以降は周は名目上の王でしかなく実力的には一小国にすぎない。代わって諸侯が覇を争う春秋時代に移行する。

V春秋五覇

春秋五覇とは斉、秦、宗、晋、楚のことをいうが、宗はもともと小国で覇者足りえない存在であったがなぜか一時的に覇者を称した。覇者を唱えた王を下に列記する。
1)斉の恒公(BC685-642)  宰相:管仲、隰朋、鮑叔      出典:斉太公世家
2)秦の繆公(BC659-621)  宰相:百里?、蹇叔         出典:秦本紀
3)宗の襄公(BC650-637)  宰相:目夷               出典:宗微子世家
4)晋の文公(BC636-628)  宰相:趙衰、咎犯、買佗、先軫  出典:晋世家
5)楚の荘王(BC613-591)  宰相:伍挙、蘇従           出典:楚世家

春秋時代にかけて斉、楚、秦、晋の四国が群を抜いて強国であった。周は名目の帝王にすぎず、覇者たる国が諸国を会盟して同盟を結び、同盟国は攻撃せず、攻撃を受けた国があれば連合戦線をくんであたった。また周を形だけの盟主としているため貢物を納めることが条件である。なかでも終始一番の強国は周の功臣太公望を始祖とする東の大国斉の国であった。管仲と鮑叔は「管鮑の交わり」として名高い。斉の恒公は名補佐役管仲、隰朋が健在の時は盟主足りえたが、管仲、隰朋亡き後は易牙という奸臣によって衰退した。

秦の登場は遅い。九代目の秦の繆公にいたって西北の雄となった。秦の繆公は晋の恵公と韓原の地で死闘を演じこれを破った。

宋は小国である。殷の祭祀を絶やさぬために封じられた国である。覇者になろうと途方もない考えを起こしたのが宗の襄公である。目夷の諫言を聞き入れずに会盟を起こしたが、楚王に捕縛された。また楚軍と泓水のほとりで戦い敗北した。身の程知らずの戦いを起こして負けた割には「宗襄の仁」として太史公は評価する。

春秋五覇のくだりで司馬遷は晋の文公(重耳)に多くのページを割いている。19年の亡命生活の末王についた。「逃げの重耳」、「待ちの重耳」と異名を持つ実に波乱万丈の生を乗り切った特筆すべき人物なのであろう。晋の献公(BC676-651)の三王子として生まれたが、驪姫の手から逃れれて諸国を転々とした。宗を助けて楚を討つため、斉、秦、晋、宗の四カ国連合は城濮の地で楚を破った。文公はこうして覇者となった。

楚は南の雄国である。成王のころにはゆるぎない一大王国となった。穆王のころは盛んな拡大策をとり戦争に明け暮れた。楚の荘王は周の定王に「鼎の軽重を問う」ことで周の権威を無視した。楚の荘王は晋軍をやぶって覇を唱えたが、霊王(BC541-529)の時代には将軍弃疾の活躍で会盟を起こしたが、呉越の力を背景とした公子比と弃疾のクーデターで失脚した。のちに弃疾が平王を名乗る。

W呉越の抗争

春秋も末期になると歴史の舞台は南方に移る。長江の中流域の楚は既に大国の地位を築いていたが、長江河口の南に起こった呉とさらに南の越が稲作の生産性向上を背景として急速に力をつけてきた。呉王は闔廬と夫差、宰相は伍子胥、一方越王は句践、宰相は范れい。互いに不倶戴天の敵として宿命的な死闘を演じるのである。日本の戦国時代で言えば、上杉謙信と武田信玄の闘争というべきか。「会稽の恥」とか「臥薪嘗胆」という名文句を残して結局は越の勝利に終わる。呉王夫差のときに伍子胥が讒言で自殺させられ、呉王夫差が黄池で会盟を起こすため留守をしたときに越王句践は呉に攻め込んでついに夫差を殺害した。ところが戦国時代にこの越も消滅してしまうのである。呉も越も戦国時代には存在しない。


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