小林秀雄全集第9巻    文芸批評の行方


ドストエフスキーの時代感覚、菊池寛論、「悪霊」について、文芸批評の行方

ドストエフスキーの時代感覚

ドストエフスキーの作品が書かれたロシアの時代背景を一覧した小論文であろう。ドストエフスキーは処女作「貧しき人々」をペリンスキーに認められて一躍ロシア文壇の寵児となったのは1846年である。第二作「二重性格者」(1846年)以降は誰も彼の天才を評価できる人は現れなかった。それほど当時の小説の常識を破った独創性と彼の性格の露骨さについていけなかったようだ。1948年のパリコンミューンの余波を受けて些細な勉強会をでっち上げたツアー専制により、1849年ペトラシェフスキー事件でドストエフスキーは逮捕されシベリアへ流刑になる。1940年時代のロシアのインテリは西欧のロマン派文学の咀嚼も出来ずに西欧派とスラブ派に別れて論戦していたが、生活と思想に根拠のないロシアの文学青年は皆こうしたインテリゲンチャの悲劇を演じた。
1850年から4年間シベリアに流刑になり、釈放後兵役に就きペテルスブルグに戻るのは1959年であった。このシベリア囚人生活は「死人の家の記録」となって現れた。おおよそ社会への抗議には無関心な、無表情な孤独と厭人の男を描いた。なぜこうした陰惨な作品を生んだのかは、この10年間のロシア思想界はアレクサンドル二世の反動期に愛国主義に変貌していた。この浅はかな情況をかれの鋭敏な個性は見逃さなかった。1960年代のナロード二キ革命とは、過酷なツアー体制では結局ニヒリズムからテロリズムへとロシア的展開をとげざるを得ないロシアの現実があった。1969年革命的秘密結社ネチャーエフで裏切り者殺人事件が起き(あるいはでっち上げられ)た。この辺の事情に精通していたドストエフスキーはネチャーエフ事件を題材に1972年「悪霊」を書いた。彼は「作家の日記」でネチャーエフ達を詭計と権勢とに対する複雑極まる感情と熱病的個性の悲しむべき歪があった。種々の動機のために心清き青年たちが忌まわしい罪悪の遂行に走るのである。そこにロシアのインテリの病理と不安を見、かつ己の経験の懐疑と精神の病理を見ようとした。
ということでこの小論文は小説「悪霊」にいたる時代背景を叙述し、次の「悪霊について」をプロローグしたものである。

菊池寛論

昭和の始めの通俗小説なぞ今では読む人もいないだろう。菊池寛作「父帰る」という劇は今でも上演されることがあるのだろうか。この小論は私にとっては今ではどうでもいいような話題である。ただ菊池寛、志賀直哉などの人が書いた通俗小説(主に新聞小説の形をとった)は100%大衆向けの娯楽読み物であった。間違っても当時流行の芸術至上主義や、告白小説、感覚派、自然主義文学などという冠はかぶっていないところが爽やかだ。そこが世の動きに超然とした大御所たるところである。菊池寛氏の作品は「人間的興味の小説」といわれる。文学的意匠もなく人生だけを知っている人の小説でさすが手堅いと評判であった。と言われてもいまさら読む気はしないが。

「悪霊」について

1870年モスクワ農業大学で起きたネチャーエフ事件を再度振り返ってみよう。1869年モスクワ大学生だったネチャーエフの手により革命的秘密結社が組織された。彼は当時スイスにいたバクーニンらと連絡を取り結社の綱領を定め翌年二月の農奴解放9周年を期して大衆蜂起を呼びかけるものであった。秘密結社も例の漏れず党組織の細部は厳格を極め、ネチャーエフらを最高委員会として下部組織は五人を細胞組織とするキャップを設けた。しかし実体は最高委員会なるものが存在したかどうか怪しいものだ。12月モスクワ農業大学生イワノフが裏切り者として殺害され死体が校舎裏の池に遺棄された。多数の学生が逮捕されたが、ネチャーエフはスイスへ逃亡した。
1973年に「悪霊」が出版された時、ドストエフスキーは献辞に「この作品は歴史研究として、ロシア人の生活の独特な土台と我々の知的発展段階との異常な不調和がこの結果となった。この小説を傾向的な立場(プロパンガンダ)より書いた。」と述べた。「罪と罰」では大学生の老婆殺しによって行った倫理的問題に関する実験をそのまま拡大して、「悪霊」において大学生の政治的革命にロシアのインテリの精神病理学的を見た。これがドストエフスキーの言い分である。
「悪霊」の主人公はスタヴォローギンである。倦怠の化身であるというよりは、罪悪、懐疑、堕落の悪のイメージは(これはドストエフスキーの十八番であったが)、「虐げられし人々」のワルコフスキー公爵、「罪と罰」のスヴィドリガイロフの系列でいよいよ強烈になり。「カラマンゾフの兄弟」まで継続した。将に作者の実験したかったのは「悪の煉獄」というものであった。ここを小林氏はこう断定した。「ドストエフスキーの創造の源泉は彼の陰惨な運命と固く結びついており、悪の思想も彼の運命の如く独創的であった。4年間の囚人生活が彼に教えたものは、どんな救いの手も必要とせず、ただ終末を待っている悪の異様さ、これを眼のあたりに見た者の謎めいた憤懣こそ彼の精神にぬぐい難いトラウマとなった。」、「ドストエフスキーにとって悪とは精神の異名、ほとんど人間の命の原型とも言うべきもの。

文芸批評の行方

小林氏は文芸作品対批評という図式から批評の従属関係や理論のなさを嘆いておられるよだが、私たちにはそんな泣き言に付き合う必要はない。批評たるものがあるとすれば当然対象たる作品がなければなるまい。「近代小説なるものの伝統がわが国では薄弱だから、これが近代文学批評にもその軽薄さと支離滅裂さが付きまとう。文芸批評の伝統がないから岡目八目的批評が横行する。」 こういう情況が今日でも存在するのかどうか。それが厭なら独立して小説なぞは対象にしなければいいのではないだろうか。小林氏が開拓された古典を対象とした独立した評論がそのいい例であろうか。


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