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藤井省三著 「魯迅-東アジアを生きる文学」 

 岩波新書 (2011年3月)

東アジア共通の現代の古典として、抵抗と受容の主体性の文学 

現代中国は、魯迅文学を抜きにしては語れないといわれます。日本の中学校用のすべての教科書でその作品が紹介されているといわれている。魯迅、本名は周樹人(1881-1936年)は1902年に日本に留学し東京で文学活動を開始し、多感な青年時代を日本で過ごした。魯迅は中国帰国後は抗日救国運動の先頭に立ちその文脈で、共産中国樹立後は革命文学の聖人となった。浙江省紹興市に生まれ、没落しつつある士大夫階級の出身。弟に文学者・日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人(1888-1984)がいる。ペンネームの魯は母親の姓だという。まず幼少年期を除いて荒い略歴を記し魯迅を概略知ることを試みる。その後に略年譜を記す。21歳で留学生に選ばれて来日する。牛込の日本語学校弘文学院(嘉納治五郎創設)にて松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。日露戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、中国人が日本人によって、間諜スパイとして処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。その情景と中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』)。当時周には多額の奨学金が支給されており、夏目漱石など日本の小説の読書に熱中していた。中国人が処刑される情景に出会ったことが進路を考え直す契機を与え、1906年3月に仙台医専を退学し、東京へ転居した。友人金心異から小説を書くように勧められたが、故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋で熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例えて、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないかと言ったという。それに対して金心異は、「起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか」といった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた。帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。

魯迅略年譜
1881年 9月25日紹興に生まれる。
                                      (1894年-95年 日清戦争)
1896年 父周鳳儀死去 
1898年 南京江南水師学堂(海軍学校)に入学
1899年 南京鉱務鉄路学堂(鉱山鉄道学校)に入学
1902年 日本に留学 弘文学院(中国人留学生の予備校)に入学
1904年 仙台医学専門学校に入学               (日露戦争始まる)
1906年 仙台医専を退学し、東京に出る  夏に一度帰国し朱安と結婚
1909年 「城外小説集」(外国小説翻訳)を周作人と共訳で刊行  帰国 杭州の師範学校教員となる
1910年 紹興の中学校教員となる                (日本 韓国併合)
1911年 紹興の初級師範学校校長となる           (辛亥革命 袁世凱大統領に)
1912年 南京新政府教育部の役人となる  政府と共に北京へ移動  (中華民国成立)
 (1914年第1次世界大戦 1915年日本 中国に21か条の要求 1917年ロシア革命)
1918年 「狂人日記」発表                     (張作霖 北京に進出)
1920年 北京大学講師になる
1921年 「故郷」発表、「阿Q正伝」連載開始          (中国共産党成立)
1923年 「吶喊」刊行                        (第1次国共合作)
1926年 「彷徨」刊行 北京を脱出し厦門大学教授となる   (3・18事件 北伐開始)
1927年 広州中山大学教授 クーデター後上海へ移動     (4.21反共クーデター)
                                     (1931年満州事変)
1932年 上海事件のため内山書店に避難            (上海事変)
1933年 許広平との往復書簡集「両地書」刊行         (日本 国際連盟脱退)
1936年 「故事新編」刊行 10月逝去              (日本 2.26事件)

1) 刺戟に満ちた留学体験ー東京・仙台時代

魯迅の幼少年期は省略するといった。没落する士大夫階級(挙人・秀才・進士)の息子として生まれたというだけで、取り立てて特筆するようなことは無いと思う。魯迅が生まれ育った清朝末期の政治と社会状況については吉澤誠一郎著 「清朝と近代世界 19世紀」ーシリーズ「中国近現代史」@岩波新書)に記した。日清戦争に敗北した中国は、それまでの「洋務運動」を越えて日本の明治維新をモデルとする全面欧化の「変法運動が始まった。その理論的指導者は康有為と、メディア界では梁啓超であった。梁啓超は、西太后と保守派のクーデターである「戊戌の政変」後に、日本に亡命して雑誌を刊行し立憲君主制を唱えた。魯迅は南京鉱務鉄路学堂在学中には「天演論」というダーウインの進化論を知り、近代思想や科学に接したのち、新興都市東京に留学して革命運動の機運に染まってゆくのであった。日本在住の清朝の中国人留学生の数は魯迅の来日の1902年には608名であったが、その後急増し1906年には1万2000名に達した。魯迅の東京時代は1902-1909年の7年間で、日露戦争を挟んで東京は人口277万人の帝都として漱石や?外らの文学が勃興しつつある時代であった。東京は鉄道・路面電車が施設され交通通信の革命的発展により新聞など情報の発信中心となり教育制度と印刷業の普及により、新たに読書階級(漱石がいう高等遊民)が形成された。

中国人留学生の日本語教育と生活指導のため高等師範学校校長の嘉納治五郎が設立した弘文学院(予備校)に入学した。ここで2年間学んでいる。弘文学院を卒業して、1904年魯迅は無試験で仙台医学専門学校に入学した。ここで解剖学の藤野厳九朗教授の懇切な指導を得るが、「吶喊自序」の述べられているように、ある幻灯を見せられて以来、「中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だ」と考えた。そこで仙台医学専門学校を1年半で退学し、東京に出た。人口10万の地方都市では知的刺戟に欠いたのだという説もある。東京ではドイツ語専修学校に籍を置いて、もっぱら本を濫し文芸評論と欧米文学の紹介に没頭した。魯迅が関心を寄せた日本の作家は漱石であり、漱石の旧宅に住んだ。漱石が日本の国語教育に大きな役割を果たし、国民国家の課題について国家から個人まで見通しのいい視点を持っていたからだ。一方で魯迅は同郷の先輩である章炳麟の「国粋哀惜」というナショナリズムに目覚め、反清革命団体「光復会」に参加したといわれる。なお1906年に帰国した際,母親の勧めで朱安と封建的な結婚をした。そして新妻を残して弟周作人をつれて東京に引き返した。

2) 文部官僚から新文学者へー北京時代

1909年8月魯迅は没落した一家を支えるため帰国し、杭州の師範学校の教員となった。教えたのは理科であった。翌年には故郷の紹興の中学校の教員となった。博物学を担当したという。1911年に辛亥革命が勃発し南京に中華民国臨時政府が生まれ、教育総長の蔡元培に招かれ役人となって南京へ移り、そして政府と共に北京に移動した。孫文が臨時政府大総統となったが北部軍閥の袁世凱との間で10年間の内戦となりこう着状態が続いた。魯迅は教育部に勤務の傍ら北京大学講師として1920年から6年間中国小説の講義を行ない、北京大学の刊行物に携わった。北京大学は文化の中心として,そして文化は革命を志向した。胡適らは口語文の全面使用を求めて「文学革命8原則」を記して、国語改革に乗り出した。1915年の創刊になる「新青年」によって魯迅、胡適、周作人ら北京大学教授陣が中心となって、民主と科学を標榜して儒教イデオロギーを批判し全面欧化論をとなえ文学革命を実行した。口語文の普及は共和国のイデオロギーを担った。1912年より魯迅は北京の紹興会館に寄宿していたが、1919年故郷の一族を招いて八道湾の四合院に転居した。「新青年」に依拠した魯迅は「狂人日記」、「孔乙己」、「故郷」、「阿Q正伝」など14扁の単扁を第1創作集「吶喊(おたけび)」にまとめた。中国社会の暗部をえぐる鋭い批評精神を漲らせた。魯迅の文体は「狂人日記」において一部文語調を残しながら、標点(句読点)において口語化をおこない、1年後の「孔乙己」では語彙文法においてもほぼ口語化を達成した。

この時期魯迅は芥川龍之介の小説を集中的に読んでおり、幾つかの作品の翻訳を北京の新聞に発表した。第1創作集「吶喊」の短篇は語り口から構造まで大きな影響を芥川龍之介とアンドレーエフから受けているといわれる。北京時代の魯迅は日本と欧米文学の翻訳紹介にも力を入れている。「新青年」内部において、陳独秀らはレーニン主義とソ連共産党の支援を主張し、胡適らはアメリカモデルの近代化を志向し、魯迅・周作人らはボルシェビキ独裁に疑問を抱いてアナーキズムへ流れ「新青年」から離れていった。私生活においては魯迅は周作人と仲たがいをして、1923年八道湾の一族宅を出た。1924年以降の時代を「彷徨」期という。1922年から魯迅宅に住んだロシアの放浪詩人エロシェンコの作品「童話集」、「桃色の雲」を翻訳刊行し、エロシェンコの寂漠としたさみしさは魯迅に伝染した。1924年から24年にかけての「祝福」、「孤独者」、「愛と死」など短篇11篇は第2創作集「彷徨」に収められた。第1創作集「吶喊」においては伝統中国に多する批判が顕著であったが、第2創作集「彷徨」においては中国人が獲得しつつあった近代性に対しても深い省察が加えられている。「酒楼にて」は閉塞感と青春へのノスタルジーが、「石鹸」では清朝末期の開明派が取り残されて貧困化する様子が石鹸を小道具として描かれている。「愛と死」では都会の男女の同棲と破綻を描いたが、自分の罪が分らない点は阿Qと同じである。「涓生の魂の悲劇は実は思想啓蒙者の悲劇である。啓蒙者にとって最も難しいのは他人の啓蒙ではなく、自分の反省なのである」 1925年北京女子師範学校において、良妻賢母を教育方針とする女性校長とjy学生との対立(中心が女学生許広平で後の魯迅の恋人)により、女学生の肩を持った魯迅が教育総長により罷免される事態があったが、最後には校長と教育総長が更迭されて決着した事件があった。1926年抗日学生運動がおこり47名の死者が出た。これを3.18事件という。軍閥政府に抗議する魯迅らは指名手配されたので、福建省の厦門大学に移り、15年の北京での役人生活は終わりになった。魯迅は厦門へ、許広平も広州へ避難した。

3) 映画と翻訳とゴシップー上海時代(T)

1924年国民党の指導者孫文はロシアの援助のもとに国共合作をはかり、連ソ・容共・農工政策を決定し、孫文の死後26年に国民革命軍が反軍閥内戦(北伐)を開始した。だが1927年北伐軍総指令の蒋介石は4.12反共クーデターを起こし国共合作は停止した。そして東北軍閥であった張学良は全軍を率いて国民党軍に合流し、父張作霖が北京に入り白色テロが横行した。魯迅は厦門大学に、許広平は広州の広東省立女子師範学校に勤務した。魯迅は4ヶ月で厦門大学を退職し広州中山大学に移った。魯迅と許広平の往復書簡集「両地書」が1933年に出版された。「両地書」は3部から成り立っており、第1部(35通)は1925年の3ヶ月半の北京時代、第2部(78通)は1926年ー1927年の5ヶ月間の厦門ー広州往復書簡、第3部(22通)は1929年の半月あまりの北京ー上海の往復書簡集である。魯迅と許広平の愛人関係は1925年には成立したと思われ、魯迅には妻朱安がいるので、今日ではいわゆる三角関係であり不倫であった。当時、北伐戦争と抗日闘争に情熱を傾ける一方、シティボーイとシティガールの自由恋愛が大流行していた。魯迅は終生地方都市には住めない、大都市中産階級のシティボーイであった。1033年頃から魯迅の「刊行物やエセーは発禁となり、1935年には「而已集」、「三閑集」、「偽自由書」など4冊の著書と7冊の翻訳書が発禁になった。そんななかで「両地書」だけは不思議と発禁にならなかった。広州でも不穏な反共クーデターの噂があり魯迅は中山大学を辞職した。1927年許と共に魯迅は広州を脱出し上海に向かった。

1931年共産党は瑞金に中華ソヴィエトを樹立していたが、蒋介石の国民党は合流した地方軍閥の造反に悩まされながらも中華民国は鉄道を初め急速に経済発展を遂げた。1928年には首都を北京から上海に移した。教育普及率も30%を超え、大学生の数も北京・上海で各1万人を越えたていた。こうして魯迅の中国内の移動もこの近代都市として爛熟した30年代の上海で最終幕を向ける。30年代上海では近代的市民生活が実現されつつあり、広範な読者層の形成と出版ジャーナリズムの膨張、そして新劇と映画の改革が、上海を一大文化センターに成熟させていた。魯迅の不倫は上海メデイァの格好の餌食となり、「両地書」の出版はそれへの反撃という意味で出されたのである。それがまた売れるのであるからマスメディアの功罪恐るべしである。上海では魯迅はスター文化人としてもてはやされ、政治的には死をも恐れずに発言していたが、経済的には豊かな中産階級的都市生活を謳歌できたのである。この時期魯迅は日本の絵本画集や木版芸術を紹介し、ハリウッド映画に夢中となる生活を送っていた。

4) 左翼文学の旗手ー上海時代(U)

30年代の上海は文藝論戦の街であった。1927年4・12反共クーデターのあと、左派文化人の間で激しい論争が交された。1930年左派大連合の機運が高まり「中国左翼作家連盟」が結成され、1931年「民族主義文学論争」,1932年「階級性を否定する文化人を批判する自由人論争」、1934年「口語体を擁護する大衆語論争」などは絶え間なく続いた。当時共産党は非合法化され、1934年国民党軍100万人に包囲され長征を開始して2年後に延安に根拠地を築いたが、上海では政治活動は困難であった。このような文藝論戦の中で魯迅は反独裁の左翼文壇の旗手となっていた。30年代の魯迅は政治的理由により4回も避難生活を余儀なくされたが、いつも内山書店経営者内山完造宅や知り合いの宿に難を逃れた。上海の日本人街で書店を経営して成功した内山完造氏の書店には日本留学経験のある中国知識人、郭沫若、田漢、郁達夫らが贔屓にし、日本からやってくる文学者らは内山書店を窓口にして中国に文化人と交流していたのである。金子光晴、武者小路実篤、横光利一、林芙美子ら日本の文藝者の上海魯迅詣りはすべて完造の紹介で行なわれていた。魯迅の上海時代の小説を集めた作品集に「故事新編」1936年がある。「鋳剣」という作品は復讐伝説に元を採る奇怪書である。1931年日本は満州国の独立を宣言した。蒋介石は日本と戦おうとはせず反共を優先した。上海の民族主義運動が高まり多くの知識人・ブルジョワは抗日に傾いていった。そして日本は1932年租界外で上海事変を起こした。1935年中国共産党は抗日民族統一戦線の結成を決定した。共産党に周楊らは左派連合を解散し、抗日救国を趣旨とする「文芸家協会」を立ち上げた。魯迅は共産党支配の「文芸家協会」に違和感を示し、1936年巴金らと「文藝工作者宣言」を発表した。抗日スローガン、国防という政治スローガンには賛成するが、「国防文学」というスローガンがあまりに狭いと感じたからである。この周楊派の「国防文学」と魯迅派の「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンの対立は、やがて郭沫若や茅盾らの調停により,1936年魯迅の主張を取り入れて「文芸界同人の団結と言論自由のための宣言」が発表され論争は終結した。

5) 日本と魯迅

魯迅は日本でも戦前から親しまれて読まれており、教科書では国民文学的な扱いを受けている。日本は魯迅をどう読みどう評価してきたのだろうか。魯迅を最初に紹介したのは1920年の青木正児の論文であった。魯迅の二人の弟、周作人と周建人の妻は羽太姉妹で、北京の日本語週刊誌「北京週報」に魯迅自身と周作人による魯迅作品の日本語訳が掲載された。大正時代、清水安三は1924年の2冊の著書において魯迅の作品を紹介した。1928年以降は魯迅の翻訳も増え始め、1935年には岩波文庫本「魯迅選集」、1937年には「大魯迅全集全7巻」(改造社)が刊行された。岩波文庫本「魯迅選集」の編訳者は佐藤春夫と増田渉であり、10万部が売れ魯迅作品の普及に貢献した。また東京帝国大学の「中国文学研究会」(1934年発足)に拠った竹内好・武田泰淳・岡崎俊夫と東京外国語学校グループの宮越健太郎・田中慶太郎の「魯迅創作選集」1932・小田獄夫「魯迅伝」1941らの紹介と翻訳があった。本書では太宰治「惜別」1945と竹内好「魯迅」1943についてその相違を詳しく述べている。著者藤井省三氏は竹内好氏の戦前戦後の魯迅観の乖離に強く反発しているが日本人の魯迅像を見る上で大変興味深い一節である。太宰は竹内「魯迅」や小田「魯迅伝」を熟読して「惜別」を書いたと言っているが、竹内は太宰の死後1956年の「花鳥風月」で太宰の「惜別」を酷評して「おそろしく魯迅の文章を無視して、作者の主観だけででっち上げた魯迅像」という。太宰は魯迅の青春を感性豊にイキイキと描いたのだが、竹内は政治と文学の対立の構図だけで魯迅論を展開し、それこそ「竹内こそ恐ろしく不毛の観念論」と藤井氏は結論している。藤井氏は竹内の魯迅論の権威とカリスマ性を打破しない限り正当な魯迅文学論は出来ないと考えているようである。もちろん太宰の「惜別」は戦争末期、検閲で全文削除を命じられる状態での戦争協力文であったことは否めないが、竹内の魯迅コンプレックスにも問題がある。竹内は1953年の岩波新書「魯迅評論集」、ちくま書房「魯迅作品集」によって、戦後の魯迅解釈を独占し「竹内魯迅」とさえ称せられた。「狂人日記」について戦時中は「作品の価値は口語による創作とか反封建とかいうテーマにあるのではなく、この稚拙な作品によってある根底的な態度が据えられたことだ」と語っていたが、1966年の解説では「中国の古い社会制度、特に家族制度と儒教倫理の虚偽を曝露するという、魯迅根本のまた最大のモティフによって書かれた作品である」と大変身を遂げたという。こうした竹内の魯迅論が変質するのは、1949年の中華人民共和国の成立以降のことである。社会主義中国への竹内の無条件降伏にあったといえる。

戦後初期の魯迅及び中国近現代文学紹介に力がったのは、竹内好、松枝茂夫、小野忍、増田渉らの旧「中国文学研究会」のメンバーであった。「竹内魯迅」とは、魯迅ないし同時代中国を手がかりとして日本近代化と日本の民主化を批判していこうという批評精神から来ていた。竹内・増田・松枝の共編訳である岩波文庫「魯迅選集」全13巻(1956)は戦後日本の読書界における魯迅の普及に大きな役割を演じた。その後東京大学文学部中国文学科の魯迅研究会から、尾上兼英、高田敦、丸山昇、期^伊藤寅丸らの魯迅研究者を輩出した。なかでも丸山昇「魯迅ーその文学と革命」1965は「丸山魯迅」を生んだ。学習研究社版「魯迅全集」全20巻(1984)は中国の国家的事業として刊行された北京人民文学出版社全集を完訳したものである。編集委員には丸山昇、伊藤寅丸、今村与志雄らの代表的研究者が携わった。近年、丸尾常喜「魯迅ー人・鬼の葛藤」1993は「丸尾魯迅」を生み、北岡正子「魯迅ー日本という異文化のなかで」2001、中島長文「ふくろうの声ー魯迅の近代化」2001年など研究は絶えない。日本語の魯迅翻訳文学という観点からみると、竹内の「阿Q正伝・狂人日記」1955、「魯迅選集」全6巻1976は魯迅の同化・土着化の典型であろう。魯迅の屈折した長文による迷路のような文体は多数の短文に分節化され、思い悩む文章は思い切り明快に翻訳されている。伝統と近代の間で苦しんでいた魯迅の屈折した文体を、文節化と意訳によって、竹内は戦後の民主化を経て高度経済成長を歩む日本人に受けるように土着化・日本化させていると筆者は指摘する。それによって「竹内魯迅」は伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて迷走する魯迅文学の原点を変質させたのではないだろうか。

6) 東アジア・現代中国と魯迅

香港、台湾、シンガポール、朝鮮・韓国での魯迅の読まれ方はそれぞれの独立と民主化の過程で、魯迅は東アジア共通の古典として読まれていた。魯迅は1936年10月上海で持病の喘息により急死した。その後中国では1937年延安において毛沢東の指導性が確立する課程で、魯迅は「中国第1等の聖人」へと祭り上げられた。この魯迅像は毛沢東の死去により文化大革命(1966-1976年)が終息するまで続いたが、1980年代の改革開放のケ小平時代が本格化すると魯迅像も大きく変わった。毛沢東時代であれば哀れな阿Qは社会主義革命によって開放されたとしか語られないが、今では魯迅を現代社会に対する批判の手がかりとして読まれているようである。中国の大学卒業生は2009年で532万人で、23%の大学進学率であった。受験勉強で魯迅を読まされるためか、卒業する頃には魯迅嫌いになっているそうだ。20世紀の東アジアの人々にとって欧米の帝国主義による植民地化に抵抗するため、その欧米から産業社会と国民国家を学んで、それぞれの国で近代化を成し遂げてきた。魯迅も欧州ロマン派の詩人から個性尊重と抵抗の精神を学んで、欧米の近代文明を抵抗しつつ受容する主体性の重要性を説いた。今日のグロバリゼーションに対抗して行動するためにも魯迅文学は読まれてゆくかもしれない。著者藤井省三氏はここで作家村上春樹氏を、東アジアでの日本の位置を考え、東アジアの現代文化・ポストモダン文化の原点となった作家であると持ち出してくる。私は村上春樹氏の小説を1冊も読んだことはないので、詳しいことは分らないが、最新作「1Q84」は魯迅の阿Q像がテーマとなっているようだ。「魯迅は阿Q正伝で、自らの屈辱と敗北をさらなる弱者に転嫁して自己満足する阿Q的精神勝利法を揶揄して、中国人の国民性を批判するとともに、草の根の民衆が変わらない限り革命はありえない炉する国家観を語った。そして主体的に参加しない人々あるいは参加しようにも参加できない人々を、魯迅は厳しくしかし共感を持って阿Qとして描き出し、新しい時代の国民性を模索した」これが藤井氏の魯迅像の結論である。


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