小林秀雄全集第4巻    「Xへの手紙」


「小説の問題T、U」、「逆説というものについて」、「Xへの手紙」、「アンドレ・ジイド」、「批評について」、「未成年の独創性について」 


「小説の問題T、U」

小説の問題Tでは、受身の夢を貰いに行く映画に人は何を見ているのだろうかという出だしから始まる。そして現実と夢、日常の出来事と劇という形で大衆小説を論じる。その勢いで心理主義小説をやっつけている。ただしドストエフスキーの空疎な人物の活写の困難性は文脈から異質である。
小説の問題Uでは、小説という形式の愚劣、軽薄に非を鳴らし、プロレタリ小説をなじっている。最後に小説に価値を論じたがる批評家の馬鹿さ加減をあざ笑う。ということでこの小論はあたりかまわず刀を振り回すやくざな小林氏の面目躍如。

「逆説というものについて」

極めてまじめな言葉が驚くべき逆接になるということの例として、キリストの「心の貧しきものは幸いなり」、親鸞の「悪人なおもて往生す、いわんや善人をや」がまず挙げられる。この小文の主眼は芥川龍之介批評である。まず小林氏の芥川評を聞いてみよう。「芥川氏は逆説で武装したロマンチストであり、氏の名声はその花々しい形式ないしは劇的な最後による。氏は逆説を愛した人で、その審美眼には敬意を表したい。」、「何か鋭敏な気の利いた言葉で人間を割り切ってみようとした芥川氏のような半知的作家・・・」と断定を下す。劇的な最後を演出した三島由紀夫氏も自殺行為で生を全うしたとも言える。ところが同じ逆説でもゲーテの感想は真の逆説(激しい率直な観察に裏つけられた)であろうと賛美している。ゲーテは本来逆説家ではないのでたまにつかった逆説が功を奏しているに過ぎない。言葉とはいい加減なものだ。両刃の刃で言い訳と陥穽を用意する。

「Xへの手紙」

Xとは大正終わりから昭和の初めにかけて小林氏の友人であった河上徹太郎氏のことである。当時小林氏、中原中也氏、小林氏が中原氏から奪った女、長谷川泰子、そして河上徹太郎氏の四人はいつも河上氏の書斎でたむろしていたようだ。河上氏はそれ以来の小林氏の友人だそうだ。小林氏は河上氏のそばにいると極めて頭脳の回転が早くなるようで「君は私の煙突だ」と嘯いた。この「Xへの手紙」という文章は、「この世の真実を陥穽を構えて捕らえようとする習慣が身についてこの方、この世はしみったれた歌しか歌わなかった」という名文で始まる、自業自得の泣きの入った弁明書である。そして無二の旧友である君には私をわかって欲しいという虫のいいお手紙だ。人の揚げ足を取って生活の資とするやくざな評論家家業につくづく嫌気がさしたようだが、またどっこいい居直って自己釈明に努めるという恐ろしく自己中の人物の泣き言と理解したい。これだけ他人に悪態をつけば、世間も反撃をする。その反撃に傷つけられて落ち込むという構図は最初から自明ではないか。かってのプロレス中継アナウンサーであった古館一郎氏(今はテレ朝のキャスター)の十八番であった無内容な名文句「言葉の錬金術師」とか、「饒舌家」、「逆説家」、「皮肉屋」、「警句家」とか言う非難が小林氏に浴びせられたそうだ。氏はそういう生き方を選択したのだから、意見をして直るわけでもなく、そういう男だと理解して付き合わないほうが得策かな。

「アンドレ・ジイド」

小林秀雄氏の作品に啓発され刺激されたりして興味を覚え読み出した文豪の本は多い。しかしこのアンドレ・ジイドの作品は皆目読んでいないので、私には発言する資格はない。作品名を挙げると「アンドレ・ワルテルの手帖」、「贋金造り」、「背徳者」、「地の糧」、「パリュウド」、「法王庁の抜け穴」、「ドストエフスキー論」などである。氏の論点の一部を紹介するに留める。
「アンドレ・ジイドほど世のいわゆる定評を許さない、変貌に変貌を重ねてきた作家はいない。固定した方向をもった感情,明確な輪郭を持った思想というものは絶無である。かれの心はいつも複数だ。」
「アンドレ・ジイドはまず何をおいても鋭敏な透徹した批評家である。苛烈執拗な自己解剖家である。知性が勝ちすぎた人は世間から敬遠されやすい」
小林秀雄氏はどうもアンドレ・ジイドの信奉者か、批評家としての生活信条を学んできた形跡が大である。自分とジイドをダブらせて筆を進めているのでどこからが小林氏の見解か不明になる。

「批評について」

「実際の処を言えば,芸術の領域には、作品がとりもなおさず問題の充分な解決でないような問題はない」というジイドの「背徳者」の序文を引用して批評活動の難点を言葉の問題に見出した。「言葉の表現による理論一般がこの言葉の伝統的な力に傷ついている」といって、日本の文芸批評の頼りなさを嘆いているようだ。結局「この世を如実に描き、この世を知り尽くした人にもなお魅力を感じさせる技を文学上のリアリズムと言う」を理想としたようだが、日本にそんな文学があったためしはないのだが。

「未成年の独創性について」

小林氏はドストエフスキーの「未成年」と言う作品を「青年が自己を語った小説で、青年を完全に虜にして,青年の内心に滑り込み、青年を唆し一切をさらけ出させたかくの如き作品を私は知らない」と絶賛した。私はトルストイにしてもドストエフスキーにしてもその複雑怪奇な人間相関を頭に叩き込んで読み進めないと話を見失う。いつも人間相関図を作ってメモにして読み進めるのが常である。これ以降、小林氏はドストエフスキーの作品を執拗に取り上げる。氏は世のロシア文学者よりもはるかにロシア通である。そこで氏が説くドストエフスキーの特徴の一つに「およそ彼ほど哲学とか思想とかを好んだ小説家はいない。彼の作品程思想の重荷を負った小説はない。全作中、抽象的思索或いは常識的思想の片鱗を見せない作品は見出せない。」を挙げるに留め、あとは次の論文から仔細に検討しようと思う。難解だけでなく、地獄まで見抜く大変なリアリスト・思想家だそうだ。乞うご期待。


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