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田中一郎著 「ガリレオ裁判」
岩波新書(2015年10月)

地動説を唱え、宗教裁判で有罪を宣告された科学者の苦悩と真実を裁判の記録から検証する

ガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレイ

本書 田中一郎著「ガリレオ裁判」を読んで、ただちに思い起こしたのは、プラトン著 久保勉訳 「ソクラテスの弁明」、「クリトン」(岩波文庫)である。こういった社会的政治的裁判で罪を得た人を描いた裁判記録はおそらく無数にあるであろうが、私は何か共通するものがあるよう思われたが、結果は随分違ったものになった。ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年)は、古代ギリシアの哲学者であるが、ガリレオ(1564年ー1642年)は約2000年後のイタリアの科学者(天文学者・物理学者)であった。表向きは、ソクラテスは神を冒涜し青年をたぶらかした罪で当時のソフィスト嫌いの民主政府の民会裁判において、ソクラテスは主張を曲げずに死刑を宣告され、悪法も国法ならこれに従うと言って毒を仰いだ。ガリレオはコペルニクスの地動説(太陽が中心にいて動かず、地球が公転と自転をする)を裏付ける研究に邁進し、コペルニクス説を確信したがために、ローマカトリック教会の教皇の怒りを買い、聖書の教義に反する言説を行ったかどで異端審問所に告発され告解を迫られた。ガリレオはそこで異端聖絶を告白させられ異端を認めて贖罪した。そして「天文対話」という書物は禁書とされ、ガリレオは「牢獄」に収監する判決を受けた。ガリレオが節を曲げ、ローマ教会は名誉を守ったという形で落着した事件である。その時のガリレオの有名な捨て台詞「それでも地球は動く」はつとに有名である。相方とも宗教裁判記録という外見を取っているが、内実は当時の社会的状況をよく見ないと真実は見えてこない。著者田中一郎氏はこの「ソクラテスの弁明」を下敷きにしたかどうかは分からないが、当然頭の片隅にはあっただろう。そこで「ガリレオ裁判」に入る前に、「ソクラテスの弁明」から「ソクラテス裁判」を整理しておこう。ただ裁判結果とそれへの態度からみるとかなり高低差があるが、ガリレオとソクラテスの姿勢の高さを比べても仕方ない。紀元前399年ソクラテスは、「不信心にして新しき神を導入し、かつ青年を腐敗せしめた」として、市民代表の3名の告発者から訴えられ、裁判の投票の結果死刑を宣告された。この事件は哲学的にというより、社会的・政治的な事件であって、訴状は言いがかりみたいなものです。事の原因は古代ギリシャのアテネとスパルタの都市国家同士の戦争であるプロポネス戦争に始まります。この戦争は俗にいう民主政のアテネと軍事政のスパルタという構図では説明しきれない。プロポネス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)とは、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。つまり覇権主義のアテナイが自主独立のスパルタを挑発して起した覇権戦争だったのです。戦いは10年戦争と第2次プロポネス戦争に続くが、アイゴスポタモイの海戦でペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って戦争は終結した。戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。だが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死したのである。その背景と歴史的事実で本書「ソクラテスの弁明」、「クリトン」を読まないと、哲学道徳論では本書の意義は分からない。知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていくことを目指したという。無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。 このため、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、また追放の手も拒否し結果的に死刑を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。プラトンが描くソクラテス裁判は、ソクラテスを理想化しすぎているきらいはあるが、それは「ソクラテスの弁明」はあくまでお芝居の脚本だからである。

「ソクラテスの弁明」は33節に分かたれる。登場人物は70歳の被告ソクラテスと告発者の一人メレトス(告発者は他に手工者・政治家代表のアニュトス、演説家代表のリュコンの二人がいるが、登場しない)の対話(ダイアローグ)と、ソクラテスの弁明(モノローグ)の部分からなる1幕の劇である。33節からなる劇の展開の荒筋は以下である。
導入
1、 告発者は素晴らしい弁論を行ったが、そこには真実が全く無いこと、自身は演説もうまくないし、裁判にも不慣れなこと、言葉遣いではなく内容が真実であるかどうかのみに注意を払ってほしい。
2、 自身に対する二種類の弾劾者の区別。すなわち、風聞を撒き散らすアリストパネス及び顔の見えない大衆(旧い弾劾者)と、今回の裁判の告発者(新しい弾劾者)の区別。そして、まずは「旧い弾劾者」側の言い分に対して、弁明する。
3、 「旧い弾劾者」側の言い分の検討。「不正・無益なことに従事、地下天上の事象を研究、悪事を曲げて善事と成し、他人に教授する」が事実無根であることを、まずは聴衆へと訴えかけ。
4、 同時に「人を教育し謝礼を要求する」というソフィスト的風評も否定。自身はソフィストの術を持ち合わせない。
裁判に至るまでの経緯
5、 自身に対する名声・悪評の理由。それは一種の智慧である。しかしそれは告発者・風評に言われるような超人的智慧ではなく、人間的智慧である。その説明の端緒として、デルポイの神託所で自身(ソクラテス)が最も賢いと言われたエピソードを披露。
6、 上記の神託の検証のために、賢者と世評のある政治家と対話を行ったエピソードを披露。相手を無知だと感じ、その説明を試みるも憎悪される。自身も無知だが、それを自覚している(無知の知)だけ、相手より賢いと考える。更にもう一人の世評のある人物を訪ねたが同じ結論だった。
7、 その後も順次、様々な人を憎悪されながらも歴訪。その結果、世評のあるうぬぼれた人々はほぼ全て智見を欠いており、むしろ世評なき分をわきまえた謙虚な人々ほど智見が優れていた。政治家の次に、様々な詩人を訪問したが、政治家の場合と同じく、自ら語る内容の真義については何らの理解もなく、特定の才能を以て他の事柄も知り尽くしている智者であるかのようにうぬぼれていたに過ぎなかった。
8、 最後に手工者を訪ねた。彼らもその分野、熟練した技芸においては智者であったが、詩人と同じく、そのことをもって他の事柄に関しても識者と信じていた。こうして一連の歴訪を終え、神託の名において、これまでの自身のように「智慧と愚昧を持たずにあるがままでいる」のがいいか、彼らのように「智慧と愚昧を併せ持つ」のがいいか自問し、前者を選んだ。
9、 こうした行為の結果、自身には多くの敵が出来、多くの誹謗が起こった。また、相手の無知を論証する行為を見ていた傍聴者は、自身(ソクラテス)を賢者と信じるため、名声も広まった。しかし、真に賢明なのは神のみであり、この神託は人智の僅少・空無さを指摘したものであり、神が自身(ソクラテス)の名を用いたのはあくまでも一例に過ぎない。「最大の智者は、ソクラテスのように、自分の智慧の無価値さを悟った者である」と。この神意のままに自身は歩き廻り、賢者と思われる者を見つけてはその智慧を吟味し、その濫用・うぬぼれがあれば神の助力者としてそれを指摘する。この神への奉仕事業のため公事・私事の暇なく、極貧に生活している。
10、 また、富裕市民の息子たちが自身(ソクラテス)を模倣し、その試問によって無知を暴かれた人々も、「青年を腐敗させた」と自身(ソクラテス)に憤った。またその批判内容の無さに窮したあげく、哲学者批判の常套句である「地下天上の事象を〜」といった批判も併せて自身に向けられることになった。こうして詩人代表のメレトス、手工者・政治家代表のアニュトス、演説家代表のリュコンの3名が告発者となり、今回の裁判が起こされた。
メレトスとの質疑応答
11、 「旧い弾劾者」に対する弁明終了、続いて「新しい弾劾者」(当裁判の告発者)に対する弁明へ。訴状の内容「青年を腐敗させ、国家の信じる神々を信じず、新しき神霊(ダイモニヤ)を信じる」の検証。まずは「青年を腐敗させ」の部分から。告発者メレトスは青年の善導に本来無関心なのに、熱心であるかのように装っている。
12、 メレトスへの質問開始。メレトス:青年の善導者は「国法」、人間では「裁判官(陪審員)、聴衆、評議員、民会議員全員」「ソクラテスを除く全てのアテナイ人」すべてが青年の善導者であるという。ソクラテス:馬の場合ならそう答えないはず、調馬師以外の大多数が一緒に躾けたらかえって悪くする、青年も一緒、これでメレトスの青年善導への無関心が暴露されたと反論した。
13、 メレトス:人は自分を益する善人よりも自分を害する悪人を欲すること(青年たちが自ら望んでソクラテスを欲したこと)は「ない」、ソクラテスが青年を腐敗させたのは「故意」だと糾弾。ソクラテス:メレトスの言い分では、自身(ソクラテス)は青年を害し、青年からも害されることを故意に行なっている愚者になってしまうが、そのような者はいない。自身(ソクラテス)は青年を害さないか、無自覚かのどちらかであり、いずれにしろメレトスは嘘を述べている。また、自身(ソクラテス)が無自覚に青年を腐敗させているのなら、自身(ソクラテス)にそれを教示・訓誨すれば済む話なのに、それをせずに不当にも処罰のための裁判へと引き出した。
14、 メレトスの青年善導に対する無関心は明白。次に「新しき神霊(ダイモニヤ)を信じる」の部分に話題移行。メレトス:ソクラテスは国家の認める神々ではなく他の新しい神霊(ダイモニヤ)を青年に教えて腐敗させている。ソクラテス:それは「アテナイ以外の神々を信じる」ということか、それとも「無神論者」ということか。メレトス:ソクラテスは後者の「無神論者」であり、「太陽を石、月を土」と主張する。ソクラテス:それは哲学者アナクサゴラスの主張だと皆知っている。メレトスこそが実は高慢・放恣な無神論者であり、この訴状もそうした青年の出来心ゆえに思える。メレトスの訴状・主張は(「ソクラテスは罪人。神を信じないが故に、しかも神を信じるが故に。」という)矛盾を孕んだ謎かけのよう。
15、 メレトス:「神霊の働き(ダイモニヤ)は信じるが、神霊そのもの(ダイモニス)を信じない者」など「一人もいない」、また、神霊は「神々そのもの」か、「神々の子」と「看做している」。ソクラテス:その言い分では自身(ソクラテス)は「神々を認めないで、神霊(神々)を認める」ということになり、謎かけ・冗談のよう。メレトスがこのような訴状を起草したのは、我々を試しているのか、自身(ソクラテス)を陥れる罪過に苦慮した結果かのどちらか。
最終弁論
16、 「新しい弾劾者」(当裁判の告発者)及び「訴状」に対する弁明も終了、総論へ。自身(ソクラテス)や他の善人を滅ぼすのは、メレトスら告発者(新しい弾劾者)ではなく、むしろ大衆の誹謗・猜忌(旧い弾劾者)である。これまでもこれからもそう。それら大衆によって死の危険に晒される営みであっても、人は自身の持ち場を死をも厭わず固守すべき。
17、 ソクラテス自身は従軍した際にも持ち場を固守した。したがって、今も自身が神から受けたと信じる持ち場、愛智者として他者を吟味する持ち場を、死などを恐れて放棄することはできない。それをしてしまうことこそがむしろ、神託の拒否、賢人の装い、神の不信の罪であり、法廷に引き出されるに値する。死が人間にとって何かを知る者などいないのに、死を恐れることも賢人を気取ること。したがって、アニュトスの「ソクラテスを死刑にするか、放免して子弟を一人残らず腐敗させるかの二者択一」という意見はともかく、今回放免と引き換えに姿勢変更を求められたとしても、自身はこれまでの姿勢を変えない。自身は諸君よりも神に従う。そうした人々には「偉大なアテナイ人が蓄財・名声・栄誉ばかりを考え、智見・真理・霊魂を善くすることを考えないのは恥辱と思わないか」と指摘する。自身は「神に対する私のこの奉仕に優るほどの幸福が、この国において諸君に授けられたことはいまだかつてなかった」と信じている。それは身体・財産よりも霊魂の完成を顧み、熱心にすることの勧告、徳からこそ富や善きものが生じることの附言に他ならない。いずれにしても、放免されようがされまいが、自身の姿勢は一切変わらない。
18、 諸君が自身(ソクラテス)を死刑に処するなら、諸君はむしろ諸君自身を害することになる。自身(ソクラテス)にとっては、死刑・追放・公民権剥奪は、正義に反するという大きな禍に比べれば大したことではない。自身(ソクラテス)は自分のためではなく、諸君のため、諸君が神からの賜物に対して罪を犯し、容易に見出すことのできない自身(ソクラテス)のような人物を失ってしまうことがないようにするために弁明している。長年、家庭を顧みず、貧乏も厭わず、何人にも家族のごとく接近し、無報酬で徳の追求を説くような行為は、人間業ではなく神の賜物。
19、 自身(ソクラテス)が国事に関わらない理由は、幼年時代から現れる「ダイモニオンの声」にある。常に何かを諫止(禁止・抑止)するために現れるこの声が、政治に関わることに抗議する。この抗議は正しく、実際、自身が政治に関わっていたら、既に死んでいただろう。本当に正義のために戦うことを欲するならば、公人ではなく私人として生活すべき。
20、 政治に関わることの危険性に関する2つの例示。唯一の公職経験である評議員時代、ペロポネソス戦争中の紀元前406年におけるアルギヌサイの海戦後の将軍10名に対する違法な有罪宣告に対し、一人反対したことで演説者・大衆の怒号を受けたエピソードと、三十人政権下の紀元前404年、サラミス人レオンを処刑のために連行することを一人拒否して家に帰ったエピソード。
21、 自身は公人としても私人としても態度を一切変えなかったが、公人として政治に携わることが少なかったから、長い歳月生きながらえることができた。誹謗者が自身(ソクラテス)の弟子と呼んでいるクリティアスやアルキビアデスに対しても、譲歩したことはない。自身は何人に対しても、報酬を受け取らず、貧富の差別なく、試問・問答を行なってきた。いまだかつて誰の師になったこともなく、誰に授業を授けたこともない。
22、 自身の仲間となっている人々は、賢明とうぬぼれている人々が吟味されるのを楽しむ。しかし、自身は神からの使命としてこれを行なっている。自身が青年を腐敗させているのなら、その中で既に壮年に達した人々、その家族・一族がここに復讐に来てなければおかしい。ここにもその仲間(クリトン、リュサニヤス、アンティフォン、ニコストラトス、パラロス、アディマントス、アイアントドロス)の子息・兄弟がいるが、彼らはむしろ自身(ソクラテス)を援助している。
23、 弁明として言いたいことは言い終えた。諸君の中には涙を流して嘆願哀求したり、同情をひくために子供・親族・友人を多く法廷に連れ出そうとすることを期待していた者もいるかもしれないが、自身はそうはしない。自身にとっても、諸君にとっても、国家にとってもそれは不名誉なことだから。
24、 裁判官(陪審員)は、国法にしたがって事件を審理しなくてはならない。メレトスの訴状の通りであるか否か。自身は告発者たちよりも堅く神々を信じ、最も善い裁判が成されることを諸君と神々に委ねる。
------------------(黒石・白石による「無罪有罪決定」の投票。結果、約280対220、すなわち30の票差で「有罪」が決定。以下、刑量を巡る弁論に移る。)-------------
刑量についての弁論
25、 有罪決定は予想通りだった。むしろ多くの票差がつくと思ってたのが、意外に僅差だった。30票の投票が違えば無罪放免になっていただろうし、アニュトスとリュコンが告発者に名を連ねてなければ、メレトスは5分の1の票数も得られずに罰金1000ドラクメを払うことになっていただろう。
26、 告発者は死刑を提議している。それに対して何を提議すべきか。何人にも善良かつ賢明になるよう説得することに務めてきた一人の貧しき国家功労者が受けるべき賞罰は、良きものであるべきであり、プリュタネイオン(役所、会議場、迎賓館・宴会場を兼ねたアテナイの中心施設)における食事がふさわしい。
27、 これは傲慢から言うのではない。自身は決して故意に不正を行ったことがないと確信しているが、それを諸君に信じさせるには時間が短すぎる。自身は不正を行っていないと確信しているので、(ましてや福か禍かも分からず恐れてもいないと述べている死刑にわざわざ対抗するためにあえて)提議する刑罰が思いつかない。投獄されて奴隷生活を送ればいいのか。罰金を払うにも金が無い。追放されてもその町々で同じことを繰り返すだろう。
28、 「追放先で静かな生活を送る」ことなど、自身にはできない。それは神命に背くことであるし、人間の最大幸福であり生き甲斐は、日毎、徳について語ることであり、魂の探求に他ならないから。金があればそれを罰金として提議するが、自身は一文無しである。銀1ムナぐらいは払えるので、それを提議したいところだが、プラトン、クリトン、クリトブロス、アポロドロスが罰金30ムナの提議を催促し、その保証人になってくれるというので、それを提議する。
----------------- (「刑量確定」の投票。結果、約360対140の多数を以て「死刑」が確定。)-----------------
「死刑確定」を受けて
29、 有罪・死刑投票をしたアテナイ人諸君は、高齢で死ぬ日も遠くない自身(ソクラテス)の死を待つだけの辛抱が足りなかったばかりに、賢人ソクラテスを死刑に処したという汚名と罪科を負わされるだろう。諸君を批議する人々は自身(ソクラテス)を賢人と呼ぶであろうから。諸君は自身(ソクラテス)が有罪になった理由は、「言葉の不足」「有罪を免れるためいかなる言動も厭わない姿勢の欠如」だと考えるだろう。しかし自身に言わせれば「厚顔・無恥・迎合意図の不足」である。自身はいかなる危険を前にしても賤民らしく振る舞うべきでないと信じていたし、後悔は無い。死を免れることは困難ではない。死を免れるより悪を免れる方がはるかに困難である。悪は死よりも速く駆ける。老年の私は死に追いつかれ、若い諸君は悪に追いつかれた。
30、 自身(ソクラテス)を有罪と断じたる諸君への予言。諸君には死刑より遙かに重き刑が課されるだろう。諸君は諸君の生活についての弁明を免れるために今回の行動に出たが、結果はその意図とは反対になるだろう。自身(ソクラテス)が阻んでいた、若く峻烈な多くの問責者が、諸君の前に現れ、諸君を深く悩ますだろう。正しくない生活に対する批議を、批判者を殺害・圧伏することで阻止しようとする手段は、成功も困難で立派でもない。最も立派で容易な手段は、自ら善くなるよう心掛けることである。
31、 無罪投票をしてくれた諸君(正当な「裁判官」諸君)へ。「ダイモニオンの声」は、今回の件で一度も現れなかったので、今回の出来事はきっと善い事である。死を禍だと考える者は間違っている。
32、 また、死は一種の幸福であるという希望には以下の理由もある。死は「純然たる虚無への回帰」か、「生まれ変わり、あの世への霊魂移転」かのいずれかである。前者であるならば、死は感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものであり、驚嘆すべき利得である。後者であるならば、数々の半神・偉人たちと冥府で逢えるのだから言語を絶した幸福である。
33、 「裁判官」諸君(無罪投票をしてくれた諸君)も、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こり得ないこと、神々も決して彼を忘れることがないこと」を真理と認め、楽しき希望を以て死と向き合うことが必要である。したがって、自身(ソクラテス)は告発者や有罪宣告をした人々にも、少しも憤りを抱いてはいない。なお、自身(ソクラテス)の息子達が成人した暁には、自身(ソクラテス)が諸君にしたように、彼らを叱責・非難して悩ませてもらいたい。蓄財よりも徳を念頭に置くように、ひとかどの人間でもないのにそうした顔をすることがないように。去るべき時が来た。自身(ソクラテス)は死ぬために、諸君は生きながらえるために。両者の内、どちらが良き運命に出逢うか、神より他に知る者はいない.。

ソクラテスの弁明では、ソクラテスは高齢であるからあと生きても数年という自覚のもとでの諦念が働き、ソクラテスは潔い死刑を選んだ。だから一切の妥協や歩み寄りはしていない。むしろ告発人らを挑発し、諭すような態度に出て、刑量の弁明では陪審員の反感を買うような言説を吐くのである。結論から言うとガリレオ裁判では、被告ガリレオの態度はソクラテスとは全く違う。カトリック信徒であることを望み、必死の言い逃れをするが、それがかえってアダとなって有罪を受けるという、ある意味ではだらしのない結果を招いている。当面の危機は嘘をついてでも切り抜ければ、いつか自分の地動説を信じる世の中になるだろうという態度である。私はガリレオを倫理的に責めるつもりはないが、この裁判経過をこれからじっくり検証してゆこう。本書 田中一郎著 「ガリレオ裁判」は決して科学の啓蒙書ではない。「天文対話」や「新科学論議」の解説書でもない。裁判記録として読んでゆきたい。著者が拠ったガリレオ裁判の文献は主に次の3つである。@アントニオ・ファヴァロにより編纂された「国定版ガリレオ・ガリレイ全書」(19世紀末ー20世紀初頭) Aヴァチカン秘密文書館長セルジョ・パガーノにより出版された「ガリレオ・ガリレイ裁判資料集」(1984年、2009年増補版) B教理聖省文庫公開(1998年より)である。資料という点で問題は、ナポレオンが没収した全文書の大半が失われたことである。1810年ローマ教皇庁に保管されていた全文書がフランスに運ばれた。ナポレオンはガリレオを愛していたので、膨大な文書のうちガリレオ裁判記録だけは別便で送られた。当時のフランスは啓蒙主義全盛の時代であった。ガリレオに対するナポレオンの偏愛は、当時のフランスの知識人たちに共有された科学的合理主義への信奉と旧市街階級に対する憎悪を反映していた。パリに到着したガリレオ裁判記録は1811年1月ナポレオンの個人司書バルビエの手に移り、裁判記録をフランス語に翻訳し出版計画と予算が提出された。1615年から1633年までの裁判記録の要約は作成されたが、1814年ナポレオンが失脚し王政が復古されると、ルイ18世は全バチカン文書を返還すると宣言した。ヴァチカン文書のうち異端審問所の集会議事録、異端審問所から委託された図書検閲藩邸禁書目録はローマに戻った。驚くべきことに文書輸送費用捻出(ヴァチカン負担)のために多くの文書が古紙売業者に売却された。ナポレオンが運んだ全文書の2/3が失われていた。問題はガリレオ裁判記録であるが、フランス王立図書館長になっていたバルビエからブラカ伯爵の手に移管された。1815年3月にナポレオンが返り咲いてパリに帰ると、返却計画は一切振出しに戻った。1843年ブラカ伯爵邸に在ったガリレオ裁判記録が発見されてヴァチカン秘密文書庫に戻った。啓蒙時代の百科全書派はガリレオをカトリック教会と闘う英雄とみなす傾向があった。それが今日の我々にまで受け継がれてガリレオとカトリック教会との対立、あるいは科学と宗教の闘いというイメージが常識となった。なお現在のバチカンの見解は当時とは異なっているので参考までに記す。1979年当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は「アインシュタイン生誕100年祝典)」講演を行い、「ガリレオの偉大さはすべての人ン知るところであると述べ、1981年ガリレオ事件調査委員会が設置され、ガリレオ裁判記録が公開されることになった。ヨハネ・パウロ2世は科学の真理と信仰は対立する者であってはならないし、科学に関する学説に教会は口を挟むべきではないといった。つまり科学的真理と聖書の記述が異なる場合、聖書の方を解釈しなおすというガリレオの主張を認めたのである。ガリレオ事件調査員会の報告は1992年10月に出され、「信仰と理性の調和」という講演もなされた。恐慌も、科学が対象とする問題を信仰についての教義の問題のなかに持ち込むという誤りを犯してしまったと反省した。

本書全体を通じてガリレオ関係年譜を頭に入れておくと便利なので、まとめておく。
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年 最初の論文『「小天秤」を発表。
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年 ピサ大学数学講師に就任(3年契約)。
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
1592年 ピサ大学の職が任期切れになる。ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
1609年 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。
1610年 木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを「星界の報告』」として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。(ケプラーが「星界の報告者との対話」を発刊、ガリレオを擁護する。) ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
1613年 「太陽黒点論」を刊行。
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。 コペルニクスの「天体の回転について」、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
1623年 「贋金鑑識官」、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
1632年 「二大世界体系についての対話」をフィレンツェで刊行。(日本では「天文対話」) ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年 オランダで「新科学対話」を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年 アルチェトリにて没。享年78歳

田中一郎著 「ガリレオ裁判」は、文字どおり裁判記録であって、ガリレオの科学的業績を論じるものではないが、告訴の主因が地動説という天文学上の重要問題に関係するので、ひととおりガリレオの科学的業績、科学的発見を概観しておこう。まず天文学についてである。ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。これを用いて1609年月にガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えを訂正するものであった。また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に「星界の使者」として論文発表された(ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説を排するものであった。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返す上に、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球からつねに三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった・さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。物理学の分野では、ピサ大聖堂で揺れるシャンデリアを見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。力学の法則でニュートンに先駆けて、ガリレオは落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ガリレオの主著書をまとめると以下になる。
『星界の報告』( 1610年)
『太陽黒点論』(1613年)
『贋金鑑識官』(1623年)
『天文対話』もしくは『二大世界体系にかんする対話』(1632年)
『新科学対話』(1638年)
『レ・メカニケ』(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年)

1) 宗教裁判とは

ガリレオ裁判を正しく見るには、まず当時の宗教裁判の目的を知る必要がある。少なくとも現在の刑事裁判の目的をあてはめることはできない。ガリレオ裁判が冤罪であったとか誤審であったとかという考えは、法定外のうわさに過ぎない。ガリレオ裁判が当時のローマ教皇国の裁判制度の先例にどれほど従っていたか、またはどこが変則的であったかを知るには、ガリレオ裁判を除く多くの裁判資料が失われた状況では、上記の3資料から読み解くことになる。ローマに異端審問所が設置されたのは1545年トリエント公会議からである。この会議の当初の目的はプロテスタントとの融和を図る事であったが、プロテスタントの出席が得られなかたのでむしろプロテスタントへの糾弾会議となり、異端を撲滅だけでなくカトリック教会の改革はを抑える結果になった。反宗教改革が始まり、ルネッサンスの自由な雰囲気はもはやなくなった。教皇権力の強化にとって異端を撲滅することは必須の要請となり、ドミニコ会やイエズス会が異端審問に関係した。ガリレオ裁判においてもこの二つの会の聖職者が暗躍したという説も流れた。トリエント公会議のも一つの重要な結論は、「聖書」を文字通りに解釈されるべきというものであった。ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったが、自分の望遠鏡による天文学的発見からコペルニクス地動説の正しさを確信することになるが、それが聖書の記述と矛盾する場合には、聖書の方を解釈しな推すことで解消しようという態度であった。トリエント公会議が欧州における宗教的対立を激化させ、1618年にはじまる30年戦争を勃発させる原因となった。ガリレオが宗教裁判にかけられた1616年から1633年はちょうどそのような時期に当たる。しかし宗教戦争と言われた30年戦争は、実質的には欧州を二分するフランスのブルボン家と、スペインと神聖ローマ帝国を支配するハプスブルグ家の覇権争いであった。スウェーデンとフランスが手を握り、イタリアの都市国家を支配下におくスペインの力をそぐためローマ教皇はフランス側に就くという、宗教的対立と政治的他立が複雑にからみあった戦いであった。プロテスタントによる聖書解釈に対するかたくなまでのローマ教皇の拒否は、コペルニクスの地動説にまで波及したのである。これがガリレオ裁判の真相であり背景であった。異端審問所はローマだけでなくスペインにもポルトガルにもあった。スペインとポルトガルの審問所は国王の権限の下にあり、ローマでは教皇の権力はイタリア国内に限られていたので、他の世俗国権力には及ばなかった。ローマの異端審問所は、検邪聖省と呼ばれ、教皇庁の省のひとつである。10人の枢機卿が異端審問官を務めた。イタリア内の各地で審問の場(裁判)が行われた。しかし判決の場はローマのサンタマリア・ミネルバ・ドミニコ会修道院が選ばれた。検邪聖省の異端審問集会は週2回おこなわれ、水曜日はミネルバ・ドミニコ会修道院において教皇抜きで開催され、木曜日はバチカン宮殿において教皇が出席して行われた。宗教裁判が現代の裁判と大きく違うところは、第1にそれが有罪か無罪かを争う場ではないことである。異端審問官は検事でもあり裁判官でもあった。当時は人権とか権利とかいう概念は希薄で、キリスト教を棄教したものはそのキリスト教徒としての権利は剥奪される。そして裁判の大半は書面で行われ、最後の判決の場まで被告と異端審問官が顔を合わせることはなかった。宗教裁判の目的はキリスト教の正統から逸脱した思想の持主の魂を救済し、教会との和解を実現することである。被告の告解(自白、懺悔)は不可欠であった。異端思想を抱いているという自覚がなければ(確信犯)贖罪は無意味で、異端の証拠はその人の心の中に在って物証はないからである。自白が得られない場合には尋問官による拷問もあり得た。それでも自発的な告解(自白)として処理される。自白が得られたときは、日曜日に罪状が宣告される。程度により、改悛、断食、祈祷、巡礼、公開のむち打ち、黄色いフェルト製十字架を縫いっ付けた衣服の着用、投獄、(8年未満、自宅軟禁、地下牢など)、罪状を認めない場合には極刑として火あぶりがある。1600年ジョルダーノ・ブルーノの火刑は有名であるが、こんな極刑は例外である。宗教裁判は誰かが特定の人物を告発することで始まる。告発を受けて異端尋問官は予備的な尋問を開始した。告発に値する根拠があったかどうかを証人、容疑者に尋問する。疑いが濃厚であると判断されれば、被告は異端尋問所に召喚され、裁判が正式に開始されることになる。ローマでの尋問は総主任が指揮し、尋問と回答は記録された。尋問が終わると被告は罪状認否をした。被告が書かれた罪状を認めて署名すると、再尋問の後自らを弁護する抗弁の機会が与えられる。検邪聖省の事務官は摘要報告書を作成し、顧問と枢機卿ン伝達される。判決を水曜日の集会で審議し議決して教皇の裁決を仰いだ。ローマ教皇が出席する木曜日の総集会で、顧問の裁定と報告された内容について最終決定がなされる。判決には赦免、勧告、刑罰があり、検邪聖省が判決を変更できる権限を持っていた。有罪判決を受けた被告は異端を捨てるという異端聖絶という宣誓を行った。こうして被告は再びカトリック教会に受け入れられた。最終段階は判決文の公表であり、公式文書になった。

2) 地動説の確信と1616年の宗教裁判

ガリレオの科学的業績については、前に書いた通りなので、ここではガリレオ裁判に関係する部分だけをまとめておこう。中世以来の大学で教えられていたのは、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスの自然哲学であった。それは天動説に根拠を置いていた。地球が不動の位置を占め、太陽や惑星が周回する考えである。又天体は完全な円または球、完全な等速運動、月と地球では生成消滅が起るが、それ以上の神聖な世界ではすべてが不変という特徴があるとされた。プトレマイオスはアリストテレスの天動説を受け継ぎ、実用的な暦を作った。しかし彗星や新星の出現はアリストテレスの宇宙像をに疑問を投げかけ、暦の改変は細かな修正を加えて1582年グレゴリ暦がユリウス暦に取って代った。改暦問題が、1543年「天体の回転について」という著作で地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの出現を用意した。宗教問題へ導くこととなった天文学の研究をガリレオが開始したのは、バドヴァ大学教授時代の1609年末で、彼が45歳の時であった。ガリレオは30倍の倍率を持つレンズ型望遠鏡を製作しまず月の満ち欠けや表面の凹凸を観察した。1610年ガリレオは木星の3つの衛星を発見し、「星界の報告」をこの年の3月に発表した。木星の衛星に関して地動説に言及する文章もあった。すでに惑星の軌道が楕円であることを発見し、地動説を信じていたヨハネス・ケプラーはガリレオの著書に賛辞を贈った。ガリレオは(結果的には間違っていたが)潮の満ち引きから地動説が正しいと確信した。ガリレオは木星の衛星をメディチ星となずけ、それを手土産としてトスカーナ大公付きの首席数学者兼哲学者に任命された。1610年12月ガリレオは金星が月と同じように満ち欠けをすることおよび大きさが変化することを発見し、地球が中心だとする天動説では説明できないと主張した。金星は間違いなく太陽の周りを回っており、その他の惑星も同じであると確信した。金星の満ち欠けは地動説の疑いない証拠だとガリレオは思った。この研究成果を説明するためガリレオは1611年ローマに向かった。イエズス会のローマ学院や、科学アカデミー「リンチェイ・アカデミー」を訪問した。ローマ学院はガリレオを受け入れ、リンチェイ・アカデミー会員に選ばれた。またガリレオは太陽の黒点観察結果を発表し、太陽も生成消滅をするものであると主張した。1613年「太陽黒点論」という著作が出版された。では聖書野記述を見てみよう。旧約聖書「ヨシュア記」には神が太陽と月の動きを止めたという。ガリレオが地動説への確信を深めれば聖書の記述とどう折り合いをつけるか危険な罠が待っていた。ガリレオへの反論は意外なところから始まった。1613年12月12日ベネデット・カステリがトスカナ宮殿の朝食会で、たまたまメディチ星を紹介したところ、ピザ大学哲学教授コジモ・ボスカリアが地球の運動は聖書の記述に反すると言い出し、メディチ家のクリスチーナ母公もカステリに質問したという。ガリレオはさっそく12月21日にカステリに長文の手紙を書き自分の考えを説明した。しかし学術上の問題が聖書の解釈という危険な論理に絡めとられたのである。それからちょうど1年後1614年12月20日に、ドミニコ会士トマゾ・カッチ二がフィレンツェの説教台からガリレオ主義者は聖書と矛盾したことを言っていると非難した。

地動説はガリレオが初めて言い出したことではない。コペルニクスが「天球の回転」についてを刊行した時、印刷を監督した神学者のアンドレアス・オジアンダーが著書に無断で冒頭に「これらの地動説の仮説が真であるかどうかは必要ではなく、むしろ観測に合う計算をもたらすかどうかということだけで充分である」と付け加えている。コペルニクスをかばった見事な言い分である。コペルニクスの地動説で天文計算ははるかに単純化された。中国の近代化に貢献したケ小平が「経済発展のためには、黒い猫でも白い猫でも良い。」と言ったことに同じである。計算技術上の仮説としてコペルニクスの説は受け入れられ、異端問題は発生しなかった。これに対してガリレオは望遠鏡による天文学上の発見と潮汐現象を根拠として、古代アリストテレスとプトレマイオスに始まりキリスト教世界で広く受け入れられた天動説は間違っており、地動説こそが真の世界像であると主張したのである。1615年2月ニッコロ・ロリー二が「カステリあての手紙」のコピーをローマに送り、ガリレオが異端思想を抱いていると検邪聖省に告発した。枢機卿らはこの手紙の信憑性を調べるため、多くの証人を尋問した。検邪聖省は11名からなる特別委員会を設置した。特別委員会は全員一致で答申書を採択した。判断の基準は聖書の記述に照らして容認できるかどうかに絞られた。答申書は太陽の不動性については厳しく異端とし、地球の運動については異端とまでは断定していない。1616年2月25日総集会において、教皇パウルス五世はガリレオを召喚し、決定内容をガリレオに申し渡すことになった。ガリレオはその学説を討論することも擁護することも、人に教えることも差し控えるという禁止命令と、若し従わなければ投獄することをミリニ枢機卿が伝えて、ベラルニーノ枢機卿がその役を遂行することになった。ベラルミーノの邸宅のガリレオを召喚して、総主任セジッツイ師の前で、ベラルミーノはガリレオに訓告した。訓告内容は「地動説は本当の宇宙を表していると主張するのではなく、仮説としてであれば言及できる」という。これに対し総主任の命令では、「全面的に放棄し、いかなる仕方においても教えることはできない、仮説としてでも言及することはできない」というものであった。ベラルミーノの訓告だけで済ますのは生ぬるいと憤慨したドミニコ会の総主任は禁止命令を付け加えたのだという。1616年の宗教裁判にいて訓告だけで何の罪にも問われなかったガリレオは、ローマにおいて自分が異端聖絶をしたという噂が広まって事を知って、ベラルミーノを訪問してこのうわさを否定する証明書を要求した。「ガリレイ氏が異端聖絶をしたことはない。まして懺悔も罪科を負ったこともない。教皇の布告であるコペルニクスの学説は聖書に反しており、それゆえに擁護しても抱いてもならないことを知らされただけである」という内容であった。ベラルミーノは一貫してガリレオに同情的であった。コペルニクスの地動説を惑星の運行を計算するための道具として用いることはさしつかえないが、それが宇宙の真の姿と考えることは許されない」という内容はよく考えると詭弁であるが、ベラルミーノはコペルニクスの地動説を異端から救おうとしたとみられる。1616年3月、禁書目録省から新たな禁書目録が公布された。そこでコペルニクスの「天体の回転について」を閲覧禁止することを決定した。そして1620年5月、禁書目録省から、コペルニクスの「天体の回転について」の読者への勧告が出された。記述修正印刷命令であった。この1615年から1616年にかけての宗教裁判ではガリレオ本人の罪は問われなかった。ガリレオに味方するベラルミーノらの聖教者に助けられたといえる。高位聖職者はおおむねガリレオに好意的であった。聖職者の中には地動説が仮説としてなら容認できるという勢力の力関係の結果であった。

3) 1632年「天文対話」刊行

訓告後、ガリレオはしばらく天文学に関する発言を差し控えていた。1618年彗星が3つも現れ、オーストリアのレオポルド大公から見解を求められた。ガリレオは病気療養中だったのでこの彗星を観測していなかったが、自分の見解をまとめ、1619年「彗星についての論議」を弟子の名前で刊行した。これはガリレイにしてはアリストテレスの気象学を援用した変な見解であった。むしろイエズス会のグラッシュ神父が「天文学的・哲学的天秤」という本を出版してガリレオの見解に反論した。グラッシュは彗星は月と太陽の間にあると結論した。ガリレオは1623年「偽金鑑識官」という本を書いてグラッシュの本を辛辣に揶揄した。この論争自体はガリレオは地動説に依拠していないばかりか、アリストテレス世界像から説くもので、ヘンな論争であるが、少なくともガリレオとイエズス会の間に感情的こじれが生じ、イエズス会を反ガリレオ陣営に回してしまったと著者はいう。これはガリレオ裁判の伏せんとして理解される。この本の出版前にバルベリーニ枢機卿が教皇に選出され、ウルバヌス八世となった。ガリレオの弟子カステリは治水事業に参加し、教皇の二人の甥の家庭教師となり、さらにガリレオの熱烈な支持者であったジョバンニ・チアンポリは教皇の側近となった。こうして状況はガリレオにとって有利な方向に向かい、彼は潮の干満についての著作に取り掛かった。この著作が地球の自転と公転を前提としたものになるは当然の帰結である。地球の海の干満を主題とする限り、異端とされた太陽の不動の位置を扱うものではないので大丈夫とガリレオは読んだようだが、それは目論見違いで会った。「天文対話は1929年の年末に完成した。この本は3人の対話形式をとって、ガリレオの意見を代表するサルヴィアナ、アリストテレス的世界観を代表するシンプリチオ、中立的立場のサグレドが4日間討論する仕立てである。第1日目はアリストテレス的世界観が批判され、第2日目は地上での運動(力学)が論じられ、第3日目にはコペルニクスの地動説を証拠づける金星、木星、太陽黒点のガリレオの研究結果が紹介され、第4日目には彼に地動説の正しさを確信させることになる。ガリレオはローマでの出版を許可する検邪聖省のニッコロ・リカルディ神父に期待していた。1630年ガリレオはローマに出かけ交渉を始めた。有力な支持者チェシの突然の死亡と、ペストの流行による検疫のための足止めがあり、出版交渉は困難を極めた。ガリレオはフィレンツェの異端審問官クレメンテ・エジディ神父に出版の趣旨を説明する手紙を書いた。この尋問官はローマから任命されていたが、同時にトスカナ大公に臣従していたので、ガリレオに故意的な検閲をしてくれるだろうということが予測された。エジディ神父から印刷許可が出て、7月にはリカルディから序文と結論が送られて、1632年2月「天文対話」は千部が印刷された。ガリレオが関係者に配布したところ、リカルディから待ったの手紙が届いた。「本書に好ましからざる点が多くあり、修正を要求する意見が出て、修正を指示するまで本を差し止める。」というものであった。リカルディがエディに伝えた差押さえ命令は、教皇から出たものに違いなかった。扉絵の図版、序文と本文の活字の問題、など些末なことはいいがかりに過ぎなかった。本質はその内容にあった。9月4日「天文対話」について審議する特別委員会が設置された。コペルニクスの「天球の回転について」と同じように禁書または訂正するまでは閲覧禁止といった結論が危惧された。友好的雰囲気から一挙に罪人扱いに移ったいきさつには、教皇庁内部の内紛のためガリレオに味方する勢力がローマからいなくなったことである。チェシの死だけでなく、皇帝の寵臣チアンポリが失脚し左遷された。教皇は選挙で選ばれるので、教皇庁での人事異動は世俗王室の政権よりも徹底していた。30年戦争においてスペイン派と対抗する教皇はフランスとひそかに手を組んでいた。特別委員会のメンバーは3人で、リカルディ神父、オレッジ神父、イエズス会士メルキオール・インコ―ファであった。特別委員会は5回の会合の後で、報告書Aと報告書Bが書かれた。
報告書Aは1630年の「天文対話」執筆から時系列に事項をを叙述した。@ガリレオは地球の運動と太陽の不動性を仮説としてではなく、絶対的なものと主張している。A1616年に下された禁止命令(コペルニクス的地動説の意見を全面的に放棄し、いかなる方法でも抱きもせず、教え、擁護もしない)のことを黙殺している。という糾弾書であった。
報告書Bは長文で、起訴されるべき罪状項目が書かれている。@許可なくローマでの出版許可を付け加えた。A序文の活字が本文と違うことは、序文をないがしろにするものである。対話人物描写に見え透いた意図が見える。B仮説からの逸脱がある。地球の運動と太陽の不動性を絶対的なものとして主張している。C本文記述で反対論者や教会派論者を虐待している。D人間と神の知性は幾何学と同じように理解できると断言している。Eコペルニクス主義者はプトレマイオス主義さyにはならない。F潮の満ち引きを太陽の不動性と地球の運動のせいに帰している。なおこれらのことは本の修正だけで対応できることもあり得るとガリレオの意見撤回を迫っている。するとまず報告書Bの罪状項目が書かれ、次いで結論として報告書Aが書かれたというべきである。特別委員会の最終的な正式報告書はAであった。1616年の命令違反と地動説の絶対性の主張が罪にあたることになる。

4) 1633年ガリレオ裁判記録

特別委員会の報告書に基づき、1632年9月23日の検邪聖省総集会はにおいて、ガリレオはローマの異端尋問所に召喚する決議がなされた。ガリレオは病気を理由にローマに行くことを拒んだし、周辺の人々特にトスカナ大公はガリレオの健康状態と高齢とペストを理由にローマに行くことは困難だとウルバヌス八世とバルベリーニ枢機卿(教皇の弟)に訴えた。1933年1月1日バルベリーニ枢機卿は教皇の断固たる命令を伝えた。ガリレオは1月20日ローマへ向けて出発し、2月13日ローマに着いた。ガリレオは検邪聖省ではなくトスカナ大使邸に住むことを許された。ガリレオは3月27日の復活祭のため2か月も待たされたあと、4月9日ニッコリ―ニから審問の開始を告げられた。この時点でガリレオは弁明の余地はあると楽観的であった。トスカーナ大公はなおガリレオの裁判を回避するための手を各方面にうったが、教皇の意志は固く、ガリレオの科学的方法により自然理解はすべてに優先されるという考えは虚構には理解されなかった。すでに1632年末に検邪聖省のリカルディは去り、彼に代わって新任の総主任ヴィンチェンツォ・マクラノが登場した。ドミニコ会の出身で、ガリレオ裁判の後1639年に検邪聖省の長官になり、1641年には枢機卿になった。マクラノが教皇の意図に忠実な執行者として検邪聖省総主任に選ばれたので、ガリレオの逃げ場はなくなった。1633年4月12日に第1回尋問が行われ、4月30日に第2回尋問、5月10日第3回尋問1633年6月22日判決が言い渡された。第1回尋問から第3回尋問までの裁判の経過を順を追ってみてゆこう。
第1回尋問 4月12日: ガリレオは4月11日に検邪聖省に出頭した。4月12日マクラノの尋問は、検察官カルロ・シンチェリが同席する中で型どおりに始まった。訴因を告げガリレオがそれを認めるかで尋問は終了するはずであった。ガリレオは自らの非を認めることはなく、かえって「天文対話」のことに話題を持って行った。ベラルミーノ枢機卿の1615年4月12日の手紙を提出し「絶対的でなく、仮説をして述べるだけなら許される」と主張した。1616年5月26日のベラルミーノ枢機卿の証明書も提出した。ここで1616年のセジッツィの禁止命令が持ち出され、ガリレオは「いかなる仕方においても、意見を抱いても擁護してもならない」といった命令が与えられたかもしれませんが、記憶にありません」ち1616年お約束を否認した。問題の確信は、仮説としてなら抱くことができるという解釈もできるベラルミーノ枢機卿の証明書と、「いかなる仕方においても、抱くことも擁護することもできない」というセジッツィの禁止命令のどちらを採用するかであった。また「天文対話」の出版許可を得るときに、1616年の禁止命令をリカルディに伝えたかという論点に移った。ガリレを何も伝えていないことを述べた。第1回尋問は意外な結果となって、ガリレオは無罪を主張し、検邪聖省が知らなかったベラルミーノ枢機卿の証明書のことまで持ち出したのである。ガリレオが罪を認めなかったので裁判は振出しに戻った。そこで異端の証拠をはっきりさせるため、3人の顧問からなる新たな委員会が立ち上げられた。特別委員会が教皇の私的な諮問会議だとすると、今回の顧問委員会は検邪聖省としての公的なものであり、改めて「天文対話」の内容の精査に入り、異端の証拠を明らかにすることが任務であった。委員会のメンバーからリカルディが外されパスクアリゴに代えられた。インコ―ファ―、オレッジそしてパスクアリゴが顧問委員会のメンバーとなった。不用意に「天文対話」の出版許可を与えたリカルディへの教皇の信頼が失われたのである。1週間後4月17日の日付で各自は答申書を書いた。とくにパスクアリゴの答申には「彼はあらん限りの努力をして地球の運動と太陽の不動性を支持しようとしている。彼はそうした意見を抱いているという強い疑いがある」ということが書いてあった。インコ―ファの答申書には「ガリレオは地動説を教え、かつ擁護しているのみならず、彼はこの意見に執着していると強く疑われる」と書いた。オレッジの答申は簡単に「本の全文から推測できるように、地球が動き、太陽は静止していると教える意見が抱かれ、擁護されている」と結んだ。4月21日の検邪聖省の集会で顧問たちの見解が伝えられた。第1回尋問では、「いかなる仕方においても、抱くことも擁護することもできない」というセジッツィの禁止命令が重要な意味を持っていた。この禁止命令違反を証拠として、マクラノはガリレオに罪を認めることを迫った。ベラルミーノ枢機卿の証明書を無罪の証拠とするには、「コペルニクス地動説を仮説として扱っていなければならない。従ってガリレオはベラルミーノの命令にも違反しているとした。証明書提出が藪蛇となった。異端を疑われて起訴されると、宗教裁判には無罪はなかった。告解し、教会は堕落した魂を救済する、これがすべてであった。
第2回尋問 4月30日: ガリレオに告解させ裁判を結審させ、教会の名誉を保つことがマクラノの任務であった。宗教裁判では被告に罪を認めさせることが不可欠である。そうでないと魂の救済ができないのである。マクラノはガリレオに自分の誤りを認めさせ、告白するところまで持ってゆく手段として、法定外でガリレオと交渉する権限を検邪聖省に認めさせて、マクラノはいわば「司法取引」を行ったようである。そして4月27日ガリレオは罪を告白することに同意した。ガリレオが罪を認めることに同意したことを受けて、第2回目の審問が4月30日に行われた。ガリレオは「私の過ちはむなしい野心と全くの無知と不注意によるものです」と自白した。ガリレオは地動説を退けようとしたことになる。この宣誓供述書においてガリレオは検邪聖省の意に沿う議論を展開した。このことによってまだ結審していないのに、トスカナ大使館にけることを許された。
第3回尋問 5月10日: 5月10日ガリレオは検邪聖省に出頭した。今回の審問は抗弁書とベラルミーノの直筆証明書提出だけで、短時間で終了した。そのベラルミーノの証明書はガリレオを助けるどころか彼の訓告にすら違反しているという有罪の証拠に変わっていた。抗弁書でガリレオはセジッツィの禁止命令を受けた記憶はないといい、名誉と評判だけを守ってほしいと結んだ。この審問を最後として6月16日木曜日の検邪聖省の総集会で満場一致で「決定」が採択された。「教皇は次のように命じられた。ガリレオの意図について、拷問の脅しをもって尋問すべきである。もし認めたなら重大な異端の県議アリとして総集会で異端誓絶させ、地球の運動と太陽の静止について、どのような仕方であれ書いてでも口頭でも今後は取り扱わないように命じ、異端を繰り返せば痛みを伴う(死罪)という条件で、投獄刑が宣告されるべきである。彼によって書かれた天文対話と題する書物は禁止されるべきである」 このあと6月にかけて5月26日を含めて3回総集会が開かれた。6月21日ガリレオは検邪聖省に出頭し、マクラノの尋問を受けた。ガリレオの「意図」に関して最後の尋問であった。教皇はトスカナ大使に「1616年の命令に背いたのだから投獄刑はやむを得ない。どこかの修道院になろう。この最後の尋問が終わればすぐに結審し、ガリレオにとっても最悪の事態は避けられる。」と語った。かくしてガリレオは圧力に屈して異端の罪を認め、異端誓絶をしたといわれるが、よく読むとガリレオは異端の罪を犯したとは述べていない。確かに1616年のコペルニクスの禁書目録以前には、仮説として地動説を述べることは犯罪ではなかった。ガリレオも1616年に訓告を受けただけで処罰されたのではない。第2回尋問で過ちを認めたが異端の罪を認めたのではない。そうしなければ極刑が待ち受けるだろうから、折れた形を装った。それで教皇側は名誉を保つことができた。それが双方の妥協点として取引したのであろう。彼は宗教を取るか科学を取るかで苦悩したというより、彼はどちらも守ろうとしたのであろう。

5) 判決とその後

1633年6月22日水曜日、ガリレオはサンタマリア・ソプラノ・ミネルヴァ修道院へ連れてゆかれた。ひざまずいたガリレオの前で判決文が読み上げられた。1616年の「いかなる仕方においても、抱くことも擁護することもできない」というセジッツィの禁止命令に対する違反、そしてベラルミーノの訓告にも違反している。「天文対話」は、コペルニクスの地動説をいかなる手段でも扱わないという命令に違反すると述べたうえで、判決の主文が宣告された。「重大で有害な過ちと違反が全く処罰されないままにならないように、同様な罪を再度クリ消さないように、ガリレオの書である天文対話を公の布告により禁止する。検邪聖省の正式な監獄に入ることを命じる。改悛の行を3年間毎週1回行うことを課す。この刑罰と改悛の行は軽減したり、変更したり、撤回する権限は我々が留保する」 判決が言い渡されるとガリレオは異端誓絶をした。「・・・・前述の誤りと異端を誓絶し、呪い、嫌悪する・・・・」 翌日からガリレオはメディチ家の別荘に軟禁と減刑された。そして7月上旬には友人だったシエナ大司教ピッコロ―ミニの下に軟禁となった。その半年後フィレンツェ郊外の自宅に戻ることができた。楚の自宅でガリレオは最晩年の著作「新科学論議」を完成したのは1636年のことであった。ガリレオは助手を使って科学研究をこなった。助手には真空の研究で有名なトリチェリらがいた。かくも判決の刑の重さと実際の処罰との隔たりは大きい。判決は教皇の権威の強さを示すだけで、実際は適用されなかったというべきであろう。結局ガリレオ裁判は新しい科学の地動説と教会の教義との討論を避け、命令違反という形で罪を問うたのである。それでもデカルトは裁判の結果を見て、自身の著作「世界論」の出版を取りやめた。宗教が科学の発展を阻んでいると非難する人が現れ、宗教と科学が対立するのは、これ以降の時代である。18世紀のフランスでは、ガリレオを蒙昧なカトリック教会に対して真実を主張し続け、果敢に戦った英雄的科学者として位置づける啓蒙主義が盛んとなった。「それでも地球は動いている」とガリレオが言ったかどうかは知らない。


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