小林秀雄全集第25巻    人間の建設

批評、常識について

批評

小林秀雄が自分の職業である批評について、常識的な纏めを行っている。
「批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞である。批評とは人を誉めること特殊の技術である。」
「ある対象を批判すると言うことは、それを正しく評価することであり、正しく評価することはそのあるがままの性質を積極的に肯定することであり、そのために対象が他のものとは違う性質を明瞭化しなければならない。」
「論戦に関して、批評的作品が現れ、批評的生産が行われるのは、主張の断念と言う果敢な精神の活動によるものである。」
小林秀雄を知っている人ならよくこんな綺麗ごとが言えたものだと驚くだろう。若いときは他人に仮借なき打撃を加えて今日の自分を築き、今日になって他人に対しては武装解除を要求するようなものだ。

常識について

デカルト(1596-1650)の「方法論序説」がもつ科学と形而上学の革命について述べたものだが、常識と言う言葉ははたして適切かどうか難しい問題だ。最初の四頁で、常識の定義(説明)を福沢諭吉、トーマス・ペイン「コモン・センス」を引用して展開しているが、この論は適切であろう。健全で尋常な理性と感情ということだ。
つぎにデカルトの常識(リーズン)を理性・分別と訳して、万人に備わった精神の働き「自然の備わった智恵」というものである。妥当であろう。さてデカルトの方法論序説に入ろう。
デカルトは、1619年11月10日、ドイツのある村で天才的な方法論の啓示を得た。23歳であった。簡単に言えば疑い得ない公理(今日では仮説、約束事といってもいい)から出発して、次々と定理を導くことが出来るという数学・科学上の方法論である。これを小林氏は「直感と演繹という精神の基本的な誤まりようがない二つの能力を使用して」という。同じことである。私の説明が数学的で、小林氏の説明が論理学的な体裁だけの話である。今日でも科学嫌いはここでつまずくようだが、こんな簡単なことを容認すればこんなすばらしい証明法はない。具体的には解析幾何学に成長する幾何と代数の結合である。三角形の一辺の長さとは二つの頂点間の距離であるということだ(別に煙に巻いているわけではない。2点の座標を発明したことで幾何学は代数学で解けることをいった。ベクトルという幾何学は行列式という代数学で解けることと同意である)。デカルトはこの方法を敷衍し演繹し実証し確信するまで9年間を要したそうだ。実に用心深い。怪しげな実験結果を大発見にするため、偽ったり再試験で確認せずにネイチャ誌に投稿する科学者があとを断たない現状と比べていかにのんびりした時代であったことか。
そしてデカルトを天才にした決定的な第二の大発見がある。それは一言で言えば二元論である。神や自然とと一体化した人間ではなく、対象とそれに徹底的に質問する自我(他人も対象になる)の二つを明瞭に分別したことである。この二元論から自然科学の近代的研究方法が確立した。また疑う自己から「近代的自我」の発見があった。「「コギトエルゴスム」(我考える、ゆえに我あり)だけは疑えない。其処から出発してデカルトの認識学・形而上学が形成された。小林氏は形而上学の意義を力説されるが、私は科学者だから自然科学の近代的研究方法の確立を力説したい。それは趣味の問題ですが。デカルトの形而上学(形而上学といわれると私はなんか霞がかかってしまう)に関する業績として「省察」、「哲学の原理」、「精神指導の原理」、「情念論」がある。これらの考察に至るまでデカルトは20年をかけた。

最後の八頁を使って小林氏はこの常識に関する考察の展開として伊藤仁斎の「中庸」論を提起した。中庸は常識とならなんとかつながるかもしれないが、デカルトの近代科学方法論と近代的自我の発見と何の関係も見当たらない。さほど関係のない蛇足を入れて知識を誇るのは氏の悪癖だ。まあ儒学を勉強中の小林氏の勇み足と思っておくが、コメントはしない。


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