小林秀雄全集第28巻    本居宣長 下

本居宣長(第32章ー第50章)、本居宣長補記 T、本居宣長補記 U

本居宣長 (続)

第32章 荻生徂徠の儒学(反朱子学)

なぜ宣長論に徂徠かと疑問に思われるが、是は第27巻の宣長の学問の系譜(第11章,第12章)で述べた徂徠学の影響を再度検証するためである。多少煩雑の観は免れないが、今しばらく辛抱して付き合うしか仕方が無い。
ただ儒学における見解の相違は著しく、孔子の表した書物を廻る解釈学に天と地の差があるには唖然とする。同類相食むとか兄弟血を流すのすさまじさを見る思いである。そして論争を見るときには、漢字一字の意味が恐ろしい勢いで移り変わるのである。所謂科学における定義なしで論をなす如く定まるところが無い。こう定義したかのように見えればつぎには類似の意味になり、さらに展開して別の意味に変化している。表を歩いてゆくと裏返しになっているリーマン幾何学のようなものだ。語の意味が変わることを変質だと難ずれば、語は変化するのが当然の性質だと逆に怒られる。まあこういう人たちとはお付き合いしたくはない。
徂徠の著書「弁道」、「弁名」とその解説書「答問書」を中心に徂徠の言語観、学問が語られるわけだが、先に述べた言葉の魔界を避けて通るため、いきなり結論に入る。徂徠は「実」、「言」、「歴史」の言葉をほぼ同じ意味に使ってこれを是とする。反対に「理」を空言として非とする対比構造を特徴とする。別に言えば孔子を是とし、老子、宋学を非とする。すなわち徂徠は「学問とは理学にあらず、実学也」、「学問は歴史に極まり候」という。ここに「歴史」とはどうも人間学のことと理解したほうがいい。「自然と歴史は全く倫を異にする」ここにはいわゆる自然と人間と言う二元論はなく人間中心の一元論(観念論)が支配している。
最後に徂徠の言語観は「詩は語の働きに外ならず、言語は物の姿を心に映す力である。言語は物の意味を伝うるのみならず、新しい意味を生み出す働きである」と言う結論は私は肯定したい。人間活動に占める言語の役割は絶大であることに異議はない。

第33章 徂徠の学びの道

子曰く「黙して之を識り・・・・」について、徂徠の教えの方法とは「言語による事物の理解が、認識の常道のように思われているが、これは事物のはっきりした意味の伝達と理解の働きが健全な限りのことである。言語は人を教えるに足らざるを知るべし。故に礼楽を作りもって之を教える」ことであった。すなわち孔子は人に教えるには言葉だけでなく、物(礼楽)が必要と言ったのである。
今日「礼楽」で教えるなんてことははるか理解の彼方にある。「礼楽」と言うのは先王の優れた業績のことである、と言っても具体的には理解できない。「格物致知」は物が己に来るを迎えてはじめて知るということである。これを現代風にいうと、物を持ってする学問は物に習熟して始めて物と合体でき、合体して物の中に入ってその物に固有な性質を知ることになる。
徂徠の「思惟」と言う言葉は全的な体験、体得、経験という意味に使われ、この方法が宣長に継承された。これはある意味では宣長の自然主義といわれる所以のものである。物と一体化するというのも難しい名人芸のようだが、いま一体化できたとすればあとは神の摂理によって自然と理解に導かれるということである。アダムスミスの経済自由競争の原理に神の摂理が働くのとおなじ自然主義である。おめでたい話だ。宣長は徂徠の方法論を継承しているが、徂徠の激しい「漢意(からごころ)」排斥主義をそのまま受け継いだ。中国思想の全面否定、その悪影響排除といったある意味では国粋主義につながる論である。
では原日本人のこころの実体は何であろうか。日本は大和朝廷が出来て以来その支配機構の手法(漢字・律令制度・仏教)を中国から輸入してきた。あえていえば「やまとごころ」とはその支配機構が未熟な過渡期に現れた特殊な文化形式のことではないか。そう考えないと原日本人は何処へ行ったという議論が巻き起こる。大陸民族の移民はあったとしても日本人は征服されたわけではなく(もしそうなら日本語は消滅し韓国語・中国語になっていたはず)、日本人の意思で中国文化の吸収と日本化をやってきた。したがって「やまと魂」に郷愁を抱くのは勝手だが、これが日本人の原理原点でこれに返れと言う宣長らの主張は、自体歴史を全く解しない輩の論で笑止千万である。もちろんそこまで宣長はイデオロギーを主張しているわけではなく、極く功利主義的に言えば、古文辞学を理解するには古代の精神で理解するに限るという論であったと思いたい。私は漢意を排斥しやまと魂を称する余り国粋主義者にならないように祈るばかりである。

第34章 宣長の物学びの道

宣長の学びの道とは、つまり空理を介さずに、物(事)を有るがままに体験することである。古事記と言う物に添って古の伝説の実の姿が如実になる。「神代の神は、今こそ見え給はね、その代には目に見えたる物なり」と宣長は言うが、これは現在でも非常に誤解の多いところである。彼が物と呼んだ「経験的所与」の概念は今も曖昧模糊としている。いわば神がかり、または霊呼びに相当する秘儀なのか、聴こえたものは彼個人の先鋭な感受性のなせる業で彼一代のものであったとしても、その結果が真意に近いものなら結果オーライなのか。
宣長の経験とは直に触れるものの経験と、徴としての言葉の経験(書・歌などでの経験)を含んでいる。「そもそも意と言とは、みな相称へる物にして・・・すべて意も事も、言を持って伝うるものなれば、書はその記せる言辞ぞその旨にはありける」

第35章 宣長の言辞の道 言語共同体

宣長の「初めに言葉ありき」を、小林氏は「内の心の動きを外に表そうとする身体の事としての、多かれ少なかれ意識的に制御された文はすべて広い意味での言語ということが出来るなら、初めに意味があったのではないという言い方は無理が無い」と言うが、まあ見てごらんの通り「否定の否定は肯定だ」というひねくった言葉なんでしょうか。これわかる?すなおじゃねーな。本ページでは小林秀雄の言葉はそのままでは何のことか分かりにくいところは私の責任で正常な言い回しに変えてあります。私の言葉と小林氏の言葉が混在して、誰が誰やらさっぱり分からないのが評論文の面白いところです。
そういう言語に本来内在している表現力が私たちの言語共同体を可能にしている。例えば一番自然な共同体の行事は挨拶である。「今日は」、「おはよう」に意味があるとは思えない。子供が言葉を覚えたら発する言葉だ。それで私たちの社会は潤滑油を得てうまく機能する。「初めに意味があったのではない、言葉があった。しかもその言葉は抑揚を持った説得力あふれる詞であった。」ということは私は次のように発展すると思う。たとえばオペラ、劇、歌、歌舞伎などを見て感激するのはその意味ではなく(筋や意味など実にたわいないものだ)、ことばの響きであり、人間のしぐさであり、歌の歌唱力である。またそれを演じている人の工夫の技である。内容より詞という言い方は、雄弁術、扇動、宣伝コピー文など政治家が利用する大衆操作術のことかと思われるが、上代は将にそのようなものだったとも言えそうだ。

第36章 歌の本義

宣長の「石上私淑言」に「人に聞する所、もっとも歌の本義にして、歌は人の聞いてあわれと思ふ所が緊要也」と強調されている。宣長は歌を専門的歌人(家に伝来する技芸、定家の冷泉家など宮廷歌人の家)の歌道ではなく、万人に基本的な教養としての歌を主唱した。「和歌に師匠なし」とは実に定家の言葉である。
宣長は「歌という"物のおこる所"に歌の本義を求めたが、それはすなわち言語というものの出てくるところでもあり、歌は言語の粋である」と考えた。言葉によらないで自分を捉えることも出来ないので、歌は自己認識と言語表現とが一体をなした精神の働きをいうわけである。

第37章 宣長の万葉調歌集「玉鉾百首」

これが歌かと思われるほど下手な宣長の歌に付き合ってゆくことになる。「道」を詠んだ殆ど思想の散文である。まず一例を挙げて、宣長の歌の心を見よう。
「事しあれば うれしかなしと 時々に 動くこころぞ 人のまごころ」
宣長の歌の道とは「もとより我邦自然の歌詠なれば、自然の神道の中をはなるるにはあらざれども」というように我邦自然の歌は上代の古事になる。勿論ここでいう自然とはおのづからという意味で漢意と対立するものである(とはいいながら宣長は孟子は排斥して孔子は良き人と持ち上げる手は分からない)。「すべて古の雅たる世の中の有りさまを、よく知るは、これ古の道をしるべき階梯也」つまり神代のありさまをしるには雅の心(うたこころ)を持たなければならないということになる。
小椋佳の「揺れるまなざし」ならぬ宣長の「動くこころ」は上の歌に示したが、「動」くとは思う、知る、感じるという受動態である。能動態の「動く」は「我執」であり、其処に歌心はないと激しく排斥されている。

第38章 神代の神・人 万物生成の時

源氏物語で雅の心を我が物にした宣長は、神代の古事に挑戦した。「神代上代のもろもろの事跡の上に備わるただゆたかにおおらかに、雅たるもの」と捉えたと宣長は信じた。彼が捉えた神代とは「さて神代の神たちもその時代の人にして、その代の人は皆神なりしゆえに、神代とは言う也」さらに人のみならず自然界の生物、自然現象すべてに神性を見るものだ。「産巣日神」(むすびのかみ)とは万物生成の体現だそうだ。
これで神代の何が明らかになったのだろうか。霞のかなたにぼんやりと混沌たる万物生成のカオスが動いているような気がするが。これはひょっとすると太陽系のビッグバンの象徴的表現なのだろうか。数百億年前の記憶が古事記に生きているとは笑っちゃうね。世界の神話の比較評価をしてこの古事記の記載文がどこから出てきたのか私はどこかで読んだ記憶がある。
「神は人、人は神」という思想は、神が人を作ったという西欧の神話とは明確に違うので宣長の思想は注目に値する。

第39章 「神代一之巻」 神の名

神代一之巻は神の名しか伝えていない。東海道五十三次の駅の名を暗記するのと同じように、ありがたくかしこみながら拝聴することになる。その神々が何をしたのか、どういう存在理由があったのかはその名から推し量ることになる。それだけで面白いストーリーが構成できそうだが、真実は宣長も言うが如く「神と申す名の義は未だ思いえず」であった。ただ神世第7代「阿夜訶志古泥神」からどうやら関心が天から地へ移ってきたようだ。そして伊邪那岐、伊邪那美神という国土生みの神のご登場となる。

第40章 上田秋成との論争1  宣長古伝説信奉批判 、天照大神論争

宣長が藤貞幹に駁論した書「鉗狂人」に上田秋成が反論し(その詳細は彼の晩年の随筆「胆大小心録」に詳しい)、それに対して宣長が「呵刈葭」で反論したことにより有名な秋成・宣長論争が起きた。論争の中心は古事記神代の記の神々の考証についてである。宣長は古伝説狂信的信奉論、秋成は論はないが宣長の矛盾を突くことで論陣が組まれた。論争の公平な成り行き審判では、秋成の難詰に理あり、宣長の反論は論をなさずヒステリー気味に信仰を要求するだけのことであった。小林氏の態度は見かけは秋成の批判に理ありを認めるようだが、最後は宣長の「信じるか、信じないかの二つに一つ」の恫喝に歩み寄り彼も信奉派に鞍替えの態である(何処まで信じているかどうか別にして、信じた風をして近づきたいのが本音か)。では三章に渉って論争を見てゆく。各章の論点は少ない。
太古のことは記紀の間でも異同が少なくないのに,古事記の古伝説をことごとく無批判に信じなければならないというのはおかしいと秋成は批判した。また「日の照らしますのはここに現しましし本国也、因りて万邦悉く吾国の恩光を被らぬはなし、故に貢を奉じて朝し来たれ・・・・」と宣長が考証するは、言を広めて他国に対する論は正気の沙汰にあらずというものであった。これを天照大神論争という。秋成は、宣長の皇国古伝説崇拝は狂信というより外にないと批判した。同じような論に、明治時代に村岡典嗣氏は「宣長は儒教攻撃の功を上げるため、国家的虚栄心に訴えた」つまり今日の右翼行動に類する行為であると断じた。また村岡氏は「宣長学の真骨頂は文献学にある。その域を出て単に古代人の意識を推測するのみならず、自己の主義として唱導するに至った」と嘆いた。つまり教祖様になったということである。古道学が国粋主義にまでエスカレートした。

第41章 上田秋成との論争2 少彦名神論争

秋成は少彦名神が万国を悉く創業したという伝説の荒唐無稽ぶりを論難した。これに対して宣長は「殊にこの少彦名神万国経営の御事は、それとさだかに伝説のあることにはあらず。己は古学の目をもってみれば然思はるる也」結局は信じるか信じないかの選択だという反論である。誰が聞いてもこの論争は秋成に軍杯が上っている。
この論争に小林氏は宣長の肩を持ってこう言う。「少彦名神の万国経営論は古学の目によれば想像の力(推理批判の能力)でありこれを見くびってはいけない。宣長に言わせれば、古伝との親身な交際を求める人は常見人たることを止めなければならない(常識を捨てろ)。古学の大事は方法より決断である。」問答無用だそうだ。小林氏は提灯を担いで師よりもっと先鋭に表現する。伝教師になったみたい。こんな人たちとは付き合いたくないね。

第42章 上田秋成との論争3 世界地図での日本論争

オランダからもたらされた世界地図をみて秋成はこの小さな日本国を充分認識して、皇国を万国の上に置こうとするやまと魂の偏屈さについて、宣長の反省を促すところにあった。それに対して宣長は「すべて物の尊卑美醜は形の大小によるのみにあらず、数尋の大石も方寸の珠玉にしかず」と論の形態をなさない居直り方だ。古語の学問的研究と「古語のふり」を生きることとの間には、男と女の間以上の越すに越されぬ溝があるらしく、古伝説は実証的諸事実を動員しても攻略できないからこそ、ある創作活動に宣長を導いたのであろうか。
小林氏が折口信夫氏から囁かれた言葉「宣長は源氏ですよ」は、源氏で成功した手法をもってして、古事記考証学に入った宣長は必ずしもきれいな成功を収めていないのではないかという事が考えられる。考証を捨てた神秘的な窮余の一策は誰にも相手にされなかった。

第43章 賀茂真淵 上古への道1 国意考

もう一度宣長の古事記伝の姿を振り返っておく。「なににまれ、尋常ならず優れたる徳のありて、かしこき物を神というなり。(これが有名な神の定義にして曖昧の極地)」 源氏物語であわれと見る言い方は,古事記では直く安らかとみる。この観照の世界から彼は一歩も出ない。それは自照を通じて古事記観照の道だった。
賀茂真淵は万葉学を大成してから、最晩年には「上古之人の風雅」があるとして、「神代の意」を得ようと志したのである。真淵が考えていた古道、わが国固有の姿を存した上代の道は、明瞭さを欠いたまま「国意考」に説かれている。意外なことに真淵は孔子嫌いで老荘好きだったそうだ。そのわけは「天地の間に生きとし生るもの皆虫ならずや、それが中に人のみいかで貴く」といった思い切った表現は老荘のものであった。晩年国意考の究明に打ち込むようになってからは、徂徠であれ太宰であれ儒家嫌いになって、その憎むこと著しくなった。宣長は老子嫌いで孔子は好きという。師弟で儒家嫌いは共通でも随分好みは違う。まあこれは本論には関係ないが。

第44章 賀茂真淵 上古への道2 祝詞考

「賀茂翁遺草」の中の「学びのあげつらい」で自身の学問を振り返って、古学の上で道が開けるのを覚えたのは、田安公の知遇を得てからの勉学によるという。そして73歳になって祝詞について激しく考え始めたようだ。人代を尽して神代をうかがう「祝詞考」を書いた。その中で、「出雲国造神賀詞」に出会って、そのたふとかりし姿に驚き「正直風雅此後千載を経つとも及ぶまじき文」と記した。只今は皇朝の大道を得たりと覚ゆと祝詞を絶賛した。
真淵の万葉の「ますらをのてぶり」は「風調もくさぐさ、古雅、勇壮、悲壮、豪風、寛大、艶にして美、高にして和、これらは人の生得のままなり」此のまごころが神代に向かって収斂するのである。それが真淵の上古への道であった。真淵がのべる神の道は大変曖昧で、神そのものではなく。神の道のさまを指しているようだった。「わが国の神の道には教えがない、教えというものの全くないところが尊いのである」という理解であった。
たしかに神道には聖書らしきものは皆無である。怪しげな神道書はすべて南北朝以降にでっち上げられた書物である。キリスト教、仏教、イスラム教などが持っている聖典が存在しない。また道徳律もない。ただ祝詞と礼拝のみがある。これはある意味では権力の中枢と同じ現象である。規の文章はなく慣例のみあって、突き詰めていけば白紙の状態であるのが権力だという言をどこかで聞いた。

第45章 賀茂真淵 上古への道3 天地古今の本意

真淵が子にあてた手紙の中に「佛など信仰は無益也、地獄、現世後世などいふは、皆物取りの沙汰也、天下にある物、獣も虫も人も皆同じ也、然るに人のみに後世祈祷あるべきかは」 実に爽やかな論理ではないか。私はこれほど割り切った理性が江戸時代にあるとは知らなかった。「ひたぶるに直く、明るく、清く、雄雄しき上代のこころには、神の礼拝にあって、神の信仰にはない」 そこにはなにかを期待して信仰するという女々しさがない。神は信仰ではない。礼拝で拍手して神と会話することなのだ。何も望んではいけないし祈祷してはいけない。これが真淵の天地古今の本意である。
真淵は古語の古意について殆ど宣長と同じ解を書いている。「皇朝では神といふは天地の御霊の本にして、人の霊をいひ、また鳥獣草木までも神とす」しかしながら真淵においては神の古義は明確に突き止められたわけではなく(宣長でも曖昧)足踏みして内部に入ってゆかない。本来的な漠とした暗さがあった。そこで真淵の上代への道は止まった。

第46章 宣長の言語感覚の卓越性

師賀茂真淵は「みやびごと」という場合、言語上の範疇は曖昧で「言はみやびに古きこと、心はなおき一つごころ」という風に雅言の優秀性を言うのみであった。真淵は「心ことば」ということをよく言った。古人を知るには古歌にしくはなしという考えは「古き世の歌ちゅうものこそ、ふるきよよの人の心言葉なれ」すなわち、古代の人の心ことばを知ることは、歌を知ればいいことである。この心ことばは純粋な「しらべ」をえることにあり、しらべから真淵は古事記に入ろうとした。はなはだ感情的とも評されるところである。
これに対して宣長の言語上の考察は明敏で、上代(古事記)の「古語」のふりと「中古」(奈良平安時代、源氏物語)の「雅言」のふりを明確に区別した。宣長は「うい山ぶみ」で「古学」をこう定義した。「なにごとも古書によりてその本を考え、奈良朝より古い上代の事をつまびらかに明らむる学問」
師真淵は「延喜式祝詞解」で古事記第一主義を説いたが、その功績は弟子宣長に受け継がれた。宣長は「上代の正実を知るには、古事記はあるが中の最上たる史典」と考えた。(日本書紀は漢文で書かれているが、真淵、宣長は紀を捨てたわけでなくその詳細な記述という長所は評価した)その理由は「記はいささかもさかしらを加えずて、古より言い伝えたるままに記されたれば、その意も事も相称えて、皆上代の実也、是もはら古の語言を主としたる故ぞかし、すべて意も事も、言をもって伝わるものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有りける。・・・・・身こそ後の世にあれ、心ことばは上代にかえらざらめや」いささか引用が長くなったが、是が宣長の古語の言語感覚であった。

第47章 「古事記伝」全巻注釈の意義

この章は小林氏のちゃち(批評)が多く入っているために挑発に乗りやすいので、私のことばで纏めてみたい。今日私たちが高校生から社会人まで、古事記の万葉仮名文を訓み下し文(現代語訳は不要で、ないほうが格調高い調べになる)で簡単に読めるのは、これぞまさに宣長の超一流の研究の成果である。つまり宣長の学問的成果は古事記注釈にあるのであって、随筆的文章にあるのではない。ただ本論の注釈だけでは評論家の能がないといわれるを嫌って小林氏は宣長の周辺文章から宣長像を構成しようとするまでである。其処に評論家の腕があるわけだ。
しかしながら小林氏は宣長の神髄を「古事記の古語に悟入した達人」という風に崇めるから話が複雑になる。小林氏は注釈作業を「本文がそっくり信じられないところに注釈はない」というが、氏自身が著名なフランス文学翻訳家であるのに、例えばランボーを翻訳する時その難解極まる詩を信じるとか信じないとかいう考えでやっているわけではないはずである。本文ありきでまず直訳しそこから仕上げてゆくのが腕というものだ。古事記もしかりで、最初から怪しげな内容だから翻訳しないというなら何をか言はんや。翻訳しようとする意思があるなら、内容が歴史的に信じられるかどうかは次の時点での問題で、最初から信じるかどうかという「踏み絵」の問題ではない。話が学問的注釈から、頭から信じることで救われるという認識論に傾斜しやすい。
小林氏の論理で持ってこう言える。「さかしらな小林氏の言に惑わされるな、直に宣長の古事記伝注釈を読め」

第48章 上代「言伝え」の世界

古事記がまさしく言い伝え(文字の力を借りない)の世界であったかどうかはペンディングしておくとして、宣長は「くず花」において上代には文字なくても不便はなかったといい、さらに「文字しらぬ人はかえりてよく覚えているにてさとるべし、ことに皇国は言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること万国に優れ・・・」と言った。文字がないから言い伝えだけでコミュニケーションしていたのは当然として、それで言葉が優れているとか、日本語は外国語より優るとか、でたらめもいい加減しろといいたくなる発言だ。言霊なんぞという神秘主義を持ち出すのはいつもの手だ。これがどこまで宣長の言でどこから小林氏の潤色かは未だ分析していない。
宣長は「言い伝えの徳」、「文字の徳」と言っている。古事記といえど、録音ではない。文字で書かれている。言語表現には、肉声と文字の別がある。肉声と文字が一致しているのは口語体という、一致しない文章を文語体という(漢文ではなく、日本語でも)。古事記は古代日本語の万葉かなによる表記であるのですでに文字である。肉声ではありえない。口語のほうがいききとした動きが伝わりやすいことは現代国語を見て明らかであるが、といって口語のほうが優れている論にはならない。小林氏は「文字の道が開かれ、言霊の働きを大きく制限した。文字の出現により、意のままになる内容の伝達への大きな転回が可能になった」と前半の論と後半の論が矛盾している。是は勿論どちらへも逃げられる弁解の術である。肉声と文が一致していればなぜ文字によって言葉の魅力が制約されるのか。雄弁術の問題にすり替わったのか。宣長が論をなさないのか、小林氏が論を捻じ曲げているのか、言霊と言う幽霊を出す必要は何もないではないか。古事記の文章は口語体のことであって、漢文などの文語体でないと言うことぐらいの違いしかない。それ以上なにも神秘的、優越的ななにかを上代に求めるのは非論理的である。論理は嫌い、神秘が好きというならどうぞご勝手に。

第49章 上田秋成との論争4 古学の眼

上田秋成との論争は結局住んでいる世界が違うということで、物別れになった。論争なんてそんなもんだ。完全屈服するほどの根性無しが論争を始めるわけがないし、結局両者の間に溝をつくって世界を別にし(はげしい白刃の闘争を回避して)、対峙しながら消滅するものだ。従って本章では論戦は説明しないことにする。宣長の世界である古学の眼を紹介する。
そもそも神代の神は人である。世の中の動きは悉く神(優れた人という意味にとっておこう)の仕業にて、上代の伝説は現実にはあたかも神々の如く振舞う人々の行為として語られた。この見解はいずれの国の神話でもやはりおなじ事情であろう、宣長は比較神話学者ではなかっただけだ。ホーマーの「トロイの馬」の神話は実証された歴史的事実となった。あまりに古い話は実証できないから神の話と言っているだけで、古事記にはやはりあまりに人間くさい行為、ドラマがあると思うほうがロマンチックである。もう二度とないと思うが、これが国粋主義や天皇制に悪用されなければ幸いである。
従ってあるがままに事物と出会い、各々のその性質情状との出会いが語るに任せればいいのではないかと言う態度が宣長の古学の眼である。そうすればいずれ明らかになる真実もある。百枚の偽作の絵の中に一枚しか真作がなかったとしても、一枚の真作を嘘といっては永久に探せない。是はたとえ話であるが、いかにも骨董好きで騙され続けた小林氏が好きそうな話題である。

第50章 宣長の死生観

本居宣長論も最後となった。最後を飾るにふさわしい死生観で締めくくろうと言うものだ。門人達の質疑に答えた「問門集」から、神道における人個人の安心立命はどうなるのかと言う問題である。もっと具体的には人は死んだらどうなるのかと言う質問である。宣長の答えは「安心なし」ということで、門人になお激しい緊張を要求するものであった。死んだら黄泉の国(死体が腐乱する汚い国)に行くだけだと言うにべもない答えである。
つぎに源氏物語「雲隠れの巻」で、紫の上を失った光源氏が死に赴こうとする予感を述べたくだりは、「あわれを知る情の動きは、死ほど悲しきものないと自然に動くものだ。無理なく精神化が行われる。これを死の観念と出会うと言う」と言おうとした式部の心栄えだ。
古事記神代七代にも人が生き死にするさまが描かれており、このことはどんな時代でも人の一生は意味を残そうとする努力が生き様になり、残る者には烈しい悲しみと思い出を遺したいという死者の気持ちが人の生死の観念だということになる。


本居宣長補記 T

第1章 ソクラテスの対話編

この語ることと書物の対立問題は、本居宣長第48章で議論したことを、ソクラテスと言う強よーい味方を得た小林氏が蒸し返そうとするものだ。そもそもソクラテスは一行も文章を残さなかった紀元前5世紀のギリシャの哲学者である。では誰がソクラテスの言を記録したかというと、プラトンである。あるいみではソクラテスはプラトンの劇中人物といってもいい。歴史的に存在しなかったというわけではない、プラトンが自由に創作できた人物である。小林氏の構図はソクラテス(プラトンといってもいい、小林氏も途中から二人を混合してしまっている)を、宣長の言う実を語る上代人に擬古し、対話の相手パイドロスを「さかしらな」儒学者に設定することである。これで舞台は整った。語ることは第48章の繰り返しであるので再現はしない。
議論すると小林氏から「さかしらな」と言われそうなのだが、明らかにこの構図が相似形でないところがある。それはソクラテスは文字も肉声も選択できたことで、上古人は文字の選択は最初からなかった点だ。思索する上で人間にとって言葉(文字でも肉声でも)は頭脳の中にある極めて重要な必須の道具であり、言葉なくして思索は出来ない。後は所謂神の啓示しかない。文字も話し言葉も言語である。どちらを択ぶかはその人の特性による。ソクラテスは話し言葉を択んだ。上代人には話し言葉しかない。
小林氏はプラトンの第7書簡集より「プラトンははっきりと書物と言うものに対する不信を表明している。事物の本質の最も深いところは言葉などでは現せるものではないといっている」としたが、前半はプラトンの言葉だろうが、後半は言葉という字は書物の間違いではないだろうか。でなければ人間の表現能力は書き言葉だろうが話言葉であろうが言葉以外には考えられない。言葉以外にどんな表現があるのか。深い思索で本質を掴んだとしても表現は言葉でしょう。
さらに小林氏はプラトンの対話編について「真の主題は、正しく思索する力というもの、正しく語る力以外のものではない」と言っている。ソクラテスの偉大さは語るという対話能力にあるそうだが、それはソクラテスの特質としてそうかもしれないが、いまどきそんなことを言ってどうするの。プラトンという弟子が書く文章力のおかげでソクラテスが残ったのだ。

第2章 学びようの法

わが国の近世の学問は中江藤樹(1608-1648)から始まると見られるが(小林氏の考え)、荻生徂徠(1666-1728)についても「学問には問いを貴ぶこと必要不可欠」であるといった人々だ。宣長は1759年「あしわけ小舟」という和歌論で「問いの力」を強調した。1798年は古事記伝を脱稿した年だが、「うい山ぶみ」を著して学びようの法という学問論を書いた。要約して言えば、「人はそれぞれ生まれ持った性があるが、人それぞれに倦まず弛まず精進すればそれなりに功はある物だという論だ。教えられるものではない、独学しなさい。」に尽きる。それ以外教えらしいことは何も言っていない。
古事記研究余話である「玉勝間」には、「古の定まり」というは上代に使われていた古語のふりにおのずと定まり(格)があり、これは古人の心ばえを示すものと(徴)と述べられた。確かに上代には文字さえ知らなかったが、言葉は既に言語組織を完成していたと見るべきだろう。長い間口誦のうちに生きていた古語が漢字の到来によって受けた衝撃に、はっきりと古語の姿を意識して、長い時間(恐らく6世紀中)漢字を訓読み(漢字に日本語を当てはめること。例えば暦にはこよみ)するという辞書編集作業を続けて遂に漢字を日本語に取り込んだ。これは世界でもまれな文化事業であった。以来日本人は外国文化の受容と取り込みに長けた民族として世界に伍することが出来た貴重な資産となった。

第3章 宣長 真暦考

1720年第8代将軍吉宗が禁書の令を緩和して以来、オランダを介した西欧文明が日本にどっと流れ込んだ。1789年宣長は古事記の考証において暦の問題を取り上げ、古代人の年月日の数え方に考えをめぐらし「真暦考」を著した。中国の暦法が日本で施行されたのは推古朝(592-628)以降である。従って古事記の本文には紀年は記されていない。当然のことだが、上代といっても紀元前後には稲作農業は行われており、日、月(年は必要ないとして)は大雑把にも知らなければ田植え、刈り取り、それを祝う神事、亡くなった人を偲ぶことは出来ない。そういう暦(古語では来経数 けよみ)は上代なりに存在していた。完璧で精緻である必要はなく実用的であればいい。中国暦のような陰陽五行説という占いも入った複雑な暦である必要は何もない。
以下の文章は小林氏の説を離れて(間違いが多いから)私の考えで述べる。古代人と言うより私たちが暦を考えると極く初歩的に、次の手順で考えるだろう。太陽が昇って沈んで次のまた昇るまでを一日としよう。月が消えて満月になって次に消えるまでを一月としよう。四季の一巡りを一年としよう。まずこれで概念は整うわけだが、実用に供するには問題は多い。一日で季節変化があり太陽の昇る時間が違うし、基点0時を何処にするか。月を重ねるにつれ少しずつずれてゆく閏年をどう修正するか。年の初めをどう定義するか。このような定め方では残念ながら古代の暦はまことに大雑把デ知らん振りを決め込んだようだ。生きていく上で支障がなければいいではないかと言う「おおらかな暦」であったと見るべきだ。これを宣長の文学的表現では「神が定めたまう真なる暦、皇国の上代のおおらかなりける定まりの、真のなるほど」ということになる。
最後の頁で小林氏が語る現代科学の暦の記述には笑ってしまう。現在では光を使って時間と距離が測定されると言えばいいものを、奇妙な呪文をながながと宣命される。読まれれば分かるが、とても判読できるような記述ではない。これは科学を知らない小林氏が、さらに知らない大衆を脅かすためにいつも使用する眼くらませである。読まないほうが精神上よろしい。


本居宣長補記 U

第1章 宣長 学びのよう、古学の眼

この章では学びのようと古学の眼について書いてある。「学びのよう」は、本居宣長本論第33、34章と補記T第2章に述べている。「古学の眼」については本居宣長本論第49章に詳しい。ただ「学びのよう」では学問にあっては「心ざしを立てることが肝要」と言う点が新しく加わった点だ。「古学の眼」については宣長の独自の「歴史感覚」が新しく加わった。それ以外は繰り返し。

第2章 古道思想 「直毘霊」、「玉くしげ」

「玉くしげ」と「直毘霊」は宣長の古道思想に関する代表作とされていると小林氏はいうが、「玉くしげ」は当時の現代政治論文であって古道とは殆ど関係ない。「直毘霊」こそ古道思想の真骨頂で宣長の確信の吐露である。
「直毘霊」は古事記伝の第1巻の巻末に挿入された独立した論文であったが、単独で刊行させたいと言う要望にこたえて一論文として刊行された。「直毘霊」の結論を要約すると、「清らかな御国心で古典を読めば、受け行うべき道は他になく、ただ神の道を受け行うことだと分かる。ここまで言うのも道の本来の有りようではないが、ただ神の御心なり。黙ってみていないで、神の霊を賜って間違いを正しなさい」ということになる。是を宗教と言うのか、学問の道というのか、出来たら後者にとりたい。上代の神(人間)の手振りをおおらかに信じて神(人間)の技をとくと見ようではないか。そうすればおのずと間違いも正すことが出来る。
「玉くしげ」は、1787年宣長の藩主徳川治貞の意見聴取に応じて書かれた、天明の天災、大飢饉の対応策具申である。今から見ても分かり易い文章で、実に正論を述べている。「いずれも下に非はなくして、皆上の非なるより起れり。百姓一揆は自然発生的に起きたものだ。畢竟これ人為にあらず、上なる人深く遠慮をめぐらすべき。今の百姓というものはいともいともあわれに不憫だ。非理の働きをやめて民を労わるべき。」立派な意見だ。幕末に差し掛かり幕府の体制もぼろぼろにほころび不正がはびこっていた様子がよく現れている。宣長の見る眼は確かだ。

第3章 詩歌の本義

話のきっかけは宣長晩年の作「伊勢二宮さき竹の弁」という伊勢神宮祭神の考証の書である。伊勢内宮は天照大御神で、外宮は豊受大神となっていたが、後世外宮の祭神について異議が出されていたが、宣長はきっぱりと豊受大神は豊作の神で食が生まれる源泉神とした。国家支配の天照大御神でとペアーで国家の根幹を成すと考えた。是は正論だ。上代には「命を保たせるは食也」が常識でそこから「食の恩」とか感謝の対象が想像されたわけである。
それはそれでいいとして、小林氏の言いたい「歌の本義」へ話を持ってゆくため、変な細工をするのが面白い。「あしわけ小舟」に「欲より出ずる事も、情にあずかれば歌有る也。恋というものは欲より出れども深く情にわたるものなり」とあるが、食欲は情には変化しないが、まあ引っかかりにはなるかと言うことで、小林氏のこじつけは大目に見ておこう。ということで歌論に入る。
「あしわけ小舟」には「歌の第一義は心をしずめて妄念をやむるにあり」 宣長は簡単に妄念がやむことは難しい、妄念を鎮めるのが歌の作用であると逆転の発想をした。「歌う」も「詠むる」も声を長く引くことで、混乱した感動の発する叫びは「歌う」、「詠むる」の作用によって抑えられ調整されて文という形をとると考えた。これはいわゆる「歌う」と言う肉体作用が頭脳の鎮静作用をもたらすことであり、「言霊」となずけてもいい。従って歌のつくり様は、「情は自然也、求むるは言葉也、この故に詞を整えるを第一義というべし、詞悪しくして良き歌はかってなき」と言うことになる。そうすると宣長の歌は解説のような歌であるからして、へたくそと言われる由むべなるかな。

第4章 紫式部の物語論 宣長の人生観

この章は前半が紫式部の物語論、後半が宣長の人生観であろう。小林氏が言うように「出発点でじっとしている間にいろいろ話に尾鰭がついただけのことで」関連はない。
宣長は、源氏物語「蛍の巻」で光源氏が語る言葉に物語に真の評があるという。「その人の上としてありのままにいひいづることこそなかれ、世に経る人の有様の後の世にも伝えまほしき節々を、心にこめがたくていひおきはじめたるなり」  作者の心境としては、外的世界の手ごたえが、言葉の力によって、内的想像力の中に深化する心の転回である。是を宣長は「この物語の外に歌道なし」とか「和漢無双の妙手」とか「式部のめでたさ」と評して作者の努力に答えた。
最後によく言われる宣長の「不可知論」について述べて終わりにする。西欧哲学で言うような不可知論は宣長には想像できない。彼には知らなくても生きてゆけるという人間の智恵を信じるため、居直りから怪しさになれ親しんだだけである。「天下のひとことごとしく同じものにあらざるなり」可知と不可知、秩序と無秩序などが錯綜する人生の驚くべき多様性を、天与のものとして素直に受け入れようとしたまでのことだ。


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